立命館あの日あの時

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2017.12.07

<懐かしの立命館>西園寺公を偲ぶ展覧会

 最後の元老西園寺公望は、昭和15(1940)1124日、興津の坐漁荘において92歳の生涯を閉じた。今年(2017)77年となる。

125日国葬、明くる昭和161月から3月にかけて、明治・大正・昭和の3代にわたり政治に外交に文化に多大な功績を残した西園寺公望の偉勲を讃えて、全国4都市で「西園寺公を偲ぶ展覧会」が開催された。

本稿はその出品目録や関係資料などにより、展覧会を概観する。

 

 

【写真1 展覧会絵葉書】

 

1.西園寺公を偲ぶ展覧会の概要

展覧会は下記の通り、開催された。

(1)東京会場

 主催:讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和1617日~118

 会場:日本橋三越

(2)大阪会場

 主催:讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和16129日~28

 会場:大阪三越

(3)京都会場

 主催:京都日出新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和16211日~216

 会場:京都大丸

(4)福岡会場

 主催:九州日報社・讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省

 会期:昭和1639日~329

 会場:福岡岩田屋

 

2.東京会場

 讀賣新聞社は、昭和151221日と12日に讀賣新聞に社告を出し、1月7日から18日まで「西園寺公を偲ぶ展覧会」を開催する告知をした。

 展覧会の概要は、公に関する政治と文化年表、公の事蹟、遺墨・遺品、公に関する文献資料、公を囲る人々に関する文献、というものであった。

展覧会開催の17日、その挨拶で「紀元二千六百一年の新春に当り、公の偉勲を讃へその遺徳を偲ぶため」と開催の趣旨を述べた。

東京会場では97機関・個人が362点を出品した。出品が多かったのは立命館大学48点、帝国図書館36点であるが、個人が82人出品している。そのなかには三浦謹之助(西園寺公主治医)、徳富蘇峰、原田熊雄(西園寺公秘書)、安藤徳器、佐々木信綱、竹越與三郎、近衛文麿などがいた。立命館大学は48点のうち学宝が32点に及んだ。

 

また、立命館史資料センターに残る立命館出版部の会場写真によると、会場入口に展覧会看板が架けられ讀賣新聞社の挨拶文が掲出された。会場内には西園寺公の年譜、山陰道鎮撫に向かう写真、西園寺公のパネル、会場風景、書幅・扁額など14点の写真があり、会場風景からはジオラマの展示がされていたことが目を引く。

どんなものが出品されたか。

維新史料編纂事務局からは山陰道鎮撫に関する史料、北越御陣中日記など、興津の清見寺からは公の石膏像額面など、安藤徳器から公の写真、帝国図書館からは公に関する書籍、竹越與三郎からはヴェルサイユ平和会議の条約署名に使用した万年筆など、また、山陰道鎮撫の際に本陣とした出雲の藤間精氏、丹後宮津の三上勘兵衛氏から本陣に残された資料などが出品されている。

立命館大学からは、明治2年と大正7年の「立命館」の書、絶筆となった「静夜有清光云々」の書、亀の琵琶、管見記影印本など今日も学宝としているものや、英文西園寺公傳や公愛玩の瓢などの貴重なものが出品された。

 

 112日の讀賣新聞は、「一目で分る西園寺公の一生」で、会場は公爵の一生が誰にも分るように年代順にジオラマで説明しているほか、生前に愛用した品々があり、子供の時からどんな経路を辿って一生を終ったかがはっきり分る、との記事を掲載した。

 

   

【写真2・3 立命館出版部資料 東京会場】

 

3.大阪会場

 展覧会は東京に続いて讀賣新聞社の主催で119日から28日まで大阪三越で開催された。

 出品点数は63機関・個人の260点であった。

 立命館大学・帝国図書館・清見寺などは引き続き東京と同じものを出品した。維新史料編纂事務局・東京市立駿河台図書館などは大阪では出品がなかったが、長浜の下郷共済会が公の筆「墟烟淡云々」ほかを出品した。

 

4.京都会場

 東京・大阪に続いて京都では、京都日出新聞社の主催で京都大丸に於いて211日から16日の間開催された。

 立命館出版部の作成になる「偉勲を讃へて 西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」2セットが発行されている。

