立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2018.05.09

<懐かしの立命館>93年前 立命館大学硬式野球部は米国女子プロ野球団と試合をした。-1925(大正14)年11月8日 フィラデルフィア・ボビーズ交流戦-

2018年関西学生連盟春季リーグ戦の開幕

 

 今年も関西学生野球連盟・春季リーグ戦が始まっています。例年、各大学の新入生も参加し母校の野球部を応援するのも春季リーグらしい風物詩です。今季リーグ、立命館大学硬式野球部(以下、野球部)は京都大学戦、関西大学戦に勝ち点をあげ首位を保っています。2018430日現在) 現在の野球部は関西の雄としてその存在感は充分ですが、その昔、創部が後発の弱小チームは京都大学、同志社大学、関西大学など強豪チームからも相手にされなかった苦しい時代がありました。この話は、そんな苦しい草創期の面白いエピソードです。

パンフレット『平成30年度春季リーグ戦』関西学生野球連盟

 (立命館 史資料センター所蔵)

 

1923(大正12)年に野球部は誕生した。

 

関西学生野球連盟加盟の各校の創部は、同志社大は1889(明治22年)、京都大学は1898(明治31)年に、そして関西学院大学は1899(明治32)年、関西大学野球部は1915(大正4)年、近畿大学は1949(昭和24)年に創部されています。(パンフ『平成30年度春季リーグ戦』関西学生野球連盟)

 立命館大学野球部は、今から95年前の1923(大正12)年に創部されていますが、他の4校(同志社大、京都大、関西学院大、関西大)と比較すると随分と後発の創部でした。

 創部当時の野球部は、「野球は9人でやるものなのに試合となると人がいないから各部から応援選手になってもらった有様だった。野球部のメンバーには今日は陸上、明日は野球とかけもちで活躍していた。試合にしても大学はむろん中学なんかも相手にしてくれない。実業団もこちらから頼みに行かないと相手にしてもらえない。施設もグランドなんて名のつくもののあるはずがなく、練習は公共の岡崎グランド(現在 京都市岡崎野球場)を使用するのだが、9人集まって練習したことがない」(『立命館学誌169号』)という有様でした。

野球部は、井村信正、小山恭二、長村甚一など野球好きが10人集まって部を創設しました。創部時の部長と部員は次の人たちです。

部長 高畑彦次郎(1)、主将 井村信正、マネジャー兼選手 小山恭二、選手 長村甚一、山田徳太郎、冨部亮ニ、大平武雄、原富士夫、田村和男、宮川(注2、大坪(注3このメンバーは6人でも7人でも集まると必ず練習をして、「いつかは大成するという志をもってやっていた。この時の先輩の心を思うと涙ぐましい」(『立命館学誌90号』)と後輩は語っています。

 

 

創部3年目、野球部はフィラデルフィア・ボビーズ(米国女子プロ野球団)と試合をした。

 

 草創期、京都の学生野球界は、京都大学、同志社大学、第三高等学校などが強くはばをきかせていて、本学野球部など相手にしてくれないものだからA大学、B大学、C専門学校などとの交流試合をおこなっていました。3年目には部員も確保でき初めて合宿をやっています。合宿といってもグランドはないので、「東海道の草津」(現在の滋賀県草津市)の空き地で各自米と夜具を持参して一軒家を借り自炊生活の合宿でした。部長の高畑彦次郎先生は「京都から肉を買って暑い夏の日に草津まで差し入れに行った」というほど熱心でした。(『立命館学誌169号』)

先生も創部3年目でようやく歩き始めた野球部が愛しかったのかもしれない。

 この頃(1925〈大正14〉年)になると部員数も20数名となり、一応チームとして整ったことから、京都・大学専門学校野球連盟に加盟し、初のリーグ戦(公式戦)に参加しました。

 

写真:岡崎球場(現在の岡崎公園野球場)立命館 史資料センター所蔵

 この創部3年目の野球部は、米国からきた女子プロ野球団と岡崎球場(京都岡崎公園野球場)で試合をおこないました。その米国女子プロ野球団のチーム名はフィラデルフィア・ボビーズ(以下、ボビーズ)といいました。

 ボビーズは、1921(大正10)年に創部されたといわれていますが、詳しいことはわかっていません。ボビーズは13才から20才までの女子選手で編成されたチームで13名、他に元メジャーリーグ選手のエディ・エイムスミスとアール・ハミルトンも参加した15名から編成された女子プロ野球団であったようです。エディ・エイムスミスとハミルトンはボビーズが試合をやってみて弱いようだったら、助っ人として出場し試合を盛り上げたようです。ボビーズは1925(大正14)年1019日に来日し東京、大阪、京都、神戸と遠征して、116日に京都入りします。京都入りしたボビーズは118日にまだ創部して3年目の立命館大学野球部(現在の立命館大学硬式野球部)と試合をおこないました。

