立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2017.08.01
<懐かしの立命館>立命館中学校秘話ー吉田中学校の顛末記ー
はじめに
明治38(1905)年9月 立命館中学校・高等学校の前身である「清和普通学校」が誕生します。最初の年の入学者は50人。ところがその翌年の明治39年11月には285人が在学することになります。(校名は「清和中学校」に変更)
一気に在学生が増えた理由は、その年京都にあった私立「吉田中学校」廃校によって大量の転入者を受け入れたためでした。
そのため明治39~41年の卒業生(明治39年度44人、明治40年度35人、明治41年度35人)も、吉田中学校からの編入者でした。
最初期の立命館中学校・高等学校の生徒のカラーは、吉田中学校在学生のカラーとほぼイコールであったのです。
吉田中学校とはどんな中学で、なぜ閉校になったのか?そしてなぜ清和中学校が多くの転入生を受け入れることとなったのか?
今回は、立命館中学校・高等学校の創立期で重要な役割を果たしたが、『立命館百年史 通史一』では簡略された私立吉田中学校についての顛末記です。
明治39年10月22日 吉田中学校関係者、文部省に廃校命令撤回を陳情
(明治45年当時の文部省外観:国立国会図書館ウェブサイトより転載)
我々陳情団は、程なく役人に導かれて一室に通された。われわれの緊張は極点に達していた。まもなく入ってきたのが澤柳文部次官(澤柳政太郎)(注1)と普通学務局長でした。
陳情団は吉田中学校の廃校命令の不当を訴え、撤回を力説しました。黙って聞いていた文部次官は次のように応えました。
「君たちの主張はよくわかった。文部大臣(牧野伸顕)に自分が必ず取り次ぐ。学生の措置については善処する。」
それで一同安堵したものの宿舎に帰ってから付き添いの西見芳宏先生から口約束だけでは不安が残ると指摘され、先生の意見に一同一致しました。
そこで再度文部省に書面での約束をもらおうと陳情にいくことにしました。しかし文部省の応対者は、省議未決というばかりで相手にしてくれません。
文部省陳情3日目の10月25日、一同必死の覚悟で再び文部省に行きました。ようやく昼頃になって総理大臣(西園寺公望)の秘書官中川小十郎が会ってくれました。(「石館久三氏の追想より」)(注2)
その時の中川小十郎との出会いが吉田中学校生徒に展望を与え、清和中学校(その後、立命館中学)の発展につながることになります。
以下、吉田中学校開校に遡ってみましょう。
明治36年12月8日 私立吉田中学校の開校認可
私立京都法政学校(現在の立命館大学)が仮校舎の清輝楼で講義がおこなわれ、並行して広小路の新校舎に移転の準備がすすめてられていた明治34年5月頃(注3)、後に私立吉田中学校(以下、吉田中学という。)となる開成学校が広小路学舎近くの河原町通荒神口東に開校されます。
この開成学校は、11月には施設の狭隘から下京区三条通白川橋東二丁目(現在の東山区)に移転します。
(白川橋東側付近)
また、翌年には上京区吉田町字中大路(現在、左京区吉田中大路町)に移転し、校名を吉田学院と変更します。その後吉田学院を吉田中学と校名を変更して設置認可申請をおこないます。申請概要は次の通りです。
名称 吉田中学
生徒定員 500名 明治36年度300名、37年度100名増員、38年度100名増員し500名とする。
開校年月日 明治36年9月1日
場所 京都市上京区吉田町字中大路
申請者 小谷時中 (注4)
渡邉芳次郎、渡邉廷冶郎、渡邉新次郎 (注5)
戸谷松尾、戸谷治忠、戸谷實也 (注6)
申請日 明治36年4月25日
(『立命館百年史資料編1』)
(写真3 吉田中学校跡地付近)
吉田中学は、明治36年12月8日に認可されますが、開校時期は明治37年1月1日と通知されました。
明治36年4月25日付稟申私立吉田中学校設置及ビ位置選定ノ件認可ス 但明治37年1月1日ヨリ開校スヘシ 明治36年12月8日 文部大臣 久保田 譲
(「京都府公文書」)
その後、徴兵令上等位が認定(注7)され、このころから生徒数も安定します。
明治39年8月、9月の吉田中学の生徒数は、第1学年99名、第2学年81名、第3学年99年、第4学年100名、第5年66名、他に補習科(注8)4名、合計449名の生徒が在学していました。
明治39年10月6日 吉田中学内の抗争と不正行為発覚
学則をもち、学則に即して授業をすすめていた吉田中学ですが、徴兵令上等位認定を受けた頃から、校主派と校長派との軋轢(あつれき)や校主による不正行為が明らかになってきました。
<吉田中学同盟休校事件発生>
校主派と校長派の軋轢は、明治39年「吉田中学同盟休校事件」として表面化しました。
明治39年10月6日付、「日の出新聞」(現在の京都新聞)報道によれば、
