立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2018.08.01

<懐かしの立命館>貴船演習林

 立命館には演習林があります。貴船演習林といいます。

 所在地は京都市左京区鞍馬貴船町と鞍馬本町で、貴船神社の北、京都府道361号上黒田貴船線沿いに1号地から5号地まであります。

面積は合計232,829㎡で、衣笠キャンパスが125,720.88(20173月現在)ですから、そのおよそ2倍の面積となります。

 

 

≪演習林の取得≫

 市街地から離れた貴船演習林は、いつどのような目的で取得したのでしょうか。

史資料センターに取得当時の土地登記簿謄本が所蔵されています。

 買主は財団法人立命館、売主は無限責任摩気信用購買利用組合で、昭和18(1943)1228日に売買契約をし、昭和19(1944)417日に登記したことがわかります。摩気信用購買利用組合は当時京都府船井郡摩気村にあった組合で、現在の地名では南丹市園部町()()地区にあります。現在組合は無く、売買の経緯は不明で

 取得時と現在(1992年の土地登記簿謄本)では、所在地名が変わっていますが、場所は同じです。地目が山林から保安林に変更されていますが、変更は昭和32(1957)917日の京都府による保安林指定によります。面積は、取得時が71,195(㎡に換算すると234,943.5)、現在は232,829(坪に換算すると70,554.24)ですから若干減少しています。この減少は、昭和22年に府道を整備するために京都府に寄附したことなどによります。

 

≪取得の経過と利用≫

(1)取得後の寄附行為と背景

 演習林を取得した目的は、財団法人立命館寄附行為に書かれていることにあると考えます。

 取得後の昭和19(1944)531日に改正認可された「財団法人立命館寄附行為」は、

   第10条 本財団ニ於テハ将来其ノ資力ノ充実ヲ保チテ左ノ事項ノ実行ヲ期スルモノトス

そしてその六に、本財団ニ於テ山林及農場等ヲ経営シ生徒ノ勤労鍛錬ノ道場ト為シ土地ニ親シム勤労鍛錬ヲ以テ学園訓育ノ基本的施設ト為スコト

とあります。それ以前の寄附行為には上記の条文は見当たらないことから、立命館は山林や農場等を経営し生徒の勤労鍛錬、訓育の施設としたことが窺えます。

 

 時代背景を考えると、戦況の悪化により学校に関係する戦時非常措置だけでも

  昭和16(1941).10.16 「大学学部等ノ在学年限又ㇵ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」

     〃   11.22 「国民勤労報国協力令」

  昭和18(1943). 6.25  「学徒戦時動員体制確立要綱」

     〃   10.12 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」

  昭和19(1944). 1.18  「緊急学徒勤労動員方策要綱」

などの勅令公布や閣議決定が次々と打ち出されました。

 また京都府は、「大東亜戦争記念林設置要綱」を制定し、昭和17(1942)1120日に「大東亜戦争記念造林設置奨励ニ関スル件」を市町村長、中等学校長、国民学校長に宛て通牒しました。

 通牒は「今次事変勃発以来木材木炭ノ需要俄ニ増大シ……造林ヲ促進スルハ焦眉ノ急……全国的ニ大造林運動ヲ展開シ併セテ学徒青少年等ガ造林作業ノ実践ヲ通ジテ心身ノ鍛錬ヲ行ヒ広ク国民ニ国土愛護ノ精神ヲ昂揚セシムル事……」(「京都府広報」昭和171120)と、学校林および団体林の設置を奨励しました。

 さらに昭和18716日には、「大東亜戦争記念学校林造成奨励金交付ノ件」を通牒し、学校林造成実施について格段の配慮をするよう通牒しています(「京都府広報」昭和18716)

 こうした戦時の国策や行政の施策が実施されるなか、勤労動員先は企業の工場以外にも木材や食糧等の物資の調達のため山林や農場を確保することとなり、生徒の勤労・訓育の場となりました。

演習林取得とその後の寄附行為の改正は、そうした戦時の状況を反映しているのではないでしょうか。

 

 

(2)「督学報告」の勤労動員先

 それでは立命館において、演習林が実際にどのように利用されていたのでしょうか。

 昭和19(1944)4月立命館では督学制度が始まります(注1)。中川総長が「督学」を任命し、督学は総長に毎月大学や中学校の学徒勤労動員など学校の状況を報告しています。

