立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2018.10.16

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・後編)

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・前編)へ 


 中川小十郎校長と野球禁止

 

1.立命館中学の大正黄金期以降の中等野球

 1927(昭和2)年8月、小西学監が退任した後は学監という職はなくなり、主事が校長と改称されます。翌年4月には館長に就任した中川小十郎が校長を一年間だけ兼務しています。

その後の野球部の活動は、「立命館学誌」や「立命館禁衛隊」に紹介されています。監督には、かつて全国大会で主将としてプレーした卒業生の米田虎雄(大正12年旧中卒。京都薬学専門学校進学)が就任し、全国大会出場を目指して練習に励みました。その指導ではルールを守り、礼儀やマナーを厳しくされたようで、「立命館学誌」には次のような紹介が残されています。

 「規律の正しさと紳士的プレーは遂に朝日スポーツ記者をして、大会の亀鑑との賛辞を呈せしめ、運動競技を通じての人格陶冶の好模範とまで称せられた。特記すべきは我がナインが大会中、終始挙手の礼で通したことと、胸間に国字(ママ)(注16)のマークを印して群る各校選手中に異彩を放ったことである。本年の我が選手は何れも下級、殊に2年級を中心として作られた大会中、稀に見る愛くるしいチームである。」(注17)。

当時の野球ブームが全国的に過熱化していたにもかかわらず、選手登録13名中2年生

6名、3年生3名、4年生4名という編成は、中学校が5年制の当時にあっては、戦力的に厳しいものでした。

 

 中川校長の後任は、卒業生で教員となっていた塩崎達人でした(注18)。母校愛に燃える塩崎校長は「野球部を語る」と題した文章のなかで、当時の学校教育における野球部の課題と立命館精神とはどのようなものかを語っています。塩崎校長の次に再び中川校長が登場するまでの立命館中学校の教育の特徴をよく知ることができます。(以下は抜粋)

 

一、野球部の根本精神

 野球を介して立命館主義の訓練を行う。

二、選手の人選方法

    修学の都合上、主として下級生の中から学業成績「中」以上の者で、心身よく長期の鍛錬に耐えられる初心者を選ぶ。

三、訓練について

練習は雨でも毎日2時間実施。指導者には敬礼し挙手の礼をすべし。球場に於ける動作は全て学校教練に準ずべし。練習は中学生としての基本のもので、高等学校のようにハイカラなことは行わない。

四、服装について

野球衣(ユニフォーム)は質素なる無地白色で、胸章は立命館の三文字を用いる。現在のものは、カツラギ地の上下に白色の帽子、木綿の白色靴下で、その質素なこと天下無比と信じている。着るもので拙攻が定まるものではない。
 胸章は、以前はローマ字綴りでリツメイとしていた。米田監督が全国大会に出場した時もこれであった(注19)。その後、数ヶ年は帽章をそのまま胸章に使用してきたが、今回いよいよ立命館の文字を用いることにした。この胸章によって国粋チームの名を頂戴すれば、逆に、反動?や猟奇?などと批評もされた。われわれの心持はそのようなものではない。この文字は、2年前に学校の守り本尊として中川館長によって講堂正面に掲げられた扁額の文字で、立命館のすべての歴史はこの扁額のもとに展開されていく。人気取りのための策などではなく、立命ツ児の心持は立命ツ児のみぞ知るである。

これは野球部に限られた問題ではない。諸君ともどもに各方面に於いて立命館らしい立命館をつくりあげる工面をしようではないか。  以上が抜粋(注20) 

 

(写真4 1928年 中学校の講堂正面に掲げられた扁額)

 

 この時の立命館中学校について、当時の新聞が次のように述べています。

「出場34チームの中、異彩を放っているのが立命館チーム。ユニホームは漢字で右書き斜めに立命館と印し、挨拶は必ず軍隊式の挙手の敬礼。中澤委員長の訓示に対し挙手の答礼をなし、満場拍手して厳粛さに讃辞を呈す。」(注21)。

