戦時下の女性たちについて、私たちはどのようなイメージを抱くだろうか。夫や息子を戦地に送り出し、無事を祈りながら家を守るモンペ姿の女性――多くの人が思い浮かべるのは、このような受け身の女性像かもしれない。だが、飯田未希の研究が描き出すのは、そうした枠には収まりきらない、カラフルで多様な生を生きた女性たちの姿である。
禁止されても物資がなくなってもパーマをかけたい女性たち
2020年に刊行された飯田未希の著書『非国民な女たち』には、戦時下であっても、国から禁止されても、配給で物資が不足しても、それでも何とかしてパーマをかけようとする女性たちの姿が描かれている。手紙や自伝、新聞記事や雑誌のインタビュー、洋裁学校の同窓会誌など、様々な資料から女性たちの声を拾い集めて編みあげた専門書であるが、史料に残された女性たちの声が生き生きとしていて、まるで長編小説を読んだような興奮を読者に残す。
例えば、戦争が激しくなってもパーマをかけることをあきらめない女性たちの情熱は、次のような事実によって示される。金属製の器具は供出され、電気の使用も制限され、炭火の熱でパーマをかけるしかなくなった。だが、その炭すら不足し、客が持参しなければ施術できなかった。そこまでしてでもパーマをかけようとする美容院にも驚くが、客もまた、普段の炊事には枯れ草を集めて火を起こし、配給の炭を節約してまで、パーマのために炭を持参したのである。
また、女性たちの美に対する情熱は髪型だけではなく、服装にも向けられた。洋装が流行したのは戦後の占領軍の影響だけではない。戦時期においてすでにかなり多くの女性たちが洋装を求め続けていた。デパートや洋品店で洋服を買うことが難しくなると、女性たちは自分で洋服を作るため洋裁学校を目指したのである。
ファッションの専門家でもなく、戦中の歴史の専門家でもない飯田が、なぜ、戦時下の女性のおしゃれを研究対象に選んだのか。それは「彼女たち」に出会ってしまったからとしか言いようがない。博士論文で日本の現代の美容室をテーマに研究をしていた飯田は、調査の過程で戦時期にパーマを取り扱った美容師たちが非常に儲かったという話を知り、一体どういうことなのかと興味を持った。それがこの研究を始めたきっかけだった。
戦時下に単身で日本を飛び出た女性たち
さらに飯田は『非国民な女たち』の執筆中、また別の意外な女性たちと出会うことになる。当時外地と呼ばれていた中国大陸に単身で渡り、洋裁を仕事にしている若い女性たちが何人もいたのである。
「洋裁学校の同窓会誌に掲載されている卒業生たちからの手紙を読んでいたら、どう見ても外地に就職してそこから手紙を出しているとしか読めない文章がいくつも見つかりました。現代の感覚でも若い女性が単身で海外に働きに出るというのは、かなり大胆な行動に思えます。ましてや戦時下です。いったいどういうことが起こっているのだろうと衝撃を受け、強く興味を惹かれました」
次の研究テーマを見つけた飯田は、本の執筆と並行して調査を開始した。先行研究は見つからなかった。戦時下のパーマや洋装について調べた時も手探りだったが、このテーマについては「どんなキーワードで探せばよいのか見当もつかないほどだった」と飯田は振り返る。
やがて、洋裁師だけでなくタイピストとして就職した女性がいたこともわかってきた。場所も日中戦争以降日本が占領していた中国大陸だけでなく、インドネシアやシンガポールなど、南方と呼ばれた地域にも進出していた。さらに戦時下だけでなく、それ以前からすでに一部の女性たちが満州などに渡り働いていることも明らかになった。そして、これが国家的に推奨されている大規模な動きだということが見えてきたのは、職業紹介所に女性たちが殺到する様子を伝える印象的な新聞記事を見た時だった。
「これは1932年の読売新聞の記事で、満州の百貨店で働く求人に応募者が殺到したことを伝えています。女性たちが殺到しているのは職業紹介所です。外地での就職は国が推奨していた事業だったという、当時の空気感が伝わってきました」
募集された仕事の内容は満州の店員の指導役で、応募条件は「高学歴で容姿端麗で朗らかなインテリ女性を望む」。今では到底許されないような条件だが、写真のように多くの希望者が集まった。外地で働くことが華やかな職業だと受け止められていたことがうかがえる。
