立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2018.03.14

<学園史資料から>亀岡市文化資料館 企画展示に学園史資料を提供、講演会を開催しました。

亀岡市文化資料館では、「山陰道鎮撫」から150年を迎える今年、201823日~311日まで「山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新-」企画展を開催しました。

展示には、立命館史資料センター所蔵資料とともに、立命館学宝となっている「山陰道鎮撫使絵巻」を公開。期間中の217日、224日には、立命館大学文学部の教員と史資料センター調査研究員が講演いたしました。

 

亀岡市文化資料館第63回企画展「山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新-」

 

今から150年前の慶応41868)年、西園寺公望は新政府軍側に立って山陰道の諸藩を従わせるために山陰道鎮撫を実施します。

京都を発った西園寺は、丹波馬路村(亀岡市馬路町)に逗留し、地元の郷士たちを配下に加えますが、その中に立命館創立者中川小十郎の父祖も加わっていました。

このことが、後に中川小十郎と西園寺公望を結ぶ縁となり、「立命館」誕生につながります。

亀岡市文化資料館では、山陰道鎮撫を中心にしながら、水戸藩主一橋慶喜(後の15代徳川慶喜)と郷士たちの関わり、丹波弓箭組と山国隊の関係、現在も続く「時代祭行列」での弓箭組の姿、未刊となった『山陰道鎮撫日記』に基づいた実地調査の結果などを展示しました。

丹波郷士たちは、最初一橋慶喜と関係を作る。その後「新撰組」に拷問をうける。

現代の「時代祭」で使用されている「弓箭組」幟。「山陰道鎮撫使絵巻」(立命館学宝)。

山陰道鎮撫行程を歩いて調査した展示と未刊となった『山陰道鎮撫日記』の実物

 

 

<2月17日(土)講演「幕末政局のなかの丹波の郷士-一橋慶喜との関係を中心に-」> 立命館大学文学部 助教 奈良勝司

展示期間中の217日午後2時、亀岡市文化資料館3階研修室で講演会を開催しました。

当日は地元の郷士に纏わるお話からか、70名の熱心な参加者で研修会室は超満員でした。

 講演は、「幕末政局のなかの丹波の郷士-一橋慶喜との関係を中心に-」と題して、山陰道鎮撫に同道する以前の丹波郷士たちの動きを、史料に基づき解説されました。

将軍になる前の一橋慶喜が、手兵を確保するために郷士に呼びかけ、武人として強い由緒意識を持つ郷士も喜んでこれに応えていたこと。このことが幕府中央の政争に巻き込まれる要因となり、間もなく慶喜からも見放され幕府からも目をつけられ、京都で新撰組の拷問までうける羽目になったこと。

国事に参与したいという由緒意識と政権中央の情報に疎く翻弄されてしまったというこの時の経験が、後に新政府の山陰道鎮撫への積極的な従軍や学問を重視する気風を醸成していったのだろうと説明されました。

 

 

<2月24日(土)講演「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」> 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

 

224日(土)午後2時から、58名の参加を得て「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」の講演を開催しました。

 

この講演は、立命館 史資料センターに所蔵されている『西園寺公望公山陰鎮撫日記』(昭和15年に中川小十郎の命により立命館大学予科石崎達二教授が執筆し第三校まで完成していたが、遂に出版されなかった)に記載された鎮撫行程を、史資料センター調査研究員の久保田謙次さんが2015920日~2016129日の期間で踏破した調査報告でした。

 

行程では、西園寺公望が投宿した本陣が今も現存していたり、公のエピソードが残っていたり、碑にその足跡が記録されていたりしており、山陰道鎮撫行程83日間を豊富な写真と解説で報告されました。

あまりに豊富なエピソードであったため後半は駆け足の報告でしたが、久保田さんが踏破した行程は改めて史資料センターホームページに掲載する予定です。

 

 

 

2018314

史資料センターオフィス 奈良英久

2018.02.27

<懐かしの立命館>学徒勤労動員中における犠牲者への鎮魂

ようやく判明した9名

戦後初めて立命館における「学徒出陣の実態調査」(注1をおこなったのは、1994(平成6)年のことでした。翌年が学徒出陣50周年の節目にあたっていましたので、本格的に調査をするには良いきっかけとなりました。その内容は常任理事会に中間報告され、概要は『立命館百年史紀要 第2号』(19943月)に掲載されました。しかし、その後追加調査はおこなわれず今日に至っています。すでに戦後72年が過ぎた今日、各学部に残されている勤労動員に関する諸資料は散逸し、その体験者も少なくなり調査を困難にしています。

今回、先の学徒出陣実態調査(1994年)をすすめている中で、勤労動員中に動員先で犠牲になった9名の方々が明らかになりました。それは、必ずしも空襲による犠牲者だけではありませんでした。勤労先の不衛生な住居環境やひどい食事によるであろう病死、また劣悪な労働環境、労働条件の悪さによる過労死などによって亡くなった人もおられました。

