立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2020.07.28

<懐かしの立命館>戦後立命館の原風景 末川博学長誕生までの35日間 後編

 

戦後最初の理事会は何を決めたか

1945(昭和20)年914日(金)、午後2時から中川会館総長公室で、戦後最初の理事会が開催されました。この理事会では、民主主義教育の改革に着手することを確認しました。


「敗戦後、日本の国内情勢は行き着くところ民主主義の線に沿いて大転換した。本学園においても旧来の教育方針を打破し、時局に即応して民主主義教育を基本とする学園の改革に着手することを確認し、寄付行為の改正、立命館大学学則並びに立命館専門学校学則を鋭意改正する。」(12)

この確認にもとづいて立命館東亜研究所、立命館国体学研究所、立命館国防学研究所、日本刀鍛錬所の規定が廃止され、研究所及び日本刀鍛錬所はなくなりました。

 

この頃、石原廣一郎理事長は(1945年)919日(水)から930日(日)頃迄、ほとんど立命館に出勤して、学生の動向、教授の姿、学園財政内容など学園の状況をみながら「戦後の立命館の経営方向を見定めて」いました(13)。同時に、その改革を推進する学長を誰にするかも思案していました。10年後、石原はその時の胸中を次の様に語っています。

  

先ず第一にやらねばならなかった事は、立命館を進駐軍(GHQ)の手からいかにして守り、その存続を図るかということであり、第二は従来簡単に教学部門と経営部門が融合していたのを明確に分離するということであった。その第一の仕事として進駐軍との関係、そして立命館の存続ということを適切に処理するためには適当な学長を大阪市大におられた末川先生を10月頃から私の胸の中で選定していた。」(立命館校友会誌『立命』)


  末川博学長誕生までの35日間(昭和20103日~116日) 

石原廣一郎理事長が胸中に秘めていた末川博学長が、誕生するまでの35日間を追ってみました。


戦後立命館の原風景-3

就任の頃の末川博学長(末川博名誉総長)


1945(昭和20)年103日(水)、岡崎天王町。この日、岩根精一宅で石原廣一郎、末川博、岩根精一が会食します。石原廣一郎が初めて末川博が立命館学長にふさわしいかどうかを意識したのは、この岩根家での会食の時からではないかと考えられています。 

石原は岩根が娘婿にあたることから、時折、気安く訪ねていました。また、岩根家から近くの同じ岡崎福ノ川に末川が住んでいることも知っていました。石原は岩根家に行き、その足で末川を訪ねることも時折あったといいます。岩根は、この会食の時に末川を学長にふさわしい人物として推薦しました(14)。岩根の息子の岩根友一郎氏はこう話してくれました。


「父は、1930年京都帝国大時代に末川先生の指導を受けた師弟関係にあり、末川博をよく知り、尊敬していました。家(岩根家、左京区天王町)も近かったこともあって家族ぐるみで交流していました。私の母は石原の娘で、父にとって石原は義父にあたります。石原は、私の母が自分の娘ということもあって、よく私の家を訪ねてきました。


よくお土産など持ってくるのですが、覚えていることがあります。当時、ご馳走だった焼き肉用の肉をもってきたので、てっきり我が家に持ってきたものと思ったら『末川先生のところに持っていくお土産だ』と言われ、残念だったことがあります。でも、わたしはついて行って、ちゃっかりごちそうになったりしたがね。それくらい石原は末川先生と親しく交流していました。」


父の方も親しい叔父である本庄栄治郎から、大阪商科大学の次期学長候補は、末川博か恒藤恭のどちらかを考えている、との話を内々聞いていたので、岩根家で三者懇談した時に、末川先生を学長に推薦したのだろうと思います。(「岩根友一郎氏のインタビュー」 2019年7月24日(水)14:00~15:00岩根友一郎氏の自宅にて)


 10月7日(日)   中川小十郎一周忌 等持院。この日、創立者中川小十郎一周忌法要が、天龍寺塔頭等持院で営まれました。出席した石原は、理事長として腹案として固めつつあった学園改革基本方針を中川小十郎の墓前に報告しました(15)

10月16日(火) この日、石原は末川の自宅を訪ね2度目の会談をします。この時の二人でどんな話がされたのか資料は残されていませんが、末川は学長の依頼を辞退しています。