立命館中学校の野球部が、スポーツとしての技能向上よりも、心身練磨のための場と変化していたことがわかります。

 

 当時の野球人気は、日本全国、小学校から中等学校、大学まで過熱気味に広がり、文部省が規制の方向へと動いています。というのも、新聞社などがこの人気熱を利用して興業的に利用して大会を無秩序に増加していたのでした。文部省はこれらを制限して、府県の体育団体に管理されるようにしました(注22)。この点では、全国的野球ブームが過熱化していくなかにあって、立命館中学野球部の活動は異色の存在であったといえます。

 

(写真5 1930年 人々を驚かせた斬新なチーム名)

京阪電鉄京津線沿いを歩いて緑ケ丘球場(滋賀県大津市藤木)へ向かう生徒たち

 

 

(写真6 1931年 上段の中学校陸上部の胸には襷がけに書かれた校名

写真下段は商業学校陸上部。両方の中央に写るのは塩崎校長)

 

立命館中学校は、第11回大会以降の予選京津大会で上位に残れず、次にベスト8以内に名が出てくるのは、1932(昭和7)年の第18回大会での立命館商業学校(注23)で、これが戦前での最後となりました。その翌年の卒業アルバムでは校名のデザインが再び変更されていました。

 

(写真7 1933年 再び変更された胸の校名 中学校卒業アルバム)

 

ここまでに登場したユニフォームの胸の校名を見ると、30年ほどの間にローマ字表記の「KRHS」から漢字表記「立命館」へと移り変わっていました。その変遷のなかにも立命館中学校の目指していた教育の姿が見えてきます。

 

2.中川小十郎校長と野球(西洋スポーツ)

 ここまでの立命館中学校野球部の活躍は、創立者中川小十郎が館長として専念する1925(大正14)年8月以前のことでした。1931(昭和6)年になって中川が初代総長に就任し、学園の運営に本格的にのりだしました。そして、1933(昭和8)年8月から1941(昭和16)年3月までの間、中川は総長と中学校・商業学校長を兼務し、中等教育の経営とその発展に積極的に取り組んでいくことになります。

 

(写真8 校長兼務の中川小十郎総長)

この中川校長在職中に、立命館中学校では運動競技に対する方針が大きく変更されていきました。1933(昭和8)年1017日、就任早々の中川校長は、京都府男子中等学校陸上競技大会(植物園グラウンド)に3年生以下を全員参加、また同じ日に開催された全立命館学園大運動会(立命館上賀茂グラウンド)に4年生以上を全員参加させ、翌日にはその生徒たち約1,200余名全員(不参加者も含め)に演習的作文を書かせ、優秀作品には賞を与え、全員の作文を印刷して12月には全生徒の父母に配布するというような指導を行っています。

対抗戦や体育的行事に全生徒で取り組み、生徒たち一人ひとりの意識を高揚させ、教員全員で理解していこうというものでした。ここには、中川校長の運動・体育への積極的な受け入れ姿勢を見ることができます。


(写真9 中学校商業学校生徒全員に書かせた1933年の作文集)

   

ここでは、生徒に運動・スポーツを積極的に取り組ませようとする考えもあったかと思えますが、その後に中川校長は全く反対の方向へと進んでいったのでした。

 

1935(昭和10)年の9月からその変化がはっきりと示されていきます。

まず、「勉強の第二学期が来た」との題名で書かれた校長公示の中で、

「運動競技の場合などは最後の五分間を非常に重んずるが、人生の成効(ママ)はそんな軽々しいことで獲られるものではない。これも、私が競技運動に感心しない事由の一つである。(中略)最後の五分間主義は点取り主義だ。試験にさえ合格すればそれでよいとする主義だ。しして、この主義が進展する場合にはそれがカンニング主義となるのだ。」(注24

日々の努力をコツコツと積み上げる努力をするのが立命館の生徒であるとして、試験におけるカンニング行為は退学処分にするとしています。その年の9月には、毎朝授業開始前に冷水で上半身を清める「禊」行い、生徒たちの心身を清める行事として励行させています。

