立命館あの日あの時

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2018.10.16

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦後編)

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・後編)へ


中等学校での野球復活と新学制での全国大会出場

 

1.戦後復興の中等学校野球

1945(昭和208月の終戦直後の国内の混乱は甚だしかったですが、軍国主義につながるとして武道が排斥されたことや、GHQ特にアメリカ駐留軍の影響もあって野球が流行しました。教材も十分揃わなかった六三制の義務教育では、体力のついてきた中学生に対して野球がもっとも取り組みやすい体育スポーツとなったことなどに助けられ、学校野球は指導者や関係者の努力によって復活への努力がなされます。当時に流行となった川柳「六三制 野球ばかりがうまくなり」が広まったように、野球ブームは中学生を中心に一気に巻き上がり、終戦一年後には早くも全国中等野球大会が復活されたのでした。なかでも、大きな戦災を蒙らなかった京都にあっては野球部の再建される学校が多く、立命館でも野球をやりたいという生徒たちが集まってきていました。

卒業生で野球経験者あった蜂谷留吉(昭和12年商業学校卒)が教員として母校に戻ったのは1945(昭和20)年10月のことで、すぐに立命館第一中学校に硬式野球部を復活させました。蜂谷は在学中に野球部に所属していて、最終学年の時に中川校長の野球禁止令によって野球を中断しなければならなかった生徒の一人でした。

1946(昭和21)年の復活予選京津大会には、立命館第一中学校と商業学校、それに上賀茂の立命館第二中学校(注30)の三つの付属校が参加した記録が残されています。

中川校長が亡くなったのが1944(昭和19)年10月で、その一年後には敗戦を経て民主化への改革が大きく進められていきました。しかし、学校環境が急激に変化することはなく、立命館の北大路学舎の狭隘な運動場は戦前のままでした(写真12)。それでも、生徒たちは荒廃した社会に向かい合いながらも、野球のできる環境に感謝して、蜂谷監督の下で日々練習に励んだのでした。

 

2.戦後の中学校・高等学校の活躍と全国大会出場

1948(昭和23)年、新学制によって誕生した立命館中学校・高等学校は、京都の中高野球界のリーダーとなりました。「立命館中学校(軟式野球)は京都府代表として甲子園球場で開催された連合国軍師団長杯争奪近畿大会に出場しました。単なる対校試合のような大会で、残念ながら一回戦で敗退」しています(注31)。GHQは、戦後の民主化改革にあって、青少年のスポーツをアメリカの野球主導で進めようと考えていたのでした。とはいえ、中学校が最初に甲子園の土を踏んだのでした。

この年に、高等学校硬式野球部は新制高校の第1回近畿高等学校野球大会(大阪・藤井寺球場)に府代表として出場し、決勝で延長19回を戦い抜いて優勝を遂げました。1954(昭和29)年の春には、戦前からの夢であった甲子園に立つことができました。蜂谷監督は、中学校と高校の両方で甲子園の土を踏んだのでした。

少し遅れて、高等学校軟式野球部も1970(昭和45)年と1987(昭和62)年の2回を北近畿代表として全国大会への出場を果たしました。また、中学校野球部(軟式野球)も2001(平成13)年と2011(平成23)年と2回の全国中学校野球大会に出場し、立命館中学校・高等学校野球部による全国大会出場が実現したのでした。

 

(写真12 戦前から変らない狭い校庭に作られたバックネット 1955年卒業アルバム)


 (写真13 1948年の近畿大会優勝時の3年生 卒業アルバム)

前列中央が蜂谷監督 この時の校名は「RITUMEI」

(写真14 1955年選抜大会 甲子園球場

 

(写真15 1955年の選抜大会 胸のローマ字校名は「RITSUMEI」

野球部の校名はローマ字で中高統一されている。

 

(写真16 1970年 高等学校軟式野球全国大会 大阪藤井寺球場)


2018年10月16日立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博


 

注1 夏は1955年。選抜は1954年、1958年、1983年。春夏併せて4回の出場

注2 「立命館中学の過去現在及び将来」19183月発行

注3 学監とは、本校教育の方針を樹立し、且つ教育の全体を監督指導し、又本校と立命館本部及同大学とに関係せる重要なる協議に関与する。(前掲「立命館中学の過去現在及び将来」)

