立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2017.12.20

<懐かしの立命館>戦後初期の立命館中等教育を支えた女性教職員たち

1945(昭和20)年815日は、新しい平和日本の出発点でした。教育の民主化も連合軍の占領政策の一環としてさまざまな政策が実施されました。新しい教育制度のもと、女性の教育への参加も急速に進みました。立命館学園においても「平和と民主主義」を教学理念に掲げ、多くの課題と向かいながら新たな学園づくりへと進みだしました。それは決して明るいだけの道ではありませんでした。

ここでは、戦後まもない頃に付属校の教育改革に参加してきた女性教職員の姿を紹介していきます。(なお、紹介する方々は、内容によって実名表記とイニシャル表記の方とに区別しています)

 

1)戦前までの立命館中等教育と女性教諭

 立命館の付属校の歴史は、1905(明治38)年、当時の大学敷地内に設立された清和普通学校に始まります。その後、校舎は北大路(当時の住所は上京区小山上総町)に移され、商業学校や夜間部などを設立し、また上賀茂(神山(こうやま))に拡大移転され、校名変更も経て第一から第四までの立命館中学校と工業学校に拡大していきました。

旧学制では、小学校以後は男女別学のため、立命館の付属校も男子校として発展をしてきました。そのなかにあって、極めて少数ながらも女性教諭が中等教育を支える一員として勤務していました。
 (ア)サウター教諭(1909年~1931年まで在職)英語科で主に上級生の英会話担当。

        詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>「明治・大正における立命館中学の英語教育とそれを支えた外国人女性教員」参照。

 (イ)H.T教諭(1928年在職)英語科で主に1,2年生の発音・綴り方担当

    上記サウター教諭と共に当時の新聞には「中学校に婦人教員を採用する例は他に一二あるが、我京都府下では立命館中学が最初のものであると云ふ」と紹介されています(注1)。翌年の教職員名簿に氏名が記載されていないので在職期間は不明。

 (ウ)S夫人教諭(1929年在職)英語科で商業学校の英会話担当

    当時の立命館大学で教鞭をとった講師のS氏夫人とだけ紹介されていて、名前も在職期間も不明。(注2

 (エ)M.T教諭(1944年まで在職)中学校と商業学校の武道(杖術)担当。

    薙刀術の指導者として高等女学校や女子師範学校、大日本武徳会薙刀術教員養成所主任教授などを歴任。立命館では1928(昭和3)年に中学校嘱託として指導を始める。その後に他校へ移るが、戦争の長期化によって武術を教えられる男性教員が応召されて減少したため、1941(昭和16)年から再び女性教諭が男子生徒に杖術を指導するような状況になった。在職期間は不明。

 

 2)戦後初の女性教諭たち

   戦後における中等教育の大規模な再編で、義務教育の年限延長の基本方向のもと、旧制中学校は新制の中学校(1947年)と高等学校(1948年)に転換されます。これによって立命館でも北大路に中学校・高等学校と夜間高等学校、上賀茂に神山中学校・高等学校と5つの付属校が開校されることになりました。但し、神山中学校は当時の四カ村(旧愛宕(おたぎ)郡の岩倉村・鞍馬村・静市野村・八瀬村)との委託契約で生徒募集を行ったため、立命館と名はつくもの男女共学で地元の公立中学校的位置づけになっていました。その他の付属校は男子校のままでした。

   新学制になってから立命館は女性教諭を採用しています。新憲法の下での男女平等と、中学校の教育課程に音楽や家庭の教科が新らたに設けられたことなどが理由と考えられます。1947新制中学校の設立に併せた女性教諭の採用は以下のとおりでした。

(ア)S.K教諭(中学国語担当)

S.K教諭は1943(昭和18)年に女子高等専門学校を卒業し、1947(昭和22)年4月に立命館大学文学部二部(夜間)の国文科に戦後初の立命館大学女子学生として入学。その9月に立命館中学校に就職。S.K教諭を知ることのできる資料が立命館タイムス(注3)に2つ残されています。1つは短編小説(注4)で、もう一つの記事は「先生の言葉」というコーナーです(注5)。そこには戦後の新しい時代を生きる女性らしい視点で男子生徒たちを励ます気持ちが表されていました。

「まあ、男のくせに度胸がないのねえ。間違ってもいいから堂々と大きな声で答えるんですよ。

授業中の態度==多分それは学業への熱心さを表しているんじゃないでしょうか。

電車の中でつまらない流行歌を歌っている学生がいるわ。立命館の生徒じゃないかしら。」 

S.K教諭は1949(昭和24)年8月退職後、立命館第一中学校時代からの美術教諭で後に公立高校へ移られたK.Y教諭(日本画家として後に京都市文化功労者表彰を受ける)と結婚されています。在職時代にロマンスが生まれていたのかもしれません。

(イ)A.T教諭(中学理科担当

女子専門学校生物科を卒業後に就職。戦後まだ北大路学舎に在籍していた旧制中学校の生徒たちによって発行された「立命館タイムス」第1号にはA.T教諭が顔写真入りで「生理学より見た良心について」と題した投稿をされています。新しい時代のなかで新しい良心が育っていくという希望に満ちた熱い論調の内容です。翌1948(昭和23)4退職

(ウ)Y.F教諭(神山中学家庭担当)

戦前に結婚、戦後に教職へ復帰。就職の翌年に神山中学校となってからも教諭を続けましたが、1952(昭和27)年の神山中高の廃止・北大路併合によって北大路中高事務職員となり、その後は大学職員として定年退職。

 