1021日(日) この日の午後。石原は再び末川の自宅を訪ね、立命館学長依頼の話を切り出しました。当時の末川の日記にも「石原が(立命館大学)学長の話をした16)。」と記されています。この会談でも末川は学長の依頼については辞退します。

1023日(火) この4回目の会談は岩根宅で行われました。すでに3回の会談で石原の意向は伝わっていましたが、末川は再び辞退をします。しかし、石原の熱意が末川を煩(わずらわ)し悩ませます17)。

1026日(金) 5回目の会談が岩根宅で行われました。この日、対談でも末川は再び辞退しますが、石原はそれでも強く懇望します。


この間、石原は末川学長の実現に向けて動いていましたが、一方で、石原は学園改革基本方針を固めるため、1018日(木)より28日(日)頃まで、教授、学生達と会談し、意見交換をした上で学園改革基本方針案を固めていきました18。この両方の動きが、いわば戦後立命館の改革の試みでした(19)

1029日(月) この日、石原は理事長室で執務をおこなっていました。そこに松井元興学長がやってきて辞表を石原に提出します。石原は、松井学長の労に感謝を述べた後、こう述べました。

「先生(松井学長)の言われたように、若手の立派な後任者を選ばねばならぬ。(中略)いろいろな角度から学長としての人物を物色してみたが、この場合、法学博士 末川博氏が最適任者と見るべきだ。」20

その日の夕刻、石原は不退転の決意で、岩根宅を再度訪問し、末川に学長就任を懇願しました。ようやく末川も「在籍中の大阪商科大学が(私の)辞任を承諾すること」を条件に内諾しました。末川から返事を聞いた石原は安堵して、持ってきた大きな風呂敷に入った書類を末川に渡しました。渡された末川は、緊張しながら11枚を確認し説明を受けました。この時の様子を岩根友一郎氏は鮮明に覚えておられ、語ってくれました。

「この日のことはよく覚えている。末川先生が内諾の返事をしたことも、石原が大きな風呂敷に入った書類(理事会関係書類ではないかと思う)を末川先生に手渡したことも覚えています。わたしは、そばにあったピアノの椅子に座り、体をゆすりながら見ていました。末川先生は書類の11枚を丁寧に確認していました。今から考えると、その書類は理事会の文書であり、石原廣一郎と末川博の引継ぎではなかったかと思います。わたしは子供ながら何か非常に大事な儀式に立ち会っているように思いましたし、後になって、こうして立命館は引き継がれたのだと思いました。」 (前掲 岩根友一郎氏へのインタビュー)

1030日(火)末川に内諾を得た翌日、石原は、大阪商科大学学長 本庄栄治郎を訪問し、末川博に立命館の学長を内諾してもらったことを報告し、承諾をお願いしました。それを聞いた本庄学長は「明日(31日)の教授会での同意」を条件に諒承しました。

1031日(水)開催された大阪商科大学教授会では、末川の辞任が承諾されました。教授会終了後、末川に本庄学長から「教授会の同意を得た」との連絡が入りました。同時に、石原にも本庄学長から同旨の電話が入りました。まさに絶妙のタイミングで、大阪商科大学教授会の同意を得ることができました。

11月1日 (木)  緊急理事会が開催され、石原理事長から学園基本改革案が理事会に提案され決議されましたが、この緊急理事会では石原は「末川学長の事は未だ何人にも話さず、私一人の心中に納めておいた」と、末川博の学長推薦は行いませんでした。しかし、すでに腹を決めていた末川は、この日、義兄である河上肇(21)に立命館大学学長の件を報告しました(22)。河上肇は、かって末川博が滝川事件で京都帝国大学を去る時に、獄中から「大学(京都帝国大学)はコタツですから、思い切ってコタツから出て、寒中雪の中をとび廻るのも、結局愉快であるかも知れません(23)」と、末川の行動を励ましたが、その「寒中雪の中」に今また飛び込もうとする末川を励ましました。

既に腹を決めていた末川の自宅へ取材に来た新聞記者に対し、末川は私学に対する期待をこう語りました。

   

