立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2018.03.29
<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第3部(松江~京都御所)
<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第2部(村岡~松江)
1.松江から出雲へ
(1)平田・木佐本陣
3月2日、松江藩を鎮定した西園寺総督一行は松江を発陣し、出雲を目指した。
出雲への道は山陰道のあった宍道湖の湖南ではなく、湖北の道をとった。途中、秋鹿(あいか)で中食をとり、平田に向かった。
西園寺総督が平田で本陣としたのは、木佐徳三郎本陣であった。木佐本陣は平田本町にあり、酒造業や金融業、更に雲州木綿で財をなした。本町には現在も本木佐家がある。
本陣そのものは現在、出雲市平田町の旅伏山(たぶしさん)の山麓に移転し、出雲市平田本陣記念館として保存公開されている。上の間と御成門と庭園はもとのまま移築復元し、他は再現したという。上の間は鎮撫使西園寺公望や歴代藩主が使った間である。のちに贈られた西園寺公望揮毫の掛け軸も保存されているが、訪れた日は別の掛け軸を掛けていた。
【平田本陣】 【平田本陣御成門】
平田の町は木綿街道と言われる街道沿いに、造り酒屋、醤油屋など古い店が軒を並べ旧街道の風情が残っている。
平田宿陣の際、中川禄左衛門は松江藩家老大橋茂左衛門の招待を受け料理屋で饗応されたが、その料理屋がどこであったか判明しない。
(2)出雲大社へ
木佐本陣から出雲大社に向かう。美談町、東林木町あたりから山沿いの道となり、鍛冶谷から山手往還を進む。ここが旧来の出雲大社への道であったと、永泉寺の先の遥堪(ようかん)で古老から聞いた。現在の車道は新しく、山手往還から南にもう一本出雲大社と結ぶ平田街道があるという。西園寺総督一行が通ったのは、山手往還であったか、平田街道であったか。
鍛冶谷から出雲大社方面に向かう古道がもう一本ある。それは山の中腹を走る天平古道であるが、今は荒れて一部通行不能という。
(3)出雲大社
山手往還を西進し、やがて出雲大社北島国造館に到着した。四脚門である大門に「宗教法人出雲教」と「北島國造館」の大札が架かっている。北島国造家は千家国造家とともに出雲大社の大宮司を務める由緒ある家である。北島国造家の境内を通り出雲大社境内に入る。拝殿には大注縄が張られ参拝客が絶えない。拝殿・御本殿と参拝し、八雲山を望む。
【出雲大社】
神楽殿に参拝した後、出雲大社北側の奥谷に「松本古堂頌忠碑」を訪ねた。古堂の勇塾があったことからこの地に建碑された。碑銘は西園寺公望の揮毫で、松本巌(古堂)と山陰道鎮撫、私塾立命館との関りは前述した。
(4)杵築・藤間本陣
さて、西園寺総督は3月3日、杵築の藤間太郎左衛門(寛左衛門藤堅)本陣に着陣した。
【杵築・藤間本陣】
本陣は出雲大社の南西にあたる。大社町杵築南が所在地である。西園寺総督は本陣着陣後、出雲大社に参拝した。
『山陰鎮撫日記』には本営の宿札や西園寺公望が揮毫した「日出白梅」の扁額が保存されていたことが記されており、現在も藤間家に保存されている。
門札の箱書には西園寺総督出雲大社参詣の経緯とともに、従軍した従士の名が記され、「日出白梅」は宿陣の際に出された銘酒のうち「日出」と「白梅」を揮毫して下賜したものという。
また、藤間家には60点以上にのぼる多くの鎮撫使関係や西園寺公望の資料が残されている(注)。
勅使門は現在使われていないが、西園寺公が宿陣した当時のもので、島根県指定文化財になっている。
(注) 広島大学大学院教授勝部眞人「幕末維新期の出雲・大社地方における史的特質」2005年
2.宍道から勝山へ
(1)宍道八雲本陣・木幡家
出雲の杵築藤間本陣を発ち、斐伊川を渡り、直江、荘原を過ぎて宍道に至る。
3月4日、西園寺総督一行は宍道の木幡久右衛門方に着陣した。八雲本陣ともいう。
松江市宍道の旧山陰道沿いに「八雲本陣」の看板が立つ。現在は本陣史跡として一般公開しているが、10年前までは旅館を営んでいたという。
【八雲本陣】
門は御成門と行啓門があり、行啓門は大正天皇が皇太子であった明治40年に御昼餐所を務めたことから新たに造られた。また御昼餐所となった部屋「飛雲閣」も併せて造られた。
御成門は藩主や鎮撫使が使用し、また書院の間を使った。庭園には古灯籠や松平不昧公お気に入りの手水鉢が設らえてある。
木幡家は、慶長年間に京都の宇治木幡から移住してきて木幡家を名乗り、現在第15代になるという。
(2)宍道から勝山へ
3月5日、鎮撫使一行は宍道・木幡久右衛門本陣を発陣し、湯町を経て、揖屋の岡村市左衛門方を本陣とした。
翌6日揖屋を発つと、荒島を経て安来の雲州松江藩御茶屋に着陣した。
揖屋、荒嶋、安来は往路と同じ経路であった。安来は往路では宿泊せずそのまま通過したが、帰路では一日宿陣している。
この日、松江藩家老神谷兵庫及び藩主世子の瓔彩麿から儀刀・銃・馬などが献上された。
3月7日、安来発陣、草(吉佐)、天満(天萬)、伊喜野(池野)を経て二生(二部)宿の足羽助八方に着陣した。二部の足羽家は松江藩主松平侯が参勤交代の際に本陣とする宿であった。西園寺総督が宿陣した時、地元に伝わる面白い話がある。西園寺公の給仕はどういうわけか男がすることになっていたが、差支えがあり紺屋の娘かつよに代役が回り、なんと、かつよは男装して給仕に出た。「わたしは十六だったが、西園寺さんのかよい(給仕)をした。西園寺さんはいい男だったぜ」(日本海新聞「出雲街道今昔物語」2009.2.12)。