 また、1935(昭和10)年第2学期始業式で中川校長は

「本校では生徒の勉強の妨げとなる様な事は一切やらぬ積りである。即ち、運動会廃止は勿論、市内中等学校の連合競技会等にも参加を御断りするのである。(中略)

  立命館は天下の立命館である。区区たる京都一地方を目標としているのではない。従って市内各学校の連合競技会だの対抗仕合(ママ)などに依って、勝ったの負けたのと騒ぎ立てる様な根性ではだめだ。諸君の本校に学ぶ目的は、天皇陛下の為め、国家の為め、世の為め、人の為めに大いに仕事の出来る人間となる事である。諸君はその積りでしっかり勉強せねばならぬ。」(注25)

と改めて運動スポーツに対する考えを生徒たちに述べています。

  このような考えによって、立命館は翌10月に植物園グラウンドで開催された京都府男子中等学校陸上競技大会への出場を辞退しています。2年前には3年生までの全員に応援させた大会への不参加は、世間からも驚きの目で見られたようで、1936(昭和11)年3月に市内小学校長を招待した場で改めて、中川校長は学校としての方針を説明しています。

「私の考では学校が学校として行ふべき事は極めて多く、貴重なる時間と充分でない費用とを投じて迄スポーツを行ふ程スポーツそのものに価値がないと思ふのである。特にスポーツを選手制度の下に行ふことは極めて面白くない。学校はあくまで学業を主としスポーツとしては日本固有の武道によって身心を練る方が肝要である。」(注26

 

更に4月の中学校商業学校入学式でも父兄への挨拶のなかで

「この学校では、運動といふものを全然認めないのである。野球も、庭球も、陸上運動も一切やらない。何人かのものは運動を楽しみ、後の大多数のものが、応援団などといって騒ぎまはるのはくだらぬことではないか。この学校では運動はやらないが、武道をやる、武道は精神の鍛錬にもなるからである。武道の内剣道をやる。柔道はやらない。柔道は、武士道鍛錬の正規の課業になっていないからだ。」と述べ、明確に立命館の付属校では選手中心の西洋スポーツを断固実施しないことを表明しています(注27)。

 

 1936(昭和11)年4月、野球、庭球、籠球(バスケットボール)、排球(バレーボール)、陸上に柔道を加えた6つの運動競技が立命館中学校・商業学校の生徒スポーツから削除されました。当時の新聞には、「全スポーツを排撃する 日本唯一の愛国中学」の見出しで立命館中学校商業学校を大きく紹介しています(注28)。

これらの学校の決定に対して、生徒たちの反応はどうだったのでしょうか。これも同じ日の新聞記事の中で

 「当時、野球部員は学校横暴を(ママ)らして同盟休校などの措置に出ようとしたこともあったようだが、新時代の潮流の前には施す術もなく、今ではこれら選手が中堅に転じ皇室中心の奔流となっている。」

と、生徒たちの反応も協力的であったと伝えられています。こうして、野球のダイヤモンドは取り払われて教練場となり、庭球、籠球、排球等のコートは銃剣道、槍術の道場となり、ボールやネットがすべて銃、背嚢はいのう、飯盒に変わってしまったのでした。

 

(写真10 教練場や道場となった北大路学舎の校庭を整備する生徒と中川校長)

 中川校長の教育方針によって、中学校や商業学校の体育や運動は大きく変わってしまいましたが、立命館大学では違っていました。野球だけを見ると、1943(昭和18)年4に文部省が発表した「戦時学徒体育訓練実施要綱」によって東京と関西の大学野球連盟は解散となり、野球はできなくなりました。429日に京都の西京極球場で開催された「立同戦」が最後の大学野球となったのでした(注29)。
 中川校長の方針により、戦争による中断よりも早く1936(昭和11)年をもって中学校・商業学校に野球を禁止していますが、同じ立命館学園にあって、大学は1943(昭和18)年の政府の方針発表まで続けることができたのです。この差異はどこにあるのでしょうか。創立者中川小十郎が小西重直と共に目指そうとした立命館での中等教育が、大正から昭和にかけて大きく変化したことは、今回の野球部の歴史を辿るなかでも明らかになりました。中川総長が校長を兼務しながら目指した中等教育における生徒像の分析は、今後の中川小十郎研究にとっても大きな課題となっていくと考えられます。