注4 「教育の3つの目的」のための「10の指導方針」(前掲「立命館中学の過去現在及び将来」)

注5 京都日日新聞 「青年の生命は運動だ」 1916(大正5)年112日付

注6 前掲「立命館中学の過去現在及び将来」

注7 旧制高校への進学者数は、府立中学校と肩を並べるほどになり、相撲部は団体・個人で全国・関西大会を制し、ラグビー部は全国大会準優勝、陸上部は府大会で上位入賞するなど(立命館百年史 通史第一巻)

注8 立命館中学同窓会誌「清和」第4号~第9号 の野球部報。

注9 12回は大阪の豊中球場で開催。第3回から第8回までが鳴尾球場。

注10 三月までに進級しなかった者(わざと留年して出場する者の防止)、転校編入後満二学期を経過しない者(有力選手を引き抜いてすぐに出場させない)には参加資格が認められないこと、校医の診断による健康の保証が必要という2点が追加された。(高校野球優勝物語 廣瀬謙三・松井一之共著  恒文社 1975年発行)

注11 朝日新聞 1922(大正11)年815日、818日付

注12 前掲「立命館中学の過去現在及び将来」

注13 高校野球優勝物語 廣瀬謙三・松井一之共著  恒文社 1975年発行

注14 立命館学誌 第135号 1930(昭和5)年915発行

 

注15 9回全国中等学校野球大会で、観衆の大混乱によって試合運営が困難となったため、十分な観客席を備えた本格的野球場が早急に必要とされた。翌年の大会に間に合わせるように建設が急がれ、192481日に竣工したのが甲子園球場であった。

注16 国字とは、漢字の字体にならって日本で作られた文字のこと。立命館の文字は国字にあたらない。当時は、多くの学校が校名の頭文字だけをアルファベットで表示したり、校名をローマ字で表記していたようで、立命館が校名を漢字で表記したことを強調したかったのではないかと思われる。

注17 立命館学誌 第135号 1930(昭和5)年915日発行

注18 1911年清和中学校卒業。校長在任期間19294月~19337

注19 塩崎は、1921(大正10)年に立命館中学教諭となっているので、母校の2回にわたる全国大会出場をスタンドで応援していた。

注20 立命館禁衛隊 第10号  1930(昭和5)年9月発行

注21 大阪朝日新聞 1930年(昭和5)年725日付

注22 文部省訓令第4号「野球ノ統制並施行ニ関スル件」

1932(昭和7)年41日発令

注23 中学校と同じ北大路の校地に1929年(昭和4)年開校

注24 立命館禁衛隊 第56 1935(昭和109発行

注25 同上「第二学期始業日に方て中川校長の訓示―中学商業三年生以下一同に対してー」

注26 立命館禁衛隊 第62号(昭和11)年3月発行

 「小学校長招待日に於ける中川校長挨拶」要旨

注27 立命館禁衛隊 第63号(昭和11年)4月発行 

新入学父兄に対する中川校長の挨拶

注28 京都日日新聞  1936(昭和11)年122日付

「皇室中心主義の旗幟を高く翳し千七百名の生徒と七十名の職員が一丸となり、在来のスポーツといふスポーツを悉く排撃し各人が満身これ“日本精神”に凝っているといふ全国に珍しい中等学校があり、国体明徴の巨弾を教育会に投げている。」

注29 立命館史資料センターHP <懐かしの立命館>戦前「最後の立同戦」

注30 1941(昭和16)年開校で、1946(昭和21)年には立命館神山中学校、翌年に立命館神山高等学校となっている

注31 「私と中学野球」蜂谷留吉 「京都市中学校野球50年史」京都市中体連野球専門委員会編

2018.09.19

<懐かしの立命館>学生証

1.学生証とは

 大学に入学すると交付される学生証。学生証は学生であることを証明するものです。

 現在の立命館大学の学生証は、以下の場合に必要となり、常に携帯することが求められています。

 定期試験の受験、各種証明書の交付、図書館等の本学施設の利用、本学教職員等から提示を求められたとき(『学修要覧(全学部共通編)2018年度用』)

 学生証はこのように定められ交付されていますが、学外においてもJR等交通機関の学割や通学定期券の購入、博物館等の入場料の割引などに利用されることなどがあります。

 今回は、立命館大学の学生証の変遷、歴史を紹介します。

 



