立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2018.12.26
<創立者・中川小十郎 講演会開催>中川が目指した女子教育についての講演会が亀岡市で開催されました。
2018年9月9日(日)13:30~15:30 亀岡市「ガレリアかめおか」にて「明治時代の教育改革に取り組んだ中川小十郎の未来像~とくに女子教育について」と題する講演会が開催されました。
講師は立命館大学文学部 山崎有恒教授。主催は NPO法人 中川小十郎先生亀岡顕彰会(共催:立命館大学校友会亀岡校友会、後援:亀岡市・亀岡市教育委員会)で、72名の参加がありました。
講演では、近世日本の女子教育はどのようなものであったか、そして明治維新を経てどのように変わっていったかのお話がありました。
明治初期、初等教育では男女平等の教育を実現したけれども、高等教育では男女平等論と男女職分論に分かれ、後者の流れで女学校が誕生します。
そのような背景の中で中川小十郎は、東京女子師範学校校長であった叔父・中川謙二郎の薫陶を受け、女子教育の重要性を認識していきました。
中川は、男女それぞれに得意分野があって、互いを認め合って琴瑟和合することが大切であるという男女職分論をとりながら、男は「漢文」女は「ひらがな」という今の教育方法は、女子教育を、ひいては国力の発展の妨げになると考え、男女の文体を同じにする必要性を説きます。
この考えを論文「男女の文体を一にする方法」として、文部省懸賞に応募し一等となり、その懸賞金を全て投資して、雑誌「いらつめ」を発刊、文体の統一だけでなく、話し言葉と書き言葉を一致させる「言文一致運動」をすすめていくのです。
中川が描いた理想の日本社会像は、「男性だけだと粗雑で争いに満ちた、ぎすぎすとした社会ができあがる。『優柔温和』な女性がいてこそ社会は調和し、穏やかにまわっていく」というものでした。
それは現代の男女平等の視点とはだいぶ異なりますが、明治の時代にあっては画期的な発想であったのです。
山崎先生は、後に広岡浅子の側近として日本女子大学創立を支援するなど「女子教育のパイオニア」としての中川小十郎という、あまり知られていない側面を、エピソードを交えながらお話され、会場も感心しきりのようすでした。
2018.10.31
<懐かしの立命館>立命館中学校・商業学校の「御楯の井」― 井戸をめぐる中川小十郎の教育観 ―
<被災者を救った井戸水>
この豪雨によって、高野川が氾濫し、川底に引かれていた導水管(上水道のための大鉄管)が破壊したため、松ヶ崎浄水場(注1)からの送水が不能となりました。新聞報道によれば、高野川の氾濫による被害者が25万人にも達した原因は、鴨川の改修工事が行われている最中での豪雨だったため、土砂などがそのまま放置されてしまったことからでした(注2)。この時の市内では、他にも白川、天神川、安祥寺川などいくつもの川が決壊していました。導水管の破壊によって、北大路以北一帯の水道が8月2日夜から全部断水になってしまいました。
8月3日早朝、中川小十郎校長の判断と倉橋勇蔵主事(注3)の臨機の処置によって、学校の井戸水を付近住民に供給することとして、正門の他に非常門を開放し、給水を開始しました。そして、これを広報するために小使さんとよばれていた職員を学校周辺の住宅へ触れて回らせています(注4)。掲示板には次のように書かれていました。
「浄水道断水のため飲料水に御不自由の方は御遠慮なく本校の井水をお使ひ下さい」
これにより2,000人以上の市民が救われたといいます。
【写真1 1938(昭和13)年9月発行の『立命館禁衛隊』第86号の表紙で紹介された正門の様子】
<「御楯の井」と立命館>
非常用飲料水となった井戸水は、校内では「御楯の井」と呼ばれていました。
1933(昭和8)年10月に天皇が京都に滞在した時に立命館中学校・商業学校の校地内に掘削されたもので、名の由来は万葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」(注5)に因んで中川校長が命名したものです。
【写真3 『立命館要覧』1934(昭和9)年版に掲載された「御楯の井」】
【写真4 万葉集の歌が刻まれた「御楯の井」の碑 立命館 史資料センター】
井戸の開削後に京都市の衛生試験所で検査を受けて、飲料水にも適していると証明されていましたが、立命館中学校・商業学校では中川校長の指示によって、1934(昭和9)年9月1日から「禊」に使用されていました。その方法からすれば冷水摩擦で、昔からの健康法の一つでした。それを中学校・商業学校では、中川校長が「禊」と呼んで、神官が神に奉仕する前に身を清めるという大切な行事と同じように心を清める修行とし、体も鍛え清める行事として生徒たちに励行させていました。