吉田中学の職員(教諭)間に軋轢(あつれき)を起こしたため3日間の休校をやむを得ざるに至った。
校主(理事長)である渡邉廷冶郎氏は教育事情にわずかな経験も無く、教育事情に貢献するというよりは、むしろ教育なる美名の下に営利を目的に校主を引き受けたとうわさされるほどであるから校紀(学校内の風紀)厳粛にはなっていない。
そのためたびたび京都府より校長に厳重に校紀を粛正するよう命令があり、校長北尾鼎(かなえ)は校紀の刷新を図ろうとするが渡邉校主と相容れないものがあった。
さらに、教員間は校主派と校長派に分かれお互い反目していた。
ついに、不満を抱いた渡邉校主派は明治39年9月下旬、北尾校長が東上するのを好機として白井教頭と謀り、校長の帰京後、校長および同派の教員6名に解職(馘首)の辞令を送付した。
憤慨した北尾校長等は、10月1日から3日まで授業をおこなわないことにした。
生徒等も渡邉校主に対して、校主等も一同袂(たもと)を連ねて退校すべきと迫った。
その結果、北尾校長の解職は取り消され、学校の経営は一切を挙げて校長の管理に移し、4日授業は再開され紛争は落着した、というのです。
<吉田中学の不正行為>
それだけでなく、吉田中学は、暴利を得る不正行為もありました。同紙によれば、吉田中学の不正行為について、次のようなことを列挙しています。
①1年分の学費を前納させる、②学費前納に関する手数料2円を徴収する、③月謝滞納の場合、滞納金20銭(注9)付加し徴収する、④転学および在学証明を欲する場合、証明(手数料)料金50銭を徴収する、⑤卒業証明書の発行料10円~150円(注10)の相場に応じて乱売する、⑥試験の及落が金額(注11)によって左右する、など法外な手数料、卒業証明書の乱売など「教育なる美名の下に営利」をおこなっていました。
こうした行為は、校主一人の行いにあらず、教頭白井、書記(事務長?)米田が共謀してその利益を分配していた。教頭白井は学校荒しを以って有名なる人物であった、とも。
これらの結果、書記米田は校長の英断により解職されました。その北尾校長も校主等一連の不正行為により辞職にいたります。
後任として小谷時中教諭が校長事務取扱に就任します。小谷時中校長他数人の教員は改革を進めようとしますが、学校は閉校に追い込まれることになります。
明治39年10月16日 吉田中学に閉校命令下る
明治39年1月7日、第1次西園寺内閣(注12)が成立します。当初、西園寺公望は総理大臣と文部大臣を兼ねていましたが、3月27日には牧野伸顕が文部大臣に就任します。
中川小十郎は第1次西園寺内閣の成立時には、京都帝国大学書記官の任にありましたが、同年4月6日に西園寺公望総理大臣秘書官に任命されます。
この同年の秋頃になると吉田中学の不正を重く見た京都府は、吉田中学を調査し、明治39年10月13日に報告書(注13)を文部省普通学務局に提出しています。その3日後の16日に、吉田中学に閉鎖命令が下ったのです。
文部省通達 文部省普48号
京都府私立吉田中学校設立者 渡邉廷次郎他6名
貴校明治32年勅令第359号 私立学校令第10条第1項ニ依リ明治39年12月31日限閉鎖ヲ命ズ
明治39年10月16日 文部大臣牧野伸顕
命令書にいう私立学校令第10条第1項とは「法令の規定に違反したるとき」がその理由です。ここでの法令規程違反は先に叙述したように数々の教育現場らしからぬ不正行為をさすものと思われます。命令が下る前日には、京都府から事前に「閉鎖命令」にもとづいて在学生の善処策を閉鎖期日までに誤らぬよう指示がされています。
明治39年10月19日 吉田中学の生徒と父母 決起
吉田中学の閉鎖命令を受けた学校側は、明治39年10月19日、早朝から夕刻まで父母に対して説明会をおこないました。父母の願いは、せめて3月末まで延期できないかというものでした。その日、会場には校主渡邉廷次郎を除く、小谷時中先生、西見芳宏先生他20余名の教員が参集して善後策を検討しました。その善後策とは、新財団を立ち上げ、翌年1月より継承する。そのためただちに出資者を募って、吉田中学の生徒をそのまま引き継ぐ、というものでした(「日の出新聞」明治39年10月20日付)。
しかし、この提案には生徒と父母は納得せず、急遽上京して文部大臣に廃校命令の撤回を陳情することにしました。その時の様子を石館久三氏は詳細に述べています。
学校側説明会の後、硬骨で生徒の尊敬を集めていた西見芳宏先生(体操・生理担当)の指導の下に校庭に全員集合して、生徒大会を開き次のことを決定しました。
1.文部大臣に対し学校閉鎖令撤回を要求する、
2.要求が容れられなければ生徒全員を無試験で他の中学校へ転校する様、文部省が誠意をもって措置すること、
3.以上の要求を貫徹するため5年生から委員5名を挙げ、急遽上京して文部大臣に陳情すること、
