立命館あの日あの時

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2018.03.29

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部(京都御所~村岡)

まえがき

 

 2018年は、徳川幕府に代わって新政府が確立していく明治維新、明治元(1868)年から150年となる。

 慶応4(明治元)13日、新政府軍と幕府軍は鳥羽伏見において戦闘を開始、戊辰戦争が始まった。

 翌4日、新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に、続いて三位中将西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命し、西園寺公は5日、山陰道に向けて出陣した。時に満18歳であった。西園寺公の山陰道鎮撫総督任命は、東海道・東山道・北陸道鎮撫使の任命に先駆けたものであった。

 新政府側が未だ帰趨の定まらない戦争勃発直後に西園寺公を山陰道鎮撫総督に任じ、かつ出陣させたのは、戦争の趨勢と新政権の確立に向けて極めて重要な意味をもっていた。

 本稿は、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』()、および各府県市町村史などの資料によりながら、山陰道鎮撫総督西園寺公望の御所出陣から帰陣までを辿るものである。

 

 () 『西園寺公望公山陰鎮撫日記』は、中川小十郎立命館総長の命により立命館大学予科石崎達二教

    授が1940(昭和15)年に執筆したもの。三校版・再校版を立命館史資料センターが所蔵している

が、刊行されなかった。本稿では『山陰鎮撫日記』と略す。

『山陰鎮撫日記』は、山陰道鎮撫に従軍した中川禄左衛門(中川総長の実父)の「御一新勅使御

発向日誌」などをもとに、80点ほどの資料を参照し、59点の写真を収録している。

    本稿の日付はいずれも旧暦表記とする。出陣の15日は新暦129日に当たる。

 

 

 

【山陰道鎮撫使道程地図】(『山陰鎮撫日記』に附属している地図)

※地図をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。

 

1.御所西園寺邸出陣、馬路本陣


(1)御所西園寺邸出陣

慶應4(明治元)15、西園寺公望総督は御所に参内したのち、濱崎和泉守、幸前肥後守らの家臣、参謀に薩摩藩黒田嘉右衛門、長州藩小笠原美濃介、薩長二藩の兵を率いて、蛤御門を出陣し、山陰道に向かった。供奉者および御供廻り40名ほど、薩長藩士300名ほどの陣容であった。

 西園寺総督の任務は、丹波・丹後・但馬の諸藩を新政府側に引き入れ、幕府側であった篠山・田辺(舞鶴)・宮津の諸藩を鎮定することであった。また、万一天皇が京を脱出せざるを得ない状況に陥った場合に、亀山(亀岡)あるいは山陰道に鎮座の地を確保するためでもあった。

【京都御所蛤御門】

 小泉策太郎/木村毅『西園寺公望自傳』は、西園寺公が直垂に烏帽子姿で薩摩藩の馬に乗り出陣したと伝える。随従した家臣山口筑後介は、公の馬上姿がよく似合い、また祐筆を必要としないと喜んだ。

中立売通り、一条通を西進し、嵯峨釈迦堂から鳥居本、六丁峠を越えて、保津川沿いから水尾への道を進んだ。水尾から明智越えの山道を通り、丹波保津村(亀岡市保津町)に出た。

明智越えは難路であるが、亀山藩の趨勢が不明な状況下、山陰道本路をとることは危険が伴うとみて明智越えを選んだものと思われる。

 保津に出ると遠方に千歳や馬路の集落が見えてくる。一行は馬路へと急いだ。

【千歳町から馬路を望む】

 

(2)馬路本陣

馬路に着陣したのは五ッ時というから午後8時頃のことであった。前日に命を受け、慌ただしく出陣したため部隊は十分整っていなかった。馬路に着くと人見立之進宅を本営とした。人見家とともに中川禄左衛門、中川武平太をはじめとした中川家などが西園寺総督を迎えた。

西園寺総督が馬路に最初の陣を置いたのは、元治元(1864)年の禁門の変に際し、禄左衛門の弟武平太、人見立之進らが勤王の士として参じていたことが知られていたことによろう。

薩長藩士は長林寺などに分宿した。

【馬路本陣人見立之進邸】

 

(3)馬路滞陣、亀山藩の帰順

 16には、更に多くの薩長両藩士が着陣した。また中川・人見両氏は丹波弓箭組郷士による備えを進言し、これによって弓箭組も総督の隊列に加わることとなった。

 亀山藩は幕府から山城国の警備を命じられていたことから幕府側とみなされていた。亀山藩の家臣が本陣を訪れたが誠意が見られないとして総督軍は亀山城に迫り、ここに亀山藩は総督軍の指揮に従った。また馬路には幕府側の杉浦陣屋があったが、杉浦氏は総督軍の来る前に姿を消していた。

 この日西園寺総督は中川・人見両姓に対し感状を授与した。

 馬路には中川家・人見家の祖霊社があり、中川家の祖霊社の地には「淸聲千古碑」が立つ。

碑は中川小十郎が大正11年に、人見・中川の両姓をはじめとした馬路郷士が戊辰戦争に貢献したことを顕彰し建立したものである。篆額は西園寺公望揮毫、撰文竹越與三郎、根岸好太郎書である。

【淸聲千古碑】

 2.園部から福住、篠山へ

(1)馬路から園部へ

 17、亀山藩を新政府側に治めた西園寺総督は、馬路を後にして八木を経て園部に向かった。八木に入るには桂川を渡る。当時橋は無く、鎮撫使一行は現在の大堰橋付近を渡し舟で渡った。西園寺総督は八木村入口で園部藩の出迎えを受けた。

 八木村の福島嘉平次方で小休、次いで鳥羽宿の福田藤四郎方で小休した。鳥羽宿の町はずれには、江戸時代の宿の概要と絵図が書かれた案内板があり、宿のなかほどには福田姓が見られる。

【写真 八木の渡し】

(2)園部藩

 吉富や現在の園部駅前を過ぎると園部(南丹市)に入る。鎮撫使一行は園部本町の小林嘉兵衛方を本陣とした。8は雪となり園部に滞陣した。

 鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に帰し、徳川慶喜は江戸に退いた。園部藩主小出英尚は京に在ったが、家臣らが勤王を誓った。滞陣中に京から高倉永祜が来て、新政府による徳川慶喜征討令と幕府領地を新政府の直轄とする農商布告を伝えた。高倉は続く北越戊辰戦争でも西園寺とともに戦っている。

 この日、旧幕府軍の兵が摂津から福住へ脱出してくるとの情報があり、丹波国の弓箭郷士を徴集することとした。

 園部は城下町であったが、園部城は特異な歴史をもっている。園部城は全国で最後に築城された城であった。江戸時代は天守の無い陣屋であったが、元治元(1864)年に幕府に築城を願い出て、慶応3(1867)年に内諾を得たものの大政奉還によって幕府からの正式許可が下りず改めて新政府に願い出た。するとこれが認められ慶応4(1668)年正月に築城に着手し、翌明治2(1869)年に完成した。ようやく完成した城であったが、その4年後には取り壊されてしまうのである。西園寺公望総督が進軍した時はまだ陣屋であり、天守をもつ園部城ではなかった。その園部城跡は現在園部高校となっている。

【園部城跡】

(3)調高山琴松寺

 19も雪となった。園部城を後にして園部川沿いに西に進む。竹井の集落で園部川と別れ原山峠に向かった。原山峠は現在、京都府南丹市と兵庫県篠山市に分かつ。切通しの峠を越えると原山の集落が点在する。

 『山陰鎮撫日記』は鎮撫使一行が原山の寺院で中飯をしたと伝える。中原山の調高山琴松寺を訪ねた。ご住職にお話を聞くと、西園寺公が山陰道鎮撫の際にご休憩された寺ということであった。村人は見たこともない服装の隊列に驚愕し、天子様の代わりの高貴で立派な方が来られたということで、門前の田に集まって、高台の琴松寺で小休していた西園寺公を伏し拝んだという。その場所は現在も「伏し拝み」という小字が残っている。また山号をそれまで秀林山と言っていたが、西園寺公が調高山と呼ぶように仰せられて今の山号になった。

【調高山琴松寺】

 調高山琴松寺を後にし、伝統的建造物である古民家の多い安口(はだかす)の集落を過ぎると福住に到着する。

 

(4)福住と篠山藩

西園寺総督は、福住宿では山田嘉右衛門方を本陣とした。9日夕刻に着陣し、2日間滞陣したのち12日に発陣する。福住宿は古代からの山陰道の宿であり、福住小学校の校庭には「福住駅本陣跡」の碑が立っている。

福住では、旧幕府側の小浜藩などの敗兵が帰藩のため当地方を通るのではないかとの情報があり、戦力を強化した。10日には弓箭士が駆けつけ、翌11日には山国隊も決起して新政府軍に随従した。こうした状況のもと、酒井若狭守守忠が謝罪書を奉じ、篠山藩は家老らが篠山城から福住に出向いて帰順した。

