立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2017.09.19

<懐かしの立命館>立命館ゆかりの地を散策しました。

201799日(土)、今年度第3回目「立命館と歩く京都」を実施し8名の職員が参加しました。

今回は上京区の、西園寺公望が開いた私塾立命館、立命館大学の前身京都法政学校のあった清輝楼、80年間続いた広小路学舎、創立者中川小十郎の私邸(白雲荘)を巡りました。

 

<私塾立命館創設の地―西園寺邸跡> (京都御所 白雲神社周辺)

10時、西園寺邸跡探索に先立ち、近くの御所蛤御門に集合しました。

 蛤御門は禁門の変(蛤御門の変)や、総督として山陰道鎮撫に向かった西園寺公望ゆかりの門でした。現在は烏丸通りに面していますが、幕末維新の時代は北側に向いていました。

 

 京都御所内の西園寺邸のあった場所には「西園寺邸跡」の標柱が立っています。

西園寺家はこの場所にあり、1869(明治2)9月、私塾立命館が邸内に創設されました。西園寺公望20歳のことです。

 塾には江馬天江をはじめ賓師(先生)10人ほどと、100人あまりの塾生が集いました。

 塾は翌年4月に閉鎖命令を受け、閉校のやむなきに至りました。そのときの西園寺公望から賓師に宛てた書簡が立命館に残されています。

 

 

 西園寺邸跡の場所に白雲神社があります。白雲神社は西園寺邸の鎮守社でした。社殿には西園寺公望が揮毫した「白雲神社」の扁額が架かっています。

 

<京都法政学校創設の地―清輝楼跡> (上京区中之町 東三本木通り)

 河原町丸太町から東側の東三本木通りを少し北に上がると、「立命館草創の地」の碑があります。鴨川の西側にあたります。

 立命館大学の前身京都法政学校が、1900(明治33)年、この地に誕生しました。当時清輝楼という名の元料亭の2階と3階を使って、夕方5時から9時まで授業が行われました。

 先生のほとんどが京都帝国大学から来て、第1回の生徒は入学者305人、卒業者57人でした。先生の中には織田萬、井上密など、生徒には西村七兵衛、貫名彌太郎などがいました。入学金1円、授業料月額180(8月は無し)でした。

 もともと仮校舎としていましたが、190112月に広小路に移転することになります。

 

 

    (清輝楼)               (「立命館草創の地」記念碑)

 

 

<広小路学舎> (上京区中御霊町)

 河原町広小路の広小路学舎の跡に「立命館学園発祥之地」の碑があります。現在跡地は京都府立医科大学図書館となっています。

最初は校地412坪、校舎13教室の小さな学舎でしたが、徐々に拡張し、周辺の校地・校舎を含めると、最大時は校地21,495(6,513坪余)、校舎延床面積36,589(11,087坪余)ほどになりました。

学校は京都法政学校から始まり、京都法政専門学校、京都法政大学、立命館大学となり、また旧制中学が清和普通学校、清和中学校、立命館中学と大正期まであり、19813月の衣笠一拠点まで、80年間に学生・生徒10万人ほどが学びました。

広小路の周辺には河原町通りを挟んだ校舎、梨木神社の北側の校舎、河原町今出川近くに体育館もありました。

 

1967年正門、存心館:1967卒業アルバムより抜粋)

 

 

(「立命館学園発祥之地」記念碑)

 

 

<創立者中川小十郎私邸―白雲荘> (上京区塔之段寺町通今出川上ル)

広小路学舎から寺町通りを上がり今出川を越えしばらく歩くと白雲荘があります。

建物は現在使用されていませんが、庭園を含め380坪ほどの御屋敷が残されています。

中川邸(塔ノ段邸)1905(明治38)年に取得し、中川総長は1944(昭和19)10月にこの御屋敷で亡くなりました。

 その後1954年に学校の所有となり、19605月に福利厚生施設「白雲荘」として利用を開始、20073月まで使われました。

 

(桜の季節の白雲荘)

 

 

 まだまだ日中は暑さの残る日でしたが、秋晴れの中、2時間ほどのゆかりの地散策により立命館の歴史を学びました。

 白雲荘は現在、非公開ですが、他の場所はいつでもお訪ねいただけます。機会がありましたら、ゆかりの地で立命館の歴史について思いを馳せていただいてはいかがでしょうか。

 