【二部宿・足助本陣】
3月8日、西園寺総督は二生(二部)を発ち、根雨で中食をとったのち、美作の新書(新庄)に入った。新書(新庄)の宿では佐藤六左衛門方を本陣とした。
(3)勝山
3月9日、西園寺総督一行は新書(新庄)を発陣し、美甘で中飯ののち、鬼籠山を経て勝山に至った。
鬼籠山がどこなのか確かなことはわからないが、勝山の5㎞ほど西の神代(こうじろ)に鬼の穴という洞穴がある。一行は鬼籠山で小休をしたというが、鬼の穴には西園寺公望が揮毫したという壁書が残っている。今は穴の中は真っ暗で数メートルほどしか進めないが、壁書は50mほど奥にあるという。
『勝山町史』は西園寺公望が勝山を通過した際の状況を記録しているが、町史によれば、一行が神代通過の際、西園寺公は鬼の穴に入り、岩肌に「慶應四年三月九日山陰総督藤公望到穴」と書いたとされ、その写真もある。
【鬼の穴】 中に西園寺公望の壁書あり
総督一行は鬼の穴近くの四季桜の下の茶屋で休憩しお茶を飲んだと伝わる。四季桜は、後醍醐天皇が隠岐遷幸の際の遺蹟と言われ、その地の桜を四季桜と命名したしたことから四季ごとに桜が咲くという。
西園寺総督は勝山で金田平次右衛門方を本陣とした。金田本陣は現在、勝山郷土資料館の近く、山本町駐車場となっている場所と伝えられるが、本陣であった痕跡は見当たらない。『山陰鎮撫日記』は勝山における詳細を伝えていないので、『勝山町史』によりその状況を見てみよう。
勝山藩も準備、接待、警護に大変な気を使った。事前に藩士を松江に出張させて、もてなしの指示を受けた。3月5日には、9日に勝山に来ることがわかり、以降迎えの準備に大わらわであった。
9日未刻(午後2時)頃鎮撫使一行は神代村を発ち勝山の本陣に着いた。当日は381人が町に宿陣した。当地では戸村豊、伊東多門という人物が応接にあたったようだが、そのご機嫌伺いには小谷左京が応対した。総督、諸太夫、用人などに対して葛粉、木綿などの産物が贈呈された。
西園寺公通過の折、土地の7歳の子供が道端で見送ったが、西園寺という名を大人から聞いてお坊さまが来られると思っていたと後年になって語った。土地の大人は恐ろしく偉い人が来ると思っていたようである。
3.院庄・津山から姫路へ
(1)島田母子之碑
3月10日、西園寺総督一行は勝山を発ち、津山に向かった。
途中津和田、久世、坪井を通り院庄で小休した。西園寺公は当地で島田母子の悲話を聞いた。島田母子は夫の不行の罪を救おうとして自害したところ、藩主が哀れみ母子の邸跡に顕彰碑を建てた、という話である。
島田母子の碑は作楽神社から少し離れた院庄小学校の南、清眼寺の西にある。題額は「貞烈純孝島田母子之碑」である。慶応3年津山藩主建立というから、前年に建ったばかりであった。
【島田母子之碑】
中川禄左衛門は津山侯よりその拓本を贈られた(注)。碑は清眼寺から小さな集落を通り、彼岸花の咲く田畑の中の土塁の上にあった。付近は構城址である。総督一行は島田母子の碑を後に、夕刻津山本陣に着陣した。
(注) 現在立命館史資料センター「中川家文書」に所蔵。他に「名和長年公碑」拓本、「楠公忠考之石摺」「楠公賛明舜水文」がある。
(2)児島高徳遺蹟碑
翌11日、西園寺公は津山に滞陣し、再び院庄に向かった。院庄神子(じんご)村には「児島高徳遺蹟碑」がある。そこを訪れ参拝するためであった。
その場所は後醍醐天皇が隠岐に流される途中行在所としたところで、その地に翌明治2年に作楽(さくら)神社ができた。児島高徳はその実在を疑う説もあるが、勤王の兵を挙げ後醍醐天皇を助けようとしたといわれる人物である。義挙は失敗に終わったが、のちの貞享5(1688)年、津山藩家老長尾勝明により建てられたものである。碑の題額は「院庄」で、高徳が桜の木を削って十字の詩を題し天覧に供したことを顕彰した遺蹟である。十字の詩とは「天莫空勾践 時非無范蠡」で、中国の越王勾践が呉王夫差に敗れ囚われの身となったが、忠臣范蠡の努力によって呉を破ったという故事に倣ったものである。この詩を詠った「児島高徳」は文部省唱歌にもなっている。
【児島高徳遺蹟碑】 【作楽神社前景】
薩長因三藩隊長をはじめ兵士一同は土下座して参拝したという。中川禄左衛門はここでも「院庄」碑の拓本を贈られている。
(3)津山
西園寺総督が3月10日に着陣し、12日の発陣まで滞在した津山本陣は美船八郎右衛門方であった。本陣は津山城に近い出雲街道に面した坪井町にあった。現在、津山坪井郵便局のあるあたりで、近くに徳守神社がある。
津山では、3月の2日から総督一行を迎える準備をした。止宿中のみならず、通行前から外出が禁じられ、犬も繋いでおくか郷中に預けるようお触れが出された。
滞在中藩主松平慶倫(よしとも)は在京中であったが、舶来銃一挺と鯉一折を贈り敬意を表した。
当地では河野豊治郎が料理を供したことが記され、河野は久世、勝間田にも出役したという。
津山城は明治7・8年に石垣を残し解体された。現在城址には2004年に復元した備中櫓が建っている。
【津山城】
(4)土井(美作土居)宿
津山を発った西園寺総督は、川辺、勝間田、江美村を経由して午後4時頃土井(美作土居)の宿瀬野良助方に着陣した。