2018年度の学生証(見本)

 

 現在の学生証は入学を許可されると交付され、在学中使用することになりますが、裏面には1年ごとに在籍確認シールを貼ることになります。転籍・再入学を除き学生証番号は変わりません。

 裏面には必要事項を記載するようになっていますが、通学定期の発行控も記載するようになっています。

 

2.立命館(大学)の学生証の起源

(1) そもそも立命館大学の学生証はいつから発行されたのでしょうか。

学生証の発行は学則に定められていますので、学則を遡ってみます。学生証が学則に初めて現れるのは、昭和44月改正施行の立命館大学専門学部学則です。

36条 学生ハ学生証ヲ携帯スルニ非ザレバ教場ニ入ルヲ得ズ

37条 学生証ヲ紛失シタルトキハ手数料金1円ヲ添エ再渡ヲ会計課ニ願出スベシ

ただし、同年の立命館大学学則には学生証に関する規定がありません。

 (2) 学生証以前は聴講券だった

 上記の専門学部学則以前は聴講券が発行されていました。

聴講券は明治335月認可、6月開校の京都法政学校から発行されています。

 「京都法政学校規則」の生徒心得には、

  第32条 生徒ハ聴講券ヲ携帯スルニアラサレハ教場ニ入ルヲ許サス

  第33条 聴講券ヲ遺失シタルトキハ手数料トシテ金拾銭ヲ添ヘ其再渡ヲ会計係ニ願出ツヘシ

とあります。

 校内生ではありませんが、次の「優待聴講券」が残っています。


【優待聴講券 京都府立京都学・歴彩館所蔵】

 

 この優待聴講券は明治331214日に上野弥一郎に発行されたもので、明治341113日までの11ヵ月間の聴講券です。京都法政学校には校外生制度もあり、随時入学が可能でしたから、創立当初から聴講券が発行されていたことが窺えます。

 上野弥一郎ですが、明治15年には京都府会議員、同35年には立憲政友会から衆議院議員にもなりました。上野は明治274月に京都大学設立の建議を行っていた人物です。創立者中川小十郎との接点は不明ですが、文部省の書記官であった中川、また立憲政友会との関係から知己であったのではないかと思われます。

 それはともかく、京都法政学校以降、京都法政専門学校、京都法政大学、旧制立命館大学と、聴講券は引き継がれていったことが各学校の規則および学則から知ることができます。

 

3.他大学の学生証の起源

 他大学の学生証の起源はどうなっていたのでしょうか。

(1)早稲田大学では、

 明治39911日の始業式で高田学監が新入生および学生に対し、学生証の携帯等を訓示し、この訓示が整備されて、明治407月の「早稲田大学規則」に学生心得が定められ、その第1条に「学生ハ校ノ内外ヲ問ハズ必ズ学生証ヲ携帯スベシ」とした、としています。(『早稲田大学百年史』第2巻 昭和56)

(2)法政大学では、

 法政大学発行の『法政大学の100年 18801980(昭和55)に、大正15年度の学生証が掲載されています。

(3)東京大学では、

 昭和57月発行の『昭和5年度東京帝国大学一覧』に学生証の項があり、「本学学生生徒及聴講生ハ昭和2319日庶第407号通牒ニ依リ一定ノ学生証生徒証及聴講生証ヲ所持スベキモノトス」とあり、それ以前の『東京帝国大学一覧』では確認できないものの、昭和34月には農学科農学実科生徒に「生徒証」を発行していたようです。

(4)中央大学では、

 『タイムトラベル中大12518852010』第2版(2011)には、「聴講券から学生証」の記事が掲載され、1931年の学則改正に際し聴講券は学生証と改称された、としています。

 このような状況から、「学生証」は必ずしも各大学が同時期に発行しはじめたということではないようです。

 なお、JR(旧国鉄)の学割制度との関係を考えてみましたが、学生割引(学生旅客運賃割引制度)は、「明治40年、教育奨励のため、中学以上の職員、生徒、小学校職員に実施した」(『国鉄乗車券類大事典』JTB 平成16)ようなので、学生証の発行の起源とは直接結びつきません。

 なお、現在JRの学割は片道101㎞以上で2割引きですが、昭和35年までは3等車で5割引きでした。昭和356月まで3等車があったのです。史資料センターには、発行したものの使用されなかった5割引き最後の「学校学生生徒旅客運賃割引証」が残されています。