飯田は著書の中で、女性たちにとって外地行きは「自分のための『脱出』だったのではないだろうか」と記している。当時の人々にとって外地は戦地であると同時に観光地でもあった。加えて、内地では女性はこうあるべきという圧力が常にかかっていたことを想像すると、彼女たちの行動は理解できないほど突飛なものとは思えなくなる。
なぜ、彼女たちの存在は見過ごされてきたのか
戦時中でもパーマをかけ続けた女性たちの情熱も、外地で就職した女性たちの存在も、これまでほとんど語られてこなかった。史料がなかったわけではない。新聞や雑誌のインタビュー記事など、飯田が研究に用いた史料の中には、研究者が容易にアクセスできるものもある。飯田はそのような史料のほかに、図書館に所蔵されないような外地からの帰国者の自伝や文集などに数多く当たって、女性たちの活動の痕跡を探した。そうして裏付けをとったものが『女たちよ、大志を抱け』という形になったのだ。
ではなぜ、外地へ就職した女性たちの存在は見過ごされてきたのだろうか。それは「彼女たち」が既存の枠組みにおいて「例外」と位置づけられてきたためである。ここでいう「例外」とは、対象となる集団が極端に小さいことを意味しているわけではない。むしろ、同時代の新聞も彼女たちを取材している事実をふまえれば、当時の社会において一定の注目を集めていたことは明らかである。それでもなお、「男性は戦地、女性は銃後」という性別役割分業の図式を前提に歴史観が構築されてきたため、「彼女たち」は新聞に登場していても、研究対象から排除されてきたと考えられる。
飯田が従来の歴史学の枠組みに縛られず「彼女たち」を発見できたのは、その経歴とも関係しているだろう。大学では英米文学を専攻していたが、テキストを読み解くだけでなく、物語に描かれている社会背景を合わせて考察し、その中に文学を位置づける研究を志すようになった。その思いから日本を離れてアメリカに留学し、女性学の修士号を取得、さらに社会学の博士号を修めた。そこには、自分を息苦しくさせてきた日本社会を研究対象にしたいという強い動機もあった。
もし飯田が歴史学の専門家として、その枠組みの中で研究テーマを探していたなら、戦時期にもパーマをかけ続けた女性たちの情熱や、自らの意志で生き方を選んで外地に就職していった人間味あふれる女性たちの存在を、私たちは知ることができなかったかもしれない。
飯田はそのような「例外」に光を当てる意義について、次のように語る。
「これまでなぜ彼女たちが重要でないとされ、研究から排除されてきたのか。それを理解できれば、私たちが自明のものとして受け入れている『暗黙の前提』が浮かび上がってきます。例外に見えるものに焦点を当てることは、既存の図式を問い直すことです。今、正しいとされている歴史は、何を前提として『正しい』とされているのか。その部分を見ていきたいと考えています」
自分の感じ方に従ってカラーを出す
飯田の研究スタンスは、個に寄り添うことを重視する。手紙や雑誌のインタビューで語られた言葉を手掛かりに、これまで知られていなかった女性たちの姿を描き出す。個人の証言の中には記憶違いや見間違いなど、事実ではない要素が混じっているかもしれない。しかし個人の記憶には、国家を主軸とした「大きな歴史」では忘れ去られた事実が含まれている場合もある。飯田はそのような女性たちが記憶した事実から、外地での女性たちの活動を理解することになったのだ。さらに飯田にとって大切なのは、「彼女たち」の目に映っていた世界を描くことである。
「彼女たちがどのような経験をし、なぜ、そこまでおしゃれにこだわったのか。または、なぜ外地に行きたかったのか。そこでどのような体験をし、何を感じたのかを知りたいのです。彼女たちの行動を現代の枠組みで『良い』『悪い』と判断してしまえば、歴史は論争のための道具になってしまいます」
飯田が見い出し、その背景とともに私たちに紹介してくれた女性たちは、一人ひとりが個性豊かで生き生きとしている。彼女たちの存在を知るとステレオタイプが打ち壊される。まるでモノクロの絵がカラフルになるように、戦時下を生きた女性たちに対するイメージが多様に膨らむ。
「彼女たちはとてもカラフルですよね。個人がそれぞれ自分の出したいカラーを外に出すからこそだと思います。誰かが上から、『あなたは赤色、あなたは黄色』と割り当てるのは、カラフルではなく、単なる『分類』です。その分類の枠に押し込められそうになった時、そこから飛び出していったのが彼女たちなのだと思います。自分の感じ方に従って行動を起こす――それが、私がカラフルという言葉に抱くイメージです」