 112、西園寺総督一行は快晴の福住を発ち、古代山陰道小野駅跡を通り、八上の服部六兵衛方で中飯をとったのち、篠山川に架かる京口橋を渡って篠山の城下に入った。

 西園寺総督は篠山城北側の二階町、河合七兵衛方に着陣した。

 藩主青山忠敏、老臣らは連署して勤王無二及び徳川譜代義絶の書を差し出した。

 現在の篠山城は天守は無いが大書院が残り、堀をめぐる石垣の大きさが幕末のたたずまいを残している。

 

【篠山城】

 篠山町(現篠山市)では明治29年、山陰道鎮撫の際に西園寺公が滞陣したことから「孤松臺」の書の揮毫を依頼し、市内の王地山公園にその碑を建立している。

 

 

3.柏原、そして福知山藩

 

(1)篠山から柏原へ

 113、西園寺総督は濱崎和泉守と長州・薩摩の藩士を篠山城の見分にあたらせ、柏原(かいばら)に向かって発陣した。

 篠山を後に、宮田、長安寺の集落を通り、大山川を遡りながら追入(おいれ)に着いた。一行は追入で中飯をとっている。中飯後、金ヶ坂峠(鐘ヶ坂峠)を越えた。鐘ヶ坂峠はその後、明治・昭和・平成の3つのトンネルが出来、現在は1,012mの平成のトンネルしか通れない。

 鐘ヶ坂を越えると丹波市柏原に入る。

 

(2)柏原の宿

 柏原藩(後期)は織田信長の子孫が大和の宇陀から移封して始まり、大内山の麓にある陣屋を政庁・居館とした。表御殿は文政3(1820)年の再建で、現在向かい側に柏原歴史民俗資料館がある。

 さて『山陰鎮撫日記』は西園寺総督の本陣を辻田太郎右衛門方と伝えるが、『柏原町志』は、当初下辻の土田太郎兵衛本陣に宿陣するところを急遽西楽寺に移ることになり、慌ただしくその準備に追われた、としている。

 西楽寺は大手門の近くにあり、「西園寺卿本陣史蹟」と刻まれた碑が山門に立っている。碑は昭和10(1935)年に建立され、『柏原町志』を編纂した松井拳堂がその由縁を記している。

 『柏原町志』は、鎮撫使一行600人が各所に分宿し、西園寺総督に大鯉2尾、勝栗2升入り1箱を献上した、と伝える。

 土田家は上辻、中辻、下辻と3軒あり、下町下辻の土田家は代によって太郎右衛門、太郎兵衛などと名乗ったようである。

(3)柏原から福知山へ

 114は雪になった。柏原を発陣し石負(いそ)(石生)にて小休した。向山山麓を道なりに進み、黒井でも小休をとった。黒井はかつて城山に黒井城があった。また黒井駅から東4㎞の進修小学校には、西園寺公望揮毫の「學田之碑」がある。碑は明治29(1896)年建立。撰文は重野安繹。

 黒井を過ぎ、多田、市島と進んだ。

 鎮撫使一行は市島で中飯の後、更に上竹田、才田と進み、酉刻(午後6)福知山に到着、福知山藩の出迎えを受け、吉田三右衛門方に着陣した。

 

4.福知山藩から田辺藩へ

 

(1)福知山藩

吉田三右衛門本陣は福知山城から北に延びる城下通りを進み、広小路通りから入った菱屋町にあった。吉田家は塩屋という屋号で、問屋などを営む豪商であった。この辺りは古い町並みが残り、北上すると寺院が並ぶ寺町に至る。

 福知山城は天正8(1580)年、明智光秀に始まるが、その後、寛文年間に朽木氏の支配となり、戊辰の際の藩主は朽木為綱(もりつな)であった。戊辰当初、福知山藩は幕府側にたったが、この間の動向はいかんともしがたく、115藩老朽木杢允が吉田本陣に出頭して降伏した。

 西園寺総督は滞陣の間に諸藩に命じ、福知山藩のほか出石藩、綾部藩、山家藩から勤王の誓書を提出させた。また綾部藩を始めとする諸藩に征討大号令と農商布告を発した。

【福知山城】

 福知山滞陣中、御所からの使いが赤地に日月の紋を表した錦旗と鎮撫使の幟(牙旗)を奉じて到着した。錦旗は文字通り「錦の御旗」で、これによって鎮撫使一行は、朝廷の権威を旗印として進軍することとなった。この日馬路から猪肉が届いた。

 福知山には大雪のため、更に16日、17日と滞陣した。

 

 

(2)福知山から田辺へ

 118、鎮撫使一行は福知山を発陣した。人見・中川両姓および弓箭組が錦旗を守り、力士花の峰が総督の牙旗を捧げ進軍した。一行は間もなく光津(天津)の是社(これこそ)神社に到着し、神社の向かいの由良川(音無川)の乗船場から15艘の船に分かれて乗船し藤津に向かった()

     

   【是社神社】                    【是社神社向かいの由良川】

福知山藩は一行に随従したが、警護のため陸路を歩いた。

 下天津を過ぎると間もなく「従是北丹後國加佐郡」「従是南亰都府天田郡」と書かれた石標が立つ。丹波と丹後の境界であり、現在福知山市と大江町の境界である。

 公庄(ぐじょう)を過ぎると大江の町に入る。大江山の鬼伝説の里である。

 大江を出発し由良川を下る。一行は藤津の船着き場で下船し田辺(舞鶴)に向かった。

 藤津からは東に道をとり、陸路上福井、下福井を経て田辺に至った。

 

 () 『福知山市史』は、広小路船戸口から乗船し田辺に向かった、としている。

 

(3)田辺藩

 1月18日、田辺藩は菩提寺である見樹寺で鎮撫使を出迎えた。見樹寺は現在もある。その後西園寺総督は村田兵左衛門本陣に着陣した。本陣は大手交差点の西側、丹波町通りと広小路通りの西角にあったが、現在は残っていない。

 鎮撫使一行総勢624名が34の町屋と寺院を宿所とした()。そこから田辺城は近い。現在は石垣が残り、彰古館と城門が復元されているが、一帯は舞鶴公園となっている。

【田辺城跡】

 一行が到着すると田辺藩主牧野誠成、老臣らは恭順し、二心無き事を誓った。西園寺総督は19日は遊船というから、舞鶴湾を巡ったのであろう。20日には家臣の濱崎和泉守が城内を見分した。西園寺総督は人見・中川の郷士を連れて馬で遠乗りをしている。

 舞鶴の名は、明治2年の版籍奉還後、紀伊田辺藩と区別するため田辺藩から舞鶴藩へと改称したことによっている。その由来は田辺城の別名を舞鶴城と呼んだことにあるという。

 121朝、西園寺総督一行は田辺を発陣し宮津に向かった。田辺藩は「ます」若干と「このわた」10桶を献上し、藤津や由良まで藩士が随従した。

 鎮撫使一行は一旦藤津まで戻り、再び乗船して由良川を下り由良に向かった。一行は由良港で下船し、松原寺(しょうげんじ)で中飯をとった。松原寺は港から近く、今も集落の中に静かな佇まいを見せている。

 丹後由良からは左手が山、右手に栗田湾を臨む道を進むが、國田(栗田(くんだ))の集落を外れると旧道は國田峠(栗田峠)に向かい登っていく。長さ126mの撥雲洞トンネルを越えるが、このトンネルの開通は明治19年。京都府知事北垣国道が京都から宮津へと道路を開通する事業として完成した。宮津側に「撥雲洞」、京都側に「農商通利」の題字が北垣国道によって刻まれている。

 

 () 松本節子「舞鶴・文化財めぐり」の「村田兵左衛門文書」(舞鶴市民新聞1993910)による。舞鶴市教育委員会提供

 

5.宮津藩、三上金兵衛本陣

 

 峠を下りると宮津の市街が目に入ってくる。

 宮津城は大手川の右岸から宮津駅にかけての一帯にあったが、今はほとんど遺構が無く、わずかに太鼓門や石垣の一部を残すのみである。

 21日夜、西園寺総督は宮津本陣・三上金兵衛方に着陣した。この日は大雪であった。

 宮津に到着したのは薩長両藩士、郷士のほか柏原・園部・篠山・出石・福知山・田辺の諸藩士合わせて728人、先着の者を含めると千人ほどの滞陣となった。

 宮津藩は戊辰戦争では幕府側であった。しかし戦況はいかんともしがたく、結局宮津藩も新政府側に帰順することとなった。

 西園寺総督は123に濱崎和泉守、薩長兵、郷士を従え宮津城を見分して、勤王を誓う誓詞を提出させた。この日、豊岡藩も誓詞を提出した。

 124も雪や雨で、西洋式御調練を御覧になる予定であったが中止となり、宮津から船で文殊に渡り、文殊堂や天橋立の対岸の一宮籠神社(このじんじゃ)に参詣した。籠神社は丹後之国一宮・総社である。伊勢神宮内宮・外宮の元宮ともいうことから元伊勢籠神社ともいう。