 3)新風を吹き込む女性教諭たち

   占領下の軍政部の強い指導や勧告により、公立の新制中学校が劣悪な施設・教員という条件のもとに発足しました。京都市では194755日に新制中学校が一斉にスタートするも現場は何もかもが大混乱であったようです。そのため、翌年にはこれを敬遠して多くの男子の優秀な志願者が、立命館へ殺到してきたと考えられます。1948(昭和23)年の中学1年の新入生を迎えるにあたって、立命館中学校では執行部の意気込みが違っていました。この年度に入学の新1年生たちは、以後、中高合わせて6ヵ年の間、さぞかし注目されたことでしょう。
 新しい教育は女性の働く場にもなりました。当時の様子は、時岡喜代治元教諭の回顧録(注6)には「この年から公立校のように男女共学にこそ踏み切れなかったものの、男子校の立命館に女性教諭を一挙に5名も採用するという英断が下され、新1年生の学級担任や教科担任の決定にもそれなりの配慮がなされたようです。」。また、次のようなことも述べられています。

  「教員室の雰囲気も、期待を担った紅顔の新1年生と女子教員の出入りによってガラリと明るく変わり、前年度に較べて、私たち職場の空気も180度の転換を余儀なくされたように思います。よかれあしかれ、この年度からGHQ(連合国軍最高司令部)指令の新教育ムードが北大路学舎にも漲り出して、カリキュラムとか、ガイダンスと言った耳慣れぬ言葉がよく口に出されました。」

 

 (写真1) 新制高校の第1回卒業生となる1950(昭和25)年の高校卒業アルバム

2列目の右から友松教諭、E.N校医、Y.I教諭、E.K教諭、A.N教諭

3列目の右から2人目は後に中高校長となった上田勝彦教頭

 

   194841日付で採用された5人の女性教諭は次の方々でした。

  (ア)友松とし教諭(中学国語担当)

     女子専門学校を卒業後、教職につかれるも結婚などで一時離職後の就職で、生徒たちにとって母親のような存在。就職後に図書館司書の資格も取得、司書兼任で図書館利用の啓蒙に務められました。高校新聞局発行の立命館タイムスに投稿された記事からは、当時の学校の様子もよく知ることができるので、以下に主な見出しを紹介します。

「図書館あれこれ」第47195411月発行

「愛の泉はここにあり」第4819552月発行

「武谷三男編“死の灰”について」第4919553月発行

「青春の日によせて」第501955423日発行

「高校生の読書と図書館―調査にあらわれた実態―」第5119555月発行

「スライド設備 本校図書館に完成」第5719567月発行

「第二回優秀学校図書館に本校指定さる」第59195612月発行

「図書だより・竣工の喜びと新刊紹介」第74195912月発行


    こうして、友松教諭は中高の女性教員として最初の定年退職者となりました。

(写真2) 1955(昭和30)年中学校卒業アルバム 学級担任として  

 

(イ)E.K教諭(中学音楽担当

戦時中に臨時教員養成所を終了。京都市内の小学校を勤務の後に立命館へ就職。新制の高校教育課程で「芸能」(芸術とは呼ばれず)として設けられていたのが図画と書道で、音楽はまだ設定されず、ピアノはあるが使用できないような学校設備でした。E.K教諭は、生徒の大半が戦時中の軍歌や流行歌くらいしか歌えない状況にあった高校に音楽部を創設、その後は合唱部や軽音楽部を指導して音楽普及に務め、高校合唱部を部員40名もの大所帯に育てあげられました。立命館タイムスへの投稿「合唱礼賛」(注7)にはその熱い思いが語られています。1959(昭和34)8月に依願退職

(写真3) 1950年高校第1回卒業アルバム 音楽部

 

(ウ)A.N教諭(中学数学担当

女子専門学校を卒業と同時に就職。1951(昭和26)8退職

(写真4) 1951年中学卒業アルバム 中学所属の教職員、2列目の左から2人目がA.N教諭で、その隣がK.I教諭。1列目の右から3人目が友松教諭。3列目の右端が小川看護婦で左端がM.S看護婦。2列目の右端がK.N職員、3列目の右から2人目がR.N職員

 

(エ)K.I教諭(中学理科担当

   A.N先生と同じ学校(生物科)を同期で卒業、就職。1954年5月退職

(写真5) 1950年高校第1回卒業アルバム 生物部

 

   (オ)K.U教諭神山中学体育音楽担当

東京の女子体育専門学校中退して神山中学校助教諭で就職。1952年の神山北大路合併によって高校(北大路)専任講師に。その年6月に退職。神山中高当時から同じ職場にあったS・T教諭と結婚されています。立命館中高で誕生した職場結婚第一号でした。

当時の厳しい教育環境や教員の労働条件の様子は、上田勝彦元教諭(教員生活3年目の31歳で高校教頭を務め、その後に中高校長となる)の回顧録に詳しく述べられています。

「授業では外部からの騒音のひどいのに驚かされた。市電に面してコの字型に建てられた校舎に交通騒音がもろにぶつかって反響しあった。そのうえ校庭即運動場であったので体育での掛け声や歓声も教室に入り込み、普通の声では後ろに届かぬことがしばしばであった。(中略)

生活物資の不足と激しいインフレにはいささか閉口した。(中略)年二回ベースアップをしてもらったこともあったが焼け石に水で、遅配の場合は前借や昼食抜きの日が続いた。耐えられなくなって学校をやめる同僚もあった。(中略)新制の中学校、高等学校及び夜間高等学校が生まれ、これにともない五人の女性教員が中学校に迎えられて清新の気がみなぎった。また、教員の再教育が始まり、新憲法・教育基本法に基づく新教育が真剣に追求され始めた。こうした動きのなかで起こったのが学校民主化の動きであった。(中略)平均年齢が府下で最も高く50歳を超えるような教員集団のなかで徹底した議論を行い、民主教育を推進した。」(注8

