これまで人が行ってきたことが、AIなどのテクノロジーに取って代わられようとする中で、民法上、AIをどう扱うべきかが問題となっている。角本和理は、こうした高度情報社会における民法の理論や制度のあり方を研究している。
AIの法主体性を考える
情報通信技術が飛躍的に進化を遂げ、社会のあらゆるところに浸透している現代。その影響は、人が社会生活を営んでいくためのルールを定めた法にも及んでいる。角本和理は、こうした高度情報社会において、私法とりわけ民法の理論や制度はどうあるべきかを研究している。これまで、仮想世界のオブジェクトや暗号資産といったデジタルな財産の取り扱いや、AIの情報分析によるプライバシー侵害などの人格的利益の問題について理論研究を行ってきた。その延長線上として、AIの法主体性についても理論研究に着手している。
「民法は、社会における市民間の民事的な関係を広く規律する法律で、大きく分けると、財産(関係)をめぐる法と、人間(関係)をめぐる法とが定められています。財産(関係)をめぐる法には、例えば資本主義社会における所有や契約に関する制度が定められており、人間(関係)をめぐる法には、例えば身体やこころが他人に傷つけられた場合の対応や、婚姻や相続に関する制度が定められています。そこでは、権利・義務の『主体』(フィールドプレイヤー)として『人』が想定されており、この『人』には、我々ホモサピエンスを意味する『自然人』と、その自然人の集団や財産の集まりを意味する『法人』とが含まれます」と角本。「近年、特に財産に関する問題領域において、これまで人間しか行うことができなかった知的なタスクを担えるようになっているAIについて、民法上どのように扱うべきかが議論の的になっています」と研究背景を説明する。
株式市場や為替市場においては、AIが市場動向を先読みし、自動で売買を行うようになって久しい。人間が投資判断して売買するよりも圧倒的に速く、確度が高いからだ。その後、人間と自然にコミュニケーションをとることも可能なAIが現れた。もしこれらのAIが誤作動などで人の権利・利益を害した場合、その責任を負うべき主体は誰なのか。「数年前までは、AIの開発者やそのサービスを提供する企業、あるいはその利用者が責任を負うという考えが一般的でした。なぜなら、それらのAIは結局のところ、人間の指示に従って動くものに過ぎないからです。しかし、事態は急変しているように思われます」
AIの知的能力・自律性の向上と私法における「人間像」
最近では、自律的・能動的に複雑なタスクを遂行し、目標を達成するAIシステム(AIエージェント)が実用化されつつある。こうした人間の指示を待つわけではないAIが人をサポートしたり、人に代わってタスクを担ったりする中で判断ミスをし、例えば思わぬ契約を結んでしまったような場合、誰が責任を負うべきだろうか。「少なくとも、エンドユーザーに無理を強いることにならないよう法律構成することが求められるわけですが、その方法として、あえてAIを民法上の『主体』と位置づけ、契約の無効や取消といった一定の法的効果を導くことも、選択肢としては考えられるように思います」と角本は言う。
AIのミスについて誰がどのように責任を負うべきかを判断するための手段として、AIを法主体として扱うべきか否かについては、研究者の間でも賛否が分かれている。AIを民法上の「主体』として扱うことの意義を考察するためには、翻って、そもそも人間とはどのような存在なのかを改めて問い直す必要がある。
それでは、これまで人間は法律上どのように扱われてきたのだろうか。それは、時代とともに変化を遂げてきたという。「近代では、『人間は考える葦である』というパスカルの言葉や、『我思う、ゆえに我あり』というデカルトの言葉に表れているように、自ら考えて自由に行動することができる『自由意思』を持っているという点に、地球上のその他の存在や事物と異なる人間の特徴が求められることになりました。それゆえ近代では、人間は自分がすべきこと、すべきでないことを正確に判断できる合理的で自律的な存在と想定され、それを前提に民法のルールもつくられてきました」
しかしその後、資本主義社会が発展していく中で、「人間は合理的で自律的な存在だから、自らの行動はすべて自己責任である」という考え方が企業や地主に利することになり、かえって一般市民に無理を強いる現実が浮き彫りになっていく。この課題を打開するべく、民法上の人間像が変化を遂げていく。「社会で生きているのは強くて賢い完璧な人ばかりではない。人は時や場面に応じて支援を必要とする存在であるという考え方が一般的になっていきました」。そのような歴史的な展開を踏まえて、当人の自律性を尊重すべき場面と、支援が求められる場面とのバランスが求められるようになって今日に至っている。「AIも人間による自己決定を尊重しつつ、人間による支援の要請に配慮する形で活用していくことが求められ、AIに関する法制度も、それに応ずるようなものとして構想されるべきだということになるのではないでしょうか」
AIを民事上の法主体として考える?
