立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2017.10.03
<懐かしの立命館>西園寺公望公と佐乃春の料理
立命館「学祖」西園寺公望。自ら私塾「立命館」を創り、明治法律学校(現 明治大学)の講師、京都帝国大学、日本女子大学校(現 日本女子大学)の創立に携わり、第12代、14代総理大臣を務めた「最後の元老」。
西園寺公望は、また食通としても名を知られた人であった。
本稿は、公晩年の居宅静岡県興津の「坐漁荘」で、しばしば料理を届けた料亭「佐乃春」に伺ったお話です。(佐乃春は3年ほど前に約120年続いた料亭を閉じ、現在ホテルを営業しています。)
西園寺公から料理の注文が入ると、坐漁荘から自動車(リンカーン)が来て、料理とともに調理人も同行し、坐漁荘で盛り付けや温め直しをしたという。
店に残されている「お品書き」は24コースある。
お品書きからは、やわらかいものやさっぱりした味付けのものが多かったようで、蒸し物を好んだようだ。興津鯛なども好んだ。
料理は時季により食材が変わるが、上折と下折がある場合は下折に寿司を配した。
お品書きの1点に昭和14年9月28日提供のものがある。
蛇の目海老、松茸はさみ焼き、白川甘鯛、無花果(イチジク)の品などが見える。
【昭和14年9月28日のお品書き】
また昭和15年度と書かれたものが数点ある。
写真の上部の日付は料理を提供した日ではないが、西園寺公は昭和15年11月24日に薨去するので、最後の年に食べた料理ということであろうか。最も、体調が勝れない日が多かったと思われ、実際にどれほど食べることができたのかはわからない。
【昭和15年お品書き】
実は、執事であった熊谷八十三の昭和15年の日記に次の記載がある。
10月23日、園公爵誕生日 例ニ依リテ料理(佐野春)ノ恵与アリ
10月24日、昨日ノ御馳走ノ中ニ於多福豆ノ甘煮アリ 此頃此辺デ売ツテ居ルモノニ
比シテ味質甚ダシキ差違アリ 矢張之ダケ異ナルモノカト感心ス
と記している。上のお品書きに福豆とあるのはそれであろうか。
更に11月10日の日記には、紀元二千六百年記念奉祝式典のため、今日のお祝いに濱邸で佐野春の料理あり、と記載している。お品書きに日の丸や紀元二千六百年の文字が見えるが、料理の名に使ったのであろう。
佐乃春には現在も西園寺公が使用した食器が保存されている。九谷や京都の食器という。藍の色が深く美しい鉢や、黄色の地に水色のふちどりが美しい洋風のお皿、お椀の装飾も見事。どの器も料理の素材が生える色合いである。舟形のお皿にはアユなどを盛りつけたとか。
【西園寺公使用の食器】
いつから佐乃春が西園寺公に料理を提供するようになったかはわからないが、お品書きには昭和11年のものも残っている。昭和11年といえば、二・二六事件の起こった年であり、西園寺公はこのとき興津を離れ静岡県知事官舎に避難した。その際佐乃春の食事を注文し、極秘裏に運ばせたと伝わる。
坐漁荘の調理人に対して厳しい西園寺公であったが、佐乃春の料理にはしばしば舌鼓を打っていたようである。
佐乃春では、西園寺公に提供した料理を復元していた。
次の写真は、割烹佐乃春が昭和13年に西園寺公に提供した料理を、平成16(2004)年4月22日に現在の手法で復元したものである。
木の芽針魚昆布〆、穴子細川焼、里芋田楽、子持椎茸などの品が並んでいるが、当時(昭和13年)レモンを付け合わせに出すことは珍しかったという。
現在は復元料理を味わうことはできないが、西園寺公の食した料理もまた歴史の遺産のひとつと言ってよいであろう。
【復元料理】
ご提供いただいた資料(複写)は、
昭和11年献立表、13年度献立表、14年度献立表、15年度献立表
復元料理資料
資料はいずれも 株式会社佐乃春 所蔵
2017年8月10日、佐乃春を訪問。調査へのご協力、資料のご提供をいただいたこと、お礼申し上げます。
2017年10月3日
2017.09.27
<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第2部 昭和の時代を見届けた鉄筋校舎
こちらの記事は、全2部となっております。1部の記事は、「<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第1部 広小路から新天地北大路へ」をご覧下さい。
立命館中高 北大路校舎誕生物語
第2部 昭和の時代を見届けた鉄筋校舎
1.期待される学校・校舎
校舎の建設は、生徒たちが毎日その進捗を目にする中で順調に進んでいきました。当初の計画では、中学校と商業学校の普通教室を中心とする建替えでしたが、建設会社からの提案を受けて、急遽、計画を変更し、講堂(1階に銃器庫や医務局、2階に大講堂)も追加で建設されることになりました。この講堂は、完成時では京都府下最大規模として注目されることになりました。また、医務局はレントゲンなどの診察器具を備え、立命館大学よりも早く、全国の学校でも先進的な設備と体制を整えた学校になったのでした(注10)。なお、図面にある西校舎は、後に上賀茂に設立される立命館第二中学校(戦後の神山中学校高等学校)の校舎として移築利用されました。
