立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2018.10.31

<懐かしの立命館>立命館中学校・商業学校の「御楯の井」― 井戸をめぐる中川小十郎の教育観 ―

<被災者を救った井戸水>

 1938(昭和13)年7月31日、四国を襲った強力な豪雨は、松山で死者行方不明者23名の土砂崩れを起こし、翌8月1日は神戸・三宮で川の堤防を決壊させるなどの被害を広げ、1日夜から2日にかけての京都では暴風雨となって更に猛威を振るったのでした。

この豪雨によって、高野川が氾濫し、川底に引かれていた導水管(上水道のための大鉄管)が破壊したため、松ヶ崎浄水場(注1)からの送水が不能となりました。新聞報道によれば、高野川の氾濫による被害者が25万人にも達した原因は、鴨川の改修工事が行われている最中での豪雨だったため、土砂などがそのまま放置されてしまったことからでした(注2)。この時の市内では、他にも白川、天神川、安祥寺川などいくつもの川が決壊していました。導水管の破壊によって、北大路以北一帯の水道が82日夜から全部断水になってしまいました。

83日早朝、中川小十郎校長の判断と倉橋勇蔵主事(注3)の臨機の処置によって、学校の井戸水を付近住民に供給することとして、正門の他に非常門を開放し、給水を開始しました。そして、これを広報するために小使さんとよばれていた職員を学校周辺の住宅へ触れて回らせています(注4)。掲示板には次のように書かれていました。

「浄水道断水のため飲料水に御不自由の方は御遠慮なく本校の井水をお使ひ下さい」

これにより2,000人以上の市民が救われたといいます。

 

【写真1 1938(昭和13)年9月発行の『立命館禁衛隊』第86号の表紙で紹介された正門の様子】

 

写真2 京都日出新聞  1938昭和1386日付

 

<「御楯の井」と立命館>

非常用飲料水となった井戸水は、校内では「御楯の井」と呼ばれていました。

1933(昭和8)年10月に天皇が京都に滞在した時に立命館中学校・商業学校の校地内に掘削されたもので、名の由来は万葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」(注5)に因んで中川校長が命名したものです。

 

【写真3 『立命館要覧』1934(昭和9)年版に掲載された「御楯の井」】

 

【写真4 万葉集の歌が刻まれた「御楯の井」の碑 立命館 史資料センター】

 

井戸の開削後に京都市の衛生試験所で検査を受けて、飲料水にも適していると証明されていましたが、立命館中学校・商業学校では中川校長の指示によって、1934(昭和9)91日から「(みそぎ)」に使用されていました。その方法からすれば冷水摩擦で、昔からの健康法の一つでした。それを中学校・商業学校では、中川校長が(みそぎ)と呼んで、神官が神に奉仕する前に身を清めるという大切な行事と同じように心を清める修行とし、体も鍛え清める行事として生徒たちに励行させていました。

新入生は、朝7時前から登校し、この禊を行いました。正門を入って左手奥に「御楯の井」があり、禊が行われる校庭の西側は禁衛隊道場の「西の道場」(写真5)と呼ばれ、その禊が終われば、全生徒教職員が御所に向かって遥拝を行うのでした。

 

【写真5 禊を行う生徒たち『立命館禁衛隊』第58号 1935(昭和10)11月】

 

【写真6 運動場の境界に建てられていた禁衛隊道場の碑 立命館 史資料センター】

 

【写真7 禊の後、御所に向かって遥拝

生徒たちの向こうに並ぶのは禊のための個人用バケツ 1934(昭和9)年頃】

 

1938(昭和13)年8月に京都市が暴風雨に見舞われるよりも3ヶ月早くに、立命館中学校・商業学校では、耐火耐震に備えた鉄筋3階建で2,000名を収容する校舎が完成していました。地下道は、将来の戦争に備えて生徒たちや近隣住民が避難できる防空壕にもできるように造られていました。「御楯の井」もこれにあわせて更に掘削を進め、ポンプによる汲み上げと配水管と蛇口などが備えられていました。これによって、生徒たちが神聖な水として禊に使用していた「御楯の井」は、自然災害による緊急事態にあって、人々を救う水として役立つことになったのでした。

