立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2017.02.15
<懐かしの立命館>明治・大正における立命館中学の英語教育とそれを支えた外国人女性教員
1.明治・大正期における立命館中学の英語教育
1)日本の学校制度の確立と付属校の設立
日本の学校制度は、1886(明治19)年4月の一連の学校令公布によって確立されます。その中学校令 第一条では「中学校ハ実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所トス」と定めていて、当時の中学校では進学(高等中学校が全国に5校)と実業(尋常中学校が就職を主として全国各府県に1校)の二つの目的をもっていました。(注1)
その後、何度かの改正が行われますが、最も大きなものは1899(明治32)年の中学校令全面改正(第二次中学校令公布 2月7日)でした。この時に尋常中学校の名は中学校と改められ、目的を「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」とされ、各府県に1校以上の中学校設置が義務付けられ、郡市町村でも容易に設置が認められるなど、中学校設置に対する積極的姿勢がとられたのでした。これによって1901年に施行細則が決められ、表1のように英語の週当たりの授業時間数も大きく増加されることになりました。(注2)
こうした流れのなかで、立命館中学校・高等学校の前身である清和普通学校が1905(明治38)年に京都法政大学の付属学校として設立されたのでした。
表1 中学校令と立命館中学校での英語の週当たりの授業時間数の変遷
2)清和中学校の英語教育
設立当初の清和普通学校は、まだ中学校としての諸規定を満たしていませんでしたが、開校にあたっての生徒募集では、「外国語数学及び国語に力をいれた授業を行う」としています。(注3)設立当時から上級学校への進学指導に独自な特色を出そうとして、一般の中学校基準に比べ上級学年になるほど英語の時間数を増やして、英語の指導に力を入れていました。(表1参照)
翌1906(明治39)年には清和中学校として認可されますが、この時にも対外的には上級学校への進学を第一に考えた教育を行う学校と説明していて(注4)、この時の週あたりの授業時間数(表2)からも英語力に力を入れていたことがよくわかります。
表2 1906年 清和中学校における週当たり授業時間数
清和中学校設立時の第一、第二学年の生徒総数は60名で、6名の教員のうち英語担当は吉村友喜だけでした。中学校となって吉村友喜が校長に就任(1907年1月に就任するも同年3月には退職して第三高等学校教授へ)していますが、英語の授業は継続して担当していました。中学校といえないような小規模な学校でしたが、この年11月、文部省から解散を命じられた吉田中学校から5学年263名もの生徒が転学してくることとなり、急遽、英語教員も花房俊静(1907年5月に和歌山県立粉河中学校へ)、妹尾勇(1907年3月に石川県立武生中学校へ)の2名が増員されています。ただ、学校設立からの5年間(1906年~1910年)の英語教員だけをみると、採用19名で退職15名となっていましたが、このような変化は清和中学校だけではありませんでした。移動が激しかったのは、当時の中学校教員の有資格者獲得が全国的にかなり困難であったために移動が頻繁で(表3参照)、清和中学校でも在職1,2年に満たない教員が多数見られたのもそのためだったと考えられています。(注5)
3)清和中学校から立命館中学へ
1899年の第二次中学校令公布(前述)によって、1898(明治31)年から1910(明治43)年に全国の中学校数で約2倍に、生徒数は約3倍以上にも大きく増加することになります。(表3参照)
清和中学校の場合も同様で、生徒数は1906(明治39)年285名であったのが1912(明治45)年には366名と増加することとなり、社会からの期待に応えるべく、新たな教育を追求する必要がでてきます。大正時代の始まりは、立命館中学への校名改称とともに大きな発展へとつながっていくのでした。