写真7 鉄筋建替え後の北大路学舎図(史資料センター所蔵 制作年不明)
第1期工事 1937(昭和12)年6月竣工
東校舎(中学校) 鉄筋コンクリート三階建 18教室
写真8 東校舎
第2期工事 1937年1月着工で1938(昭和13)年2月末竣工
北校舎(商業学校)鉄筋コンクリート三階建 21普通教室 3特別教室
西校舎 1階 銃器庫、医務局、実験室、地歴教室
2階 大講堂 (236坪で京都府下第一の規模)
地下 射撃場 地下道 (生徒用食堂としても利用)
写真9 北校舎前校庭に立つ中川校長(側の四角形は地下道への光の通し窓)
写真10 講堂 (2階が講堂、1階が銃器庫・医務局など)
写真11 全国的にも最高の設備を備えていた医務局
この新校舎は2000人が収容できるように建設されていました。その設計には配属将校などの軍人が多くの意見を入れていたそうです。地下には銃器庫と兵器庫があり、空襲の際には地下道が校舎をつなぐだけでなく防空壕の役目も果たし、軍事教練として大事な射撃訓練が校内で実施できるように射撃場が設けてありました。年間で数発の実射を行う訓練は、通常の学校では校外の特別の場所まで出向いていましたが、軍事教練を強調する立命館としては、地下射撃場が学校の看板的役割も果たしていたのでした。つまり、北大路学舎は、将来の戦争に備えた軍事基地的要素をもって建設された学舎だったのでした。
新校舎建築は、当時の金額で30余万円(現在では約4億円)を要する大工事でした。学園総長であり中学校商業学校校長でもあった中川小十郎の決断を実現させるため、学園関係者も資金捻出のために苦心し、不足分には学債の募集が行われました。寄付集めのためだけの同窓会という印象をさけたいと考えていた清和会も、これには積極的に協力することとし(注11)、それでも不足する分については、銀行からの借入れまで行ったのでした(注12)。
こうして耐火耐震も備えて完成した新校舎は、1937(昭和12)年新学期から授業が開始されました。この年はまた立命館の付属学校が大きく成長発展をする年でもありました。それは4月の夜間中学校(後に立命館第四中学校)と商業学校夜間部の創設でした(注:13)。当時の夜間中学校は、京都府内で二中(現鳥羽高校)と三中(現山城高校)の二校で、私学では立命館だけでした。創立者中川小十郎は学校設立時から勤労者教育を非常に重んじていたので、夜間学校の開設は教育者としての夢であったといえるでしょう。
この年の中学校では募集160名に対して入学者321名(志願者352名)で、商業学校では募集150名に対して入学者319名(志願者381名)というように生徒数は、景気の回復とともに急増していったのでした(注:14)
2.戦争と北大路学舎
まだまだ瓦屋根の民家が多く、高い建築物がなかった昭和10年代の北大路烏丸に聳えるように建つ白いコンクリート3階建ての校舎は、北大路通りや烏丸通りを走る遠くの路面電車からも大きなシンボルとして見えたことでしょう。
学校は、校舎の色の選択に師団参謀部の意見を伺っていて、その結果は新聞で「最近徒らに美観のみを誇って敵機に素早く感知されるやうな明粧建築物の増加する折柄、目下建築中の立命館中学校が一朝有事の際を考慮してその建築外面を上空から感知されないやうな擬装色となすことになった」と紹介されていました(注:13)。校庭(運動場)の色と同じように見せるために校舎の屋上には土が敷かれていました。校庭の隅には五百挺の小銃と弾薬が一時に隠匿できる地下室が設けられ、屋上には空襲監視の望楼が建設されるなどその徹底ぶりは、学舎としては突出していました。当時の新聞には「竣工の上は空襲戦時の有事に役立つ全国にも稀な模範的校舎として各方面から期待がかけられている」と賞賛されていました。(注:15)
多くの生徒たちが待ち望んだ新校舎でしたが、なかには「(中略)その建築にすこしの建築美といふやうなものもなく、ただ単に昔ながらの学校風の建て方に流れてゐる事であった。(中略)平凡至極なひらべったな細長い校舎を見て入るよりはそこにいく分なりとも芸術味を加味したものの加へられてゐる方が気分に大変な差ができる」(注:16)という失望の声もありました。
写真12 新校舎完成後の北大路学舎全景 (昭和13年)
写真13 陸軍現役将校学校配属令公布15周年御親閲(昭和14年5月)
6)「さよなら北大路学舎」
北大路学舎は、戦争によって痛々しいくらいに姿を変えさせていました。軍需生産の工場として機械をいれるために校舎の窓や扉は壊され、空襲を避けるため校舎の壁面に迷彩が施されていました。そして、生徒たちのうちで3年生以上は学徒勤労動員で各地の工場へ、2年生以下は農作業の手伝いに駆り出されていて、主役である生徒たちがいない学校になっていました。
それが、終戦となって生徒たちが戻ってきて、教職員と一緒になって学校の再建へと歩みだしました。1948年から発足した夜間高校には、向学の意欲に燃える勤労青年たちが集まり、夜遅くまでこうこうと輝く教室の明かりは、戦後の北大路の夜の名物風景にもなりました。
