立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2020.04.01

<懐かしの立命館> 学思そして学思寮

20199月、京都府立京都学・歴彩館において、「戦後京都を設計した男 建築家・富家宏泰生誕100年記念回顧展」が開催されました。

 富家氏は京都の様々な建築の設計を手がけましたが、立命館においても1955年から1988年の間、64棟に及ぶほとんどの校舎・施設の設計を行っています。

 回顧展では、立命館に関わるいくつかの建物(校舎)の写真が展示されるとともに、学思寮を開設したあと末川博総長が「學思」の扁額を富家氏に贈ったことも紹介されました。

小稿では、「學思」の扁額と、学思寮について紹介します。

 

≪扁額「學思」≫

 「学思」という言葉は、『論語』の「為政第二」に由来します。

 「子曰、学而不思則罔。思而不学則殆。」[子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し。]

 教育の場である大学にふさわしい言葉ですが、本学の総長であった末川博先生が揮毫した「學思」の扁額が残されています。

 

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【「學思」】

 この扁額は、1964(昭和39)年に本学の学生寮である「学思寮」が開設されたことを機に、末川先生から、寮を設計した富家建築事務所の富家宏泰氏に贈られたものです。現在、ご子息の富家大器氏が所蔵しておられます。

 「學思」と「学思寮」に対する末川総長と富家宏泰氏の思いを垣間見たいと思います。

 

≪学思寮の開設≫

 19643月、千本北大路を上がった鷹峯の地に学思寮が開設されました。

 「学思」の名は末川総長が命名しました。

学思寮はこれまでの寮(旧寮)と異なり、集団の中において人間形成を行う教学施設として開設されました。従ってその形態もこれまでの621室から、1室約18(59.4)で寝室・学習室・談話室の3つの機能をもち、各回生2名計8名で構成するという小集団ブロック制をとり、創造的な学生集団を形成していく目的をもった施設でした。

 場所は京都市北区鷹峯南鷹峯町に、地上4階建て、延床面積3,504.26㎡、定員200名の学生寮が完成しました。屋上からは京の街を一望できたといいます。

 当時鷹峯は御土居と山林、畑と谷という地から、住宅が次々と出来てベッドタウンへと変貌していく時期であったようです。そのなかにひときわ立派な4階建ての学思寮がそそり立った(『京都新聞』昭和39819)といいます。

 富家宏泰氏は設計にあたって、住宅金融公庫の融資を受けることとなったため種々の規制を受け、学生寮のあり方の研究から始まり、計画にあたってこれまでの建築規制がいかにこの新しい学生寮のありように不合理であったか、と述べています。その点で今度の平面計画は従来の不合理を取り除いた実験であったと語っています。この規制は平面計画のみならず寮規則にも反映されることになったのです。

 当時、立命館大学の寮は男子寮として吉田寮・百万辺寮・春菜寮・衣笠寮・出町南寮・出町北寮、女子寮として下鴨寮がありました。

1963年度の学生寮の定員は男子寮6寮で240名、女子寮24名でしたが、翌1964年度は学思寮の開設により吉田寮は廃止、春菜寮を下鴨寮とともに女子寮とし、男子寮5寮で373名、女子寮2寮で52名となりました。

それでも1964年度の『学生生活』の寮の紹介によると、10名の入寮希望者に対し1名くらいの割合でしか入寮できない、とされています。

ちなみに、1964年度の寮生活の経費は、舎費(寮費)が学思寮で1,500円、旧寮で260円、そのほか食費(寮では食事がありました)、光熱水費、自治費がかかりました。

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                【学思寮新築竣工記念パンフレット】 

 

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 【学思寮建物の概要】

※図面をクリックすると別ウインドウが開き、大きな画面で見て頂けます。


 

≪寮生活≫

 寮は寮生による自治寮でした。

 寮委員会のもとに文化部・書記局・食堂部・管理厚生部・互助会があり、またAからEまでの5ブロックに分かれそれぞれの委員会がありました。

 こうした組織のもとで、寮生は様々な企画をし、寮生活を謳歌しました。全学的な行事である体育祭や学園祭への参加のみならず、寮独自の講演会や駅伝マラソン大会、寮祭などにも取り組んでいます。「納涼祭」や「立鷹祭」などが開催されました。