また、上島有元教諭は「教員間の意識格差があります。一方は戦前からの禁衛隊を正史と考えている教員がいる。他方は戦後の平和と民主主義を実践しようとする僕ら若い世代の教員がいる。民主主義論をめぐる両者のズレが歴然とありましたね。」と座談会で語っています。(注9

 

戦前戦中とさまざまな人生を送りながら同期となった5人の女性教諭たちは、戦後の新しい教育と時代づくりに挑戦してきたのでしょう。しかし、現実的にはすべての面で教育の道を歩み続けていくには厳しい条件がそろい過ぎていました。その結果、それぞれの人生へと分かれていくことになったと考えられます。

 

 4)生徒の成長を支えた医務局(保健室)と看護婦 
  1943(昭和18)年末から翌年にかけて戦局の悪化に伴う看護婦不足が叫ばれるようになり、立命館のなかでも第二中学校の状況は厳しく、1944(昭和19)年4月では「看護婦一人も勤務シ居ラズ。医務室ヲ利用センコト無シ」とあり、6月には「時局の影響ニ依リ看護婦ノ雇入レ困難ナル為」(注10)という状態にまでなっていました。この時期に立命館に就職し、北大路学舎で長く生徒たちの健康管理に務められたのが看護婦(現在は看護師)の小川ステさんでした。

  小川さんは、長野県出身で京都府立医科大学附属病院看護科を卒業後、満州の炭鉱の病院に一年間勤務。退職後、19444月から看護婦として北大路で勤務。その後、広小路と衣笠に勤務し定年退職。一緒に写真に写るのはM.K(旧姓S)さんです。小川さんと同期で看護婦として就職。長く北大路保健センター(保健室)に勤められました。

 

小川さんは、座談会と学園広報のなかで貴重な体験と大切な思いを語っておられるので、その一部を紹介します。
 「戦争も終りに近い頃で、生徒は工場動員で出かけたり、残された生徒は軍事教練の多い頃でした。勤務は大学とかけもちで、動員先へ救護班を編成して出かけた事もありました。」

 「私は今の二条駅の前に下宿していたのですが、中学校の医務室は『救護所』になっていましたので、警報が鳴ると真夜中でも北大路まで歩いていきました。あの頃は責任感を植えつけてられていました。」

 「そして終戦。MPが学園へ乗り込んで来て、何か隠していないか、麻薬はないということも調べて、校庭に武具類をみんな集め、ガソリンをかけて燃やしました。進駐軍が来て万一のことがあったら自殺するためにというので、青酸カリを持たされていました。『お国のため』と覚悟していましたので、それを何とも思わなかったですね。それでも炎を眺めながら、これから世の中どうなるのだろうか、学校は継続するかしらと不安に思っていました。」(注11

  北大路在職当時、クラブ活動でやんちゃだった卒業生たちは、小川さんを姉のように慕っていて、高校時代のよき思い出として忘れることのできない方だと話しています。

「中高生徒と共に遊び、学び、大学生たちからも多くのことを学んだことを振り返って、人の創る歴史の流れを重く尊く思います。(注12

  その小川さんが、北大路勤務の後半には卒業アルバムに「小川寿テ」と寄せ書きに記名されています。戦中戦後を生徒と共に歩んでこられた小川さんの感謝の気持ちだったのかもしれません。

(写真6) 1950年高校第1回卒業アルバム 医務局

左から小川さん、M.Sさん、E.N校医

(写真7) 1955(昭和30)年創立50周年記念の全教職員集合写真

女性の教諭で写るのは友松教諭とE.K教諭の二人で、他の女性は職員たち

 

    戦後の女性専任教諭は、友松教諭が退職されて以降はなく、次に専任採用されるのは20年後の1985(昭和60)年で3名(英語科・数学科・技術家庭科)でした。1988(昭和63)年の男女共学と学校移転を経てまもなく30年が過ぎようとしています。今では多くの女性教諭と女子生徒たちの姿が当たり前の光景となった立命館中学校・高等学校の教育には、こうした女性教職員たちが厳しい環境のなかで基礎を築いてきた歴史も忘れてはならないのでしょう。

201712月20日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 

(注1)「日出新聞」192842日付 (立命館百年史 通史1 p.556

(注2)立命館学誌 第124号(1929515日)で紹介

(注3)「立命館タイムス」は1947(昭和22)年11月から1976(昭和51)年まで発行された生徒の自主発行の学校新聞。戦後の混乱期のなか、当時の高校生が何を考え、悩み、怒りをもってきたか。その苦闘の跡を如実に伝えており、戦後の立命館高校の歩みを知るうえで欠かせない資料。

(注4)「崩れた城壁」立命館タイムス 第2号(19471213日)

(注5)立命館タイムス 第3号(1948131日)

(注5)創刊第1号は19471127日発行。

(注6)時岡喜代冶「北大路学舎の思い出」立命館学園広報第127 1982120日発行

(注7)立命館タイムス 第6号(1948513日)

(注8)立命館中学校高等学校元校長上田勝彦著「昭和を歩む野の小径」p125

(注9)立命館百年史紀要第8号 立命館中学校・高等学校史研究会

     座談会「初期の立命館中等教育について」p86

(注10)「1944年 督学報告綴」(史資料センター所蔵)

(注11)立命館百年史紀要第11号 座談会「女性職員に聞く敗戦前後の立命館」P120137

(注12)小川ステ「定年退職にさいして」立命館学園広報第32号(1981321日号)