1913(大正2)年、私立立命館中学に校名変更が認可されます。これとほぼ同時に、京都帝大から小西重直教授が学監として迎えられ、その実践の結果、自由主義的風潮が広がる大正デモクラシーの時代に、立命館の新しい教育がようやく開花することになりました。学校全体が活気にあふれ、勉学とクラブ活動も非常に盛んとなり、戦前における立命館中学の最もよき時代の姿が現れた頃です。それは館長中川小十郎が願う立命館中学の姿でもありました。(注6)当時の新聞には、「自由主義」的校風を報道する記事がいくつかあり、大正後期の立命館中学の社会的評価の一端を知ることができます。
①「三十余の教諭は帝大出身の文学士大半を占め慈母の愛児に対する如き切実なる教育振りと、如何にものんびりとした自由の空気が構内に漲って居ることは確かに一特色である」(注7)
②「学校の特長としては(中略)中学としては比較的自由主義で束縛がない様だ、大学部と同じ場所で教を受くる関係上自由が過ぎてだらしなくなるのは立命館に限った訳ではない(後略)」(注8)
表3 全国の学校数・生徒数・教員数(公私立中学校)の変化
日本帝国文部省 第26・27・28年報(抄)~ 第52・53年報(抄)より作成
4)大正期の立命館中学の英語教育
当時の立命館中学における外国語教育とはどのようなものであったのでしょうか。
外国語教育については『立命館中学の過去現在及将来』(1918年発行)の「教育内容の上進」で次のように書かれています(抜粋)。(注9)
「一、外国語科に於ける読解力を一層発達せしめ普通英字新聞、雑誌等を読解し得るに至らしむること 同作文につきては尚一層実用方面に注意し特に通信文等の記述に習熟せしむること
六、外国語数学漢文等に対する課外の教授時間を増設し生徒の個性に応じて一層その実力を発達せしむること
七、外国語は目下英語を課すれ共将来別に独逸語の学級を設くるか又は随意科として之を加設すること」
このように自由主義的校風のなか、英語力の向上については学校としてもかなりの力をいれていたことがわかります。
私立立命館中学に校名が変更された1914年の週あたりの英語授業時間は第5学年で1時間増となっています。この1時間がどのように活用されていたのかはわかりませんが、三年後(1917年)の編入試験(第ニ学年以上)の受験3教科(国語、数学、英語で各3科目)に英会話が設定されていることや(注10)、卒業生同窓会での催し物 (注11)の内容から考えて、上級学年に対して実用的な英語教育に力を入れていたであろうことが考えられます。
2.英語教育を支えた外国人教師たち
1)英語教育に関わった外国人講師
日本の教育の近代化は1872(明治5)年の学制発布から始まりますが、初期の準備もレベルも大変遅れていたために、内容は輸入した外国の教科書で欧米文化を教授することが目的のようになっていました。したがって、外国人教師の採用も多くなっていました。
社会的変化の時代にあって、前述したように清和中学校では英語教育を強く打ち出していました。教員では、すでに1908(明治41)年、カスバート(アメリカ)、ガッピー(イギリス)、サウター(イギリス)と3名の外国人教員が任用されています。このうちガッピーとカスバートは男性教員だったようですが、二人の在職がなぜ短期間であったのかもわかりません。同窓会報「清和」には退職後の消息として、ガッピーは平安女学院へ転職後に東京へ転居と記載されています(1918年の同窓会報「清和」には故人と記載)。カスバートは聖護院に住んでいた後に母国へ帰国していたことまでがわかっているだけです。三人の在職期間は以下のとおりです。
2)立命館中学の英語教育を約20年間にわたって支え続けた女性教員サウター
既述の男性外国人教員二人に対して、女性のサウターの在職期間は、他の日本人教員と比較しても突出しています。彼女は1908(明治41)年6月に就職しながらも9月で一旦退職をします(注12)が、翌1909年9月に再就職してから、女性外国人教員として長期に亘って勤めることになります。女性教員はサウター以外に誰もいない男子校時代に、なぜこれだけ長く勤めることができたのでしょう。