 

4.立命館の学生証の変遷

(1)昭和4年以降の旧制大学時代の学生証

昭和44月に改正施行された立命館大学専門学部学則に学生証が定められたことは先に述べた通りです。

昭和39月現在の『立命館要覧』には、立命館大学学則中に学生証に関する条文がなく、専門学部学則に聴講証を発行することが定められています。

立命館のその他の学校では、

昭和134月に開校した立命館高等工科学校(翌年立命館日満高等工科学校と改称)の学則第38条には、生徒登学ノ際ニハ必ス在学証ヲ携帯スヘシ……。第39条には、在学証ヲ携帯セサル生徒ハ教室ニ入ルヲ許サス とあり、在学証を交付しています。

戦時中の昭和1941日、立命館は専門学校を設置しましたが、立命館専門学校学則では、第28条に、授業料等ヲ納付シタル時ハ所定ノ生徒証ヲ交付ス 生徒証ヲ所持セザルモノハ教室内ニ入ルコトヲ得ズ となっています。

戦後ではありますが、昭和2141日に施行された旧制の立命館大学学則第30条には、専門学校と同じ条文で生徒証の部分を学生証としています。

(2)新制大学の学生証

昭和234月新制大学が設置されました。立命館大学学則第24条に、授業料その他学生の負担すべき金員およびその納付方法は、別にこれを定める。前項の金員を納付したものには学生証を交付する、と定められました。

(3)立命館大学教学事務取扱規則(昭和28124)

そして昭和28年に教学事務取扱規則が定められ、その第10条から第16条まで学生証について定めています。

10条 学生は、学生証の交付を受け、これを携帯するものとする。

11条 学生証の交付を受けようとするときは、無帽半身正面画像の写真1枚を当該学部に提出するものとする。

12条 学生証を携帯しないときは、教室、図書館その他本学の施設を使用することができない。

13条~第15条 略

16条 学生証は、卒業、退学その他本学学生の身分を離れたときは直ちにこれを返納するものとする。

 ここに学生証に関する細則が定められ、この各条文は概ねその後の学生証規程に引き継がれます。

(4)立命館大学学生証規程(昭和34109)

そして、昭和3410月に学生証に関する規程が定められ、若干の条文の改定がありますが、8条からなる規程は現在に至っています。

 

5.新制大学以降の学生証の様式の変遷

以下は資料として保存されている学生証のうち様式の変遷がわかるものです。


(1)昭和29年度【写真1】

大学院に定時制があった年度の学生證で、研究科長名で発行しています。

表裏各3面で学生證兼身分証明書となっています。利用上の注意のほか学費納付欄、写真貼付欄があります。

(2)昭和35年度 

 昭和29年度の学生証にはなかった図案化された「大學」の文字が入っています。また顔写真に立命館のマークを浮き出しにしたエンボス加工(1)が施されています。昭和30年度から34年度までの学生証が残っていないため、いずれも何年度から採用されたのかは不明ですが。学生証所持規定、学費納付欄、学割発行控欄があります。学生証表紙は左面です。国鉄3等の5割引きが適用された最後の年度のものです。

(3)昭和39年度【写真2】

それまで学部長・研究科長が発行していましたが、前年度の昭和38年度から学長が発行者となりました。そして昭和39年度から地紋が立マーク(通称亀の子マーク)となりました。立マークは昭和35年の創立60周年記念事業の際に、正式な校章ではありませんが、公募により選定・採用されたものです。立マークの地紋が入った学生証は1993年度まで使用され、1994年度より新たな校章(Ritsマーク)となりました。

(4)昭和43年度 

学生証表面が左側から右側に変わります。アルバイト登録欄、学割発行控欄があります。

(5)昭和54年度 【写真3 但し同じ様式の55年度】

横長の用紙サイズになります。学生証(兼身分証明書)の面が左側になります。通学定期乗車券発行欄があります。健康診断受診の欄もあります。

(6)1982年度 

和暦(元号)から西暦に変更になりました。198111月に学園の諸文書を西暦表記とすると定められたことによります。発行者の住所が前年の衣笠一拠点完成により北区等持院北町となっています。その外は昭和55年度と同じ様式です。

