立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館その由来の碑>(バスプール南)
2000年に立命館創始130年・学園創立100周年を記念して立命館大学父母教育後援会から寄贈されました。碑文は日展参事で校友の今井凌雪氏により「立命館」の由来となった「孟子」の尽心章(じんしんしょう)の一節が揮毫されています。
2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <日米友好の絆のハナミズキ>(バスプール中央)
西園寺公望の執事、立命館図書館長であった熊谷八十三(やそぞう)ゆかりで日米友好の懸け橋となったハナミズキ。熊谷は西園寺の静岡県興津にあった坐漁荘で16年間執事を務めた。1940年西園寺が没すると1942~1945年まで立命館文庫長(図書館長)や立命館中学校の講師を務める。
熊谷は西園寺の執事になる前には興津の農業試験場で、東京市長尾崎行雄の依頼を受けアメリカワシントンに贈る桜の苗を育てた。その桜は日米友好の印として現在もワシントンポトマック河畔を彩っている。その返礼としてハナミズキが贈られ原木1本が熊谷が初代校長として赴任した東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)に残った。
このハナミズキは、その原木から育てられたもので、2020年東京都立園芸高等学校と同同窓会より寄贈を受けたもの。(寄贈は2本で、もう1本は大阪いばらきキャンパスに植樹されている)
銘板には以下のように書かれている。
日米友好の絆の「ハナミズキ」
1912年、尾崎行雄東京市長はワシントン市がポトマック河畔一帯を公園として整備するに伴い、桜の苗木3,000本を贈りました。東京市には1915年アメリカより、返礼として白のハナミズキ40本が贈られました。日本におけるハナミズキの植栽はこれが始まりと言われています。
ワシントン市に贈った桜の苗木を栽培したのは当時、農商務省農事試験場技師であった熊谷八十三(1908年初代東京府立園芸学校校長、現・東京都立園芸高等学校)です。後に熊谷は興津の坐漁荘で16年間にわたり西園寺公望の執事を務め、西園寺公没後、1942年3月から1945年7月まで立命館文庫長(図書館長)や立命館中学校講師を務めました。
当時のハナミズキの原木は東京都立園芸高等学校にわずか1本が現存するのみであり、東京都立園芸高等学校および東京都立園芸高等学校同窓会では創立110周年を記念してこの原木から新たな苗木を育て、熊谷とゆかりのある団体等に寄贈する事業を実施されました。このハナミズキはそのうちの一本です。
この日米友好の「桜とハナミズキの物語」は世代を超えて語り継がれ、現在も日米両国の各地において、様々な交流行事が行われています。
東京都立園芸高等学校で見事な花を咲かせるハナミズキ原木
2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <研心館横の池の跡>(研心館東)
衣笠キャンパスの中にはかつて二つの池がありました。その内、1978年まであった東池(第二用水池)は研心館の建設により埋め立てられました。1979年研心館完成時には東玄関前に池の名残を留めた水溜りが残っていたのですが、現在はレンガ風の空間に改修されベンチが置かれ、池の名残は姿を消しています。