2017919

立命館史資料センター 調査研究員 久保田 謙次

 

2017.09.14

立命館中学校高等学校で「中原中也展」開催のお知らせ 「中原中也が学んだ立命館中学~大正期の自由教育~」 9月16日・17日は文化祭で一般公開いたします。

 6月に衣笠平井嘉一郎記念図書館で開催した中原中也展の続編として、今年創立112年を迎えた中也の母校(中学3・4年生に在学)立命館中学校高等学校(京都府長岡京市)で開催しています。

2017911日から106日までの期間で、中高の生徒や保護者の皆さんをはじめ、文化祭(91617日)に来校される一般の方々にもわかりやすい展示内容になるよう工夫しています。

 

今年は、詩人中原中也生誕110年になります。中也は1907(明治40)年に生まれ、明治・大正・昭和の異なる時代を生き、30年という短い生涯を駆けぬけたのでした。

 その短すぎる人生のなか、初めて親元を離れて京都の立命館中学(これが当時の正式校名)で過ごした16歳からの2年間は、彼の詩人としての人生に大きな影響を与えた時間でした。

 今回は、今なお多くの人々、特に若者たちの心をひきつける中原中也の著作物をはじめ、彼に関わったさまざまな人々の著書も紹介しています。

そして、大正時代の立命館中学が目指した教育や生徒たちの活動の様子を紹介することで、詩人中原中也をより身近に感じとっていただければと願っています。立命館中学校高等学校では50年も前に中也の詩を教材として取り上げられて、今も国語科高校1年の授業で続けられています。

 

立命館 史資料センターでは、現在開催されている山口県の中原中也記念館での「生誕110年特別企画展」に協力しながら、中也の母校での展示に至りました。

 

2017914日 立命館 史資料センター






2017.08.01

<懐かしの立命館>立命館中学校秘話ー吉田中学校の顛末記ー

はじめに

明治381905)年9月 立命館中学校・高等学校の前身である「清和普通学校」が誕生します。最初の年の入学者は50人。ところがその翌年の明治3911月には285人が在学することになります。(校名は「清和中学校」に変更)

一気に在学生が増えた理由は、その年京都にあった私立「吉田中学校」廃校によって大量の転入者を受け入れたためでした。

そのため明治3941年の卒業生(明治39年度44人、明治40年度35人、明治41年度35人)も、吉田中学校からの編入者でした。

最初期の立命館中学校・高等学校の生徒のカラーは、吉田中学校在学生のカラーとほぼイコールであったのです。

 

 吉田中学校とはどんな中学で、なぜ閉校になったのか?そしてなぜ清和中学校が多くの転入生を受け入れることとなったのか?

今回は、立命館中学校・高等学校の創立期で重要な役割を果たしたが、『立命館百年史 通史一』では簡略された私立吉田中学校についての顛末記です。

 

 

明治391022日 吉田中学校関係者、文部省に廃校命令撤回を陳情

 

 

(明治45年当時の文部省外観:国立国会図書館ウェブサイトより転載) 

我々陳情団は、程なく役人に導かれて一室に通された。われわれの緊張は極点に達していた。まもなく入ってきたのが澤柳文部次官(澤柳政太郎)(注1)と普通学務局長でした。  

陳情団は吉田中学校の廃校命令の不当を訴え、撤回を力説しました。黙って聞いていた文部次官は次のように応えました。

「君たちの主張はよくわかった。文部大臣(牧野伸顕)に自分が必ず取り次ぐ。学生の措置については善処する。」

 

それで一同安堵したものの宿舎に帰ってから付き添いの西見芳宏先生から口約束だけでは不安が残ると指摘され、先生の意見に一同一致しました。

そこで再度文部省に書面での約束をもらおうと陳情にいくことにしました。しかし文部省の応対者は、省議未決というばかりで相手にしてくれません。

 

文部省陳情3日目の1025日、一同必死の覚悟で再び文部省に行きました。ようやく昼頃になって総理大臣(西園寺公望)の秘書官中川小十郎が会ってくれました。(「石館久三氏の追想より」)(注2)