 

(写真11 1939年の中学校卒業アルバム)

 現在、立命館中学校・高等学校(長岡京市)に残されている1939(昭和14)年の中学校卒業アルバムの中に1枚だけ不思議な写真が掲載されています。ユニフォームの胸には二つのチーム名。帽子には異なるけれどもRのマーク。立命館中学校の制服制帽姿のままの生徒もいます。背景の山々からグラウンドは植物園のようです。中川校長によって野球禁止が決定された後の学年の卒業アルバムで、学校の点検も受けているはずなのに、なぜこの生徒たちの写真が含まれているのか。禁止後もなお野球に取り組んでいた生徒たちがいたことは確かです。軍事教練の写真が多くを占めるような卒業アルバムの中に、このような写真が1枚含まれていることに救われます。


<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦後編)へ

2018.10.16

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦後編)

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・後編)へ


中等学校での野球復活と新学制での全国大会出場

 

1.戦後復興の中等学校野球

1945(昭和208月の終戦直後の国内の混乱は甚だしかったですが、軍国主義につながるとして武道が排斥されたことや、GHQ特にアメリカ駐留軍の影響もあって野球が流行しました。教材も十分揃わなかった六三制の義務教育では、体力のついてきた中学生に対して野球がもっとも取り組みやすい体育スポーツとなったことなどに助けられ、学校野球は指導者や関係者の努力によって復活への努力がなされます。当時に流行となった川柳「六三制 野球ばかりがうまくなり」が広まったように、野球ブームは中学生を中心に一気に巻き上がり、終戦一年後には早くも全国中等野球大会が復活されたのでした。なかでも、大きな戦災を蒙らなかった京都にあっては野球部の再建される学校が多く、立命館でも野球をやりたいという生徒たちが集まってきていました。

卒業生で野球経験者あった蜂谷留吉(昭和12年商業学校卒)が教員として母校に戻ったのは1945(昭和20)年10月のことで、すぐに立命館第一中学校に硬式野球部を復活させました。蜂谷は在学中に野球部に所属していて、最終学年の時に中川校長の野球禁止令によって野球を中断しなければならなかった生徒の一人でした。

1946(昭和21)年の復活予選京津大会には、立命館第一中学校と商業学校、それに上賀茂の立命館第二中学校(注30)の三つの付属校が参加した記録が残されています。

中川校長が亡くなったのが1944(昭和19)年10月で、その一年後には敗戦を経て民主化への改革が大きく進められていきました。しかし、学校環境が急激に変化することはなく、立命館の北大路学舎の狭隘な運動場は戦前のままでした(写真12)。それでも、生徒たちは荒廃した社会に向かい合いながらも、野球のできる環境に感謝して、蜂谷監督の下で日々練習に励んだのでした。

 

2.戦後の中学校・高等学校の活躍と全国大会出場

1948(昭和23)年、新学制によって誕生した立命館中学校・高等学校は、京都の中高野球界のリーダーとなりました。「立命館中学校(軟式野球)は京都府代表として甲子園球場で開催された連合国軍師団長杯争奪近畿大会に出場しました。単なる対校試合のような大会で、残念ながら一回戦で敗退」しています(注31)。GHQは、戦後の民主化改革にあって、青少年のスポーツをアメリカの野球主導で進めようと考えていたのでした。とはいえ、中学校が最初に甲子園の土を踏んだのでした。

この年に、高等学校硬式野球部は新制高校の第1回近畿高等学校野球大会(大阪・藤井寺球場)に府代表として出場し、決勝で延長19回を戦い抜いて優勝を遂げました。1954(昭和29)年の春には、戦前からの夢であった甲子園に立つことができました。蜂谷監督は、中学校と高校の両方で甲子園の土を踏んだのでした。