 当時の野球専門雑誌『野球界』(注4では、ボビーズのメンバーが次のように紹介されています。

エル・カーンス 左利き投手。身長6フィート1インチ 、無邪気な少女である。

エン・シャーク 1塁手。チームの花形、ダンスの名手との評判が高い。

キ・ルース   投手。日本人タイプの美人、ダンスを好む。

エル・シャスター 左翼手。ダンスと音楽がご飯よりも好きと云う評判。 

エス・イーキン 捕手。強肩の持ち主である。

エン・ガーンス 右翼手。フィラデルフィアの資産家の娘。

エム・オガラー 中堅手。チームの最年長者。

エス・ゴンリン 捕手。活動写真が好き。

ジェー・フリップス 捕手。将来を期待されている。

エー・ノーラン 2塁手。活発な少女

エー・コーラス 投手。スローカーブを得意とするという評判である。

イー・ホートン  遊撃手。金髪の美少女で、1軍のスタープレイヤーである。

エフ・ガーネット 3塁手。金髪の美人で打撃に自信があるとの評判である。

                                     (『野球界』第1550号 米国女子野球団評判記 森泰城 )

 

一方、野球部は、京都・大学専門学校野球連盟(注5に加入して、初めて公式戦を戦うというほどの発達途上にあるチームでした。この点では同じ草創期にあったボビーズとよく似ていたのかもしれない。

写真:ボビーズと対戦した当時の野球部部員(大正14年)立命館 史資料センター所蔵

 

ボビーズと対戦した主な野球部のメンバーは、次の通りです。

 

 1番 松蔭暁   8 センター

 2番 北川久仁  7 レフト

 3番 長村甚一  6 ショート

 4番 太田□□(注62 キャッチャー

 5番 佐藤清   1 ピッチャー

 6番 田村和男  5 サード

 7番 小原映太郎 3 ファースト

 8番 江崎覺   4 セカンド

 9番 安藤重三郎 9 ライト

 

試合は、立命館の先攻で始まり、ハミルトンとエイムスミスのバッテリーから1回に2点、3回に1点、41点、5回には太田の3塁打で2点、最終77回コールド)2点を入れました。

一方、ボビーズは、1回裏にエイムスミスの3塁打で3点を先取し、6回にも安打と4球とで2点を加点し、7回には4球とエイムミスのホームランで2点を追加し、合計7点と追い上げましたが8A対7にて立命館が勝ちました。

 1 2 3 4 5 6 7  計

立命館   2 0 1 1 2 0 2  8(注7

ボビーズ  3 0 0 0 0 2 2  7

 

 当時の試合の様子がこのように報告されています。

 「1925(大正14)年118日 岡崎公園運動場に於いて米国女子職業野球団ボビーズと対戦した。敵は米国でも名高いハミルトンとエイムスミスがバッテリーを組み、我が立命館の打撃を封じるつもりであったらしいが、我が選手はよく善戦し遂に8A対7を以てボビーズを破ることができた。」(『立命館学誌』90号)

 

このエピソードは「創部3年目、ようやく量的に一応整ったチームとなり京都・大学専門学校連盟に加盟し始めて公式戦に参加した栄誉ある年に、米国女子プロ球団と試合をしていることは、(93年前で)時代のちがいとはいえ面白い(楽しい)ことである。」(『体育会の歩み 第1集』196011月発行)と語っています。

 

 1990年代以降、女子スポーツの活性化にも力を入れてきた立命館学園でも女子野球部や女子選手の活躍する姿が見れるかも知れません。

 

201859日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重

 

 

                          

 

 

<注釈>

1  本学教授であり、硬式野球部創部時に初代部長となり硬式野球部を支援します。教授は、大正141030日には立命館高等予備校の主事、その後高等予備校の校長なるなど学園の教育に尽力します。

2  現在調査中ですが、同じ姓の方が複数おられたため特定できません。

3 現在調査中ですが、同じ姓の方が複数おられたため特定できません。

4 雑誌『野球界』は、1908年から1959年までの間に、日本で発行していた月刊野球専門雑誌である。

5 『立命館学誌』No108

6 史資料センター所蔵の卒業生名簿から可能な限り該当者を推定しましたが、太田氏については該当する同姓名者が複数のため、特定できませんでした。

7 試合は7回コールドゲームとしています。その理由はっきりしていません。

 

<参考>

 1.パンフ『平成30年春季リーグ戦』関西学生野球連盟(2018年度)