 1セットは10枚組で、西園寺公筆の「十年無夢…、湖上風恬…」、「西園寺公愛玩の瓢、一輪挿」「西園寺大扁額」「九十一歳筆 静夜有清光」「山陰道鎮撫総督西園寺公 丹波亀山に向ふ」などである。

 もう1セットは13枚組で、「藩士の昇殿を主張す(十九歳)」から「西園寺公爵近影」までの生涯を絵葉書(写真)で綴ったものである。

 

京都日出新聞社は、29日夕刊(210日付)に「西園寺公を偲ぶ展覧会」を211日より16日まで京都大丸にて開催する社告を出した。

 開催日の11日には、「偲ぶ園公の偉業 同家始め各地名家より資料の出陳 大丸に開く西園寺公展」の記事を掲載し、総理大臣近衛文麿公爵、西園寺公一公爵など、公の遺品400余点が展示された。出品目録では40機関・個人が209点を出品しているが、新聞と目録で点数が異なるのは、目録が数点をまとめて1点としていることによる。

続く12日の記事「お綾さん感無量 追慕の瞳離れず 西園寺公を偲ぶ展覧会盛況」では、総理近衛文麿からは西園寺公揮毫の「荻外荘」、立命館大学の学宝をはじめとした各地の貴重な資料を出陳したと伝えた。展覧会は開場早々堰を切ったような人波に溢れた。

 その中に、坐漁荘で女中頭を務めたお綾さんが来場、感慨深げに陳列品に見入り感無量の様子であった。閉店まで身動きもならぬ観覧者の波で大盛況であった。

 13日夜には「西園寺公を偲ぶ講演会」が日出会館で開かれた。立命館大学講師釋瓢斎(永井瓢斎)による講演「山陰鎮撫使」である。釋瓢斎は立命館出版部から昭和10年に『鎮撫使さんとお加代』を出版し、同著も展覧会に出品されていた。映画・音楽・録音もあり、音楽は立命館音楽隊が出演している。録音は園公国葬前後の放送であった。

 14日の新聞は、「雅号陶庵の謂れ? 平凡の裡に雅味は公の心境」と陶庵のいわれについて触れ、公の自刻印「悠然見南山」が陶淵明の「採菊東籬下悠然見南山」から採られていると紹介した。

 15日には、「知遇得た湖南博士 高邁な識見に絶大な信頼」と、会場には内藤湖南に寄せた絶大な信頼があふれていると伝えた。

 215日夕刊(16日付)には、「あす限り園公を偲ぶ展覧会 此期逸してはとどっと押し寄す」、16日には「茶碗の秘むる瓢逸 窯物に詠むきぬさんの名」で公と中川小十郎の逸話や、木屋町大可楼の松田きぬさんに与えた茶碗について掲載した。同紙面には公が揮毫した「白雲神社」の遺墨も写されている。

 216日夕刊(17日付)の新聞は、「残る深き感銘 西園寺公偲ぶ展覧会幕閉づ」と、閉幕を告げた。

このように京都日出新聞は、連日展覧会の盛況ぶりを伝えた。

 

【写真4 展覧会絵葉書封筒】

 

5.福岡会場

 最後の会場は福岡岩田屋であった。九州日報社・讀賣新聞社が主催し、39日から29日まで開催された。協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省はこれまでの会場と同じであった。

 

 九州日報社は38日の日刊および夕刊に社告を出した。

 「西園寺公を偲ぶ展覧会」、幾多貴重なる資料を蒐めてひらく空前の大展覧会!と銘打ち、パノラマとジオラマ、公に関する政治と文化年表、公の事蹟、公の遺墨・遺品、公の生涯を語る各種写真、外務省・三條公爵家・大山公爵家など数十家より特に出品せられたる文献資料多数!というものであった。実はこの社告は開催期間を9日から23日までとしていた。

 

