西園寺公望は勤王家を養成するため私塾立命館を開きましたが、賓師(先生)として、京都の著名な漢学者・文人などが選ばれました。江馬天江、淡海槐堂、谷口藹山、広瀬青村、松本士龍、神山鳳陽、山中静逸、山本秀夫、富岡鉄斎、橋本蓉塘などです。
「立命」は『孟子』から採られていますが、橋本蓉塘が命名したと言われています。塾の講義では、中国最古の詩集『毛詩』などが取り上げられました。また広瀬青村が塾長を務めたことのある大分・咸宜園には立命館の寮歌のルーツではないかと言われる「休道の詩」が残っています。
塾は大そう評判がよく、塾生は100人ほどいたようで塾舎を建て増ししたといわれます。名前のわかっているなかに西園寺公望が山陰道鎮撫使として丹波馬路村に入ったとき陣営に参加した人の一族と思われる人がいます。
しかし塾は翌年4月23日、西園寺がフランス留学準備のため長崎に遊学している間に、塾生の言動に不安を感じた京都留守官により閉鎖させられました。
西園寺公望は、5月24日付の賓師あての書簡で、閉塾の経緯と無念さを述べています。
西園寺公望のフランス留学時代。西園寺公望は1870年の私塾立命館の閉鎖後フランスに旅立った。