2017.12.07

<懐かしの立命館>西園寺公を偲ぶ展覧会

 最後の元老西園寺公望は、昭和15(1940)1124日、興津の坐漁荘において92歳の生涯を閉じた。今年(2017)77年となる。

125日国葬、明くる昭和161月から3月にかけて、明治・大正・昭和の3代にわたり政治に外交に文化に多大な功績を残した西園寺公望の偉勲を讃えて、全国4都市で「西園寺公を偲ぶ展覧会」が開催された。

本稿はその出品目録や関係資料などにより、展覧会を概観する。

 

 

【写真1 展覧会絵葉書】

 

1.西園寺公を偲ぶ展覧会の概要

展覧会は下記の通り、開催された。

(1)東京会場

 主催:讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和1617日~118

 会場:日本橋三越

(2)大阪会場

 主催:讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和16129日~28

 会場:大阪三越

(3)京都会場

 主催:京都日出新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和16211日~216

 会場:京都大丸

(4)福岡会場

 主催:九州日報社・讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和1639日~329

 会場:福岡岩田屋

 

2.東京会場

 讀賣新聞社は、昭和151221日と12日に讀賣新聞に社告を出し、1月7日から18日まで「西園寺公を偲ぶ展覧会」を開催する告知をした。

 展覧会の概要は、公に関する政治と文化年表、公の事蹟、遺墨・遺品、公に関する文献資料、公を囲る人々に関する文献、というものであった。

展覧会開催の17日、その挨拶で「紀元二千六百一年の新春に当り、公の偉勲を讃へその遺徳を偲ぶため」と開催の趣旨を述べた。

東京会場では97機関・個人が362点を出品した。出品が多かったのは立命館大学48点、帝国図書館36点であるが、個人が82人出品している。そのなかには三浦謹之助(西園寺公主治医)、徳富蘇峰、原田熊雄(西園寺公秘書)、安藤徳器、佐々木信綱、竹越與三郎、近衛文麿などがいた。立命館大学は48点のうち学宝が32点に及んだ。

 

また、立命館史資料センターに残る立命館出版部の会場写真によると、会場入口に展覧会看板が架けられ讀賣新聞社の挨拶文が掲出された。会場内には西園寺公の年譜、山陰道鎮撫に向かう写真、西園寺公のパネル、会場風景、書幅・扁額など14点の写真があり、会場風景からはジオラマの展示がされていたことが目を引く。

どんなものが出品されたか。

維新史料編纂事務局からは山陰道鎮撫に関する史料、北越御陣中日記など、興津の清見寺からは公の石膏像額面など、安藤徳器から公の写真、帝国図書館からは公に関する書籍、竹越與三郎からはヴェルサイユ平和会議の条約署名に使用した万年筆など、また、山陰道鎮撫の際に本陣とした出雲の藤間精氏、丹後宮津の三上勘兵衛氏から本陣に残された資料などが出品されている。

立命館大学からは、明治2年と大正7年の「立命館」の書、絶筆となった「静夜有清光云々」の書、亀の琵琶、管見記影印本など今日も学宝としているものや、英文西園寺公傳や公愛玩の瓢などの貴重なものが出品された。

 

 112日の讀賣新聞は、「一目で分る西園寺公の一生」で、会場は公爵の一生が誰にも分るように年代順にジオラマで説明しているほか、生前に愛用した品々があり、子供の時からどんな経路を辿って一生を終ったかがはっきり分る、との記事を掲載した。

 

   

【写真2・3 立命館出版部資料 東京会場】

 

3.大阪会場

 展覧会は東京に続いて讀賣新聞社の主催で119日から28日まで大阪三越で開催された。

 出品点数は63機関・個人の260点であった。

 立命館大学・帝国図書館・清見寺などは引き続き東京と同じものを出品した。維新史料編纂事務局・東京市立駿河台図書館などは大阪では出品がなかったが、長浜の下郷共済会が公の筆「墟烟淡云々」ほかを出品した。

 

4.京都会場

 東京・大阪に続いて京都では、京都日出新聞社の主催で京都大丸に於いて211日から16日の間開催された。

 立命館出版部の作成になる「偉勲を讃へて 西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」2セットが発行されている。

 1セットは10枚組で、西園寺公筆の「十年無夢…、湖上風恬…」、「西園寺公愛玩の瓢、一輪挿」「西園寺大扁額」「九十一歳筆 静夜有清光」「山陰道鎮撫総督西園寺公 丹波亀山に向ふ」などである。

 もう1セットは13枚組で、「藩士の昇殿を主張す(十九歳)」から「西園寺公爵近影」までの生涯を絵葉書(写真)で綴ったものである。

 

京都日出新聞社は、29日夕刊(210日付)に「西園寺公を偲ぶ展覧会」を211日より16日まで京都大丸にて開催する社告を出した。

 開催日の11日には、「偲ぶ園公の偉業 同家始め各地名家より資料の出陳 大丸に開く西園寺公展」の記事を掲載し、総理大臣近衛文麿公爵、西園寺公一公爵など、公の遺品400余点が展示された。出品目録では40機関・個人が209点を出品しているが、新聞と目録で点数が異なるのは、目録が数点をまとめて1点としていることによる。

続く12日の記事「お綾さん感無量 追慕の瞳離れず 西園寺公を偲ぶ展覧会盛況」では、総理近衛文麿からは西園寺公揮毫の「荻外荘」、立命館大学の学宝をはじめとした各地の貴重な資料を出陳したと伝えた。展覧会は開場早々堰を切ったような人波に溢れた。

 その中に、坐漁荘で女中頭を務めたお綾さんが来場、感慨深げに陳列品に見入り感無量の様子であった。閉店まで身動きもならぬ観覧者の波で大盛況であった。

 13日夜には「西園寺公を偲ぶ講演会」が日出会館で開かれた。立命館大学講師釋瓢斎(永井瓢斎)による講演「山陰鎮撫使」である。釋瓢斎は立命館出版部から昭和10年に『鎮撫使さんとお加代』を出版し、同著も展覧会に出品されていた。映画・音楽・録音もあり、音楽は立命館音楽隊が出演している。録音は園公国葬前後の放送であった。