会場入り口に文相当時の西園寺公の立像写真が置かれ、続いてジオラマが12点展示された。これは京都会場で発行された絵葉書の13枚組とほぼ同じ内容である。会場には図表も展示された。10点に及び、西園寺公年譜と閑院家系譜抄などである。西園寺公年譜は他の会場の目録にも掲載されているが、藤原公季から始まり西園寺公望に至る閑院家の系譜が脈々とつづられている。

 

 九州日報は9日の日刊で、「偉人の俤偲ぶ 西園寺公展けふ蓋あけ」の記事を打ち、一世の偉人に対し深い崇拝の念をもつ福博市民の前に盛大に蓋をあける、と報道した。そして出品者を列挙、目録と23の相違があったが、ほぼ同数の機関・個人から出品されていることを伝えた。

 313日の日刊は、「連日黒山の観覧者で賑ふ」の見出しで、中には北九州その他遠く県外各地よりの団体もあり素晴らしい盛況を呈している、活ける教育資料として各方面の絶賛を博している、と報じた。

 当初は23日までの開催予定であったが、21日の新聞には「西園寺公を偲ぶ展覧会 29日まで日延べ」と、連日満員にて好評嘖々につき29日まで日延べするとの社告を出した。

 23日の九州日報は、「29日まで日延べ 凄い人気を呼ぶ西園寺公展」と、市内各小学校や各種団体をはじめ遠くは大分、熊本からさへ観覧に来る者があり、“是非会期を日延べしてくれ”との各方面の熱心な要望によって、次の会場の期日を変更して会期を延ばすことになった、と報じている。

 

 目録によれば、40の機関・個人から132点が出品されたが、立命館大学からの出品は見当たらない。代わって福岡開催ということから、元政友会福岡県支部・福岡県立図書館・福岡市市史編纂室など福岡関係者の出品があった。

 また京都会場で配布されたものと同じ絵葉書が福岡会場でも配られた。

 なお、目録および絵葉書では協賛立命館大学としているが、九州日報の社告では主催者と後援者名のみで、協賛がはいっていない。

 

【写真5 展覧会絵葉書】

 

6.立命館の出品

 立命館は「西園寺公を偲ぶ展覧会」に協賛し、東京会場と大阪会場では48点、京都会場では55点の西園寺公望ゆかりの品々を出品した。

 そのうち東京・大阪では32点の、京都では34点の学宝を出品している。

 立命館が出品したものはどのようなものであったのだろうか。

 学宝では、「額面」とある公の書が6点ある。「長吟対白雲」「運用之妙存乎一心」「立命館」(大正戊年の書)「禹悪旨酒而好善言云々」「才学識」「新詩日又多」である。

 「軸物」の書が11点。「柳揺台榭東風暖」「十年無夢得還家」「蘆荻無花秋水長」「八月潮高海気豪云々」「静夜有清光云々」「生是迂拙男云々」「濯錦江辺憶昔遊」「太湖云々」「湖上風恬月澹時」「寒烟十里没荒原云々」「冷光脉々透簾帷」明治29月書の「立命館」。

 そのほかの学宝として、西園寺家伝来の「亀の琵琶」、百五巻にのぼる西園寺家の「管見記」(影印)、佐倉丸の「時鐘」、公撰文による立命館学名由来記の「木刻大扁額」、坐漁荘で使用した公常用の椅子などが出品された。

 また学宝以外のものでも、中川総長に贈られた瓢、一輪挿、公愛用の煎茶器、公愛玩の瓢などが展示されている。

 これらの中には、戦時の状況のなかで失われたものもあるが、今日でも学宝として所蔵しているものが多い。

 京都会場では学宝が2点追加展示されたが、1点は「清聲千古碑の拓本」、もう1点は明治29月筆の「木刻大扁額 立命館」である。

 「清聲千古碑の拓本」は、西園寺公望が山陰道鎮撫に向かった際に最初に宿陣した丹波馬路村の郷士、中川・人見両姓の勲功を称えた碑文で、碑は現在も亀岡市馬路に建っている。

 また「木刻大扁額 立命館」は現在修復したものが立命館大学の図書館にあり、立命館中学校・高等学校でも所蔵している。さらに複製したものが立命館各校に架けられている。

 

【写真6 立命館出版部資料】

 

