立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2018.08.01
<懐かしの立命館>戦後初の付属校修学旅行
1.新学制による中学校・高等学校の誕生
1948(昭和23)年4月、連合国軍総司令部(GHQ)の意向のもとに公立中等教育の改革が断行され新制高等学校が誕生しました。立命館の付属校でも、1947(昭和22)年の新制の立命館中学校・立命館神山中学校に引続いて、1948年には立命館高等学校・立命館神山高等学校・立命館夜間高等学校が誕生しました。5年制であった旧制中学校は、1948年3月で廃校となったため、1、2年生はそのまま新制立命館中学校の2,3年生に移行しました。3年生は新制高校1年生に入学しましたが、4年生(昭和19年入学の旧制中学校商業学校1年生)(写真1)だけには三つの選択肢がありました。そのまま旧制中学校を修了して卒業するか、旧制立命館大学の予科へ進学するか、または新制高等学校2年に編入するかという道でした。この高校2年生が戦後初の高校修学旅行に参加することになるのでした。
写真1 戦後初の高校修学旅行に参加した昭和19年入学の1年生たち
(立命館商業学校射撃部で主に最前列が1年生)
2.修学旅行実現への厳しい背景
修学旅行は、戦前から各学校でさまざまな形態で実施されていましたが、戦後の社会事情は厳しく、家庭の経済状況だけではなく、十分に復旧していない交通事情や食糧事情などからしても、修学旅行復活に対する理解には厳しいものがありました。旧制中学校廃校の前年の1947年、立命館第一中学校の平口正雄校長は学校新聞「立命館タイムス」のインタビューに「修学旅行は楽しく、いい思い出を残す意味で行いたいが、社会情勢を見るとき、平口は絶対反対です」と答えています(注1)。
当時の教育事情として、教育委員会は全国的に修学旅行復活に否定的でした。1947年11月、大阪府では教育部長(現在の教育委員会委員長)が「時節柄、父兄の立場や国の経済事情を考慮して、なるべく修学旅行を控えられるよう、万やむを得ない場合は精精一泊程度の旅行にされたい。」という修学旅行自粛通牒を出しています(注2)。その前年の1946(昭和21)年5月に皇居前食糧メーデーが起きたことや、国鉄(現JR)運賃の値上げ(注3)などからみても、戦後の経済事情は厳しいものがあり、立命館高校の授業料とを比較しても家計への圧迫は深刻でした(参考資料)。
平口校長が立命館タイムスの生徒記者へ語ったように、保護者への負担を極力抑えたいという学校側の思いは理解できます。
3.修学旅行の実現
当時の国民の生活実態からして、修学旅行の自粛はやむを得ない判断だったのでしょう。それでも修学旅行の受け入れ態勢は少しずつ改善されていったようで、1949(昭和24)年10月26日には、立命館中学校高等学校で共に3泊4日の日程で戦後初の修学旅行を実現したのでした。
1)立命館高等学校 (10月26日~29日で東京方面)
立命館高等学校では、1期生の3年生が教諭5名に引率されて参加しました。希望者を募っての参加者は143名(この学年240名)。費用1,800円で小遣い1,000円でした。(注4)高校3年担任であった上田勝彦教諭は、当時のことを次のように述べています。
「永年の教師生活のなかで教師としての生き甲斐を感じるのは生徒諸君との心の触れ合いができた時である。昭和24年度は卒業学年のクラス担任となり、秋には現在では中学生並みの東京への修学旅行を行ったが、勝手知った東京の案内役を務めたりした。」(注5)
東京・鎌倉方面への3泊4日の旅で宿舎泊は1泊のみ。他は車中泊で、それも団体扱いもなく、一般車両の客席(寝台ではなく)に座ったままという大変な旅行でした。(写真2)
この時の要項(修学旅行の行程と注意書き)が保存されていますが、B5版に印刷されたプリント1枚のみで、その内容はコース略図と「行程」、そして簡単な「生徒への注意事項」のみでした。(写真3)(注6)
1.時刻厳守 2.気分明朗 3.元気旺盛 4.行動敏速
5.身辺注意 6.健康第一
写真3 初の高校修学旅行要項
行程 【 】内は立命館タイムスの記事との合成
10月26日13:10 京都駅発
17:28 名古屋着【戦災都市の夜景を見て約3時間散策】
22:20 名古屋発準急(20:30 駅前集合)
27日 4:00 小田原着
4:37 小田原発
5:25 藤沢着 (江ノ島、鎌倉見学)
14:00 鎌倉発
15:00 東京着
16:00 (宿舎着)【旧徳川邸ホテル】
【17:00~22:00まで自由行動】
28日 【朝からバス4台で都内観光~赤坂離宮~明治神宮~外苑球場
~国会議事堂~上野~日比谷公園】
【観光後は自由行動】
28日23:50 東京発(22:00 駅前集合)
29日14:22 京都帰着
写真4 自由行動で上野動物園へ(個人所有)
この修学旅行出発の2週間前に上田勝彦教諭は、生徒を集めた場で旅行の目的を次のように詳しく説明しています。(注7)原文は、詳細に注意事項が書かれていて、安心で事故のない旅行実現のための細心の配慮がなされていました。
「修学旅行に就いて」(一部抜粋)