 その「督学報告」のなかの立命館農林部作業学徒勤労動員出動表の昭和196月分には、衣笠農場(注2)に一中・三中・商業の生徒が勤労動員に出動、貴船山林に一中502人、商業672人が出動していることが記録されています。中学生はほかにも小倉村などへ麦の取入れや祝園部隊に軍需品の製造搬出作業などに行っています。

 同年7月にもやはり衣笠農場と貴船山林に出動し、貴船では一中の219人が樹枝伐採、木材引下しの作業を行っています。

 さらに、1110日には二中の生徒が貴船山の作業に出動しています。

督学報告からは、農林部が衣笠農場や貴船演習林の作業を手配していたと思われます。

なお、一中は立命館第一中学校、三中は立命館第三中学校、商業は立命館商業学校で、北大路学舎(現在立命館小学校のある場所)にありました。また二中は立命館第二中学校で上賀茂神山校舎にありました。

(3)農林課

督学報告には農林部の存在が知られますが、同じ昭和19(1944)1229日、理事会は立命館基本機構および各部機構の設定を実施します。これは中川総長が107日に逝去した後の学園体制づくりですが、法人の事務部門を総務部・財務部・事業部・医務部とし、事業部のもとに農林課・企画課を設置しました。

 この機構改革は、翌昭和2016日の理事会で「立命館内規」として制定され、農林課は農林経営事務を統括し、教職員、学生、生徒の給食、学園に必要な用材、薪炭の補給等をその担当としました。

 そして戦後、昭和21(1946)16日の理事会で内規が改正され「立命館館則」に改められ財団の機構整備が図られます。法人事務部門として総務部・財務部・医務部が置かれ、総務部のなかに庶務課・人事課・農林課・校友課が設置されました。農林課は農林の経営企画を統括しました。

 昭和23(1948)2月現在の「立命館専任職員名簿」には、農林課長、農林技手の職名が見られますが、昭和23531日の改正館則では農林課の課名は見当たらず、財務部経理課が不動産管理業務を担当していることから、農林部・農林課は戦中からこの時期にかけて演習林の経営を担っていた部門・部署であったと言ってよいでしょう。

(4)戦後の演習林

演習林立木の利用と土地一部処分

 昭和221219日、評議員会は「基本財産貴船演習林立木及び土地一部処分」を決定しました。

 新制大学への移行をはかるこの時期、学舎の狭隘と新学制の実施に対応するため、研究所、図書閲覧室、学友会館を建築するものとし、その用材を貴船演習林の立木三千石を伐採して充当すること。また京都府が黒田京都間の道路を拡築するについて道路敷として寄附をすることとなりました。道路が完成すれば著しく利便が増すとの判断でした。

 評議員会の決定により、同月22日に文部大臣宛「基本財産処分について」により処分の承認を申請しています。

 その内容は、貴船山林の松杉立木三千石を校舎増築のため処分すること、および府道敷のため鞍馬長ユリ7番地のうち419.025坪と貴船長ユリ5番地のうち321.825坪、計740.85坪を京都府に寄附するというものでした。

間伐樹木の売却

 昭和26年には演習林の間伐樹木2,791(見込材積1,136.18)および風害木約400本を356,582円で売却の契約をしています(注3)。ジェーン台風により被害を受けたことが契機となったようです。

 

 

 (1) 督学は戦時下の立命館財団一般事務の整備ならびに学園全般の教授、訓育、修錬勤労作業および保健等の振興について査察、督励をし、戦時国家の緊喫(ママ)要請に応えることを目的とした制度(昭和19年「立命館督学規程」より)で、4名の督学が任命され実施されたものです。なお、当時文部省は、「文部省教学官規程」を制定していました。

 (2) 衣笠農場は、現在の衣笠キャンパスの一角に、当時は等持院校地と言われましたが、昭和23年頃までありました。農林部や農林課があったので、食料の生産、自給活動が実施されたと思われます。

 (3) 現在とは材木価格の比較が困難ですが、同年(昭和26)の立命館大学一部文系

学部の授業料は年額9,500円でした。

 

 