 終わりに

 西園寺公の晩年は、2.26事件、日中戦争の勃発、そして国家総動員法が施行され、やがて対米英戦争へと突き進む時代であった。

 こうした状況の中、元老西園寺公望は日本の外交や政治に失望、この国はどこに向かおうとしているのかと深く憂慮し、やがて処世若小夢の心境に至っていた。

「西園寺公を偲ぶ展覧会」は、公の偉勲を讃えその遺徳を偲ぶために開催された。同時に「紀元二千六百一年の新春に当たり皇道翼賛の実践に挺身せんとする銃後国民に資したい」との主催者の開催意図もあった。

 日本は西園寺公が望まぬ道を走っていたが、いずれの会場でも展覧会は西園寺公を偲ぶ人々で大盛況であった。

 

 

【参照資料】

 〔東京会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(立命館史資料センター所蔵)

       立命館出版部資料(立命館史資料センター所蔵)

       讀賣新聞記事

 〔大阪会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(徳富蘇峰記念館所蔵)

 〔京都会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東洋文庫所蔵)

       「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」(立命館史資料センター所蔵)

       京都日出新聞記事

 〔福岡会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東京大学史料編纂所所蔵)

       「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」(立命館史資料センター所蔵)

       九州日報記事

 

  なお、上記参照資料のうち

・「西園寺公を偲ぶ展覧会」(東京会場)立命館出版部写真資料 ①

「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東京会場)表紙、一部抜粋 ②

「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」京都会場13枚組 ③、京都・福岡会場10枚組 ④

  は、下記画像をクリックすると別ウィンドウで御覧いただけます。

 ② 

 ④

以上

 

201712月7日 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

2017.10.18

<学園史資料から>陶庵印譜

まえがき

 

 西園寺公望はその号を陶庵と称した。陶庵は印刻を趣味とし、自刻の印章のみならず著名な印刻家の印章も所蔵し、後に坐漁荘の執事であった熊谷八十三により「陶庵印譜稿」を残した。

 このほど、立命館所蔵および国立国会図書館憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」並びに清風荘の執事であった神谷家所蔵の「陶庵印譜」を調査する機会を得たので、ここに「陶庵印譜」について紹介する。


晩年の西園寺公望(陶庵) 昭和10年 興津坐漁荘書斎にて

 

1.陶庵印譜とは

 

「陶庵印譜」とは、陶庵西園寺公望が所蔵していた印章を用い、西園寺公の執事を務めた熊谷八十三が印譜に作成したものである。

 作成の経過については、熊谷がその日記に記している。

 

  昭和1643

    「陶庵印譜作成ヲ原田男カラ注文アリ 今日取リ掛ル 序ニ五部作成ノ事トスル 

   原田・逗子・柿沼・手許控二」

 昭和1647

    「引キ続キ印譜作成ニ掛ル 跡一両日デ完成ノ処ニ漕ギ附ケル」

 昭和1648

    「印譜捺印ダケ結了 跡ㇵ帳面ヲ作ル事」

 昭和1649

    「印譜出来」

 

 「陶庵印譜」は西園寺公の秘書であった原田熊雄男爵が熊谷に作成を依頼し、五部作成することとなった。作成した印譜は原田のほか、逗子の西園寺八郎公爵、柿沼はやはり興津に別荘のあった井上馨の執事柿沼昇に渡した。それに熊谷の手許に二部保存することにした。

 続く410日・11日の日記に、作成した印譜を二か所に発送やら残存品に書き入れをし、陶庵印譜調べで得るところが多かったという。

 

  昭和1677

    「水口屋元一ノ懇望陶庵印譜作成第二回ニ取リ掛ル 今度ㇵ限定四部 懇望者ㇵ

   浮月主人 原田男爵方デ見テ欲シクナッタトノ事 元一ハ之ニ便乗 第二回ノ事ト

   テ初メヨリ稍ウマク出来ル」

  昭和1679

    「陶庵印譜稿限定四部成ル 第二回目デ前ノ時ヨリㇵ上手ニ出来ル 只肉色ガ稍

淡ク過グ 然シ其ガ為ニ対側ヲ汚損スル事は少カルベシ」

 