 25は大手川河口の島崎砲台を御覧になった。砲台は幕末の海防のため建造されたものである。また総督は、濱崎和泉守、中川禄左衛門らに各藩の提出した誓書を二条城の太政官代に届けさせた。亀山・園部・篠山・柏原・山家・福知山・綾部・田辺・宮津・若狭酒井の諸藩であった。

 宮津藩の降伏により当初の山陰道鎮撫の見込みが立ったため、各藩藩士は5人、丹波弓箭組郷士も50名ほどを残して各郷に帰した。

【天橋立】

 さて西園寺総督が21日の着陣から26日の発陣まで滞陣したのは、河原町の三上金兵衛本陣であった。三上家は酒造業や廻船業、糸問屋を営む宮津有数の商家「元結屋」であった。現在、三上家住宅として公開され、各地の本陣のうち最もよく遺存している本陣の一つである。

 

  

        【三上本陣】                      【三上本陣勅使門】

『山陰鎮撫日記』には宮津町御本陣記録である「為御勅使西園寺三位中将様」、また「錦旗並に牙旗の図」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸表門掛札」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸座敷」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸座敷平面図」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸庭園老梅」、「西園寺公親筆老梅の詩短冊」が掲載されている。

 

     

      【三上家奥座敷】                            【老梅】

御座敷や勅使門は現存しており、表門(勅使門)と玄関は、天保9(1838)年に幕末巡検使を迎えるにあたって造られたもの。庭園には今も老梅があり、季節には花をつける。

西園寺総督は短冊に

     冷香脈々透簾帷 起向書窻梅影移

     忽思枕頭疇昔夢 水邊竹外立多時   望草

と書き残し、宮津を発陣した。

 京都府立丹後郷土資料館では、西園寺総督が滞陣した際に三上本陣に掛けられた「表門表札」と、西園寺公が詠んだ「老梅の詩短冊」が所蔵されている。()

 

() 20151127日、宮津市教育委員会に三上家をご案内いただき、丹後郷土史料館を訪問した。

 

6.峰山、豊岡から村岡へ

 

(1)天橋立一字観と「ええじゃないか」

126、鎮撫使一行は宮津を発陣し乗船、天橋立を越え阿蘇海から岩瀧に着いた。

一行は千賀両輔(両助)方で中食をとった。現在の与謝野町役場付近である。

 ここから大内峠を越えて峰山に向かう。山道を登ると大内峠の一字観公園に至るが、公園からの天橋立の観望は天橋立四大観の一つである。

 ちなみに四大観とは、傘松公園からの「斜め一文字」、天橋立ビューランドからの「飛龍観」、獅子崎からの「雪舟観」、大内峠からの「一字観」である。天橋立を東西南北から観た絶景である。

 峠を下ると旧三重村、口大野(丹後大宮)を経て峰山に到着する。

 宮津・岩瀧など丹後地方では、鎮撫使一行の進軍に先立って神符が降り、「ええじゃないか」の乱舞が広まったことが知られている。「ええじゃないか」は世移りの時代に起こった民衆の狂態であったが、鎮撫使の進軍とともに鎮まった。

 

 

(2)峰山、久美浜

 26日夕刻、峰山の若松屋寺田惣右衛門方に着陣。本陣は峰山陣屋に向かう峰山の中心街の四辻近くにあった。

 当主の寺田惣右衛門は、「(閣下は)萌黄地の装束に太刀を佩き、立烏帽子をかむり、馬上優美の姿と……」記している。また「鎮撫使滞陣で要した峯山町の経費は54566厘」(『峰山町郷土史』)というが、今日いかほどになるのだろうか。

 峰山藩主京極高富もまた勤王を誓ったが、わずか一万石の峰山藩に700人を超える鎮撫軍が到来したため、城下は大混雑であった。

 127、西園寺総督は久美浜に向けて出陣。峰山からは五ヶ村・鱒留村を経て、更に比治山峠を越え、中飯のため久美浜の稲葉本家吟松舎に立ち寄った。

 当主稲葉市郎右衛門が『過渡の久美浜』()で鎮撫使一行の様子を書き残している。

【稲葉本家吟松舎】

 

(一月)二十七日山陰道鎮撫総督西園寺公の一隊通過す。是より先き宮津より通知ありければ官軍陣営にも打合せ本願寺を以て総督の休憩所に充て準備全く整ふ、已にして急報あり、総督は寺院を嫌ふ宜しく民家に本陣を設くへしと、此に於て俄に我か吟松舎を本陣と定め多数の職工を使役し夜を徹して修理を加ふ、而も猶全からす午前十時先手は已に来る尋て総督も到着し、兵士は長明寺及西方寺に休憩す、午餐了りて直に豊岡に進発せり………総督は美少年にして萌黄地の装束に太刀を佩き立烏帽子を被り、馬に跨り練り行く有様は頗る優美に見へたり………総督の旗は白地の織物にて上部に金銀の日月を打ちたるもの、長壹丈余もありたらん、旗手は京都相撲の関取華の峰善吉及其門弟ともなり」

 

 () 『過渡の久美浜』は、西園寺公望から本学に寄贈されている。

 

(3)豊岡

 鎮撫使一行は河梨峠を越え、日撫(ひなど)から円山川を渡り、27日夕刻豊岡に入った。鎮撫軍が豊岡に入って来ると町中は大騒動となったが、ここで「大事件」が起こった。一人の町人が隊列の前を道切りした(横切った)ため捕らえられて本陣に引き立てられた。町人は西園寺総督の前に突き出され、首を切り落とされそうになったが、そのまま裏門から放り出され、這う這うの体で家に逃げ帰った、とか()

 豊岡本陣由利三左衛門方は、堀川橋を下がった街道沿いにある。豊岡市役所の東で、南に豊岡陣屋があった。陣屋は現在、豊岡市立図書館で、その入り口の門は旧久美浜県庁舎の正門であった。

 豊岡藩主京極高厚は新政府に協力を申し入れていたが、西園寺総督は重臣を引見し改めて忠誠を確認した。

 

 () 豊岡市老人連合会編『豊岡民話 耳ぶくろ』1975年 豊岡市立図書館所蔵

 

(4)江原、八鹿から村岡へ

128、豊岡を発陣、江原村の友田儀右衛門方で中飯とした。志具なぎ(宿南)で小休の後、夕刻八鹿の西村庄兵衛方に着陣した。

 西村本陣は諏訪町にあったが現在その跡を語るものはない。近くに西村家の別館立誠舎があり、石門心学を教えていて、北垣国道なども学んだという。北垣国道は山陰道鎮撫に従軍し、のちに京都府知事となっている。

 129、八鹿を出陣、八木を経て関宮で中飯。関宮までは西進してきたが山陰道はここから北上する。八井谷川沿いを上り、八井谷峠を越えるのだが、現在、旧道は通れず、巨大なループ橋を渡った後、1,256mの但馬トンネルを越えて福岡に出る。鎮撫使一行は、福岡で小休の後、夕刻、村岡本陣今井実造方に着陣した。

2018.03.29

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第2部(村岡~松江)

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部(京都御所~村岡)へ



1.村岡から鳥取へ

 

(1)村岡滞陣

村岡藩は山名主水助義済が治めていた。本陣となった小代屋今井実造方は村岡陣屋から下がった宿の中心部の一角にあった。山名氏の菩提寺法雲寺も近い。現在本陣史跡は残っていないが、商店街の中心部には村岡陣屋の復元大門が聳えている。

 

 

月が明けて21(新暦223)となった。前日の雨は上がったが、村岡一帯は洪水に見舞われてこの先の橋が流失し、総督一行は1泊の予定であったが滞陣を余儀なくされた。

この日、鳥取藩家老が村岡に拝謁に訪れた。鳥取藩では鎮撫使一行を迎えるにあたっての心得が定められた。

 

香美町村岡振興局には「西園寺三位中将」(慶應四戊辰正月)の簿冊が所蔵されており、また「山陰道鎮撫使御通行の際諸藩村岡通行の記録」、「山陰道鎮撫使村岡御通行の記録」、「慶応4年御勅使懸入用五ヶ庄差引帳 写し控」、「官軍の総監 村岡藩士 田結庄八十郎」村岡歴史研究会などの資料がある。

簿冊「西園寺三位中将」は山陰道鎮撫使の通行を迎える村岡藩福岡宿駅の記録である。

正月13日より28日までの間の鎮撫使一行が村岡の隣村福岡に向かう状況を早籠で知らせる記録で、宿において継立に滞りなく準備をするための緊迫した様子が伝わる。

「村岡通行の記録」2点は、「西園寺三位中将」の翻刻および和田宿駅の記録、宿村上田貞造の記録などが収録されており、「宿村上田貞造の記録」によれば、総督一行は御供、薩州藩・長州藩の士族、丹波・丹後・但馬・鳥取各藩の士族、郷士合わせて467人が通行した。また「五ヶ庄差引帳」には勅使通行に要した宿側の経費が記録されている。