一、目的を自覚せよ
物見遊山のための記念行事ではなく、楽しく新しい刺激を求めたり、感覚的な欲求
を充足させるための行事でもない。心志を労し見聞を広め、識見を養うためのものである。(中略)高価な代償を支払う教育活動であって、単なるリクリエーション・ 休暇行事・休息ではないのだ。
(中略)今一つの目的は社会性の涵養である。集団生活の経験をさせ、民主社会の構成員としての自覚を喚起する。真のホームルームの目的達成の一助として、生徒対教師・交友間・クラスメート全員間の情愛等人間関係の真実を会得することである。
二、重要な心掛け
1.困難な現状の把握とそれに対する心掛け。
a.浮いた調子でぼやぼやして居れぬ世相と重大な責務。
b.楽で快適な旅行は不可能な状況~汽車の座席・旅館の待遇・窮屈な乗物~我慢と忍
耐
2.父兄の負担と将来の出費の見通しに立って。
a.父兄に無理な出費をさせぬこと。参加だけで一般的には無理があること。
b.将来、アルバム代・学費・入学に関する厖大な費用の必要なことを考慮して。
3.常に堂々たるプライドを以て行動すること。
a.旅は赤裸々な人間の表裏を暴露~学生らしい品位を。
b.「旅の恥はかきすて」は没道義的・没人間的個人主義であって奴隷制・封建制時代の旅の一面である。
c.服装は制帽・端正な衣服で、飲酒・喫煙は禁止。
4.健康に留意し、危険防止に注意を。
a.睡眠・汗の処理・食物・風邪注意
b.危険な処に立ち寄らぬこと。夜の行動に於いて街のあんちゃん・客引きにひっかからぬこと。雑踏の中には掏摸が多いこと。
三、参加者の資格 全員参加の必要なし、無資格者は参加を許可しない
1.目的をしっかり自覚している者。
2.肉体的精神的条件が有意義な旅行を可能とする者。
3.学校や引率者の命令・指示に的確に従う者~服装その他
4.家庭の状況、特に家計が修学旅行を可能とする者。
5.学費完納者~未納者は家計に無理を及ぼし家計上悪影響があり、生徒保護者共に学校に対し徳義に反することになる。
学校行事でありながら、事前から計画的に費用の積み立てを行っていなかったことで、急な決定であったことが想像されます。そのために、家庭への負担の大きさを配慮して、学費の未納者には参加を認めず、希望者だけの修学旅行となりました。当時の旅行では、外食用の外食券が必要だったが、今回の生徒が食べる米は各自持参とされ(注8)、参加費に加え服装などにも規定があったので、それらを工面することは保護者にとって重い
負担でした。学校も生徒には保護者へ過重な負担をかけないようにと呼びかけていました。そのために参加者は6割に至らなかったのでした。(注9)
この修学旅行の目的には、単なる観光見物ではなく、首都東京や名古屋のような戦災都市の復興の姿を直に見ることにありました。そして、これからの日本の復興と発展を担う若者に育ってほしいという願いがあったのでしょう。
4日間の日程ほとんどが雨の天候でした。たった1枚の鎌倉での集合写真は、雨の中での撮影だったため、10月下旬にもかかわらずコートを着用しています(写真5)。旅館泊はたった1泊だけのため、生徒たちはアイロン代わりに就寝前から敷布団の下にズボンを敷く寝押しで翌日に備えたそうです。身なりを整えることには抜かりがなかったのでした。その旅館の待遇は非常に悪かったと述べられています。(注10)東京駅での集合時刻22時というのは、教員と生徒たちのおおらかな関係があったからかもしれません。夜の自由行動では、さまざまな場所で女性に声をかけられることがあり、当時の流行歌「星の流れに」の歌詞に登場するような現実の女性の姿を目の当たりにしたそうです。(注11)
写真5 戦後初の修学旅行写真(1950年高校卒業アルバム)
その後しばらくは東京方面へと続く修学旅行となりましたが、2年後の1951(昭和26)年からは、行程が大きく広がり、卒業アルバムにも写真が多く掲載されています。
写真6 バス乗車前(1951年卒業アルバム) 写真7 箱根十国峠(1952年卒業アルバム)
2)立命館中学校 (10月26日~29日 四国方面)
参加生徒210名(学年全生徒234名)。費用は1,240円で小遣いが300円。
引率者は教頭、看護婦、担任4名。これになぜかPTA会長が加わっていました。
10月26日 21:20 京都発宇野行乗車
寝台ではなく客車に一般客と一緒に乗車
27日 朝 乗船 宇野発女木島(愛称は鬼ケ島)着 島内の洞窟見学
乗船 高松港着
金比羅山参詣
宿舎の旅館到着 枕投げ、障子を破り壊すなど夜の12時頃まで騒いで
殆んど寝られなかった。
28日 朝 朝食をすませて出発 (各自が旅館からの握り飯持参)
栗林公園から屋島登山(道路は未開通)
下山後、高松市内散策【市街の戦災復興を確認】 夕食
夕 高松港から神戸港行に乗船(船内は満員で暑かった)
6:00 神戸港到着 ~徒歩~ 諏訪山公園(睡眠不足でさらに疲労)
~ 朝食 ~ 電車で京都駅へ
この旅行の主な交通手段は船でしたが、以前から海運事故があったので、旅行への不安はあったそうです。(注12)高校同様に中学校も旅館宿泊は1泊のみでした。この時の教員の話では、せっかくの宿舎の浴場であったのに生徒たちはほとんど入湯しなかったそうです。裸になるのが恥ずかしかったかと語っています。