美作土居は出雲街道にある美作7宿のひとつで、美作国(岡山県)の最も東にあり、兵庫県と境を接していた。江戸時代には宿の東西に惣門があって国境の警備をしていた。惣門は明治2年の関所廃止令で取り壊されたというから、鎮撫使一行は西惣門を通り宿に入った。現在、2001年に復元された惣門がJR美作土居駅のすぐ南に建っている。惣門は高麗門形式で、高さ6m50、幅7m88ある。西惣門をくぐると宿の中ほどに本陣跡がある。
現在、美作土居駅に宿の案内図があるが、宿内は本陣や脇本陣、高札場などのあった場所を示す小さな表示板があるのみで、宿の遺構は残っていない。
鎮撫使一行の事跡もまた残されていないが、西惣門の場所に「土居四つ塚勤王烈士顕彰碑」が建っている。鎮撫使一行が滞陣した3年前の元治2(1865)年、王政復古に奔走していた高知藩士3名と岡山藩士1名が同志を募るため作州路を遊説していてこの宿に来たが、夜間のことで惣門が閉まっていて盗賊と間違えられ宿に入れず、この地で自害したという。碑は1969年に建立され、惣門の復元の際に同じ場所に移されている。
西園寺総督一行が通過する際は中国地方は大方鎮定されていたが、わずか3年前は勤王の士も盗賊と間違えられ命を落とすような状況であったのであろう。
【美作土居宿惣門】
(5)千本本陣
西園寺総督一行は3月13日に土井(美作土居)を発陣し、佐用で中飯ののち、千本宿の内海孫九郎本陣に着陣した。千本宿は安政2(1855)年の宗旨改帳では戸数232、人口826人で、幕末には約220軒、人口1,000人ほどであった。
西園寺公宿陣の際は、前日に随兵196人が宿泊、当日は内海本陣に44人、千本宿全体では近畿・中国の諸藩の家臣らを含め総勢334人、人足を入れると1,000人以上が宿泊し、藩内の出入りを加えると3,000人以上が千本宿に集まったというから、大変な事態であった。集めたふとんは1,664枚に及んだという。
【千本本陣跡碑】 【千本本陣復元模型】
千本宿は今やほとんど当時の面影を残していないが、内海本陣はその当時をうかがうことができる。現在の母屋内には関札が何枚も架けられており、「勅使西園寺殿御本営」のほか、藩主の参勤交代の際の関札などがある。西園寺総督が泊まった部屋はそのために造られたというが現在は無い。宿泊した部屋の跡地には、「慶應四年三月十三日 勅使西園寺公本営址 枢密顧問官竹越與三郎書」と刻まれた石碑が建っている。また母屋の中には本陣の模型が置かれている。
邸内は、春秋に四季桜が咲き、秋には紅葉の巨木が真っ赤に色づくという。訪れた日も桜の花が咲いていた。
4.姫路から兵庫へ
(1)姫路城
3月14日に千本本陣を発陣した西園寺総督は觜崎にて中飯ののち姫路に入った。姫路では姫路城(白鷺城)の三ノ丸を本陣とした。三ノ丸は城主の居住地で、政務を行う場所であった。大手門を入ると芝が敷き詰められた三ノ丸跡地が開け、前方に修復なった真っ白な大天守が聳えている。
【姫路城】
姫路藩は西園寺一行が宿陣した時にはすでに降伏していたが、もともと幕府側にたっていた。戊辰戦争では四條隆謌率いる中国・四国征討軍が進軍し姫路藩を恭順させようとしていたが、複雑な経過をたどり、正規の征討軍でない隣国の備前藩が姫路城を開城して入城していた。新政府側は正式な措置があるまで備前藩預かりとしたが、西園寺一行が三ノ丸に宿陣した際の状況については不明である。
(2)高砂宿から大倉谷(大蔵谷)本陣
3月15日卯刻(午前6時頃)、西園寺総督は姫路城を発陣、一行は、姫路から京に向かうに西国街道をとらず、海岸沿いの街道を高砂に向かった。当時の高砂は海運で栄えた港町であった。
その高砂では峯本吉兵衛方を本陣とした。現在の高砂市高砂町あたりであったと思われるが正確な場所は不明である。現在当時の家が残っているのは海運業で栄えた工楽松右衛門宅のみである。
総督は高砂に到着し、休憩の後、曽根之松と石乃宝殿を遊覧して峯元本陣に着陣した。
曽根之松とは、山陽電鉄曽根駅前の曽根天満宮にある古松で、菅原道真公手植之霊松であった。現在も古霊松殿にその根が保存されている。西園寺公が観覧したのは二代目の松で、高さ10m、枝は南北36m、東西27mあったという。現在は五代目の若い松が植えられている。
石乃宝殿はJR宝殿駅から1.5㎞ほど南西の生石(おうしこ)神社に祀られている巨岩である。巨岩の宮殿ともいう。幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m、重さは推定で500トン以上もあると言われていて、巨岩が水に浮かんでいるように見える。自然石を使っているが、いつ誰が何のために造ったのか、謎である。
【石乃宝殿】
西園寺公は高砂を出発し、加古川の尾上神社を参拝した。『山陰鎮撫日記』には「尾上松・相生松・尾上鏡等御覧」とあるが、これらは尾上神社にある。
尾上松は古来ゆかりの松で、一つの根から男松(黒松)と女松(赤松)が生えていることから相生松とも言っている。曽根の松もそうであるが、播磨灘一帯には松林が続いていて、由緒のある松が多い。尾上神社には尾上の松のほか神功皇后ゆかりの片枝の松があり、その枝は都の方角にのみ伸びている。
尾上鏡というのは実は尾上鐘である。新羅時代の鐘で1100年ほど昔のものである。以前はお堂に架けられていたが、現在は収蔵庫で保存されている。高さ123.5㎝、口径73.5㎝の朝鮮製で、如来や飛天のレリーフが装飾されている。
