立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2018.05.16
<懐かしの立命館>合格証書は卒業証書だった?―卒業証書の変遷―
2018年3月、立命館大学は6,745名の学部卒業生を送り出しました。前期卒業430名と合わせると2017年度は7,175名となります。
卒業式では卒業生に対し卒業証書が授与されますが、2017年度の法学部の卒業生は、下記の「卒業証書・学位記」を授与されました。
【2018年3月 法学部の「卒業証書・学位記」】(A4)
しかし、この「卒業証書・学位記」も創立以来何度かの変遷を遂げています。本稿では立命館大学(京都法政学校を含む)の学部の卒業証書がどのような変遷を遂げて現在に至っているかを紹介します。いわば卒業証書の歴史とでもいうものです。
1.最初の卒業証書
写真は、立命館大学の前身である京都法政学校第1回卒業生の「卒業證書」です。
【明治36年7月 第1回「卒業證書」】
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証書には履修した科目名と担任教員19名が記されています。この当時は専任教員がなく京都帝国大学の教員や裁判所の判事、弁護士が講師をしていました。
証書の発行日は明治36年7月10日ですが、卒業式は7月12日でした。今日まで、証書の発行日と卒業式は必ずしも同日ではありません。卒業生は57名でした。
学校長は冨井政章(東京帝国大学教授)でしたが、肩書には従四位勲三等法学博士と位階・勲等・博士号が記されています。
この卒業証書は横56㎝、縦41㎝で、卒業証書としては最も大きなものです。
卒業式が7月に行われたのは大正9年7月11日の第18回卒業式までです。前年の大正8年に、それまで学年が9月に始まり7月に終わっていたのが、4月1日から翌年3月末日を学年としたことによります。そのことにより第19回の卒業式は大正10年3月27日に挙行されました。
2.戦前の卒業証書
戦前の卒業証書は多くは残されていません。
実は、『立命館学誌』第117号(昭和3年9月)に卒業証書の様式についての記事があります。
〇卒業証書様式の改正
今般卒業証書の様式を変更して、卒業生の履修科目を証書面に列記する事となった。
第1回の卒業証書は履修科目を列記していましたから、いつからか不明ですが履修科目を列記しなくなったのでしょう。
ところが、戦前のものとして、昭和10年の「卒業證書」が残っています。昭和10年3月24日の発行で、法経学部の卒業生のものです。昭和3年に様式の改定をしたはずですが、履修科目は列記されていません。大きさは横36㎝、縦26.5㎝です。
学長は昭和8年の京大事件で立命館に招聘された佐々木惣一です。佐々木は昭和9年3月から11年3月まで学長をしています。この証書も正三位勲二等法学博士の肩書があります。
【昭和10年3月 法経学部「卒業證書」】
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3.戦前から戦後にかけて
法学部や史資料センターには戦前から戦後にかけての時代の卒業證書の用紙が保管されています。学長事務取扱 織田萬や学長 松井元興、短期大学長 末川博の名の入ったものもありますが、立命館大学の名のみで学長名が入っていないものもあります。
これらは旧制大学の時代のもので、法経学部や専門学部、専門学校のもの、短期大学のものなどです。
4.昭和25年の「合格證書」から昭和47年まで
昭和23年4月、立命館大学は法学部・経済学部・文学部を設置する新制大学となりました。新制理工学部は翌年設置です。ところが旧制の大学学部や専門学校が同時にあり、旧制度の学校から転籍した学生もいたため、昭和25年3月には最初の新制大学の学生と旧制大学の学生が同時に卒業することとなりました。
【昭和25年3月 左 新制大学「合格證書」、 右 旧制大学「合格證書」】
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これまで卒業證書と言われていましたが、合格證書という名称になったのです。新制大学の合格證書は学校教育法第63条(注1)による、旧制大学の合格證書は大学令第10条(注2)による学士試験に合格し授与されました。学部長が学士試験に合格したことを証明し、総長が合格證書を授与しています。
前年昭和24年の法学部の証書も大学令第10条による「合格證書」でした。また、昭和28年度まであった短期大学は短期大学長による「卒業證書」です。
「合格證書」の名称は、昭和33年3月まで続き、翌34年3月から「合格証書」と新字体に変わります。文章も併せて新字体となりました。大きさはA3よりやや大きく横42~45㎝ほど、縦32㎝前後で年度によって多少の違いがありますが、いずれも縦書きでした。
(注1) 学校教育法第63条 大学に四年以上在学し、一定の試験を受け、これに合格した者は、学士と称することができる。現在の学校教育法は変更になっています。
(注2) 大学令第10条 学部ニ三年以上在学シ一定ノ試験ヲ受ケ之ニ合格シタル者ハ学士ト称スルコトヲ得。
昭和47年3月は、最後の「合格証書」が発行されました。この合格証書には、卒業生の氏名の上に本籍地の都道府県名が書かれています(写真では省略しました)。
【昭和47年3月 最後の「合格証書」】
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5.昭和48年(1973)年3月以降の卒業証書