この大会での決議にもとづいて陳情団の委員に選ばれたのが、満川亀太郎、岩富英、増田恒一、石館久三、村田栄一、他に自費で参加した生田調介(この6名は、その後清和中学に転校し第1回卒業生となります)、付き添いには西見芳宏先生になってもらい7名の陳情団を結成した。(「石館久三氏の追想より」)。
明治39年10月22日 陳情へ
そして10月25日 中川小十郎、清和中学への受け入れを約束
陳情団は、10月21日上京して神田駿河台の旅館「龍名館」に宿泊し、翌10月22日に文部省に行きます。
そのときの様子を、石館久三氏は次のように回想しています。
翌日、西見先生を宿に残し我々6名は文部省を訪ね文部大臣に面接を求めたが不在と称して面会が許されなかったが、文部省の玄関の一隅に座り込んで大臣の出てくるのを待ちました。
昼食時になって携帯していた握り飯で、空腹をしのぎ午後3時頃までがんばりました。
程なく役人に導かれ一室に通されてまもなく入ってきたのが沢柳文部次官と普通学務局長他1名でした。我々の来旨を尋ねられたので代わる代わる吉田中学廃校の不当を訴え、生徒全員の要求の正当を力説しました。
黙って聞いていた澤柳文部次官は、「君らの言うことはよくわかった。陳情書は自分が必ず大臣に取り次ぎ、学生の処置については善処する。具体的な方法については一両日中に通知する」と言うので、一同悄悄愁眉(しょうしょうしゅうび)を開くことが出来た(前出「石館久三氏の追想より」)と思いました。
しかし、一同は宿に帰って、西見芳宏先生に報告すると、先生からこれは口頭だけの約束だから安心ならないと指摘され、10月23日、24日と再び文部省に行きますが、対応者は「省議未決」などと要領をえず一同焦燥感を感じて宿舎に帰りました。
10月25日、早朝から必死の覚悟で文部省に行ったところ、ようやく昼近くに首相秘書官の中川小十郎が応対しました。その時の感激を石館久三氏は次のように回想しています。
中川小十郎は、「局長(普通学務局長)から話をよく聞いたが大臣の命令は撤回できない。しかし生徒は希望のみ清和中学に収容し、未設の3年、4年、5年の学級を新設し、学習を中断させることは断じてしない。
すぐに帰洛して、みんなにこの旨告げてくれ」、と回答を得て、中川先生(中川小十郎)の好意に感謝の上、この言葉を書面にしていただきたいと申し出たところ中川先生は笑いながら「よかろう」と、すぐに係官に命じて生徒収容の約束を書いてくださった。旅館に帰って西見先生に、書面を示し詳細を報告したところ先生は非常に感激し、中川先生は実に見上げた政治家だと激賞され、この結果を喜んでおられた。
陳情団がこの結果をもって京都駅に着くと全生徒と多数の父母の歓迎受け、陳情団のメンバー一同うれし泣きしました。
明治39年11月 思いはつながった-吉田中学から清和中学へ転学叶う-
中川小十郎は約束の通り、清和中学では編入試験を課さず、希望者全員を受け入れることになりました。こうして吉田中学の生徒263名(注14)が清和中学に転校しました。
先生も小谷時中先生はじめ西見先生等も清和中学に移り、その後も清和中学の教育に携わりました。
この時5年生に転入してきた陳情団のメンバーの満川亀太郎、岩富英、増田恒一、石館久三、村田栄一、生田調介等(注15)が清和中学第1回卒業生として活躍します。
その後には清和会(同窓会)結成にも中心となって奔走したのでした。
(清和中学校第1回卒業生記念写真)
石館久三氏は、自分たちの行った行為をこう振り返っています。
「わたしたちは、勉学の中途で廃学の悲しみを味わうことなく卒業の喜びを得たことは純真なる生徒の訴求が当時の文部当局動かした。」
この自立自尊の精神が現在の立命館高校にも伝統として生きているのかもしれません。
2017年8月1日
立命館史資料センター 調査研究員 齋藤 重
注1 澤柳文部次官
当時の文部次官は、澤柳政太郎(1865年5月17日―1927年12月24日)である。1913年(大正2年)5月9日には京都帝国大学総長(第5代)を就任した。
注2 石館久三氏は、その後『追想記』としてまとめていますが、残念ながら原本は資料として発見されていません。しかしながら未定稿『立命館中高50年史』(上島有著-西田俊博復刻)の著作には石館久三氏の『追想記』から多く引用されています。本稿も未定稿『立命館中高50年史』から石館久三氏の追想部分を多く引用しました。その部分については「石館久三氏の追想」と表記しています。
注3 広小路の新校舎に移転の準備をすすめていた頃