一方で人間は合理的な主体であり、知的な作業が『できる』という側面に着目すると、AIを「法主体である」と考えてもおかしくないかもしれない。例えば、先に述べた株取引のように「お金」関係など扱う対象によっては、AIは人間のように、あるいは人間以上に「合理的に」判断することができるからだ。特に財産関係の大部分に関しては、現在の民法をそのままに、AIがフィールドプレイヤーとして立ち現れるという状況に至ることも考えられる。他方で、人間が支援を必要とする側面を重視した上で、AIもまだ不完全な存在であることに着目し、両者に共通する「できないことが(多く)ある」という点から法主体のあり方を再構成しようという考えも示されている。この場合、「現行の民法は原則として『何かの行為ができること』を重視して制度がつくられているので、『できないこと』を前提にした制度に抜本的に変えていく必要性が生じます。いずれにせよ、社会のあり方が大きく変わりかねない、そういう状況にあると考えられそうなのです」
その中で角本は、人とAIを区別する手がかりとして、これまでは「意識」の有無に着目して法主体性のあり方を検討してきた。「意識を持たない『高度な知能』がAIの発達によってどんどん生まれていることによって、私たちが所与の前提として密接に結びつけていた『高度な知能』と『発達した意識』を分離したものとして捉えるような動向も有力になっているようなのです。その影響として、民法においては『意識を持ちかつ一定の知能を持つ主体=人間』に関するルールと、『高度な知能を持ちながらも意識は持たない主体=AI』に関するルールに分かれていくことも考えられます」と指摘する。そうすることで、人間については『意識』のあり方に即した細やかな保護を実現しつつ、AIについては合理的主体たるべきものとして、ときに厳格な責任を要求することができるようになるという。
「あるいは、そのような意識を有するものの必ずしも合理的ではない人間と、合理的な判断はできるが必ずしも意識を有さないAIとが一体的に主体として扱われ、それぞれの事情を複合的に考慮して要件・効果を検討する方向性も考えられます。この場合、近代法は主体として『個人』を想定していたわけですが、人間とAIの関係的な存在(ときに『分人』などといわれる)も主体として扱われるという意味で、結局は理論的に大きな変容を被ることになり得ます」
AIによる新たな産業革命と民法における世界観の変容?
AIの法主体性を認めるか否かについては、次の二択に整理されることがある。すなわちAIに人と同様の立場を与えると、人間中心主義の危殆化につながりかねないとする観点から制度を構想する「西洋的な方向性」と、AIについても万物と同様に人と「共生」できるとする観点から制度を構想する「東洋的な方向性」の、どちらを選択するかの問題だというのだ。
「最近は逆に、人間を超えて成長し続けるかもしれないAIを、法的に『人』(のうちの法人)として扱うことによって『人間』という枠に押しとどめる、そういう風に捉えて、法主体制度の一種である『人』制度を、今後も維持していくこともあり得るのではないだろうかと、考えるようになっています。AIに対して『人間が理解できる、人間にとっての合理的主体としてふるまい続けてね』とお願いするという意味で、これまでの、人間の一般的な能力を超えた『理想としての合理的主体像』というよりも、人間の理解の範疇に収まる『くびきとしての合理的主体像』を構想し、AIにその遵守を要求するようなイメージです」。角本はそれも、「人は合理的主体であるべき」という考え方と、「生身の人間とAIが共生する」という考え方をハイブリットさせる方法の一つであるという。
そもそも日本が近代的な法制度を導入したのは、明治時代のことだ。このころの日本は、いわゆる第一次産業革命によって社会のあり方が大きく変わった時期にあたる。機械の力が人間や家畜の力の限界を突破し、社会の変革を牽引するようになったのだ。今後、AIの発展によって新たな産業革命が起こり、これまでと比べることもできないほどに社会のあり方が変わるのではないかともいわれる。それに備えるために、根本的な世界観のレベルから再検討が試みられているわけだ。機械の知能が人間の知能を超えようとする事態にいかに備えるか。「この営みは、我々が生きるこの人間社会の方向性をどちらに向けていくかという切迫したものです。そのため、一部の研究者の空理空論というよりも、我々皆が向き合うべき課題であるということは、強調されなければなりません」と角本は結んだ。