北大路学舎は、この地で戦後の平和と民主主義への歩みと共に、さまざまな苦難の道を乗り越えながら生まれ変わりました。そして、その努力と成果を継承しながら、21世紀を展望し教育内容をさらに充実させ、より良い学校環境で男女共学を実現していくために学校の移転を決意しました。
こうして北大路学舎は66年間の歴史に幕を閉じたのでした。新しい教育への夢をもって1988(昭和63)年にさらなる新天地深草へと移転したのでした。
2017年9月27日
立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
写真14 北大路学舎校庭での中高合同体育祭 (1950年頃)
写真15 定時制高校での授業風景(卒業アルバム 1960年)
写真16 新館建設前の校庭風景 (1963年度 高校入学案内)
写真17 中高全生徒と教職員による人文字(小雨の中で撮影)
注10:「文部省は学校に対して、年一回の定期健康診断をさせるだけで、これでは健康の管理は出来ない。学校には如何にも弱そうな青びょうたんの生徒や学生がいる。こんな人には勉強よりもまず健康だ、体力だと言う考えの下で、レントゲン其の他の診察器具を備えて、毎日、医者に診察させる医務局を設けられたのであります。そこでの診断の結果を父兄に通知して、治療をさせたのであります。実に先見の明で、其の後十年程して文部省は是を見習ろうて、各学校で診察をさせる様にしました。学校内に医務局の設置は、日本中本校が嚆矢(最初)であります」
前掲書 木村嘉一氏「立命館とともに」p.3
(木村氏は中川小十郎の家庭医で、戦後の立命館清和会の再建に奔走され、第2代会長として長く職につかれ、理事長も務められました。)
注11:立命館清和会長本田義英氏からの寄付・学債協力趣意書
「(前略)既に在学生父兄に於ては旧臘來校舎改築期成後援會を組織せられ熱心なる後援をなされつつある由に之れ有り。我々三千名の卒業生としても此の際一致協力して、此の難事業に直面せる母校のため、出来得る限りの援助を致したく存ずる次第に之れ有り候。就ては御迷惑の至りと存じ候へども、学債と寄附との如何を問はず、特に各位の御尽力を願ひたく切に御依頼申し上候(後略)」
(立命館清和会 保存資料)
注12:「中川先生は『学校には今金がない、木村お前石原(広一郎氏、当時の立命館理事)の所へ行ってこのことを相談してくれ』とのことで、吉祥院の宅を訪ねて、其由を申しました。氏は『私の取引の第一銀行から私が保証人になって借入れよう』との話で、これがまとまり、北校舎と講堂が完成されたのであります。」
前掲書 木村嘉一氏「立命館とともに」p.3
注13:後に工業学校となり第四中学校へ統合される。
注14:『立命館百年史 通史一』 p.561
注15:『京都日日新聞』 昭和12年6月29日付 (京都日日新聞は現在の京都新聞の前身)
注16:同上
注17:『立命館禁衛隊』第77号(1937年7月号)「新校舎への待望」 生徒感想より
2017.09.26
<懐かしの立命館>1945年「舞鶴第三火薬廠」勤労動員の記憶 ―K・Sさんからの聞き取り調査―
アジア・太平洋戦争の時代、時局の悪化に伴って学生や生徒は強制的に動員され、あるいは戦地に、あるいは工場労働や食料増産に駆り出されていきました。立命館でも同じように若者たちは学業半ばで動員されていきました。
本稿は、この時期「舞鶴第三火薬廠」に学徒勤労動員された校友K・Sさんのお話です。
※「豊川海軍工廠」に動員された校友のお話もご参照ください。
<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲
<懐かしの立命館>豊川海軍工廠空襲の犠牲者慰霊碑と昭22・立命館専経同窓会
はじめに 戦時下1945年の学徒勤労動員と立命館
立命館商業学校1945年3月卒業アルバムより(勤労動員されたのはこのような若者であった)
学徒の勤労動員は、「勤労動員ヲシテ教育ノ一環タラシメ」「学行一体ノ練成ヲ期スルコト」と教育効果をあげるという名目でしたが、実情は戦争の拡大につれて不足となった労働力を補うための国策でした。
終戦直前の1945(昭和20)年3月18日には「決戦教育措置要綱」(注1)の閣議決定によって、原則すべての授業が1945(昭和20)年4月1日より1946(昭和21)年3月31日に至る期間停止されています。
立命館も同様、全ての授業は停止されていますが、1945(昭和20)年4月の入学にむけての学生募集は実施されました。
今回聞き取り調査をしたK・Sさんは、ちょうどこの時に立命館専門学校に入学したのです。この年の立命館専門学校入学志願者は4,411名、合格者1,747名でした。
しかし「入学式のみが挙行され、開講はなくただちに勤労動員」へと立ち向かったというのが実情でした(『立命館百年史 通史一』)。
戦争最末期、立命館の学生達はどのように学生生活を送っていたのか?