 熊谷は、4月に引き続き、7月にも陶庵印譜を作成することとなった。

 水口屋は坐漁荘の近くにあった旅館で、中川小十郎など西園寺公への訪問者がしばしば宿泊した。西園寺公ゆかりの宿である。その主人のたっての依頼で第二回限定四部を作成した。浮月主人というのは静岡の浮月楼の主人杉本宗三である。711日の日記に浮月楼主杉本宗三と水口屋元一が礼に来たと記している。

 浮月楼は明治に入り徳川慶喜が屋敷とした跡で、明治26年に料亭として開業した。伊藤博文、井上馨、西園寺公望など名だたる政治家がしばしば利用した。

 第二回目の陶庵印譜は第一回のものよりもやや印影が薄かったものの、上手にできたと言っている。

 

以上のように、陶庵印譜は昭和16年の4月および7月に限定九部作成されたのである。

「陶庵印譜」はその後、どのようになったのだろうか。

 

2.立命館所蔵「陶庵印譜稿」

 

 立命館大学の図書館に「陶庵印譜稿」が所蔵されている。

 熊谷八十三氏贈附 昭和十六年 と記され、中川小十郎の署名と花押があり、『西園寺公印譜』と題した和装の表紙が付けられている。

 「陶庵印譜」作成後その年のうちに中川あて寄贈したもので、4月作成の手控二のうちの一冊と思われる。

熊谷は昭和1511月の西園寺公没後も中川と交流があり、173月には立命館文庫長に就任している。

 中表紙は、「陶庵印譜稿 昭和十六年四月三日作成」、また巻末に「限定五部ノ一」と記されている。

 陶庵印譜稿と記された一葉ごとに袋とじとなっていて44葉が綴られている。一葉は表裏があり、1点から数点の印影が朱で押されている。

 巻末に「一ノオ」(一枚目の表)、「一ノウ」(一枚目の裏)から「四十四ノウ」までそれぞれ印影・印材の説明や作者の名が記されている。

 「一ノオ 三個揃ヒ黒木印」、「一ノウ 三個揃 石印田黄」などである。

 「二ノウ、九ノオ」は桑名鉄城刻で桑名は西園寺公の篆刻の先生である。

 「十一ノオ」は「三個揃石印櫛紐田白 缶道人呉昌碩 病臂」とあり、清代最後の文人呉昌碩が病をおして印刻したものと説明している。西園寺公望と呉昌碩の関係は後述する。

 「十三ノオ」は「山陽刻 天草ノ詩」で、頼山陽の印刻である。

 「十九ノオ」は蔵書印である。

 巻末には、西園寺の偽印を二例あげており、偽物が出回っていたことを窺わせる。

 

【立命館所蔵 陶庵印譜】

 

3.国立国会図書館憲政資料室所蔵「陶庵印譜稿」

 

 国立国会図書館憲政資料室に熊谷八十三関係文書が所蔵されている。関係文書は熊谷八十三没後の1984年および1986年に熊谷家から寄贈されたものである。熊谷八十三日記がそのほとんどであるが、関係文書の中に「陶庵印譜」と「陶庵印譜稿」がある。

 

「陶庵印譜」は断片的でそのうちの一葉に「昭和十六年八月十八日陶庵印譜稿用紙ノ堆裡ニ此数紙ヲ発見ス 依ッテ各印名一枚ヲ出シテ一綴トス」とあるが、内容については割愛する。

 

「陶庵印譜稿」については、表紙に「陶庵印譜稿 昭和十六年七月九日 第二回作成」としており、末尾に限定四部ノ一としている。

熊谷日記に第二回分は水口屋と浮月楼主人に渡した以外記されていないので、さしあたり熊谷が二冊保存し、そのうちの一冊が後に熊谷家から国会図書館に寄贈されたものであろう。

用紙の大きさは横16センチ、縦28センチほどで、立命館所蔵のものとほぼ同じである。

46葉がそれぞれ二つ折りになっていて、立命館所蔵の印譜と同じく、一葉にそれぞれ表と裏がある。

また別にバラで7葉がある。

 立命館の印譜稿は巻末にまとめて簡単な解説がついていたが、憲政資料室所蔵の印譜稿はそれぞれの印影ごとに解説がつけられている。印影についても全く同一というわけではない。