(7)1986年度

学費納付欄が無くなります。19851216日の教務・教対会議で学費の領収印を廃止することを決定。他大学では既に廃止されていました。所持規定が注意事項に変わります。

(8)1988年度 【写真4

これまで紙の学生証であったものにラミネート加工(2)が施されました。このことによりエンボス加工が無くなりました。

(9)1994年度 【写真5

プラスチック製カードになり、前年度までは学年毎に発行していましたが、入学時に1度発行し、次年度以降は裏面にその年度のシールを貼付することとなりました。この様式が現在まで続いています。

 

 以上が史資料センターで保存している学生証をもとにした様式の変遷です。学生証とともに学生証番号の設定も変遷していますが、本稿では略しました。

 

 (1) エンボス加工…学生証の写真欄に校章の凹凸模様をつけた押し型(エンボス加工機)を手で強圧し、浮き出し模様を作る。糊付けの写真が剥がれないようにし、また偽造を困難にするため作成する。

 (2) ラミネート加工…学生証をフィルムで挟みコーティングする。学生証用紙の保護とともに偽造防止をする。

 

 〔お断り〕本稿では和暦・西暦の表記を、立命館において198111月に西暦表記とすると定めたこと、また当該学生証の年度表記と関り、1982年度以降を西暦表記とし、それ以前は和暦表記としました。ただし、他大学等の発行物等についてはその表記に従いました。

 また、掲載の写真は実物のサイズとは異なります。

 

【写真15一覧】



【写真1】




【写真2】




【写真3】




【写真4】




【写真5】

 

 

2018919日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2018.08.01

<懐かしの立命館>戦後初の付属校修学旅行

1.新学制による中学校・高等学校の誕生

1948(昭和23)年4月、連合国軍総司令部(GHQ)の意向のもとに公立中等教育の改革が断行され新制高等学校が誕生しました。立命館の付属校でも、1947(昭和22)年の新制の立命館中学校・立命館神山中学校に引続いて、1948年には立命館高等学校・立命館神山高等学校・立命館夜間高等学校が誕生しました。5年制であった旧制中学校は、19483月で廃校となったため、1、2年生はそのまま新制立命館中学校の2,3年生に移行しました。3年生は新制高校1年生に入学しましたが、4年生(昭和19年入学の旧制中学校商業学校1年生)(写真1)だけには三つの選択肢がありました。そのまま旧制中学校を修了して卒業するか、旧制立命館大学の予科へ進学するか、または新制高等学校2年に編入するかという道でした。この高校2年生が戦後初の高校修学旅行に参加することになるのでした。

 

写真1 戦後初の高校修学旅行に参加した昭和19年入学の1年生たち

(立命館商業学校射撃部で主に最前列が1年生)

 

2.修学旅行実現への厳しい背景 

修学旅行は、戦前から各学校でさまざまな形態で実施されていましたが、戦後の社会事情は厳しく、家庭の経済状況だけではなく、十分に復旧していない交通事情や食糧事情などからしても、修学旅行復活に対する理解には厳しいものがありました。旧制中学校廃校の前年の1947年、立命館第一中学校の平口正雄校長は学校新聞「立命館タイムス」のインタビューに「修学旅行は楽しく、いい思い出を残す意味で行いたいが、社会情勢を見るとき、平口は絶対反対です」と答えています(注1)。

当時の教育事情として、教育委員会は全国的に修学旅行復活に否定的でした。194711月、大阪府では教育部長(現在の教育委員会委員長)が「時節柄、父兄の立場や国の経済事情を考慮して、なるべく修学旅行を控えられるよう、万やむを得ない場合は精精一泊程度の旅行にされたい。」という修学旅行自粛通牒を出しています(注2)。その前年の1946(昭和21)年5月に皇居前食糧メーデーが起きたことや、国鉄(現JR)運賃の値上げ(注3)などからみても、戦後の経済事情は厳しいものがあり、立命館高校の授業料とを比較しても家計への圧迫は深刻でした(参考資料)。

 


 

  平口校長が立命館タイムスの生徒記者へ語ったように、保護者への負担を極力抑えたいという学校側の思いは理解できます。

 