 学徒勤労動員は、1938(昭和13)年4月「国家総動員法」の公布とそれに続く、文部省通達「集団勤労作業実施に関する件が端緒(注2といわれますが、同調査で明らかになった点は、通年勤労動員が始まった1944(昭和19)年(注3以降、終戦までの間に犠牲となった人たちでした。本稿は、これまでに判明した史資料センター所蔵の資料と証言を元に再構成したものです。

ひき続き、学徒勤労動員の「端緒」といわれる『国家総動員法』公布(1938年)から終戦(1945年)までの本格的調査、研究が前進することを願っています。

 

1.豊川海軍工廠空襲による犠牲者

 

 豊川海軍工廠は、主に航空機や艦船に搭載する機銃やその弾薬包、信管を生産していました。さらに1941(昭和16)年12月には新たに設置された光学部では、双眼鏡や測定儀、磁気羅針儀などの航海兵器を製造していました。学生たちは主に光学部での勤労でした。

 

 そのなかの学生の一人は「わたしは豊川海軍工廠ではフライス盤で長さ1m、直径10cm余の鉄管の中央部に7cm×10cm位の平面に削る作業でした。その作業は人間魚雷の潜望鏡のレンズにあたる部分を造っていた。」と語っています。(4

〔豊川海軍工廠の学生たちの寮にて〕

 1945(昭和20)年87日、豊川海軍工廠は空襲を受けます。

   1013分~1039分(26分間) 出撃米軍機131機、投下爆弾816.8トン

(注:詳しくは、HP「懐かしの立命館 OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲」参照)

この空襲で4名の本学学生が犠牲になります。

 

「その爆撃が終わってみたら、立命館の一緒にいた連中が4人おらんということがわかり、早速探しました。私は、相原和男君が私の隣の部屋で寝泊りしていたもんですから、どうしても見つけたらなあかんと思って、工場の東から西まで3日、4日かけてずっと遺体を探し回りました。空襲が10時か11時ごろでしたから、何も食べずに広い海軍工廠の工場に転がっている遺体をずっと見て回りました。随分沢山の遺体の顔を見ましたが、『違う』『ここにはない』といって必死で探し回りました。結局4人はわからずじまいで、とうとう見つけ出すことができませんでした。本当に遺族の方々にお詫びしたい気持ちです。」(同級生T氏)

 

空襲の犠牲者となった学徒は次の方々(敬称略)です。

石川巌 津野森正 本田義次 相原和男  

                                              

(愛知県豊川市に建立された慰霊碑)

最後の母への言葉

なつかしい郷里のお母さん 

遠い豊川の地より

お元気で昭和2011日の元旦を、お迎え下さる様お祈りします。

何時も思うことはお母さんのことであります。

僕の健康を祈って下さるお母さんお元気で 

遠い豊川の生産戦線より  義次  (本田義次の「日記」より)

 

 

2.東洋高圧工業(株)における犠牲

 1944(昭和19)年、立命館専門学部工学科化学工業科の学生達は、九州の3企業の工場に分かれて動員されました。その3つ工場は、東洋高圧工業株式会社大牟田工業所(福岡県大牟田市)34名、三菱化成工業株式会社牧山工場17名(福岡県八幡市枝光)、日産液体燃料株式会社若松工場17名(福岡県若松市二鳥)です。

(勤労動員(昭和19年)を前に化学工業科の仲間たちと)

この動員された3工場の1つ東洋高圧工業㈱大牟田工業所では2名の学生が犠牲になったと思われます。

 

一人は辻勇(敬称略)です。辻たちは1944(昭和19)年6月から1945(昭和20)年6月下旬まで勤務します。辻は1945(昭和20)年5月に過労が原因で死亡したと思われますが、学籍簿には「1945(昭和20)年527日大牟田ニテ動員中死亡、除籍」と事実のみが記載されています。しかし、その死を同級生は次のように語っています。

 

1年間硫安硫酸の製造に従事。辻勇君を病気で失う。食料不足と闘いながら奮闘した。

A 昭和20年専1電)

東洋高圧工業にて1名(辻勇)が過労死。製造機械が老朽のため生産量が低下。

S 昭和20年專1化工)

 

動員先の労働は、昼11時間、夜間13時間の連続無休作業(注5という過酷なものでした。また食事は満州大豆を多く混ぜただけのお粗末な食事でした。(注6おそらくは東洋高圧工業㈱大牟田工業所も同じように厳しい環境であったと考えられます。そんな劣悪な環境の中で辻は亡くなったと考えられます。

 