 ある年のスポーツ大会では、バレー、卓球、すもうなどが行われ、文化祭典では恋ピューター、エレファントカップル4vs4、合唱、フィーリングカップル5vs5、クイズ100人に聞きました、などの企画があり、さらにブロック対抗歌合戦(課題曲 お嫁サンバ)、ボディビル大会、女装大会などと、盛りだくさんの企画が開かれました。

 学思寮で発行した『軌跡』創刊号(1966)には、鷹峯・新大宮・紫竹付近の新聞販売所・薬局・クリーニング店・酒屋・喫茶店などの広告が掲載されています。

 クリーニング店は学思寮指定であり寮への出張日がありましたし、酒屋は「学思寮の酒屋〇〇商店」とさしづめ御用達、喫茶店はモーニングサービス100円でした。

 こうした広告からも学思寮寮生の生活の一端が窺われます。

 広小路学舎や衣笠学舎への通学には、市バスの釈迦谷口から北1系統、1系統、6系統などがあり、バイクや自転車通学もあったと思われます。

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【学思寮付近の地図―学思寮『納涼祭』1981年より】

 

≪寮の変遷と閉寮≫

 1964年に開設した学思寮も他の寮とともに、196912月から19709月まで、学園紛争中の「寮問題」により一時閉鎖を余儀なくされました。

 そして再開されましたが、下宿が減りアパートやマンションが増加するに伴い相部屋の学生寮が時代にそぐわなくなり、入寮希望者も減少していきます。

 こうした状況を受けて、大学は総合的で体系的な厚生援助の整備充実をはかっていくこととし、学思寮は1988320日に閉寮式典を実施、3月末をもって閉鎖に至りました。

 残る寮生は双ヶ岡寮へ移りましたが、19913月末をもって立命館大学は全寮を廃止しました。

 学思寮の跡地は住宅地に変貌し、今や寮を知ることのできるものはありませんが、衣笠キャンパスでは学思寮から移植した以学館前の八重桜が、今でも春の訪れとともに花を咲かせます。新しい学生を迎えるように。

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【以学館前の桜】

 

 

≪寮歌≫

  前口上  大路下鴨集い歩きし雅人(みやびと)の春菜摘みつ

美しき賀茂の流れに育てはぐくみし出町・南北寮

       学びて思わざれば則ち暗く 思いて学ばざれば則ち危し

衣笠・吉田の山なみも露に濡れて花と咲く

                立命館大学 寮歌

  寮 歌  夕月淡く梨花白く 春宵花の香をこめて 

       都塵治まる一時や 眉若き子ら相集い

       希望の光を一にして 厚き四年を契りたり

                 厚き四年を契りたり

 

       『1984年 学思寮新歓ぱんふれっと』より(原文のまま)

 

 

              2020年4月1日 立命館 史資料センター 久保田謙次


2020.03.04

立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館憲章>

立命館学園は、1900(明治33)年に創立以来100年を超える歴史があります。

2006年、この歴史の中で培われた立命館の精神を『立命館憲章』として制定し、学園の様々な場所に掲出し、様々な冊子に掲載しています。

文面には、建学の精神、教学理念はじめ学園を支えてきた様々な理念、原則、教訓が織り込まれ、二大学五附属校となった立命館学園のアイデンティティとして確立され、立命館の社会的使命を明示しています。

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          立命館憲章

立命館は、西園寺公望を学祖とし、一九〇〇年、中川小十郎によって京都法政学校として創設された。「立命」の名は、『孟子』の「尽心章句」に由来し、立命館は「学問を通じて、自らの人生を切り拓く修養の場」を意味する。

 立命館は、建学の精神を「自由と清新」とし、第二次世界大戦後、戦争の痛苦の体験を踏まえて、教学理念を「平和と民主主義」とした。

立命館は、時代と社会に真摯に向き合い、自主性を貫き、幾多の困難を乗り越えながら、広く内外の協力と支援を得て私立総合学園への道を歩んできた。

 

立命館は、アジア太平洋地域に位置する日本の学園として、歴史を誠実に見つめ、国際相互理解を通じた多文化共生の学園を確立する。

  立命館は、教育・研究および文化・スポーツ活動を通じて信頼と連帯を育み、地域に根ざし、国際社会に開かれた学園づくりを進める。

  立命館は、学園運営にあたって、私立の学園であることの特性を活かし、自主、民主、公正、公開、非暴力の原則を貫き、教職員と学生の参加、校友と父母の協力のもとに、社会連携を強め、学園の発展に努める。

 