大倉谷(大蔵谷)は明石城下にあった西国街道の宿場で、本陣は広瀬治兵衛宅であった。この宿場は古来から賑わっていたが、今は宿場の面影は無い。明石駅から一駅東の山陽電鉄人丸駅を南下し、西国街道と交わる東経135度の日本標準時子午線の碑を東に入った大蔵会館あたりが本陣跡である。
(3)兵庫宿・楠公墓碑・兵庫港
西園寺公は大倉谷(大蔵谷)を発陣し、舞子浜・須磨を見物したのち、兵庫宿の本陣絹笠又兵衛方(井筒屋衣笠又兵衛宅)に着陣した。3月17日のことである。
兵庫宿は現在のJR兵庫駅の近くで、西国街道を柳原から兵庫港に向かって南下する途中にある。本陣のあった向かいに神明神社があるが、本陣の跡と知ることができるものは無い。兵庫港の手前に札場の辻があり、西国街道はそこから再び東に向かう。
3月18日には兵庫宿に到着した東久世通禧公に会い、翌3月19日楠公墓碑に参拝した。楠公墓碑は湊川神社にあるが、神社ができたのは明治5年(『山陰鎮撫日記』は6年としている)で、当時の地図には「楠公墓」とある。湊川神社は山陰道鎮撫に参謀として従軍した折田年秀が初代の宮司となった。墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」は徳川光圀が建立し自ら碑銘を揮毫したという。楠木正成はこの地で戦死し、勤王の志士の尊崇を集めていた。
【楠公墓碑】 【兵庫港】
西園寺公はその日、兵庫港から肥前藩主(佐賀藩)鍋島閑叟公の軍艦に搭乗し大阪に向かった。佐賀藩の軍艦は大砲16挺、小砲300挺を備えていて、発射演習も観覧しその威力に一驚した。
佐賀藩は慶應4年2月6日に戊辰戦争北陸道先鋒を命ぜられ、東国に向かうため新鋭艦「孟春丸」が2月22日に兵庫港に到着している。その後孟春丸は3月18日に大阪から江戸に向かうところであったが激しい風雨のため兵庫港に引き返し、19日に再び出発した(『佐賀市史』)というから、西園寺公が乗船した軍艦は孟春丸と思われる。
5.大阪から京都御所帰還
(1)大阪港から興正寺へ
西園寺総督一行は佐賀藩の軍艦で大阪港に着いた。
大阪港が「開港」するのは同年9月であるが、これまでも国内の港としては使われていた。しかし港が浅く外国の大型船が使用することは困難で、国際港の地位は神戸に譲った。
【大阪港】
一行は下船すると天満の興正寺に着陣した。天正13(1585)年、興正寺はこの地に広大な堂舎を営んだ。古絵図によれば、南北50間、東西21間余であった。興正寺は戦災で焼失したため旭区に移転しているが、北区天満4丁目の跡地は現在滝川公園となっていて「天満興正寺御坊址」の碑が建っている。当時法主は西園寺公の実父徳大寺公純の兄摂信上人(華園摂信)であった。
【興正寺址】
表士御守衛士が泊まった隣接の浄蓮寺も興正寺の子院であったが、この寺は現在も同地にある。この興正寺は明治20年から36年まで関西法律学校(現関西大学)の校舎として使用されていた。
西園寺総督は、3月25日まで興正寺に滞陣した。
(2)本願寺津村別院(北御堂)
この間3月23日には西園寺総督は西本願寺津村別院に行幸していた明治天皇に参候した。翌24日再び参候し、山陰道鎮撫の状況を報告した。
西本願寺津村別院は北御堂とも言われ、当時は津村御坊と呼ばれて明治維新の際に大阪鎮台が置かれて明治天皇の行在所となった。
【津村別院】
新政府は慶應4年1月には大阪遷都を議論していた。遷都論は結局大阪親征として決定され、紆余曲折を経たのち、天皇は3月21日に京都を出発し、23日に北御堂を行在所としたのである。
天皇は結局閏4月7日まで大阪に滞在し、同日京都に向けて出発、翌日京都に還幸した。現在の堂舎は1964年復興。場所は中央区本町4丁目、地下鉄本町駅近くである。
(3)伏見から京都御所帰還
西園寺総督は3月26日大阪本陣興正寺を出発。八軒屋から川船で淀川を遡り、船中から淀・八幡・伏見など戊辰の戦場を見ながら伏見の森橋(毛利橋)に到着した。毛利橋は宇治川の支流である濠川に架かる。伏見宿には本陣が4軒あったと言われ、どの本陣に泊まったのか定かでない。
翌3月27日、西園寺総督は伏見を発ち、辰刻(午前8時)伏見稲荷前で小休ののち伏見街道から京に入り、蛤御門の西園寺邸に帰還した。発陣から83日であった。従衛した薩長藩士、各藩家老、郷士等一同を労い帰宅の途に着かせたのち、二条城太政官代に出頭、続いて御所に参内し山陰道鎮撫の大命を果たした。
【西園寺邸跡】
【二条城】
[完]
あとがき
本稿は、2015年9月20日より2016年12月9日の間、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』や府県市町村史などを参照しながら山陰道鎮撫総督西園寺公望の道程を辿った記録である。
戊辰戦争・明治維新から150年となる今日、その時間の経過は鎮撫使一行の事跡を断片的にしか辿ることができない。
しかしながら資料とともに現地を歩くことにより見えてくることもあった。
山陰道鎮撫はその後の北越戊辰戦争や東国の戦いに比べると実戦に及ぶことがなかったことから容易に鎮定されたと言われ、時に物見遊山もあったが、実際に京から鳥取・松江・出雲を経て帰還した83日の道程は、大変な道のりであった。
本稿は「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」とでもいうものである。本稿により山陰道鎮撫の一端を多少なりとも見ることができれば幸いである。
なお、地名の表記については、『山陰鎮撫日記』をもとにし、現地の表記と異なる場合や改称がある場合は( )内に記した。
