立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2020.09.25

<学園史資料から>「命輝く」立命館小学校。その設置準備室の看板

20064月に立命館小学校が開校して今年で14年になります。

この看板は、2005年から開校までの1年間に様々な準備の中心となった「設置準備室」のものです。

「命輝く」立命館小学校-1


立命館学園が小学校を開校するのは、創立者中川小十郎の長年の夢でありました。1918(大正7)年に発行された『立命館中学の過去現在及将来』では「小学校より中学校を経て大学予科および本科と系統一貫せる教育機関の形成」をすでに構想(『立命館百年史 通史一』pp373376)していたのです。

それが、おおよそ90年の時を経て北大路キャンパスに実現したのです。

 

この「立命館小学校設置準備室」は、2005年に設置され、小学校の教育カリキュラムや中学・高等学校への接続教育の仕組み、学年の横だけでなく6年~1年生までの縦のグループ(ハウス制度)を作って学習する仕組みなど様々な先進的効果的な教育の形を検討した組織です。

 

わずか1年間の「準備室」でしたが、そこでは学園初めての小学校、一貫教育の完成、新しい教育の在り方の検討で、皆、大変な熱意をもって取り組んだそうです。

今回移管された看板も、無事小学校が開校し、看板を下ろす時、その裏面には当時の構成メンバーが記念のサインをしています。

 

かくて2006年4月、立命館小学校は開校の日を迎え、1年~3年生の児童が入学しました。

「命輝く」立命館小学校-2

「立命館小学校設置準備室」の看板は、学園が続く限り保存されます。熱い思いを込めた人々のサインとともに。

 

                         20209月25日 立命館 史資料センター 奈良英久

2020.09.14

立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介  <清心館コモンズ「RiLICC」展示スペース>

20203月の文学部基本施設「清心館」のリニューアルにともなって、東側入口に展示コーナーが設置されています。

小さな展示コーナーですが、文学部の研究成果を誰にでも見て感じてもらうために設置されたもの。

写真は考古学研究の木立教授の解説映像とともに、発掘された清水焼の陶製手榴弾の展示。

時々展示が代わりますので、足を運んでください。

RiLICC展示1

RiLICC展示2


RiLICC展示3

2020.07.28

<懐かしの立命館>戦後立命館の原風景 末川博学長誕生までの35日間 前編

敗戦の1週間ほど前のことでした。1945年8月7日(火)、愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠空襲で本学勤労動員中の学生4名が犠牲となりました。この空襲は午前10時13分頃に始まり、午前10時39分頃まで続き、その爆撃は15分ほどの間に連続して約3,200発もの爆弾が投下されるという言語に絶する激しいものでした。(1)

同じ頃、立命館大学の衣笠学舎で農作業(2)をしていたK教授は手を休め「もう日本はだめだね。もうすぐ戦争は終わるよ」(3)とぽっつり言われました。K教授の言葉通り、それから1週間後の8月15日(水)、日本は終戦を迎えました。その瞬間から立命館の戦後が始まりました。

 

終戦の玉音放送―その時学生たちは

 

 1945(昭和20)年815日(水)、正午に終戦の玉音4がラジオ放送されました。

その時、学校に残っていた学生たちは、広小路学舎と衣笠学舎、北大路学舎(旧制立命館中学校)のそれぞれのキャンパスで、広小路学舎では正門前広場(=存心館前広場)で、衣笠学舎では理工学部校舎前で、北大路学舎ではグラウンドに整列して終戦の玉音を聞きました5

                

      戦後立命館の原風景-1             

               玉音放送原稿(写)、官報号外(昭和20815日 終戦勅書)

                    大河コレクション(立命館 史資料センター所蔵)


衣笠学舎で玉音放送を聞いた学生は、これからいかに生きるかを悩み、次のように書き残しています。

 「昭和20年衣笠学舎前に整列し終戦の詔勅が下る。あの時の気持ちは卒業と同時に入隊、自分たちは生きられないと考えていたので、いかに生きるか、と友達4,5人で集まって討議、飯ものどを通らぬ日が1週間も続いた。」(『立命館百年史紀要』立命館卒業生の戦争体験 TU 昭和20年専1機)              

また、応召していた学生は終戦によって兵役を解放された喜びと復学後の学業に悩みます。

「ああ開放される、家に帰れる、大学に戻れると思いつつ、復員後、復学手続きをするため広小路に参りましたが、多くの学生の姿をみて正門前で足がすくんでしまいました。果たして二年間の空白(兵役による休学期間)で皆について行けるだろうかなど、次々と心配が重なり何とも言えぬ気持ちになりました。」(前掲 TK〈昭和20年大1経〉)