現在、彼女の経歴と人となりを知ることのできる資料が次の二点残されているだけです。
①「英国婦人。同地ロンドン出生。ケムブリッチ大学、ロンドン王立音楽学校及サウス、ケンシントン大学等に修行。明治四十一年六月本校英語教授を嘱託し同年九月一旦退職の処、四十二年九月に再任し、爾後引続き今日に至る。」(注13)
②(前略)サウター先生ハ敬虔(語注 a)ナル基督信者ニシテ操履端正(語注 b)ニシテ厳粛(語注 c)洽聞強記 (語注 d)ニシテ気象(語注 e)快活実ニ英国婦人ノ典型ナリ。先生執務ニ熱心ニシテ教授ニ老練ナリ。故ニ初学ノ徒モ皆ヨク発音を学ビ英語学修上ノ進歩顕著ナリ(注14)
(語注 a) 敬虔;神仏をうやまう
(語注 b) 操履端正;平素の心がけや行いがよい
(語注 c) 厳粛;おごそかでつつしみ深い
(語注 d) 洽聞強記;智識や見聞が広く記憶力がよい
(語注 e) 気象;気だて、性質
広小路学舎の清和中学校から北大路学舎の立命館中学校時代までを勤めたサウターの姿は、1914(大正3)年の卒業生集合写真で最前列中央に写っているのが最初で(写真1)、1918(大正7)年の「立命館中学の過去現在及将来」(写真2)や1921(大正10)年発行の清和10号(写真3)まで写真で確認されていますが、清和12号には在職中の教員として名が載っているだけで、卒業写真にも写っていません。その後の存在としては、1928(昭和3)年4月の新聞記事で「中学校に女教員」という見出しで、彼女と高田久榮の二人が京都市内の中学校で初の婦人教員として紹介されているのみです(注15)。この記事を読む限りでは、今まで長く英語教育を支えていたサウターが正式の教員として認められていなかったことになります。
1928(昭和3)年は、中学校に中川小十郎校長が誕生し、禁衛隊が結成された年です。それまでの立命館中学校の歩みが大きく変わる時でもありました。その後の立命館中学校での英語教育がどのように進められたかは、残されている資料からは知ることもできません。外国人女性教師として、厳しい状況にあったであろうことは想像されます。彼女の名前を最後に見つけられたのは、立命館大学の「立命館学誌」第143号(1931年5月発行)の「中学校・商業学校生徒隊だより」で最後の職員移動という小さな見出し。たった三行の記述の中に「サウター、高田久榮先生退職せられ」とだけ書かれていました。この年の入学式では「入学禁衛隊入隊式」として挙行されたことが詳しく掲載されていました。新学期が始まって直後、サウターはどのような気持ちで職場を去ったのでしょうか。
サウターが、最初の短期間を除いても、1909年から1931年春までの22年間、清和中学校から立命館中学、立命館中学校(1928年)へと英語教育に関わってきたことは事実です。詩人中原中也(在学時代1923~24年)がサウターから学んでいた可能性も十分に考えられます。ただ一人の外国人、それも女性教員として明治から大正、昭和にかけて立命館中学の英語教育を支え続けたのがサウターでした。
2017年2月15日 立命館史資料センター 調査研究員 西田俊博
写真1 1914(大正3)年 第八回卒業生 記念写真 同窓会誌「清和」第4号
最前列中央がサウター
写真2 「立命館中学の過去現在及び未来」全職員写真 1918(大正7)年
顔写真左から三人目がサウター 最前列中央が小西重直学監
写真3 1921(大正9)年 第十五回卒業生 記念写真 同窓会誌「清和」第10号
サウターが撮影された最後の写真
注1 「中学校令」1886(明治19)年公布 (日本帝国文部省第十五年報)
注2 「中学校令施行細則」 1901(明治34)年制定
注3 京都日出新聞 1905(明治38)年9月10日付 (立命館百年史 通史一 p200)
「中学校と同じ課程にて普通学を授け、就中、外国語数学及び国語等の如き学力の基礎となる科目に最も力を用ひ、将来高等なる学校に進入せんことを目的とする者に、必須適当なる授業を施すものとす。」