 2.『立命館学誌』90

 3.『立命館学誌』169号 

 4.『野球界』第1550-米国女子野球団評判記-森泰城 野球界社 1925(大正14年)121日発行

 5.「日の出新聞」1925(大正14)1021日、同年 14117日、同年118日、同年119

 6.『体育会の歩み』(1号)196011月発行

 7.『日米野球裏面史』佐山和夫著

 8.立命館大学硬式野球部HP 硬式野球部の歴史

 9.『立命館百年史 通史三』

2018.04.04

「今日は何の日」4月 1988年4月8日は立命館中学校・高等学校で初めての男女共学入学式が行われた日

1988(昭和63)年48日、立命館中学校・高等学校が男女共学となって初めて女子生徒を迎えての入学式が行われました。夏に深草学舎移転を控えて北大路学舎最後となるこの入学式は、歴史的改革への第一歩となる日でした(北大路学舎跡地は現在の立命館小学校)。

 それまでの中村和歳校長に代わって大学から馬原鉄男校長を迎え、午前10時から高等学校の、午後1時から中学校の入学式がそれぞれ執り行われました。学校移転に向け生徒の増員が決定していたため(注1)、中学生は女子66名を含めて228名(前年が男子178名)、高校生は女子67名を含めて367名(前年が男子261名)でした。特に、中学校では女子の入学を機に、詰襟の学生服からブレザー型となり、ネクタイを締めた制服姿(服装指導でも生徒の自主性を育てることを目指して上下完全制服ではなかった)で、その表情は希望と緊張感がいっぱいでした。23年生は詰襟の学生服であったので、上級生から下級生を見る目は男女共学とあわせて特別であったようです。

 

 この中学校の新入生のなかからは、現在、立命館の附属校で活躍する教職員が何人も誕生しています。

 

 

 北大路学舎における女子生徒の入学は、この年が最初ではありませんでした。1948(昭和23)年設立の立命館夜間高等学校(注2)とその後の立命館高等学校定時制(注3)には女子生徒が在籍していました。1950(昭和25)年9月に夜間高等学校の補欠募集を初めて男女共学で実施し、3名の女子が合格入学したと記録に残っています(注4)。
 30年後の2018年の入学式は47日に挙行されます。新入生は中学校240名(うち女子115名)、高等学校333名(うち女子176名)です。今では中学校高等学校共に女子生徒の割合が50%を超えています。

 

20184月4日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

 

1;中学校が4から5クラス、高等学校が6から8クラスに増やされた。北大路学舎には急遽、特別教室を普通教室に改装し、簡易な女子更衣室も増設された。

219523月廃止

3;夜間高校の廃止に伴い、19524月に設立し19663月廃校

4;立命館タイムス(立命館高校新聞局発行)第15号(19501013日発行)記事

  「本校の同僚である立命館夜間高等学校が本年9月の補欠募集に「女人禁制」の伝統を破って男女共学を実施した際、勇カンなる女子三名が見事試験を突破して入学し、毎日北大路学舎に通学されている。参考までに失礼ながらお年を伝えると三氏とも芳キまさに三十余才。諸君よ失望するなかれ。」

2018.03.29

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る 第1部(京都御所~村岡)

まえがき

 

 2018年は、徳川幕府に代わって新政府が確立していく明治維新、明治元(1868)年から150年となる。

 慶応4(明治元)13日、新政府軍と幕府軍は鳥羽伏見において戦闘を開始、戊辰戦争が始まった。

 翌4日、新政府は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に、続いて三位中将西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命し、西園寺公は5日、山陰道に向けて出陣した。時に満18歳であった。西園寺公の山陰道鎮撫総督任命は、東海道・東山道・北陸道鎮撫使の任命に先駆けたものであった。

 新政府側が未だ帰趨の定まらない戦争勃発直後に西園寺公を山陰道鎮撫総督に任じ、かつ出陣させたのは、戦争の趨勢と新政権の確立に向けて極めて重要な意味をもっていた。

 本稿は、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』()、および各府県市町村史などの資料によりながら、山陰道鎮撫総督西園寺公望の御所出陣から帰陣までを辿るものである。

 

 () 『西園寺公望公山陰鎮撫日記』は、中川小十郎立命館総長の命により立命館大学予科石崎達二教

    授が1940(昭和15)年に執筆したもの。三校版・再校版を立命館史資料センターが所蔵している

が、刊行されなかった。本稿では『山陰鎮撫日記』と略す。

『山陰鎮撫日記』は、山陰道鎮撫に従軍した中川禄左衛門(中川総長の実父)の「御一新勅使御

発向日誌」などをもとに、80点ほどの資料を参照し、59点の写真を収録している。

    本稿の日付はいずれも旧暦表記とする。出陣の15日は新暦129日に当たる。

 

 

 

【山陰道鎮撫使道程地図】(『山陰鎮撫日記』に附属している地図)

