立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2018.09.19
<懐かしの立命館>学生証
1.学生証とは
大学に入学すると交付される学生証。学生証は学生であることを証明するものです。
現在の立命館大学の学生証は、以下の場合に必要となり、常に携帯することが求められています。
定期試験の受験、各種証明書の交付、図書館等の本学施設の利用、本学教職員等から提示を求められたとき(『学修要覧(全学部共通編)2018年度用』)。
学生証はこのように定められ交付されていますが、学外においてもJR等交通機関の学割や通学定期券の購入、博物館等の入場料の割引などに利用されることなどがあります。
今回は、立命館大学の学生証の変遷、歴史を紹介します。
【2018年度の学生証(見本)】
現在の学生証は入学を許可されると交付され、在学中使用することになりますが、裏面には1年ごとに在籍確認シールを貼ることになります。転籍・再入学を除き学生証番号は変わりません。
裏面には必要事項を記載するようになっていますが、通学定期の発行控も記載するようになっています。
2.立命館(大学)の学生証の起源
(1) そもそも立命館大学の学生証はいつから発行されたのでしょうか。
学生証の発行は学則に定められていますので、学則を遡ってみます。学生証が学則に初めて現れるのは、昭和4年4月改正施行の立命館大学専門学部学則です。
第36条 学生ハ学生証ヲ携帯スルニ非ザレバ教場ニ入ルヲ得ズ
第37条 学生証ヲ紛失シタルトキハ手数料金1円ヲ添エ再渡ヲ会計課ニ願出スベシ
ただし、同年の立命館大学学則には学生証に関する規定がありません。
(2) 学生証以前は聴講券だった
上記の専門学部学則以前は聴講券が発行されていました。
聴講券は明治33年5月認可、6月開校の京都法政学校から発行されています。
「京都法政学校規則」の生徒心得には、
第32条 生徒ハ聴講券ヲ携帯スルニアラサレハ教場ニ入ルヲ許サス
第33条 聴講券ヲ遺失シタルトキハ手数料トシテ金拾銭ヲ添ヘ其再渡ヲ会計係ニ願出ツヘシ
とあります。
校内生ではありませんが、次の「優待聴講券」が残っています。
【優待聴講券 京都府立京都学・歴彩館所蔵】
この優待聴講券は明治33年12月14日に上野弥一郎に発行されたもので、明治34年11月13日までの11ヵ月間の聴講券です。京都法政学校には校外生制度もあり、随時入学が可能でしたから、創立当初から聴講券が発行されていたことが窺えます。
上野弥一郎ですが、明治15年には京都府会議員、同35年には立憲政友会から衆議院議員にもなりました。上野は明治27年4月に京都大学設立の建議を行っていた人物です。創立者中川小十郎との接点は不明ですが、文部省の書記官であった中川、また立憲政友会との関係から知己であったのではないかと思われます。
それはともかく、京都法政学校以降、京都法政専門学校、京都法政大学、旧制立命館大学と、聴講券は引き継がれていったことが各学校の規則および学則から知ることができます。
3.他大学の学生証の起源
他大学の学生証の起源はどうなっていたのでしょうか。
(1)早稲田大学では、
明治39年9月11日の始業式で高田学監が新入生および学生に対し、学生証の携帯等を訓示し、この訓示が整備されて、明治40年7月の「早稲田大学規則」に学生心得が定められ、その第1条に「学生ハ校ノ内外ヲ問ハズ必ズ学生証ヲ携帯スベシ」とした、としています。(『早稲田大学百年史』第2巻 昭和56年)
(2)法政大学では、
法政大学発行の『法政大学の100年 1880―1980』(昭和55年)に、大正15年度の学生証が掲載されています。
(3)東京大学では、
昭和5年7月発行の『昭和5年度東京帝国大学一覧』に学生証の項があり、「本学学生生徒及聴講生ハ昭和2年3月19日庶第407号通牒ニ依リ一定ノ学生証生徒証及聴講生証ヲ所持スベキモノトス」とあり、それ以前の『東京帝国大学一覧』では確認できないものの、昭和3年4月には農学科農学実科生徒に「生徒証」を発行していたようです。
(4)中央大学では、
『タイムトラベル中大125:1885→2010』第2版(2011年)には、「聴講券から学生証」の記事が掲載され、1931年の学則改正に際し聴講券は学生証と改称された、としています。