新入生は、朝7時前から登校し、この禊を行いました。正門を入って左手奥に「御楯の井」があり、禊が行われる校庭の西側は禁衛隊道場の「西の道場」(写真5)と呼ばれ、その禊が終われば、全生徒教職員が御所に向かって遥拝を行うのでした。
【写真5 禊を行う生徒たち『立命館禁衛隊』第58号 1935(昭和10)年11月】
【写真6 運動場の境界に建てられていた禁衛隊道場の碑 立命館 史資料センター】
【写真7 禊の後、御所に向かって遥拝
生徒たちの向こうに並ぶのは禊のための個人用バケツ 1934(昭和9)年頃】
1938(昭和13)年8月に京都市が暴風雨に見舞われるよりも3ヶ月早くに、立命館中学校・商業学校では、耐火耐震に備えた鉄筋3階建で2,000名を収容する校舎が完成していました。地下道は、将来の戦争に備えて生徒たちや近隣住民が避難できる防空壕にもできるように造られていました。「御楯の井」もこれにあわせて更に掘削を進め、ポンプによる汲み上げと配水管と蛇口などが備えられていました。これによって、生徒たちが神聖な水として禊に使用していた「御楯の井」は、自然災害による緊急事態にあって、人々を救う水として役立つことになったのでした。
同じ年の5月、立命館中学校・商業学校では中川校長の発案で竹製のランドセルを生徒たちに使用させています。これは国策に沿った目的で皮革の節約をするもので、これに続いて6月には登下校での下駄や草履を京都府下で一番に実施しています。中川校長は、戦時だけを意識するのではなく、自然災害による非常事態への準備も強く考えるようになっていました。今回の「御盾の井」の給水は、こうした考えからであったといえます。
【写真8 臨時の給水所の様子『立命館禁衛隊』第86号】
結局、断水期間は6昼夜続き、8月9日の朝、ようやく上水道の給水は復旧しました。
中川校長は、公共建造物には井戸の設備が必要と説いていたそうで、今回のような断水がそのよい例となったわけで、「立命館中学校・商業学校の非常給水の状況は、鈴木敬一京都府知事を通じて荒木貞夫文部大臣(第一次近衛文麿内閣)へ報告」されたと記されています(注6)。
【写真9 「御楯の井」が刻字された碑 立命館 史資料センター】
<「御楯の井」の戦後>
この「御楯の井」は、連合国軍総司令部による検閲を恐れた学校関係者によって終戦後に埋め立てられてしまい、その姿を見つけることはできませんでした。その井戸に銃などの武器が投げ込まれて埋められたという話だけが、伝説のように長く語り継がれていました。井戸はなくなりましたが、「御楯の井」の碑は、北大路の校舎の片隅に置かれて生徒たちのベンチとして愛用され、深草キャンパス移転後は、通用門の横で誰にも気づかれない状態で放置されていました。現在は、戦前の貴重な学園史を語る資料として史資料センターに移され、ひっそりと保存されています。
2018年10月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1 当時の松ヶ崎浄水場の送水は、三宅八幡、深泥ヶ池、上賀茂、鷹ヶ峰、蓮華谷、金閣寺、衣笠、宇多野、鳴滝、北白川、吉田、鹿ヶ谷と広範囲であった。
注2 京都日出新聞 1938(昭和13)年8月6日付
注3 1930(昭和5)年4月に立命館中学校教諭。中学校鍛錬部長、立命館第二中学校校長などを経て、理事、専務理事などを務める。
注4 大阪朝日新聞 1938(昭和13)年8月6日付
注5 万葉集巻二十・4373 作者は火長今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)
注6 立命館禁衛隊 第86号
2018.10.16
<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・前編)
小西重直学監と全国大会
1.立命館と中等学校野球
今夏、第100回の節目を終えた全国高等学校野球選手権大会(1942年から45年は戦争のため中断)は、「夏の甲子園」とも呼ばれ、その歴史から高校生スポーツのひとつの象徴のように発展してきました。旧学制が残る1947(昭和22)年までは全国中等学校優勝野球大会(以下、全国中等野球大会)という名で開催されています。立命館の付属校は、この全国大会代表を決める京津大会(1972年までは京都と滋賀との代表1校が全国出場)に1915(大正4)年第1回大会から1935(昭和10)年第21回大会まで連続出場していましたが、翌年の第22回大会から不参加となっています。