同じ年の5月、立命館中学校・商業学校では中川校長の発案で竹製のランドセルを生徒たちに使用させています。これは国策に沿った目的で皮革の節約をするもので、これに続いて6月には登下校での下駄や草履を京都府下で一番に実施しています。中川校長は、戦時だけを意識するのではなく、自然災害による非常事態への準備も強く考えるようになっていました。今回の「御盾の井」の給水は、こうした考えからであったといえます。 

 

【写真8 臨時の給水所の様子『立命館禁衛隊』第86号】

 

結局、断水期間は6昼夜続き、89日の朝、ようやく上水道の給水は復旧しました。
 中川校長は、公共建造物には井戸の設備が必要と説いていたそうで、今回のような断水がそのよい例となったわけで、「立命館中学校・商業学校の非常給水の状況は、鈴木敬一京都府知事を通じて荒木貞夫文部大臣(第一次近衛文麿内閣)へ報告」されたと記されています(注6)。

 

【写真9 「御楯の井」が刻字された碑 立命館 史資料センター】

 

<「御楯の井」の戦後>

この「御楯の井」は、連合国軍総司令部による検閲を恐れた学校関係者によって終戦後に埋め立てられてしまい、その姿を見つけることはできませんでした。その井戸に銃などの武器が投げ込まれて埋められたという話だけが、伝説のように長く語り継がれていました。井戸はなくなりましたが、「御楯の井」の碑は、北大路の校舎の片隅に置かれて生徒たちのベンチとして愛用され、深草キャンパス移転後は、通用門の横で誰にも気づかれない状態で放置されていました。現在は、戦前の貴重な学園史を語る資料として史資料センターに移され、ひっそりと保存されています。

2018年10月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博 

 

1 当時の松ヶ崎浄水場の送水は、三宅八幡、深泥ヶ池、上賀茂、鷹ヶ峰、蓮華谷、金閣寺、衣笠、宇多野、鳴滝、北白川、吉田、鹿ヶ谷と広範囲であった。

2 京都日出新聞 1938(昭和13)年86日付

3 1930(昭和5)年4月に立命館中学校教諭。中学校鍛錬部長、立命館第二中学校校長などを経て、理事、専務理事などを務める。

4 大阪朝日新聞 1938(昭和13)年86日付

5 万葉集巻二十・4373 作者は火長今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)

6 立命館禁衛隊 第86

2018.10.16

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・前編)

  小西重直学監と全国大会

   

1.立命館と中等学校野球

  今夏、第100回の節目を終えた全国高等学校野球選手権大会(1942年から45年は戦争のため中断)は、「夏の甲子園」とも呼ばれ、その歴史から高校生スポーツのひとつの象徴のように発展してきました。旧学制が残る1947(昭和22)年までは全国中等学校優勝野球大会(以下、全国中等野球大会)という名で開催されています。立命館の付属校は、この全国大会代表を決める京津(けいしん)大会(1972年までは京都と滋賀との代表1校が全国出場)に1915(大正4)年第1回大会から1935(昭和10)年第21回大会まで連続出場していましたが、翌年の第22回大会から不参加となっています。

立命館が中等野球大会の参加校に再び名を連ねたのは、戦後に再開とされる1946(昭和21)年の第28回大会(大会名は翌年から全国高等学校野球選手権大会に改称)からでした。

付属校の野球部(硬式野球部として)の全国大会出場は、戦前の中等学校時代に夏の大会2回で選抜大会1回、戦後の高等学校になってから夏の大会1回で選抜大会3回です(注1)。

 

2.野球部の創設(運動部の草創期)
 現在の立命館高等学校硬式野球部(全国的に戦前の中等学校は硬式野球のみ)は、立命館中学校・高等学校の前身である私立清和普通学校が設立された翌1906(明治39)年、清和中学校の開校時には創設されていたとされています(注
2)。

創部からしばらくは、熱心な卒業生たちが時々技術指導にきてくれる程度でした。1913(大正2)年、清和中学校から私立立命館中学へと校名が改称され、京都帝国大学から教育学教授小西重直が学監(注3)として就任します。後に、大正自由主義教育の西日本における旗頭と呼ばれた小西が、私立学校による中等教育全体の改造を志向する中川小十郎の期待をうけて、立命館の教育改革に大きくのりだすことになったのでした。

 

(写真1  学監小西重直)

 

その教育方針の中に「運動を奨励し元気を振起せしむること」という指導も含まれていました(注4)。しかし、現実の運動部の活動は容易に結果がだせず、小西学監が就任して3年目の当時の新聞には次のような厳しい記事が書かれていました。