 

村岡の郷土史を調査研究されている方に、西園寺総督一行の通行の様子を聞かせていただいた。

お話によると、近在の村人は懸命に二つの橋を架けたようである。ところが和田の橋は揺れるような橋であったため、盤台を造り総督にはそれに乗って渡っていただいたという。その盤台は、古老の子供のころまでは和田の神社に残されていたが、いつのまにか不明となってしまったとのことである。()

          【和田の集落】                    【和田神社】

 () 2016312日・13日、香美町教育委員会から資料をご提供いただき、郷土史研究家の方にご案内いただいた。

 

(2)村岡から鳥取へ

 23、鎮撫使一行は村岡宿を発陣、和田村にて中飯ののち春気(春来)峠を越えた。峠の集落春気(春来)に万福寺がある。春気は白鳳時代から続く集落というが、万福寺には鎮撫使に関する資料は残されていなかった。

 春来の集落を進むと湯村温泉に至る。湯村温泉では岡田作左衛門方を本陣としたが、史跡は残っていない。湯村の中心である荒湯のあたりであったといわれる。

 24に湯村を発ち、出合の集落から岸田川沿いに左に道をとる。千谷を過ぎ山道を登ると蒲生峠に至る。ここは山陰道蒲生峠越えの旧道があり、わずかではあるが石畳も残っている。

【蒲生峠】

 蒲生峠を下り、岩井温泉を目指す。

 西園寺総督は夕刻岩井郡湯村に着き、鳥取藩主別邸御茶屋を本陣とした。鳥取藩には藩内の3ヵ所ほどに藩主が利用する施設を置き御茶屋と称していた。正確な場所はわからないが温泉街の中心地に共同浴場があり、そのそばの旅館が随員の宿舎に使われたと伝わることから、共同浴場のあたりであったと考えられる。

 25辰刻(午前8)総督一行は岩井郡湯村を発ち、浜大谷で中飯、細川村を経て、鳥取城下に入った。

 

2.鳥取滞陣

 

西園寺総督一行は城下入口の湯所御乗場を経て袋川沿いに進み鋳物師橋を左手に折れ二階町通りを進んだ。若桜(わかさ)街道との四辻を左に入り鳥取城前の学文所尚徳館に到着した。25、夕刻のことである。総督は尚徳館に入り、220日に発陣するまでの半月間滞陣する。薩長をはじめとした諸藩は各所に分宿し、郷士は前島吉左衛門方に宿陣した。

尚徳館は県庁の向かいの県立図書館のある場所で、敷地の一角に「尚徳館碑」を残している。幕末当時尚徳館は総面積24121歩というから、24,000㎡ほどの広さであった。鳥取藩では「学校」と呼んでいて、文場、武場、砲術場、馬術場などがあり、鳥取藩文武の教育施設であった。

      【尚徳館碑(本陣跡)                      【鳥取城跡】

県庁の後ろには山腹に鳥取城が見え、現在は石垣と復元された城門が残るのみであるが、鎮撫使一行が鳥取に入ったときは、湯所御乗場あたりから袋川土手、二階町通り、尚徳館に至るまで鳥取城が見渡せたと思われる。

 

因州鳥取藩は池田慶徳が治めていたが、早くから総督指揮下にあった。しかし藩主慶徳は将軍徳川慶喜の異母兄であったため、鳥羽伏見の戦い以降辞官退任し謹慎をしていた。そのため鎮撫使への対応は名代家老荒尾近江らが行った。

鳥取到着の日、細川村の庄屋が鎮撫使一行の接待に不都合があったということで自死した。庄屋は精一杯の対応をしたのであるが、一行の中には無理難題を言った者もいるようで、西園寺総督はこのことを聞き、沙汰をもって祭祀料を賜っている。一行を迎える村々は経済的な負担のみならず、その応接に多大な苦労をしていた。

滞陣中の29日には、藩主池田慶徳に勤王の誓書を差し出させ、慶徳は退隠した。この日、薩長両藩は尚徳館で織田流調練を行い、総督が御覧になった。

当初鳥取以西の鎮定は鳥取藩に委ね、鎮撫使は帰京する予定であったようだ。

しかし鳥取滞在が半月に及びその後松江に向かうことになったのは、山陰鎮撫中に雲藩事件が起こり、雲州松江藩の動向が新政府側に敵対行為と見なされたことによる。雲藩事件とは、前もって鳥取藩を通じて松江藩に恭順を勧めていたが、山陰道鎮撫使西園寺公望が下向しているにも関わらず伺候の機会を失い、故意に鎮撫使を避けたと疑われた事件であった。

また、1月のことであったが、松江藩の蒸気船第2八雲丸が敦賀・宮津に入港したことも鎮撫使側に敵対行為ではないかと不審の念を抱かせていた。

213日には官軍執事の名で松江藩大橋家老に対し四ヶ条をもって謝罪するよう申し渡した。

即ち、一、雲州半国朝廷へ返上

一、重役死を以謝罪

一、稚子入質

一、勅使国境へ引受決勝敗候上謝罪

  のいずれかを迫るものであった。

 こうして西園寺総督は鎮定のため松江に向けて出陣するに至ったのである。

 これに対し松江藩家老大橋は国元に持ち帰り謝罪について協議し、大橋自身が死を以て謝罪することに決めた。この決定はその後、鳥取藩主池田慶徳のとりなしもあって松江藩は罪を赦され、大橋自身も死を免ぜられた。

 

 

3.鳥取から御来屋へ

 

(1)鳥取発陣

 220、西園寺総督は本陣とした鳥取藩学文所尚徳館を発陣した。

 鎮撫使一行は、城下では入鳥の時と同じ経路をとったと思われる。尚徳館から若桜街道を現在の鳥取駅方面に向けて進み、二階町交差点を右折し袋川の鋳物師橋まで進んだ。袋川の土手沿いを湯所御乗場まで来て左折、ここから西進すると丸山に至る。ここから山陰道を西に向かった。

 千代川の八千代橋を更に進むと湖山に至る。湖山池畔には現在、鳥取大学がある。湖山池は日本最大の池(湖ではなく)という。

 鎮撫使一行は湖山の鳥取藩御茶屋で中飯をとった。確かな場所はわからない。

 湖山を過ぎると山陰道はおおむね日本海の海岸沿いを走り、因幡の白兎伝承の地、白兎海岸を通る。白兎海岸から更に、宝木、浜村を過ぎ青谷に至る。

 

(2)青屋(潮津)

 西園寺総督は鳥取の次の本陣を潮津(うしおづ)とした。潮津は、伯耆街道に沿って芦崎・青屋の村とともに一続きの町場を形成し、三村合わせて青屋とも呼ばれた。宿はそのうち潮津に置かれていたが、明治10年に潮津・芦崎・青屋が合併して青谷村となった。その後青谷町となり、現在は鳥取市に属する。

 青谷高校の西側の青谷交差点を南下すると、日置川と勝部川が合流し日本海に向かって開けた集落が潮津宿である。町の様子はすっかり変わっていて本陣の場所も定かではないが、現在も本陣の子孫の方が住んでおられるという。

 本陣となった石井家では宿札「勅使西園寺殿御本営」を所蔵され、また『石井記録』の「御勅使西園寺三位中将様」には西園寺総督が本陣とした際の記録が残されている。『山陰鎮撫日記』は本陣の名を残していないが、当時の当主は石井祐左衛門であった(石井世左衛門という資料もある)

 西園寺公を迎える準備は20人ほどの奉行や役人があたり、大改装をして整えられた。石井家は出迎えには及ばないとのことで、宿は古今未曽有の大騒動、筆舌に尽くし難かった。当初1泊の予定であったが、西園寺公の体調が勝れなかったため2泊となったことも混乱に輪をかけたであろう。

 しかし22日朝には御機嫌よく出立し、役人始め宿の者も大安心し、有難き幸せであったとされている。

 西園寺総督の次の宿泊地は由良であったが、潮津で本陣となった石井祐左衛門は奉行から西園寺公が本陣としたことは名誉なことであるから、由良本陣まで御礼をしに行くよう指示されている。

 

(3)由良宿

 潮津を発った鎮撫使一行は、泊村を通過、東郷池から流れ出る橋津川を渡り、永瀬(長瀬)の集落で中飯をとった。『羽合町史』(現在湯梨浜町)によれば、西園寺卿山陰入同勢は薩州120人、長州120人など300人程の軍勢であったという。