もう一人はH(敬称略)です。

H爆撃で死んだと聞いた」(注7と回想されていますが、Hは立命館の学生ではなかった、とも言われています。なぜなら、立命館の学生たちは東洋高圧工業㈱大牟田工業所を1945(昭和20)年6月下旬に引き上げたので、1945(昭和20)年87日の大牟田空襲には遭遇していません。したがってHは立命館の学生ではないのではないか、との見方(注8です。

しかし、その後発見された『督学報告工学科動員実施調書』1944<昭和19>6月)には、小さく尚書として「派遣期間ハ成績良好ナル場合ハ1ケ年間ニ延長する予定」と記載されています。Hは成績良好者として1945(昭和20年)6月以降も残留し、大牟田空襲の被害を被った可能性もあります。現在も調査中ですが、事実を明らかにすることがHに対する鎮魂になると考えています。

 

 厳しい勤労動員でしたが、動員先ではこんなほのぼのとした逸話も残っています。昭和196月、立命館専門学部工学科化学工業科の学生TO(昭和20年工業化学科卒)は、日産液体燃料㈱若松工場(現・北九州市若松区)に勤労動員で勤務していました。その時の思い出がある雑誌に掲載されています。

 

「北九州もB-29爆撃機が飛来し、毎日が灰色だった。ある夏の宿舎の灯火管制の下、TOさんが弾くマンドリンの東京娘(注9はわたしの胸にやさしく明かり点してくれた。この若き日の懐かしい思い出の色を今も忘れることができない。」(『ジパング倶楽部』20166月号) 

 

 

3.名古屋造船所における犠牲者

 

名古屋造船㈱は1941(昭和16)年に設立され、1964(昭和39)に石川島播磨重工業㈱と合併し、同社名古屋造船所となります。その後、1972(昭和47)年に同社名古屋工場となります。現在はIHI愛知工場となっています。

1944(昭和19)年に名古屋造船㈱での勤労動員中にT(敬称略)は死亡します。同級生だったKTMTは同社の劣悪な労働環境をこう語ります。

 

 寄宿舎に入って夜の食事に食堂に行きました。豆粕(まめかす)のたくさん入ったご飯が丼鉢につけてあるが、蝿がいっぱいたかっていてとても食べる気がしないが、それでも上の方をすてて中の方を少したべましたが、とてものどを通らなかった。寄宿舎の部屋は蚊がぶんぶん飛び手足、顔までさされて一晩中蚊との闘いだった。寝不足と空腹、暑さに困惑した。」(K昭和20年專1法) 

 

 「宿舎は埋立地の用水を飲料水としていたため、入寮すると全員下痢をしたが、診療もしてもらえなかった。全員で会社に待遇改善をもとめますが一向に改善されず、友人のTさんは亡くなった。Tさんが亡くなった日に初めて医師がやってきた。会社側と待遇改善を話し合いますが、一向に改善される様子もないので、全員学校に引き上げました。」(M昭和20年專1法) 

 

 それまで会社に労働環境の改善を交渉していた学生達は、一向に改善しない会社に対して憤慨していました。その交渉途中にTは病気で死亡しました。この事をきっかけに学生達は「一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲ」ました。学校に引き上げた後、リーダーは退学処分を受けました。また、学生たちの行動に理解を示していた立命館出身の先輩社員も社内の非難を受け、辞表を提出せざるを得ませんでした。学校に引き上げてきた彼らは、すぐに別の会社である愛知時計電機(株)に動員されました。動員先の愛知時計電機㈱では、会社の幹部や工員達がみな名古屋造船㈱での一件を知っており、彼らを白眼視したといいます。さらに、憲兵や特別高等警察(特高)も危険思想を持つ集団としてその動静を監視していました。その時の様子を『督学報告』では「立命館学徒ノ状況」として次のように報告しています。

 

「会社ノ幹部ヨリ工員ニ至ルマデ、名古屋造船ニ於ケル経緯ヲ知悉(ちしつ)シテ事毎ニ白眼視スルト云ウ」、その事実に対して大学側は、「不憫(ふびん)ニシテ涙ヲ催ス程ナリ」と学生に同情し、学生たちのとった行為「名古屋造船ノ不誠意トソレニ依ル学友ノ死ニ同情シテ一時ニ感情ノ激発セルモノニシテ決シテ悪質ノモノニ非ズ」と断じています。(注10)

 

戦争末期の情勢を考えると学校側の学生たちに対する精一杯の弁護だったのかもしれません。名古屋造船㈱のひどい労働環境のために亡くなったTも犠牲者であると考えます。

 

 

4.㈱播磨造船所における犠牲者

 