 14日の新聞は、「雅号陶庵の謂れ? 平凡の裡に雅味は公の心境」と陶庵のいわれについて触れ、公の自刻印「悠然見南山」が陶淵明の「採菊東籬下悠然見南山」から採られていると紹介した。

 15日には、「知遇得た湖南博士 高邁な識見に絶大な信頼」と、会場には内藤湖南に寄せた絶大な信頼があふれていると伝えた。

 215日夕刊(16日付)には、「あす限り園公を偲ぶ展覧会 此期逸してはとどっと押し寄す」、16日には「茶碗の秘むる瓢逸 窯物に詠むきぬさんの名」で公と中川小十郎の逸話や、木屋町大可楼の松田きぬさんに与えた茶碗について掲載した。同紙面には公が揮毫した「白雲神社」の遺墨も写されている。

 216日夕刊(17日付)の新聞は、「残る深き感銘 西園寺公偲ぶ展覧会幕閉づ」と、閉幕を告げた。

このように京都日出新聞は、連日展覧会の盛況ぶりを伝えた。

 

【写真4 展覧会絵葉書封筒】

 

5.福岡会場

 最後の会場は福岡岩田屋であった。九州日報社・讀賣新聞社が主催し、39日から29日まで開催された。協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省はこれまでの会場と同じであった。

 

 九州日報社は38日の日刊および夕刊に社告を出した。

 「西園寺公を偲ぶ展覧会」、幾多貴重なる資料を蒐めてひらく空前の大展覧会!と銘打ち、パノラマとジオラマ、公に関する政治と文化年表、公の事蹟、公の遺墨・遺品、公の生涯を語る各種写真、外務省・三條公爵家・大山公爵家など数十家より特に出品せられたる文献資料多数!というものであった。実はこの社告は開催期間を9日から23日までとしていた。

 

会場入り口に文相当時の西園寺公の立像写真が置かれ、続いてジオラマが12点展示された。これは京都会場で発行された絵葉書の13枚組とほぼ同じ内容である。会場には図表も展示された。10点に及び、西園寺公年譜と閑院家系譜抄などである。西園寺公年譜は他の会場の目録にも掲載されているが、藤原公季から始まり西園寺公望に至る閑院家の系譜が脈々とつづられている。

 

 九州日報は9日の日刊で、「偉人の俤偲ぶ 西園寺公展けふ蓋あけ」の記事を打ち、一世の偉人に対し深い崇拝の念をもつ福博市民の前に盛大に蓋をあける、と報道した。そして出品者を列挙、目録と23の相違があったが、ほぼ同数の機関・個人から出品されていることを伝えた。

 313日の日刊は、「連日黒山の観覧者で賑ふ」の見出しで、中には北九州その他遠く県外各地よりの団体もあり素晴らしい盛況を呈している、活ける教育資料として各方面の絶賛を博している、と報じた。

 当初は23日までの開催予定であったが、21日の新聞には「西園寺公を偲ぶ展覧会 29日まで日延べ」と、連日満員にて好評嘖々につき29日まで日延べするとの社告を出した。

 23日の九州日報は、「29日まで日延べ 凄い人気を呼ぶ西園寺公展」と、市内各小学校や各種団体をはじめ遠くは大分、熊本からさへ観覧に来る者があり、“是非会期を日延べしてくれ”との各方面の熱心な要望によって、次の会場の期日を変更して会期を延ばすことになった、と報じている。

 

 目録によれば、40の機関・個人から132点が出品されたが、立命館大学からの出品は見当たらない。代わって福岡開催ということから、元政友会福岡県支部・福岡県立図書館・福岡市市史編纂室など福岡関係者の出品があった。

 また京都会場で配布されたものと同じ絵葉書が福岡会場でも配られた。

 なお、目録および絵葉書では協賛立命館大学としているが、九州日報の社告では主催者と後援者名のみで、協賛がはいっていない。

 

【写真5 展覧会絵葉書】

 

6.立命館の出品

 立命館は「西園寺公を偲ぶ展覧会」に協賛し、東京会場と大阪会場では48点、京都会場では55点の西園寺公望ゆかりの品々を出品した。

 そのうち東京・大阪では32点の、京都では34点の学宝を出品している。

 立命館が出品したものはどのようなものであったのだろうか。

 学宝では、「額面」とある公の書が6点ある。「長吟対白雲」「運用之妙存乎一心」「立命館」(大正戊年の書)「禹悪旨酒而好善言云々」「才学識」「新詩日又多」である。

 「軸物」の書が11点。「柳揺台榭東風暖」「十年無夢得還家」「蘆荻無花秋水長」「八月潮高海気豪云々」「静夜有清光云々」「生是迂拙男云々」「濯錦江辺憶昔遊」「太湖云々」「湖上風恬月澹時」「寒烟十里没荒原云々」「冷光脉々透簾帷」明治29月書の「立命館」。

 そのほかの学宝として、西園寺家伝来の「亀の琵琶」、百五巻にのぼる西園寺家の「管見記」(影印)、佐倉丸の「時鐘」、公撰文による立命館学名由来記の「木刻大扁額」、坐漁荘で使用した公常用の椅子などが出品された。