京都法政学校は創設予算では校地、校舎を確保するゆとりはなかった。したがって元料亭清輝楼の座敷を借用して開校したのであった。昔の漢学塾の光景といわれる所以である。明治34(1901)年12月京都御所清和院門の向い中御霊町410番地に校地を確保して、ここへ府庁舎内の旧京都府中学校校舎(現在の洛北高校)の一部(1棟3教室)の払い下げを受け、やや学校らしい体裁を整えた(『立命館百年史通史1』)。 この年(明治34年)の5月に吉田中学の前身、開成学校が広小路の東南付近に設置されました。正確な場所はまだ調査できていません。
注4 小谷時中は吉田中大路13番地と14番地に土地を所有しており(「旧土地台帳」)、学校の用地としてもその一部を使用していたものと考えられます。
注5 渡邉家は愛知県海西郡十四山村(現在、愛知県弥富市弥富町)の大地主であった(「京都府公文書」)。渡邉家はその経済力を背景に校主として深く吉田中学の経営に関与したものと考えられる。
注6 戸谷松尾、戸谷治忠、戸谷實也については資料が見つかっておらず、継続した調査が必要です。
注7 徴兵令上等位認定
文部省告示 第67号
京都府私立吉田中学
右ハ徴兵令第13条ニ依リ認定ス
これにより吉田中学校は徴兵令第13条の認定校となり、兵役が免除された。
注8 補習科
旧制中学校の補習科は中学校令(明治32年)第9条「中学ノ修業年限ハ五箇年トス但シ一箇年以内ノ補習科ヲ置クコトヲ得」として吉田中学も設置しました。
注9 注10 注11 明治時代の物価
吉田中学の不正については叙述していますが、当時の物価状況は、当時帝国ホテル1泊宿泊料金5円、映画館入場料20銭、小学校教員初任給8円、京都市電乗車賃1区間2銭などです。(『値段の風俗史』週刊朝日編 朝日文庫)比較してみれば、いかに暴利であったかが分かります。
注12 第1次西園寺内閣 明治39(1906)年1月~明治41(1908)年7月
明治39年1月7日 内閣総理大臣西園寺公望 文部大臣兼任し就任。3月27日 文部大臣に牧野伸顕就任。文部次官 沢柳政太郎 中川小十郎 明治39年4月20日 内閣総理大臣秘書官に任命
注13 吉田中学校事件に関する報告書
明治39年10月13日に吉田中学校事件に関する報告書を文部省普通学務局長宛に提出しています。明治39年10月25日に中川小十郎が吉田中学陳情団に面談してから、約1ヶ月後の明治39年11月21日には清和中学から「吉田中学校よりの転学者報告」を文部省普通学務局長宛に報告書している。
注14 明治39年12月現在の吉田中学から清和中学への転入生徒数は次の通りです。
1学年 72名 2学年47名 3学年50名 4学年46名 5学年48名
この5回生48名は、転入後明治40年3月に卒業をむかえ、清和中学第1回卒業生となり、その後の清和会結成でも積極的な役割をはたします。
注15 陳情団のメンバー、満川亀太郎、岩富英、増田恒一、石館久三、村田栄一、生田調介はその後清和中学第1期生として活躍します。
石館久三氏は清和中学卒業後、早稲田大学卒業後、函館市で昭和4年にキングベーカリーを設立し、夢を実現している。現在も函館市内を中心に有名ベーカリーとして続いている。
満川亀太郎は中川小十郎との出会いを後に、後輩の前で講演し次のように語っています。
「中川先生はいたく我々に同情され、清和中学の生徒として我々全部を迎えて下された。
…かくの如くして救われ拾われた私は立命館に対して今もなお深い感謝の念を抱いている」卒業後も立命館中学の発展に尽力されています。
生田調介は卒業後、早稲田大学に進学し、歌人生田蝶介として歌集『長旅』や歌誌『吾妹』などを刊行している。立命館出版部からも『作歌入門』1928、『旅に歌う 紀行吟行』1928 、
『短歌用語小辞典』1929 、『昭代一万歌集』1930 など数多くの作品集、入門書を刊行している。2017.07.31
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』を発行しました。
2017.07.25
<懐かしの立命館>西園寺公執事ー熊谷八十三とその日記
はじめに―熊谷八十三とは
1874(明治7)年10月13日に東京で生まれ、1969(昭和44)年10月22日に95歳で神奈川県茅ケ崎にて逝去した熊谷八十三。東京帝国大学農科大学を卒業。愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)、東京府立園芸学校(現・東京都立園芸高等学校)に勤めた後、興津の農商務省農事試験場の技師、農林省園芸試験場場長に就いた。その後1924(大正13)年12月から坐漁荘において西園寺公望の執事をし、1942(昭和17)年3月から1945(昭和20)年7月まで立命館に在職、その間立命館文庫長、西園寺公文庫長に就き、また立命館中学校で植物学の講師をした。
小稿は、熊谷八十三の愛知県立農林学校から農事試験場・園芸試験場時代を概観し、続く西園寺公望の執事および立命館における仕事についてその日記をもとに紹介する。