「市内の私立中学では、立命館中学、東山中学等は未だ運動部として見る可きものがない。殊に立命館中学の如きは市内各中学の運動部に其の存在さへ認められて居らぬ。」

(注5

 

(写真2 中学校野球部の最古の写真 広小路学舎時代 1917年)

胸のKRMSはKyoto Ritsumeikan  Middle School の略 「立命館中学の過去現在及び将来」

 

3.大正後期における野球部の隆盛(運動部の黄金期)

小西学監は、運動部の活動は「生徒の自治にまかせ学校は成るべく之に干渉せざるを方針とし」、学校としては「運動各部の発達につきては出来るだけこれが奨励と援助」をおしまないと考えていました。そして、野球部には「勝負の念に駆らるるや徒に目的のために手段を択ばざる陋劣(ろうれつ)狡獪(こうかい)の風に陥り、又、いわゆる応援団なる者の粗暴野蛮の行動に出づる等の憂なきにあらず」(陋劣狡獪=卑劣で悪賢い)とその問題点を指摘しながらも「本校は深くこの点を戒め、選手も応援者も共に正々堂々の態度を執らんことに努めしむ」と特別の指導を進めるとしていました(注6)。

その後、小西実践は学習面で進学率向上の大きな成果を出すだけでなく、運動面でも着々と成果を上げるようになり、就任10年後には驚くような結果を残すことになりました(注7)。野球部だけをみても全国大会予選の京津大会では以下のような戦績を残しています。

 

   *第1回大会に参加した京都の私学は、立命館、同志社、大谷、東山、平安の5校。

   *第4回は地方での予選大会後に米騒動が起こったため、全国大会は中止。

 

立命館中学は、1914(大正3)年からの奈良遠征に始まり、大阪や名古屋、東京にまで遠征を行うようになり、京都の三高や大学へ進学後も野球を続けている卒業生たちが練習でのコーチを担当し、その実力を高めるようになりました(注8)。

     

 1922(大正11)年、立命館中学は彦根中学(滋賀)に勝利して初の全国大会出場権(第8回大会)を獲得しました。

 

4.立命館中学の全国大会での活躍

当時の全国中等野球大会は兵庫県の鳴尾球場(現、西宮市)で開催されていました(注9)。中等学校野球への人気は年々高まっていて、第8回大会の予選参加が229校(第1回は71校)で、全国各地の予選を勝ち抜いた代表16校(満州と朝鮮の代表も含む)での開催でした。高まる野球熱によって不正参加が発生したため、予選から参加規定が厳しく改正されていました(注10)。
 立命館中学は、1回戦で南満州工業を63で破り、2回戦(準々決勝)の相手は、大会連覇を狙う和歌山中学でした。14での敗戦でしたが、優勝候補を相手に善戦でした。

 

 この試合が終了して退場の際、立命館の選手と応援団一同が場内整理(ゴミ集め、清掃など)をしたことが立派な態度であったと翌朝の新聞に報道され、大会関係者からも大きく賞賛されました(注11)。当時の立命館では、「応援が一般的に節制なく粗暴野卑に流れやすく、秩序を乱し競技の妨害となりやすいとして、予め責任者を定めて応援歌を合唱し、個人の気ままな放言を禁じ、(ママ)めて節制のある行動をとらねばならない(注12)とし、野球の応援に野次と喧嘩が絶えなかった頃に、応援マナーとしてのファインプレーを行っていたことには驚かされます。

 小西学監によって、スポーツは勝敗のみを追求するためだけのものではなく、スポーツは生き方を学ぶものという教育が当時の立命館中学で行われていたとも考えられるのではないでしょうか。

 大会では立命館を破った和歌山中学が優勝し、大会史上初の連覇を果たしました。

 

 翌1923(大正12)年、立命館中学は京津大会決勝で京都一商を破り、第9回全国大会への連続出場を果たしました。全国出場祝賀会の最後には、立命館応援団は阪神電車鳴尾駅に集合して隊伍を整えて会場へ練り込む予定だと発表されました(注13)。その応援歌も生徒から募集したもので定めていました。大会当日には、隊列を整え立命館応援歌を合唱して球場へと向かったのでした。