少し遅れて、高等学校軟式野球部も1970(昭和45)年と1987(昭和62)年の2回を北近畿代表として全国大会への出場を果たしました。また、中学校野球部(軟式野球)も2001(平成13)年と2011(平成23)年と2回の全国中学校野球大会に出場し、立命館中学校・高等学校野球部による全国大会出場が実現したのでした。

 

(写真12 戦前から変らない狭い校庭に作られたバックネット 1955年卒業アルバム)


 (写真13 1948年の近畿大会優勝時の3年生 卒業アルバム)

前列中央が蜂谷監督 この時の校名は「RITUMEI」

(写真14 1955年選抜大会 甲子園球場

 

(写真15 1955年の選抜大会 胸のローマ字校名は「RITSUMEI」

野球部の校名はローマ字で中高統一されている。

 

(写真16 1970年 高等学校軟式野球全国大会 大阪藤井寺球場)


2018年10月16日立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博


 

注1 夏は1955年。選抜は1954年、1958年、1983年。春夏併せて4回の出場

注2 「立命館中学の過去現在及び将来」19183月発行

注3 学監とは、本校教育の方針を樹立し、且つ教育の全体を監督指導し、又本校と立命館本部及同大学とに関係せる重要なる協議に関与する。(前掲「立命館中学の過去現在及び将来」)

注4 「教育の3つの目的」のための「10の指導方針」(前掲「立命館中学の過去現在及び将来」)

注5 京都日日新聞 「青年の生命は運動だ」 1916(大正5)年112日付

注6 前掲「立命館中学の過去現在及び将来」

注7 旧制高校への進学者数は、府立中学校と肩を並べるほどになり、相撲部は団体・個人で全国・関西大会を制し、ラグビー部は全国大会準優勝、陸上部は府大会で上位入賞するなど(立命館百年史 通史第一巻)

注8 立命館中学同窓会誌「清和」第4号~第9号 の野球部報。

注9 12回は大阪の豊中球場で開催。第3回から第8回までが鳴尾球場。

注10 三月までに進級しなかった者(わざと留年して出場する者の防止)、転校編入後満二学期を経過しない者(有力選手を引き抜いてすぐに出場させない)には参加資格が認められないこと、校医の診断による健康の保証が必要という2点が追加された。(高校野球優勝物語 廣瀬謙三・松井一之共著  恒文社 1975年発行)

注11 朝日新聞 1922(大正11)年815日、818日付

注12 前掲「立命館中学の過去現在及び将来」

注13 高校野球優勝物語 廣瀬謙三・松井一之共著  恒文社 1975年発行

注14 立命館学誌 第135号 1930(昭和5)年915発行

 

注15 9回全国中等学校野球大会で、観衆の大混乱によって試合運営が困難となったため、十分な観客席を備えた本格的野球場が早急に必要とされた。翌年の大会に間に合わせるように建設が急がれ、192481日に竣工したのが甲子園球場であった。

注16 国字とは、漢字の字体にならって日本で作られた文字のこと。立命館の文字は国字にあたらない。当時は、多くの学校が校名の頭文字だけをアルファベットで表示したり、校名をローマ字で表記していたようで、立命館が校名を漢字で表記したことを強調したかったのではないかと思われる。