 橋津川河口には鳥取藩の橋津台場もあった。ここから山陰道は一旦内陸側にふれて由良に向かう。

 鎮撫使一行は222日夕刻、由良の佐伯貞三郎本陣に着陣した。

 由良の宿は由良川河口近くの山陰道沿いに栄えた。現在は大栄町と北条町が合併して北栄町となっているが、由良はその中心地である。

 本陣は宿の中ほどにあり、現在もその地に本陣の案内板が立っている。佐伯家には「勅使西園寺殿御本営」の表札が残されている。西園寺公が宿陣・通過するときは、由良一帯は葵の紋印や徳川家の書軸などは取り外すよう指示されたという。

【由良・佐伯本陣跡】

 由良川河口にも鳥取藩の台場があり、その旧跡がある。台場は幕末期に外国船の到来に備えたものであるが、鳥取藩だけでも橋津・由良・赤崎など8ヵ所に及んだ。

 一行は翌日御来屋に向けて出立したが、途中赤崎の宿で中飯とした。今も「勅使西園寺殿御休」の宿札が残されているという。

 

(4)御来屋・名和

 

 223、西園寺総督は御来屋に到着した。当初船田本左衛門方を本陣とする予定であったが、急きょ予定を変更して光徳村坪村の橋井家に宿陣したという。御来屋の船田家も光徳村の橋井家も現在はその跡を知ることができない。

 

≪氏殿権現≫

 総督一行は翌日、氏殿権現に参拝した。

 大山町役場から南下し、名和小学校を右に回りしばらく進むと氏殿神社に至る。総督一行が参拝した当時は氏殿権現と言ったが、のちに氏殿神社となり、現在の氏殿神社は名和神社の摂社となっている。

 氏殿とは、建武中興のときに後醍醐天皇に仕えた忠臣名和長年公であり、名和公を祀る神社である。現在立っている鳥居は、嘉永7(1854)年に建立、明治元戊辰11月再建とあるから、西園寺総督一行の参拝から間もなく再建されたことがわかる。

 石段を上ると拝殿があり、その奥の本殿右側に「故伯耆守名和君碑」が建っている。正面の碑文は藩主池田慶徳によるものである。

 そして本殿両脇に石灯籠一対がある。『山陰鎮撫日記』によれば、西園寺公寄進の石灯籠が名和神社に移設されたため、中川小十郎が中川禄左衛門・武平太兄弟の参拝を偲び、西園寺公のものと同型の石灯籠を氏殿神社に奉献したという。

【氏殿神社石灯籠】

 

 西園寺総督は、その氏殿権現に参拝した。総督は、名和公が楠正成公・児島高徳公とともに三人の忠勤王の一人であったことから参拝するのであると一同に申し渡した。そして石灯籠一対を寄進(目録を奉納)し、のちに松江藩の伊藤多惣が製作した。

 総督は氏殿権現に続いて、名和公の菩提寺である長綱寺、さらに名和公の邸跡に向かった。長綱寺は、元徳2(1330)年に名和長高(のちに長年と改名)が開いた。長高の名をとって長綱寺(ちょうこうじ)となった。その長綱寺から程なく名和公邸跡には名和公を顕彰する「名和神君碑」がある。

【長綱寺、名和神君碑】

 

≪名和神社≫

 名和神社は氏殿神社の北、JR名和駅に近い。名和長年を祭神とし、氏殿神社を明治11年に名和神社と改称し、明治16年に現在地に遷座した。遷座とともに西園寺公寄進の石灯籠も移されたのである。

 石灯籠は本殿前神門の左右に設置されている。

 「慶應四戊辰年二月廿三日 正三位右近衛権中将兼山陰道鎮撫総督 藤原朝臣公望」と刻まれ、基石には山陰道鎮撫に従軍した西園寺家の家臣、濱崎和泉守橘直全、幸前肥後守源元起、山口筑後介藤原正典、小谷左京藤原知道の4人の名も刻まれている。名和に着陣した日をもって奉納したのである。

【名和神社】

 

【名和神社本殿神門前の石灯籠】

 石灯籠の両側には更に、少し小ぶりではあるが、右手に「奉献 薩州川南東右衛門伴昌言」、左手に「奉献 長州小笠原美濃介源恒利」と刻まれた石灯籠を奉納している。

 鎮撫使一行は、名和坪田の氏殿権現・長綱寺・名和長年邸跡を後にし、御来屋を出発、淀井村(淀江)、米子へと向かった。

 なお、『名和町誌』(1978)も上記のことを記しているが、昭和15215日に立命館大学予科教授石崎達二が調査のため名和神社に来社し、その際の談話を参考にして記述したとしている。

 

4.米子

 

(1)米子本陣

 西園寺総督は名峰大山を左に、右に日本海を見ながら淀井(淀江)に向かった。大山町から米子市淀江、日吉津(ひえづ)村にかけて、大山口、淀江大山、伯耆大山など大山ゆかりの地名・駅名が続く。淀江は米子市であるが、伯耆大山駅は日吉津村にある。

 大山には大山寺があり、御朱印地として治外法権下にあったが、西園寺総督は大山寺に使いを送り、鳥取藩の所領とすることを申し渡した。

 日吉津から日野川を渡ると再び米子市に入ってくる。JR境線の博労町駅を通るといよいよ米子城下である。

 米子城は久米城とも言われたが、現在残るのは二の丸入口にあたる高石垣と桝形、移築された旧小原家の長屋門である。天守跡まで10分ほどで登る。中海が一望できる。城の下に湊山公園があるが、ここが錦光園(錦公園)である。日没間近の中海がきらめく夕景は錦光の名にふさわしい。中海は錦海とも言われる。

西園寺総督は224に米子に着陣し、228日に発陣するが、本陣とした立町の下鹿島家(鹿島治左衛門方)は現在公表されていない。『山陰鎮撫日記』には調査の際の下鹿島邸御座敷の写真が残されている。

上鹿島家は公表されており現在も商売を営んでいる。近くには豪商後藤家がある。ここから灘町の米子港はすぐ先である。

米子滞陣の日、雲州藩(松江藩)は総督に謝罪し、ここに松江藩の問題は解決した。その様子は「鎮撫使絵巻」にも描かれている。西園寺総督が遊覧した港からは南に米子城()が一望できる。

          【米子城跡】                        【中海】

227日には伯耆大山寺僧が機嫌伺いに参上した。

また米子滞陣中は薩長藩士の接遇に阿三(おさん)という女性が活躍し、松江に着いてからも薩長の招きで宴席に侍したという。

 

(2)松江藩勤王家松本古堂

 幕府側であった松江藩が西園寺鎮撫総督に下るについては、鳥取藩主池田侯と松江藩主松平侯が密かに庄司家で会い勤王の議を策したことや、松江藩の勤王家松本古堂などの尽力もあった。

松江藩は西園寺鎮撫総督の来松に対し、出雲国造家にその対策を求めていた。松本古堂は松江藩随一の勤王家で、京や大坂で活動をしていたため藩から疑いをかけられていたが、国造家は松本古堂らを西園寺のもとに遣わし、古堂らは藩を救うことに力を注いだ。

 米子から北に向かうと境港の渡村に豪農・庄司家がある。庄司家は西園寺総督が米子の下鹿島家に宿陣した際に、夜具や食器などを用立てている。

 その庄司家には「松本古堂先生終焉の地」の碑が建っている。古堂は晩年庄司家に招かれ、明治11年に庄司家でその生を終えたことによる。

 古堂は境港の対岸松江市美保関町森山の出身で、森山の万福寺には墓と「松本巌先生頌徳碑」がある。

 また出雲大社北側の奥谷、松本古堂が開いた勇塾の跡にも、西園寺公望揮毫の「松本古堂頌忠碑」が建っている。

 松本古堂(松本巌)はその縁あってか、翌明治29月に西園寺公望が開いた私塾立命館の賓師として招かれたのである。

        【庄司家 松本古堂先生終焉の地】             【万福寺 松本巌先生頌徳碑】

 

5.松江藩へ

 

(1)米子から松江へ

 228、西園寺総督は辰刻(午前8)に米子を発陣した。途中一行は安来にて中飯をとった。日立坂下の交差点付近に松江藩主の御茶屋があった。敷地は三反歩もあったという。

 近くに400年ほど続く西方寺があるが、もはや維新の頃のことはわからないという。

 向かいの辺りにあった万屋には鎮撫使通過に関する日記が残っていたという。

 安来には街道沿いにところどころ宿の面影が残っている。

 

 鎮撫使一行は、鳥取藩名代家老荒尾近江の手配で乗馬にて山陰道を西下した。街道は出雲大社と津山を結び、出雲街道とも呼ばれた。安来を過ぎ、荒ずま(荒島)と湯屋(揖屋)で一行は小休した。

 揖屋は東出雲町にあるが、このあたりは出雲郷といって「あだかえ」と読む。近くの阿太加夜神社に由来するが珍しい読みである。

 松江駅の手前に津田という地域がある。その西津田に善福寺がある。松江藩主松平定安は名代として世子瑤彩麿直應と家老脇坂十郎兵衛を派遣して鎮撫使一行を善福寺別館で出迎えた。