注4 私立清和中学校学規則 前文
1907(明治40)年6月25日付の徴兵猶予の認定申請の際に京都府へ提出
京都府公文書
「特殊ノ教育主義ニ於テ(前略)寧ロ将来進ンデ高等ナル教育ヲ受ケントスル者ニ対シテ適切ナル教授ヲ施すスヲ以テ主眼トスルコトナレハ他日高等学校(中略)海陸軍諸学校等ヘ入学セントスル志望者ニ対シテ他ノ一般公立ノ中学校等ニ比シテ便宜多カルヘキハ本校ノ信シテ疑ワサル所ナリ」 立命館・中川小十郎研究会報 七
注5 立命館百年史 通史一 p207
注6 「中川立命館長演説」中学部第20回卒業式『立命館学誌』94 1926年4月
「(前略)我立命館中学におきましては深く此点を注意し教育学の大家である小西博士を学監に依頼し各教員の指導を託して居るのであります、僭越なる云分かもしれないが此の点において全国中学校に対し一の模範中学校たることを以て窃に期して居るのであります。」
注7 「京都日出新聞」 1920(大正9)年3月10日付
注8 「京都日出新聞」 1921(大正10)年3月29日付
注9 「立命館中学の過去現在及将来」 1918(大正7)年3月発行 p.98
注10 立命館中学編入生徒募集案内 「立命館学誌 第9号」1917(大正6)年3月発行
1917(大正6)年度 立命館中学編入生徒募集試験時間
( )が前年度から追加された教科
幾何は第四学年志望者、代数は第三学年以上の志望者に課された。
注11 同窓会誌「清和」第3号 1913(大正2)年12月発行
秋の清和中学校同窓会での催し物のなかには、在校生による英語による朗読、暗唱、寸劇などが行われていて、主なものでは「英語による伊勢参宮修学旅行」などが紹介されています。
注12 「京都日出新聞」 1908(明治41)年4月21日付
「(前略)因に英語科教員として英国婦人を1名雇入れたりと。」
保存されている資料と整合しませんが、この婦人がサウターと考えられます。当時として、外国人の女性教員を採用するのは大きなニュースであったようです。
注13 既述「立命館中学の過去現在及将来」 1918(大正7)年3月発行 p.41
注14 吉村主事の祝辞 「立命館学誌 第100号」 1925(大正15)年12月発行
1926(大正15)年11月22日に行われた中学校創立20周年の祝賀祭典では、全校生徒教職員の前で、勤続年数第1位20年の小谷時中(前職は吉田中学校で、廃校によって清和中学校採用となる)に次ぐ第2位の勤続17年で感謝状が贈られています。その次に続いたのは学監小西重直の12年でした。
注15 「京都日出新聞」 1928(昭和3)年4月2日付
見出し『中学校に女教員 我市では最初の試』
「立命館中学では新学年から英語科に婦人教員を採用することとし三年級にはサウター氏、二年級一年級は高田久榮女史担当し、主に発音読方会話を受持つ由、中学校に婦人教員を採用する例は他に一ニあるが我京都府下では立命館中学が最初のものであると云ふ。」
2017.02.15
「今日は何の日」2月 末川名誉総長40回忌
講演中の末川博立命館名誉総長(1975年)
2017年2月16日は、名誉総長末川博が亡くなって40年目の命日になります。
末川先生には多くの著書があり寄稿もされていて、これを読む機会はいくらでもありますが、夫人について述べられたことがありません。そこで、ご夫婦の姿をご紹介して末川先生を偲ぶことにします。
1962(昭和37)年12月15日、立命館では学園を挙げて、総長の古稀(70歳)祝賀会を開きました。この時、夫人も列席されていて、その場で末川総長ははじめて大勢の前で夫人について次のように語られたのでした。
「実は、これまで家内のことを他人に話したことはないのだが、今日だけは、大きな声で家内について一言することを許していただきたい。(中略)書斎や研究室や教室などで自分が好きなようにわがまま勝手な生活をして今日を迎えることができたのは、四十年余りの長いあいだ、家内がよく家のなかをみてくれたおかげである。私は、この美しい京都で私の道を思う通りに歩んでくることができたのをいつも感謝していると同時に、それは、家内が私のやることを理解して家庭のことなどで私を煩わさぬように心がけてきてくれたおかげだと私は感謝している。」