注17 立命館学誌 第135号 1930(昭和5)年915日発行

注18 1911年清和中学校卒業。校長在任期間19294月~19337

注19 塩崎は、1921(大正10)年に立命館中学教諭となっているので、母校の2回にわたる全国大会出場をスタンドで応援していた。

注20 立命館禁衛隊 第10号  1930(昭和5)年9月発行

注21 大阪朝日新聞 1930年(昭和5)年725日付

注22 文部省訓令第4号「野球ノ統制並施行ニ関スル件」

1932(昭和7)年41日発令

注23 中学校と同じ北大路の校地に1929年(昭和4)年開校

注24 立命館禁衛隊 第56 1935(昭和109発行

注25 同上「第二学期始業日に方て中川校長の訓示―中学商業三年生以下一同に対してー」

注26 立命館禁衛隊 第62号(昭和11)年3月発行

 「小学校長招待日に於ける中川校長挨拶」要旨

注27 立命館禁衛隊 第63号(昭和11年)4月発行 

新入学父兄に対する中川校長の挨拶

注28 京都日日新聞  1936(昭和11)年122日付

「皇室中心主義の旗幟を高く翳し千七百名の生徒と七十名の職員が一丸となり、在来のスポーツといふスポーツを悉く排撃し各人が満身これ“日本精神”に凝っているといふ全国に珍しい中等学校があり、国体明徴の巨弾を教育会に投げている。」

注29 立命館史資料センターHP <懐かしの立命館>戦前「最後の立同戦」

注30 1941(昭和16)年開校で、1946(昭和21)年には立命館神山中学校、翌年に立命館神山高等学校となっている

注31 「私と中学野球」蜂谷留吉 「京都市中学校野球50年史」京都市中体連野球専門委員会編

2018.09.19

<懐かしの立命館>学生証

1.学生証とは

 大学に入学すると交付される学生証。学生証は学生であることを証明するものです。

 現在の立命館大学の学生証は、以下の場合に必要となり、常に携帯することが求められています。

 定期試験の受験、各種証明書の交付、図書館等の本学施設の利用、本学教職員等から提示を求められたとき(『学修要覧(全学部共通編)2018年度用』)

 学生証はこのように定められ交付されていますが、学外においてもJR等交通機関の学割や通学定期券の購入、博物館等の入場料の割引などに利用されることなどがあります。

 今回は、立命館大学の学生証の変遷、歴史を紹介します。

 



2018年度の学生証(見本)

 

 現在の学生証は入学を許可されると交付され、在学中使用することになりますが、裏面には1年ごとに在籍確認シールを貼ることになります。転籍・再入学を除き学生証番号は変わりません。

 裏面には必要事項を記載するようになっていますが、通学定期の発行控も記載するようになっています。

 

2.立命館(大学)の学生証の起源

(1) そもそも立命館大学の学生証はいつから発行されたのでしょうか。

学生証の発行は学則に定められていますので、学則を遡ってみます。学生証が学則に初めて現れるのは、昭和44月改正施行の立命館大学専門学部学則です。

36条 学生ハ学生証ヲ携帯スルニ非ザレバ教場ニ入ルヲ得ズ

37条 学生証ヲ紛失シタルトキハ手数料金1円ヲ添エ再渡ヲ会計課ニ願出スベシ

ただし、同年の立命館大学学則には学生証に関する規定がありません。

 (2) 学生証以前は聴講券だった

 上記の専門学部学則以前は聴講券が発行されていました。

聴講券は明治335月認可、6月開校の京都法政学校から発行されています。

 「京都法政学校規則」の生徒心得には、

  第32条 生徒ハ聴講券ヲ携帯スルニアラサレハ教場ニ入ルヲ許サス

  第33条 聴講券ヲ遺失シタルトキハ手数料トシテ金拾銭ヲ添ヘ其再渡ヲ会計係ニ願出ツヘシ

とあります。

 校内生ではありませんが、次の「優待聴講券」が残っています。


【優待聴講券 京都府立京都学・歴彩館所蔵】

 

 この優待聴講券は明治331214日に上野弥一郎に発行されたもので、明治341113日までの11ヵ月間の聴講券です。京都法政学校には校外生制度もあり、随時入学が可能でしたから、創立当初から聴講券が発行されていたことが窺えます。

 上野弥一郎ですが、明治15年には京都府会議員、同35年には立憲政友会から衆議院議員にもなりました。上野は明治274月に京都大学設立の建議を行っていた人物です。創立者中川小十郎との接点は不明ですが、文部省の書記官であった中川、また立憲政友会との関係から知己であったのではないかと思われます。