 以上、貴船演習林取得の経過と戦時期の利用、戦後の立木の利用・処分について概観しました。その後、山林・立木の鑑定評価も行っていますが、維持管理は委託により今日まで継続してきています。

 

 

201881日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2018.06.14

<懐かしの立命館>戦後初の付属校学校新聞「清和」発刊~旧学制から新学制へのかけはし~

1947(昭和22)年21日、戦後初めての旧制立命館中学校新聞「清和」が発刊されました。

 1.戦後の世相と新制中学校・高等学校

発刊された当時は、戦後の激動まっただなかの時代で、敗戦後の価値観の変動、民主化への試行、国民生活の疲弊と猛烈なインフレなど、どれ一つをとっても大変な時代でした。

1946(昭和21)年11月に公布された「日本国憲法」に基づいて、教育界でも制度の改革が進み、1947331日に「教育基本法」と「学校教育法」が公布され、41日から新制中学校が、翌19484月からは新制の高等学校が誕生します。

新制の中学校・高等学校になると、多くの学校で生徒が主体となった新聞が発行されるようになりますが(注1)、立命館中学校ではまだ旧制であった19472月に、はやくも生徒主体の学校新聞「清和」が発行されたのでした。

生徒有志による「清和」の発行は、第1号だけしか確認されていませんが、終戦から1年半で発行された「清和」の記事には当時の民主化・言論の自由化の雰囲気のなかでの生徒たちの熱い思いが凝縮されていました。

2.1947(昭和22)年の旧制立命館中学校の姿 

学徒勤労動員で長く学校を離れていた生徒たちが終戦後に学校へ戻りましたが(注2)、教科書も十分に揃わず(写真1)、授業も何を教えてよいのかわからないような手探り状態のなかで授業は再開されました。今までの価値規範が崩壊し、生徒たちは自分たちを支配していた政治の間違いを知り、これからどう生きるかを模索していました。このなかに、戦後の民主主義国家建設に向けて、自分たちが主役となるのだという大きな希望に胸膨らませている生徒もいました。


 

写真1 当時の教科書(19465月発行の「中等数学三」) 史資料センター蔵

 


3.生徒たちの熱い思い

このような生徒たちによって、立命館中学校で初めての学校新聞が、1947(昭22)年21日に発行されたのでした。

紙名の「清和」は、中学校商業学校の同窓会「清和会」の機関誌と同じ名前でした。題字は当時の部長(6つの付属校を統括する役職名)羽栗賢孝(注3)によって書かれていました(写真2

奥付には編集人として「立一中 山本弘之、則松郁人、大村茂雄」(3名は共に立命館第一中学校4年生)。そして、大津市の印刷所の名が記されています。

この第1号はB5版16頁にわたる大作で、記事のタイトルと内容には、当時 の生徒たちの民主主義への熱い思いで満ち溢れています。 

新聞の顔である第1頁を飾ったのは中学4年生の編集人大村茂雄(注4)による『発刊に際して』でした。戦前の学校誌の順序からすれば、「立命館禁衛隊」(注5)などのように学校長の祝辞や訓示、訓話が掲載されているところが、生徒による文章がトップに位置し、レイアウトや体裁は未熟ながらも、その内容には敗戦後の日本や学校を自分たち若者が中心となって建設していかねばならないという大きな希望と強い使命感が湧き出ているのです。自分たちの生活は政治と密着していると考え、国家を論じています。これこそ新時代の息吹といえるものでした。

写真2(「清和」第1号 1頁)

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    大村茂雄の投稿は次のような内容でした。

「敗戦、此の苛酷なる現状より立上り、一刻も早く民主的學園を建設し、幸福な住みよき社会を構成するのは、我等に課せられた、最も重大な使命でなくて何であらうか。

敗戦此の方、一年有半、超国家主義と、軍国主義打破に伴ふ、學園民主化の叫びは、我等立命館學徒を、如何程自主的にし、又向學心を奮起せしめ、且又進取的ならしめたか。渾沌たる社会の荒波にもまれつくした、我等の中には、遂にとるべき方向を誤り、自覚の念を失ひ、自由と放縦とを履き違へ、學徒にあるまじき行為さへも敢てし、世人の顔を背ける様な態度に出ずるものが多々あるのは、否み難き事実である。斯くの如き実情を放置すれば、我學園の存続は、最早憂慮すべき状態となるであらう。だが、一學園の興亡と云ふことより、もっと留意し、真面目になって考へなければならない問題は、我等青少年學徒の精神遅緩によって、此の乱れた社会が益々乱れ、頽廃せる道義が益々頽廢し、果ては、我民族の滅亡を招くと云ふことである。此處に我等は、大いに反省し、大なる理想を持って、世界人類の幸福發展のために進まねばならぬ。それとともに、一時の迷いに踏込んだ人々を善導するのも我等の仕事の一であらう。