3.修学旅行の実現

当時の国民の生活実態からして、修学旅行の自粛はやむを得ない判断だったのでしょう。それでも修学旅行の受け入れ態勢は少しずつ改善されていったようで、1949(昭和24)年1026日には、立命館中学校高等学校で共に34日の日程で戦後初の修学旅行を実現したのでした。

 

1)立命館高等学校 (1026日~29日で東京方面)

立命館高等学校では、1期生の3年生が教諭5名に引率されて参加しました。希望者を募っての参加者は143名(この学年240名)。費用1,800円で小遣い1,000円でした。(注4)高校3年担任であった上田勝彦教諭は、当時のことを次のように述べています。

「永年の教師生活のなかで教師としての生き甲斐を感じるのは生徒諸君との心の触れ合いができた時である。昭和24年度は卒業学年のクラス担任となり、秋には現在では中学生並みの東京への修学旅行を行ったが、勝手知った東京の案内役を務めたりした。」(注5
  

東京・鎌倉方面への34日の旅で宿舎泊は1泊のみ。他は車中泊で、それも団体扱いもなく、一般車両の客席(寝台ではなく)に座ったままという大変な旅行でした。(写真2

 

写真2 当時の蒸気機関車の車窓から
1951年高校卒業アルバム)

 

この時の要項(修学旅行の行程と注意書き)が保存されていますが、B5版に印刷されたプリント1枚のみで、その内容はコース略図と「行程」、そして簡単な「生徒への注意事項」のみでした。(写真3)(注6

 1.時刻厳守  2.気分明朗  3.元気旺盛  4.行動敏速

5.身辺注意  6.健康第一

 

写真3 初の高校修学旅行要項

 

 行程 【 】内は立命館タイムスの記事との合成 

  10261310 京都駅発

        1728 名古屋着【戦災都市の夜景を見て約3時間散策】           

          2220 名古屋発準急(2030 駅前集合)

       27 400 小田原着

          437 小田原発

          525 藤沢着 (江ノ島、鎌倉見学)

          1400 鎌倉発

          1500 東京着 

           1600 (宿舎着)【旧徳川邸ホテル】

                 【17002200まで自由行動】 

       28    【朝からバス4台で都内観光~赤坂離宮~明治神宮~外苑球場

~国会議事堂~上野~日比谷公園】

【観光後は自由行動】 

        282350 東京発(2200 駅前集合)

         291422 京都帰着  

 

写真4 自由行動で上野動物園へ(個人所有)

     

  この修学旅行出発の2週間前に上田勝彦教諭は、生徒を集めた場で旅行の目的を次のように詳しく説明しています。(注7)原文は、詳細に注意事項が書かれていて、安心で事故のない旅行実現のための細心の配慮がなされていました。

 

「修学旅行に就いて」(一部抜粋)

一、目的を自覚せよ 

物見遊山のための記念行事ではなく、楽しく新しい刺激を求めたり、感覚的な欲求

を充足させるための行事でもない。心志を労し見聞を広め、識見を養うためのものである。(中略)高価な代償を支払う教育活動であって、単なるリクリエーション・ 休暇行事・休息ではないのだ。

(中略)今一つの目的は社会性の涵養である。集団生活の経験をさせ、民主社会の構成員としての自覚を喚起する。真のホームルームの目的達成の一助として、生徒対教師・交友間・クラスメート全員間の情愛等人間関係の真実を会得することである。

二、重要な心掛け(ママ) 

1.困難な現状の把握とそれに対する心掛け。

a.浮いた調子でぼやぼやして居れぬ世相と重大な責務。

b.楽で快適な旅行は不可能な状況~汽車の座席・旅館の待遇・窮屈な乗物~我慢と忍

  耐

2.父兄の負担と将来の出費の見通しに立って。

a.父兄に無理な出費をさせぬこと。参加だけで一般的には無理があること。

b.将来、アルバム代・学費・入学に関する厖大な費用の必要なことを考慮して。

3.常に堂々たるプライドを以て行動すること。

a.旅は赤裸々な人間の表裏を暴露~学生らしい品位を。            

b.「旅の恥はかきすて」は没道義的・没人間的個人主義であって奴隷制・封建制時代の旅の一面である。

c.服装は制帽・端正な衣服で、飲酒・喫煙は禁止。

4.健康に留意し、危険防止に注意を。

a.睡眠・汗の処理・食物・風邪注意

b.危険な処に立ち寄らぬこと。夜の行動に於いて街のあんちゃん・客引きにひっかからぬこと。雑踏の中には掏摸が多いこと。

三、参加者の資格  全員参加の必要なし、無資格者は参加を許可しない 

1.目的をしっかり自覚している者。 

2.肉体的精神的条件が有意義な旅行を可能とする者。 

3.学校や引率者の命令・指示に的確に従う者~服装その他 

4.家庭の状況、特に家計が修学旅行を可能とする者。 

5.学費完納者~未納者は家計に無理を及ぼし家計上悪影響があり、生徒保護者共に学校に対し徳義に反することになる。

 