立命館が中等野球大会の参加校に再び名を連ねたのは、戦後に再開とされる1946(昭和21)年の第28回大会(大会名は翌年から全国高等学校野球選手権大会に改称)からでした。
付属校の野球部(硬式野球部として)の全国大会出場は、戦前の中等学校時代に夏の大会2回で選抜大会1回、戦後の高等学校になってから夏の大会1回で選抜大会3回です(注1)。
2.野球部の創設(運動部の草創期)
現在の立命館高等学校硬式野球部(全国的に戦前の中等学校は硬式野球のみ)は、立命館中学校・高等学校の前身である私立清和普通学校が設立された翌1906(明治39)年、清和中学校の開校時には創設されていたとされています(注2)。
創部からしばらくは、熱心な卒業生たちが時々技術指導にきてくれる程度でした。1913(大正2)年、清和中学校から私立立命館中学へと校名が改称され、京都帝国大学から教育学教授小西重直が学監(注3)として就任します。後に、大正自由主義教育の西日本における旗頭と呼ばれた小西が、私立学校による中等教育全体の改造を志向する中川小十郎の期待をうけて、立命館の教育改革に大きくのりだすことになったのでした。
(写真1 学監小西重直)
その教育方針の中に「運動を奨励し元気を振起せしむること」という指導も含まれていました(注4)。しかし、現実の運動部の活動は容易に結果がだせず、小西学監が就任して3年目の当時の新聞には次のような厳しい記事が書かれていました。
「市内の私立中学では、立命館中学、東山中学等は未だ運動部として見る可きものがない。殊に立命館中学の如きは市内各中学の運動部に其の存在さへ認められて居らぬ。」
(注5)
(写真2 中学校野球部の最古の写真 広小路学舎時代 1917年)
胸のKRMSはKyoto Ritsumeikan Middle School の略 「立命館中学の過去現在及び将来」
3.大正後期における野球部の隆盛(運動部の黄金期)
小西学監は、運動部の活動は「生徒の自治にまかせ学校は成るべく之に干渉せざるを方針とし」、学校としては「運動各部の発達につきては出来るだけこれが奨励と援助」をおしまないと考えていました。そして、野球部には「勝負の念に駆らるるや徒に目的のために手段を択ばざる陋劣狡獪の風に陥り、又、いわゆる応援団なる者の粗暴野蛮の行動に出づる等の憂なきにあらず」(陋劣狡獪=卑劣で悪賢い)とその問題点を指摘しながらも「本校は深くこの点を戒め、選手も応援者も共に正々堂々の態度を執らんことに努めしむ」と特別の指導を進めるとしていました(注6)。
その後、小西実践は学習面で進学率向上の大きな成果を出すだけでなく、運動面でも着々と成果を上げるようになり、就任10年後には驚くような結果を残すことになりました(注7)。野球部だけをみても全国大会予選の京津大会では以下のような戦績を残しています。
*第1回大会に参加した京都の私学は、立命館、同志社、大谷、東山、平安の5校。
*第4回は地方での予選大会後に米騒動が起こったため、全国大会は中止。
立命館中学は、1914(大正3)年からの奈良遠征に始まり、大阪や名古屋、東京にまで遠征を行うようになり、京都の三高や大学へ進学後も野球を続けている卒業生たちが練習でのコーチを担当し、その実力を高めるようになりました(注8)。
1922(大正11)年、立命館中学は彦根中学(滋賀)に勝利して初の全国大会出場権(第8回大会)を獲得しました。
4.立命館中学の全国大会での活躍
当時の全国中等野球大会は兵庫県の鳴尾球場(現、西宮市)で開催されていました(注9)。中等学校野球への人気は年々高まっていて、第8回大会の予選参加が229校(第1回は71校)で、全国各地の予選を勝ち抜いた代表16校(満州と朝鮮の代表も含む)での開催でした。高まる野球熱によって不正参加が発生したため、予選から参加規定が厳しく改正されていました(注10)。
立命館中学は、1回戦で南満州工業を6対3で破り、2回戦(準々決勝)の相手は、大会連覇を狙う和歌山中学でした。1対4での敗戦でしたが、優勝候補を相手に善戦でした。
この試合が終了して退場の際、立命館の選手と応援団一同が場内整理(ゴミ集め、清掃など)をしたことが立派な態度であったと翌朝の新聞に報道され、大会関係者からも大きく賞賛されました(注11)。当時の立命館では、「応援が一般的に節制なく粗暴野卑に流れやすく、秩序を乱し競技の妨害となりやすいとして、予め責任者を定めて応援歌を合唱し、個人の気ままな放言を禁じ、勤めて節制のある行動をとらねばならない」(注12)とし、野球の応援に野次と喧嘩が絶えなかった頃に、応援マナーとしてのファインプレーを行っていたことには驚かされます。