 學校生徒自治會が發足し、學徒の自治機関は構成されはしたが、果して、其の活動振りは如何であったらうか。上辺に走り、末端にとらはれ、學徒の本分を忘れ去った様な状態が伺はれるのは遺憾なことである。勿論、戦争中軍国主義によって教育され、上司の云ふがままに動かざるを得なかった我々に早急に自主的たれと要求するのは無理である。しかしそうかと云って、いつまでもその状態でよからうか。否、一刻も早く、真の自由に目覚め、民主學園の建設に努力しなければならない。しかるに今の學徒が全般的に思想が貧困であることは大いに憂慮すべきことである。

 今回、有志者による月刊紙を発行することになったが、勿論未完成な我々の編集による、拙い一紙ではあるが、少しでも立命館學徒の啓蒙運動に貢献することが出来得れば編集人として最も幸甚とするところである。

 経済的、内容的に最も困難多き、此の事業に敢て当らんとする、我々の志を諒として、其の目的達成の為に校友諸君の絶大なる御後援を切望する次第である。」

 

 また、『新聞発刊へ望む』と題して投稿した第三中学校三年の船越力は「……此の新聞が校内民主化の重要部門となり得るものであり、校内の重要発展を全生徒に知らしめて学園民主化の先駆たる事を確信する次第である。」と、学校新聞の意義と役割を説いています。

  匿名で生徒が投稿している『学園の民主化について』と題した記事では「学園の民主化の道に立塞っている怪物とは何か。軍国主義、封建主義、超国家主義である。而もこの怪物の多くは鎧を巧みに民主化の衣の下に隠しているのが常である。……先生と生徒との関係をより緊密にし、真理の探求への道を互いに手を執って愉快に進ましめるものである。」と述べています。大人以上に鋭く社会の裏側を見抜いていました。

4.教員たちからのエール

これら生徒たちの投稿に対して、大人たちは若者の力に期待と賞賛のエールを送っていますが、裏を返せば、戦後社会に希望を見出せずにいたのかもしれません。

1頁の生徒の文章に続いたのは、卒業生で母校の立命館第一中学校の教諭となっていた小山五郎(注6)の『生徒諸君の自主的な月刊紙の創刊を祝して』でした。立命館の生徒が自主的に新聞を発行することが、これからの日本の再建にとって欠かせない力となっていくはずだと絶賛しています。母校が成長する姿に感慨もひとしおだったのかもしれません。

 「……敗戦後、本学園に於ける生徒諸君の自主活動のうち、極めて意義ある企であるのみならず、中等学生として全国的にみて極めて進歩的、建設的、且つ画期的な試みであると信じ、ここに満腔の賛意を表すると誠に慶賀に堪えません。……諸君等の中から盛り上がる自覚自治の態度の確立こそ、将来に於ける日本の再建を一日も早からしめる重大な鍵でなければならないと信じるものであります。……諸君等による学園新聞の刊行が極めて意義ある企であると共に従来の種々の自主活動に対して画竜点睛的な意味を有つものとして絶大の賛辞と敬意を感ずるのであります。……

     校長平口正雄(注7)は『井蛙論』と題した文章のなかで、田沼父子を例に出して、客観的に物事を見ることの大切さ、科学的であり合理的な物の考え方がこれからの日本人にとって必要であることを強く述べています。そして、最後には生徒たちに井戸から出て、希望多い新しい世界への第一歩を踏み出そうと強く呼びかけています。

 社会科教諭の柳田暹瑛(注8)は『若さと言ふこと』と題して、祖国日本を新しく再建し、明日の日本を建設するのは、高い教養を身につけ、いかなる障碍をも越えて真実を追求して生きる情熱の青年でなくてはならないと述べています。