 また学宝以外のものでも、中川総長に贈られた瓢、一輪挿、公愛用の煎茶器、公愛玩の瓢などが展示されている。

 これらの中には、戦時の状況のなかで失われたものもあるが、今日でも学宝として所蔵しているものが多い。

 京都会場では学宝が2点追加展示されたが、1点は「清聲千古碑の拓本」、もう1点は明治29月筆の「木刻大扁額 立命館」である。

 「清聲千古碑の拓本」は、西園寺公望が山陰道鎮撫に向かった際に最初に宿陣した丹波馬路村の郷士、中川・人見両姓の勲功を称えた碑文で、碑は現在も亀岡市馬路に建っている。

 また「木刻大扁額 立命館」は現在修復したものが立命館大学の図書館にあり、立命館中学校・高等学校でも所蔵している。さらに複製したものが立命館各校に架けられている。

 

【写真6 立命館出版部資料】

 

 終わりに

 西園寺公の晩年は、2.26事件、日中戦争の勃発、そして国家総動員法が施行され、やがて対米英戦争へと突き進む時代であった。

 こうした状況の中、元老西園寺公望は日本の外交や政治に失望、この国はどこに向かおうとしているのかと深く憂慮し、やがて処世若小夢の心境に至っていた。

「西園寺公を偲ぶ展覧会」は、公の偉勲を讃えその遺徳を偲ぶために開催された。同時に「紀元二千六百一年の新春に当たり皇道翼賛の実践に挺身せんとする銃後国民に資したい」との主催者の開催意図もあった。

 日本は西園寺公が望まぬ道を走っていたが、いずれの会場でも展覧会は西園寺公を偲ぶ人々で大盛況であった。

 

 

【参照資料】

 〔東京会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(立命館史資料センター所蔵)

       立命館出版部資料(立命館史資料センター所蔵)

       讀賣新聞記事

 〔大阪会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(徳富蘇峰記念館所蔵)

 〔京都会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東洋文庫所蔵)

       「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」(立命館史資料センター所蔵)

       京都日出新聞記事

 〔福岡会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東京大学史料編纂所所蔵)

       「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」(立命館史資料センター所蔵)

       九州日報記事

 

  なお、上記参照資料のうち

・「西園寺公を偲ぶ展覧会」(東京会場)立命館出版部写真資料 ①

「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東京会場)表紙、一部抜粋 ②

「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」京都会場13枚組 ③、京都・福岡会場10枚組 ④

  は、下記画像をクリックすると別ウィンドウで御覧いただけます。

 ② 

 ④

以上

 

201712月7日 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

2017.10.18

<学園史資料から>陶庵印譜

まえがき

 

 西園寺公望はその号を陶庵と称した。陶庵は印刻を趣味とし、自刻の印章のみならず著名な印刻家の印章も所蔵し、後に坐漁荘の執事であった熊谷八十三により「陶庵印譜稿」を残した。

 このほど、立命館所蔵および国立国会図書館憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」並びに清風荘の執事であった神谷家所蔵の「陶庵印譜」を調査する機会を得たので、ここに「陶庵印譜」について紹介する。


晩年の西園寺公望(陶庵) 昭和10年 興津坐漁荘書斎にて

 

1.陶庵印譜とは

 

「陶庵印譜」とは、陶庵西園寺公望が所蔵していた印章を用い、西園寺公の執事を務めた熊谷八十三が印譜に作成したものである。

 作成の経過については、熊谷がその日記に記している。

 

  昭和1643

    「陶庵印譜作成ヲ原田男カラ注文アリ 今日取リ掛ル 序ニ五部作成ノ事トスル 

   原田・逗子・柿沼・手許控二」

 昭和1647

    「引キ続キ印譜作成ニ掛ル 跡一両日デ完成ノ処ニ漕ギ附ケル」

 昭和1648

    「印譜捺印ダケ結了 跡ㇵ帳面ヲ作ル事」

 昭和1649

    「印譜出来」

 

 「陶庵印譜」は西園寺公の秘書であった原田熊雄男爵が熊谷に作成を依頼し、五部作成することとなった。作成した印譜は原田のほか、逗子の西園寺八郎公爵、柿沼はやはり興津に別荘のあった井上馨の執事柿沼昇に渡した。それに熊谷の手許に二部保存することにした。

 続く410日・11日の日記に、作成した印譜を二か所に発送やら残存品に書き入れをし、陶庵印譜調べで得るところが多かったという。

 

  昭和1677

    「水口屋元一ノ懇望陶庵印譜作成第二回ニ取リ掛ル 今度ㇵ限定四部 懇望者ㇵ

   浮月主人 原田男爵方デ見テ欲シクナッタトノ事 元一ハ之ニ便乗 第二回ノ事ト

   テ初メヨリ稍ウマク出来ル」

  昭和1679

    「陶庵印譜稿限定四部成ル 第二回目デ前ノ時ヨリㇵ上手ニ出来ル 只肉色ガ稍

淡ク過グ 然シ其ガ為ニ対側ヲ汚損スル事は少カルベシ」

 

 熊谷は、4月に引き続き、7月にも陶庵印譜を作成することとなった。

 水口屋は坐漁荘の近くにあった旅館で、中川小十郎など西園寺公への訪問者がしばしば宿泊した。西園寺公ゆかりの宿である。その主人のたっての依頼で第二回限定四部を作成した。浮月主人というのは静岡の浮月楼の主人杉本宗三である。711日の日記に浮月楼主杉本宗三と水口屋元一が礼に来たと記している。

 浮月楼は明治に入り徳川慶喜が屋敷とした跡で、明治26年に料亭として開業した。伊藤博文、井上馨、西園寺公望など名だたる政治家がしばしば利用した。

 第二回目の陶庵印譜は第一回のものよりもやや印影が薄かったものの、上手にできたと言っている。

 

以上のように、陶庵印譜は昭和16年の4月および7月に限定九部作成されたのである。

「陶庵印譜」はその後、どのようになったのだろうか。

 