K・Sさんからの聞き取りは、学園史の記述を裏付ける貴重な証言となりました。
K・Sさんとの出会い-それは、理工事務室への問い合わせから始まった-
2015(平成27)年11月、理工学部事務室にK・Sさんよりこんな問い合わせがありました。
「K・Sといいます。私は、昭和20年4月立命館専門学校工学科土木科に入学し、昭和23年3月に卒業しています。現在、舞鶴市市民団体が私の戦時中の話を聞かせてほしいとの依頼を受けています。しかし70年前のことなので記憶が定かではありません。そこで当時の資料を見れば何か思い出せるかもしれないので、勤労動員に関する資料があれば、見せてほしい。私の当時の記憶としては、舞鶴第三火薬廠に配属され、寄宿舎が機銃掃射を受けたということだけは覚えていますが、その他は思い出せない。」ということでした。
理工学部事務室から照会を受けた史資料センターではK・Sさんと連絡を取って資料をお送りするとともに、「ぜひK・Sさんの学生時代の記憶について、聞き取り調査をさせていただきたい」と申し入れると、K・Sさんは快く引き受けてくれたのです。
<インタビュー>
(1)日時・場所
日時:2015(平成27)年11月27日(金) 13時30分~16時30分
場所:K・Sさん自宅(京都府宮津市)
Interviewee:K・S Interviewer:調査研究員 齋藤 重
(2)略歴
昭和3年9月18日 生まれ 宮津市在住 87歳
宮津中学(現在・京都府立宮津高校)昭和20年3月卒業、
同年4月立命館専門学校工学科土木科に入学
昭和23年3月 同学科 卒業
昭和24年4月 法学部(新制)入学
昭和26年3月 同学部 卒業
昭和26年4月 大学院法科入学、翌年6月退学
(3)K・Sさんの聞き取り調査
K・Sさんへの聞き取り調査は延べ3時間にわたりました。今回紹介するインタビュー記録はK・Sさんの勤労動員の体験および終戦直後の学生生活に絞って整理しました。その整理は齋藤重がおこない、内容をより理解していただくために注釈等を挿入しました。インタビューの中でK・Sさんは「○ K・S」とし、聞き手齋藤は「○空白」としています。
K・Sさんは1945(昭和20)年4月、立命館専門学校工学科土木科入学
○ 本日は急な申し出にお応えいただきありがとうございます。理工学部事務室から連絡をいただきこちらで調査いたしましたところ、大学には舞鶴第三火薬廠への勤労動員(以下、勤労動員)に関する記録や公文書は一切見つかっておりません。その点でK・Sさんの証言は非常に貴重ですので記録に残したいと思っております。録音をお許しください。
○ K・S 了解しました。
○ 早速ですが、K・Sさんは舞鶴第三火薬廠への勤労動員でしたね。入学の年度、覚えておられますか。
○ K・S 1945(昭和20)年の4月ですね。宮津中学校(現在の京都府立宮津高等学校)を卒業して、即、立命館専門学校に入学しました。工学科土木科でした。
○ その土木科には何人ぐらいの学生がおられたんですか。
○ K・S 人数ははっきり覚えておりませんが、そのときの卒業写真をもっていました。池のところにみんなで座って撮った写真があったんですけど、もうなくしてしまいました。昭和20年7月頃の写真ですからもう終戦直前ですね。
宮津中学校時代の勤労動員体験
1944(昭和19)年2月戦局はいよいよ不利となり、政府は、同月25日の閣議において「決戦非常措置要綱」を決定し、国民生活の各分野にわたって当面の非常措置を定めました。この要綱によって中等学校程度以上の学徒は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制ニ置キ必要ニ応ジ」動員することに決定されました。3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され動員基準が明らかにされました。この中において、1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調されました。文部省は詳細な学校別動員基準を決定し、3月末に各学校に指令します。全国の学徒は4月半ばころから、通いなれた校舎に訣(けつ)別して続々と軍需工場へ動員されていきました(『学制百年史』文部省)。
○ K・S もうそれこそ沖縄に上陸されたような時期(注2)で戦争の最終段階ですね。だけど、あまり戦争に関する詳しい記憶は無いんですわ。わたしは、宮津中学校のころから勤労動員にいっていましたし、中学校のときに東京大空襲(注3)があったんですが、その時に私は何に使うのかわからない軍用と思われる荷物を持たされ東京へ行った記憶があるんですわ。
○ それは東京大空襲の直後ですか。
○ K・S いや、その大空襲のあった当日だったと思います。もう東京が焼け野原になったような状態でした。それが中学校のときの勤労動員でした。思い出してみれば中学のときから、もう動員、動員の毎日でしたね。
○ それは大変な時でしたね。