その時の中川小十郎との出会いが吉田中学校生徒に展望を与え、清和中学校(その後、立命館中学)の発展につながることになります。

 

以下、吉田中学校開校に遡ってみましょう。

 

 明治36128日 私立吉田中学校の開校認可

 

 私立京都法政学校(現在の立命館大学)が仮校舎の清輝楼で講義がおこなわれ、並行して広小路の新校舎に移転の準備がすすめてられていた明治345月頃(注3)、後に私立吉田中学校(以下、吉田中学という。)となる開成学校が広小路学舎近くの河原町通荒神口東に開校されます。

 この開成学校は、11月には施設の狭隘から下京区三条通白川橋東二丁目(現在の東山区)に移転します。

       (白川橋東側付近)

 

また、翌年には上京区吉田町字中大路(現在、左京区吉田中大路町)に移転し、校名を吉田学院と変更します。その後吉田学院を吉田中学と校名を変更して設置認可申請をおこないます。申請概要は次の通りです。

  名称 吉田中学

  生徒定員 500名 明治36年度300名、37年度100名増員、38年度100名増員し500名とする。

  開校年月日 明治36年9月1

  場所 京都市上京区吉田町字中大路

  申請者 小谷時中 (注4)

 渡邉芳次郎、渡邉廷冶郎、渡邉新次郎 (注5

 戸谷松尾、戸谷治忠、戸谷實也 (注6)

  申請日 明治36425

(『立命館百年史資料編1』) 

 

 

 

         (写真3 吉田中学校跡地付近)

 

 吉田中学は、明治36128日に認可されますが、開校時期は明治3711日と通知されました。

 

   明治36425日付稟申私立吉田中学校設置及ビ位置選定ノ件認可ス 但明治3711日ヨリ開校スヘシ  明治36128日 文部大臣 久保田 譲 

(「京都府公文書」) 

 

その後、徴兵令上等位が認定(注7)され、このころから生徒数も安定します。

 明治398月、9月の吉田中学の生徒数は、第1学年99名、第2学年81名、第3学年99年、第4学年100名、第5年66名、他に補習科(注84名、合計449名の生徒が在学していました。

 

明治3910月6日 吉田中学内の抗争と不正行為発覚

 

学則をもち、学則に即して授業をすすめていた吉田中学ですが、徴兵令上等位認定を受けた頃から、校主派と校長派との軋轢(あつれき)や校主による不正行為が明らかになってきました。

 

 <吉田中学同盟休校事件発生>

 校主派と校長派の軋轢は、明治39年「吉田中学同盟休校事件」として表面化しました。

 

 明治39106日付、「日の出新聞」(現在の京都新聞)報道によれば、

吉田中学の職員(教諭)間に軋轢(あつれき)を起こしたため3日間の休校をやむを得ざるに至った。

校主(理事長)である渡邉廷冶郎氏は教育事情にわずかな経験も無く、教育事情に貢献するというよりは、むしろ教育なる美名の下に営利を目的に校主を引き受けたとうわさされるほどであるから校紀(学校内の風紀)厳粛にはなっていない。

 そのためたびたび京都府より校長に厳重に校紀を粛正するよう命令があり、校長北尾鼎(かなえ)は校紀の刷新を図ろうとするが渡邉校主と相容れないものがあった。

さらに、教員間は校主派と校長派に分かれお互い反目していた。

ついに、不満を抱いた渡邉校主派は明治399月下旬、北尾校長が東上するのを好機として白井教頭と謀り、校長の帰京後、校長および同派の教員6名に解職(馘首)の辞令を送付した。 

憤慨した北尾校長等は、101日から3日まで授業をおこなわないことにした。

生徒等も渡邉校主に対して、校主等も一同袂(たもと)を連ねて退校すべきと迫った。

その結果、北尾校長の解職は取り消され、学校の経営は一切を挙げて校長の管理に移し、4日授業は再開され紛争は落着した、というのです。

 