※地図をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。

 

1.御所西園寺邸出陣、馬路本陣


(1)御所西園寺邸出陣

慶應4(明治元)15、西園寺公望総督は御所に参内したのち、濱崎和泉守、幸前肥後守らの家臣、参謀に薩摩藩黒田嘉右衛門、長州藩小笠原美濃介、薩長二藩の兵を率いて、蛤御門を出陣し、山陰道に向かった。供奉者および御供廻り40名ほど、薩長藩士300名ほどの陣容であった。

 西園寺総督の任務は、丹波・丹後・但馬の諸藩を新政府側に引き入れ、幕府側であった篠山・田辺(舞鶴)・宮津の諸藩を鎮定することであった。また、万一天皇が京を脱出せざるを得ない状況に陥った場合に、亀山(亀岡)あるいは山陰道に鎮座の地を確保するためでもあった。

【京都御所蛤御門】

 小泉策太郎/木村毅『西園寺公望自傳』は、西園寺公が直垂に烏帽子姿で薩摩藩の馬に乗り出陣したと伝える。随従した家臣山口筑後介は、公の馬上姿がよく似合い、また祐筆を必要としないと喜んだ。

中立売通り、一条通を西進し、嵯峨釈迦堂から鳥居本、六丁峠を越えて、保津川沿いから水尾への道を進んだ。水尾から明智越えの山道を通り、丹波保津村(亀岡市保津町)に出た。

明智越えは難路であるが、亀山藩の趨勢が不明な状況下、山陰道本路をとることは危険が伴うとみて明智越えを選んだものと思われる。

 保津に出ると遠方に千歳や馬路の集落が見えてくる。一行は馬路へと急いだ。

【千歳町から馬路を望む】

 

(2)馬路本陣

馬路に着陣したのは五ッ時というから午後8時頃のことであった。前日に命を受け、慌ただしく出陣したため部隊は十分整っていなかった。馬路に着くと人見立之進宅を本営とした。人見家とともに中川禄左衛門、中川武平太をはじめとした中川家などが西園寺総督を迎えた。

西園寺総督が馬路に最初の陣を置いたのは、元治元(1864)年の禁門の変に際し、禄左衛門の弟武平太、人見立之進らが勤王の士として参じていたことが知られていたことによろう。

薩長藩士は長林寺などに分宿した。

【馬路本陣人見立之進邸】

 

(3)馬路滞陣、亀山藩の帰順

 16には、更に多くの薩長両藩士が着陣した。また中川・人見両氏は丹波弓箭組郷士による備えを進言し、これによって弓箭組も総督の隊列に加わることとなった。

 亀山藩は幕府から山城国の警備を命じられていたことから幕府側とみなされていた。亀山藩の家臣が本陣を訪れたが誠意が見られないとして総督軍は亀山城に迫り、ここに亀山藩は総督軍の指揮に従った。また馬路には幕府側の杉浦陣屋があったが、杉浦氏は総督軍の来る前に姿を消していた。

 この日西園寺総督は中川・人見両姓に対し感状を授与した。

 馬路には中川家・人見家の祖霊社があり、中川家の祖霊社の地には「淸聲千古碑」が立つ。

碑は中川小十郎が大正11年に、人見・中川の両姓をはじめとした馬路郷士が戊辰戦争に貢献したことを顕彰し建立したものである。篆額は西園寺公望揮毫、撰文竹越與三郎、根岸好太郎書である。

【淸聲千古碑】

 2.園部から福住、篠山へ

(1)馬路から園部へ

 17、亀山藩を新政府側に治めた西園寺総督は、馬路を後にして八木を経て園部に向かった。八木に入るには桂川を渡る。当時橋は無く、鎮撫使一行は現在の大堰橋付近を渡し舟で渡った。西園寺総督は八木村入口で園部藩の出迎えを受けた。

 八木村の福島嘉平次方で小休、次いで鳥羽宿の福田藤四郎方で小休した。鳥羽宿の町はずれには、江戸時代の宿の概要と絵図が書かれた案内板があり、宿のなかほどには福田姓が見られる。

【写真 八木の渡し】

(2)園部藩

 吉富や現在の園部駅前を過ぎると園部(南丹市)に入る。鎮撫使一行は園部本町の小林嘉兵衛方を本陣とした。8は雪となり園部に滞陣した。

 鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に帰し、徳川慶喜は江戸に退いた。園部藩主小出英尚は京に在ったが、家臣らが勤王を誓った。滞陣中に京から高倉永祜が来て、新政府による徳川慶喜征討令と幕府領地を新政府の直轄とする農商布告を伝えた。高倉は続く北越戊辰戦争でも西園寺とともに戦っている。