「官立大学に研究の自由、大学の自治は期待出来ない。欧米の大学、権威ある大学は殆どが私学である。私学においてこそ学問的良心に反しない研究が求め得られるものだと信じている。」(24)


112日(金) 11月に入って、京都帝国大学も末川博を総長にと動き始めました。石原の知人である京都帝大教授 石原藤次郎博士が、石原宅を訪ね「末川先生を京都帝大総長にしたい」と相談を持ち掛けてきました。応対した石原は、石原博士に「末川先生は、すでに立命館大学の学長に内定している」と伝えました。この時の様子を後日、石原はこう語っています。

「話が末川先生立命館招聘のことにふれると、相手はびっくりして『そんなことなら京大は大変だ。3日前の教授会で京大に来てもらうよう話が決定、明日あたり文部省の内定を得るため東上しようと思っているところだ』という話に、こちらも驚き、はしなくも京大と取り合いになった。このことは京大に帰っても、いわないで欲しいと口止めした。」(前掲立命館校友会誌『立命』)

113日(土) 翌日、京大事件で一緒に辞職した佐伯千仭先生、大隅健一郎先生が石原に「末川学長内定の再考について」依頼しましたが、石原は「末川先生は立命館大学学長に内定している」と言って頑として応じませんでした。


11月6日(火)   午後1時。この日の理事会に、石原は正式に末川博を学長に推挙しました。理事会は、満場異議なしとして承認されました。この日、正式に立命館大学学長 末川博が誕生しました。この理事会は、戦後の立命館学園の改革基本方針を決議し、末川博学長を決定するという戦後学園改革の大きな1歩でした。

 この日が、戦後の学園改革の基本方針と新学長誕生の瞬間でした。後に、石原はその時の様子を回顧してこう語っています。

「午後1時から理事会を開いた。そして、末川先生の紹介も終わった3時頃になって『実は今朝、私は戦犯として逮捕状が出されています』と席上、発表したところ、みんな驚いていたのを想出す。(中略)末川新学長就任に至る経過であるが、想えば私の独断の下に、京大鳥飼学長や、本庄栄治郎教授等との末川現総長の奪い合い、そこに私の戦犯逮捕と二重、三重の波紋の中に劇的な時間の流れに乗って、立命館大学の危機を乗り切ることができたのである」(前掲 立命館校友会誌『立命』)

一方、末川は同じ日の午後、立命館理事会、評議会に正式に推挙されることを知っていたため、大阪商科大学 本庄学長に辞表を提出し、滝川事件以来の盟友ともいえる恒藤恭25といっしょに帰りました。26 その後、末川は戦後最初の立命館大学学長として、恒藤は大阪商科大学(現在 大阪市立大学)学長として活躍しました。

                                          

末川博学長は就任直後、学生たちに何を伝えたか

末川は、理事会、評議会での決定を確認して117日(水)に大阪商科大学を正式に辞職しました。

11月14日(水) この日、理事会が開催され、文部省の認可もおり、新学長に末川が決定しました。これを受けて、末川は決意をのべました。残念ながら、決意表明の資料は見つかっておらず、第一声を確認することはできません。

しかし、新学長になってから、最初に学生たちに送ったと思われるメッセージは残っています27

  「この学園においては、理知をみがき道義を高めることが第一義である。そこで民主主義の本質的な要請である正しい自由と、それに伴う責任と規律とが、純真な学徒により実践的に訓練されなければならない。そのために私は、今後学生大会28は必要であると考える。わが立命館においては民主主義の理解のもとに、自主的な学生大会を開いて、政治的な訓練を受けるのは望ましいことである。こういう機会に、自由活発に、明朗に、論議し合って批判力を養い想像力を強める工夫をなすべきである」29

 

こだわった戦後立命館の原風景

戦後立命館の原風景には、人それぞれのとらえ方があるだろうが、末川学長(後に総長)の誕生は間違いなくその一つです。そこで、誕生の過程とその瞬間をとらえてみたくて、この調査をはじめました。調査を進めていくと、戦後立命館の志の原点が末川博学長誕生ストーリーにあるのではないかと思えてきました。この調査が少しでも立命館の不易流行を考える材料になれば幸いです。