1.東京帝国大学卒業から愛知県立農林学校、東京府立園芸学校
熊谷八十三は、1900(明治33)年7月東京帝国大学農科大学農学科を卒業し、引き続き農科大学の助手を務めた。
1年後の1901年9月、創設された愛知県立農林学校に初代教頭として奉職した。農林学校では、校訓の制定、校歌の作詞、農場の造成、校舎の建築など、農林学校の基礎を築いた。校歌は「花は桜木ますらおの 心も勇春の空」で始まり、4番まで春夏秋冬に学ぶ農業学校の生徒の心構えを歌った。熊谷教頭は生徒の寄宿舎に泊まり込みその教育にあたったという。
のちに改称された愛知県安城農林学校は戦前全国の三大農学校の一つとされ、安城市一帯が農業先進地となることに貢献した。熊谷はその礎を築いた。
現在、安城農林高等学校は14haの校地を有するが、その校庭には熊谷八十三の顕彰碑があり、胸像とともに校歌が刻まれている。
1908年2月、東京に府立園芸学校が創立されると、熊谷は初代校長として赴任した。園芸学校校長在職は翌年7月末までの1年半と短期間ではあったが、ここでも花卉園芸や果樹などの園芸を専門とする学校の創立期に力を注いだ。
【安城農林高等学校 胸像】
2.興津の農商務省農事試験場、農林省園芸試験場
1909(明治42)年8月、熊谷は東京府立園芸学校から興津の農商務省農事試験場の園芸部技師に転じた。1912年には東京市長尾崎行雄からワシントン市のポトマック河畔に植樹する桜の接ぎ木苗の育成を依頼され、熊谷が農事試験場で育てた苗木がワシントン市に贈られた。桜は見事に花をつけ、熊谷はポトマックの桜の育ての親と呼ばれた。1962年には、ワシントン市の桜を育てた功績によりアメリカ政府から表彰されたが、本人はポトマック河畔に咲く桜を見ることはなかった。
熊谷は、機構改革により農林省興津園芸試験場となった2代目場長に1923(大正12)年1月に就任した。
就任の祝賀で、親交のあった清見寺の住職古川大航(のちに臨済宗妙心寺派管長)が、熊谷先生は「陰に陰に(注)常に誠心誠意務められていたのだから、場長となられたのは当然である」と祝辞を述べた。熊谷の人柄、仕事に対する姿勢をよく表している。(注:陰に陽にではない。)
熊谷は園芸試験場で、園芸研究と後進の指導にあたったが、関東大震災による財政窮乏により、翌年12月在職15年を経て退官した。
園芸試験場で指導を受けた方々は、熊谷没後書かれた「熊谷八十三先生の追憶」の中で、熊谷を高潔寡欲、多くの子弟、隣人から敬慕されたと語っている。
熊谷が園芸研究に情熱を注いだ興津の園芸試験場は現在、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所となり、研究所内に熊谷の胸像が架けられている。
【農業・食品産業技術総合研究機構 胸像】
3.西園寺公望執事
熊谷八十三は、1924(大正13)年12月から1940(昭和15)年11月の西園寺公逝までの16年にわたって執事をし、更に1942(昭和17)年1月頃まで逝去後の遺品整理の任にあたった。
元老西園寺公望には秘書として中川小十郎、原田熊雄がいたが、熊谷は坐漁荘執事として日常生活全般にわたって西園寺公に仕えた。
≪1924(大正13)年≫
11月、伊藤博邦(伊藤博文の養嗣子)から熊谷八十三に西園寺家の執事の話がもたらされた。熊谷は農事試験場の主任技師で西園寺公と親交があった石原助熊に相談したところ、次の職が見つかるまで手伝いをしたらどうかと言われた。
熊谷は西園寺家の手伝いを受けることにし、12月初めに西園寺家を訪問、14日に執事に就いた。最初の仕事は西園寺家の蔵書調査であった。
≪1925(大正14)年≫
4月には、西園寺公の依頼により京都の清風荘で洋書を整理し目録を完成した。更に5月には寄贈書の選別を行い、西園寺家の古記録や古書の調査を行った。更に坐漁荘の書籍や器具の整理を行っている。
この年、立命館文庫に西園寺公所蔵の英・仏書187冊が寄贈された。『立命館学誌』83号・84号(大正14年5月・6月)にその目録が掲載されている。むろん坐漁荘での仕事はこうした書籍類の整理だけでなく、西園寺詣で、興津詣でと言われる来客の対応があった。政客ばかりでなく、各界の人物や医者も来訪した。来客は西園寺公に会うことのできる者ばかりではなく、勝手に来る者、招かれざる客もまたあり、これらの来訪の対応は熊谷を通して行われた。
≪1926(大正15)年≫
3月26日の日記には、坐漁荘の命名と扁額について記されている。園公邸は昨年末渡辺千冬子の撰との事で坐漁荘と云う名が出来た。今度之を扁額として玄関屋下に掛けることとなった。篆字を書いたのは高田忠周氏。
【興津坐漁荘 扁額】
≪1928(昭和3)年≫