2018年3月27日
立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2018.03.14
<学園史資料から>亀岡市文化資料館 企画展示に学園史資料を提供、講演会を開催しました。
亀岡市文化資料館では、「山陰道鎮撫」から150年を迎える今年、2018年2月3日~3月11日まで「山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新-」企画展を開催しました。
展示には、立命館史資料センター所蔵資料とともに、立命館学宝となっている「山陰道鎮撫使絵巻」を公開。期間中の2月17日、2月24日には、立命館大学文学部の教員と史資料センター調査研究員が講演いたしました。
亀岡市文化資料館第63回企画展「山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新-」
今から150年前の慶応4(1868)年、西園寺公望は新政府軍側に立って山陰道の諸藩を従わせるために山陰道鎮撫を実施します。
京都を発った西園寺は、丹波馬路村(亀岡市馬路町)に逗留し、地元の郷士たちを配下に加えますが、その中に立命館創立者中川小十郎の父祖も加わっていました。
このことが、後に中川小十郎と西園寺公望を結ぶ縁となり、「立命館」誕生につながります。
亀岡市文化資料館では、山陰道鎮撫を中心にしながら、水戸藩主一橋慶喜(後の15代徳川慶喜)と郷士たちの関わり、丹波弓箭組と山国隊の関係、現在も続く「時代祭行列」での弓箭組の姿、未刊となった『山陰道鎮撫日記』に基づいた実地調査の結果などを展示しました。
丹波郷士たちは、最初一橋慶喜と関係を作る。その後「新撰組」に拷問をうける。
現代の「時代祭」で使用されている「弓箭組」幟。「山陰道鎮撫使絵巻」(立命館学宝)。
山陰道鎮撫行程を歩いて調査した展示と未刊となった『山陰道鎮撫日記』の実物
<2月17日(土)講演「幕末政局のなかの丹波の郷士-一橋慶喜との関係を中心に-」> 立命館大学文学部 助教 奈良勝司
展示期間中の2月17日午後2時、亀岡市文化資料館3階研修室で講演会を開催しました。
当日は地元の郷士に纏わるお話からか、70名の熱心な参加者で研修会室は超満員でした。
講演は、「幕末政局のなかの丹波の郷士-一橋慶喜との関係を中心に-」と題して、山陰道鎮撫に同道する以前の丹波郷士たちの動きを、史料に基づき解説されました。
将軍になる前の一橋慶喜が、手兵を確保するために郷士に呼びかけ、武人として強い由緒意識を持つ郷士も喜んでこれに応えていたこと。このことが幕府中央の政争に巻き込まれる要因となり、間もなく慶喜からも見放され幕府からも目をつけられ、京都で新撰組の拷問までうける羽目になったこと。
国事に参与したいという由緒意識と政権中央の情報に疎く翻弄されてしまったというこの時の経験が、後に新政府の山陰道鎮撫への積極的な従軍や学問を重視する気風を醸成していったのだろうと説明されました。
<2月24日(土)講演「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」> 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次
2月24日(土)午後2時から、58名の参加を得て「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」の講演を開催しました。
この講演は、立命館 史資料センターに所蔵されている『西園寺公望公山陰鎮撫日記』(昭和15年に中川小十郎の命により立命館大学予科石崎達二教授が執筆し第三校まで完成していたが、遂に出版されなかった)に記載された鎮撫行程を、史資料センター調査研究員の久保田謙次さんが2015年9月20日~2016年12月9日の期間で踏破した調査報告でした。
行程では、西園寺公望が投宿した本陣が今も現存していたり、公のエピソードが残っていたり、碑にその足跡が記録されていたりしており、山陰道鎮撫行程83日間を豊富な写真と解説で報告されました。
あまりに豊富なエピソードであったため後半は駆け足の報告でしたが、久保田さんが踏破した行程は改めて史資料センターホームページに掲載する予定です。
2018年3月14日
史資料センターオフィス 奈良英久
2018.02.27
<懐かしの立命館>学徒勤労動員中における犠牲者への鎮魂
ようやく判明した9名
戦後初めて立命館における「学徒出陣の実態調査」(注1)をおこなったのは、1994(平成6)年のことでした。翌年が学徒出陣50周年の節目にあたっていましたので、本格的に調査をするには良いきっかけとなりました。その内容は常任理事会に中間報告され、概要は『立命館百年史紀要 第2号』(1994年3月)に掲載されました。しかし、その後追加調査はおこなわれず今日に至っています。すでに戦後72年が過ぎた今日、各学部に残されている勤労動員に関する諸資料は散逸し、その体験者も少なくなり調査を困難にしています。
今回、先の学徒出陣実態調査(1994年)をすすめている中で、勤労動員中に動員先で犠牲になった9名の方々が明らかになりました。それは、必ずしも空襲による犠牲者だけではありませんでした。勤労先の不衛生な住居環境やひどい食事によるであろう病死、また劣悪な労働環境、労働条件の悪さによる過労死などによって亡くなった人もおられました。