このような状況から、「学生証」は必ずしも各大学が同時期に発行しはじめたということではないようです。
なお、JR(旧国鉄)の学割制度との関係を考えてみましたが、学生割引(学生旅客運賃割引制度)は、「明治40年、教育奨励のため、中学以上の職員、生徒、小学校職員に実施した」(『国鉄乗車券類大事典』JTB 平成16年)ようなので、学生証の発行の起源とは直接結びつきません。
なお、現在JRの学割は片道101㎞以上で2割引きですが、昭和35年までは3等車で5割引きでした。昭和35年6月まで3等車があったのです。史資料センターには、発行したものの使用されなかった5割引き最後の「学校学生生徒旅客運賃割引証」が残されています。
4.立命館の学生証の変遷
(1)昭和4年以降の旧制大学時代の学生証
昭和4年4月に改正施行された立命館大学専門学部学則に学生証が定められたことは先に述べた通りです。
昭和3年9月現在の『立命館要覧』には、立命館大学学則中に学生証に関する条文がなく、専門学部学則に聴講証を発行することが定められています。
立命館のその他の学校では、
昭和13年4月に開校した立命館高等工科学校(翌年立命館日満高等工科学校と改称)の学則第38条には、生徒登学ノ際ニハ必ス在学証ヲ携帯スヘシ……。第39条には、在学証ヲ携帯セサル生徒ハ教室ニ入ルヲ許サス とあり、在学証を交付しています。
戦時中の昭和19年4月1日、立命館は専門学校を設置しましたが、立命館専門学校学則では、第28条に、授業料等ヲ納付シタル時ハ所定ノ生徒証ヲ交付ス 生徒証ヲ所持セザルモノハ教室内ニ入ルコトヲ得ズ となっています。
戦後ではありますが、昭和21年4月1日に施行された旧制の立命館大学学則第30条には、専門学校と同じ条文で生徒証の部分を学生証としています。
(2)新制大学の学生証
昭和23年4月新制大学が設置されました。立命館大学学則第24条に、授業料その他学生の負担すべき金員およびその納付方法は、別にこれを定める。前項の金員を納付したものには学生証を交付する、と定められました。
(3)立命館大学教学事務取扱規則(昭和28年12月4日)
そして昭和28年に教学事務取扱規則が定められ、その第10条から第16条まで学生証について定めています。
第10条 学生は、学生証の交付を受け、これを携帯するものとする。
第11条 学生証の交付を受けようとするときは、無帽半身正面画像の写真1枚を当該学部に提出するものとする。
第12条 学生証を携帯しないときは、教室、図書館その他本学の施設を使用することができない。
第13条~第15条 略
第16条 学生証は、卒業、退学その他本学学生の身分を離れたときは直ちにこれを返納するものとする。
ここに学生証に関する細則が定められ、この各条文は概ねその後の学生証規程に引き継がれます。
(4)立命館大学学生証規程(昭和34年10月9日)
そして、昭和34年10月に学生証に関する規程が定められ、若干の条文の改定がありますが、8条からなる規程は現在に至っています。
5.新制大学以降の学生証の様式の変遷
以下は資料として保存されている学生証のうち様式の変遷がわかるものです。
(1)昭和29年度【写真1】
大学院に定時制があった年度の学生證で、研究科長名で発行しています。
表裏各3面で学生證兼身分証明書となっています。利用上の注意のほか学費納付欄、写真貼付欄があります。
(2)昭和35年度
昭和29年度の学生証にはなかった図案化された「大學」の文字が入っています。また顔写真に立命館のマークを浮き出しにしたエンボス加工(注1)が施されています。昭和30年度から34年度までの学生証が残っていないため、いずれも何年度から採用されたのかは不明ですが。学生証所持規定、学費納付欄、学割発行控欄があります。学生証表紙は左面です。国鉄3等の5割引きが適用された最後の年度のものです。
(3)昭和39年度【写真2】
それまで学部長・研究科長が発行していましたが、前年度の昭和38年度から学長が発行者となりました。そして昭和39年度から地紋が立マーク(通称亀の子マーク)となりました。立マークは昭和35年の創立60周年記念事業の際に、正式な校章ではありませんが、公募により選定・採用されたものです。立マークの地紋が入った学生証は1993年度まで使用され、1994年度より新たな校章(Ritsマーク)となりました。
(4)昭和43年度