兵庫県相生の村長唐端清太郎を中心に相生の繁栄を図って出資者が募られ、1907(明治40)年に播磨船渠()が設立されます。第一次大戦後1916(大正5)年に鈴木商店が買収し㈱播磨造船所となり、1918(大正7)年 帝国汽船()に合併し、更に1921(大正10)年には()神戸製鋼所と合併し播磨造船工場となります。1929(昭和4)年には同社から独立して()播磨造船所となり、戦後1960(昭和35)年12月に石川島重工業と合併します。

 『㈱播磨造船所50年史』には、勤労動員された生徒たちの様子を次のように述べています。

「学徒動員(学徒勤労動員)は国家動員計画の最後のもので決死の段階に入った1944(昭和19)年より各学校の学生生徒が入社した。制服姿の青年学徒が船台(せんだい)上でハンマーやスパナを使い、炎天下あるいは寒風のもとで働く姿はりりしく、また悲壮なものであった。」(『㈱播磨造船所50年史』)

 

立命館第二中学校(京都市の上賀茂に設立され、戦後は立命館神山中学校・高等学校となる)の勤労動員数は278名で、その内訳は3年生138名、2年生140名、合計278名となっています。生徒達の大部分は播磨造船所興亜寮(のちに工和寮)(注11に入寮し終戦まで勤労動員を続けます。当時、播磨造船所に勤労動員されたKK(昭和21年二中)は、次のように回想しています。

 

「この寮は埋め立地で木造二階建て、満潮時は海水がすぐ近くまで押し寄せてくる劣悪な環境で衛生設備も悪く、また給食はとうもろこし入りの丼鉢一杯と一汁一菜とひもじい思いをした。昭和19年夏、赤痢が発生し二人の生徒が死亡した。また、同年10月鋳造(ちゅうぞう)工場で溶解炉のクレーンが転覆し数名の生徒が大やけどを負ったこともあった。昭和20年になると再三の空襲があって、終戦まで惨々な日々であった。」(立命館中学校・高等学校の同窓会報である「清和会報No111991年発行)

 

この死亡した学徒二名は勤労動員下での犠牲者といえます。調査では、このお二人はKOSTと考えられますが調査中です。

 

 以上、勤労動員先で犠牲になったといわれていた9名の方々の調査をすすめてきました。まだまだ真実にとどかない部分もあり、引き続き調査が必要であると思っています。

 今回の調査報告によって少しでも犠牲者への鎮魂歌となれば幸いです。

20182月 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重



注釈

(注1)本学がおこなった「学徒出陣」調査では、全て在学中に兵役に就いたことを「学徒出陣」としており、1936(昭和11)年から1945(昭和20)年までの期間を調査範囲としています。一般的には1943(昭和18)年102日に「在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布された以降に徴集された学徒を「学徒出陣」と考えることがほとんどです。

(注2)学徒勤労動員は「1938(昭和13)年4月に『国家総動員法』が公布され、同年6月に文部省は全国の学校に対して『集団勤労作業実施に関する件』を通達し、後の学徒勤労動員の端緒を開いている。」(『立命館百年史 通史一』)としています。

(注31944(昭和19)年37日「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、417日に文部省訓令第11号「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒勤労動員ニ関スル件」がだされます。この訓令は「今や中等学校程度以上ノ学徒ハ挙テ常時勤労ソノ他ノ非常任務ニ服スヘキ」として、学徒勤労動員の通年化を各学校に命令しました。

(注4)立命館大学昭和22年専経同窓会「学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲を語る」から引用 

(注5)立命館は1944(昭和19)年6月に「立命館督学制度」を新設しました。この督学制度とは「決戦下ノ学園全般ノ教授、訓育、修練、勤労作業及ビ保健等ノ振興ニ付之ヲ査察、督励シ、(中略)戦時国家ノ緊喫要請ニ綜合統一セシムル」ことを目的として作られました。これにより勤労動員先の実態は毎月報告され、戦時下の限界はあるものの学生、生徒の労働実態、環境衛生などが一部分はわかりました。その『督学報告書』は発見され、重要な資料として史資料センターに保存されています。

(注6)『学徒出陣の実態報告書』の勤労動員体験者アンケートより

(注7)『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集 1977年より

(注8)大牟田市では、1944(昭和19)年78日未明の米軍B29が初めて来襲し写真撮影偵察して以来、米軍による空襲は、1121日に三池・通町空襲、1945(昭和20)年 618日未明、727日未明、730日、87日、88日、88日夕刻と連続的に空襲を受けました。東洋高圧工業㈱大牟田工業所に勤労動員されていた学生達は、1945(昭和20)年618日の空襲に遭遇しますが、幸い学生達に被害はありませんでした。しかし、大学側は学生達の安全を考慮して6月下旬に京都に引き上げました。したがって『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』のいう87日の大牟田空襲に立命館の学生は遭遇していない、という見方があります。