    運動部応援歌

一、いざや立て我が立命の

鍛へたる腕をためすは

いざや立て霊香高く

健児等の向上の意気

いざや立て音にも聞けよ

覇者たらん我立命の

    ララララ リツメイ

二、健男児比叡(おろし)

  この時ぞ振へや振へ

  栴檀(せんだん)は既に芳し

  天を衝く振へや振へ

目にも見よ是関西の

健児等ぞ振へや振へ

 ララララ リツメイ 

ララララ リツメイ

ララララ リツメイ

 

予選参加校は前年よりも更に増えて243校で、全国大会出場は代表19校。人気はさらに高まり、野球場への観衆も大きく増えました。開会式での演出効果として初めて飛行機の祝賀飛行が行われ、始球式用の新球が投下されました。

1回戦不戦勝で、2回戦は台北一中(台湾から初参加)を234という大差で破りました。3回戦の相手は()(ぶん)高普(朝鮮)でした。朝鮮では三・一独立運動(1919年)を契機に、高等普通学校におけるスポーツ振興が盛んとなっていた頃で、選手全員が体格のよい朝鮮人のチームで、その活躍を期待して大阪神戸に在住の多くの朝鮮人が応援に駆けつけていました。興奮が渦巻く大観衆の中、立命館の選手たちの緊張感はさらに高まって試合は開始されました。

この時の立命館の戦いぶりが、徽文高普の特徴と併せて次のように紹介されています。
 

徽文高普は、荒削りであったが、腕っ節が強く、人々を面食らわせたのはその走塁で、「球が目の前に見えてなければ何でも突っ走る」と評判されていただけに、走りに走りぬいた。相手になった立命館は、走者を三本間にはさんだが、普通なら途中で止まるかとの予想を闇雲に走られてしまい、ついに送球する間を失って追いかけたところ追いつけず、本塁を奪われて、何てまずい挟撃の仕方だなどと酷評された。(注14


4回戦は準決勝で、819日の日曜日午前10時が試合開始予定でした。相手は初出場ながらも勢いにのる神戸の甲陽中学。地元の出場とあって、徹夜組のファンが早朝から仮設スタンドを占領し、ロープが張られただけの外野席からは、押された観衆がどんどんと場内になだれ込んでしまいました。そのため試合開始が1時間以上も遅れてしまい、大会関係者は準決勝の第2試合の開始時間を早めて第2グラウンドで行い、観衆を分散させることで混乱の収拾につとめました。

連続出場で実力も評価されていた立命館でしたが、相手応援団の大声援にのまれたのか、選手たちの失策が多く、大差をつけられての敗戦となりました。甲陽中学は、この勢いで決勝も勝利し、初優勝を果たしたのでした。

敗れはしたものの、レベルの高い関西にあって立命館中学の実力健闘とは、全国的にも知られるようになりました。


 この1923年には立命館大学に野球部が誕生しています。弟分になる立命館中学が先に全国大会で活躍していたことが刺激となって、学生たちの間にも野球熱が湧き上がってきたのかもしれません。


(写真3 日常のすべての運動部が活動を行っていた狭隘な北大路校舎木造時代の中学校校庭

昭和8年卒業アルバム)

野球部は練習不足を補うため、東寺中学の運動場などを借用して合宿などを行った。 

 

 

 1924(大正13)年4月には、後に春の選抜大会となる第1回全国選抜中等学校野球大会が名古屋の山本球場で開催されることになり、前年の実力を評価されて選抜される8校に立命館中学も選出されました。しかし、残念ながら1回戦で実力校の愛知一中に316の大差で敗れ去りました。

その後は、3年連続出場をかけて第10回全国大会予選大会に臨み、準決勝で平安中学を230で破る快進撃で決勝へと進みましたが、同志社中学に46と逆転されて敗れました。これによって、3年連続出場と、完成した甲子園球場(注15)での最初の出場校という二つの夢は消えてしまったのでした。

 

 なお、甲子園で校歌斉唱が行われるようになったのは、春の選抜大会が1929(昭和4)年から、夏の大会は1957(昭和32)年からのため、立命館中学が勝利した時に球場で校歌は歌われていませんでした。例え歌われていたとしても、現在の学園歌が誕生する以前に制作されていた立命館中学の校歌だったことになります。

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・後編)へ

2018.10.16

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・後編)

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・前編)へ 


 中川小十郎校長と野球禁止

 