学生証表面が左側から右側に変わります。アルバイト登録欄、学割発行控欄があります。
(5)昭和54年度 【写真3 但し同じ様式の55年度】
横長の用紙サイズになります。学生証(兼身分証明書)の面が左側になります。通学定期乗車券発行欄があります。健康診断受診の欄もあります。
(6)1982年度
和暦(元号)から西暦に変更になりました。1981年11月に学園の諸文書を西暦表記とすると定められたことによります。発行者の住所が前年の衣笠一拠点完成により北区等持院北町となっています。その外は昭和55年度と同じ様式です。
(7)1986年度
学費納付欄が無くなります。1985年12月16日の教務・教対会議で学費の領収印を廃止することを決定。他大学では既に廃止されていました。所持規定が注意事項に変わります。
(8)1988年度 【写真4】
これまで紙の学生証であったものにラミネート加工(注2)が施されました。このことによりエンボス加工が無くなりました。
(9)1994年度 【写真5】
プラスチック製カードになり、前年度までは学年毎に発行していましたが、入学時に1度発行し、次年度以降は裏面にその年度のシールを貼付することとなりました。この様式が現在まで続いています。
以上が史資料センターで保存している学生証をもとにした様式の変遷です。学生証とともに学生証番号の設定も変遷していますが、本稿では略しました。
(注1) エンボス加工…学生証の写真欄に校章の凹凸模様をつけた押し型(エンボス加工機)を手で強圧し、浮き出し模様を作る。糊付けの写真が剥がれないようにし、また偽造を困難にするため作成する。
(注2) ラミネート加工…学生証をフィルムで挟みコーティングする。学生証用紙の保護とともに偽造防止をする。
〔お断り〕本稿では和暦・西暦の表記を、立命館において1981年11月に西暦表記とすると定めたこと、また当該学生証の年度表記と関り、1982年度以降を西暦表記とし、それ以前は和暦表記としました。ただし、他大学等の発行物等についてはその表記に従いました。
また、掲載の写真は実物のサイズとは異なります。
【写真1~5一覧】
【写真1】
【写真2】
【写真3】
【写真4】
【写真5】
2018年9月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2018.08.01
<懐かしの立命館>戦後初の付属校修学旅行
1.新学制による中学校・高等学校の誕生
1948(昭和23)年4月、連合国軍総司令部(GHQ)の意向のもとに公立中等教育の改革が断行され新制高等学校が誕生しました。立命館の付属校でも、1947(昭和22)年の新制の立命館中学校・立命館神山中学校に引続いて、1948年には立命館高等学校・立命館神山高等学校・立命館夜間高等学校が誕生しました。5年制であった旧制中学校は、1948年3月で廃校となったため、1、2年生はそのまま新制立命館中学校の2,3年生に移行しました。3年生は新制高校1年生に入学しましたが、4年生(昭和19年入学の旧制中学校商業学校1年生)(写真1)だけには三つの選択肢がありました。そのまま旧制中学校を修了して卒業するか、旧制立命館大学の予科へ進学するか、または新制高等学校2年に編入するかという道でした。この高校2年生が戦後初の高校修学旅行に参加することになるのでした。
写真1 戦後初の高校修学旅行に参加した昭和19年入学の1年生たち
(立命館商業学校射撃部で主に最前列が1年生)
2.修学旅行実現への厳しい背景
修学旅行は、戦前から各学校でさまざまな形態で実施されていましたが、戦後の社会事情は厳しく、家庭の経済状況だけではなく、十分に復旧していない交通事情や食糧事情などからしても、修学旅行復活に対する理解には厳しいものがありました。旧制中学校廃校の前年の1947年、立命館第一中学校の平口正雄校長は学校新聞「立命館タイムス」のインタビューに「修学旅行は楽しく、いい思い出を残す意味で行いたいが、社会情勢を見るとき、平口は絶対反対です」と答えています(注1)。