 印材については、一の裏が田黄、三の表が寿山などと記載され、他に木印、石印、銅印などと書かれたものもある。作者についても三の裏は桑名鉄城刻、また七の裏は「缶道人呉昌碩病臂作此 己未立春 行年七十有六」で、立命館所蔵十一ノオと同じ印影である。

 十六には木印常用として、「静岡縣興津 公爵西園寺公望」「静岡縣御殿場町 公爵西園寺公望」と「静岡縣興津 西園寺公望」「静岡縣御殿場町 西園寺公望」「京都上京田中町 西園寺公望」がある。立命館所蔵のものでは十八ノウがこれにあたる。

 全体に立命館所蔵よりも印影が薄いが、熊谷が「上手ニ出来」と言っているのは、それぞれの印影毎に解説をつけたことによろうか。

 また挟み込みの7葉のうちには、偽印について書かれたものや、金印の比重について計算したものがある。

 

【国立国会図書館憲政資料室所蔵 陶庵印譜】

 

 4.神谷家所蔵「陶庵印譜」

 

 神谷千二は西園寺公望の京都別邸清風荘で執事をしていた。

 その神谷家(神谷厚生氏)に西園寺公望関係文書が所蔵されている。その中に「陶庵印稿(白紙)」、「陶庵印譜稿」、2種の「陶庵印譜」、と計4点の印譜資料がある。

 これらは西園寺公の遺品を整理する際に熊谷から神谷千二に贈られたものと思われる。

 「陶庵印稿(白紙)」は、憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」の挟み込みのうちの1葉と同じ用紙であるが、白紙とあるように印影、解説等何もなく文字通り陶庵印稿とあるのみである。

1枚の用紙の中央に陶庵印稿の文字、両側に印影を押す枠があり、袋とじにして表裏になるように作られている。

 「陶庵印譜稿」は、袋とじにする予定であったであろうものがそのまま見開きで25枚ある。大方は朱の印影のみである。印影についての解説は無い。

 「陶庵印譜」2点のうち1点は竪帳である。横14センチ、縦21センチで、それぞれの白紙に朱の印影が1から3個押されている。印影のみで解説は無い。

 特徴的なものがもう1点の「陶庵印譜」である。133点ほどの印影(朱印)が横19センチ、縦127.5センチの台紙に押され、更に横30.5センチ、縦180センチほどの軸装となっている。

 これらの印譜は、おそらく限定九部を作成する過程で作られたものではないかと思われる。いずれも印影ははっきりしていて、朱も鮮やかである。

 

 【神谷家所蔵 陶庵印譜稿】    【神谷家所蔵 陶庵印譜】

【神谷家所蔵 陶庵印譜】        【神谷家所蔵 陶庵印譜部分】

 

5.竹越與三郎「陶庵公印譜抄」と呉昌碩の印


(1)竹越與三郎『陶庵公』「陶庵公印譜抄」

竹越與三郎の『陶庵公 西園寺公望公傳』(叢文閣 昭和8)には、12件の「陶庵印

譜」が掲載されている。

「道徳爲師友」 大正天皇御宸翰中の語から取ったもので、桑名鉄城刻

「公望之印」 側面に(ママ)未立春先一日製 呉昌碩時年七十有六、とあり呉昌碩の刻

「陶庵」   側面に缶道人病臂作此、同じく呉昌碩刻

「無量壽佛」 側面に(ママ)未初春老(ママ)  同じく呉昌碩

「陶庵」   

「明月淸風我」 桑名鉄城刻

「悠然見南山」 自刻印か

「公望 陶庵」 桑名鉄城刻

「公望 陶庵 不讀 佛心 浩々乎 先酔」

「陶庵 不讀 呵々 清風荘 自在 多病」 鉄城

「煙横篷牕」  頼山陽刻

「小石 笠懌 平安 伯海」 

これらは①が憲政資料室所蔵の二ノ裏、②③④が七ノ裏、⑤⑥が四ノ表、⑧が十三ノ裏、

⑨が十二、⑩が十一、⑪が十八ノ裏、⑫が三十四ノ裏に当たる。⑦は見当たらない。

 竹越與三郎は『陶庵公』で、西園寺公は清風荘で印刻を覚え、その師は小林卓斎や桑名鉄城などであった。西園寺の印刻熱は中々に激しく、印譜に関する名著も所蔵し、集めた印も数千顆、田黄田白をはじめとした名材を数百個所蔵し愛玩していた、という。