 この日、旧幕府軍の兵が摂津から福住へ脱出してくるとの情報があり、丹波国の弓箭郷士を徴集することとした。

 園部は城下町であったが、園部城は特異な歴史をもっている。園部城は全国で最後に築城された城であった。江戸時代は天守の無い陣屋であったが、元治元(1864)年に幕府に築城を願い出て、慶応3(1867)年に内諾を得たものの大政奉還によって幕府からの正式許可が下りず改めて新政府に願い出た。するとこれが認められ慶応4(1668)年正月に築城に着手し、翌明治2(1869)年に完成した。ようやく完成した城であったが、その4年後には取り壊されてしまうのである。西園寺公望総督が進軍した時はまだ陣屋であり、天守をもつ園部城ではなかった。その園部城跡は現在園部高校となっている。

【園部城跡】

(3)調高山琴松寺

 19も雪となった。園部城を後にして園部川沿いに西に進む。竹井の集落で園部川と別れ原山峠に向かった。原山峠は現在、京都府南丹市と兵庫県篠山市に分かつ。切通しの峠を越えると原山の集落が点在する。

 『山陰鎮撫日記』は鎮撫使一行が原山の寺院で中飯をしたと伝える。中原山の調高山琴松寺を訪ねた。ご住職にお話を聞くと、西園寺公が山陰道鎮撫の際にご休憩された寺ということであった。村人は見たこともない服装の隊列に驚愕し、天子様の代わりの高貴で立派な方が来られたということで、門前の田に集まって、高台の琴松寺で小休していた西園寺公を伏し拝んだという。その場所は現在も「伏し拝み」という小字が残っている。また山号をそれまで秀林山と言っていたが、西園寺公が調高山と呼ぶように仰せられて今の山号になった。

【調高山琴松寺】

 調高山琴松寺を後にし、伝統的建造物である古民家の多い安口(はだかす)の集落を過ぎると福住に到着する。

 

(4)福住と篠山藩

西園寺総督は、福住宿では山田嘉右衛門方を本陣とした。9日夕刻に着陣し、2日間滞陣したのち12日に発陣する。福住宿は古代からの山陰道の宿であり、福住小学校の校庭には「福住駅本陣跡」の碑が立っている。

福住では、旧幕府側の小浜藩などの敗兵が帰藩のため当地方を通るのではないかとの情報があり、戦力を強化した。10日には弓箭士が駆けつけ、翌11日には山国隊も決起して新政府軍に随従した。こうした状況のもと、酒井若狭守守忠が謝罪書を奉じ、篠山藩は家老らが篠山城から福住に出向いて帰順した。

 112、西園寺総督一行は快晴の福住を発ち、古代山陰道小野駅跡を通り、八上の服部六兵衛方で中飯をとったのち、篠山川に架かる京口橋を渡って篠山の城下に入った。

 西園寺総督は篠山城北側の二階町、河合七兵衛方に着陣した。

 藩主青山忠敏、老臣らは連署して勤王無二及び徳川譜代義絶の書を差し出した。

 現在の篠山城は天守は無いが大書院が残り、堀をめぐる石垣の大きさが幕末のたたずまいを残している。

 

【篠山城】

 篠山町(現篠山市)では明治29年、山陰道鎮撫の際に西園寺公が滞陣したことから「孤松臺」の書の揮毫を依頼し、市内の王地山公園にその碑を建立している。

 

 

3.柏原、そして福知山藩

 

(1)篠山から柏原へ

 113、西園寺総督は濱崎和泉守と長州・薩摩の藩士を篠山城の見分にあたらせ、柏原(かいばら)に向かって発陣した。

 篠山を後に、宮田、長安寺の集落を通り、大山川を遡りながら追入(おいれ)に着いた。一行は追入で中飯をとっている。中飯後、金ヶ坂峠(鐘ヶ坂峠)を越えた。鐘ヶ坂峠はその後、明治・昭和・平成の3つのトンネルが出来、現在は1,012mの平成のトンネルしか通れない。

 鐘ヶ坂を越えると丹波市柏原に入る。

 

(2)柏原の宿

 柏原藩(後期)は織田信長の子孫が大和の宇陀から移封して始まり、大内山の麓にある陣屋を政庁・居館とした。表御殿は文政3(1820)年の再建で、現在向かい側に柏原歴史民俗資料館がある。

 さて『山陰鎮撫日記』は西園寺総督の本陣を辻田太郎右衛門方と伝えるが、『柏原町志』は、当初下辻の土田太郎兵衛本陣に宿陣するところを急遽西楽寺に移ることになり、慌ただしくその準備に追われた、としている。