○ K・S はい。その頃、私の兄は戦争へ行っておったんですが、兄弟2人しかいなかったもんですから、親は「2人とも徴兵される」と困る、そんな心配をしておったんかもわかりません。余り大きな声で言えませんけど、徴兵延期というのが理工系学生にはあったはずです。それで親の気持ちを考えて理工系を希望したのかも知れません。
多分、わたしが入学した立命館専門学校の理工系は徴兵延期扱いだったと思いますよ。
○ K・Sさんも徴兵延期の対象だったんでしょうね。
在学徴集延期臨時特例(勅令)に関する件
1943(昭和18年)9月、「現状勢下に於ける国政運営要綱」(閣議決定)により、学生・生徒の卒業までの徴兵猶予を停止することとされ、同年10月2日、在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布されました。大学・高等専門学校の満20歳に達した学生・生徒は徴集されることとなり、10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省主催の学徒出陣壮行会が行われました。なお、陸軍省により入営延期を行う理工医系・教員養成系学校学部等が指定されています(国会公文書館 資料「在学徴集延期臨時特例(勅令)に関する件」)。
このように「在学徴集延期臨時特例」が公布され,理工科系および教員養成学校を除いて徴兵延期措置は撤廃されました。K・Sさんは土木科入学ですので徴兵延期措置の対象者でした。
舞鶴第三火薬廠への勤労動員と空襲経験
京都府舞鶴市には舞鶴旧海軍工廠(以下、舞鶴海軍工廠)と舞鶴旧海軍第三火薬廠(以下、舞鶴第三火薬廠)とがあり、舞鶴海軍工廠は1889(明治22)年全国4番目の鎮守府、軍港として整備されました。一般的に、海軍工廠は、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場のことですが、ほかに海軍が直営する航空機の製造・修理整備する「空廠」、火薬製造・充填を担当する「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する「療品廠」がありました。兵器を兵器たらしめるには目標物を破壊する爆薬がなければならず、兵器を構成する比重の4分の1を火薬がもつといわれています。それだけに火薬廠の役割は大きく高いレベルの軍事機密とされていました。海軍火薬廠は全国三箇所(平塚、舞鶴、柴田<宮城>)にあり、舞鶴はその第三番目の火薬廠に位置していました。太平洋戦争中、舞鶴第三火薬廠では5,000名の従業員が生産に従事しており、そのうち約1,330人以上が勤労動員(1944(昭和19年)年調査で、1945年7月30日までの数はふくまれていない)されていました(『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』関本長三郎編著)。舞鶴第三火薬廠は現在東舞鶴大浦半島の付け根の海岸付近から朝来(あせく)地域、舞鶴高専地域に広がる。
○ K・S 1945(昭和20)年4月に入学しますが、入学式が終わるとすぐに舞鶴第三火薬廠に動員されたんですね。わたしは土木科ですから爆弾や弾丸の製造には関わらず、もう地底に張りめぐらされていたトンネル、このトンネルは火薬を貯蔵するところか何かわかりませんけど、そういうトンネルばっかり掘っておったんです。土木科だからということで、そういう作業をさせたんかもわかりませんけどね。
○ 最初に聞いたときは、火薬廠だったら化学の学生とかと思っておりましたが、そしたら土木科の学生でしかもトンネルを掘っていたと聞き驚きました。
○ K・S ええ、地底のトンネルをずっと掘っておったのですが、勤労動員の間、私の記憶は、本当に怖かった記憶しかないです。空襲を受けた時など、とにかく窓から米軍の飛行機が見え、屋根の瓦のすれすれのところまで来て「ダダダダーッ」とやられるんですよ。
いわゆる機銃掃射ってやつですね。その恐怖しか覚えていないですね。舞鶴湾でも、空襲を受けて軍艦とか沈んでいくところを見ました。それは恐ろしかったですわ。
○ 舞鶴の空襲は1945(昭和20)年7月29日と30日ですね。
○ K・S はい、29日の空襲でした。29日は多分休日(日曜日)で寄宿舎にいたと思います。
舞鶴海軍工廠、舞鶴第三火薬廠への空襲は、1945年7月29(日)晴天、7月30日(月)晴天にわたって行われています。29日は、米軍艦上爆撃機1機が来襲し、舞鶴海軍工廠に機銃掃射、爆弾投下、舞鶴第三火薬廠に機銃掃射、30日には舞鶴第3火薬廠のある朝来(アセク)地域を頻繁に(12回に及ぶ)アメリカの航空機P-51 マスタング( P-51 Mustang)に奇襲されています。さらに8月7日には米軍B29六機によって舞鶴湾に機雷が投下されました(『舞鶴市史』)。
K・Sさんが受けた空襲の経験は7月29日の経験でした。同じ経験した人は、K・Sさん同様、空襲は青葉山(舞鶴市)の方からやってきてP-51の操縦士の顔も見え、「バリバリ」と機銃掃射されるため凄く恐ろしかったと述べています(『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』)。