学徒勤労動員は、1938(昭和13)年4月「国家総動員法」の公布とそれに続く、文部省通達「集団勤労作業実施に関する件が端緒(注2)といわれますが、同調査で明らかになった点は、通年勤労動員が始まった1944(昭和19)年(注3)以降、終戦までの間に犠牲となった人たちでした。本稿は、これまでに判明した史資料センター所蔵の資料と証言を元に再構成したものです。
ひき続き、学徒勤労動員の「端緒」といわれる『国家総動員法』公布(1938年)から終戦(1945年)までの本格的調査、研究が前進することを願っています。
1.豊川海軍工廠空襲による犠牲者
豊川海軍工廠は、主に航空機や艦船に搭載する機銃やその弾薬包、信管を生産していました。さらに1941(昭和16)年12月には新たに設置された光学部では、双眼鏡や測定儀、磁気羅針儀などの航海兵器を製造していました。学生たちは主に光学部での勤労でした。
そのなかの学生の一人は「わたしは豊川海軍工廠ではフライス盤で長さ1m、直径10cm余の鉄管の中央部に7cm×10cm位の平面に削る作業でした。その作業は人間魚雷の潜望鏡のレンズにあたる部分を造っていた。」と語っています。(注4)
〔豊川海軍工廠の学生たちの寮にて〕
1945(昭和20)年8月7日、豊川海軍工廠は空襲を受けます。
10時13分~10時39分(26分間) 出撃米軍機131機、投下爆弾816.8トン
(注:詳しくは、HP「懐かしの立命館 OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲」参照)
この空襲で4名の本学学生が犠牲になります。
「その爆撃が終わってみたら、立命館の一緒にいた連中が4人おらんということがわかり、早速探しました。私は、相原和男君が私の隣の部屋で寝泊りしていたもんですから、どうしても見つけたらなあかんと思って、工場の東から西まで3日、4日かけてずっと遺体を探し回りました。空襲が10時か11時ごろでしたから、何も食べずに広い海軍工廠の工場に転がっている遺体をずっと見て回りました。随分沢山の遺体の顔を見ましたが、『違う』『ここにはない』といって必死で探し回りました。結局4人はわからずじまいで、とうとう見つけ出すことができませんでした。本当に遺族の方々にお詫びしたい気持ちです。」(同級生T氏)
空襲の犠牲者となった学徒は次の方々(敬称略)です。
石川巌 津野森正 本田義次 相原和男
(愛知県豊川市に建立された慰霊碑)
最後の母への言葉
なつかしい郷里のお母さん
遠い豊川の地より
お元気で昭和20年1月1日の元旦を、お迎え下さる様お祈りします。
何時も思うことはお母さんのことであります。
僕の健康を祈って下さるお母さんお元気で
遠い豊川の生産戦線より 義次 (本田義次の「日記」より)
2.東洋高圧工業(株)における犠牲
1944(昭和19)年、立命館専門学部工学科化学工業科の学生達は、九州の3企業の工場に分かれて動員されました。その3つ工場は、東洋高圧工業株式会社大牟田工業所(福岡県大牟田市)34名、三菱化成工業株式会社牧山工場17名(福岡県八幡市枝光)、日産液体燃料株式会社若松工場17名(福岡県若松市二鳥)です。
(勤労動員(昭和19年)を前に化学工業科の仲間たちと)
この動員された3工場の1つ東洋高圧工業㈱大牟田工業所では2名の学生が犠牲になったと思われます。
一人は辻勇(敬称略)です。辻たちは1944(昭和19)年6月から1945(昭和20)年6月下旬まで勤務します。辻は1945(昭和20)年5月に過労が原因で死亡したと思われますが、学籍簿には「1945(昭和20)年5月27日大牟田ニテ動員中死亡、除籍」と事実のみが記載されています。しかし、その死を同級生は次のように語っています。
約1年間硫安硫酸の製造に従事。辻勇君を病気で失う。食料不足と闘いながら奮闘した。
(A 昭和20年専1電)
東洋高圧工業にて1名(辻勇)が過労死。製造機械が老朽のため生産量が低下。
(S 昭和20年專1化工)
動員先の労働は、昼11時間、夜間13時間の連続無休作業(注5)という過酷なものでした。また、食事は満州大豆を多く混ぜただけのお粗末な食事でした。(注6)おそらくは東洋高圧工業㈱大牟田工業所も同じように厳しい環境であったと考えられます。そんな劣悪な環境の中で辻は亡くなったと考えられます。
もう一人はH(敬称略)です。
「Hは爆撃で死んだと聞いた」(注7)と回想されていますが、Hは立命館の学生ではなかった、とも言われています。なぜなら、立命館の学生たちは東洋高圧工業㈱大牟田工業所を1945(昭和20)年6月下旬に引き上げたので、1945(昭和20)年8月7日の大牟田空襲には遭遇していません。したがってHは立命館の学生ではないのではないか、との見方(注8)です。
しかし、その後発見された『督学報告工学科動員実施調書』(1944<昭和19>年6月)には、小さく尚書として「派遣期間ハ成績良好ナル場合ハ1ケ年間ニ延長する予定」と記載されています。Hは成績良好者として1945(昭和20年)6月以降も残留し、大牟田空襲の被害を被った可能性もあります。現在も調査中ですが、事実を明らかにすることがHに対する鎮魂になると考えています。
厳しい勤労動員でしたが、動員先ではこんなほのぼのとした逸話も残っています。昭和19年6月、立命館専門学部工学科化学工業科の学生T・O(昭和20年工業化学科卒)は、日産液体燃料㈱若松工場(現・北九州市若松区)に勤労動員で勤務していました。その時の思い出がある雑誌に掲載されています。