この事故以降、修学旅行を積極的に支持する方向で、次のようなことが行われています。
1949(昭和24)年 国鉄の団体割引復活。
1950(昭和25)年 文部省の修学旅行規制緩和
1954(昭和29)年 国鉄の専用列車による連合輸送開始
このように、修学旅行は確実に復活へと進んでいったのでした(写真8)
(写真8 1951年中学校卒業アルバム)
3)神山中学校高等学校
上賀茂神社からの払い下げによって設けられた立命館大運動場に、1941(昭和16)年に設立されたのが立命館第二中学校(神山学舎)でした。1947(昭和22)年に京都市からの委託を受けて男女共学の立命館神山中学校が、翌1948年に男子校の立命館神山高等学校が発足しています。
神山中学校高等学校に関する資料はほとんど保存されていませんが、「神山学園新聞」(注13)によると、以下のような行事記録が紹介されています。
1949(昭和24)年10月18日 高校初の修学旅行(四国方面)
1950(昭和25)年10月24日 中学校初の修学旅行(四国方面) 高校も実施
1951(昭和26)年10月16日 中学校(東京方面)
10月20日 高校(九州方面)
神山中学校高等学校は、1952年4月に立命館中学校高等学校(北大路学舎)へ合併されたため、1951年が最後の実施となりました。
(写真9 1951年神山中学校卒業アルバム)
4.修学旅行の今
このように初めての修学旅行は、厳しい交通手段によるハードな日程で実施されていましたが、それでも生徒たちにとっては学校生活における楽しい思い出として記憶に残されたことでしょう。
立命館高等学校では、その後に関東や東北、九州へとコースを変えたり、見学旅行という名で中国・四国や伊豆大島へ行ったりとしていきますが、1971(昭和46)年の実施をもって中止されました。修学旅行検討委員会によるまとめでは、修学旅行が単なる観光旅行化して本来の学校行事としての目的に適さなくなったことなどを理由にあげて述べています。
それが、中学校高等学校の男女共学化4年目(1992年)から生徒会を中心として積極的に復活への取り組みを行い、1994(平成6)年に自分たちの手でつくりあげる修学旅行として北海道コースで復活となりました。
近年の修学旅行は、目的も内容・形態も多岐に渡り、単なる旅行から研修へと変化しています。海外研修は、立命館小学校から中学校、高等学校まで実施されるようになりました。学校行事における位置づけも高くなり、今後もまだまだ変化していくことでしょう。
2018年8月1日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
(注1)学校新聞「立命館タイムス」第1号(昭和22年11月27日発行)
(注2)昭和22年11月26日付 大阪府教育部長の修学旅行自粛通牒
(注3)「国鉄乗車券類大事典」 JTB刊 2003年
(注4)立命館タイムス第11号(昭和24年12月15日発行)の座談会記事「修学旅行をかえりみて」では高校3年生240名中143名が参加と記述されているが、卒業アルバムの修学旅行集合写真には生徒128名しか写っていない。
(注5)「昭和を歩む野の小径」 上田勝彦著
(注6)高校第1回卒業生今井昭三氏寄贈資料
(注7)上田教諭宅に残されていた訓示要旨メモ
(注8)当時は、まだ米穀通帳が必要で配給米制が続いていて、国民が自由に購入することができなかった。そのため、
(注9)米は各自持参とされていたが、持参せずに他の生徒から強引に拝借する生徒もいたそうである(昭和24年卒同窓会)。また、立命館タイムスの「声」欄には、「ボスを廃して学友会の情実を去れ」と題して次のような投書もみられる。「生徒の中にボス的存在ともいうべき生徒が少数おり、正しき者を妨害しているようだが、これは改正された。また、学芸部、運動部の各先生がその部員に対して情実が多分に有る様に思うが、これはどうかと思う。私は正しき美しき公平な学園を希望するものである。」 (第7号 昭和23年7月18日発行)
(注10)学校新聞「立命館タイムス」座談会「修学旅行をかえりみて」第11号(昭和24年12月15日発行)
(注11)この旅行に参加した高校第1回卒業生の集まり(2018年4月17日開催)でのインタビュー。
(注12)日本国有鉄道(国鉄)宇高連絡船紫雲丸が1947(昭和22年)からの9年間で5度にわたって事故を起こしていて、1955(昭和30)年5月11日には小中学校の児童生徒教職員が108名も亡くなるという最大の被害をだした。
(注13)学校新聞「立命館神山学園新聞」第8号 (1952年2月21日発行)
「神山の十年を偲んで 顧みるその足跡」
2018.08.01
<懐かしの立命館>貴船演習林
立命館には演習林があります。貴船演習林といいます。
所在地は京都市左京区鞍馬貴船町と鞍馬本町で、貴船神社の北、京都府道361号上黒田貴船線沿いに1号地から5号地まであります。
面積は合計232,829㎡で、衣笠キャンパスが125,720.88㎡(2017年3月現在)ですから、そのおよそ2倍の面積となります。