 

5.「清和」から見える当時の学校生活

 学校新聞「清和」からは、当時の学校生活の様子も知ることができます。

      則松郁人(編集人)は、当時の狭い運動場とクラブ活動の様子を「競技には勝ちたい、ガラスは割らないようにしたいと思ったところで、猫の額ほどの狭い運動場で生徒たちが休み時間に球技で遊び、放課後も運動部の練習に励んでいる。その結果、校舎の窓ガラスが何十枚と割られることになってしまっているが、修繕が追い付かないでいる。猫の額ほどの運動場では野球、庭球、陸上競技が練習していて、その上にラグビー、ホッケー、サッカー等の部を設置したいという声があがっている。部員たちは猛練習をして試合に臨んでいるが、応援席は閑散としている。」と嘆いています。

後に新制の学校として生まれ変わっても、北大路学舎の狭隘な環境のなかで育つ生徒の姿は最後まで変わることはありませんでした。

       また則松は、「読書雑感」で学生にとっての読書が重要であると述べながら、学校設備の不十分さを「次号からは書評なども掲載していく予定である。….ただ残念なことに、本校には図書室もなければ読書研究会も蔵書交換会などもない。図書室の設備のないような中等学校は自慢にもならず全国でもそうザラにはない」と訴えています。

     このことに関しては、学校側もその現状打開のために努力していました。勤めて2年目の教諭上田勝彦(注9)は「講堂を自習室として開放し、図書部を早急に講堂横に設け、生徒より部員を募りその活動により生徒の読書、自習の便に供せんとの計画を立案する。そこで図書を整理したところ、予想以上に多くの図書が欠本していることが判明した。これは長期間責任の係がなく、教員が自由に図書を持ち出したからである。教員の教育を通しての祖国復帰への熱意の薄さを憂う。一冊でも多く回収して漸く芽生えてきた学園の文化的向上の意欲にそうべく貧弱極まる図書室を充実したい」と悲惨な現状と教育者としてなすべきことを振り返っています。

 部活動では野球部、卓球部、庭球部、陸上競技部などの名が並んでいます。文化部では弁論部の活動が抜きんでていました。戦後、まだ学校新聞が民主化へ十分な活躍のできていなかったころ、啓蒙のための最高の手段は弁論(言論)でした。そのため、弁論部は全国的も花形クラブで、立命館でも然りでした。

文化部では他に生物班、美術部などに加えて特筆すべきは聖書研究会でした。部員は約20名で、校内では月水の朝8時からの活動で聖書を読み、英語を通じて世界の文化を研究していました。また進駐軍牧師大尉が来校して講演したり、日曜礼拝も行ったりしていました。研究会の創設から活動を指導していたのは、英語科教諭鈴木七郎(注10)でした。終戦後2年も経たないなか、男子校にあってこのような活動が続けられていたことに驚かされます。

  コラム欄には、生徒の生の声が紹介されています。既述の「立命館禁衛隊」(注5)にはなかったもので、自由な時代の息吹が感じられます。そのいくつかを紹介すると、「つまらない方がいいのは煙管と煙突だけ」「『ゲタハキモノ』を『下駄は着物』と思ったら『下駄履物』だト。漢字制限の悩み」「桃色雑誌の発刊停止は学生、生徒へコーヒーをより多く飲ませる為の警視庁の非常措置となるのでは。真に憂ふべき事であろう」(写真3

 

 

6.新制立命館中学校高等学校「立命館タイムス」の誕生

「清和」発行当時は、紙不足が全国的に深刻で、大手の新聞社でさえGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの圧力によって教科書作成のために発行を縮小し、紙を教科書に充当しなければならないような時代にあって、どのようにして生徒たちは費用を捻出し紙を確保したのでしょうか。GHQによる「学園の民主化と言論の自由化」の一環として全国の学校新聞の発行のために何らかの特別措置があったのではないかと考えられますが、これは1948年の新制高校誕生以降のことです。