2.立命館所蔵「陶庵印譜稿」

 

 立命館大学の図書館に「陶庵印譜稿」が所蔵されている。

 熊谷八十三氏贈附 昭和十六年 と記され、中川小十郎の署名と花押があり、『西園寺公印譜』と題した和装の表紙が付けられている。

 「陶庵印譜」作成後その年のうちに中川あて寄贈したもので、4月作成の手控二のうちの一冊と思われる。

熊谷は昭和1511月の西園寺公没後も中川と交流があり、173月には立命館文庫長に就任している。

 中表紙は、「陶庵印譜稿 昭和十六年四月三日作成」、また巻末に「限定五部ノ一」と記されている。

 陶庵印譜稿と記された一葉ごとに袋とじとなっていて44葉が綴られている。一葉は表裏があり、1点から数点の印影が朱で押されている。

 巻末に「一ノオ」(一枚目の表)、「一ノウ」(一枚目の裏)から「四十四ノウ」までそれぞれ印影・印材の説明や作者の名が記されている。

 「一ノオ 三個揃ヒ黒木印」、「一ノウ 三個揃 石印田黄」などである。

 「二ノウ、九ノオ」は桑名鉄城刻で桑名は西園寺公の篆刻の先生である。

 「十一ノオ」は「三個揃石印櫛紐田白 缶道人呉昌碩 病臂」とあり、清代最後の文人呉昌碩が病をおして印刻したものと説明している。西園寺公望と呉昌碩の関係は後述する。

 「十三ノオ」は「山陽刻 天草ノ詩」で、頼山陽の印刻である。

 「十九ノオ」は蔵書印である。

 巻末には、西園寺の偽印を二例あげており、偽物が出回っていたことを窺わせる。

 

【立命館所蔵 陶庵印譜】

 

3.国立国会図書館憲政資料室所蔵「陶庵印譜稿」

 

 国立国会図書館憲政資料室に熊谷八十三関係文書が所蔵されている。関係文書は熊谷八十三没後の1984年および1986年に熊谷家から寄贈されたものである。熊谷八十三日記がそのほとんどであるが、関係文書の中に「陶庵印譜」と「陶庵印譜稿」がある。

 

「陶庵印譜」は断片的でそのうちの一葉に「昭和十六年八月十八日陶庵印譜稿用紙ノ堆裡ニ此数紙ヲ発見ス 依ッテ各印名一枚ヲ出シテ一綴トス」とあるが、内容については割愛する。

 

「陶庵印譜稿」については、表紙に「陶庵印譜稿 昭和十六年七月九日 第二回作成」としており、末尾に限定四部ノ一としている。

熊谷日記に第二回分は水口屋と浮月楼主人に渡した以外記されていないので、さしあたり熊谷が二冊保存し、そのうちの一冊が後に熊谷家から国会図書館に寄贈されたものであろう。

用紙の大きさは横16センチ、縦28センチほどで、立命館所蔵のものとほぼ同じである。

46葉がそれぞれ二つ折りになっていて、立命館所蔵の印譜と同じく、一葉にそれぞれ表と裏がある。

また別にバラで7葉がある。

 立命館の印譜稿は巻末にまとめて簡単な解説がついていたが、憲政資料室所蔵の印譜稿はそれぞれの印影ごとに解説がつけられている。印影についても全く同一というわけではない。

 印材については、一の裏が田黄、三の表が寿山などと記載され、他に木印、石印、銅印などと書かれたものもある。作者についても三の裏は桑名鉄城刻、また七の裏は「缶道人呉昌碩病臂作此 己未立春 行年七十有六」で、立命館所蔵十一ノオと同じ印影である。

 十六には木印常用として、「静岡縣興津 公爵西園寺公望」「静岡縣御殿場町 公爵西園寺公望」と「静岡縣興津 西園寺公望」「静岡縣御殿場町 西園寺公望」「京都上京田中町 西園寺公望」がある。立命館所蔵のものでは十八ノウがこれにあたる。

 全体に立命館所蔵よりも印影が薄いが、熊谷が「上手ニ出来」と言っているのは、それぞれの印影毎に解説をつけたことによろうか。

 また挟み込みの7葉のうちには、偽印について書かれたものや、金印の比重について計算したものがある。

 

【国立国会図書館憲政資料室所蔵 陶庵印譜】

 

 4.神谷家所蔵「陶庵印譜」

 

 神谷千二は西園寺公望の京都別邸清風荘で執事をしていた。

 その神谷家(神谷厚生氏)に西園寺公望関係文書が所蔵されている。その中に「陶庵印稿(白紙)」、「陶庵印譜稿」、2種の「陶庵印譜」、と計4点の印譜資料がある。

 これらは西園寺公の遺品を整理する際に熊谷から神谷千二に贈られたものと思われる。

 「陶庵印稿(白紙)」は、憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」の挟み込みのうちの1葉と同じ用紙であるが、白紙とあるように印影、解説等何もなく文字通り陶庵印稿とあるのみである。

1枚の用紙の中央に陶庵印稿の文字、両側に印影を押す枠があり、袋とじにして表裏になるように作られている。

 「陶庵印譜稿」は、袋とじにする予定であったであろうものがそのまま見開きで25枚ある。大方は朱の印影のみである。印影についての解説は無い。

 「陶庵印譜」2点のうち1点は竪帳である。横14センチ、縦21センチで、それぞれの白紙に朱の印影が1から3個押されている。印影のみで解説は無い。

 特徴的なものがもう1点の「陶庵印譜」である。133点ほどの印影(朱印)が横19センチ、縦127.5センチの台紙に押され、更に横30.5センチ、縦180センチほどの軸装となっている。