≪演習林の取得≫
市街地から離れた貴船演習林は、いつどのような目的で取得したのでしょうか。
史資料センターに取得当時の土地登記簿謄本が所蔵されています。
買主は財団法人立命館、売主は無限責任摩気信用購買利用組合で、昭和18(1943)年12月28日に売買契約をし、昭和19(1944)年4月17日に登記したことがわかります。摩気信用購買利用組合は当時京都府船井郡摩気村にあった組合で、現在の地名では南丹市園部町摩気地区にあたります。現在組合は無く、売買の経緯は不明です。
取得時と現在(1992年の土地登記簿謄本)では、所在地名が変わっていますが、場所は同じです。地目が山林から保安林に変更されていますが、変更は昭和32(1957)年9月17日の京都府による保安林指定によります。面積は、取得時が71,195坪(㎡に換算すると234,943.5㎡)、現在は232,829㎡(坪に換算すると70,554.24坪)ですから若干減少しています。この減少は、昭和22年に府道を整備するために京都府に寄附したことなどによります。
≪取得の経過と利用≫
(1)取得後の寄附行為と背景
演習林を取得した目的は、財団法人立命館寄附行為に書かれていることにあると考えます。
取得後の昭和19(1944)年5月31日に改正認可された「財団法人立命館寄附行為」は、
第10条 本財団ニ於テハ将来其ノ資力ノ充実ヲ保チテ左ノ事項ノ実行ヲ期スルモノトス
そしてその六に、本財団ニ於テ山林及農場等ヲ経営シ生徒ノ勤労鍛錬ノ道場ト為シ土地ニ親シム勤労鍛錬ヲ以テ学園訓育ノ基本的施設ト為スコト
とあります。それ以前の寄附行為には上記の条文は見当たらないことから、立命館は山林や農場等を経営し生徒の勤労鍛錬、訓育の施設としたことが窺えます。
時代背景を考えると、戦況の悪化により学校に関係する戦時非常措置だけでも
昭和16(1941).10.16 「大学学部等ノ在学年限又ㇵ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」
〃 11.22 「国民勤労報国協力令」
昭和18(1943). 6.25 「学徒戦時動員体制確立要綱」
〃 10.12 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」
昭和19(1944). 1.18 「緊急学徒勤労動員方策要綱」
などの勅令公布や閣議決定が次々と打ち出されました。
また京都府は、「大東亜戦争記念林設置要綱」を制定し、昭和17(1942)年11月20日に「大東亜戦争記念造林設置奨励ニ関スル件」を市町村長、中等学校長、国民学校長に宛て通牒しました。
通牒は「今次事変勃発以来木材木炭ノ需要俄ニ増大シ……造林ヲ促進スルハ焦眉ノ急……全国的ニ大造林運動ヲ展開シ併セテ学徒青少年等ガ造林作業ノ実践ヲ通ジテ心身ノ鍛錬ヲ行ヒ広ク国民ニ国土愛護ノ精神ヲ昂揚セシムル事……」(「京都府広報」昭和17年11月20日)と、学校林および団体林の設置を奨励しました。
さらに昭和18年7月16日には、「大東亜戦争記念学校林造成奨励金交付ノ件」を通牒し、学校林造成実施について格段の配慮をするよう通牒しています(「京都府広報」昭和18年7月16日)。
こうした戦時の国策や行政の施策が実施されるなか、勤労動員先は企業の工場以外にも木材や食糧等の物資の調達のため山林や農場を確保することとなり、生徒の勤労・訓育の場となりました。
演習林取得とその後の寄附行為の改正は、そうした戦時の状況を反映しているのではないでしょうか。
(2)「督学報告」の勤労動員先
それでは立命館において、演習林が実際にどのように利用されていたのでしょうか。
昭和19(1944)年4月立命館では督学制度が始まります(注1)。中川総長が「督学」を任命し、督学は総長に毎月大学や中学校の学徒勤労動員など学校の状況を報告しています。
その「督学報告」のなかの立命館農林部作業学徒勤労動員出動表の昭和19年6月分には、衣笠農場(注2)に一中・三中・商業の生徒が勤労動員に出動、貴船山林に一中502人、商業672人が出動していることが記録されています。中学生はほかにも小倉村などへ麦の取入れや祝園部隊に軍需品の製造搬出作業などに行っています。
同年7月にもやはり衣笠農場と貴船山林に出動し、貴船では一中の219人が樹枝伐採、木材引下しの作業を行っています。
さらに、11月10日には二中の生徒が貴船山の作業に出動しています。
督学報告からは、農林部が衣笠農場や貴船演習林の作業を手配していたと思われます。
なお、一中は立命館第一中学校、三中は立命館第三中学校、商業は立命館商業学校で、北大路学舎(現在立命館小学校のある場所)にありました。また二中は立命館第二中学校で上賀茂神山校舎にありました。
(3)農林課
督学報告には農林部の存在が知られますが、同じ昭和19(1944)年12月29日、理事会は立命館基本機構および各部機構の設定を実施します。これは中川総長が10月7日に逝去した後の学園体制づくりですが、法人の事務部門を総務部・財務部・事業部・医務部とし、事業部のもとに農林課・企画課を設置しました。