 <吉田中学の不正行為>

 それだけでなく、吉田中学は、暴利を得る不正行為もありました。同紙によれば、吉田中学の不正行為について、次のようなことを列挙しています。

1年分の学費を前納させる、②学費前納に関する手数料2円を徴収する、③月謝滞納の場合、滞納金20銭(注9)付加し徴収する、④転学および在学証明を欲する場合、証明(手数料)料金50銭を徴収する、⑤卒業証明書の発行料10円~150円(注10)の相場に応じて乱売する、⑥試験の及落が金額(注11)によって左右する、など法外な手数料、卒業証明書の乱売など「教育なる美名の下に営利」をおこなっていました。

こうした行為は、校主一人の行いにあらず、教頭白井、書記(事務長?)米田が共謀してその利益を分配していた。教頭白井は学校荒しを以って有名なる人物であった、とも。

 

これらの結果、書記米田は校長の英断により解職されました。その北尾校長も校主等一連の不正行為により辞職にいたります。

後任として小谷時中教諭が校長事務取扱に就任します。小谷時中校長他数人の教員は改革を進めようとしますが、学校は閉校に追い込まれることになります。

 

 

 明治391016日 吉田中学に閉校命令下る

 

 明治3917日、第1次西園寺内閣(注12)が成立します。当初、西園寺公望は総理大臣と文部大臣を兼ねていましたが、327日には牧野伸顕が文部大臣に就任します。  

中川小十郎は第1次西園寺内閣の成立時には、京都帝国大学書記官の任にありましたが、同年46日に西園寺公望総理大臣秘書官に任命されます。

この同年の秋頃になると吉田中学の不正を重く見た京都府は、吉田中学を調査し、明治391013日に報告書(注13)を文部省普通学務局に提出しています。その3日後の16日に、吉田中学に閉鎖命令が下ったのです。

 

文部省通達 文部省普48

京都府私立吉田中学校設立者 渡邉廷次郎他6名 

貴校明治32年勅令第359号 私立学校令第10条第1項ニ依リ明治391231日限閉鎖ヲ命ズ

明治391016日 文部大臣牧野伸顕

                         

命令書にいう私立学校令第10条第1項とは「法令の規定に違反したるとき」がその理由です。ここでの法令規程違反は先に叙述したように数々の教育現場らしからぬ不正行為をさすものと思われます。命令が下る前日には、京都府から事前に「閉鎖命令」にもとづいて在学生の善処策を閉鎖期日までに誤らぬよう指示がされています。

 

 

明治391019日 吉田中学の生徒と父母 決起 

 

吉田中学の閉鎖命令を受けた学校側は、明治391019日、早朝から夕刻まで父母に対して説明会をおこないました。父母の願いは、せめて3月末まで延期できないかというものでした。その日、会場には校主渡邉廷次郎を除く、小谷時中先生、西見芳宏先生他20余名の教員が参集して善後策を検討しました。その善後策とは、新財団を立ち上げ、翌年1月より継承する。そのためただちに出資者を募って、吉田中学の生徒をそのまま引き継ぐ、というものでした(「日の出新聞」明治391020日付)。

しかし、この提案には生徒と父母は納得せず、急遽上京して文部大臣に廃校命令の撤回を陳情することにしました。その時の様子を石館久三氏は詳細に述べています。

 

学校側説明会の後、硬骨で生徒の尊敬を集めていた西見芳宏先生(体操・生理担当)の指導の下に校庭に全員集合して、生徒大会を開き次のことを決定しました。

 1.文部大臣に対し学校閉鎖令撤回を要求する、

 2.要求が容れられなければ生徒全員を無試験で他の中学校へ転校する様、文部省が誠意をもって措置すること、

  3.以上の要求を貫徹するため5年生から委員5名を挙げ、急遽上京して文部大臣に陳情すること、

 この大会での決議にもとづいて陳情団の委員に選ばれたのが、満川亀太郎、岩富英、増田恒一、石館久三、村田栄一、他に自費で参加した生田調介(この6名は、その後清和中学に転校し第1回卒業生となります)、付き添いには西見芳宏先生になってもらい7名の陳情団を結成した。(「石館久三氏の追想より」)。

 

 

 明治391022日 陳情へ

そして1025日 中川小十郎、清和中学への受け入れを約束

 