2月1日、熊谷は中川小十郎から、明治20年ごろに山田美妙斎に言文一致体の文章を書かせたのは中川氏だとの話を聞いた。日本の文章の改良は口語体なるべしとの説で、文部省の懸賞金百円を得たという。
≪1929(昭和4)年≫
12月10日、清見寺の西園寺扁額は中川の寄贈によるもの、と記している。
中川小十郎は西園寺公望揮毫の「長吟對白雲」を扁額にして清見寺の古川大航住職に寄贈した。揮毫は昭和4年の新春で、西園寺公81歳であった。扁額は現在も本堂に架けられている。
≪1931(昭和6)年≫
この年、和漢書300冊が立命館文庫に寄せられた。『立命館学誌』147号・148号(昭和6年11月・12月)に、同年10月に康煕字典などが寄贈されたことの記事が掲載されている。
≪1932(昭和7)年≫
坐漁荘では静岡県警察による警備が常時行われていたが、2月9日井上準之助氏が暗殺される(血盟団事件)と、西園寺公は惜しい人材を失くした、あれだけの人は一寸得られない、役に立つ人はみな殺されてしまうと嘆いた。続いて5月15日に犬養毅首相が暗殺される(5.15事件)と、5月28日の日記に「今度は憲兵3名、警官20名で固めたが、それでも中川氏は不足であると心配し、その真剣味はえらいことであった」と記し、坐漁荘の西園寺公の警備も一層強化された。
この年9月から11月にかけて、西園寺公は京都・清風荘に滞在したが、最後の京都滞在となった。この間の9月22日には立命館大学(広小路学舎)を訪れている。
≪1933(昭和8)年≫
2月17日、公が此頃漏らす言、陸軍などが何も知らずに満洲で勝手なことをする。連盟脱退などやったら丁度独逸のようになってしまうじゃないか、と。
≪1935(昭和10)年≫
9月16日、「園公爵ハ後醍醐天皇宸翰ヲ中川小十郎氏ニ与ヘテ之ヲ立命館大学ニ蔵セシム」とあり、後醍醐天皇の宸翰が立命館に寄贈されたことが記された。
≪1936(昭和11)年≫
1月24日、西園寺公が、瓢斎作『鎮撫使さんとお加代』は素より小説なれど其の中に後世を誤らすようなうそがあっては困るから一応読んでくれとの御注文、今朝読み上げて報告した。「薩藩の川路利恭が山陰鎮撫副総督の名を以てす」とあるが、副総督というものはなかった、お加代というものは全然知らぬ、況やお加代の請願に依りて松江藩家老の切腹を赦したなどいうことは全然知らぬなり、と。
2月26日、2.26事件で斎藤実内大臣や高橋蔵相が暗殺された際には「公爵ㇵ丁度偶然今朝来着ノ中川氏ガ随従シテ静岡警察部長邸ニ動カル」と記録し、坐漁荘内に特別警備本部が置かれた。
5月25日、近衛公爵家所蔵御堂関白日記も立命館大学で複製することになったが、其の部数は500、外国の各大学等に寄贈し、売るべき部数は50で一部500円即ち2万5000円、之で全体の費用が出るくらいのつもりの由、と記した。
≪1937(昭和12)年≫
9月29日、Baron(原田男爵)から聞いた話であるが、園公爵は自分が死んでも坊主や神主の世話にはならぬ。国葬も辞退したいと。国葬辞退は一寸六かしいかも知れぬが、今日の時局なら之を申し立て辞退すべきか、と。
10月には立命館中学校生徒が西園寺公の御殿場邸を伺候した記念に中川が熊谷に文鎮を贈った。
≪1938(昭和13)年≫
1月、「立命館職制」の改正により西園寺公文庫が立命館文庫内に置かれた。管見記の複製を予定し西園寺文庫を創設したといわれる。
10月20日、立命館出版部の富田正二氏と草木氏が坐漁荘に来邸し、管見記複製を二部持参、収納箱が二組届いた。献上用と国家に置く分で公爵の閲覧に供し書庫に蔵した。今は戦争で急がしくてそれどころではないと言われた。11月19日にその影印管見記の献上分の発送を取り計らった。
≪1939(昭和14)年≫
3月26日、西園寺公は直筆とされる書の鑑定を頼まれ、その中に書かれた「処世若大夢」を見て、「わし等のは小夢の如しだね」と熊谷に語り、自ら歩んできた人生の心境を吐露している。熊谷は、自分たちは世を夢とまで見ることもできない、と思った。
≪1940(昭和15)年≫
5月3日、駿河台邸を中央大学に売却した、と記している。
この頃には駿河台邸を使用していなかったので、中央大学が購入の申し入れをし、西園寺公が売却を了承したものである。
5月、立命館に和漢書6,671冊が寄贈された。
8月3日には、西園寺公はこの先を予見してか、西園寺八郎と相談して形見分けを行い、熊谷に三千円を与えている。
10月10日、園公爵ローマ字ヒロメ会35周年に当っての談。此の会は自分の発起で出来た会で自分が最初の会頭たりしが、外国から電報を打つ時など、之に依って便を得しなり。然して自分の名はSaionjiにあらずしてSaionziと書くのを当時誰も賛成せず。只田中館愛橘一人が之に同意せり、と言われる。小生も矢張りSaionziは不賛成の方なり。之はSaionjiたるべしと考える。