 それはともかく、京都法政学校以降、京都法政専門学校、京都法政大学、旧制立命館大学と、聴講券は引き継がれていったことが各学校の規則および学則から知ることができます。

 

3.他大学の学生証の起源

 他大学の学生証の起源はどうなっていたのでしょうか。

(1)早稲田大学では、

 明治39911日の始業式で高田学監が新入生および学生に対し、学生証の携帯等を訓示し、この訓示が整備されて、明治407月の「早稲田大学規則」に学生心得が定められ、その第1条に「学生ハ校ノ内外ヲ問ハズ必ズ学生証ヲ携帯スベシ」とした、としています。(『早稲田大学百年史』第2巻 昭和56)

(2)法政大学では、

 法政大学発行の『法政大学の100年 18801980(昭和55)に、大正15年度の学生証が掲載されています。

(3)東京大学では、

 昭和57月発行の『昭和5年度東京帝国大学一覧』に学生証の項があり、「本学学生生徒及聴講生ハ昭和2319日庶第407号通牒ニ依リ一定ノ学生証生徒証及聴講生証ヲ所持スベキモノトス」とあり、それ以前の『東京帝国大学一覧』では確認できないものの、昭和34月には農学科農学実科生徒に「生徒証」を発行していたようです。

(4)中央大学では、

 『タイムトラベル中大12518852010』第2版(2011)には、「聴講券から学生証」の記事が掲載され、1931年の学則改正に際し聴講券は学生証と改称された、としています。

 このような状況から、「学生証」は必ずしも各大学が同時期に発行しはじめたということではないようです。

 なお、JR(旧国鉄)の学割制度との関係を考えてみましたが、学生割引(学生旅客運賃割引制度)は、「明治40年、教育奨励のため、中学以上の職員、生徒、小学校職員に実施した」(『国鉄乗車券類大事典』JTB 平成16)ようなので、学生証の発行の起源とは直接結びつきません。

 なお、現在JRの学割は片道101㎞以上で2割引きですが、昭和35年までは3等車で5割引きでした。昭和356月まで3等車があったのです。史資料センターには、発行したものの使用されなかった5割引き最後の「学校学生生徒旅客運賃割引証」が残されています。

 

4.立命館の学生証の変遷

(1)昭和4年以降の旧制大学時代の学生証

昭和44月に改正施行された立命館大学専門学部学則に学生証が定められたことは先に述べた通りです。

昭和39月現在の『立命館要覧』には、立命館大学学則中に学生証に関する条文がなく、専門学部学則に聴講証を発行することが定められています。

立命館のその他の学校では、

昭和134月に開校した立命館高等工科学校(翌年立命館日満高等工科学校と改称)の学則第38条には、生徒登学ノ際ニハ必ス在学証ヲ携帯スヘシ……。第39条には、在学証ヲ携帯セサル生徒ハ教室ニ入ルヲ許サス とあり、在学証を交付しています。

戦時中の昭和1941日、立命館は専門学校を設置しましたが、立命館専門学校学則では、第28条に、授業料等ヲ納付シタル時ハ所定ノ生徒証ヲ交付ス 生徒証ヲ所持セザルモノハ教室内ニ入ルコトヲ得ズ となっています。

戦後ではありますが、昭和2141日に施行された旧制の立命館大学学則第30条には、専門学校と同じ条文で生徒証の部分を学生証としています。

(2)新制大学の学生証

昭和234月新制大学が設置されました。立命館大学学則第24条に、授業料その他学生の負担すべき金員およびその納付方法は、別にこれを定める。前項の金員を納付したものには学生証を交付する、と定められました。

(3)立命館大学教学事務取扱規則(昭和28124)