 西楽寺は大手門の近くにあり、「西園寺卿本陣史蹟」と刻まれた碑が山門に立っている。碑は昭和10(1935)年に建立され、『柏原町志』を編纂した松井拳堂がその由縁を記している。

 『柏原町志』は、鎮撫使一行600人が各所に分宿し、西園寺総督に大鯉2尾、勝栗2升入り1箱を献上した、と伝える。

 土田家は上辻、中辻、下辻と3軒あり、下町下辻の土田家は代によって太郎右衛門、太郎兵衛などと名乗ったようである。

(3)柏原から福知山へ

 114は雪になった。柏原を発陣し石負(いそ)(石生)にて小休した。向山山麓を道なりに進み、黒井でも小休をとった。黒井はかつて城山に黒井城があった。また黒井駅から東4㎞の進修小学校には、西園寺公望揮毫の「學田之碑」がある。碑は明治29(1896)年建立。撰文は重野安繹。

 黒井を過ぎ、多田、市島と進んだ。

 鎮撫使一行は市島で中飯の後、更に上竹田、才田と進み、酉刻(午後6)福知山に到着、福知山藩の出迎えを受け、吉田三右衛門方に着陣した。

 

4.福知山藩から田辺藩へ

 

(1)福知山藩

吉田三右衛門本陣は福知山城から北に延びる城下通りを進み、広小路通りから入った菱屋町にあった。吉田家は塩屋という屋号で、問屋などを営む豪商であった。この辺りは古い町並みが残り、北上すると寺院が並ぶ寺町に至る。

 福知山城は天正8(1580)年、明智光秀に始まるが、その後、寛文年間に朽木氏の支配となり、戊辰の際の藩主は朽木為綱(もりつな)であった。戊辰当初、福知山藩は幕府側にたったが、この間の動向はいかんともしがたく、115藩老朽木杢允が吉田本陣に出頭して降伏した。

 西園寺総督は滞陣の間に諸藩に命じ、福知山藩のほか出石藩、綾部藩、山家藩から勤王の誓書を提出させた。また綾部藩を始めとする諸藩に征討大号令と農商布告を発した。

【福知山城】

 福知山滞陣中、御所からの使いが赤地に日月の紋を表した錦旗と鎮撫使の幟(牙旗)を奉じて到着した。錦旗は文字通り「錦の御旗」で、これによって鎮撫使一行は、朝廷の権威を旗印として進軍することとなった。この日馬路から猪肉が届いた。

 福知山には大雪のため、更に16日、17日と滞陣した。

 

 

(2)福知山から田辺へ

 118、鎮撫使一行は福知山を発陣した。人見・中川両姓および弓箭組が錦旗を守り、力士花の峰が総督の牙旗を捧げ進軍した。一行は間もなく光津(天津)の是社(これこそ)神社に到着し、神社の向かいの由良川(音無川)の乗船場から15艘の船に分かれて乗船し藤津に向かった()

     

   【是社神社】                    【是社神社向かいの由良川】

福知山藩は一行に随従したが、警護のため陸路を歩いた。

 下天津を過ぎると間もなく「従是北丹後國加佐郡」「従是南亰都府天田郡」と書かれた石標が立つ。丹波と丹後の境界であり、現在福知山市と大江町の境界である。

 公庄(ぐじょう)を過ぎると大江の町に入る。大江山の鬼伝説の里である。

 大江を出発し由良川を下る。一行は藤津の船着き場で下船し田辺(舞鶴)に向かった。

 藤津からは東に道をとり、陸路上福井、下福井を経て田辺に至った。

 

 () 『福知山市史』は、広小路船戸口から乗船し田辺に向かった、としている。

 

(3)田辺藩

 1月18日、田辺藩は菩提寺である見樹寺で鎮撫使を出迎えた。見樹寺は現在もある。その後西園寺総督は村田兵左衛門本陣に着陣した。本陣は大手交差点の西側、丹波町通りと広小路通りの西角にあったが、現在は残っていない。

 鎮撫使一行総勢624名が34の町屋と寺院を宿所とした()。そこから田辺城は近い。現在は石垣が残り、彰古館と城門が復元されているが、一帯は舞鶴公園となっている。

【田辺城跡】

 一行が到着すると田辺藩主牧野誠成、老臣らは恭順し、二心無き事を誓った。西園寺総督は19日は遊船というから、舞鶴湾を巡ったのであろう。20日には家臣の濱崎和泉守が城内を見分した。西園寺総督は人見・中川の郷士を連れて馬で遠乗りをしている。