(注9) 「東京娘」  当時流行した歌謡曲

(注10)昭和198月に督学報告マル秘『中京方面出動学徒勤労状況視察報告』(立命館)に「愛知時計電株式会社」視察報告書があります。その報告書の中で、いかに名古屋造船㈱の医療設備がひどく死亡したTさんが充分な治療受けることが出来なかったかを、同じように病気になったTSさんの例をあげて報告しています。

 「本校TSハ大腸カタルニテ入院シ居レリト聞キ病床ニ之ヲ見舞ヒタルニ、充分手厚キ看護受ケツツアリ、・・・TS君の父母交々、『名古屋造船ニテ立命館学徒1名死亡セシ時ノ実情ト比較シテ、之ナラバ安心シテ我ガ兒(子)ヲ託シ得ル、名古屋造船ハ誠ニ冷淡ニシテ何等ノ設備モ無ク、御話ニナラヌ会社デアル』ト申シ居タリ」

又,生徒たちが名古屋造船でおかれていたひどい状態と会社の体質についても報告され、抗議をして学校に引き上げた学生たちの行動を擁護しています。

「重役ハ・・・・学徒ノ心理ヲ知ラズ設備モ不完全ニシテ、名古屋地方ノ人々ハ名古屋ノ三大地獄ノ随一ナリト称シ、何人此ノ会社ニ働クヲ欲セズ」のような会社である。このような会社であるため医療設備が不備なため「立命館学徒1名ノ死亡者ヲ出シタリ、之ニ憤慨シテ一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲタ者ナリ」

(注11)興亜寮(のちに工和寮)の入寮者は主に勤労学徒、一部一般工員でした。所在地は工場より少し離れた相生市千尋にあり、木造、瓦葺、2階建で、約4622坪の土地に19棟建設されていた。各地から動員された学徒が入寮していたと考えられます。

参考

 『立命館百年史通史Ⅰ』

 『督学報告』 昭和19年度 百年史編纂室編纂

 『百年史百年史紀要2号・別冊』 百年史編纂室

 『播磨造船所50年史』播磨造船所50年史編纂室

 「清和会報」11号(1991)立命館清和会

 『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集

 『大牟田空襲の記録』大牟田の空襲を記録する会

 『学制100年史』文部省

 『学制120年史』文部省

 『学徒』総員・学徒出陣』本間敏矩著

2017.12.20

<懐かしの立命館>戦後初期の立命館中等教育を支えた女性教職員たち

1945(昭和20)年815日は、新しい平和日本の出発点でした。教育の民主化も連合軍の占領政策の一環としてさまざまな政策が実施されました。新しい教育制度のもと、女性の教育への参加も急速に進みました。立命館学園においても「平和と民主主義」を教学理念に掲げ、多くの課題と向かいながら新たな学園づくりへと進みだしました。それは決して明るいだけの道ではありませんでした。

ここでは、戦後まもない頃に付属校の教育改革に参加してきた女性教職員の姿を紹介していきます。(なお、紹介する方々は、内容によって実名表記とイニシャル表記の方とに区別しています)

 

1)戦前までの立命館中等教育と女性教諭

 立命館の付属校の歴史は、1905(明治38)年、当時の大学敷地内に設立された清和普通学校に始まります。その後、校舎は北大路(当時の住所は上京区小山上総町)に移され、商業学校や夜間部などを設立し、また上賀茂(神山(こうやま))に拡大移転され、校名変更も経て第一から第四までの立命館中学校と工業学校に拡大していきました。

旧学制では、小学校以後は男女別学のため、立命館の付属校も男子校として発展をしてきました。そのなかにあって、極めて少数ながらも女性教諭が中等教育を支える一員として勤務していました。
 (ア)サウター教諭(1909年~1931年まで在職)英語科で主に上級生の英会話担当。

        詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>「明治・大正における立命館中学の英語教育とそれを支えた外国人女性教員」参照。

 (イ)H.T教諭(1928年在職)英語科で主に1,2年生の発音・綴り方担当

    上記サウター教諭と共に当時の新聞には「中学校に婦人教員を採用する例は他に一二あるが、我京都府下では立命館中学が最初のものであると云ふ」と紹介されています(注1)。翌年の教職員名簿に氏名が記載されていないので在職期間は不明。

 (ウ)S夫人教諭(1929年在職)英語科で商業学校の英会話担当

    当時の立命館大学で教鞭をとった講師のS氏夫人とだけ紹介されていて、名前も在職期間も不明。(注2

 (エ)M.T教諭(1944年まで在職)中学校と商業学校の武道(杖術)担当。

    薙刀術の指導者として高等女学校や女子師範学校、大日本武徳会薙刀術教員養成所主任教授などを歴任。立命館では1928(昭和3)年に中学校嘱託として指導を始める。その後に他校へ移るが、戦争の長期化によって武術を教えられる男性教員が応召されて減少したため、1941(昭和16)年から再び女性教諭が男子生徒に杖術を指導するような状況になった。在職期間は不明。