 学校新聞発行にはこのような厳しい状況がありましたが、それでも「編集後記」(写真4)には第1号発行までの経過と反省、そして次号予告が次のようにまとめられています。

「新聞の発刊は、よほど以前から羽栗先生たちで企画されていたが、第1号は計画と発表があまりに急で、準備が十分にできなかった。写真やカットがなく、紙面にも活気が感じられない。次号からは父兄欄、読者欄、映画欄などを設置して多くの記事が編集室の机上に山積するほど集めたい。先生の書かれたことであろうと間違っている、自分の方が正しいと信じる人は忌憚なく堂々と書いてください。匿名は守ります」


写真3(「清和」第116頁)

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2号への期待と抱負はしっかりと書かれていました。しかし、残念ながらその第2号は確認されていません。

1号発刊から2ヵ月後、「教育基本法」・「学校教育法」が公布され、41日に新制中学校が発足されます。立命館中等部新聞部によって学校新聞「立命館タイムス」第1号(注11)が発刊されたのは1127日のことでした。「清和」創刊から僅か9ヵ月にして、一般紙と比較しても見劣りしないほどレイアウトや体裁は大きく技術を進歩させています(写真4)。こうした特徴は新制高校で全国的にも見られるようになり、新しい時代の学校新聞として本格的な展開が行われていくことになるのでした。

この「立命館タイムス」については、改めて紹介することにします。

 

写真4「立命館タイムス」第11

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2018年6月14日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 

 

1:「立命館タイムス」(立命館中等部新聞部)第51948311日付記事から作表

 


2:学徒勤労令廃止 (19451010日)

3:羽栗賢孝は、1940年に立命館中学校・商業学校夜間部社会科教諭として奉職。19423月から443月まで第一中学校・第一中学校夜間・商業学校の校長を務め、19451月から485月までを中学部長として各付属校を統括した。

4:大村茂雄は昭和23年立命館第一中学校卒業。「脚に障害をもちながらも野球部に所属し、速球投手として活躍していた」と2学年後輩の卒業生が語っている(新制高校第1回卒業生S.I氏談)。1961(昭和36)年から1970(昭和45)年まで立命館高等学校で数学の非常勤講師を勤めた。

5:「専ら立命館中学校並びに立命館商業学校の人心の統制、学術の奨励を目的として発行された月刊誌で、この機関誌には生徒の詩編や随筆文も掲載され、生徒と父母への学園広報誌としての意義を持っていたが、(中略)、学園の教育理念を徹底する啓蒙的役割を果たしていた」(立命館百年史 通史1 p462

6小山五郎は旧制立命館中学校1932(昭和7)年卒業。1939(昭和14)年から1974(昭和49)年まで立命館中学校高等学校で社会科教諭として在職。新聞部や社会研究部などの顧問を務める。立命館中高創立50年の時には校史のまとめに尽力した。

7:平口正雄は異色の学歴と役職をもつ。戦前に京都帝国大学動物学科と東京帝国大学獣医学科卒業の学歴をもつ。194510月に立命館第一中学校に奉職。47年から第一中学校校長、48年に高校校長となるも、2ヶ月足らずで退職。京都府教育委員会に入り学校教育部長を務めた。その後、56年に再び立命館中高教諭となり、60年から63年までの間、中学校校長と高校校長代理の職についた。

8:大津の三井寺の僧侶でもあった柳田暹瑛は、弁論部の顧問を務め、全国弁論大会で優勝する生徒まで育てている。この頃の柳田は、よく生徒たちを「裸木」と例え、若者たちが教育によって育ち未来に羽ばたくことを常に授業でも熱く語り続けていたと、当時、柳田が学級担任をしたクラスの卒業生は語っている。この時の生徒たちは、卒業後、毎年「裸木会」という名のクラス会を開催していて、現在は学年同窓会の名に拡大して継続している。柳田の教えが今でも卒業生たちに行き続けている(1953年高校卒Y.S氏談)。

9:上田勝彦著「昭和をあゆむ野の小径」 p21「図書部の創設に就て昭和225月」

  上田は東京帝国大学国史学科卒業。陸軍に入隊し中尉で終戦を迎えた。28歳で立命

館中学校に奉職。立命館中高の教育発展のため多大な努力を惜しみなく続け、当時の

末川博総長からの信頼も厚く、1963年から66年には現在のような一貫教育校として

初めての中高校長となった。

10:鈴木七郎は1937年に商業学校英語教諭として奉職。新制中学校高等学校の教諭を勤めながら、立命館大学の英語講師も兼務。1961年から63年まで高等学校補導部長の役職に就いた。英会話が堪能で、GHQが北大路学舎に乗り込んできた時に一人で対応されたというエピソードは、当時を知る卒業生たちの有名な思い出話である(新制高校第1回卒業生S.I氏談)。