 舞鶴の名は、明治2年の版籍奉還後、紀伊田辺藩と区別するため田辺藩から舞鶴藩へと改称したことによっている。その由来は田辺城の別名を舞鶴城と呼んだことにあるという。

 121朝、西園寺総督一行は田辺を発陣し宮津に向かった。田辺藩は「ます」若干と「このわた」10桶を献上し、藤津や由良まで藩士が随従した。

 鎮撫使一行は一旦藤津まで戻り、再び乗船して由良川を下り由良に向かった。一行は由良港で下船し、松原寺(しょうげんじ)で中飯をとった。松原寺は港から近く、今も集落の中に静かな佇まいを見せている。

 丹後由良からは左手が山、右手に栗田湾を臨む道を進むが、國田(栗田(くんだ))の集落を外れると旧道は國田峠(栗田峠)に向かい登っていく。長さ126mの撥雲洞トンネルを越えるが、このトンネルの開通は明治19年。京都府知事北垣国道が京都から宮津へと道路を開通する事業として完成した。宮津側に「撥雲洞」、京都側に「農商通利」の題字が北垣国道によって刻まれている。

 

 () 松本節子「舞鶴・文化財めぐり」の「村田兵左衛門文書」(舞鶴市民新聞1993910)による。舞鶴市教育委員会提供

 

5.宮津藩、三上金兵衛本陣

 

 峠を下りると宮津の市街が目に入ってくる。

 宮津城は大手川の右岸から宮津駅にかけての一帯にあったが、今はほとんど遺構が無く、わずかに太鼓門や石垣の一部を残すのみである。

 21日夜、西園寺総督は宮津本陣・三上金兵衛方に着陣した。この日は大雪であった。

 宮津に到着したのは薩長両藩士、郷士のほか柏原・園部・篠山・出石・福知山・田辺の諸藩士合わせて728人、先着の者を含めると千人ほどの滞陣となった。

 宮津藩は戊辰戦争では幕府側であった。しかし戦況はいかんともしがたく、結局宮津藩も新政府側に帰順することとなった。

 西園寺総督は123に濱崎和泉守、薩長兵、郷士を従え宮津城を見分して、勤王を誓う誓詞を提出させた。この日、豊岡藩も誓詞を提出した。

 124も雪や雨で、西洋式御調練を御覧になる予定であったが中止となり、宮津から船で文殊に渡り、文殊堂や天橋立の対岸の一宮籠神社(このじんじゃ)に参詣した。籠神社は丹後之国一宮・総社である。伊勢神宮内宮・外宮の元宮ともいうことから元伊勢籠神社ともいう。

 25は大手川河口の島崎砲台を御覧になった。砲台は幕末の海防のため建造されたものである。また総督は、濱崎和泉守、中川禄左衛門らに各藩の提出した誓書を二条城の太政官代に届けさせた。亀山・園部・篠山・柏原・山家・福知山・綾部・田辺・宮津・若狭酒井の諸藩であった。

 宮津藩の降伏により当初の山陰道鎮撫の見込みが立ったため、各藩藩士は5人、丹波弓箭組郷士も50名ほどを残して各郷に帰した。

【天橋立】

 さて西園寺総督が21日の着陣から26日の発陣まで滞陣したのは、河原町の三上金兵衛本陣であった。三上家は酒造業や廻船業、糸問屋を営む宮津有数の商家「元結屋」であった。現在、三上家住宅として公開され、各地の本陣のうち最もよく遺存している本陣の一つである。

 

  

        【三上本陣】                      【三上本陣勅使門】

『山陰鎮撫日記』には宮津町御本陣記録である「為御勅使西園寺三位中将様」、また「錦旗並に牙旗の図」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸表門掛札」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸座敷」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸座敷平面図」、「宮津御本陣三上金兵衛氏邸庭園老梅」、「西園寺公親筆老梅の詩短冊」が掲載されている。

 

     

      【三上家奥座敷】                            【老梅】

御座敷や勅使門は現存しており、表門(勅使門)と玄関は、天保9(1838)年に幕末巡検使を迎えるにあたって造られたもの。庭園には今も老梅があり、季節には花をつける。

西園寺総督は短冊に

     冷香脈々透簾帷 起向書窻梅影移

     忽思枕頭疇昔夢 水邊竹外立多時   望草

と書き残し、宮津を発陣した。

 京都府立丹後郷土資料館では、西園寺総督が滞陣した際に三上本陣に掛けられた「表門表札」と、西園寺公が詠んだ「老梅の詩短冊」が所蔵されている。()

 

() 20151127日、宮津市教育委員会に三上家をご案内いただき、丹後郷土史料館を訪問した。

 

6.峰山、豊岡から村岡へ

 