 

 2)戦後初の女性教諭たち

   戦後における中等教育の大規模な再編で、義務教育の年限延長の基本方向のもと、旧制中学校は新制の中学校(1947年)と高等学校(1948年)に転換されます。これによって立命館でも北大路に中学校・高等学校と夜間高等学校、上賀茂に神山中学校・高等学校と5つの付属校が開校されることになりました。但し、神山中学校は当時の四カ村(旧愛宕(おたぎ)郡の岩倉村・鞍馬村・静市野村・八瀬村)との委託契約で生徒募集を行ったため、立命館と名はつくもの男女共学で地元の公立中学校的位置づけになっていました。その他の付属校は男子校のままでした。

   新学制になってから立命館は女性教諭を採用しています。新憲法の下での男女平等と、中学校の教育課程に音楽や家庭の教科が新らたに設けられたことなどが理由と考えられます。1947新制中学校の設立に併せた女性教諭の採用は以下のとおりでした。

(ア)S.K教諭(中学国語担当)

S.K教諭は1943(昭和18)年に女子高等専門学校を卒業し、1947(昭和22)年4月に立命館大学文学部二部(夜間)の国文科に戦後初の立命館大学女子学生として入学。その9月に立命館中学校に就職。S.K教諭を知ることのできる資料が立命館タイムス(注3)に2つ残されています。1つは短編小説(注4)で、もう一つの記事は「先生の言葉」というコーナーです(注5)。そこには戦後の新しい時代を生きる女性らしい視点で男子生徒たちを励ます気持ちが表されていました。

「まあ、男のくせに度胸がないのねえ。間違ってもいいから堂々と大きな声で答えるんですよ。

授業中の態度==多分それは学業への熱心さを表しているんじゃないでしょうか。

電車の中でつまらない流行歌を歌っている学生がいるわ。立命館の生徒じゃないかしら。」 

S.K教諭は1949(昭和24)年8月退職後、立命館第一中学校時代からの美術教諭で後に公立高校へ移られたK.Y教諭(日本画家として後に京都市文化功労者表彰を受ける)と結婚されています。在職時代にロマンスが生まれていたのかもしれません。

(イ)A.T教諭(中学理科担当

女子専門学校生物科を卒業後に就職。戦後まだ北大路学舎に在籍していた旧制中学校の生徒たちによって発行された「立命館タイムス」第1号にはA.T教諭が顔写真入りで「生理学より見た良心について」と題した投稿をされています。新しい時代のなかで新しい良心が育っていくという希望に満ちた熱い論調の内容です。翌1948(昭和23)4退職

(ウ)Y.F教諭(神山中学家庭担当)

戦前に結婚、戦後に教職へ復帰。就職の翌年に神山中学校となってからも教諭を続けましたが、1952(昭和27)年の神山中高の廃止・北大路併合によって北大路中高事務職員となり、その後は大学職員として定年退職。

 

 3)新風を吹き込む女性教諭たち

   占領下の軍政部の強い指導や勧告により、公立の新制中学校が劣悪な施設・教員という条件のもとに発足しました。京都市では194755日に新制中学校が一斉にスタートするも現場は何もかもが大混乱であったようです。そのため、翌年にはこれを敬遠して多くの男子の優秀な志願者が、立命館へ殺到してきたと考えられます。1948(昭和23)年の中学1年の新入生を迎えるにあたって、立命館中学校では執行部の意気込みが違っていました。この年度に入学の新1年生たちは、以後、中高合わせて6ヵ年の間、さぞかし注目されたことでしょう。
 新しい教育は女性の働く場にもなりました。当時の様子は、時岡喜代治元教諭の回顧録(注6)には「この年から公立校のように男女共学にこそ踏み切れなかったものの、男子校の立命館に女性教諭を一挙に5名も採用するという英断が下され、新1年生の学級担任や教科担任の決定にもそれなりの配慮がなされたようです。」。また、次のようなことも述べられています。

  「教員室の雰囲気も、期待を担った紅顔の新1年生と女子教員の出入りによってガラリと明るく変わり、前年度に較べて、私たち職場の空気も180度の転換を余儀なくされたように思います。よかれあしかれ、この年度からGHQ(連合国軍最高司令部)指令の新教育ムードが北大路学舎にも漲り出して、カリキュラムとか、ガイダンスと言った耳慣れぬ言葉がよく口に出されました。」

 

 (写真1) 新制高校の第1回卒業生となる1950(昭和25)年の高校卒業アルバム

2列目の右から友松教諭、E.N校医、Y.I教諭、E.K教諭、A.N教諭

3列目の右から2人目は後に中高校長となった上田勝彦教頭

 

   194841日付で採用された5人の女性教諭は次の方々でした。

  (ア)友松とし教諭(中学国語担当)