そして昭和28年に教学事務取扱規則が定められ、その第10条から第16条まで学生証について定めています。

10条 学生は、学生証の交付を受け、これを携帯するものとする。

11条 学生証の交付を受けようとするときは、無帽半身正面画像の写真1枚を当該学部に提出するものとする。

12条 学生証を携帯しないときは、教室、図書館その他本学の施設を使用することができない。

13条~第15条 略

16条 学生証は、卒業、退学その他本学学生の身分を離れたときは直ちにこれを返納するものとする。

 ここに学生証に関する細則が定められ、この各条文は概ねその後の学生証規程に引き継がれます。

(4)立命館大学学生証規程(昭和34109)

そして、昭和3410月に学生証に関する規程が定められ、若干の条文の改定がありますが、8条からなる規程は現在に至っています。

 

5.新制大学以降の学生証の様式の変遷

以下は資料として保存されている学生証のうち様式の変遷がわかるものです。


(1)昭和29年度【写真1】

大学院に定時制があった年度の学生證で、研究科長名で発行しています。

表裏各3面で学生證兼身分証明書となっています。利用上の注意のほか学費納付欄、写真貼付欄があります。

(2)昭和35年度 

 昭和29年度の学生証にはなかった図案化された「大學」の文字が入っています。また顔写真に立命館のマークを浮き出しにしたエンボス加工(1)が施されています。昭和30年度から34年度までの学生証が残っていないため、いずれも何年度から採用されたのかは不明ですが。学生証所持規定、学費納付欄、学割発行控欄があります。学生証表紙は左面です。国鉄3等の5割引きが適用された最後の年度のものです。

(3)昭和39年度【写真2】

それまで学部長・研究科長が発行していましたが、前年度の昭和38年度から学長が発行者となりました。そして昭和39年度から地紋が立マーク(通称亀の子マーク)となりました。立マークは昭和35年の創立60周年記念事業の際に、正式な校章ではありませんが、公募により選定・採用されたものです。立マークの地紋が入った学生証は1993年度まで使用され、1994年度より新たな校章(Ritsマーク)となりました。

(4)昭和43年度 

学生証表面が左側から右側に変わります。アルバイト登録欄、学割発行控欄があります。

(5)昭和54年度 【写真3 但し同じ様式の55年度】

横長の用紙サイズになります。学生証(兼身分証明書)の面が左側になります。通学定期乗車券発行欄があります。健康診断受診の欄もあります。

(6)1982年度 

和暦(元号)から西暦に変更になりました。198111月に学園の諸文書を西暦表記とすると定められたことによります。発行者の住所が前年の衣笠一拠点完成により北区等持院北町となっています。その外は昭和55年度と同じ様式です。

(7)1986年度

学費納付欄が無くなります。19851216日の教務・教対会議で学費の領収印を廃止することを決定。他大学では既に廃止されていました。所持規定が注意事項に変わります。

(8)1988年度 【写真4

これまで紙の学生証であったものにラミネート加工(2)が施されました。このことによりエンボス加工が無くなりました。

(9)1994年度 【写真5

プラスチック製カードになり、前年度までは学年毎に発行していましたが、入学時に1度発行し、次年度以降は裏面にその年度のシールを貼付することとなりました。この様式が現在まで続いています。

 

 以上が史資料センターで保存している学生証をもとにした様式の変遷です。学生証とともに学生証番号の設定も変遷していますが、本稿では略しました。

 

 (1) エンボス加工…学生証の写真欄に校章の凹凸模様をつけた押し型(エンボス加工機)を手で強圧し、浮き出し模様を作る。糊付けの写真が剥がれないようにし、また偽造を困難にするため作成する。

 (2) ラミネート加工…学生証をフィルムで挟みコーティングする。学生証用紙の保護とともに偽造防止をする。

 

 〔お断り〕本稿では和暦・西暦の表記を、立命館において198111月に西暦表記とすると定めたこと、また当該学生証の年度表記と関り、1982年度以降を西暦表記とし、それ以前は和暦表記としました。ただし、他大学等の発行物等についてはその表記に従いました。

 また、掲載の写真は実物のサイズとは異なります。

 

【写真15一覧】



【写真1】




【写真2】




【写真3】




【写真4】




【写真5】

 

 

2018919日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

最新の投稿

RSS