当時の教育事情として、教育委員会は全国的に修学旅行復活に否定的でした。1947年11月、大阪府では教育部長(現在の教育委員会委員長)が「時節柄、父兄の立場や国の経済事情を考慮して、なるべく修学旅行を控えられるよう、万やむを得ない場合は精精一泊程度の旅行にされたい。」という修学旅行自粛通牒を出しています(注2)。その前年の1946(昭和21)年5月に皇居前食糧メーデーが起きたことや、国鉄(現JR)運賃の値上げ(注3)などからみても、戦後の経済事情は厳しいものがあり、立命館高校の授業料とを比較しても家計への圧迫は深刻でした(参考資料)。
平口校長が立命館タイムスの生徒記者へ語ったように、保護者への負担を極力抑えたいという学校側の思いは理解できます。
3.修学旅行の実現
当時の国民の生活実態からして、修学旅行の自粛はやむを得ない判断だったのでしょう。それでも修学旅行の受け入れ態勢は少しずつ改善されていったようで、1949(昭和24)年10月26日には、立命館中学校高等学校で共に3泊4日の日程で戦後初の修学旅行を実現したのでした。
1)立命館高等学校 (10月26日~29日で東京方面)
立命館高等学校では、1期生の3年生が教諭5名に引率されて参加しました。希望者を募っての参加者は143名(この学年240名)。費用1,800円で小遣い1,000円でした。(注4)高校3年担任であった上田勝彦教諭は、当時のことを次のように述べています。
「永年の教師生活のなかで教師としての生き甲斐を感じるのは生徒諸君との心の触れ合いができた時である。昭和24年度は卒業学年のクラス担任となり、秋には現在では中学生並みの東京への修学旅行を行ったが、勝手知った東京の案内役を務めたりした。」(注5)
東京・鎌倉方面への3泊4日の旅で宿舎泊は1泊のみ。他は車中泊で、それも団体扱いもなく、一般車両の客席(寝台ではなく)に座ったままという大変な旅行でした。(写真2)
この時の要項(修学旅行の行程と注意書き)が保存されていますが、B5版に印刷されたプリント1枚のみで、その内容はコース略図と「行程」、そして簡単な「生徒への注意事項」のみでした。(写真3)(注6)
1.時刻厳守 2.気分明朗 3.元気旺盛 4.行動敏速
5.身辺注意 6.健康第一
写真3 初の高校修学旅行要項
行程 【 】内は立命館タイムスの記事との合成
10月26日13:10 京都駅発
17:28 名古屋着【戦災都市の夜景を見て約3時間散策】
22:20 名古屋発準急(20:30 駅前集合)
27日 4:00 小田原着
4:37 小田原発
5:25 藤沢着 (江ノ島、鎌倉見学)
14:00 鎌倉発
15:00 東京着
16:00 (宿舎着)【旧徳川邸ホテル】
【17:00~22:00まで自由行動】
28日 【朝からバス4台で都内観光~赤坂離宮~明治神宮~外苑球場
~国会議事堂~上野~日比谷公園】
【観光後は自由行動】
28日23:50 東京発(22:00 駅前集合)
29日14:22 京都帰着
写真4 自由行動で上野動物園へ(個人所有)
この修学旅行出発の2週間前に上田勝彦教諭は、生徒を集めた場で旅行の目的を次のように詳しく説明しています。(注7)原文は、詳細に注意事項が書かれていて、安心で事故のない旅行実現のための細心の配慮がなされていました。
「修学旅行に就いて」(一部抜粋)
一、目的を自覚せよ
物見遊山のための記念行事ではなく、楽しく新しい刺激を求めたり、感覚的な欲求
を充足させるための行事でもない。心志を労し見聞を広め、識見を養うためのものである。(中略)高価な代償を支払う教育活動であって、単なるリクリエーション・ 休暇行事・休息ではないのだ。
(中略)今一つの目的は社会性の涵養である。集団生活の経験をさせ、民主社会の構成員としての自覚を喚起する。真のホームルームの目的達成の一助として、生徒対教師・交友間・クラスメート全員間の情愛等人間関係の真実を会得することである。
二、重要な心掛け
1.困難な現状の把握とそれに対する心掛け。
a.浮いた調子でぼやぼやして居れぬ世相と重大な責務。
b.楽で快適な旅行は不可能な状況~汽車の座席・旅館の待遇・窮屈な乗物~我慢と忍
耐
2.父兄の負担と将来の出費の見通しに立って。
a.父兄に無理な出費をさせぬこと。参加だけで一般的には無理があること。
b.将来、アルバム代・学費・入学に関する厖大な費用の必要なことを考慮して。
3.常に堂々たるプライドを以て行動すること。
a.旅は赤裸々な人間の表裏を暴露~学生らしい品位を。
b.「旅の恥はかきすて」は没道義的・没人間的個人主義であって奴隷制・封建制時代の旅の一面である。