この機構改革は、翌昭和20年1月6日の理事会で「立命館内規」として制定され、農林課は農林経営事務を統括し、教職員、学生、生徒の給食、学園に必要な用材、薪炭の補給等をその担当としました。
そして戦後、昭和21(1946)年1月6日の理事会で内規が改正され「立命館館則」に改められ財団の機構整備が図られます。法人事務部門として総務部・財務部・医務部が置かれ、総務部のなかに庶務課・人事課・農林課・校友課が設置されました。農林課は農林の経営企画を統括しました。
昭和23(1948)年2月現在の「立命館専任職員名簿」には、農林課長、農林技手の職名が見られますが、昭和23年5月31日の改正館則では農林課の課名は見当たらず、財務部経理課が不動産管理業務を担当していることから、農林部・農林課は戦中からこの時期にかけて演習林の経営を担っていた部門・部署であったと言ってよいでしょう。
(4)戦後の演習林
①演習林立木の利用と土地一部処分
昭和22年12月19日、評議員会は「基本財産貴船演習林立木及び土地一部処分」を決定しました。
新制大学への移行をはかるこの時期、学舎の狭隘と新学制の実施に対応するため、研究所、図書閲覧室、学友会館を建築するものとし、その用材を貴船演習林の立木三千石を伐採して充当すること。また京都府が黒田京都間の道路を拡築するについて道路敷として寄附をすることとなりました。道路が完成すれば著しく利便が増すとの判断でした。
評議員会の決定により、同月22日に文部大臣宛「基本財産処分について」により処分の承認を申請しています。
その内容は、貴船山林の松杉立木三千石を校舎増築のため処分すること、および府道敷のため鞍馬長ユリ7番地のうち419.025坪と貴船長ユリ5番地のうち321.825坪、計740.85坪を京都府に寄附するというものでした。
②間伐樹木の売却
昭和26年には演習林の間伐樹木2,791本(見込材積1,136.18石)および風害木約400本を356,582円で売却の契約をしています(注3)。ジェーン台風により被害を受けたことが契機となったようです。
(注1) 督学は戦時下の立命館財団一般事務の整備ならびに学園全般の教授、訓育、修錬勤労作業および保健等の振興について査察、督励をし、戦時国家の緊喫要請に応えることを目的とした制度(昭和19年「立命館督学規程」より)で、4名の督学が任命され実施されたものです。なお、当時文部省は、「文部省教学官規程」を制定していました。
(注2) 衣笠農場は、現在の衣笠キャンパスの一角に、当時は等持院校地と言われましたが、昭和23年頃までありました。農林部や農林課があったので、食料の生産、自給活動が実施されたと思われます。
(注3) 現在とは材木価格の比較が困難ですが、同年(昭和26年)の立命館大学一部文系
学部の授業料は年額9,500円でした。
以上、貴船演習林取得の経過と戦時期の利用、戦後の立木の利用・処分について概観しました。その後、山林・立木の鑑定評価も行っていますが、維持管理は委託により今日まで継続してきています。
2018年8月1日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2018.06.14
<懐かしの立命館>戦後初の付属校学校新聞「清和」発刊~旧学制から新学制へのかけはし~
1947(昭和22)年2月1日、戦後初めての旧制立命館中学校新聞「清和」が発刊されました。
1.戦後の世相と新制中学校・高等学校
発刊された当時は、戦後の激動まっただなかの時代で、敗戦後の価値観の変動、民主化への試行、国民生活の疲弊と猛烈なインフレなど、どれ一つをとっても大変な時代でした。
1946(昭和21)年11月に公布された「日本国憲法」に基づいて、教育界でも制度の改革が進み、1947年3月31日に「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、4月1日から新制中学校が、翌1948年4月からは新制の高等学校が誕生します。
新制の中学校・高等学校になると、多くの学校で生徒が主体となった新聞が発行されるようになりますが(注1)、立命館中学校ではまだ旧制であった1947年2月に、はやくも生徒主体の学校新聞「清和」が発行されたのでした。
生徒有志による「清和」の発行は、第1号だけしか確認されていませんが、終戦から1年半で発行された「清和」の記事には当時の民主化・言論の自由化の雰囲気のなかでの生徒たちの熱い思いが凝縮されていました。
2.1947(昭和22)年の旧制立命館中学校の姿
学徒勤労動員で長く学校を離れていた生徒たちが終戦後に学校へ戻りましたが(注2)、教科書も十分に揃わず(写真1)、授業も何を教えてよいのかわからないような手探り状態のなかで授業は再開されました。今までの価値規範が崩壊し、生徒たちは自分たちを支配していた政治の間違いを知り、これからどう生きるかを模索していました。このなかに、戦後の民主主義国家建設に向けて、自分たちが主役となるのだという大きな希望に胸膨らませている生徒もいました。
写真1 当時の教科書(1946年5月発行の「中等数学三」) 史資料センター蔵
3.生徒たちの熱い思い