古稀祝賀会でのご夫婦
八重夫人は、61歳の誕生日をまじかに控えた1964(昭和39)年2月5日に亡くなりました。悲しみも癒えないそのわずか1ヵ月後、夫人を癌で亡くされた思いを地元の新聞に随感として二度に亘って寄稿されています。そして、夫人が逝って半年後には、「時と人を追うて」という著書を近しい方々だけに贈られましたが、その最後は「亡き家内のことども」という夫人へ捧げられた次のような一文でまとめられていました。
16歳で同じ山口県出身の末川博という男性と結婚して44年。ひかえ目で、ただ家庭のことや子どもたちのことを中心にして過ごしてきて、夫の自分がまったくわがまま勝手に振る舞って、好きなことをして生活してこられたのは、すべて家内のおかげでした。そして最後は「病魔の苦しみによく耐えて、泣きごと一ついわずにしんぼう強くたたかった姿を追想しますと、まったく断腸の思いを禁じえません」と結ばれていました。
1949(昭和24)年、教職員・学生生徒(高校生も3人)を選挙人として参加した全国初の総長公選制で、末川先生が選出されてから5期20年。戦後の学園改革に力を注ぎ、学園の教学理念である「平和と民主主義」を築き上げてきた末川総長は、退任で名誉総長の称号をうけられたのでした。
夫人が亡くなって13年後の同じ2月。16日に末川博立命館名誉総長は84歳で永眠されました。祝賀会で「土地にほれて仕事にほれて、そのうえに女房にほれる者は仕合せ」と語っておられたとおり、今はご夫婦仲良く墓地に静かに眠っておられます。
ご夫婦の墓石(大谷本廟)
2017.01.11
<懐かしの立命館>立命館初代理事長 池田繁太郎
はじめに
1935(昭和10)年、池田繁太郎は立命館最初の理事長に就任した。
1900(明治33)年に私立京都法政学校創立、1913(大正2)年に財団法人立命館を設立し、学校の名称も私立立命館大学、私立立命館中学となって以来(以下、「私立」を略す)、初めての理事長であった。
中川小十郎総長が寄附行為を改正し後継者として理事長に選任した池田繁太郎。
その池田理事長は、創立35周年の諸事業を行うなか、その記念祝賀式を目前にして、就任後わずか3ヵ月で病により帰らぬ人となった。
その池田繁太郎はどんな人物であったのか。どのような足跡を残したのだろうか。
池田繁太郎
1.生い立ちから立命館卒業、弁護士に
(1)生い立ち
池田繁太郎は、1885(明治18)年11月18日(注1)、島根県の山村、簸川郡乙立村(現・出雲市乙立町)の今岡臺八の四男として生まれた。1895(明治28)年3月に乙立尋常小学校を卒業し、叔母の婚家である出西村(現・出雲市斐川町)の池田幸太郎の養子となり、池田の姓を継いだ。続いて直江高等小学校、郡立簸川中学校に進んだが、県立に移管され改称した第三中学校(現在の大社高等学校)の4年級を1901(明治34)年6月に修了し、数え年17歳にして青雲の志を抱いて上洛した。
(2)京都法政学校入学、京都法政大学卒業、弁護士試験合格
上洛した池田は1902(明治35)年9月9日に京都法政学校法律科に入学した。
京都法政学校は翌年京都法政専門学校と改称、更に1904(明治37)年9月、京都法政大学となった。同期には繁田保吉、畝川鎮夫らがいた。池田は大変に優秀な成績であったようで、憲法学の大家であった京都帝国大学教授井上密は、池田が1年の時憲法の試験の答案を京都帝大の学生に示し激賞したという。同じく京都帝大から講師として来ていた勝本勘三郎もまた、京都帝大に池田ほどの学生がいたらと褒め称えたという。
3年次には京都法政大学の学術情報誌『法政時論』に論説「物権の優先権とは何ぞや」を掲載し、また雄弁会の第2回演説会で「留置権の効果」について演説している。
繁田によれば卒業試験は池田が首席で、卒業式では優等受賞者となった。