     女子専門学校を卒業後、教職につかれるも結婚などで一時離職後の就職で、生徒たちにとって母親のような存在。就職後に図書館司書の資格も取得、司書兼任で図書館利用の啓蒙に務められました。高校新聞局発行の立命館タイムスに投稿された記事からは、当時の学校の様子もよく知ることができるので、以下に主な見出しを紹介します。

「図書館あれこれ」第47195411月発行

「愛の泉はここにあり」第4819552月発行

「武谷三男編“死の灰”について」第4919553月発行

「青春の日によせて」第501955423日発行

「高校生の読書と図書館―調査にあらわれた実態―」第5119555月発行

「スライド設備 本校図書館に完成」第5719567月発行

「第二回優秀学校図書館に本校指定さる」第59195612月発行

「図書だより・竣工の喜びと新刊紹介」第74195912月発行


    こうして、友松教諭は中高の女性教員として最初の定年退職者となりました。

(写真2) 1955(昭和30)年中学校卒業アルバム 学級担任として  

 

(イ)E.K教諭(中学音楽担当

戦時中に臨時教員養成所を終了。京都市内の小学校を勤務の後に立命館へ就職。新制の高校教育課程で「芸能」(芸術とは呼ばれず)として設けられていたのが図画と書道で、音楽はまだ設定されず、ピアノはあるが使用できないような学校設備でした。E.K教諭は、生徒の大半が戦時中の軍歌や流行歌くらいしか歌えない状況にあった高校に音楽部を創設、その後は合唱部や軽音楽部を指導して音楽普及に務め、高校合唱部を部員40名もの大所帯に育てあげられました。立命館タイムスへの投稿「合唱礼賛」(注7)にはその熱い思いが語られています。1959(昭和34)8月に依願退職

(写真3) 1950年高校第1回卒業アルバム 音楽部

 

(ウ)A.N教諭(中学数学担当

女子専門学校を卒業と同時に就職。1951(昭和26)8退職

(写真4) 1951年中学卒業アルバム 中学所属の教職員、2列目の左から2人目がA.N教諭で、その隣がK.I教諭。1列目の右から3人目が友松教諭。3列目の右端が小川看護婦で左端がM.S看護婦。2列目の右端がK.N職員、3列目の右から2人目がR.N職員

 

(エ)K.I教諭(中学理科担当

   A.N先生と同じ学校(生物科)を同期で卒業、就職。1954年5月退職

(写真5) 1950年高校第1回卒業アルバム 生物部

 

   (オ)K.U教諭神山中学体育音楽担当

東京の女子体育専門学校中退して神山中学校助教諭で就職。1952年の神山北大路合併によって高校(北大路)専任講師に。その年6月に退職。神山中高当時から同じ職場にあったS・T教諭と結婚されています。立命館中高で誕生した職場結婚第一号でした。

当時の厳しい教育環境や教員の労働条件の様子は、上田勝彦元教諭(教員生活3年目の31歳で高校教頭を務め、その後に中高校長となる)の回顧録に詳しく述べられています。

「授業では外部からの騒音のひどいのに驚かされた。市電に面してコの字型に建てられた校舎に交通騒音がもろにぶつかって反響しあった。そのうえ校庭即運動場であったので体育での掛け声や歓声も教室に入り込み、普通の声では後ろに届かぬことがしばしばであった。(中略)

生活物資の不足と激しいインフレにはいささか閉口した。(中略)年二回ベースアップをしてもらったこともあったが焼け石に水で、遅配の場合は前借や昼食抜きの日が続いた。耐えられなくなって学校をやめる同僚もあった。(中略)新制の中学校、高等学校及び夜間高等学校が生まれ、これにともない五人の女性教員が中学校に迎えられて清新の気がみなぎった。また、教員の再教育が始まり、新憲法・教育基本法に基づく新教育が真剣に追求され始めた。こうした動きのなかで起こったのが学校民主化の動きであった。(中略)平均年齢が府下で最も高く50歳を超えるような教員集団のなかで徹底した議論を行い、民主教育を推進した。」(注8

また、上島有元教諭は「教員間の意識格差があります。一方は戦前からの禁衛隊を正史と考えている教員がいる。他方は戦後の平和と民主主義を実践しようとする僕ら若い世代の教員がいる。民主主義論をめぐる両者のズレが歴然とありましたね。」と座談会で語っています。(注9

 

戦前戦中とさまざまな人生を送りながら同期となった5人の女性教諭たちは、戦後の新しい教育と時代づくりに挑戦してきたのでしょう。しかし、現実的にはすべての面で教育の道を歩み続けていくには厳しい条件がそろい過ぎていました。その結果、それぞれの人生へと分かれていくことになったと考えられます。

 