このような生徒たちによって、立命館中学校で初めての学校新聞が、1947(昭和22)年2月1日に発行されたのでした。
紙名の「清和」は、中学校商業学校の同窓会「清和会」の機関誌と同じ名前でした。題字は当時の部長(6つの付属校を統括する役職名)羽栗賢孝(注3)によって書かれていました(写真2)
奥付には編集人として「立一中 山本弘之、則松郁人、大村茂雄」(3名は共に立命館第一中学校4年生)。そして、大津市の印刷所の名が記されています。
この第1号はB5版16頁にわたる大作で、記事のタイトルと内容には、当時 の生徒たちの民主主義への熱い思いで満ち溢れています。
新聞の顔である第1頁を飾ったのは中学4年生の編集人大村茂雄(注4)による『発刊に際して』でした。戦前の学校誌の順序からすれば、「立命館禁衛隊」(注5)などのように学校長の祝辞や訓示、訓話が掲載されているところが、生徒による文章がトップに位置し、レイアウトや体裁は未熟ながらも、その内容には敗戦後の日本や学校を自分たち若者が中心となって建設していかねばならないという大きな希望と強い使命感が湧き出ているのです。自分たちの生活は政治と密着していると考え、国家を論じています。これこそ新時代の息吹といえるものでした。
写真2(「清和」第1号 1頁)
※画像をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。
大村茂雄の投稿は次のような内容でした。
「敗戦、此の苛酷なる現状より立上り、一刻も早く民主的學園を建設し、幸福な住みよき社会を構成するのは、我等に課せられた、最も重大な使命でなくて何であらうか。
敗戦此の方、一年有半、超国家主義と、軍国主義打破に伴ふ、學園民主化の叫びは、我等立命館學徒を、如何程自主的にし、又向學心を奮起せしめ、且又進取的ならしめたか。渾沌たる社会の荒波にもまれつくした、我等の中には、遂にとるべき方向を誤り、自覚の念を失ひ、自由と放縦とを履き違へ、學徒にあるまじき行為さへも敢てし、世人の顔を背ける様な態度に出ずるものが多々あるのは、否み難き事実である。斯くの如き実情を放置すれば、我學園の存続は、最早憂慮すべき状態となるであらう。だが、一學園の興亡と云ふことより、もっと留意し、真面目になって考へなければならない問題は、我等青少年學徒の精神遅緩によって、此の乱れた社会が益々乱れ、頽廃せる道義が益々頽廢し、果ては、我民族の滅亡を招くと云ふことである。此處に我等は、大いに反省し、大なる理想を持って、世界人類の幸福發展のために進まねばならぬ。それとともに、一時の迷いに踏込んだ人々を善導するのも我等の仕事の一であらう。
學校生徒自治會が發足し、學徒の自治機関は構成されはしたが、果して、其の活動振りは如何であったらうか。上辺に走り、末端にとらはれ、學徒の本分を忘れ去った様な状態が伺はれるのは遺憾なことである。勿論、戦争中軍国主義によって教育され、上司の云ふがままに動かざるを得なかった我々に早急に自主的たれと要求するのは無理である。しかしそうかと云って、いつまでもその状態でよからうか。否、一刻も早く、真の自由に目覚め、民主學園の建設に努力しなければならない。しかるに今の學徒が全般的に思想が貧困であることは大いに憂慮すべきことである。
今回、有志者による月刊紙を発行することになったが、勿論未完成な我々の編集による、拙い一紙ではあるが、少しでも立命館學徒の啓蒙運動に貢献することが出来得れば編集人として最も幸甚とするところである。
経済的、内容的に最も困難多き、此の事業に敢て当らんとする、我々の志を諒として、其の目的達成の為に校友諸君の絶大なる御後援を切望する次第である。」
また、『新聞発刊へ望む』と題して投稿した第三中学校三年の船越力は「……此の新聞が校内民主化の重要部門となり得るものであり、校内の重要発展を全生徒に知らしめて学園民主化の先駆たる事を確信する次第である。」と、学校新聞の意義と役割を説いています。
匿名で生徒が投稿している『学園の民主化について』と題した記事では「学園の民主化の道に立塞っている怪物とは何か。軍国主義、封建主義、超国家主義である。而もこの怪物の多くは鎧を巧みに民主化の衣の下に隠しているのが常である。……先生と生徒との関係をより緊密にし、真理の探求への道を互いに手を執って愉快に進ましめるものである。」と述べています。大人以上に鋭く社会の裏側を見抜いていました。
4.教員たちからのエール
これら生徒たちの投稿に対して、大人たちは若者の力に期待と賞賛のエールを送っていますが、裏を返せば、戦後社会に希望を見出せずにいたのかもしれません。
第1頁の生徒の文章に続いたのは、卒業生で母校の立命館第一中学校の教諭となっていた小山五郎(注6)の『生徒諸君の自主的な月刊紙の創刊を祝して』でした。立命館の生徒が自主的に新聞を発行することが、これからの日本の再建にとって欠かせない力となっていくはずだと絶賛しています。母校が成長する姿に感慨もひとしおだったのかもしれません。