  学校行事でありながら、事前から計画的に費用の積み立てを行っていなかったことで、急な決定であったことが想像されます。そのために、家庭への負担の大きさを配慮して、学費の未納者には参加を認めず、希望者だけの修学旅行となりました。当時の旅行では、外食用の外食券が必要だったが、今回の生徒が食べる米は各自持参とされ(注8)、参加費に加え服装などにも規定があったので、それらを工面することは保護者にとって重い

 負担でした。学校も生徒には保護者へ過重な負担をかけないようにと呼びかけていました。そのために参加者は6割に至らなかったのでした。(注9

  この修学旅行の目的には、単なる観光見物ではなく、首都東京や名古屋のような戦災都市の復興の姿を直に見ることにありました。そして、これからの日本の復興と発展を担う若者に育ってほしいという願いがあったのでしょう。

 

  4日間の日程ほとんどが雨の天候でした。たった1枚の鎌倉での集合写真は、雨の中での撮影だったため、10月下旬にもかかわらずコートを着用しています(写真5)。旅館泊はたった1泊だけのため、生徒たちはアイロン代わりに就寝前から敷布団の下にズボンを敷く寝押しで翌日に備えたそうです。身なりを整えることには抜かりがなかったのでした。その旅館の待遇は非常に悪かったと述べられています。(注10)東京駅での集合時刻22時というのは、教員と生徒たちのおおらかな関係があったからかもしれません。夜の自由行動では、さまざまな場所で女性に声をかけられることがあり、当時の流行歌「星の流れに」の歌詞に登場するような現実の女性の姿を目の当たりにしたそうです。(注11

 

写真5 戦後初の修学旅行写真(1950年高校卒業アルバム)

 

その後しばらくは東京方面へと続く修学旅行となりましたが、2年後の1951(昭和26)年からは、行程が大きく広がり、卒業アルバムにも写真が多く掲載されています。

 

写真6 バス乗車前(1951年卒業アルバム) 写真7 箱根十国峠(1952年卒業アルバム)

 

2)立命館中学校 (1026日~29日 四国方面)

参加生徒210名(学年全生徒234名)。費用は1,240円で小遣いが300円。

引率者は教頭、看護婦、担任4名。これになぜかPTA会長が加わっていました。

1026  2120 京都発宇野行乗車  

            寝台ではなく客車に一般客と一緒に乗車

   27日   朝  乗船 宇野発女木島(愛称は鬼ケ島)着 島内の洞窟見学

           乗船 高松港着

           金比羅山参詣 

        宿舎の旅館到着 枕投げ、障子を破り壊すなど夜の12時頃まで騒いで

                殆んど寝られなかった。

   28日   朝  朝食をすませて出発 (各自が旅館からの握り飯持参)

           栗林公園から屋島登山(道路は未開通)

           下山後、高松市内散策【市街の戦災復興を確認】 夕食

        夕  高松港から神戸港行に乗船(船内は満員で暑かった)

       600  神戸港到着 ~徒歩~ 諏訪山公園(睡眠不足でさらに疲労)

           ~ 朝食 ~ 電車で京都駅へ            

   この旅行の主な交通手段は船でしたが、以前から海運事故があったので、旅行への不安はあったそうです。(注12)高校同様に中学校も旅館宿泊は1泊のみでした。この時の教員の話では、せっかくの宿舎の浴場であったのに生徒たちはほとんど入湯しなかったそうです。裸になるのが恥ずかしかったかと語っています。

 

この事故以降、修学旅行を積極的に支持する方向で、次のようなことが行われています。

1949(昭和24)年  国鉄の団体割引復活。

1950(昭和25)年  文部省の修学旅行規制緩和

1954(昭和29)年  国鉄の専用列車による連合輸送開始

このように、修学旅行は確実に復活へと進んでいったのでした(写真8)