旧舞鶴第三火薬廠があった場所付近から青葉山を望む。青葉山方向から飛来した戦闘機の機銃掃射を受けた。
○ 大変な経験をされましたね。
○ K・S ええ、もうそれはもう「怖い」という強烈な印象しか残っていないんですわ。とにかく機銃掃射の恐ろしかったこと。だから、食事がどんなだったとか、宿舎の様子とか、トンネル掘りしている時のつるはしとか、そんな断片的なことしか記憶がないんですね。
履歴書に立命館専門学校工学科土木科4月に入学と書いても、本当に学校に行っておったんだろうかと思ったりします。実際に4月に入学しましたが授業は無いので、入学式が終わると、すぐに勤労動員にいって終戦までおったんですしね。
○ 誰かつき添いの先生とかはおられなかったんですか。
○ K・S そういう記憶はありません。
とにかく勤労動員の間は、ただ々恐ろしかったという記憶だけが強かったですね。米軍は、わたしが寄宿舎の屋根から見ているのを発見し、こちらに向けて機銃掃射したんやないか思いました。本当に怖かった。
○ 舞鶴第三火薬廠の場所は朝来地域(舞鶴市朝来)ですよね。
○ K・S ええ。
○ 今の舞鶴工業高等専門学校がある辺りとか。
○ K・S はい、日本板硝子(現在、日本板硝子株式会社舞鶴事業所)とか、そういう工場は今でもありますけどね。
舞鶴海軍第三火薬廠朝来工場施設図(関本長三郎編『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』出版センターまひつる 2005)
○ 舞鶴海軍工廠は日立造船(現在、Hitz日立造船株式会社舞鶴工場)のあった場所ですよね。
○ K・S そうです。東舞鶴の海軍工廠のあたりにいとこが住んでおりまして、そこへ行ったりしておった記憶があるのですけれど、空襲の恐怖心がそういう楽しい記憶をもみ消しにしてしまうのか、何にも覚えてないんですよね。
軍事機密の多い舞鶴では空襲の記録・資料が極端に少ない
○ ところで舞鶴第三火薬廠の空襲に記録が極端にないのはなぜでしょうかね。
○ K・S それは、要するに舞鶴は鎮守府でしょ。それだけに軍の機密がいっぱいあるところです。だから、いっさいこの戦争の空襲のことは公開するなとか、記録するなとか言われていました。
○ なるほど。やっぱり大学に勤労動員の記録が残っていないこともうなずけます。
○ K・S あそこ(舞鶴第三火薬廠)は、特攻隊の弾丸、それから魚雷の火薬ですね。特に魚雷は得意だったんですよ。だから火薬類でも沢山貯蔵しておったんと違いますか。だから、海軍にとっても、日本軍にとっても、軍事機密の強い場所だったんですよね。
○ なるほど。学園には理工系学生の動員名簿があるんですけれども、その名簿には、学生をどこに、何人派遣したか、とか書いてあるのですが、その名簿にも舞鶴第三火薬廠は現在の調査では出てきていません。
勤労動員に一緒に行った学友たち
○ 話は変りますが、勤労動員に、一緒に行かれた学友の方とかは覚えておられますか。
○ K・S 京都で学友の者が7名ほどで撮った写真があったのですが、それもありません。残念だなと思っています。
○ そうですか。もしありましたら、ぜひ史資料センターに寄贈していただいければありがたいですね。今のお話だと、学友7人で行ったとのことですが、学友は本学の学生なのですか。
○ K・S 土木科が一緒に行ったんだと思いますよ。第三火薬廠には従業員が5,000人ほどおり、1,000人以上が勤労動員の学生、生徒だったと聞いています。それだけたくさん作業をさせておったんですね。
○ その中には文系の学生たちもおられたんですか。
○ K・S 文系はおそらくいなかったのと違いますかね。でも立命館商業学校(注4)から行ったようですね。
わたしの学生時代
○ K・S 私は、京大の近くに下宿しておったんですけれども、そのときに採鉱冶金科(立命館専門学校工学科採鉱冶金科)というのがあったんですね。その採鉱冶金科の方が同じ下宿だったんです。
○ 採鉱冶金科の学生も勤労動員されていますね。ここもかなりいろんなところに行っているんですね。例えば、三井鉱山神岡鉱業所、石原産業紀州鉱山、遠くは日本鋼管諏訪鉱業所など鉱山関係ですね。
○ K・S それで、その方はちょっと年配だったもんですから学徒出陣して行ったんです。
○ そうですか。ところで学生時代に教えていただいた先生で、覚えておられる先生とかおられますか。
○ K・S テラカド先生(土木科 寺門四志穂教授)とかいうのがおられたかな。とにかく立命館専門学校の先生は、京都帝国大学からこられた方が多かった。だから有名な先生が結構おったんです。それこそ総長さんを初めとしてね。
○ 末川博先生のことですか。
○ K・S そう末川博先生を初め、有名な先生方がぎょうさんおられましたな。だから、お話を聞く範囲では、十分勉強しごたえのある方ばっかりでしたけれども。わたしは余り勉強はしなかったんやけど。