「北九州もB-29爆撃機が飛来し、毎日が灰色だった。ある夏の宿舎の灯火管制の下、T・Oさんが弾くマンドリンの東京娘(注9)はわたしの胸にやさしく明かり点してくれた。この若き日の懐かしい思い出の色を今も忘れることができない。」(『ジパング倶楽部』2016年6月号)
3.名古屋造船所における犠牲者
名古屋造船㈱は1941(昭和16)年に設立され、1964(昭和39)に石川島播磨重工業㈱と合併し、同社名古屋造船所となります。その後、1972(昭和47)年に同社名古屋工場となります。現在はIHI愛知工場となっています。
1944(昭和19)年に名古屋造船㈱での勤労動員中にT(敬称略)は死亡します。同級生だったK・T、M・Tは同社の劣悪な労働環境をこう語ります。
「寄宿舎に入って夜の食事に食堂に行きました。豆粕(まめかす)のたくさん入ったご飯が丼鉢につけてあるが、蝿がいっぱいたかっていてとても食べる気がしないが、それでも上の方をすてて中の方を少したべましたが、とてものどを通らなかった。寄宿舎の部屋は蚊がぶんぶん飛び手足、顔までさされて一晩中蚊との闘いだった。寝不足と空腹、暑さに困惑した。」(K・T 昭和20年專1法)
「宿舎は埋立地の用水を飲料水としていたため、入寮すると全員下痢をしたが、診療もしてもらえなかった。全員で会社に待遇改善をもとめますが一向に改善されず、友人のTさんは亡くなった。Tさんが亡くなった日に初めて医師がやってきた。会社側と待遇改善を話し合いますが、一向に改善される様子もないので、全員学校に引き上げました。」(M・T 昭和20年專1法)
それまで会社に労働環境の改善を交渉していた学生達は、一向に改善しない会社に対して憤慨していました。その交渉途中にTは病気で死亡しました。この事をきっかけに学生達は「一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲ」ました。学校に引き上げた後、リーダーは退学処分を受けました。また、学生たちの行動に理解を示していた立命館出身の先輩社員も社内の非難を受け、辞表を提出せざるを得ませんでした。学校に引き上げてきた彼らは、すぐに別の会社である愛知時計電機(株)に動員されました。動員先の愛知時計電機㈱では、会社の幹部や工員達がみな名古屋造船㈱での一件を知っており、彼らを白眼視したといいます。さらに、憲兵や特別高等警察(特高)も危険思想を持つ集団としてその動静を監視していました。その時の様子を『督学報告』では「立命館学徒ノ状況」として次のように報告しています。
「会社ノ幹部ヨリ工員ニ至ルマデ、名古屋造船ニ於ケル経緯ヲ知悉(ちしつ)シテ事毎ニ白眼視スルト云ウ」、その事実に対して大学側は、「不憫(ふびん)ニシテ涙ヲ催ス程ナリ」と学生に同情し、学生たちのとった行為を「名古屋造船ノ不誠意トソレニ依ル学友ノ死ニ同情シテ一時ニ感情ノ激発セルモノニシテ決シテ悪質ノモノニ非ズ」と断じています。(注10)
戦争末期の情勢を考えると学校側の学生たちに対する精一杯の弁護だったのかもしれません。名古屋造船㈱のひどい労働環境のために亡くなったTも犠牲者であると考えます。
4.㈱播磨造船所における犠牲者
兵庫県相生の村長唐端清太郎を中心に相生の繁栄を図って出資者が募られ、1907(明治40)年に播磨船渠(株)が設立されます。第一次大戦後1916(大正5)年に鈴木商店が買収し㈱播磨造船所となり、1918(大正7)年 帝国汽船(株)に合併し、更に1921(大正10)年には(株)神戸製鋼所と合併し播磨造船工場となります。1929(昭和4)年には同社から独立して(株)播磨造船所となり、戦後1960(昭和35)年12月に石川島重工業と合併します。
『㈱播磨造船所50年史』には、勤労動員された生徒たちの様子を次のように述べています。
「学徒動員(学徒勤労動員)は国家動員計画の最後のもので決死の段階に入った1944(昭和19)年より各学校の学生生徒が入社した。制服姿の青年学徒が船台(せんだい)上でハンマーやスパナを使い、炎天下あるいは寒風のもとで働く姿はりりしく、また悲壮なものであった。」(『㈱播磨造船所50年史』)
立命館第二中学校(京都市の上賀茂に設立され、戦後は立命館神山中学校・高等学校となる)の勤労動員数は278名で、その内訳は3年生138名、2年生140名、合計278名となっています。生徒達の大部分は播磨造船所興亜寮(のちに工和寮)(注11)に入寮し終戦まで勤労動員を続けます。当時、播磨造船所に勤労動員されたK・K(昭和21年二中)は、次のように回想しています。
「この寮は埋め立地で木造二階建て、満潮時は海水がすぐ近くまで押し寄せてくる劣悪な環境で衛生設備も悪く、また給食はとうもろこし入りの丼鉢一杯と一汁一菜とひもじい思いをした。昭和19年夏、赤痢が発生し二人の生徒が死亡した。また、同年10月鋳造(ちゅうぞう)工場で溶解炉のクレーンが転覆し数名の生徒が大やけどを負ったこともあった。昭和20年になると再三の空襲があって、終戦まで惨々な日々であった。」(立命館中学校・高等学校の同窓会報である「清和会報No11」1991年発行)
この死亡した学徒二名は勤労動員下での犠牲者といえます。調査では、このお二人はK・OとS・Tと考えられますが調査中です。