11:生徒の公式の活動として新聞部が設けられ発行された学校新聞。19471127日に第1号以来、1976(昭和51)年1215日の第126号まで29年間にわって刊行し続けられてきた。発行所は1号から5号までが「立命館中等部新聞部」、6号から10号までが「立命館高等校中学校新聞部」、11号以降は「立命館高等学校新聞局」となっている。

2018.05.16

<懐かしの立命館>合格証書は卒業証書だった?―卒業証書の変遷―

20183月、立命館大学は6,745名の学部卒業生を送り出しました。前期卒業430名と合わせると2017年度は7,175名となります。

卒業式では卒業生に対し卒業証書が授与されますが、2017年度の法学部の卒業生は、下記の「卒業証書・学位記」を授与されました。

20183月 法学部の「卒業証書・学位記」】(A4)

 

しかし、この「卒業証書・学位記」も創立以来何度かの変遷を遂げています。本稿では立命館大学(京都法政学校を含む)の学部の卒業証書がどのような変遷を遂げて現在に至っているかを紹介します。いわば卒業証書の歴史とでもいうものです。

 

1.最初の卒業証書

 写真は、立命館大学の前身である京都法政学校第1回卒業生の「卒業證書」です。


【明治367月 第1回「卒業證書」】

画像をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。


 証書には履修した科目名と担任教員19名が記されています。この当時は専任教員がなく京都帝国大学の教員や裁判所の判事、弁護士が講師をしていました。

 証書の発行日は明治36710日ですが、卒業式は712日でした。今日まで、証書の発行日と卒業式は必ずしも同日ではありません。卒業生は57名でした。

 学校長は冨井政章(東京帝国大学教授)でしたが、肩書には従四位勲三等法学博士と位階・勲等・博士号が記されています。

 この卒業証書は横56㎝、縦41㎝で、卒業証書としては最も大きなものです。

 

 卒業式が7月に行われたのは大正9711日の第18回卒業式までです。前年の大正8年に、それまで学年が9月に始まり7月に終わっていたのが、41日から翌年3月末日を学年としたことによります。そのことにより第19回の卒業式は大正10327日に挙行されました。

 

2.戦前の卒業証書

 戦前の卒業証書は多くは残されていません。

 実は、『立命館学誌』第117(昭和39)に卒業証書の様式についての記事があります。

  〇卒業証書様式の改正

    今般卒業証書の様式を変更して、卒業生の履修科目を証書面に列記する事となった。

 第1回の卒業証書は履修科目を列記していましたから、いつからか不明ですが履修科目を列記しなくなったのでしょう。

 ところが、戦前のものとして、昭和10年の「卒業證書」が残っています。昭和10324日の発行で、法経学部の卒業生のものです。昭和3年に様式の改定をしたはずですが、履修科目は列記されていません。大きさは横36㎝、縦26.5㎝です。

 学長は昭和8年の京大事件で立命館に招聘された佐々木惣一です。佐々木は昭和93月から113月まで学長をしています。この証書も正三位勲二等法学博士の肩書があります。


【昭和103月 法経学部「卒業證書」】

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3.戦前から戦後にかけて

法学部や史資料センターには戦前から戦後にかけての時代の卒業證書の用紙が保管されています。学長事務取扱 織田萬や学長 松井元興、短期大学長 末川博の名の入ったものもありますが、立命館大学の名のみで学長名が入っていないものもあります。

これらは旧制大学の時代のもので、法経学部や専門学部、専門学校のもの、短期大学のものなどです。

 

4.昭和25年の「合格證書」から昭和47年まで

昭和234月、立命館大学は法学部・経済学部・文学部を設置する新制大学となりました。新制理工学部は翌年設置です。ところが旧制の大学学部や専門学校が同時にあり、旧制度の学校から転籍した学生もいたため、昭和253月には最初の新制大学の学生と旧制大学の学生が同時に卒業することとなりました。