(1)天橋立一字観と「ええじゃないか」

126、鎮撫使一行は宮津を発陣し乗船、天橋立を越え阿蘇海から岩瀧に着いた。

一行は千賀両輔(両助)方で中食をとった。現在の与謝野町役場付近である。

 ここから大内峠を越えて峰山に向かう。山道を登ると大内峠の一字観公園に至るが、公園からの天橋立の観望は天橋立四大観の一つである。

 ちなみに四大観とは、傘松公園からの「斜め一文字」、天橋立ビューランドからの「飛龍観」、獅子崎からの「雪舟観」、大内峠からの「一字観」である。天橋立を東西南北から観た絶景である。

 峠を下ると旧三重村、口大野(丹後大宮)を経て峰山に到着する。

 宮津・岩瀧など丹後地方では、鎮撫使一行の進軍に先立って神符が降り、「ええじゃないか」の乱舞が広まったことが知られている。「ええじゃないか」は世移りの時代に起こった民衆の狂態であったが、鎮撫使の進軍とともに鎮まった。

 

 

(2)峰山、久美浜

 26日夕刻、峰山の若松屋寺田惣右衛門方に着陣。本陣は峰山陣屋に向かう峰山の中心街の四辻近くにあった。

 当主の寺田惣右衛門は、「(閣下は)萌黄地の装束に太刀を佩き、立烏帽子をかむり、馬上優美の姿と……」記している。また「鎮撫使滞陣で要した峯山町の経費は54566厘」(『峰山町郷土史』)というが、今日いかほどになるのだろうか。

 峰山藩主京極高富もまた勤王を誓ったが、わずか一万石の峰山藩に700人を超える鎮撫軍が到来したため、城下は大混雑であった。

 127、西園寺総督は久美浜に向けて出陣。峰山からは五ヶ村・鱒留村を経て、更に比治山峠を越え、中飯のため久美浜の稲葉本家吟松舎に立ち寄った。

 当主稲葉市郎右衛門が『過渡の久美浜』()で鎮撫使一行の様子を書き残している。

【稲葉本家吟松舎】

 

(一月)二十七日山陰道鎮撫総督西園寺公の一隊通過す。是より先き宮津より通知ありければ官軍陣営にも打合せ本願寺を以て総督の休憩所に充て準備全く整ふ、已にして急報あり、総督は寺院を嫌ふ宜しく民家に本陣を設くへしと、此に於て俄に我か吟松舎を本陣と定め多数の職工を使役し夜を徹して修理を加ふ、而も猶全からす午前十時先手は已に来る尋て総督も到着し、兵士は長明寺及西方寺に休憩す、午餐了りて直に豊岡に進発せり………総督は美少年にして萌黄地の装束に太刀を佩き立烏帽子を被り、馬に跨り練り行く有様は頗る優美に見へたり………総督の旗は白地の織物にて上部に金銀の日月を打ちたるもの、長壹丈余もありたらん、旗手は京都相撲の関取華の峰善吉及其門弟ともなり」

 

 () 『過渡の久美浜』は、西園寺公望から本学に寄贈されている。

 

(3)豊岡

 鎮撫使一行は河梨峠を越え、日撫(ひなど)から円山川を渡り、27日夕刻豊岡に入った。鎮撫軍が豊岡に入って来ると町中は大騒動となったが、ここで「大事件」が起こった。一人の町人が隊列の前を道切りした(横切った)ため捕らえられて本陣に引き立てられた。町人は西園寺総督の前に突き出され、首を切り落とされそうになったが、そのまま裏門から放り出され、這う這うの体で家に逃げ帰った、とか()

 豊岡本陣由利三左衛門方は、堀川橋を下がった街道沿いにある。豊岡市役所の東で、南に豊岡陣屋があった。陣屋は現在、豊岡市立図書館で、その入り口の門は旧久美浜県庁舎の正門であった。

 豊岡藩主京極高厚は新政府に協力を申し入れていたが、西園寺総督は重臣を引見し改めて忠誠を確認した。

 

 () 豊岡市老人連合会編『豊岡民話 耳ぶくろ』1975年 豊岡市立図書館所蔵

 

(4)江原、八鹿から村岡へ

128、豊岡を発陣、江原村の友田儀右衛門方で中飯とした。志具なぎ(宿南)で小休の後、夕刻八鹿の西村庄兵衛方に着陣した。

 西村本陣は諏訪町にあったが現在その跡を語るものはない。近くに西村家の別館立誠舎があり、石門心学を教えていて、北垣国道なども学んだという。北垣国道は山陰道鎮撫に従軍し、のちに京都府知事となっている。

 129、八鹿を出陣、八木を経て関宮で中飯。関宮までは西進してきたが山陰道はここから北上する。八井谷川沿いを上り、八井谷峠を越えるのだが、現在、旧道は通れず、巨大なループ橋を渡った後、1,256mの但馬トンネルを越えて福岡に出る。鎮撫使一行は、福岡で小休の後、夕刻、村岡本陣今井実造方に着陣した。

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