 なお、「陶庵公印譜抄」は、伊上凡骨の摸刻で、石刻を木板で摸したものである。

 (2)呉昌碩の印

 松村茂樹は『呉昌碩研究』(研文出版 2009)で、西園寺公望所蔵の呉昌碩刻印について述べている。

「公望之印」〈己未立春先一日製 安吉呉昌碩 時年七十有六〉

「陶庵」〈缶道人病臂作此〉

「無量寿仏」〈己未初春 老缶〉

は三顆の組印(正方の姓名、正方の号、変形の雅句を組にしたもの)で、1919(大正8)年に西園寺公望が上海で呉昌碩と会談した際に依頼し刻印したものであるとしている。

 19191月、西園寺は第1次世界大戦後のパリ講和会議の全権大使としてパリに向かった。その途次上海に立ち寄り六三園で呉昌碩と会談しているのである。

 この頃呉昌碩は病臂のためほとんど代刻をしていたようだが、西園寺のために病をおして刻印をしたことが、その印に記されている。

 呉昌碩は中国清朝最後の文人といわれ、書・画・詩・刻印の四絶に秀でた人物であった。

 西園寺と呉昌碩の会談の模様は、池田桃川の『続上海百話』(1922)に詳しい。

 

6.陶庵所蔵印

 上記に見てきたように、陶庵印譜には西園寺の自刻印のほか、桑名鉄城、頼山陽、呉昌碩などの印もあった。

 陶庵印譜には印影のほか、側款のあるもの、また熊谷による解説があり、印の作者、印材、鈕などのほか、その由来を知ることもできるものもある。

印材は、主に石材を使ったほか、銅印、木印、竹根などの印もある。石材は中国福建省寿山石、その中でも最高級品と言われる田黄や田白、寿山に近い月洋郷の芙蓉石、浙江省の昌化石の一つ雞血(鶏血)石などを用いた。水晶や琥珀などもある。

鈕には龍・象・亀・獣・羊などの動物、蓮など花果をあしらったものがある。

西園寺自身は、これらの印材を桑名鉄城や鳩居堂から手に入れていた。

先に述べたように桑名鉄城〔元治元(1864)年~昭和13(1938)年〕は西園寺の印刻・篆刻の先生であった。西園寺の桑名鉄城宛書簡が『西園寺公望傳』別巻一に31点掲載されている。その多くに印刀や墨・硯を依頼することや、篆文のお手本の依頼や批評を請うことなどが書かれていて、西園寺と桑名鉄城の印刻をめぐる関係が知られる。

そのなかの大正(11)32日の書簡を紹介して結びとしたい。

陶庵西園寺公望は「陶庵」と「明月清風我」の印を桑名鉄城に依頼した。白文でも朱文でもよく字配りは如何様にも、としている。

その「明月清風我」は、立命館所蔵版では四ノオに「二個揃 石印平龍紐白更紗模様」とし、憲政資料室所蔵版ではやはり四ノ表に「平龍紐白更紗材」とし、側款をもとに解説が書かれている。この「明月清風我」は竹越與三郎の「陶庵公印譜抄」にも取り上げられている。

「明月清風我」は、陶庵閣下が散逸を惜しんで再刻を依頼し、壬戌(大正11)秋に作成したものと桑箕(桑名鉄城)が謹んで記したとしており作成の由来がわかるのである。

 

陶庵公の印譜熱は並々ならぬものがあった。篆刻作品である印章はそれ自体が工芸品であり、印材に刻まれる印影はまた独立した芸術品である。

「陶庵印譜」は、西園寺公望の文人としての一面を伝えてくれる。

 

 