西園寺公自身は、ヴェルサイユ条約の際のサインをはじめSaionziと自署し、日本式ローマ字表記を使用している。ローマ字ヒロメ会は、1905(明治38)年に発足した。
11月24日、西園寺公は逝去、熊谷は坐漁荘にてその最期を発表した。「本日午後九時五十四分薨去せり」
12月5日の国葬には熊谷は参列しないこととなり、坐漁荘で西園寺公を見送った。
【興津 坐漁荘】
≪1941(昭和16)年≫
この年3月、熊谷の子供の一人が立命館日満高等工科学校を卒業した。
この頃熊谷八十三は西園寺公亡きあと、京都で過ごしたいと考えていた。
昭和16年から17年にかけて何度か清風荘、立命館を訪れている。坐漁荘、清風荘の遺品整理と京都に落ち着くための準備ではなかったか。
4月には熊谷は原田熊雄からの依頼で、「陶庵印譜」を五部作成し、続いて7月には四部を作成、原田・逗子・柿沼・水口屋などごく限られた範囲に配られた。
「陶庵印譜」は西園寺公望が用いた様々な印章の印影を集成したものである。熊谷日記には記されていないが、立命館の図書館には熊谷が中川小十郎に寄贈した4月作成の「陶庵印譜」がある。
4月30日の京都行では、中川小十郎を訪問し大学で面会している。
翌5月1日、2日と清風荘に行き神谷千二氏立ち合いのもと土蔵の調査をした。大正天皇の宸翰四幅を整理し、仏書四十一冊の表題を写した。
5月3日には立命館で西園寺公文庫を見ている。
半年後の上洛は11月7日・8日で、清風荘で立命館に送る書籍の決定などをした。その書籍は立命館からトラックで取りに来て、熊谷が立ち会っている。
11月18日には坐漁荘で西園寺公遺品の荷造りが完了し、清風荘あて63、逗子に36、立命館に11の荷造りをした。25日にも清風荘に75、立命館に12の荷物を送った。
この年の3回目となった京都行では、11月26日及び27日に上記の荷物を確認、整理し、27日には立命館で管見記を調査した。
≪1942(昭和17)年≫
1月19日に清風荘の土蔵の整理に取り掛かり、23日に物品、洋書を整理しすべて完了した。整理が終わったためか、24日には白雲神社に参詣、続いて鞍馬口の西園寺に墓参した。
西園寺公が亡くなってからの遺品整理は、坐漁荘はもとより清風荘のものも含め熊谷がその任にあたったのである。
4.立命館文庫長並西園寺公文庫長、立命館中学校講師
熊谷八十三は1942(昭和17)年3月から1945(昭和20)年7月まで、立命館で文庫長(図書館長)や中学校講師を務めた。原田男爵からは再三にわたり興津に留まるよう言われたが、熊谷は隠居は京都で暮らしたいと、原田の話を固く断った。遺品を整理する間に、中川小十郎との間で立命館への就職の話が進んでいたのである。≪1942(昭和17)年≫
〈2月25日〉京都の中川小十郎から住宅の修繕ができたのでいつでも出てくるようにとの書信があり、3月5、6日頃に単身で出かけるつもりとの返事をしている。
〈3月4日〉立命館から「立命館文庫長並西園寺公文庫長ニ任ス」との辞令が届いた。
立命館の資料には3月2日付けで就任としているが、日記には3月1日付けとしている。
住所は「上京区寺町廣小路上ル」とし、また410番地としている。御所や梨木神社に直面した広小路学舎の一角に居住することとなった。
〈3月6日〉前日に興津町役場や郵便局などに転居の届をし、6日に上洛した。
〈3月7日〉立命館に行き竹上氏(竹上孝太郎理事)に新任挨拶をした。
〈3月9日〉立命館に出勤し図書館を参観、そのあと中川氏を病院に訪問し挨拶をしている。午後鞍馬口の西園寺に行きその由緒書を借りた。
〈3月10日〉高雄口宇多野の近衛家陽明文庫の特別展観を中川氏に代わって参観、国宝や重要美術品二十数点が陳列されており御堂関白日記を参観した。
〈3月17日〉西園寺公爵薨去前後の新聞記事を整備し、スクラップブックに貼付を始めた。
〈3月18日〉管見記の保管状況を写真撮影、近日宮内庁に献上の予定。
〈4月16日〉立命館の第一中学校で最初の授業を行った。一年級の植物学である。「割合にうまく行く」と言っている。二時間の真ん中に二時間あるので植物園を見に行った。
〈4月19日〉学宝室の文書を参観。
〈4月25日〉靖国神社の臨時大祭のため立命館全員で遥拝。中川総長の式辞があり、大学生は制服制帽であった。
〈5月6日〉学宝室の片付けが出来たと記しているので、この間学宝室の整理をしたと思われる。
〈6月2日〉立命館中学の試験があり、番人や自習の監督をし、面白いと思ってやった。
〈9月11日〉学宝事務兼任ということで、竹上・富田・大橋立会で学宝の整理をした。
〈9月20日〉立命館大学第四十一回卒業式に参列、続いて全立命館学友会発会式があり、中川総長がうまいことを言った。「大政翼賛会は憲法違反する処あるが如きも今は大勢に順応して之に賛成す」と。