c.服装は制帽・端正な衣服で、飲酒・喫煙は禁止。
4.健康に留意し、危険防止に注意を。
a.睡眠・汗の処理・食物・風邪注意
b.危険な処に立ち寄らぬこと。夜の行動に於いて街のあんちゃん・客引きにひっかからぬこと。雑踏の中には掏摸が多いこと。
三、参加者の資格 全員参加の必要なし、無資格者は参加を許可しない
1.目的をしっかり自覚している者。
2.肉体的精神的条件が有意義な旅行を可能とする者。
3.学校や引率者の命令・指示に的確に従う者~服装その他
4.家庭の状況、特に家計が修学旅行を可能とする者。
5.学費完納者~未納者は家計に無理を及ぼし家計上悪影響があり、生徒保護者共に学校に対し徳義に反することになる。
学校行事でありながら、事前から計画的に費用の積み立てを行っていなかったことで、急な決定であったことが想像されます。そのために、家庭への負担の大きさを配慮して、学費の未納者には参加を認めず、希望者だけの修学旅行となりました。当時の旅行では、外食用の外食券が必要だったが、今回の生徒が食べる米は各自持参とされ(注8)、参加費に加え服装などにも規定があったので、それらを工面することは保護者にとって重い
負担でした。学校も生徒には保護者へ過重な負担をかけないようにと呼びかけていました。そのために参加者は6割に至らなかったのでした。(注9)
この修学旅行の目的には、単なる観光見物ではなく、首都東京や名古屋のような戦災都市の復興の姿を直に見ることにありました。そして、これからの日本の復興と発展を担う若者に育ってほしいという願いがあったのでしょう。
4日間の日程ほとんどが雨の天候でした。たった1枚の鎌倉での集合写真は、雨の中での撮影だったため、10月下旬にもかかわらずコートを着用しています(写真5)。旅館泊はたった1泊だけのため、生徒たちはアイロン代わりに就寝前から敷布団の下にズボンを敷く寝押しで翌日に備えたそうです。身なりを整えることには抜かりがなかったのでした。その旅館の待遇は非常に悪かったと述べられています。(注10)東京駅での集合時刻22時というのは、教員と生徒たちのおおらかな関係があったからかもしれません。夜の自由行動では、さまざまな場所で女性に声をかけられることがあり、当時の流行歌「星の流れに」の歌詞に登場するような現実の女性の姿を目の当たりにしたそうです。(注11)
写真5 戦後初の修学旅行写真(1950年高校卒業アルバム)
その後しばらくは東京方面へと続く修学旅行となりましたが、2年後の1951(昭和26)年からは、行程が大きく広がり、卒業アルバムにも写真が多く掲載されています。
写真6 バス乗車前(1951年卒業アルバム) 写真7 箱根十国峠(1952年卒業アルバム)
2)立命館中学校 (10月26日~29日 四国方面)
参加生徒210名(学年全生徒234名)。費用は1,240円で小遣いが300円。
引率者は教頭、看護婦、担任4名。これになぜかPTA会長が加わっていました。
10月26日 21:20 京都発宇野行乗車
寝台ではなく客車に一般客と一緒に乗車
27日 朝 乗船 宇野発女木島(愛称は鬼ケ島)着 島内の洞窟見学
乗船 高松港着
金比羅山参詣
宿舎の旅館到着 枕投げ、障子を破り壊すなど夜の12時頃まで騒いで
殆んど寝られなかった。
28日 朝 朝食をすませて出発 (各自が旅館からの握り飯持参)
栗林公園から屋島登山(道路は未開通)
下山後、高松市内散策【市街の戦災復興を確認】 夕食
夕 高松港から神戸港行に乗船(船内は満員で暑かった)
6:00 神戸港到着 ~徒歩~ 諏訪山公園(睡眠不足でさらに疲労)
~ 朝食 ~ 電車で京都駅へ
この旅行の主な交通手段は船でしたが、以前から海運事故があったので、旅行への不安はあったそうです。(注12)高校同様に中学校も旅館宿泊は1泊のみでした。この時の教員の話では、せっかくの宿舎の浴場であったのに生徒たちはほとんど入湯しなかったそうです。裸になるのが恥ずかしかったかと語っています。
この事故以降、修学旅行を積極的に支持する方向で、次のようなことが行われています。
1949(昭和24)年 国鉄の団体割引復活。
1950(昭和25)年 文部省の修学旅行規制緩和
1954(昭和29)年 国鉄の専用列車による連合輸送開始
このように、修学旅行は確実に復活へと進んでいったのでした(写真8)
(写真8 1951年中学校卒業アルバム)