1.立命館中学の大正黄金期以降の中等野球

 1927(昭和2)年8月、小西学監が退任した後は学監という職はなくなり、主事が校長と改称されます。翌年4月には館長に就任した中川小十郎が校長を一年間だけ兼務しています。

その後の野球部の活動は、「立命館学誌」や「立命館禁衛隊」に紹介されています。監督には、かつて全国大会で主将としてプレーした卒業生の米田虎雄(大正12年旧中卒。京都薬学専門学校進学)が就任し、全国大会出場を目指して練習に励みました。その指導ではルールを守り、礼儀やマナーを厳しくされたようで、「立命館学誌」には次のような紹介が残されています。

 「規律の正しさと紳士的プレーは遂に朝日スポーツ記者をして、大会の亀鑑との賛辞を呈せしめ、運動競技を通じての人格陶冶の好模範とまで称せられた。特記すべきは我がナインが大会中、終始挙手の礼で通したことと、胸間に国字(ママ)(注16)のマークを印して群る各校選手中に異彩を放ったことである。本年の我が選手は何れも下級、殊に2年級を中心として作られた大会中、稀に見る愛くるしいチームである。」(注17)。

当時の野球ブームが全国的に過熱化していたにもかかわらず、選手登録13名中2年生

6名、3年生3名、4年生4名という編成は、中学校が5年制の当時にあっては、戦力的に厳しいものでした。

 

 中川校長の後任は、卒業生で教員となっていた塩崎達人でした(注18)。母校愛に燃える塩崎校長は「野球部を語る」と題した文章のなかで、当時の学校教育における野球部の課題と立命館精神とはどのようなものかを語っています。塩崎校長の次に再び中川校長が登場するまでの立命館中学校の教育の特徴をよく知ることができます。(以下は抜粋)

 

一、野球部の根本精神

 野球を介して立命館主義の訓練を行う。

二、選手の人選方法

    修学の都合上、主として下級生の中から学業成績「中」以上の者で、心身よく長期の鍛錬に耐えられる初心者を選ぶ。

三、訓練について

練習は雨でも毎日2時間実施。指導者には敬礼し挙手の礼をすべし。球場に於ける動作は全て学校教練に準ずべし。練習は中学生としての基本のもので、高等学校のようにハイカラなことは行わない。

四、服装について

野球衣(ユニフォーム)は質素なる無地白色で、胸章は立命館の三文字を用いる。現在のものは、カツラギ地の上下に白色の帽子、木綿の白色靴下で、その質素なこと天下無比と信じている。着るもので拙攻が定まるものではない。
 胸章は、以前はローマ字綴りでリツメイとしていた。米田監督が全国大会に出場した時もこれであった(注19)。その後、数ヶ年は帽章をそのまま胸章に使用してきたが、今回いよいよ立命館の文字を用いることにした。この胸章によって国粋チームの名を頂戴すれば、逆に、反動?や猟奇?などと批評もされた。われわれの心持はそのようなものではない。この文字は、2年前に学校の守り本尊として中川館長によって講堂正面に掲げられた扁額の文字で、立命館のすべての歴史はこの扁額のもとに展開されていく。人気取りのための策などではなく、立命ツ児の心持は立命ツ児のみぞ知るである。

これは野球部に限られた問題ではない。諸君ともどもに各方面に於いて立命館らしい立命館をつくりあげる工面をしようではないか。  以上が抜粋(注20) 

 

(写真4 1928年 中学校の講堂正面に掲げられた扁額)

 

 この時の立命館中学校について、当時の新聞が次のように述べています。

「出場34チームの中、異彩を放っているのが立命館チーム。ユニホームは漢字で右書き斜めに立命館と印し、挨拶は必ず軍隊式の挙手の敬礼。中澤委員長の訓示に対し挙手の答礼をなし、満場拍手して厳粛さに讃辞を呈す。」(注21)。

立命館中学校の野球部が、スポーツとしての技能向上よりも、心身練磨のための場と変化していたことがわかります。

 

 当時の野球人気は、日本全国、小学校から中等学校、大学まで過熱気味に広がり、文部省が規制の方向へと動いています。というのも、新聞社などがこの人気熱を利用して興業的に利用して大会を無秩序に増加していたのでした。文部省はこれらを制限して、府県の体育団体に管理されるようにしました(注22)。この点では、全国的野球ブームが過熱化していくなかにあって、立命館中学野球部の活動は異色の存在であったといえます。