池田は京都法政学校から数えると第3回の、京都法政大学としては第1期の卒業生となった。1905(明治38)年7月のことである。
池田の在学当時の学費は、2年次が月額2円、3年次が2円50銭であった。在学中には弁護士事務所で働いたこともあった。
卒業した秋11月、弁護士試験を受け、全国で14名しか合格しないなか、しかも未成年で見事合格したのであった(注2)。未成年者は弁護士を開業できなかったので、成年に達したのちの1906(明治39)年4月に弁護士を開業した。
(注1) 11月9日とする資料もあるが、本稿では「学籍簿」および「履歴書」によった。
(注2) 当時は文官高等試験・判事検事試験・弁護士試験が最難関試験で、『立命館学報』第1号(大正
3年2月発行)によると大正2年7月までの卒業生535名のうち3試験に合格した者は12名であ
った。明治37年に貫名弥太郎(第1回卒業生)が文官高等試験に、明治38年に池田繁太郎が弁護
士試験に、古賀才次郎(第2回卒業生)が判事検事試験に合格したのが最も早い事例である。
合格者数は「官報第6722号」(明治38年11月25日)による。池田は弁護士試験のため上京し
た時、古賀の下宿に滞在している。
2.校友会活動と中川小十郎市長就任要請
池田繁太郎は弁護士業の傍ら、立命館の校友として様々な活動をした。
1913(大正2)年12月、中川小十郎は財団法人立命館を設立、校名も立命館大学、立命館中学と改称した。
池田はその法人設定祝賀校友大会、京都校友大会に出席したのを初め、中川館長への記念品贈呈式に出席し、橋井孝三郎・奥村安太郎・浅原静次郎・政岡亨の各氏とともに校友有志総代として記念品贈呈をした。
1915(大正4)11月30日には秋季校友大会に参加、校友会協議員となった。法人の基本財産募集の事業では協議員として名を連ねた。
1916(大正5)年3月開設の校友倶楽部では役員・評議員に就任し、校友倶楽部は同年5月に総会を開催している。
同年7月、井上密が病気のため京都市長を辞職した。井上は京都市長就任前は京都帝国大学教授で、立命館の教頭でもあった。9月、京都市会は台湾にあって台湾銀行副頭取であった中川小十郎を京都市長候補に選出した。9月23日、京都校友倶楽部の校友大会は中川の市長就任歓迎決議をあげ、京都市議であった橋井孝三郎(第2回卒業生)と池田繁太郎が代表で台湾に行き市長就任を要請した。しかし中川は台湾銀行の職のため固辞し、中川の京都市長就任は実現しなかった。
1917(大正6)年に入ると、京都法政学校創立以降学園の運営に力を尽くし前年に亡くなった井上密法学博士記念事業の発起人になった。
その年7月には円山公園左阿彌で全国校友大会を開催、続いて8月にも臨時大阪校友大会を開催した。
このように池田は初期の校友会活動に力を尽くした。
3.大学昇格運動と理事就任
(3)大学昇格運動
1918(大正7)年12月、大学令が公布され、早稲田・慶應・同志社などがこの新しい大学令のもとでいち早く「大学」となった。
立命館大学は旧専門学校令に基づく「大学」であったが、立命館の首脳部の中川・織田萬・佐々木惣一らは大学昇格に否定的・批判的であった。それは立命館の創立以降の教学が実質的に京都帝国大学の教授陣により行われてきていたことともかかわっていた。首脳部は教育の自由、学問の独立を主張し、国の関与を避け教育内容の充実を図ることを考えていた。
否定的な学園首脳部に対し、大学への昇格を積極的に取り組んだのが校友会であった。
京都校友会は、1919(大正8)年1月11日に大学令問題の調査及び校友総会準備のための京都校友大会を開催し、大学昇格問題に着手した。調査及び校友総会準備委員として奥村安太郎・永澤信之助・池田繁太郎・浅原静次郎の4氏が就任した。大阪校友会もこれに続いて臨時校友大会で織田萬、末弘威麿理事あてに大学問題に関する建議書を提出した。
11月22日には創立20周年記念祝賀式が開催され、翌日には記念校友大会を開催し、校友会規則も定められ校友会の組織化が進んだ。