 追記、この文章を書いている途中で、岩根友一郎氏がお亡くなりになりました。氏は、末川先生が、立命館大学の学長を決意したその瞬間に立ち会った最後のおひとりでした。お亡くなりになる数か月前、ご本人にインタビューすることができました。その中では『立命館百年史』でも記述されていない事実もお聞きすることができ、この文章を豊富化することができました。ご冥福をお祈りいたします。

 

                           (敬称略)  (了)

                2020年7月28日 立命館 史資料センター 調査研究員 斎藤 重



  注


(12) 1945年9月14日 財団法人立命館理事会は、敗戦後、民主主義教育を基本とする改革に

    着手することを決議し、立命館大学学則、立命館専門学校学則改正を鋭意改正することを

            決議しました。 

(13) 『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』石原廣一郎著 赤澤史朗、粟屋憲太郎、立命館百年史編纂室編

            p229

(14) 『追想末川博』三国一の花嫁 藤谷景三 p158~p162

(15) 『立命館百年史通史一』 p76

(16) 『末川博日記』大阪市立大学所蔵 

(17)   前掲『立命館百年史通史一』p795

(18)   前掲『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』p230

(19) 前掲『立命館百年史通史二』 p81 

(20)   前掲『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』 p233

(21)   河上肇(かわかみ はじめ) 1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。

(22)   前掲『末川博日記』大阪市立大学所蔵

(23) 書簡「河上肇から末川博への書簡」 1933(昭和8)年8月23日付 

            義兄である河上肇から末川博に送った手紙。大阪市立大学所蔵 

(24)   京都新聞 1945.11.7

(25)   恒藤恭(つねとう きょう) 1888年12月3日生、日本の法哲学者。

            大阪市立大学名誉教授。法学博士。戦前から日本の代表的法哲学者として知られています。

            また、京都帝国大学の滝川事件で辞任した教官の一人としても知られています。

(26) 前掲 『末川博日記』大阪市立大学所蔵

(27)   翌年の1946(昭和21)年2月28日の学生へのメッセージ。末川博学長の就任(1945.11.14)

             直後のメッセージは発見されず、このメッセージが現在では就任直近のものと思われます。

(28) 学生大会を学生自治の集約の場として重視する末川博の姿勢を示しています。

(29)  『末川博・学問と人生』兼清正徳著著 p136



 参考文献等


1 『立命館百年史一・二』 立命館百年史編纂委員会編 学校法人立命館発行

2   校友会誌『りつめい』第14号

3 『豊川海軍工廠』豊川市桜ケ丘ミュージアム 平成23年7月6日発行(パンフレット)

4 『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』石原廣一郎著 赤澤史朗、粟屋憲太郎、立命館百年史編纂室編

5 『岡本恵夫日記』

6 『追想末川博』

7 『末川博・学問と人生』兼清正徳著著

8   記録 岩根友(とも)一郎氏へのインタビュー

       岩根友(とも)一郎氏は、岩根精一氏の御子息であり、岩根家での石原廣一郎と末川博の会談には

   度々同席しており、その当時の様子を克明に記憶しておられた。

      インタビューは、2019(令和元年)年7月24日(水)14:00~15:00、

   場所は山科の岩根氏の自宅にて行われた。

9   新聞 京都新聞 1945.11.7

10 資料『末川博日記』大阪市立大学所蔵

2020.07.14

<懐かしの立命館>キャンパスの最寄り駅・バス停今昔

大学への通学には電車・バスを利用したり、バイク・自転車、徒歩で通学するなど様々である。

今春、立命館大学衣笠キャンパスの最寄りの嵐電に立命館大学の名称が入った駅が誕生した。

学生の通学に使われた衣笠キャンパスの最寄りの駅やバス停、朱雀キャンパスのバス停の今昔について紹介する。

 

1. 嵐電「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」駅 

キャンパスの最寄り駅01

【等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅】

2020(令和2)320日、嵐電の等持院駅が「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」駅となった。

先立つ314日の京都新聞は、20日に等持院駅を文字数・音読数国内最長の駅名とする記事を掲載した。文字数では3駅が17字で最長タイであるが、音読数では単独で最長とのことである。