【善福寺】

 

(2)松江藩・松江城

 松江の町は大橋川を挟んで松江駅のある南側と松江城のある北側に分かれている。今でこそ大橋川には何本かの橋が架かっているが、古くは松江大橋のみであった。

 『山陰鎮撫日記』は広小路から京橋を通り本陣に向かったとしている。広小路は松江大橋から京橋に向かう通りだろうか。京橋という名の橋は現在も京橋川に架かり、松江観光の中心地である。京橋川には堀川めぐりの観光船が行き交っている。

 京橋を左に折れさらに右にとると松江城が目の前に現れる。

 228戌の刻(午後8時頃)、雪が積もる中を松江藩家臣一同が土下座して迎えるなか、西園寺総督は藩主一族の住居となっていた松江千鳥城三之丸に着陣した。現在は島根県庁になっていて、前の庭園に「松江城三之丸旧址」の碑が建っている。玄関には「山陰道鎮撫総督御旅館」の大札が掛けられた。

 城は平山城で本丸、二之丸、二之丸下ノ段、後曲輪、堀を挟んだ三之丸からなる。天守は慶長16(1611)年の築城時のもので、2015年に国宝に再指定された。その天守には明治初年とする雪の松江城の写真が架けられている。西園寺公望が登城した頃のものか。

 2月晦日(30)には総督は天守を御覧になり、31(新暦324)には濱崎和泉守らが城内を検分した。この日藩主松平定安の世子直應に対し老臣とともに西園寺総督と鳥取藩主池田慶徳あての勤王無二の誓いの書を提出させた。

 徳川の親藩であったことから当初幕府側であった松江藩も時の情勢には勝てず、116日には「勤王の外これなし」と決定して1か月半、遂に鎮撫使を松江城に迎え入れ、新政府に従うことになったのである。

           【京橋】                      【松江城 三之丸跡】

【左 松江城、 右 松江城から宍道湖を望む】

 

(3)鎮撫使さんとお加代

 『山陰鎮撫日記』は31日の条で玄丹お加代のことにふれているので、ここにそのお加代について書きとどめておく。錦織玄丹は松江藩の医師でお加代はその娘であった。お加代は鎮撫使一行の接待をして松江藩を救ったといわれている。

 釋瓢斎こと永井栄蔵氏が立命館出版部から『鎮撫使さんとお加代』(1935)を発行している。永井栄蔵氏は大阪朝日新聞の論説委員で、お加代の物語はその原作をもとに大阪で芝居として上演された。その売り上げをもとに現在、宍道湖畔の松江白潟公園にお加代の銅像が建てられ顕彰されている。

 『鎮撫使さんとお加代』は史実と異なるところも見られるが、『山陰鎮撫日記』は「恐らく一行の接待等に与りて、その侠気を謳はれたるものなるべし」としており、また『米子市史』などでも鎮撫使一行の接待にあたったことが記されていて、松江藩のために薩長藩士の接待をして名を遺した人物であった。

【お加代の像】



<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 3部(松江~京都御所)へ

 2018.03.29

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第3部(松江~京都御所)

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第2部(村岡~松江)


1.松江から出雲へ

 

(1)平田・木佐本陣

 32、松江藩を鎮定した西園寺総督一行は松江を発陣し、出雲を目指した。

出雲への道は山陰道のあった宍道湖の湖南ではなく、湖北の道をとった。途中、秋鹿(あいか)で中食をとり、平田に向かった。

 西園寺総督が平田で本陣としたのは、木佐徳三郎本陣であった。木佐本陣は平田本町にあり、酒造業や金融業、更に雲州木綿で財をなした。本町には現在も本木佐家がある。

 本陣そのものは現在、出雲市平田町の旅伏山(たぶしさん)の山麓に移転し、出雲市平田本陣記念館として保存公開されている。上の間と御成門と庭園はもとのまま移築復元し、他は再現したという。上の間は鎮撫使西園寺公望や歴代藩主が使った間である。のちに贈られた西園寺公望揮毫の掛け軸も保存されているが、訪れた日は別の掛け軸を掛けていた。

          【平田本陣】                   【平田本陣御成門】

 平田の町は木綿街道と言われる街道沿いに、造り酒屋、醤油屋など古い店が軒を並べ旧街道の風情が残っている。

 平田宿陣の際、中川禄左衛門は松江藩家老大橋茂左衛門の招待を受け料理屋で饗応されたが、その料理屋がどこであったか判明しない。

 

(2)出雲大社へ

木佐本陣から出雲大社に向かう。美談町、東林木町あたりから山沿いの道となり、鍛冶谷から山手往還を進む。ここが旧来の出雲大社への道であったと、永泉寺の先の遥堪(ようかん)で古老から聞いた。現在の車道は新しく、山手往還から南にもう一本出雲大社と結ぶ平田街道があるという。西園寺総督一行が通ったのは、山手往還であったか、平田街道であったか。

鍛冶谷から出雲大社方面に向かう古道がもう一本ある。それは山の中腹を走る天平古道であるが、今は荒れて一部通行不能という。

 

(3)出雲大社

山手往還を西進し、やがて出雲大社北島国造館に到着した。四脚門である大門に「宗教法人出雲教」と「北島國造館」の大札が架かっている。北島国造家は千家国造家とともに出雲大社の大宮司を務める由緒ある家である。北島国造家の境内を通り出雲大社境内に入る。拝殿には大注縄が張られ参拝客が絶えない。拝殿・御本殿と参拝し、八雲山を望む。

【出雲大社】

神楽殿に参拝した後、出雲大社北側の奥谷に「松本古堂頌忠碑」を訪ねた。古堂の勇塾があったことからこの地に建碑された。碑銘は西園寺公望の揮毫で、松本巌(古堂)と山陰道鎮撫、私塾立命館との関りは前述した。

 

(4)杵築・藤間本陣

さて、西園寺総督は33、杵築の藤間太郎左衛門(寛左衛門藤堅)本陣に着陣した。

【杵築・藤間本陣】

本陣は出雲大社の南西にあたる。大社町杵築南が所在地である。西園寺総督は本陣着陣後、出雲大社に参拝した。

『山陰鎮撫日記』には本営の宿札や西園寺公望が揮毫した「日出白梅」の扁額が保存されていたことが記されており、現在も藤間家に保存されている。

門札の箱書には西園寺総督出雲大社参詣の経緯とともに、従軍した従士の名が記され、「日出白梅」は宿陣の際に出された銘酒のうち「日出」と「白梅」を揮毫して下賜したものという。

また、藤間家には60点以上にのぼる多くの鎮撫使関係や西園寺公望の資料が残されている()

勅使門は現在使われていないが、西園寺公が宿陣した当時のもので、島根県指定文化財になっている。

() 広島大学大学院教授勝部眞人「幕末維新期の出雲・大社地方における史的特質」2005

 

宍道から勝山へ

 

(1)宍道八雲本陣・木幡家

出雲の杵築藤間本陣を発ち、斐伊川を渡り、直江、荘原を過ぎて宍道に至る。

34、西園寺総督一行は宍道の木幡久右衛門方に着陣した。八雲本陣ともいう。

松江市宍道の旧山陰道沿いに「八雲本陣」の看板が立つ。現在は本陣史跡として一般公開しているが、10年前までは旅館を営んでいたという。

【八雲本陣】

門は御成門と行啓門があり、行啓門は大正天皇が皇太子であった明治40年に御昼餐所を務めたことから新たに造られた。また御昼餐所となった部屋「飛雲閣」も併せて造られた。

御成門は藩主や鎮撫使が使用し、また書院の間を使った。庭園には古灯籠や松平不昧公お気に入りの手水鉢が設らえてある。

木幡家は、慶長年間に京都の宇治木幡から移住してきて木幡家を名乗り、現在第15代になるという。

 

(2)宍道から勝山へ

35日、鎮撫使一行は宍道・木幡久右衛門本陣を発陣し、湯町を経て、揖屋の岡村市左衛門方を本陣とした。

6揖屋を発つと、荒島を経て安来の雲州松江藩御茶屋に着陣した。

揖屋、荒嶋、安来は往路と同じ経路であった。安来は往路では宿泊せずそのまま通過したが、帰路では一日宿陣している。

この日、松江藩家老神谷兵庫及び藩主世子の瓔彩麿から儀刀・銃・馬などが献上された。

37、安来発陣、草(吉佐)、天満(天萬)、伊喜野(池野)を経て二生(二部)宿の足羽助八方に着陣した。二部の足羽家は松江藩主松平侯が参勤交代の際に本陣とする宿であった。西園寺総督が宿陣した時、地元に伝わる面白い話がある。西園寺公の給仕はどういうわけか男がすることになっていたが、差支えがあり紺屋の娘かつよに代役が回り、なんと、かつよは男装して給仕に出た。「わたしは十六だったが、西園寺さんのかよい(給仕)をした。西園寺さんはいい男だったぜ」(日本海新聞「出雲街道今昔物語」2009.2.12)