【昭和253月 左 新制大学「合格證書」、 右 旧制大学「合格證書」】

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これまで卒業證書と言われていましたが、合格證書という名称になったのです。新制大学の合格證書は学校教育法第63(1)による、旧制大学の合格證書は大学令第10(2)による学士試験に合格し授与されました。学部長が学士試験に合格したことを証明し、総長が合格證書を授与しています。 

前年昭和24年の法学部の証書も大学令第10条による「合格證書」でした。また、昭和28年度まであった短期大学は短期大学長による「卒業證書」です。

「合格證書」の名称は、昭和333月まで続き、翌343月から「合格証書」と新字体に変わります。文章も併せて新字体となりました。大きさはA3よりやや大きく横4245㎝ほど、縦32㎝前後で年度によって多少の違いがありますが、いずれも縦書きでした。

 (1) 学校教育法第63条 大学に四年以上在学し、一定の試験を受け、これに合格した者は、学士と称することができる。現在の学校教育法は変更になっています。

 (2) 大学令第10条 学部ニ三年以上在学シ一定ノ試験ヲ受ケ之ニ合格シタル者ハ学士ト称スルコトヲ得。

 昭和473月は、最後の「合格証書」が発行されました。この合格証書には、卒業生の氏名の上に本籍地の都道府県名が書かれています(写真では省略しました)


【昭和473月 最後の「合格証書」】

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5.昭和48(1973)3月以降の卒業証書

 (1) 昭和483、卒業証書の様式が大きく変わります。これまでは「合格証書」という名称でしたが、「卒業証書」となりました。同時に大きさがB5(18.2㎝、縦25.7)となり、横書きとなりました。

 これまで学部長が合格の証明をし総長が学士号の授与をしていたのを、学部長名と総長が連名で授与し、○○学士と称することを認めるとしています。

 また証書を保管するものがこれまでは丸筒でしたが、エンジ色の布張りの表装ケースとなりました。


【昭和483月 「卒業証書」】(B5)


 そして昭和563月より社系学部に学科名を入れることとなりました。

 (2) 19823、卒業生の生年月日および証書発行年月日が和暦から西暦表記に変わりました。前年の11月、学園の文書を西暦表記とすることを申し合わせたことによるものです。

またこれまで証書の授与者の職名を「立命館大学総長」としていましたが、寄附行為および学則に従い(3)「立命館大学長」となりました(4)

(3) 学校法人立命館寄附行為 第6条 この法人の設置する学校その他一般教学に関する事項を総

括するため総長を置く。

    立命館大学学則 第11条 学長は、学校法人立命館総長がこれを兼ねる。学長は、本大学を

代表し、教育研究に関する事項を統括する。

 (4) 1981328日の大学協議会決定によります。

 

1990年の卒業証書とケース】

 

 (3) 19919、これまでの「卒業証書」は「卒業証書・学位記」となりました。同時に学士の称号も学位となり、法学部は「法学士」から「学士(法学)」となりました。

これは学校教育法および学位規則が一部改正され7月から実施されたことによるものです。前期卒業者から適用されました。

19919月 「卒業証書・学位記」】(B5)


 (4) 19943月、「卒業証書・学位記」の用紙はこれまでのB5判からA4(21㎝、縦29.7)に変わり、一回り大きくなりました。

 これは、19934月に文書規程が制定され、学園の文書の用紙サイズをA4判を基本とすると定めたことによります。

 (5) そして20003月、「卒業証書・学位記」は電算機により作成・発行されました。


20003月 「卒業証書・学位記」】(A4


それまでは、氏名・生年月日は手書きで、証書番号はナンバリングであったものが、すべて電算機による発行となり現在に至っています。なお、20003月の「卒業証書・学位記」と20183月のものでは、用紙のデザインは少し変わりました。


おわりに

 「卒業証書・学位記」の現行規定は以下の通りです。

立命館大学学則 第54条

 第54条 第17条に規定する修業年限以上在学し、学部則に定める卒業に必要な単位を修得した者については、教授会の議を経て、学長が卒業を認定し、卒業証書・学位記を授与する。


【お断り】 卒業証書の掲載にあたり、卒業生の氏名・生年月日等は略させていただきました。

 本稿は、法学部事務室所蔵資料、卒業生の方、および史資料センター所蔵資料をもとに作成しています。

 

2018516日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

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