以上、勤労動員先で犠牲になったといわれていた9名の方々の調査をすすめてきました。まだまだ真実にとどかない部分もあり、引き続き調査が必要であると思っています。
今回の調査報告によって少しでも犠牲者への鎮魂歌となれば幸いです。
注釈
(注1)本学がおこなった「学徒出陣」調査では、全て在学中に兵役に就いたことを「学徒出陣」としており、1936(昭和11)年から1945(昭和20)年までの期間を調査範囲としています。一般的には1943(昭和18)年10月2日に「在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布された以降に徴集された学徒を「学徒出陣」と考えることがほとんどです。
(注2)学徒勤労動員は「1938(昭和13)年4月に『国家総動員法』が公布され、同年6月に文部省は全国の学校に対して『集団勤労作業実施に関する件』を通達し、後の学徒勤労動員の端緒を開いている。」(『立命館百年史 通史一』)としています。
(注3)1944(昭和19)年3月7日「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、4月17日に文部省訓令第11号「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒勤労動員ニ関スル件」がだされます。この訓令は「今や中等学校程度以上ノ学徒ハ挙テ常時勤労ソノ他ノ非常任務ニ服スヘキ」として、学徒勤労動員の通年化を各学校に命令しました。
(注4)立命館大学昭和22年専経同窓会「学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲を語る」から引用
(注5)立命館は1944(昭和19)年6月に「立命館督学制度」を新設しました。この督学制度とは「決戦下ノ学園全般ノ教授、訓育、修練、勤労作業及ビ保健等ノ振興ニ付之ヲ査察、督励シ、(中略)戦時国家ノ緊喫要請ニ綜合統一セシムル」ことを目的として作られました。これにより勤労動員先の実態は毎月報告され、戦時下の限界はあるものの学生、生徒の労働実態、環境衛生などが一部分はわかりました。その『督学報告書』は発見され、重要な資料として史資料センターに保存されています。
(注6)『学徒出陣の実態報告書』の勤労動員体験者アンケートより
(注7)『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集 1977年より
(注8)大牟田市では、1944(昭和19)年7月8日未明の米軍B29が初めて来襲し写真撮影偵察して以来、米軍による空襲は、11月21日に三池・通町空襲、1945(昭和20)年 6月18日未明、7月27日未明、7月30日、8月7日、8月8日、8月8日夕刻と連続的に空襲を受けました。東洋高圧工業㈱大牟田工業所に勤労動員されていた学生達は、1945(昭和20)年6月18日の空襲に遭遇しますが、幸い学生達に被害はありませんでした。しかし、大学側は学生達の安全を考慮して6月下旬に京都に引き上げました。したがって『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』のいう8月7日の大牟田空襲に立命館の学生は遭遇していない、という見方があります。
(注9) 「東京娘」 当時流行した歌謡曲
(注10)昭和19年8月に督学報告マル秘『中京方面出動学徒勤労状況視察報告』(立命館)に「愛知時計電株式会社」視察報告書があります。その報告書の中で、いかに名古屋造船㈱の医療設備がひどく死亡したTさんが充分な治療受けることが出来なかったかを、同じように病気になったT・Sさんの例をあげて報告しています。
「本校T・Sハ大腸カタルニテ入院シ居レリト聞キ病床ニ之ヲ見舞ヒタルニ、充分手厚キ看護受ケツツアリ、・・・T・S君の父母交々、『名古屋造船ニテ立命館学徒1名死亡セシ時ノ実情ト比較シテ、之ナラバ安心シテ我ガ兒(子)ヲ託シ得ル、名古屋造船ハ誠ニ冷淡ニシテ何等ノ設備モ無ク、御話ニナラヌ会社デアル』ト申シ居タリ」
又,生徒たちが名古屋造船でおかれていたひどい状態と会社の体質についても報告され、抗議をして学校に引き上げた学生たちの行動を擁護しています。
「重役ハ・・・・学徒ノ心理ヲ知ラズ設備モ不完全ニシテ、名古屋地方ノ人々ハ名古屋ノ三大地獄ノ随一ナリト称シ、何人此ノ会社ニ働クヲ欲セズ」のような会社である。このような会社であるため医療設備が不備なため「立命館学徒1名ノ死亡者ヲ出シタリ、之ニ憤慨シテ一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲタ者ナリ」
(注11)興亜寮(のちに工和寮)の入寮者は主に勤労学徒、一部一般工員でした。所在地は工場より少し離れた相生市千尋にあり、木造、瓦葺、2階建で、約4622坪の土地に19棟建設されていた。各地から動員された学徒が入寮していたと考えられます。参考
『立命館百年史通史Ⅰ』
『督学報告』 昭和19年度 百年史編纂室編纂
『百年史百年史紀要2号・別冊』 百年史編纂室
『播磨造船所50年史』播磨造船所50年史編纂室
「清和会報」11号(1991)立命館清和会
『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集
『大牟田空襲の記録』大牟田の空襲を記録する会
『学制100年史』文部省
『学制120年史』文部省
『学徒』総員・学徒出陣』本間敏矩著