「……敗戦後、本学園に於ける生徒諸君の自主活動のうち、極めて意義ある企であるのみならず、中等学生として全国的にみて極めて進歩的、建設的、且つ画期的な試みであると信じ、ここに満腔の賛意を表すると誠に慶賀に堪えません。……諸君等の中から盛り上がる自覚自治の態度の確立こそ、将来に於ける日本の再建を一日も早からしめる重大な鍵でなければならないと信じるものであります。……諸君等による学園新聞の刊行が極めて意義ある企であると共に従来の種々の自主活動に対して画竜点睛的な意味を有つものとして絶大の賛辞と敬意を感ずるのであります。……」
校長平口正雄(注7)は『井蛙論』と題した文章のなかで、田沼父子を例に出して、客観的に物事を見ることの大切さ、科学的であり合理的な物の考え方がこれからの日本人にとって必要であることを強く述べています。そして、最後には生徒たちに井戸から出て、希望多い新しい世界への第一歩を踏み出そうと強く呼びかけています。
社会科教諭の柳田暹瑛(注8)は『若さと言ふこと』と題して、祖国日本を新しく再建し、明日の日本を建設するのは、高い教養を身につけ、いかなる障碍をも越えて真実を追求して生きる情熱の青年でなくてはならないと述べています。
5.「清和」から見える当時の学校生活
学校新聞「清和」からは、当時の学校生活の様子も知ることができます。
則松郁人(編集人)は、当時の狭い運動場とクラブ活動の様子を「競技には勝ちたい、ガラスは割らないようにしたいと思ったところで、猫の額ほどの狭い運動場で生徒たちが休み時間に球技で遊び、放課後も運動部の練習に励んでいる。その結果、校舎の窓ガラスが何十枚と割られることになってしまっているが、修繕が追い付かないでいる。猫の額ほどの運動場では野球、庭球、陸上競技が練習していて、その上にラグビー、ホッケー、サッカー等の部を設置したいという声があがっている。部員たちは猛練習をして試合に臨んでいるが、応援席は閑散としている。」と嘆いています。
後に新制の学校として生まれ変わっても、北大路学舎の狭隘な環境のなかで育つ生徒の姿は最後まで変わることはありませんでした。
また則松は、「読書雑感」で学生にとっての読書が重要であると述べながら、学校設備の不十分さを「次号からは書評なども掲載していく予定である。….ただ残念なことに、本校には図書室もなければ読書研究会も蔵書交換会などもない。図書室の設備のないような中等学校は自慢にもならず全国でもそうザラにはない」と訴えています。
このことに関しては、学校側もその現状打開のために努力していました。勤めて2年目の教諭上田勝彦(注9)は「講堂を自習室として開放し、図書部を早急に講堂横に設け、生徒より部員を募りその活動により生徒の読書、自習の便に供せんとの計画を立案する。そこで図書を整理したところ、予想以上に多くの図書が欠本していることが判明した。これは長期間責任の係がなく、教員が自由に図書を持ち出したからである。教員の教育を通しての祖国復帰への熱意の薄さを憂う。一冊でも多く回収して漸く芽生えてきた学園の文化的向上の意欲にそうべく貧弱極まる図書室を充実したい」と悲惨な現状と教育者としてなすべきことを振り返っています。
部活動では野球部、卓球部、庭球部、陸上競技部などの名が並んでいます。文化部では弁論部の活動が抜きんでていました。戦後、まだ学校新聞が民主化へ十分な活躍のできていなかったころ、啓蒙のための最高の手段は弁論(言論)でした。そのため、弁論部は全国的も花形クラブで、立命館でも然りでした。
文化部では他に生物班、美術部などに加えて特筆すべきは聖書研究会でした。部員は約20名で、校内では月水の朝8時からの活動で聖書を読み、英語を通じて世界の文化を研究していました。また進駐軍牧師大尉が来校して講演したり、日曜礼拝も行ったりしていました。研究会の創設から活動を指導していたのは、英語科教諭鈴木七郎(注10)でした。終戦後2年も経たないなか、男子校にあってこのような活動が続けられていたことに驚かされます。
コラム欄には、生徒の生の声が紹介されています。既述の「立命館禁衛隊」(注5)にはなかったもので、自由な時代の息吹が感じられます。そのいくつかを紹介すると、「つまらない方がいいのは煙管と煙突だけ」「『ゲタハキモノ』を『下駄は着物』と思ったら『下駄履物』だト。漢字制限の悩み」「桃色雑誌の発刊停止は学生、生徒へコーヒーをより多く飲ませる為の警視庁の非常措置となるのでは。真に憂ふべき事であろう」(写真3)
6.新制立命館中学校高等学校「立命館タイムス」の誕生
「清和」発行当時は、紙不足が全国的に深刻で、大手の新聞社でさえGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの圧力によって教科書作成のために発行を縮小し、紙を教科書に充当しなければならないような時代にあって、どのようにして生徒たちは費用を捻出し紙を確保したのでしょうか。GHQによる「学園の民主化と言論の自由化」の一環として全国の学校新聞の発行のために何らかの特別措置があったのではないかと考えられますが、これは1948年の新制高校誕生以降のことです。
学校新聞発行にはこのような厳しい状況がありましたが、それでも「編集後記」(写真4)には第1号発行までの経過と反省、そして次号予告が次のようにまとめられています。