 陳情団は、1021日上京して神田駿河台の旅館「龍名館」に宿泊し、翌1022日に文部省に行きます。

そのときの様子を、石館久三氏は次のように回想しています。

 翌日、西見先生を宿に残し我々6名は文部省を訪ね文部大臣に面接を求めたが不在と称して面会が許されなかったが、文部省の玄関の一隅に座り込んで大臣の出てくるのを待ちました。

昼食時になって携帯していた握り飯で、空腹をしのぎ午後3時頃までがんばりました。

程なく役人に導かれ一室に通されてまもなく入ってきたのが沢柳文部次官と普通学務局長他1名でした。我々の来旨を尋ねられたので代わる代わる吉田中学廃校の不当を訴え、生徒全員の要求の正当を力説しました。

黙って聞いていた澤柳文部次官は、「君らの言うことはよくわかった。陳情書は自分が必ず大臣に取り次ぎ、学生の処置については善処する。具体的な方法については一両日中に通知する」と言うので、一同悄悄愁眉(しょうしょうしゅうび)を開くことが出来た(前出「石館久三氏の追想より」)と思いました。

しかし、一同は宿に帰って、西見芳宏先生に報告すると、先生からこれは口頭だけの約束だから安心ならないと指摘され、1023日、24日と再び文部省に行きますが、対応者は「省議未決」などと要領をえず一同焦燥感を感じて宿舎に帰りました。

 

1025日、早朝から必死の覚悟で文部省に行ったところ、ようやく昼近くに首相秘書官の中川小十郎が応対しました。その時の感激を石館久三氏は次のように回想しています。

 

中川小十郎は、「局長(普通学務局長)から話をよく聞いたが大臣の命令は撤回できない。しかし生徒は希望のみ清和中学に収容し、未設の3年、4年、5年の学級を新設し、学習を中断させることは断じてしない。

すぐに帰洛して、みんなにこの旨告げてくれ」、と回答を得て、中川先生(中川小十郎)の好意に感謝の上、この言葉を書面にしていただきたいと申し出たところ中川先生は笑いながら「よかろう」と、すぐに係官に命じて生徒収容の約束を書いてくださった。旅館に帰って西見先生に、書面を示し詳細を報告したところ先生は非常に感激し、中川先生は実に見上げた政治家だと激賞され、この結果を喜んでおられた。

 

陳情団がこの結果をもって京都駅に着くと全生徒と多数の父母の歓迎受け、陳情団のメンバー一同うれし泣きしました。

 

 

明治3911月 思いはつながった-吉田中学から清和中学へ転学叶う-

 

中川小十郎は約束の通り、清和中学では編入試験を課さず、希望者全員を受け入れることになりました。こうして吉田中学の生徒263名(注14)が清和中学に転校しました。

先生も小谷時中先生はじめ西見先生等も清和中学に移り、その後も清和中学の教育に携わりました。 

この時5年生に転入してきた陳情団のメンバーの満川亀太郎、岩富英、増田恒一、石館久三、村田栄一、生田調介等(注15)が清和中学第1回卒業生として活躍します。

その後には清和会(同窓会)結成にも中心となって奔走したのでした。

 

(清和中学校第1回卒業生記念写真)

 

 

石館久三氏は、自分たちの行った行為をこう振り返っています。

「わたしたちは、勉学の中途で廃学の悲しみを味わうことなく卒業の喜びを得たことは純真なる生徒の訴求が当時の文部当局動かした。」

この自立自尊の精神が現在の立命館高校にも伝統として生きているのかもしれません。

                                      

 

                  201781日 

立命館史資料センター 調査研究員 齋藤 重

 

 

注1 澤柳文部次官

当時の文部次官は、澤柳政太郎(1865517日―19271224日)である。1913年(大正2年)59日には京都帝国大学総長(第5代)を就任した。

 

2 石館久三氏は、その後『追想記』としてまとめていますが、残念ながら原本は資料として発見されていません。しかしながら未定稿『立命館中高50年史』(上島有著-西田俊博復刻)の著作には石館久三氏の『追想記』から多く引用されています。本稿も未定稿『立命館中高50年史』から石館久三氏の追想部分を多く引用しました。その部分については「石館久三氏の追想」と表記しています。