【二部宿・足助本陣】

38、西園寺総督は二生(二部)を発ち、根雨で中食をとったのち、美作の新書(新庄)に入った。新書(新庄)の宿では佐藤六左衛門方を本陣とした。

 

(3)勝山

39、西園寺総督一行は新書(新庄)を発陣し、美甘で中飯ののち、鬼籠山を経て勝山に至った。

鬼籠山がどこなのか確かなことはわからないが、勝山の5㎞ほど西の神代(こうじろ)鬼の穴という洞穴がある。一行は鬼籠山で小休をしたというが、鬼の穴には西園寺公望が揮毫したという壁書が残っている。今は穴の中は真っ暗で数メートルほどしか進めないが、壁書は50mほど奥にあるという。

 『勝山町史』は西園寺公望が勝山を通過した際の状況を記録しているが、町史によれば、一行が神代通過の際、西園寺公は鬼の穴に入り、岩肌に「慶應四年三月九日山陰総督藤公望到穴」と書いたとされ、その写真もある。

【鬼の穴】    中に西園寺公望の壁書あり

 総督一行は鬼の穴近くの四季桜の下の茶屋で休憩しお茶を飲んだと伝わる。四季桜は、後醍醐天皇が隠岐遷幸の際の遺蹟と言われ、その地の桜を四季桜と命名したしたことから四季ごとに桜が咲くという。

 西園寺総督は勝山で金田平次右衛門方を本陣とした。金田本陣は現在、勝山郷土資料館の近く、山本町駐車場となっている場所と伝えられるが、本陣であった痕跡は見当たらない。『山陰鎮撫日記』は勝山における詳細を伝えていないので、『勝山町史』によりその状況を見てみよう。

 勝山藩も準備、接待、警護に大変な気を使った。事前に藩士を松江に出張させて、もてなしの指示を受けた。35日には、9日に勝山に来ることがわかり、以降迎えの準備に大わらわであった。

 9日未刻(午後2)頃鎮撫使一行は神代村を発ち勝山の本陣に着いた。当日は381人が町に宿陣した。当地では戸村豊、伊東多門という人物が応接にあたったようだが、そのご機嫌伺いには小谷左京が応対した。総督、諸太夫、用人などに対して葛粉、木綿などの産物が贈呈された。

 西園寺公通過の折、土地の7歳の子供が道端で見送ったが、西園寺という名を大人から聞いてお坊さまが来られると思っていたと後年になって語った。土地の大人は恐ろしく偉い人が来ると思っていたようである。

 

3.院庄・津山から姫路へ

 

(1)島田母子之碑

 310日、西園寺総督一行は勝山を発ち、津山に向かった。

 途中津和田、久世、坪井を通り院庄で小休した。西園寺公は当地で島田母子の悲話を聞いた。島田母子は夫の不行の罪を救おうとして自害したところ、藩主が哀れみ母子の邸跡に顕彰碑を建てた、という話である。

 島田母子の碑は作楽神社から少し離れた院庄小学校の南、清眼寺の西にある。題額は「貞烈純孝島田母子之碑」である。慶応3年津山藩主建立というから、前年に建ったばかりであった。

【島田母子之碑】

 中川禄左衛門は津山侯よりその拓本を贈られた()。碑は清眼寺から小さな集落を通り、彼岸花の咲く田畑の中の土塁の上にあった。付近は構城址である。総督一行は島田母子の碑を後に、夕刻津山本陣に着陣した。

 () 現在立命館史資料センター「中川家文書」に所蔵。他に「名和長年公碑」拓本、「楠公忠考之石摺」「楠公賛明舜水文」がある。

 

(2)児島高徳遺蹟碑

 11日、西園寺公は津山に滞陣し、再び院庄に向かった。院庄神子(じんご)村には「児島高徳遺蹟碑」がある。そこを訪れ参拝するためであった。

 その場所は後醍醐天皇が隠岐に流される途中行在所としたところで、その地に翌明治2年に作楽(さくら)神社ができた。児島高徳はその実在を疑う説もあるが、勤王の兵を挙げ後醍醐天皇を助けようとしたといわれる人物である。義挙は失敗に終わったが、のちの貞享5(1688)年、津山藩家老長尾勝明により建てられたものである。碑の題額は「院庄」で、高徳が桜の木を削って十字の詩を題し天覧に供したことを顕彰した遺蹟である。十字の詩とは「天莫空勾践 時非無范蠡」で、中国の越王勾践が呉王夫差に敗れ囚われの身となったが、忠臣范蠡の努力によって呉を破ったという故事に倣ったものである。この詩を詠った「児島高徳」は文部省唱歌にもなっている。

         【児島高徳遺蹟碑】                  【作楽神社前景】

 薩長因三藩隊長をはじめ兵士一同は土下座して参拝したという。中川禄左衛門はここでも「院庄」碑の拓本を贈られている。

 

(3)津山

 西園寺総督が310日に着陣し、12日の発陣まで滞在した津山本陣は美船八郎右衛門方であった。本陣は津山城に近い出雲街道に面した坪井町にあった。現在、津山坪井郵便局のあるあたりで、近くに徳守神社がある。

 津山では、3月の2日から総督一行を迎える準備をした。止宿中のみならず、通行前から外出が禁じられ、犬も繋いでおくか郷中に預けるようお触れが出された。

 滞在中藩主松平慶倫(よしとも)は在京中であったが、舶来銃一挺と鯉一折を贈り敬意を表した。

 当地では河野豊治郎が料理を供したことが記され、河野は久世、勝間田にも出役したという。

津山城は明治78年に石垣を残し解体された。現在城址には2004年に復元した備中櫓が建っている。

【津山城】

(4)土井(美作土居)宿

 津山を発った西園寺総督は、川辺、勝間田、江美村を経由して午後4時頃土井(美作土居)の宿瀬野良助方に着陣した。

 美作土居は出雲街道にある美作7宿のひとつで、美作国(岡山県)の最も東にあり、兵庫県と境を接していた。江戸時代には宿の東西に惣門があって国境の警備をしていた。惣門は明治2年の関所廃止令で取り壊されたというから、鎮撫使一行は西惣門を通り宿に入った。現在、2001年に復元された惣門がJR美作土居駅のすぐ南に建っている。惣門は高麗門形式で、高さ6m50、幅7m88ある。西惣門をくぐると宿の中ほどに本陣跡がある。

 現在、美作土居駅に宿の案内図があるが、宿内は本陣や脇本陣、高札場などのあった場所を示す小さな表示板があるのみで、宿の遺構は残っていない。

 鎮撫使一行の事跡もまた残されていないが、西惣門の場所に「土居四つ塚勤王烈士顕彰碑」が建っている。鎮撫使一行が滞陣した3年前の元治2(1865)年、王政復古に奔走していた高知藩士3名と岡山藩士1名が同志を募るため作州路を遊説していてこの宿に来たが、夜間のことで惣門が閉まっていて盗賊と間違えられ宿に入れず、この地で自害したという。碑は1969年に建立され、惣門の復元の際に同じ場所に移されている。

 西園寺総督一行が通過する際は中国地方は大方鎮定されていたが、わずか3年前は勤王の士も盗賊と間違えられ命を落とすような状況であったのであろう。

【美作土居宿惣門】

 

(5)千本本陣

 西園寺総督一行は313に土井(美作土居)を発陣し、佐用で中飯ののち、千本宿の内海孫九郎本陣に着陣した。千本宿は安政2(1855)年の宗旨改帳では戸数232、人口826人で、幕末には約220軒、人口1,000人ほどであった。

 西園寺公宿陣の際は、前日に随兵196人が宿泊、当日は内海本陣に44人、千本宿全体では近畿・中国の諸藩の家臣らを含め総勢334人、人足を入れると1,000人以上が宿泊し、藩内の出入りを加えると3,000人以上が千本宿に集まったというから、大変な事態であった。集めたふとんは1,664枚に及んだという。

         【千本本陣跡碑】                 【千本本陣復元模型】

 千本宿は今やほとんど当時の面影を残していないが、内海本陣はその当時をうかがうことができる。現在の母屋内には関札が何枚も架けられており、「勅使西園寺殿御本営」のほか、藩主の参勤交代の際の関札などがある。西園寺総督が泊まった部屋はそのために造られたというが現在は無い。宿泊した部屋の跡地には、「慶應四年三月十三日 勅使西園寺公本営址 枢密顧問官竹越與三郎書」と刻まれた石碑が建っている。また母屋の中には本陣の模型が置かれている。

邸内は、春秋に四季桜が咲き、秋には紅葉の巨木が真っ赤に色づくという。訪れた日も桜の花が咲いていた。

 

 

 

姫路から兵庫へ

 