京福電気鉄道株式会社と、学校法人立命館との連携・協力協定締結に伴う新たな駅名となった。

キャンパスの最寄り駅02

【駅名改称による記念切符】

この駅はキャンパスまで徒歩6分、約450m。北野線の白梅町駅から西に一つ目の駅であるから、現在の通学には西方の帷子ノ辻方面からの利用の方が多いであろう。

衣笠キャンパスは1939(昭和14)年に開設した。もっとも衣笠キャンパスという名称は、1965(昭和40)年前後からで、それ以前は等持院学舎といった。

当時から最寄り駅は等持院駅であったが、東側には北野白梅町駅がまだなく、一つ東側は小松原駅で、さらに北野天満宮前の北野駅まで走っていた。市街地から登校する学生は北野駅で嵐電に乗り換え、等持院駅から学校に向かった。

1942(昭和17)4月に専門学部工学科に入学したN君は、市内から市電を乗り継いで、嵐電北野駅から学校に通学している(「戦時下、専門学部工学科N君の学生生活」立命館史資料センターHP https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=177)。  

下の地図は『立命館日満高等工科学校概況(昭和16年度)』に掲載されたものである。

白梅町駅は1943(昭和18)10月に開業、それとともに小松原駅が休止、昭和206月に廃止となった。1958(昭和33)7月には北野駅から白梅町駅間が廃止、白梅町駅は北野白梅町駅となった。

西大路通には市電の電停「平野神社前」が見える。西大路線は1935(昭和10)12月に千本北大路―わら天神間が、1936(昭和11)11月にわら天神―北野白梅町間が開通、更に1943(昭和18)10月に北野白梅町から西ノ京円町まで延伸したことにより西大路九条まで開通した。北大路方面や西大路の南方面からの等持院学舎への通学は、平野神社前を利用したのである。市電は1978(昭和53)年に全廃されたが、この時は既に平野神社前の電停は無かった。

なお、そもそも市電は日本最古の路面電車で、1895(明治28)年に民営の京都電気鉄道により開業、その後1918(大正7)年に全面市営化した。路線は順次拡張していったものである。

キャンパスの最寄り駅03

【昭和16年の等持院学舎案内図】


キャンパスの最寄り駅04

【昔の等持院駅 日満高等工科学校 昭和16年のアルバムより】

 

2. 市バス・JRバス「 立命館大学前 」「 立命館大学前 (キャンパス内) 」

衣笠キャンパス正門北側に、「立命館大学前」のバス停がある。市バス、JRバスのバス停となっている。

このバス停の名称が「立命館大学前」となったのは1986(昭和61)331日。それ以前は「衣笠」であった。広い地域名を表す衣笠より、「立命館大学前」に、と地元の住民や市会議員の賛同を得て改称された。

このバス停(市バス)は大学の構内にある衣笠操車場から発着する。それ以外のバスもあるが。衣笠操車場ができたのは1962(昭和37)年。まだ経済学部や経営学部が広小路から移転してくる以前で、理工学部のみの時代である。バスの操車場が学校のなかにありそこから出入りするのは全国的にも珍しいのではないだろうか。

そもそも衣笠操車場は、1962(昭和37)年に京都市交通局から、立命館大学の移転した馬場の跡地を借用したいとの申し入れがあり、貸与したものである。

この結果、市バスの系統改正があり、12番系統や15番系統が衣笠操車場を起終点とすることになった。また、翌1963(昭和38)年には衣笠以西宇多野方面に通称観光道路(現在の愛称きぬかけの路)が開通した。

 バス停の名称を変えただけではない。1974(昭和49)年以降、本学の公費助成連絡協議会は市バスの増便の運動にも取り組み、京都市に要請し、学生の交通の便を図ってきた。1978(昭和53)年に市電が廃止されると、市バスの増便に一層力を注いだ。またバス停名称が変わった1986(昭和61)年の10月からは西大路通に快速バスが走ることになった。

 そして現在、正門前にあるバス停に加え、構内にもバス停を設置している。

 市バスは、快速ラピッド205が京都駅と結んでおり、JRバスも同じバス停から快速立命ライナーが京都駅と結んでいる。

キャンパスの最寄り駅05

【写真:立命館大学前、立命館大学前(キャンパス内)

 