 

(写真5 1930年 人々を驚かせた斬新なチーム名)

京阪電鉄京津線沿いを歩いて緑ケ丘球場(滋賀県大津市藤木)へ向かう生徒たち

 

 

(写真6 1931年 上段の中学校陸上部の胸には襷がけに書かれた校名

写真下段は商業学校陸上部。両方の中央に写るのは塩崎校長)

 

立命館中学校は、第11回大会以降の予選京津大会で上位に残れず、次にベスト8以内に名が出てくるのは、1932(昭和7)年の第18回大会での立命館商業学校(注23)で、これが戦前での最後となりました。その翌年の卒業アルバムでは校名のデザインが再び変更されていました。

 

(写真7 1933年 再び変更された胸の校名 中学校卒業アルバム)

 

ここまでに登場したユニフォームの胸の校名を見ると、30年ほどの間にローマ字表記の「KRHS」から漢字表記「立命館」へと移り変わっていました。その変遷のなかにも立命館中学校の目指していた教育の姿が見えてきます。

 

2.中川小十郎校長と野球(西洋スポーツ)

 ここまでの立命館中学校野球部の活躍は、創立者中川小十郎が館長として専念する1925(大正14)年8月以前のことでした。1931(昭和6)年になって中川が初代総長に就任し、学園の運営に本格的にのりだしました。そして、1933(昭和8)年8月から1941(昭和16)年3月までの間、中川は総長と中学校・商業学校長を兼務し、中等教育の経営とその発展に積極的に取り組んでいくことになります。

 

(写真8 校長兼務の中川小十郎総長)

この中川校長在職中に、立命館中学校では運動競技に対する方針が大きく変更されていきました。1933(昭和8)年1017日、就任早々の中川校長は、京都府男子中等学校陸上競技大会(植物園グラウンド)に3年生以下を全員参加、また同じ日に開催された全立命館学園大運動会(立命館上賀茂グラウンド)に4年生以上を全員参加させ、翌日にはその生徒たち約1,200余名全員(不参加者も含め)に演習的作文を書かせ、優秀作品には賞を与え、全員の作文を印刷して12月には全生徒の父母に配布するというような指導を行っています。

対抗戦や体育的行事に全生徒で取り組み、生徒たち一人ひとりの意識を高揚させ、教員全員で理解していこうというものでした。ここには、中川校長の運動・体育への積極的な受け入れ姿勢を見ることができます。


(写真9 中学校商業学校生徒全員に書かせた1933年の作文集)

   

ここでは、生徒に運動・スポーツを積極的に取り組ませようとする考えもあったかと思えますが、その後に中川校長は全く反対の方向へと進んでいったのでした。

 

1935(昭和10)年の9月からその変化がはっきりと示されていきます。

まず、「勉強の第二学期が来た」との題名で書かれた校長公示の中で、

「運動競技の場合などは最後の五分間を非常に重んずるが、人生の成効(ママ)はそんな軽々しいことで獲られるものではない。これも、私が競技運動に感心しない事由の一つである。(中略)最後の五分間主義は点取り主義だ。試験にさえ合格すればそれでよいとする主義だ。しして、この主義が進展する場合にはそれがカンニング主義となるのだ。」(注24

日々の努力をコツコツと積み上げる努力をするのが立命館の生徒であるとして、試験におけるカンニング行為は退学処分にするとしています。その年の9月には、毎朝授業開始前に冷水で上半身を清める「禊」行い、生徒たちの心身を清める行事として励行させています。

 また、1935(昭和10)年第2学期始業式で中川校長は

「本校では生徒の勉強の妨げとなる様な事は一切やらぬ積りである。即ち、運動会廃止は勿論、市内中等学校の連合競技会等にも参加を御断りするのである。(中略)

  立命館は天下の立命館である。区区たる京都一地方を目標としているのではない。従って市内各学校の連合競技会だの対抗仕合(ママ)などに依って、勝ったの負けたのと騒ぎ立てる様な根性ではだめだ。諸君の本校に学ぶ目的は、天皇陛下の為め、国家の為め、世の為め、人の為めに大いに仕事の出来る人間となる事である。諸君はその積りでしっかり勉強せねばならぬ。」(注25)