(1)姫路城

314に千本本陣を発陣した西園寺総督は觜崎(はしさき)にて中飯ののち姫路に入った。姫路では姫路城(白鷺城)の三ノ丸を本陣とした。三ノ丸は城主の居住地で、政務を行う場所であった。大手門を入ると芝が敷き詰められた三ノ丸跡地が開け、前方に修復なった真っ白な大天守が聳えている。

【姫路城】

姫路藩は西園寺一行が宿陣した時にはすでに降伏していたが、もともと幕府側にたっていた。戊辰戦争では四條隆謌率いる中国・四国征討軍が進軍し姫路藩を恭順させようとしていたが、複雑な経過をたどり、正規の征討軍でない隣国の備前藩が姫路城を開城して入城していた。新政府側は正式な措置があるまで備前藩預かりとしたが、西園寺一行が三ノ丸に宿陣した際の状況については不明である。

 

(2)高砂宿から大倉谷(大蔵谷)本陣

315卯刻(午前6時頃)、西園寺総督は姫路城を発陣、一行は、姫路から京に向かうに西国街道をとらず、海岸沿いの街道を高砂に向かった。当時の高砂は海運で栄えた港町であった。

その高砂では峯本吉兵衛方を本陣とした。現在の高砂市高砂町あたりであったと思われるが正確な場所は不明である。現在当時の家が残っているのは海運業で栄えた工楽松右衛門宅のみである。

総督は高砂に到着し、休憩の後、曽根之松と石乃宝殿を遊覧して峯元本陣に着陣した。

曽根之松とは、山陽電鉄曽根駅前の曽根天満宮にある古松で、菅原道真公手植之霊松であった。現在も古霊松殿にその根が保存されている。西園寺公が観覧したのは二代目の松で、高さ10m、枝は南北36m、東西27mあったという。現在は五代目の若い松が植えられている。

石乃宝殿はJR宝殿駅から1.5㎞ほど南西の生石(おうしこ)神社に祀られている巨岩である。巨岩の宮殿ともいう。幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m、重さは推定で500トン以上もあると言われていて、巨岩が水に浮かんでいるように見える。自然石を使っているが、いつ誰が何のために造ったのか、謎である。

【石乃宝殿】

西園寺公は高砂を出発し、加古川の尾上神社を参拝した。『山陰鎮撫日記』には「尾上松・相生松・尾上鏡等御覧」とあるが、これらは尾上神社にある。

尾上松は古来ゆかりの松で、一つの根から男松(黒松)と女松(赤松)が生えていることから相生松とも言っている。曽根の松もそうであるが、播磨灘一帯には松林が続いていて、由緒のある松が多い。尾上神社には尾上の松のほか神功皇后ゆかりの片枝の松があり、その枝は都の方角にのみ伸びている。


              【尾上松】                      【尾上鐘】

尾上鏡というのは実は尾上鐘である。新羅時代の鐘で1100年ほど昔のものである。以前はお堂に架けられていたが、現在は収蔵庫で保存されている。高さ123.5㎝、口径73.5㎝の朝鮮製で、如来や飛天のレリーフが装飾されている。

大倉谷(大蔵谷)は明石城下にあった西国街道の宿場で、本陣は広瀬治兵衛宅であった。この宿場は古来から賑わっていたが、今は宿場の面影は無い。明石駅から一駅東の山陽電鉄人丸駅を南下し、西国街道と交わる東経135度の日本標準時子午線の碑を東に入った大蔵会館あたりが本陣跡である。

 

(3)兵庫宿・楠公墓碑・兵庫港

 西園寺公は大倉谷(大蔵谷)を発陣し、舞子浜・須磨を見物したのち、兵庫宿の本陣絹笠又兵衛方(井筒屋衣笠又兵衛宅)に着陣した。317のことである。

 兵庫宿は現在のJR兵庫駅の近くで、西国街道を柳原から兵庫港に向かって南下する途中にある。本陣のあった向かいに神明神社があるが、本陣の跡と知ることができるものは無い。兵庫港の手前に札場の辻があり、西国街道はそこから再び東に向かう。

 318には兵庫宿に到着した東久世通禧公に会い、翌319楠公墓碑に参拝した。楠公墓碑は湊川神社にあるが、神社ができたのは明治5(『山陰鎮撫日記』は6年としている)で、当時の地図には「楠公墓」とある。湊川神社は山陰道鎮撫に参謀として従軍した折田年秀が初代の宮司となった。墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」は徳川光圀が建立し自ら碑銘を揮毫したという。楠木正成はこの地で戦死し、勤王の志士の尊崇を集めていた。

          【楠公墓碑】                     【兵庫港】

 西園寺公はその日、兵庫港から肥前藩主(佐賀藩)鍋島閑叟公の軍艦に搭乗し大阪に向かった。佐賀藩の軍艦は大砲16挺、小砲300挺を備えていて、発射演習も観覧しその威力に一驚した。

 佐賀藩は慶應426日に戊辰戦争北陸道先鋒を命ぜられ、東国に向かうため新鋭艦「孟春丸」が222日に兵庫港に到着している。その後孟春丸は318日に大阪から江戸に向かうところであったが激しい風雨のため兵庫港に引き返し、19日に再び出発した(『佐賀市史』)というから、西園寺公が乗船した軍艦は孟春丸と思われる。

 

 

 

 

5.大阪から京都御所帰還

 

(1)大阪港から興正寺へ

 西園寺総督一行は佐賀藩の軍艦で大阪港に着いた。

 大阪港が「開港」するのは同年9月であるが、これまでも国内の港としては使われていた。しかし港が浅く外国の大型船が使用することは困難で、国際港の地位は神戸に譲った。

【大阪港】

 一行は下船すると天満の興正寺に着陣した。天正13(1585)年、興正寺はこの地に広大な堂舎を営んだ。古絵図によれば、南北50間、東西21間余であった。興正寺は戦災で焼失したため旭区に移転しているが、北区天満4丁目の跡地は現在滝川公園となっていて「天満興正寺御坊址」の碑が建っている。当時法主は西園寺公の実父徳大寺公純の兄摂信上人(華園摂信)であった。

【興正寺址】

 表士御守衛士が泊まった隣接の浄蓮寺も興正寺の子院であったが、この寺は現在も同地にある。この興正寺は明治20年から36年まで関西法律学校(現関西大学)の校舎として使用されていた。

 西園寺総督は、325日まで興正寺に滞陣した。

 

(2)本願寺津村別院(北御堂)

 この間323日には西園寺総督は西本願寺津村別院に行幸していた明治天皇に参候した。翌24日再び参候し、山陰道鎮撫の状況を報告した。

西本願寺津村別院は北御堂とも言われ、当時は津村御坊と呼ばれて明治維新の際に大阪鎮台が置かれて明治天皇の行在所となった。

【津村別院】

 新政府は慶應41月には大阪遷都を議論していた。遷都論は結局大阪親征として決定され、紆余曲折を経たのち、天皇は321日に京都を出発し、23日に北御堂を行在所としたのである。

 天皇は結局閏47日まで大阪に滞在し、同日京都に向けて出発、翌日京都に還幸した。現在の堂舎は1964年復興。場所は中央区本町4丁目、地下鉄本町駅近くである。

 

(3)伏見から京都御所帰還

 西園寺総督は326大阪本陣興正寺を出発。八軒屋から川船で淀川を遡り、船中から淀・八幡・伏見など戊辰の戦場を見ながら伏見の森橋(毛利橋)に到着した。毛利橋は宇治川の支流である濠川に架かる。伏見宿には本陣が4軒あったと言われ、どの本陣に泊まったのか定かでない。

 翌327、西園寺総督は伏見を発ち、辰刻(午前8)伏見稲荷前で小休ののち伏見街道から京に入り、蛤御門の西園寺邸に帰還した。発陣から83日であった。従衛した薩長藩士、各藩家老、郷士等一同を労い帰宅の途に着かせたのち、二条城太政官代に出頭、続いて御所に参内し山陰道鎮撫の大命を果たした。

【西園寺邸跡】

【二条城】

 

[完]

 

あとがき

 

 本稿は、2015920日より2016129日の間、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』や府県市町村史などを参照しながら山陰道鎮撫総督西園寺公望の道程を辿った記録である。

 戊辰戦争・明治維新から150年となる今日、その時間の経過は鎮撫使一行の事跡を断片的にしか辿ることができない。

 しかしながら資料とともに現地を歩くことにより見えてくることもあった。

 山陰道鎮撫はその後の北越戊辰戦争や東国の戦いに比べると実戦に及ぶことがなかったことから容易に鎮定されたと言われ、時に物見遊山もあったが、実際に京から鳥取・松江・出雲を経て帰還した83日の道程は、大変な道のりであった。

 本稿は「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」とでもいうものである。本稿により山陰道鎮撫の一端を多少なりとも見ることができれば幸いである。

 なお、地名の表記については、『山陰鎮撫日記』をもとにし、現地の表記と異なる場合や改称がある場合は( )内に記した。

 

2018327

立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

 

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