3)神山中学校高等学校
上賀茂神社からの払い下げによって設けられた立命館大運動場に、1941(昭和16)年に設立されたのが立命館第二中学校(神山学舎)でした。1947(昭和22)年に京都市からの委託を受けて男女共学の立命館神山中学校が、翌1948年に男子校の立命館神山高等学校が発足しています。
神山中学校高等学校に関する資料はほとんど保存されていませんが、「神山学園新聞」(注13)によると、以下のような行事記録が紹介されています。
1949(昭和24)年10月18日 高校初の修学旅行(四国方面)
1950(昭和25)年10月24日 中学校初の修学旅行(四国方面) 高校も実施
1951(昭和26)年10月16日 中学校(東京方面)
10月20日 高校(九州方面)
神山中学校高等学校は、1952年4月に立命館中学校高等学校(北大路学舎)へ合併されたため、1951年が最後の実施となりました。
(写真9 1951年神山中学校卒業アルバム)
4.修学旅行の今
このように初めての修学旅行は、厳しい交通手段によるハードな日程で実施されていましたが、それでも生徒たちにとっては学校生活における楽しい思い出として記憶に残されたことでしょう。
立命館高等学校では、その後に関東や東北、九州へとコースを変えたり、見学旅行という名で中国・四国や伊豆大島へ行ったりとしていきますが、1971(昭和46)年の実施をもって中止されました。修学旅行検討委員会によるまとめでは、修学旅行が単なる観光旅行化して本来の学校行事としての目的に適さなくなったことなどを理由にあげて述べています。
それが、中学校高等学校の男女共学化4年目(1992年)から生徒会を中心として積極的に復活への取り組みを行い、1994(平成6)年に自分たちの手でつくりあげる修学旅行として北海道コースで復活となりました。
近年の修学旅行は、目的も内容・形態も多岐に渡り、単なる旅行から研修へと変化しています。海外研修は、立命館小学校から中学校、高等学校まで実施されるようになりました。学校行事における位置づけも高くなり、今後もまだまだ変化していくことでしょう。
2018年8月1日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
(注1)学校新聞「立命館タイムス」第1号(昭和22年11月27日発行)
(注2)昭和22年11月26日付 大阪府教育部長の修学旅行自粛通牒
(注3)「国鉄乗車券類大事典」 JTB刊 2003年
(注4)立命館タイムス第11号(昭和24年12月15日発行)の座談会記事「修学旅行をかえりみて」では高校3年生240名中143名が参加と記述されているが、卒業アルバムの修学旅行集合写真には生徒128名しか写っていない。
(注5)「昭和を歩む野の小径」 上田勝彦著
(注6)高校第1回卒業生今井昭三氏寄贈資料
(注7)上田教諭宅に残されていた訓示要旨メモ
(注8)当時は、まだ米穀通帳が必要で配給米制が続いていて、国民が自由に購入することができなかった。そのため、
(注9)米は各自持参とされていたが、持参せずに他の生徒から強引に拝借する生徒もいたそうである(昭和24年卒同窓会)。また、立命館タイムスの「声」欄には、「ボスを廃して学友会の情実を去れ」と題して次のような投書もみられる。「生徒の中にボス的存在ともいうべき生徒が少数おり、正しき者を妨害しているようだが、これは改正された。また、学芸部、運動部の各先生がその部員に対して情実が多分に有る様に思うが、これはどうかと思う。私は正しき美しき公平な学園を希望するものである。」 (第7号 昭和23年7月18日発行)
(注10)学校新聞「立命館タイムス」座談会「修学旅行をかえりみて」第11号(昭和24年12月15日発行)
(注11)この旅行に参加した高校第1回卒業生の集まり(2018年4月17日開催)でのインタビュー。
(注12)日本国有鉄道(国鉄)宇高連絡船紫雲丸が1947(昭和22年)からの9年間で5度にわたって事故を起こしていて、1955(昭和30)年5月11日には小中学校の児童生徒教職員が108名も亡くなるという最大の被害をだした。
(注13)学校新聞「立命館神山学園新聞」第8号 (1952年2月21日発行)
「神山の十年を偲んで 顧みるその足跡」
2018.08.01
<懐かしの立命館>貴船演習林