3. 市バス・JRバス「千本三条・朱雀立命館前」

朱雀キャンパスの開設は2006(平成18)9月であった。最寄り駅にJR二条駅があるが、本稿ではバス停について紹介する。最寄りのバス停は市バス、JRバスとも「千本三条」であったが、開設を迎えるにあたり、バス停の名称変更を京都市交通局及び西日本ジェイアールバスに要請した。

京都市は、要請にあたって地域の理解を得るようにとの条件であったので、地域を回りこれまでの地域名も生かしたバス停に名称変更することを理解していただいた。

当初は「千本三条・立命館朱雀キャンパス前」とする案であったが、文字数に制限があり「千本三条・朱雀立命館前」とすることになった。もう一点、表記だけでなくバスでアナウンスする際の朱雀の読み方、アクセントをどうするかということになった。3音を平坦に読む スザク とするか、第1音節にアクセントを置く ザク とするかであったが、京都市民になじまれている平坦に読むスザクとした。

名称の変更時期について、京都市は年度の途中の9月とすることはできないので、3月のダイヤ改正に合わせてほしいとのことから、開設前の2006(平成18)318日から実施した。JRバスも合わせていただいた。JRバスはそれまで一条通り経由のバスが多かったが、衣笠経由のバスを増便することとなった。

キャンパスの最寄り駅06

【写真:千本三条・朱雀立命館前】

              2020年7月14日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2020.04.01

<懐かしの立命館> 学思そして学思寮

20199月、京都府立京都学・歴彩館において、「戦後京都を設計した男 建築家・富家宏泰生誕100年記念回顧展」が開催されました。

 富家氏は京都の様々な建築の設計を手がけましたが、立命館においても1955年から1988年の間、64棟に及ぶほとんどの校舎・施設の設計を行っています。

 回顧展では、立命館に関わるいくつかの建物(校舎)の写真が展示されるとともに、学思寮を開設したあと末川博総長が「學思」の扁額を富家氏に贈ったことも紹介されました。

小稿では、「學思」の扁額と、学思寮について紹介します。

 

≪扁額「學思」≫

 「学思」という言葉は、『論語』の「為政第二」に由来します。

 「子曰、学而不思則罔。思而不学則殆。」[子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し。]

 教育の場である大学にふさわしい言葉ですが、本学の総長であった末川博先生が揮毫した「學思」の扁額が残されています。

 

(column) 学思そして-001

【「學思」】

 この扁額は、1964(昭和39)年に本学の学生寮である「学思寮」が開設されたことを機に、末川先生から、寮を設計した富家建築事務所の富家宏泰氏に贈られたものです。現在、ご子息の富家大器氏が所蔵しておられます。

 「學思」と「学思寮」に対する末川総長と富家宏泰氏の思いを垣間見たいと思います。

 

≪学思寮の開設≫

 19643月、千本北大路を上がった鷹峯の地に学思寮が開設されました。

 「学思」の名は末川総長が命名しました。

学思寮はこれまでの寮(旧寮)と異なり、集団の中において人間形成を行う教学施設として開設されました。従ってその形態もこれまでの621室から、1室約18(59.4)で寝室・学習室・談話室の3つの機能をもち、各回生2名計8名で構成するという小集団ブロック制をとり、創造的な学生集団を形成していく目的をもった施設でした。

 場所は京都市北区鷹峯南鷹峯町に、地上4階建て、延床面積3,504.26㎡、定員200名の学生寮が完成しました。屋上からは京の街を一望できたといいます。

 当時鷹峯は御土居と山林、畑と谷という地から、住宅が次々と出来てベッドタウンへと変貌していく時期であったようです。そのなかにひときわ立派な4階建ての学思寮がそそり立った(『京都新聞』昭和39819)といいます。

 富家宏泰氏は設計にあたって、住宅金融公庫の融資を受けることとなったため種々の規制を受け、学生寮のあり方の研究から始まり、計画にあたってこれまでの建築規制がいかにこの新しい学生寮のありように不合理であったか、と述べています。その点で今度の平面計画は従来の不合理を取り除いた実験であったと語っています。この規制は平面計画のみならず寮規則にも反映されることになったのです。