20171018

立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

2017.10.03

<懐かしの立命館>西園寺公望公と佐乃春の料理

立命館「学祖」西園寺公望。自ら私塾「立命館」を創り、明治法律学校(現 明治大学)の講師、京都帝国大学、日本女子大学校(現 日本女子大学)の創立に携わり、第12代、14代総理大臣を務めた「最後の元老」。

西園寺公望は、また食通としても名を知られた人であった。

 

 

本稿は、公晩年の居宅静岡県興津の「坐漁荘」で、しばしば料理を届けた料亭「佐乃春」に伺ったお話です。(佐乃春は3年ほど前に約120年続いた料亭を閉じ、現在ホテルを営業しています。)

 

 

西園寺公から料理の注文が入ると、坐漁荘から自動車(リンカーン)が来て、料理とともに調理人も同行し、坐漁荘で盛り付けや温め直しをしたという。

店に残されている「お品書き」は24コースある。

お品書きからは、やわらかいものやさっぱりした味付けのものが多かったようで、蒸し物を好んだようだ。興津鯛なども好んだ。

料理は時季により食材が変わるが、上折と下折がある場合は下折に寿司を配した。

 

お品書きの1点に昭和14928日提供のものがある。

蛇の目海老、松茸はさみ焼き、白川甘鯛、無花果(イチジク)の品などが見える。

 

昭和14928日のお品書き】

 

また昭和15年度と書かれたものが数点ある。

写真の上部の日付は料理を提供した日ではないが、西園寺公は昭和151124日に薨去するので、最後の年に食べた料理ということであろうか。最も、体調が勝れない日が多かったと思われ、実際にどれほど食べることができたのかはわからない。

 

昭和15年お品書き】

 

実は、執事であった熊谷八十三の昭和15年の日記に次の記載がある。

1023日、園公爵誕生日 例ニ依リテ料理((ママ))ノ恵与アリ 

1024日、昨日ノ御馳走ノ中ニ於多福豆ノ甘煮アリ 此頃此辺デ売ツテ居ルモノニ

比シテ味質甚ダシキ差違アリ 矢張之ダケ異ナルモノカト感心ス

と記している。上のお品書きに福豆とあるのはそれであろうか。

更に1110日の日記には、紀元二千六百年記念奉祝式典のため、今日のお祝いに濱邸で佐(ママ)春の料理あり、と記載している。お品書きに日の丸や紀元二千六百年の文字が見えるが、料理の名に使ったのであろう。

 

佐乃春には現在も西園寺公が使用した食器が保存されている。九谷や京都の食器という。藍の色が深く美しい鉢や、黄色の地に水色のふちどりが美しい洋風のお皿、お椀の装飾も見事。どの器も料理の素材が生える色合いである。舟形のお皿にはアユなどを盛りつけたとか。

 

西園寺公使用の食器】

 

いつから佐乃春が西園寺公に料理を提供するようになったかはわからないが、お品書きには昭和11年のものも残っている。昭和11年といえば、二・二六事件の起こった年であり、西園寺公はこのとき興津を離れ静岡県知事官舎に避難した。その際佐乃春の食事を注文し、極秘裏に運ばせたと伝わる。

坐漁荘の調理人に対して厳しい西園寺公であったが、佐乃春の料理にはしばしば舌鼓を打っていたようである。

 

佐乃春では、西園寺公に提供した料理を復元していた。

次の写真は、割烹佐乃春が昭和13年に西園寺公に提供した料理を、平成16(2004)422日に現在の手法で復元したものである。

木の芽針魚昆布〆、穴子細川焼、里芋田楽、子持椎茸などの品が並んでいるが、当時(昭和13)レモンを付け合わせに出すことは珍しかったという。

現在は復元料理を味わうことはできないが、西園寺公の食した料理もまた歴史の遺産のひとつと言ってよいであろう。

 

【復元料理】

 

 

ご提供いただいた資料(複写)は、

 昭和11年献立表、13年度献立表、14年度献立表、15年度献立表

 復元料理資料

資料はいずれも 株式会社佐乃春 所蔵

 

 

2017810日、佐乃春を訪問。調査へのご協力、資料のご提供をいただいたこと、お礼申し上げます。

 

2017103

立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

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