 立命館は、人類の未来を切り拓くために、学問研究の自由に基づき普遍的な価値の創造と人類的諸課題の解明に邁進する。その教育にあたっては、建学の精神と教学理念に基づき、「未来を信じ、未来に生きる」の精神をもって、確かな学力の上に、豊かな個性を花開かせ、正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める。

  立命館は、この憲章の本旨を踏まえ、教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する。

 

           2006721日 学校法人 立命館

2020.02.26

<懐かしの立命館>1枚の中学校クラス集合写真~ご遺族から届けられた写真~

 立命館 史資料センターには、校友の方からのご相談や資料のご提供の話が日々寄せられます。

 亡くなられた祖父の学生時代を調べているという方、家人の所持品を整理していたら学生時代の思い出の品が出てきたので寄贈したいという方、それぞれの思い出が詰まったお話やご相談ばかりです。

 このような中で、以前にお電話をいただいていた姉妹の方が、フィリピンで戦死されたお兄様の数少ない遺品写真2枚を史資料センターへ持参されました。このうちの1枚には手書きメモで「昭和拾年五月拾壱日於愛宕神社 立命館中学校第三学年 一組生徒(級長ノ時)写ス」と記されていました。史資料センターに保存されている資料を調べたところ、1935(昭和10)年5月発行の「立命館禁衛隊 第53号」にその行事記録が前後の行事と共に掲載されていました(一部抜粋)。 

 五月五日  節句の御祝の式挙行

 五月十日  中商(注1)四年愛宕神社正式参拝、後馬路村に向ひ一泊、

                     十一日午後帰還

 五月十一日 中商三年愛宕神社参拝

 五月十三日 中商二年愛宕神社参拝

 五月十四日 中商一年愛宕神社参拝

 五月廿日  中商五年東京方面終学(原文ママ)旅行に出発

       同日身體検査開始

 五月廿六日 中商五年修学旅行より帰還

集合写真1

   【1935(昭和10)年5月の立命館中学校3年クラス集合写真】 

担任と一緒に撮影されたクラス集合写真で、全員の顔や服装が明確に確認できます。もう一枚は小さいサイズで、同時期に校外で撮影した一人だけの制服姿のスナップ写真です。

兄とはかなりの年齢差があったため、姉妹に兄の記憶はなく、戦後に父親から写真を見せられ「お前たちの兄さんは立命館に通っていた」と聞かされたそうでした。家族や親戚が世代交代をしていくなか、その話と写真を頼りに、実の兄が生きていた証が何か知れないだろうかというご相談でした。

お兄様が立命館中学校に入学された1933(昭和8)年は、中川小十郎総長が付属校の中学校・商業学校の校長を兼任した年(注2)でした。この頃は志願者全員を入学させる建て前をとっていて(注3)、1933年の入学者数は中学校が110名(注3)、商業学校が162名となっていました。お兄様の入学年から入学者名簿を探し出すことができましたが、卒業生名簿にお兄様のお名前を見つけ出すことができませんでした。更に調査した結果、4年生の11月末で退学されていたことが判明しました。当時にあって、5年間の学業を続けることは容易ではなく、様々な事情によって中退していく生徒が多かったようです。この学年で卒業したのは46名で、学年定員の不足分は編入による追加募集や飛び級によって調整していました。

お兄様が立命館中学校を中退されたのは15歳。後に志願兵として入隊され、戦死されたのは1941(昭和16)年で20歳。あまりにも短すぎる人生でした。

一枚の集合写真から在学当時の学校の様子を知っていただくことができて、姉妹には「兄のことを少しでも知ることができてよかった」と喜んでいただけました。

写真は、史資料センターに寄贈いただくことになりました。戦前の資料収集が困難になってきています。こうしてご遺族からの貴重な写真・資料を寄贈や紹介いただくことによって、学園史の史実を固めていくことができますので、これからも皆さんからのご協力をお願いいたします。

      2020226日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

1:中学校・商業学校の略。中学校は1928(昭和3)年私立立命館中学から立命館中学校に改称。 商業学校は1929(昭和4)年に設立。

注2:この時が2度目の校長兼任であった(19417月まで)。最初は、創立者中川小十郎が1928(昭和3)年4月に館長となった時で、この時も兼任であった(19292月まで)。

31929年に始まる世界恐慌が日本へも大きく影響して、入学者減は私学にとって深刻な問題となっていた。立命館では中川総長のリーダーシップによる学園挙げての取り組みが行われていた。

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