○ いやいや、なかなか勉強に専念するだけの余裕がなかったと思うんですけどね。終戦前後の方って、みなさんそうですよね。戦後引き揚げてこられた方も一、二年してから復学された。勤労動員の場合も終戦後すぐに学校に引き上げてくるわけですが、学校に戻ってきてからですけど、皆さんやっぱりしばらくは何していいかわからないで、一、二年間ぼぉーっとしていたといいますね。
○ 学徒出陣していた学生は、復学して大学を出られたとか、あるいは休学のまま退学して別の仕事をされたり、在日朝鮮人学生の場合はそのまま本国に帰ったりと、終戦後、様々なようですね。だから、戦後直後の学生だった人たちが、戦時下の学生生活をどんな風にすごしたか、何を考えていたか、などその人の生き方を記録し、残すことが非常に大切になると思うんです。
○ K・S そうですな。
○ 動員などでほとんど学生がいなかった立命館も、8月のお盆明けぐらいに9月から授業を再開しますよと新聞に告知しているんです。
○ K・S ほう、そうですか。
『大阪朝日新聞』昭和20年9月6日付
(敗戦直後の授業再開新聞広告)
写真(写真「新聞広告」)のように、立命館大学と立命館専門学校の学生に対して9月11日(1部(昼間部)は9時から、2部(夜間部)は18時から授業を再開することが告知されました。K・Sさんも勤労動員先の舞鶴から学園に戻りました。学園も9月14日の理事会で大学・専門学校の学則を改正し、国家主義的な科目、国体学、国防国家論、東亜共栄論などを廃止し、常識的な学問体系に沿った科目配置がなされました(『立命館百年史 通史一』)。再開された授業は、民主主義教育を基本として行われました(1945年9月14日理事会)。
○ それで大学に戻って来た方、当然戻ってこられなかった方もいます。それから二、三年後になって戻ってきた方もおられるんですね。大学も大変だったようです。
○ K・S そうですね。もし大学に戻っていなかったら私は何しておったんだろう、と思います。
戦後、米軍相手のバンド(アルバイト)から始まった。
○ それでは、戦争からお話がちょっとずれるかもしれませんけど、戦争が終わった後のK・Sさんの学生生活というか、勉強のこと、楽しかったことなど、お話くださいますか。
○ K・S 楽しかったことは思い出せませんが、とにかくもう生活が第一でしたね。まず第一に、生活せなならんので勉強もしたかったですけどまずは生活でした。仕事は米軍の仕事をしておったんですわ。京都宝塚劇場というのがありますね。三条河原町近くにあったと思います。そこを米軍が接収して米軍専用劇場にしましたが、そこでバンドのアルバイトをやっておったんですわ。
○ そうですか。
京都宝塚劇場(現ミーナ京都)が太平洋戦争の終戦後、アメリカ軍専用の映画館になっていました。京都に実際にアメリカ軍が進駐してきた1945(昭和20)年9月25日でした。アメリカ軍に接収され「ニュー・キョウト・ステートサイド・シアター」という名の占領軍専用劇場になりました。コメディー映画で有名なダニー・ケイをはじめ、多くのタレントのほか一流バンドがやって来て大変なにぎわいだったといいます(「京都の映画80年の歩み」京都新聞社)。そのシアターでK・Sさんはバンドのアルバイトを始めました。
○ K・S そこはステイトサイド・シアターいうて、それは米軍専用という意味ですわね。そこで何をやったかというたら、楽器はギターです。米軍専用ですので出入りは厳重にチェックされました。それで結構生活はできましたけど、勉強のほうがさっぱりできへん。
○ 落ち着いて勉強するどころではないということですか。
○ K・S 終戦後兄貴が帰ってきたんですが、帰ってくるまでに二、三年、間があったんですねん。その間、わたしは就職したらええものか、学校へ行けるもんか迷っていました。兄がすぐに帰ってくれば兄貴が家計を継ぎますから、わたしの方はなんでもするつもりでいました。ところが、兄貴の帰りが二、三年遅れたものですから、自分の気持ちもどっちつかずになっちゃいました。
○ K・S 結局、米軍の仕事でバンドマンを続け、米軍のキャンプ回りをしておったんです。大津(注5)だとか、それから大学、京都川端の日独文化研究所(現在 ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川)とか、秘密に米軍将校が集まる場所などでした。それから大津にキャンプがあったんですが、そこで御飯を食べさせてもらったりしました。とにかく米軍の仕事をやらせてもらって生活していました。そうこうして学校も卒業したんです。
K・Sさんは、卒業後、叔父がやっていた土建業の会社に入社しますが、再び、立命館大学法学部(注6)、大学院法学研究科にすすみます。卒業後、苦労して舞鶴職業安定所(現・ハローワーク)に勤め、昭和60年に定年で退職します。退職後も経験を生かしシルバー人材センターを立ち上げ、事務局長を勤めて、シルバー人材センターも退職して、現在も御健康です。
<最後に後輩に送るメッセージ>
戦争はしないことが一番肝心ですわ。