〈11月10日〉京都帝大の中村直勝助教授が来学し、後醍醐天皇宸翰を鑑識した。本物らしいとのことであった。(1935年9月16日の記事の宸翰と思われる。)
≪1943(昭和18)年≫
〈1月13日〉文部省督学官が立命館に来て、西園寺公文庫も見た。
〈3月5日〉中学校の授業の自分の担当分が終了。
〈4月8日〉立命館中学校の入学式に参列した。聞くところによると、中学校の生徒は三千七百名、立命館全体で八千名とのことである。
〈4月29日〉天長節の祝日で、松井元興学長の式辞があった。
〈5月20日〉中学一年生が愛宕行軍で授業がなかった。
〈5月27日〉海軍記念日の為、海軍少佐の講演があり、立命館戦闘機の第一号と第二号が献納された。6月4日には熊谷も献金している。
〈7月15日〉中学の防空訓練があり、9月4日 には文庫の書籍のうち重要なものの避難準備をおこなった。すでにこの頃は戦局が厳しくなってきていたようである。
〈9月19日〉立命館大学卒業式、大学部六百、専門部九百であった。
≪1944(昭和19)年≫
〈1月13日、14日〉西園寺公文庫の図書整理を行った。
〈2月23日〉中学校卒業式、一年二年は行軍。
〈4月10日〉中学校始業式、授業時間が10から16に増えた。
〈4月13日〉西園寺公の絶筆である「静夜清光」複製で中川氏の箱書があるものを北川仁一に贈与、家には別に十五円で一幅を買った。
〈4月15日〉立命館専門学校の開校式及入学式に参列した。中川総長の訓話の中に、文部省の方針に従い大学を廃して専門学校としたのは拓殖大学と立命館の二校で、実質は大学以上を期すものとの話があった。
〈6月28日〉西園寺家の図書の京大・立命寄贈問題の話があった。
〈6月30日〉中川総長は今度は拝辞して全部京大へ提供するとの話があった。
〈10月8日〉中川総長が昨夜逝去し、午前中に中川家に弔問に行った。
〈12月10日〉この頃体調が悪く、竹上氏に中学校の辞職を申し出た。
〈12月11日〉中学校に申し出て、辞表は診断書を得次第提出することになった。
≪1945(昭和20)年≫
立命館の資料では、1月25日に文庫長解となっているが、日記には記載がない。立命館文庫は、この年1月に立命館図書館と改称された。
〈1月26日〉 中学から一月分の俸給の支払いがあり、返しに行ったが受け取られなかった。
立命館の資料には6月30日で第一中学校解となっているが、日記にはやはり記載されていない。
〈7月20日〉立命館の七月分の俸給、慰労金、積立金を受け取ったメモが残され、立命館からは竹上氏、中川保次氏、並河氏などから見送られて立命館を辞した。
熊谷は、中川小十郎没(1944年10月)後の1945年、日記以外に中川の回想を記している。
「(中川先生について)最も深く感じた処はその甚だ友情に厚くして一旦救援を与えたる者に対してはいつまでも決して之を棄てずして能く援助を与えられた。
その一例に、昭和11、2年頃中川小十郎が興津に滞在した時、土地の漁船の不用になった櫓を買い取り、削って木刀を4、5年にわたって100本以上も作った。それを立命館の総長室に置き大東亜事変が始まって学生生徒が応召されると銘を書き花押を加えて与えた。実に立派な木刀で些細な事にもゆるがせにしないことが知られた。」(立命館史資料センター所蔵資料より要約)
熊谷は西園寺公望の執事のとき、中川小十郎や原田熊雄の身近にいた一人で、時に二人の確執なども見ていたが、原田の誘いを断り立命館に来たことから中川に対し好感をもっていたのであろう。
【立命館文庫、西園寺公文庫】
おわりに
国立国会図書館憲政資料室に「熊谷八十三関係文書」がある。「日記」と「陶庵印譜」などから成り、日記は1888(明治21)年から1969(昭和44)年までの82年間、実に84冊が残されている。日記帳には一冊毎に表題がついており、日記は簡潔に、そして淡々と記述されている。むろん熊谷の考えや感想も随所に書かれているが。
西園寺公望執事であった坐漁荘時代の日記は西園寺公望をめぐる近代史の貴重な資料であり研究者に引用されることもあるが、立命館時代の日記が紹介されることはほとんどない。
小稿は、教育者・農学者を経て西園寺公の秘書となり、その後立命館において文庫長となり中学の教育にも携わった熊谷八十三の仕事についてその日記等をもとに概要を紹介したものである。
なお、日記の原文は漢字・カタカナ交じり文である。
【参考文献】
「熊谷八十三日記」のほか、
「熊谷八十三先生の追憶」日本果実協会『果実日本』25(2)所収 1970年
伊藤之雄『元老西園寺公望』文春新書 2007年
馬部隆弘「西園寺公望別邸清風荘の執事所蔵文書・ヒストリア242号所収 2014年
2017年7月25日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次