立命館には演習林があります。貴船演習林といいます。
所在地は京都市左京区鞍馬貴船町と鞍馬本町で、貴船神社の北、京都府道361号上黒田貴船線沿いに1号地から5号地まであります。
面積は合計232,829㎡で、衣笠キャンパスが125,720.88㎡(2017年3月現在)ですから、そのおよそ2倍の面積となります。
≪演習林の取得≫
市街地から離れた貴船演習林は、いつどのような目的で取得したのでしょうか。
史資料センターに取得当時の土地登記簿謄本が所蔵されています。
買主は財団法人立命館、売主は無限責任摩気信用購買利用組合で、昭和18(1943)年12月28日に売買契約をし、昭和19(1944)年4月17日に登記したことがわかります。摩気信用購買利用組合は当時京都府船井郡摩気村にあった組合で、現在の地名では南丹市園部町摩気地区にあたります。現在組合は無く、売買の経緯は不明です。
取得時と現在(1992年の土地登記簿謄本)では、所在地名が変わっていますが、場所は同じです。地目が山林から保安林に変更されていますが、変更は昭和32(1957)年9月17日の京都府による保安林指定によります。面積は、取得時が71,195坪(㎡に換算すると234,943.5㎡)、現在は232,829㎡(坪に換算すると70,554.24坪)ですから若干減少しています。この減少は、昭和22年に府道を整備するために京都府に寄附したことなどによります。
≪取得の経過と利用≫
(1)取得後の寄附行為と背景
演習林を取得した目的は、財団法人立命館寄附行為に書かれていることにあると考えます。
取得後の昭和19(1944)年5月31日に改正認可された「財団法人立命館寄附行為」は、
第10条 本財団ニ於テハ将来其ノ資力ノ充実ヲ保チテ左ノ事項ノ実行ヲ期スルモノトス
そしてその六に、本財団ニ於テ山林及農場等ヲ経営シ生徒ノ勤労鍛錬ノ道場ト為シ土地ニ親シム勤労鍛錬ヲ以テ学園訓育ノ基本的施設ト為スコト
とあります。それ以前の寄附行為には上記の条文は見当たらないことから、立命館は山林や農場等を経営し生徒の勤労鍛錬、訓育の施設としたことが窺えます。
時代背景を考えると、戦況の悪化により学校に関係する戦時非常措置だけでも
昭和16(1941).10.16 「大学学部等ノ在学年限又ㇵ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」
〃 11.22 「国民勤労報国協力令」
昭和18(1943). 6.25 「学徒戦時動員体制確立要綱」
〃 10.12 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」
昭和19(1944). 1.18 「緊急学徒勤労動員方策要綱」
などの勅令公布や閣議決定が次々と打ち出されました。
また京都府は、「大東亜戦争記念林設置要綱」を制定し、昭和17(1942)年11月20日に「大東亜戦争記念造林設置奨励ニ関スル件」を市町村長、中等学校長、国民学校長に宛て通牒しました。
通牒は「今次事変勃発以来木材木炭ノ需要俄ニ増大シ……造林ヲ促進スルハ焦眉ノ急……全国的ニ大造林運動ヲ展開シ併セテ学徒青少年等ガ造林作業ノ実践ヲ通ジテ心身ノ鍛錬ヲ行ヒ広ク国民ニ国土愛護ノ精神ヲ昂揚セシムル事……」(「京都府広報」昭和17年11月20日)と、学校林および団体林の設置を奨励しました。
さらに昭和18年7月16日には、「大東亜戦争記念学校林造成奨励金交付ノ件」を通牒し、学校林造成実施について格段の配慮をするよう通牒しています(「京都府広報」昭和18年7月16日)。
こうした戦時の国策や行政の施策が実施されるなか、勤労動員先は企業の工場以外にも木材や食糧等の物資の調達のため山林や農場を確保することとなり、生徒の勤労・訓育の場となりました。
演習林取得とその後の寄附行為の改正は、そうした戦時の状況を反映しているのではないでしょうか。
(2)「督学報告」の勤労動員先
それでは立命館において、演習林が実際にどのように利用されていたのでしょうか。
昭和19(1944)年4月立命館では督学制度が始まります(注1)。中川総長が「督学」を任命し、督学は総長に毎月大学や中学校の学徒勤労動員など学校の状況を報告しています。
