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沖縄返還に至る歴史を東アジア諸国の視点から捉え直す。

成田 千尋NARITA Chihiro

衣笠総合研究機構 助教
研究テーマ

戦後沖縄保守勢力の形成と沖韓台関係の変容過程に関する研究

専門分野

沖縄戦後史、東アジア国際関係史

研究テーマをお教えください。

成田:かつて琉球王国だった沖縄が辿ってきた歴史について、特にそれを東アジア各国がどのように見てきたのかという点に関心を持って研究しています。これまでの研究で、沖縄の帰属や基地問題に対し、大韓民国(以下、韓国)と中華民国(台湾)がどのように関わってきたのか、その変遷を追い、それまで日米間の領土問題と捉えられがちだった沖縄返還問題を、周辺のアジア諸国の視点から捉え直そうと試みてきました。最近はさらに考察を深めるため、韓国・中華民国と敵対関係にあった中華人民共和国(以下、中国)と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)にも調査の範囲を広げています。

これまで明らかにしたことをお聞かせください。

成田:まず1940年代から50年代にかけての動向を見ると、韓国と中華民国は、立場は異にするものの、共通して沖縄の日本返還には反対していました。韓国では、1948年に初代大統領になった李承晩が、沖縄に米軍基地があることを重視し、沖縄返還に反対の立場をとりました。朝鮮戦争時に沖縄が米軍の補給・出撃基地として使用され、その後も韓国の安全において沖縄の米軍基地が重要な意味を持つようになったからです。

中華民国政府(以下、国府)は、第二次世界大戦中、連合国の一員であったことから、琉球問題の最終措置については連合国で協議決定すべきだという立場を維持し続けました。1943年のカイロ会談では、沖縄の中米共同管理を提案しています。戦後、1949年の台湾遷都以降は、韓国と同様に安全保障の観点からも沖縄の米軍基地を重要だと見なし、沖縄返還に反対しました。

一方で米国と敵対する立場にあった中国・北朝鮮は、沖縄の米国による統治は「占領」であると主張し、沖縄返還を支持しました。特に1950年代半ば以降、沖縄の人々が日本復帰を望んでいることが明らかになると、沖縄返還・復帰運動への連帯を表明しました。

1960年代以降、各国の姿勢は変化したのでしょうか。

成田:沖縄では、1960年に日本への復帰を求める沖縄県祖国復帰協議会が結成されて祖国復帰運動が高揚し、沖縄の民意が日本への復帰にあることが鮮明になっていきます。そうした中、1965年に米国がベトナム戦争に本格介入したことで、東アジアの情勢は大きく変化していきます。

韓国では、ベトナム戦争への対応などに追われ、一時期沖縄への関心は薄らいでいましたが、韓国軍のベトナム派兵に反発した北朝鮮の挑発の増加により朝鮮半島情勢が緊迫すると、再び沖縄の重要性に目を向けるようになります。1969年から日米間で沖縄返還交渉が始まると、韓国政府は自国の安全保障に影響を及ぼしかねないと危機感を募らせ、沖縄の基地機能の維持を求めて日米両政府に働きかけました。

国府にとってもそれは同様で、韓国からの要請に応じて、また旧来の立場から、日米両政府に国府と協議するよう求めました。ただし日米両政府も基地機能を低下させようとは考えておらず、1969年11月に佐藤栄作首相が訪米し、ニクソン大統領との共同声明で沖縄の「72年・核抜き・本土並み」返還を発表した際には、韓国政府と国府に秘密裏にその旨が伝えられました。

一方中国政府は、米国がベトナム戦争に介入し、沖縄の米軍基地が補給・出撃に使用されるようになると、米国への批判を強めていきます。1967年の佐藤・ジョンソン共同声明の際にも、「即時無条件全面返還」という日本人民の要求を無視していると批判を展開。1969年の沖縄返還合意も「米国を黒幕、日本を柱にした新たな侵略的軍事同盟を企むもの」と批判しています。ところが1971年になると、一転して米中が接近。中国は、アジアにおける米軍の存在を「瓶の蓋」として正当化する米国の主張を徐々に認め、批判を弱めていきました。

中国が態度を変えたのに対し、最後までその立場を維持したのが、北朝鮮でした。1972年の沖縄返還の際には、平壌の各紙がその欺瞞性を糾弾。『労働新聞』は、日米安保条約の廃棄と沖縄の無条件全面返還を求める日本人民に、朝鮮人民が「固い戦闘的連帯性」を示していると報道しました。

今後の研究計画についてお聞かせください。

成田:これまでの研究では、沖縄返還や基地反対運動において主導的な役割を果たした沖縄の革新系の人々に焦点を当ててきました。現在は戦後の沖縄において保守勢力がどのように形成され、韓国や中華民国とどのような関係を築いていたかにも関心を広げ、特に経済通商関係に焦点を当てて研究しています。中華民国では、1958年に中琉文化経済協会が設立され、沖縄と経済的・文化的交流を深めようとする動きが出てきます。それに沖縄の経済人が呼応。その関係は1972年の日台断交後も続きました。1969年の日米間の沖縄返還交渉の最中に、保守系の人々が早期日本復帰に反対する団体をつくりましたが、それにも中琉文化経済協会が関わったことがわかっています。また1950年代後半に、韓国政府も沖縄との通商関係の強化を試みています。今後は沖縄や韓国、台湾で収集した史料などを検討し、沖韓間の通商関係について掘り下げるとともに、将来的には1990年代に至るまでのこの地域の変化に視野を広げたいと思っています。