「新聞の発刊は、よほど以前から羽栗先生たちで企画されていたが、第1号は計画と発表があまりに急で、準備が十分にできなかった。写真やカットがなく、紙面にも活気が感じられない。次号からは父兄欄、読者欄、映画欄などを設置して多くの記事が編集室の机上に山積するほど集めたい。先生の書かれたことであろうと間違っている、自分の方が正しいと信じる人は忌憚なく堂々と書いてください。匿名は守ります」
写真3(「清和」第1号16頁)
※画像をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。
第2号への期待と抱負はしっかりと書かれていました。しかし、残念ながらその第2号は確認されていません。
第1号発刊から2ヵ月後、「教育基本法」・「学校教育法」が公布され、4月1日に新制中学校が発足されます。立命館中等部新聞部によって学校新聞「立命館タイムス」第1号(注11)が発刊されたのは11月27日のことでした。「清和」創刊から僅か9ヵ月にして、一般紙と比較しても見劣りしないほどレイアウトや体裁は大きく技術を進歩させています(写真4)。こうした特徴は新制高校で全国的にも見られるようになり、新しい時代の学校新聞として本格的な展開が行われていくことになるのでした。
この「立命館タイムス」については、改めて紹介することにします。
写真4「立命館タイムス」第1号1頁
※画像をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。
2018年6月14日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注1:「立命館タイムス」(立命館中等部新聞部)第5号1948年3月11日付記事から作表
注2:学徒勤労令廃止 (1945年10月10日)
注3:羽栗賢孝は、1940年に立命館中学校・商業学校夜間部社会科教諭として奉職。1942年3月から44年3月まで第一中学校・第一中学校夜間・商業学校の校長を務め、1945年1月から48年5月までを中学部長として各付属校を統括した。
注4:大村茂雄は昭和23年立命館第一中学校卒業。「脚に障害をもちながらも野球部に所属し、速球投手として活躍していた」と2学年後輩の卒業生が語っている(新制高校第1回卒業生S.I氏談)。1961(昭和36)年から1970(昭和45)年まで立命館高等学校で数学の非常勤講師を勤めた。
注5:「専ら立命館中学校並びに立命館商業学校の人心の統制、学術の奨励を目的として発行された月刊誌で、この機関誌には生徒の詩編や随筆文も掲載され、生徒と父母への学園広報誌としての意義を持っていたが、(中略)、学園の教育理念を徹底する啓蒙的役割を果たしていた」(立命館百年史 通史1 p462)
注6:小山五郎は旧制立命館中学校1932(昭和7)年卒業。1939(昭和14)年から1974(昭和49)年まで立命館中学校高等学校で社会科教諭として在職。新聞部や社会研究部などの顧問を務める。立命館中高創立50年の時には校史のまとめに尽力した。
注7:平口正雄は異色の学歴と役職をもつ。戦前に京都帝国大学動物学科と東京帝国大学獣医学科卒業の学歴をもつ。1945年10月に立命館第一中学校に奉職。47年から第一中学校校長、48年に高校校長となるも、2ヶ月足らずで退職。京都府教育委員会に入り学校教育部長を務めた。その後、56年に再び立命館中高教諭となり、60年から63年までの間、中学校校長と高校校長代理の職についた。
注8:大津の三井寺の僧侶でもあった柳田暹瑛は、弁論部の顧問を務め、全国弁論大会で優勝する生徒まで育てている。この頃の柳田は、よく生徒たちを「裸木」と例え、若者たちが教育によって育ち未来に羽ばたくことを常に授業でも熱く語り続けていたと、当時、柳田が学級担任をしたクラスの卒業生は語っている。この時の生徒たちは、卒業後、毎年「裸木会」という名のクラス会を開催していて、現在は学年同窓会の名に拡大して継続している。柳田の教えが今でも卒業生たちに行き続けている(1953年高校卒Y.S氏談)。
注9:上田勝彦著「昭和をあゆむ野の小径」 p21「図書部の創設に就て昭和22年5月」
上田は東京帝国大学国史学科卒業。陸軍に入隊し中尉で終戦を迎えた。28歳で立命
館中学校に奉職。立命館中高の教育発展のため多大な努力を惜しみなく続け、当時の
末川博総長からの信頼も厚く、1963年から66年には現在のような一貫教育校として
初めての中高校長となった。
注10:鈴木七郎は1937年に商業学校英語教諭として奉職。新制中学校高等学校の教諭を勤めながら、立命館大学の英語講師も兼務。1961年から63年まで高等学校補導部長の役職に就いた。英会話が堪能で、GHQが北大路学舎に乗り込んできた時に一人で対応されたというエピソードは、当時を知る卒業生たちの有名な思い出話である(新制高校第1回卒業生S.I氏談)。
注11:生徒の公式の活動として新聞部が設けられ発行された学校新聞。1947年11月27日に第1号以来、1976(昭和51)年12月15日の第126号まで29年間にわって刊行し続けられてきた。発行所は1号から5号までが「立命館中等部新聞部」、6号から10号までが「立命館高等校中学校新聞部」、11号以降は「立命館高等学校新聞局」となっている。