小西学監によって、スポーツは勝敗のみを追求するためだけのものではなく、スポーツは生き方を学ぶものという教育が当時の立命館中学で行われていたとも考えられるのではないでしょうか。
大会では立命館を破った和歌山中学が優勝し、大会史上初の連覇を果たしました。
翌1923(大正12)年、立命館中学は京津大会決勝で京都一商を破り、第9回全国大会への連続出場を果たしました。全国出場祝賀会の最後には、立命館応援団は阪神電車鳴尾駅に集合して隊伍を整えて会場へ練り込む予定だと発表されました(注13)。その応援歌も生徒から募集したもので定めていました。大会当日には、隊列を整え立命館応援歌を合唱して球場へと向かったのでした。
運動部応援歌
一、いざや立て我が立命の
鍛へたる腕をためすは
いざや立て霊香高く
健児等の向上の意気
いざや立て音にも聞けよ
覇者たらん我立命の
ララララ リツメイ
二、健男児比叡颪に
この時ぞ振へや振へ
栴檀は既に芳し
天を衝く振へや振へ
目にも見よ是関西の
健児等ぞ振へや振へ
ララララ リツメイ
ララララ リツメイ
ララララ リツメイ
予選参加校は前年よりも更に増えて243校で、全国大会出場は代表19校。人気はさらに高まり、野球場への観衆も大きく増えました。開会式での演出効果として初めて飛行機の祝賀飛行が行われ、始球式用の新球が投下されました。
1回戦不戦勝で、2回戦は台北一中(台湾から初参加)を23対4という大差で破りました。3回戦の相手は徽文高普(朝鮮)でした。朝鮮では三・一独立運動(1919年)を契機に、高等普通学校におけるスポーツ振興が盛んとなっていた頃で、選手全員が体格のよい朝鮮人のチームで、その活躍を期待して大阪や神戸に在住の多くの朝鮮人が応援に駆けつけていました。興奮が渦巻く大観衆の中、立命館の選手たちの緊張感はさらに高まって試合は開始されました。
この時の立命館の戦いぶりが、徽文高普の特徴と併せて次のように紹介されています。
徽文高普は、荒削りであったが、腕っ節が強く、人々を面食らわせたのはその走塁で、「球が目の前に見えてなければ何でも突っ走る」と評判されていただけに、走りに走りぬいた。相手になった立命館は、走者を三本間にはさんだが、普通なら途中で止まるかとの予想を闇雲に走られてしまい、ついに送球する間を失って追いかけたところ追いつけず、本塁を奪われて、何てまずい挟撃の仕方だなどと酷評された。(注14)
4回戦は準決勝で、8月19日の日曜日午前10時が試合開始予定でした。相手は初出場ながらも勢いにのる神戸の甲陽中学。地元の出場とあって、徹夜組のファンが早朝から仮設スタンドを占領し、ロープが張られただけの外野席からは、押された観衆がどんどんと場内になだれ込んでしまいました。そのため試合開始が1時間以上も遅れてしまい、大会関係者は準決勝の第2試合の開始時間を早めて第2グラウンドで行い、観衆を分散させることで混乱の収拾につとめました。
連続出場で実力も評価されていた立命館でしたが、相手応援団の大声援にのまれたのか、選手たちの失策が多く、大差をつけられての敗戦となりました。甲陽中学は、この勢いで決勝も勝利し、初優勝を果たしたのでした。
敗れはしたものの、レベルの高い関西にあって立命館中学の実力健闘とは、全国的にも知られるようになりました。
この1923年には立命館大学に野球部が誕生しています。弟分になる立命館中学が先に全国大会で活躍していたことが刺激となって、学生たちの間にも野球熱が湧き上がってきたのかもしれません。
(写真3 日常のすべての運動部が活動を行っていた狭隘な北大路校舎木造時代の中学校校庭
昭和8年卒業アルバム)
野球部は練習不足を補うため、東寺中学の運動場などを借用して合宿などを行った。
1924(大正13)年4月には、後に春の選抜大会となる第1回全国選抜中等学校野球大会が名古屋の山本球場で開催されることになり、前年の実力を評価されて選抜される8校に立命館中学も選出されました。しかし、残念ながら1回戦で実力校の愛知一中に3対16の大差で敗れ去りました。
その後は、3年連続出場をかけて第10回全国大会予選大会に臨み、準決勝で平安中学を23対0で破る快進撃で決勝へと進みましたが、同志社中学に4対6と逆転されて敗れました。これによって、3年連続出場と、完成した甲子園球場(注15)での最初の出場校という二つの夢は消えてしまったのでした。
なお、甲子園で校歌斉唱が行われるようになったのは、春の選抜大会が1929(昭和4)年から、夏の大会は1957(昭和32)年からのため、立命館中学が勝利した時に球場で校歌は歌われていませんでした。例え歌われていたとしても、現在の学園歌が誕生する以前に制作されていた立命館中学の校歌だったことになります。