と改めて運動スポーツに対する考えを生徒たちに述べています。

  このような考えによって、立命館は翌10月に植物園グラウンドで開催された京都府男子中等学校陸上競技大会への出場を辞退しています。2年前には3年生までの全員に応援させた大会への不参加は、世間からも驚きの目で見られたようで、1936(昭和11)年3月に市内小学校長を招待した場で改めて、中川校長は学校としての方針を説明しています。

「私の考では学校が学校として行ふべき事は極めて多く、貴重なる時間と充分でない費用とを投じて迄スポーツを行ふ程スポーツそのものに価値がないと思ふのである。特にスポーツを選手制度の下に行ふことは極めて面白くない。学校はあくまで学業を主としスポーツとしては日本固有の武道によって身心を練る方が肝要である。」(注26

 

更に4月の中学校商業学校入学式でも父兄への挨拶のなかで

「この学校では、運動といふものを全然認めないのである。野球も、庭球も、陸上運動も一切やらない。何人かのものは運動を楽しみ、後の大多数のものが、応援団などといって騒ぎまはるのはくだらぬことではないか。この学校では運動はやらないが、武道をやる、武道は精神の鍛錬にもなるからである。武道の内剣道をやる。柔道はやらない。柔道は、武士道鍛錬の正規の課業になっていないからだ。」と述べ、明確に立命館の付属校では選手中心の西洋スポーツを断固実施しないことを表明しています(注27)。

 

 1936(昭和11)年4月、野球、庭球、籠球(バスケットボール)、排球(バレーボール)、陸上に柔道を加えた6つの運動競技が立命館中学校・商業学校の生徒スポーツから削除されました。当時の新聞には、「全スポーツを排撃する 日本唯一の愛国中学」の見出しで立命館中学校商業学校を大きく紹介しています(注28)。

これらの学校の決定に対して、生徒たちの反応はどうだったのでしょうか。これも同じ日の新聞記事の中で

 「当時、野球部員は学校横暴を(ママ)らして同盟休校などの措置に出ようとしたこともあったようだが、新時代の潮流の前には施す術もなく、今ではこれら選手が中堅に転じ皇室中心の奔流となっている。」

と、生徒たちの反応も協力的であったと伝えられています。こうして、野球のダイヤモンドは取り払われて教練場となり、庭球、籠球、排球等のコートは銃剣道、槍術の道場となり、ボールやネットがすべて銃、背嚢はいのう、飯盒に変わってしまったのでした。

 

(写真10 教練場や道場となった北大路学舎の校庭を整備する生徒と中川校長)

 中川校長の教育方針によって、中学校や商業学校の体育や運動は大きく変わってしまいましたが、立命館大学では違っていました。野球だけを見ると、1943(昭和18)年4に文部省が発表した「戦時学徒体育訓練実施要綱」によって東京と関西の大学野球連盟は解散となり、野球はできなくなりました。429日に京都の西京極球場で開催された「立同戦」が最後の大学野球となったのでした(注29)。
 中川校長の方針により、戦争による中断よりも早く1936(昭和11)年をもって中学校・商業学校に野球を禁止していますが、同じ立命館学園にあって、大学は1943(昭和18)年の政府の方針発表まで続けることができたのです。この差異はどこにあるのでしょうか。創立者中川小十郎が小西重直と共に目指そうとした立命館での中等教育が、大正から昭和にかけて大きく変化したことは、今回の野球部の歴史を辿るなかでも明らかになりました。中川総長が校長を兼務しながら目指した中等教育における生徒像の分析は、今後の中川小十郎研究にとっても大きな課題となっていくと考えられます。

 

(写真11 1939年の中学校卒業アルバム)

 現在、立命館中学校・高等学校(長岡京市)に残されている1939(昭和14)年の中学校卒業アルバムの中に1枚だけ不思議な写真が掲載されています。ユニフォームの胸には二つのチーム名。帽子には異なるけれどもRのマーク。立命館中学校の制服制帽姿のままの生徒もいます。背景の山々からグラウンドは植物園のようです。中川校長によって野球禁止が決定された後の学年の卒業アルバムで、学校の点検も受けているはずなのに、なぜこの生徒たちの写真が含まれているのか。禁止後もなお野球に取り組んでいた生徒たちがいたことは確かです。軍事教練の写真が多くを占めるような卒業アルバムの中に、このような写真が1枚含まれていることに救われます。


<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦後編)へ

最新の投稿

RSS