 

勤労動員先の学生寮で玉音放送を聞いたB(昭和20年大1法)さんは、終戦に安堵しました。

「寮に帰り、正午の聞き取りにくい玉音の再放送を全寮生が集まって清聴した。まさか、の思いでしたが、何だか学生も教員も茫然とした境地のなかにもほっとした感じでした。総てが終わった。耐えに耐えた窮乏生活にも何とも言えぬ明るさと、やっとやってきた安堵感を噛み締める思いでした。」(6

 

直ぐに始まった授業

政府は、玉音放送が行われた翌日816日(木)に文部・厚生次官通達「動員解除」を各学校に通知しました。1週間後には、学校教練、戦時体錬など学校における戦時体制が廃止(7)され、9月中旬までに授業の開始が通達(8)されました。この通達によって学校教育の再開は加速されました。1945(昭和20)年96()、立命館は早くも授業開始通知を大阪朝日新聞に広告(告知)を掲載し、学園に戻ってくるよう学生たちによびかけました。

               戦後立命館の原風景-2   

                   昭和2096日付  大阪朝日新聞 掲載 


1945(昭和20)年9月11日(火)に始業式が行われ、講義は9月17日(月)から始まり、1部(昼間部)は午前9時、2部(夜間部)は午後6時より再開されました。戦後最初の始業式で松井元興学長(9)は学生たちに次のように訓示しました。

「原子爆弾の威力は広島市の例によって明らかの如く、原子がものとなって人間の目に始めて現れる時、大なるエネルギーを発生する。かくの如く、科学と現物の威大なる力を見出すであろう。従って吾々は学術に於いても科学的に日常生活から新しく発せねばならぬ。我々科学人として、新日本人として、これまでの悪点を除き、敗戦そのものをも無駄にせぬ様にすべきである。又我々は必ず自分の専攻の科目に応じ一能に徹すると共に秀でてアジアの将来に深く思いを致さねばならない。」(10)

 
戦中・戦後を橋渡しした松井元興学長はこの1カ月ほど後に辞任(11)し、この後に戦後初の末川博学長が誕生します。

    

  注

(1) 『豊川海軍工廠』豊川市桜ケ丘ミュージアム 平成23年7月6日発行(パンフレット)

(2)     1944(昭和19)年2月閣議決定「決戦非常措置要綱」にもとづいて立命館では農林課を新設し、

            食料の自主生産に取り組むため、等持院校地(現在の衣笠キャンパス)を水田や農場に変えて

            学校独自の勤労動員の場とされました。

     立命館中学校校舎は㈱島津製作所三条工場第一兵器部の疎開工場となりました。

(3)     校友会誌『りつめい』第14号 文学部W教授の敗戦直後の回想

(4)   1945(昭和20)年8月15日正午の昭和天皇の肉声をラジオ放送した。

            その内容はポツダム宣言を受諾し降伏するという内容であった。

(5)  『立命館百年史通史一』p44-48  

(6)   Bは大学本部から助手として引率監督を任されました。 

(7)   8月24日 文部省通達「学校教練・戦時体錬・学校防空関係諸法令の廃止」

(8)   8月28日 文部省次官通達「時局の変転に伴う学校教育に関する件」地方長官・学校長宛 

(9)   松井元興学長 松井元興は、1873(明治6)年福岡に生まれ、1941(昭和16)年2月に

            立命館学長に就任している。

            1945(昭和20)年10月29日に辞職。戦時下の立命館を支えてきた一人でした。

(10)  『岡本恵夫日記』は、岡本恵夫が昭和16年1月1日~24年2月17日までを綴った日記である。

            岡本氏は昭和22年立命館専門学校1部経済学科を卒業し、昭和25年立命館大学1部経済学部を

            卒業した校友である。この日記には、豊川海軍工廠での勤労動員の日々や空襲により4名の

            学友を失ったことなどが綴られている。また、敗戦直後の立命館の様子などが綴られているなど

            非常に貴重な資料です。

 (11)  1945年10月29日  松井元興学長は石原廣一郎理事長提案の経営改革案を支持すると表明して

           「私も進んでご協力すべきであるが、(略)敗戦後の日本再建には何といっても若い方の力を

            待つよりしかたない。(略)適当な人をしてこの重職に当たらし頂きたい」と述べ辞表提出した。

            石原廣一郎は同日の夕刻に末川宅を訪問し、末川博に学長内諾を得たのです。


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