 4)生徒の成長を支えた医務局(保健室)と看護婦 
  1943(昭和18)年末から翌年にかけて戦局の悪化に伴う看護婦不足が叫ばれるようになり、立命館のなかでも第二中学校の状況は厳しく、1944(昭和19)年4月では「看護婦一人も勤務シ居ラズ。医務室ヲ利用センコト無シ」とあり、6月には「時局の影響ニ依リ看護婦ノ雇入レ困難ナル為」(注10)という状態にまでなっていました。この時期に立命館に就職し、北大路学舎で長く生徒たちの健康管理に務められたのが看護婦(現在は看護師)の小川ステさんでした。

  小川さんは、長野県出身で京都府立医科大学附属病院看護科を卒業後、満州の炭鉱の病院に一年間勤務。退職後、19444月から看護婦として北大路で勤務。その後、広小路と衣笠に勤務し定年退職。一緒に写真に写るのはM.K(旧姓S)さんです。小川さんと同期で看護婦として就職。長く北大路保健センター(保健室)に勤められました。

 

小川さんは、座談会と学園広報のなかで貴重な体験と大切な思いを語っておられるので、その一部を紹介します。
 「戦争も終りに近い頃で、生徒は工場動員で出かけたり、残された生徒は軍事教練の多い頃でした。勤務は大学とかけもちで、動員先へ救護班を編成して出かけた事もありました。」

 「私は今の二条駅の前に下宿していたのですが、中学校の医務室は『救護所』になっていましたので、警報が鳴ると真夜中でも北大路まで歩いていきました。あの頃は責任感を植えつけてられていました。」

 「そして終戦。MPが学園へ乗り込んで来て、何か隠していないか、麻薬はないということも調べて、校庭に武具類をみんな集め、ガソリンをかけて燃やしました。進駐軍が来て万一のことがあったら自殺するためにというので、青酸カリを持たされていました。『お国のため』と覚悟していましたので、それを何とも思わなかったですね。それでも炎を眺めながら、これから世の中どうなるのだろうか、学校は継続するかしらと不安に思っていました。」(注11

  北大路在職当時、クラブ活動でやんちゃだった卒業生たちは、小川さんを姉のように慕っていて、高校時代のよき思い出として忘れることのできない方だと話しています。

「中高生徒と共に遊び、学び、大学生たちからも多くのことを学んだことを振り返って、人の創る歴史の流れを重く尊く思います。(注12

  その小川さんが、北大路勤務の後半には卒業アルバムに「小川寿テ」と寄せ書きに記名されています。戦中戦後を生徒と共に歩んでこられた小川さんの感謝の気持ちだったのかもしれません。

(写真6) 1950年高校第1回卒業アルバム 医務局

左から小川さん、M.Sさん、E.N校医

(写真7) 1955(昭和30)年創立50周年記念の全教職員集合写真

女性の教諭で写るのは友松教諭とE.K教諭の二人で、他の女性は職員たち

 

    戦後の女性専任教諭は、友松教諭が退職されて以降はなく、次に専任採用されるのは20年後の1985(昭和60)年で3名(英語科・数学科・技術家庭科)でした。1988(昭和63)年の男女共学と学校移転を経てまもなく30年が過ぎようとしています。今では多くの女性教諭と女子生徒たちの姿が当たり前の光景となった立命館中学校・高等学校の教育には、こうした女性教職員たちが厳しい環境のなかで基礎を築いてきた歴史も忘れてはならないのでしょう。

201712月20日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 

(注1)「日出新聞」192842日付 (立命館百年史 通史1 p.556

(注2)立命館学誌 第124号(1929515日)で紹介

(注3)「立命館タイムス」は1947(昭和22)年11月から1976(昭和51)年まで発行された生徒の自主発行の学校新聞。戦後の混乱期のなか、当時の高校生が何を考え、悩み、怒りをもってきたか。その苦闘の跡を如実に伝えており、戦後の立命館高校の歩みを知るうえで欠かせない資料。

(注4)「崩れた城壁」立命館タイムス 第2号(19471213日)

(注5)立命館タイムス 第3号(1948131日)

(注5)創刊第1号は19471127日発行。

(注6)時岡喜代冶「北大路学舎の思い出」立命館学園広報第127 1982120日発行

(注7)立命館タイムス 第6号(1948513日)

(注8)立命館中学校高等学校元校長上田勝彦著「昭和を歩む野の小径」p125

(注9)立命館百年史紀要第8号 立命館中学校・高等学校史研究会

     座談会「初期の立命館中等教育について」p86

(注10)「1944年 督学報告綴」(史資料センター所蔵)

(注11)立命館百年史紀要第11号 座談会「女性職員に聞く敗戦前後の立命館」P120137

(注12)小川ステ「定年退職にさいして」立命館学園広報第32号(1981321日号)

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