(写真8 1951年中学校卒業アルバム)

      

3)神山中学校高等学校

 上賀茂神社からの払い下げによって設けられた立命館大運動場に、1941(昭和16)年に設立されたのが立命館第二中学校(神山学舎)でした。1947(昭和22)年に京都市からの委託を受けて男女共学の立命館神山中学校が、翌1948年に男子校の立命館神山高等学校が発足しています。
 神山中学校高等学校に関する資料はほとんど保存されていませんが、「神山学園新聞」(注13)によると、以下のような行事記録が紹介されています。

 1949(昭和24)年1018日 高校初の修学旅行(四国方面)

 1950(昭和25)年1024日 中学校初の修学旅行(四国方面) 高校も実施

 1951(昭和26)年1016日 中学校(東京方面)

          1020日 高校(九州方面)

 神山中学校高等学校は、19524月に立命館中学校高等学校(北大路学舎)へ合併されたため、1951年が最後の実施となりました。

 

 

(写真9 1951年神山中学校卒業アルバム)

 

 4.修学旅行の今

   このように初めての修学旅行は、厳しい交通手段によるハードな日程で実施されていましたが、それでも生徒たちにとっては学校生活における楽しい思い出として記憶に残されたことでしょう。

   立命館高等学校では、その後に関東や東北、九州へとコースを変えたり、見学旅行という名で中国・四国や伊豆大島へ行ったりとしていきますが、1971(昭和46)年の実施をもって中止されました。修学旅行検討委員会によるまとめでは、修学旅行が単なる観光旅行化して本来の学校行事としての目的に適さなくなったことなどを理由にあげて述べています。
 それが、中学校高等学校の男女共学化4年目(1992年)から生徒会を中心として積極的に復活への取り組みを行い、1994(平成6)年に自分たちの手でつくりあげる修学旅行として北海道コースで復活となりました。

   近年の修学旅行は、目的も内容・形態も多岐に渡り、単なる旅行から研修へと変化しています。海外研修は、立命館小学校から中学校、高等学校まで実施されるようになりました。学校行事における位置づけも高くなり、今後もまだまだ変化していくことでしょう。

 

201881日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 

(注1)学校新聞「立命館タイムス」第1号(昭和221127日発行)

(注2)昭和221126日付 大阪府教育部長の修学旅行自粛通牒

(注3)「国鉄乗車券類大事典」 JTB刊  2003年 

(注4)立命館タイムス第11号(昭和241215日発行)の座談会記事「修学旅行をかえりみて」では高校3年生240名中143名が参加と記述されているが、卒業アルバムの修学旅行集合写真には生徒128名しか写っていない。

(注5)「昭和を歩む野の小径」 上田勝彦著 

(注6)高校第1回卒業生今井昭三氏寄贈資料

(注7)上田教諭宅に残されていた訓示要旨メモ

(注8)当時は、まだ米穀通帳が必要で配給米制が続いていて、国民が自由に購入することができなかった。そのため、

(注9)米は各自持参とされていたが、持参せずに他の生徒から強引に拝借する生徒もいたそうである(昭和24年卒同窓会)。また、立命館タイムスの「声」欄には、「ボスを廃して学友会の情実を去れ」と題して次のような投書もみられる。「生徒の中にボス的存在ともいうべき生徒が少数おり、正しき者を妨害しているようだが、これは改正された。また、学芸部、運動部の各先生がその部員に対して情実が多分に有る様に思うが、これはどうかと思う。私は正しき美しき公平な学園を希望するものである。」 (第7号 昭和23718日発行)

(注10)学校新聞「立命館タイムス」座談会「修学旅行をかえりみて」第11号(昭和241215日発行)

(注11)この旅行に参加した高校第1回卒業生の集まり(2018417日開催)でのインタビュー。

(注12)日本国有鉄道(国鉄)宇高連絡船紫雲丸が1947(昭和22年)からの9年間で5度にわたって事故を起こしていて、1955(昭和30)年511日には小中学校の児童生徒教職員が108名も亡くなるという最大の被害をだした。

(注13)学校新聞「立命館神山学園新聞」第8号 (1952221日発行)
「神山の十年を偲んで  顧みるその足跡」

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