立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2017.05.30
中原中也 生誕110年記念「中也が学んだ立命館中学 大正期の自由教育」展のお知らせ
2017.05.11
『立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集』を刊行しました
中川小十郎は、幕末に丹波馬路村(亀岡市馬路町)に生まれ、明治の時代環境と人々に恵まれ、立志の気概をもって東京を目指した一人です。
帝国大学卒業後は、国家官僚として西園寺公望文部大臣に師事して京都帝国大学創立に関与し、官職を辞した後日本女子大学の創立、広岡浅子の加島屋経営、現大同生命保険株式会社の創立に携わりました。
学校法人立命館の前身である「京都法政学校」は、この事歴の中で学び経験し、そして確信した中川小十郎の生涯の目的として開校されました。
これまで、中川小十郎に関する研究は進んでおりませんでしたが、中川小十郎の御子孫、馬路町の小十郎関係の方々のご協力の下一次史料を収集・蓄積し、2015年3月、目録化を完成いたしました。
本冊子は、蓄積した一次史料に基づき、目録化に携わった立命館大学文学部日本史学の研究者により中川小十郎の事歴を明らかにしたものです。
なお、掲載の時代範囲は、幕末から大正時代までで、その後の昭和の始めから小十郎が亡くなる昭和19年までの事歴は、引続き研究を行っております。
2017.04.07
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス東側広場誕生まで
2017年4月 衣笠キャンパスの至徳館前に「東側広場」が誕生しました。
この場所には、1967年~2015年の48年間「図書館」が建っていましたが、2016年4月「平井嘉一郎記念図書館」の開館と同時に歴史的使命を終え、2016年3月から図書館回りの植栽などの移設・撤去、8月からは躯体の解体工事が始まりました。
※中央図書館の姿は、「<懐かしの立命館> 衣笠キャンパスの「図書館」今昔」https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=32 をご参照ください)
その解体・広場化の経過を定点画像でご紹介しましょう。
2016年3月24日(水)の図書館です。
すでに蔵書は「平井嘉一郎記念図書館」に移動済みで、館内は空の書棚と廃棄什器だけになっています。1967年からの48年間、ここで多くの学生たちが学んでいました。
2016年8月25日(木)。夏季休暇期間の開始と同時に、図書館を防音壁で囲み、解体作業が始まりました。至徳館前の広場から撮影。正面入口から解体されていきます。
2016年9月1日(木)。わずか5日で、躯体の半分以上が・・・。3階建ての閲覧室が解体されていきます。至徳館屋上から撮影。
2016年9月15日(木)。もう殆ど解体されています。奥の壁面は閲覧室と書庫を隔てる壁。
2016年9月29日(木)。奥の書庫が解体中。書庫は5階建てでした。
2016年11月10日(木)。図書館躯体は殆ど解体され、学而館の壁面が露出しました。学而館は1970年建築で図書館躯体に連結されていましたから、この風景は今まで誰も見たことが無い姿です。
2017年1月23日(月)。図書館解体の瓦礫は撤去され、広場の整地が始まりました。学而館の壁面は周辺学舎に合うような塗装が施されています。中央の出っ張りは、地下書庫の天井部分。建築時の天井高のため、このようになっています。
2017年3月24日(金)。東側広場の整備が進んできました。意外と広い印象です。この時期、合わせて至徳館前の広場も整備されています。右半分は人工芝。
2017年4月3日(月)。東側広場が完成しました。撮影(午前中)の時は各学舎内で新入生オリエンテーション中でしたから、少しの学生と地域の人が集っていました。
2017年4月6日(木)。12:30の撮影。広場は昼食をとる学生たちでいっぱいです。
<図書館のモニュメント>
東側広場の至徳館側の入口に、かつてここに図書館(衣笠図書館・中央図書館とも呼称された)があったことを記念するモニュメントがあります。碑に埋め込まれた茶色のタイルと中の白い大理石は、中央図書館の外壁や館内壁面で使用されていたものです。