 

3 広小路の新校舎に移転の準備をすすめていた頃

 京都法政学校は創設予算では校地、校舎を確保するゆとりはなかった。したがって元料亭清輝楼の座敷を借用して開校したのであった。昔の漢学塾の光景といわれる所以である。明治341901)年12月京都御所清和院門の向い中御霊町410番地に校地を確保して、ここへ府庁舎内の旧京都府中学校校舎(現在の洛北高校)の一部(13教室)の払い下げを受け、やや学校らしい体裁を整えた(『立命館百年史通史1』)。 この年(明治34年)の5月に吉田中学の前身、開成学校が広小路の東南付近に設置されました。正確な場所はまだ調査できていません。

 

4 小谷時中は吉田中大路13番地と14番地に土地を所有しており(「旧土地台帳」)、学校の用地としてもその一部を使用していたものと考えられます。

 

5 渡邉家は愛知県海西郡十四山村(現在、愛知県弥富市弥富町)の大地主であった(「京都府公文書」)。渡邉家はその経済力を背景に校主として深く吉田中学の経営に関与したものと考えられる。

 

6 戸谷松尾、戸谷治忠、戸谷實也については資料が見つかっておらず、継続した調査が必要です。

 

7 徴兵令上等位認定

文部省告示 第67号 

京都府私立吉田中学

右ハ徴兵令第13条ニ依リ認定ス

これにより吉田中学校は徴兵令第13条の認定校となり、兵役が免除された。

 

8 補習科

 旧制中学校の補習科は中学校令(明治32年)第9条「中学ノ修業年限ハ五箇年トス但シ一箇年以内ノ補習科ヲ置クコトヲ得」として吉田中学も設置しました。

 

9 注10 注11 明治時代の物価

 吉田中学の不正については叙述していますが、当時の物価状況は、当時帝国ホテル1泊宿泊料金5円、映画館入場料20銭、小学校教員初任給8円、京都市電乗車賃1区間2銭などです。(『値段の風俗史』週刊朝日編 朝日文庫)比較してみれば、いかに暴利であったかが分かります。

 

12 第1次西園寺内閣 明治391906)年1月~明治411908)年7

 明治3917日 内閣総理大臣西園寺公望 文部大臣兼任し就任。327日 文部大臣に牧野伸顕就任。文部次官 沢柳政太郎 中川小十郎 明治39420日 内閣総理大臣秘書官に任命

 

13 吉田中学校事件に関する報告書

明治391013日に吉田中学校事件に関する報告書を文部省普通学務局長宛に提出しています。明治391025日に中川小十郎が吉田中学陳情団に面談してから、約1ヶ月後の明治391121日には清和中学から「吉田中学校よりの転学者報告」を文部省普通学務局長宛に報告書している。

 

14 明治3912月現在の吉田中学から清和中学への転入生徒数は次の通りです。

  1学年 72名 2学年47名 3学年50名 4学年46名 5学年48

この5回生48名は、転入後明治403月に卒業をむかえ、清和中学第1回卒業生となり、その後の清和会結成でも積極的な役割をはたします。

 

15 陳情団のメンバー、満川亀太郎、岩富英、増田恒一、石館久三、村田栄一、生田調介はその後清和中学第1期生として活躍します。

石館久三氏は清和中学卒業後、早稲田大学卒業後、函館市で昭和4年にキングベーカリーを設立し、夢を実現している。現在も函館市内を中心に有名ベーカリーとして続いている。

 満川亀太郎は中川小十郎との出会いを後に、後輩の前で講演し次のように語っています。

「中川先生はいたく我々に同情され、清和中学の生徒として我々全部を迎えて下された。

…かくの如くして救われ拾われた私は立命館に対して今もなお深い感謝の念を抱いている」卒業後も立命館中学の発展に尽力されています。

生田調介は卒業後、早稲田大学に進学し、歌人生田蝶介として歌集『長旅』や歌誌『吾妹』などを刊行している。立命館出版部からも『作歌入門』1928、『旅に歌う 紀行吟行』1928

『短歌用語小辞典』1929 、『昭代一万歌集』1930 など数多くの作品集、入門書を刊行している。

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