 当時、立命館大学の寮は男子寮として吉田寮・百万辺寮・春菜寮・衣笠寮・出町南寮・出町北寮、女子寮として下鴨寮がありました。

1963年度の学生寮の定員は男子寮6寮で240名、女子寮24名でしたが、翌1964年度は学思寮の開設により吉田寮は廃止、春菜寮を下鴨寮とともに女子寮とし、男子寮5寮で373名、女子寮2寮で52名となりました。

それでも1964年度の『学生生活』の寮の紹介によると、10名の入寮希望者に対し1名くらいの割合でしか入寮できない、とされています。

ちなみに、1964年度の寮生活の経費は、舎費(寮費)が学思寮で1,500円、旧寮で260円、そのほか食費(寮では食事がありました)、光熱水費、自治費がかかりました。

(column) 学思そして-002

                【学思寮新築竣工記念パンフレット】 

 

 (column) 学思そして-003

 【学思寮建物の概要】

※図面をクリックすると別ウインドウが開き、大きな画面で見て頂けます。


 

≪寮生活≫

 寮は寮生による自治寮でした。

 寮委員会のもとに文化部・書記局・食堂部・管理厚生部・互助会があり、またAからEまでの5ブロックに分かれそれぞれの委員会がありました。

 こうした組織のもとで、寮生は様々な企画をし、寮生活を謳歌しました。全学的な行事である体育祭や学園祭への参加のみならず、寮独自の講演会や駅伝マラソン大会、寮祭などにも取り組んでいます。「納涼祭」や「立鷹祭」などが開催されました。

 ある年のスポーツ大会では、バレー、卓球、すもうなどが行われ、文化祭典では恋ピューター、エレファントカップル4vs4、合唱、フィーリングカップル5vs5、クイズ100人に聞きました、などの企画があり、さらにブロック対抗歌合戦(課題曲 お嫁サンバ)、ボディビル大会、女装大会などと、盛りだくさんの企画が開かれました。

 学思寮で発行した『軌跡』創刊号(1966)には、鷹峯・新大宮・紫竹付近の新聞販売所・薬局・クリーニング店・酒屋・喫茶店などの広告が掲載されています。

 クリーニング店は学思寮指定であり寮への出張日がありましたし、酒屋は「学思寮の酒屋〇〇商店」とさしづめ御用達、喫茶店はモーニングサービス100円でした。

 こうした広告からも学思寮寮生の生活の一端が窺われます。

 広小路学舎や衣笠学舎への通学には、市バスの釈迦谷口から北1系統、1系統、6系統などがあり、バイクや自転車通学もあったと思われます。

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【学思寮付近の地図―学思寮『納涼祭』1981年より】

 

≪寮の変遷と閉寮≫

 1964年に開設した学思寮も他の寮とともに、196912月から19709月まで、学園紛争中の「寮問題」により一時閉鎖を余儀なくされました。

 そして再開されましたが、下宿が減りアパートやマンションが増加するに伴い相部屋の学生寮が時代にそぐわなくなり、入寮希望者も減少していきます。

 こうした状況を受けて、大学は総合的で体系的な厚生援助の整備充実をはかっていくこととし、学思寮は1988320日に閉寮式典を実施、3月末をもって閉鎖に至りました。

 残る寮生は双ヶ岡寮へ移りましたが、19913月末をもって立命館大学は全寮を廃止しました。

 学思寮の跡地は住宅地に変貌し、今や寮を知ることのできるものはありませんが、衣笠キャンパスでは学思寮から移植した以学館前の八重桜が、今でも春の訪れとともに花を咲かせます。新しい学生を迎えるように。

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【以学館前の桜】

 

 

≪寮歌≫

  前口上  大路下鴨集い歩きし雅人(みやびと)の春菜摘みつ

美しき賀茂の流れに育てはぐくみし出町・南北寮

       学びて思わざれば則ち暗く 思いて学ばざれば則ち危し

衣笠・吉田の山なみも露に濡れて花と咲く

                立命館大学 寮歌

  寮 歌  夕月淡く梨花白く 春宵花の香をこめて 

       都塵治まる一時や 眉若き子ら相集い

       希望の光を一にして 厚き四年を契りたり

                 厚き四年を契りたり

 

       『1984年 学思寮新歓ぱんふれっと』より(原文のまま)

 

 

              2020年4月1日 立命館 史資料センター 久保田謙次


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