○ 本日、インタビューさせていただいて本当によかったと思っています。ありがとうございました。最後に、私も含めて、後輩にですけど、今の人たちに何か伝えるメッセージがありましたらおっしゃってください。
○ K・S この年代になりますと、やっぱり戦争というものをもう一度見直してもらえる、そういう材料になれば良いと思っています。そのためには、やっぱり戦時中どういうことがあったかということを皆さんに残しておくということも大事だと思います。戦争はしないことが一番肝心ですわ。
○ おっしゃるとおりですね。私も学園の歴史を扱って10年近くになるんですけど、舞鶴第三火薬廠での勤労動員のお話や戦後直後の学生生活をこんなにリアルに話を聞いたことは初めてでした。本当によかったと思っています。本当にありがとうございました。
2017年9月26日
立命館 史資料センター調査研究員 齋藤重
(注1) 「決戦教育措置要綱」は次のような内容でした。
決戦教育措置要綱 昭和20年3月18日 閣議決定
第一 方針
現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス
第二 措置
一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス
二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス
国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス
三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム
四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス
五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム
六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ
七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス
備考
一 文部省所管以外ノ学校、養成所等モ亦本要綱ニ準ジ之ヲ措置スルモノトス
二 第二項ハ第一項ノ動員下令アリタルモノヨリ逐次之ヲ適用ス
三 学校ニ於テ授業ヲ停止スルモノニ在リテハ授業料ハ之ヲ徴収セズ
学徒隊費其ノ他学校経営維持ニ要スル経費ニ付テハ別途措置スルモノトシ必要ニ応ジ国庫負担ニ依リ支弁セシムルモノトス
(『資料日本現代教育史4』宮原誠一ほか編 三省堂)
(注2) 1945(昭和20)年3月26日―6月23日の間の沖縄本島および周辺島々・海域での戦闘を指す。日本側死者・行方不明者約19万人 内民間人は9万人を超えるとされるが未だ正確な数はわかっていない。
(注3) 1945年(昭和20)年3月9日夜半から10日にかけて東京下町を中心とする空襲を東京大空襲とよぶ。
死者・行方不明者10万人を超えるとされるが正確な数は不明。東京は1944(昭和19年)11月14日以降106回もの空襲を受けた。
(注4) 立命館商業学校の生徒が舞鶴第三火薬廠に勤労動員されています。3年生184名、4年生181名、5年生151名、総人数516名もの生徒が勤労動員されました。5年生は1944(昭和19)年6月から、4、3年生は7月から動員されました(『立命館百年史 通史一』)。しかし、「勤労動員された生徒達は、働く場がなく炎天下の草むしりが続いて、生徒たちの怒りが爆発しても当然だった。暮近くになっても帰さないため父母からの不安の声が殺到した。国鉄(現 JR)と交渉して汽車を手配し、生徒は無事に帰った。」(『私の履歴書』白川静)このように立命館中学校・商業学校生徒の動員先、その様子は残されていますが、立命館大学、立命館専門学校の動員の記録は現在ほとんど発見されていません。
(注5) 大津市にも進駐軍キャンプがあった。進駐はまずホテルの接収から始まった。9月30日、琵琶湖ホテルが将校専用宿舎として接収されています。米軍の大津市への本格的な進駐は、10月4日・5日でした。(『図説大津の歴史』大津市歴史博物館市史編さん室編)
(注6) 文部省は1947(昭和22)年12月に大学設置委員会を発足させ、新制大学設置の審査を始めることとなりました。四年制大学の設置申請の大部分は1949(昭和24)年発足をめざしました。しかし12大学(立命館大学、同志社大学、関西大学、関西学院大学、神戸商科大学、日本女子大、東京女子大、津田塾大学、聖心女子大学、神戸女学院、国学院大学、上智大学)は1948(昭和23)年度発足が認可されています。(『立命館百年史 通史二』p167)そのため新制立命館大学は1948(昭和23)年から始まりました。K・Sさんは、旧制専門学校(工学科土木科)卒業後、新制大学(立命館大学法学部)に入学され、旧制専門学校と新制大学の学生生活を経験された貴重な経験をもっています。