1920(大正9)年4月には大学側と校友有志池田繁太郎・永澤信之助・畝川鎮夫・浅原静次郎らによる昇格問題についての懇談会が開催された。5月23日には中川館長出席のもとで校友総会が開催され、校友も大学の経営の協議に参加していくことや大学昇格を進めることが決議された。7月11日に全国校友大会が開催され、池田は母校の大学昇格問題について概説し、昇格基金の募金活動に積極的に取り組んだ。昇格には供託金50万円の資金が必要だったのである。
9月には校友会常任委員であった池田らが末弘威麿理事を訪問し打ち合わせ、昇格問題について準備書面の作成に入り、17日に大学令による大学設立を文部大臣に申請した。
こうして、大学昇格問題に積極的でなかった中川館長を動かし、池田ら校友の熱心な昇格運動の結果、1922(大正11)年6月5日に認可を受け、立命館大学はそれまでの専門学校令による「大学」から大学令による大学に昇格したのである。
この年、大学の卒業生は創立以来932名、在学生は専門部1,155名、予科679名、中学の卒業生1,087名、生徒数700名となっていた。
(2)財団法人立命館理事に
そして財団法人立命館の協議員会が開催され寄附行為の変更を申請し、8月12日に認可された。その内容は、理事・監事・協議員の定員を増員し、校友から選任する道が開かれたのである。この結果、新たな理事に校友の池田繁太郎および京都帝国大学の山田正三教授、協議員に浅原静次郎ら校友13名が入り、11月に畝川鎮夫が監事となった。
大学令による大学への昇格と寄附行為の改正による新たな学園の運営体制によって、「立命館大学」は国家の実務に有用な人材を養成することを目的とする大学となったのである。
1925(大正14)年には中川が台湾銀行を辞任し、館長職に専念することとなった。
1927(昭和2)年には理事の一人末弘威麿が死去した。
大学令による立命館大学で最初の専任教授となった法学部の板木郁郎(1899~1991年)も乙立の出身で池田の知遇を得た。板木は1927(昭和2)年、野球部長として台湾遠征を行うが、池田理事は初の海外遠征をする野球部の歓送をした。池田は板木と同郷ということもあってこの頃しばしば野球部の応援に足を運んだという。
1931(昭和6)年の職制改正により中川小十郎は館長から総長となった。
池田は、1933(昭和8)年8月には立命館中学校・商業学校設立者、立命館理事として、中学校・商業学校の校長を塩崎達人、中西弘成から両校とも中川小十郎にする届・願を文部大臣あてに申請し、教学体制の変更を実施している。
4.法律家・弁護士と社会的活動
ここで池田繁太郎の法律家・弁護士としての活動をみておきたい。
池田は、前述のように1906(明治39)年4月、満20歳にして弁護士を開業した。
そのわずか2年後の1908(明治41)年6月に『判例挿入自治法規全集』(帝国地方行政学会)、同7月には『行政裁判所判例要旨類集』(同)を発行している。22歳の若さであった。
1907(明治40)年には「法政時報」、1911(明治44)年からは「法政」という新聞の発行もした。
『京都新人物百短評』(萬朝社 1912年)は、池田を京都弁護士中の最年少者で、弁護士試験の記録を破り試験官をアッと言わせたとし、民法学者としては既に一家の説を有しており、28歳にして前途は多事である、と評している。
そして1924(大正13)年に『実用帝国六法全書』(内外出版)、1926(大正15)年には『新旧対照民事訴訟法』(巌松堂書店)を発行した。
池田繁太郎著作
法律家としての活動は多岐にわたっている。そのなかのいくつかをあげると、
1914(大正3)年6月 京都取引所取引員組合顧問就任
1919(大正8)年6月 無料法律相談所開設
1920(大正9)年4月 同相談所を京都市無料法律相談所とし嘱託就任
1923(大正12)年6月 京都弁護士会会長就任
同 日本積善銀行整理委員・破産管財人
1924(大正13)年8月 内外出版株式会社監査役
1927(昭和2)年11月 京都市中央卸売市場顧問就任
のほか、京都美術倶楽部、十五銀行、名古屋銀行、宮川町貸座敷組合の各顧問に就任している。また1931(昭和6)年には調停委員にも就任した。