 これらの印譜は、おそらく限定九部を作成する過程で作られたものではないかと思われる。いずれも印影ははっきりしていて、朱も鮮やかである。

 

 【神谷家所蔵 陶庵印譜稿】    【神谷家所蔵 陶庵印譜】

【神谷家所蔵 陶庵印譜】        【神谷家所蔵 陶庵印譜部分】

 

5.竹越與三郎「陶庵公印譜抄」と呉昌碩の印


(1)竹越與三郎『陶庵公』「陶庵公印譜抄」

竹越與三郎の『陶庵公 西園寺公望公傳』(叢文閣 昭和8)には、12件の「陶庵印

譜」が掲載されている。

「道徳爲師友」 大正天皇御宸翰中の語から取ったもので、桑名鉄城刻

「公望之印」 側面に(ママ)未立春先一日製 呉昌碩時年七十有六、とあり呉昌碩の刻

「陶庵」   側面に缶道人病臂作此、同じく呉昌碩刻

「無量壽佛」 側面に(ママ)未初春老(ママ)  同じく呉昌碩

「陶庵」   

「明月淸風我」 桑名鉄城刻

「悠然見南山」 自刻印か

「公望 陶庵」 桑名鉄城刻

「公望 陶庵 不讀 佛心 浩々乎 先酔」

「陶庵 不讀 呵々 清風荘 自在 多病」 鉄城

「煙横篷牕」  頼山陽刻

「小石 笠懌 平安 伯海」 

これらは①が憲政資料室所蔵の二ノ裏、②③④が七ノ裏、⑤⑥が四ノ表、⑧が十三ノ裏、

⑨が十二、⑩が十一、⑪が十八ノ裏、⑫が三十四ノ裏に当たる。⑦は見当たらない。

 竹越與三郎は『陶庵公』で、西園寺公は清風荘で印刻を覚え、その師は小林卓斎や桑名鉄城などであった。西園寺の印刻熱は中々に激しく、印譜に関する名著も所蔵し、集めた印も数千顆、田黄田白をはじめとした名材を数百個所蔵し愛玩していた、という。

 なお、「陶庵公印譜抄」は、伊上凡骨の摸刻で、石刻を木板で摸したものである。

 (2)呉昌碩の印

 松村茂樹は『呉昌碩研究』(研文出版 2009)で、西園寺公望所蔵の呉昌碩刻印について述べている。

「公望之印」〈己未立春先一日製 安吉呉昌碩 時年七十有六〉

「陶庵」〈缶道人病臂作此〉

「無量寿仏」〈己未初春 老缶〉

は三顆の組印(正方の姓名、正方の号、変形の雅句を組にしたもの)で、1919(大正8)年に西園寺公望が上海で呉昌碩と会談した際に依頼し刻印したものであるとしている。

 19191月、西園寺は第1次世界大戦後のパリ講和会議の全権大使としてパリに向かった。その途次上海に立ち寄り六三園で呉昌碩と会談しているのである。

 この頃呉昌碩は病臂のためほとんど代刻をしていたようだが、西園寺のために病をおして刻印をしたことが、その印に記されている。

 呉昌碩は中国清朝最後の文人といわれ、書・画・詩・刻印の四絶に秀でた人物であった。

 西園寺と呉昌碩の会談の模様は、池田桃川の『続上海百話』(1922)に詳しい。

 

6.陶庵所蔵印

 上記に見てきたように、陶庵印譜には西園寺の自刻印のほか、桑名鉄城、頼山陽、呉昌碩などの印もあった。

 陶庵印譜には印影のほか、側款のあるもの、また熊谷による解説があり、印の作者、印材、鈕などのほか、その由来を知ることもできるものもある。

印材は、主に石材を使ったほか、銅印、木印、竹根などの印もある。石材は中国福建省寿山石、その中でも最高級品と言われる田黄や田白、寿山に近い月洋郷の芙蓉石、浙江省の昌化石の一つ雞血(鶏血)石などを用いた。水晶や琥珀などもある。

鈕には龍・象・亀・獣・羊などの動物、蓮など花果をあしらったものがある。

西園寺自身は、これらの印材を桑名鉄城や鳩居堂から手に入れていた。

先に述べたように桑名鉄城〔元治元(1864)年~昭和13(1938)年〕は西園寺の印刻・篆刻の先生であった。西園寺の桑名鉄城宛書簡が『西園寺公望傳』別巻一に31点掲載されている。その多くに印刀や墨・硯を依頼することや、篆文のお手本の依頼や批評を請うことなどが書かれていて、西園寺と桑名鉄城の印刻をめぐる関係が知られる。

そのなかの大正(11)32日の書簡を紹介して結びとしたい。

陶庵西園寺公望は「陶庵」と「明月清風我」の印を桑名鉄城に依頼した。白文でも朱文でもよく字配りは如何様にも、としている。

その「明月清風我」は、立命館所蔵版では四ノオに「二個揃 石印平龍紐白更紗模様」とし、憲政資料室所蔵版ではやはり四ノ表に「平龍紐白更紗材」とし、側款をもとに解説が書かれている。この「明月清風我」は竹越與三郎の「陶庵公印譜抄」にも取り上げられている。

「明月清風我」は、陶庵閣下が散逸を惜しんで再刻を依頼し、壬戌(大正11)秋に作成したものと桑箕(桑名鉄城)が謹んで記したとしており作成の由来がわかるのである。

 

陶庵公の印譜熱は並々ならぬものがあった。篆刻作品である印章はそれ自体が工芸品であり、印材に刻まれる印影はまた独立した芸術品である。

「陶庵印譜」は、西園寺公望の文人としての一面を伝えてくれる。

 

 

20171018

立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

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