その「督学報告」のなかの立命館農林部作業学徒勤労動員出動表の昭和19年6月分には、衣笠農場(注2)に一中・三中・商業の生徒が勤労動員に出動、貴船山林に一中502人、商業672人が出動していることが記録されています。中学生はほかにも小倉村などへ麦の取入れや祝園部隊に軍需品の製造搬出作業などに行っています。
同年7月にもやはり衣笠農場と貴船山林に出動し、貴船では一中の219人が樹枝伐採、木材引下しの作業を行っています。
さらに、11月10日には二中の生徒が貴船山の作業に出動しています。
督学報告からは、農林部が衣笠農場や貴船演習林の作業を手配していたと思われます。
なお、一中は立命館第一中学校、三中は立命館第三中学校、商業は立命館商業学校で、北大路学舎(現在立命館小学校のある場所)にありました。また二中は立命館第二中学校で上賀茂神山校舎にありました。
(3)農林課
督学報告には農林部の存在が知られますが、同じ昭和19(1944)年12月29日、理事会は立命館基本機構および各部機構の設定を実施します。これは中川総長が10月7日に逝去した後の学園体制づくりですが、法人の事務部門を総務部・財務部・事業部・医務部とし、事業部のもとに農林課・企画課を設置しました。
この機構改革は、翌昭和20年1月6日の理事会で「立命館内規」として制定され、農林課は農林経営事務を統括し、教職員、学生、生徒の給食、学園に必要な用材、薪炭の補給等をその担当としました。
そして戦後、昭和21(1946)年1月6日の理事会で内規が改正され「立命館館則」に改められ財団の機構整備が図られます。法人事務部門として総務部・財務部・医務部が置かれ、総務部のなかに庶務課・人事課・農林課・校友課が設置されました。農林課は農林の経営企画を統括しました。
昭和23(1948)年2月現在の「立命館専任職員名簿」には、農林課長、農林技手の職名が見られますが、昭和23年5月31日の改正館則では農林課の課名は見当たらず、財務部経理課が不動産管理業務を担当していることから、農林部・農林課は戦中からこの時期にかけて演習林の経営を担っていた部門・部署であったと言ってよいでしょう。
(4)戦後の演習林
①演習林立木の利用と土地一部処分
昭和22年12月19日、評議員会は「基本財産貴船演習林立木及び土地一部処分」を決定しました。
新制大学への移行をはかるこの時期、学舎の狭隘と新学制の実施に対応するため、研究所、図書閲覧室、学友会館を建築するものとし、その用材を貴船演習林の立木三千石を伐採して充当すること。また京都府が黒田京都間の道路を拡築するについて道路敷として寄附をすることとなりました。道路が完成すれば著しく利便が増すとの判断でした。
評議員会の決定により、同月22日に文部大臣宛「基本財産処分について」により処分の承認を申請しています。
その内容は、貴船山林の松杉立木三千石を校舎増築のため処分すること、および府道敷のため鞍馬長ユリ7番地のうち419.025坪と貴船長ユリ5番地のうち321.825坪、計740.85坪を京都府に寄附するというものでした。
②間伐樹木の売却
昭和26年には演習林の間伐樹木2,791本(見込材積1,136.18石)および風害木約400本を356,582円で売却の契約をしています(注3)。ジェーン台風により被害を受けたことが契機となったようです。
(注1) 督学は戦時下の立命館財団一般事務の整備ならびに学園全般の教授、訓育、修錬勤労作業および保健等の振興について査察、督励をし、戦時国家の緊喫要請に応えることを目的とした制度(昭和19年「立命館督学規程」より)で、4名の督学が任命され実施されたものです。なお、当時文部省は、「文部省教学官規程」を制定していました。
(注2) 衣笠農場は、現在の衣笠キャンパスの一角に、当時は等持院校地と言われましたが、昭和23年頃までありました。農林部や農林課があったので、食料の生産、自給活動が実施されたと思われます。
(注3) 現在とは材木価格の比較が困難ですが、同年(昭和26年)の立命館大学一部文系
学部の授業料は年額9,500円でした。
以上、貴船演習林取得の経過と戦時期の利用、戦後の立木の利用・処分について概観しました。その後、山林・立木の鑑定評価も行っていますが、維持管理は委託により今日まで継続してきています。
2018年8月1日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次