京都弁護士会会長の際には、副会長中江源、北川敏夫など会員61名にて、1924(大正13)年1月26日に皇太子殿下(のちの昭和天皇)御結婚祝賀の臨時総会を開き、萬養軒にて祝賀会を開催している。
また京都弁護士会会則の制定に関わった。
5.初代理事長
1933(昭和8)年、立命館は京大事件によって京都帝国大学を辞職した教授・助教授を専任教員として受け入れた。佐々木惣一、末川博ら十数名である。受け入れ後数人が京都帝国大学に復帰するという事態も起きたが、受け入れによって立命館の教育体制も格段に充実し、大学の名にふさわしい大学となったといえよう。
佐々木は翌年3月に学長に就任したが、1935年には美濃部達吉の天皇機関説が貴族院で攻撃され、国体明徴運動が展開された。こうした状況の中で中川総長と意見を異にする佐々木学長は学外に去り、代わって織田萬が学長事務取扱となった。
1935(昭和10)年3月及び5月に立命館は寄附行為の変更を申請し、6月17日に認可された。改正の内容は、理事・監事・協議員の人数を増やしたこと、理事長・常務理事を新設したことである。
この改正は中川が古稀を迎え、また創立三十五周年という節目を迎えて自らの財団の組織強化を図るためであった。そして学園の経営と教学に関する責任を分離し理事会が経営責任を、教授会が教学責任を負う体制を構築したのである。
理事長には、これまで理事を務め学園の運営に参画してきた池田繁太郎が就任した。
「本館理事池田繁太郎氏ハ今回本館寄附行為第八条ニ依リ理事ノ互選ニテ本館理事長ニ選任セラレ七月二十日就任ヲ承諾セラル」
(『立命館学誌』第183号 昭和10年9月)(注3)
中川は、池田を理事長に選任したのは「私(中川)ガ愈々落城スル暁ニ於テハ池田理事ヲシテ理事長トナッテ他ノ理事ノ上ニ立チ経営ノ重キニ任セシメン」ためであったと語っている(『立命館学誌』185号「学園葬での弔辞」)。
しかし、既に1月から病にあった池田は、学園の経営の最高責任者に任命され、立命館の将来を託されたにも関わらず、10月27日、鳴滝の自宅にて帰らぬ人となった。51歳であった。中川は、三千名が参列するなか立命館学園葬をもって池田を送った。
立命館は前年10月に田島錦治学長を、池田の亡くなる前月には初代校長・学長であった富井政章を亡くし、これまで中川とともに学園を創ってきた要人を次々と失った。
中川はその後1944(昭和19)年10月に亡くなるが、その12月石原廣一郎が理事長に就任するまで寄附行為に置かれた理事長職は9年間空席のままであった。
(注3) 池田の理事長就任については、9月とする資料もあるが、本稿では『立命館学誌』183号の記事
により、7月20日就任とした。池田の理事長在任前後の昭和8年2月から昭和10年12月の間の
理事会・評議員会資料が残されていないためその間の経緯の詳細については確認できない。
おわりに―池田君紀念碑
池田繁太郎の生地である島根県出雲市乙立町上田代には「池田君紀念碑」が建立されている。
氏は母校の乙立小学校に奨学金制度(池田賞)を創設し教育の振興に務めたこと、立久恵浮嵐橋の新設工事の費用を負担したこと、地域の永年の水利権争いを解決したことなど、郷里乙立の発展にも大きな貢献をした。こうした郷里への貢献や業績により、池田の生家跡である上田代集会所の地に上田代の人々によって顕彰碑が建てられた。
1942(昭和17)年8月のことであった。碑の裏面には立命館の理事長であったことが刻まれている。
池田君紀念碑
【参考文献】
『立命館学誌』各号、特に第185号「池田繁太郎先生哀悼号」(1935年11月)
『立命館創立五十年史』 1953年
『立命館百年史』通史一 1999年
『故池田繁太郎君追慕録』 故池田繁太郎君追悼会編 1936年
『ふるさと物語』所収「池田繁太郎氏伝」 今岡美友編 出雲市乙立公民館 1982年
『京都弁護士会史 明治大正昭和戦前編』 京都弁護士会 1984年
2017年1月11日 立命館史資料センター 調査研究員 久保田謙次