(1) 昭和48年3月、卒業証書の様式が大きく変わります。これまでは「合格証書」という名称でしたが、「卒業証書」となりました。同時に大きさがB5判(横18.2㎝、縦25.7㎝)となり、横書きとなりました。
これまで学部長が合格の証明をし総長が学士号の授与をしていたのを、学部長名と総長が連名で授与し、○○学士と称することを認めるとしています。
また証書を保管するものがこれまでは丸筒でしたが、エンジ色の布張りの表装ケースとなりました。
【昭和48年3月 「卒業証書」】(B5)
そして昭和56年3月より社系学部に学科名を入れることとなりました。
(2) 1982年3月、卒業生の生年月日および証書発行年月日が和暦から西暦表記に変わりました。前年の11月、学園の文書を西暦表記とすることを申し合わせたことによるものです。
またこれまで証書の授与者の職名を「立命館大学総長」としていましたが、寄附行為および学則に従い(注3)、「立命館大学長」となりました(注4)。
(注3) 学校法人立命館寄附行為 第6条 この法人の設置する学校その他一般教学に関する事項を総
括するため総長を置く。
立命館大学学則 第11条 学長は、学校法人立命館総長がこれを兼ねる。学長は、本大学を
代表し、教育研究に関する事項を統括する。
(注4) 1981年3月28日の大学協議会決定によります。
【1990年の卒業証書とケース】
(3) 1991年9月、これまでの「卒業証書」は「卒業証書・学位記」となりました。同時に学士の称号も学位となり、法学部は「法学士」から「学士(法学)」となりました。
これは学校教育法および学位規則が一部改正され7月から実施されたことによるものです。前期卒業者から適用されました。
【1991年9月 「卒業証書・学位記」】(B5)
(4) 1994年3月、「卒業証書・学位記」の用紙はこれまでのB5判からA4判(横21㎝、縦29.7㎝)に変わり、一回り大きくなりました。
これは、1993年4月に文書規程が制定され、学園の文書の用紙サイズをA4判を基本とすると定めたことによります。
(5) そして2000年3月、「卒業証書・学位記」は電算機により作成・発行されました。
【2000年3月 「卒業証書・学位記」】(A4)
それまでは、氏名・生年月日は手書きで、証書番号はナンバリングであったものが、すべて電算機による発行となり現在に至っています。なお、2000年3月の「卒業証書・学位記」と2018年3月のものでは、用紙のデザインは少し変わりました。
おわりに
「卒業証書・学位記」の現行規定は以下の通りです。
立命館大学学則 第54条
第54条 第17条に規定する修業年限以上在学し、学部則に定める卒業に必要な単位を修得した者については、教授会の議を経て、学長が卒業を認定し、卒業証書・学位記を授与する。
【お断り】 卒業証書の掲載にあたり、卒業生の氏名・生年月日等は略させていただきました。
本稿は、法学部事務室所蔵資料、卒業生の方、および史資料センター所蔵資料をもとに作成しています。
2018.05.09
<懐かしの立命館>93年前 立命館大学硬式野球部は米国女子プロ野球団と試合をした。-1925(大正14)年11月8日 フィラデルフィア・ボビーズ交流戦-
2018年関西学生連盟春季リーグ戦の開幕
今年も関西学生野球連盟・春季リーグ戦が始まっています。例年、各大学の新入生も参加し母校の野球部を応援するのも春季リーグらしい風物詩です。今季リーグ、立命館大学硬式野球部(以下、野球部)は京都大学戦、関西大学戦に勝ち点をあげ首位を保っています。(2018年4月30日現在) 現在の野球部は関西の雄としてその存在感は充分ですが、その昔、創部が後発の弱小チームは京都大学、同志社大学、関西大学など強豪チームからも相手にされなかった苦しい時代がありました。この話は、そんな苦しい草創期の面白いエピソードです。
パンフレット『平成30年度春季リーグ戦』関西学生野球連盟
(立命館 史資料センター所蔵)
1923(大正12)年に野球部は誕生した。
関西学生野球連盟加盟の各校の創部は、同志社大は1889(明治22年)、京都大学は1898(明治31)年に、そして関西学院大学は1899(明治32)年、関西大学野球部は1915(大正4)年、近畿大学は1949(昭和24)年に創部されています。(パンフ『平成30年度春季リーグ戦』関西学生野球連盟)
立命館大学野球部は、今から95年前の1923(大正12)年に創部されていますが、他の4校(同志社大、京都大、関西学院大、関西大)と比較すると随分と後発の創部でした。
創部当時の野球部は、「野球は9人でやるものなのに試合となると人がいないから各部から応援選手になってもらった有様だった。野球部のメンバーには今日は陸上、明日は野球とかけもちで活躍していた。試合にしても大学はむろん中学なんかも相手にしてくれない。実業団もこちらから頼みに行かないと相手にしてもらえない。施設もグランドなんて名のつくもののあるはずがなく、練習は公共の岡崎グランド(現在 京都市岡崎野球場)を使用するのだが、9人集まって練習したことがない」(『立命館学誌169号』)という有様でした。
野球部は、井村信正、小山恭二、長村甚一など野球好きが10人集まって部を創設しました。創部時の部長と部員は次の人たちです。
部長 高畑彦次郎(注1)、主将 井村信正、マネジャー兼選手 小山恭二、選手 長村甚一、山田徳太郎、冨部亮ニ、大平武雄、原富士夫、田村和男、宮川(注2)、大坪(注3)このメンバーは6人でも7人でも集まると必ず練習をして、「いつかは大成するという志をもってやっていた。この時の先輩の心を思うと涙ぐましい」(『立命館学誌90号』)と後輩は語っています。
創部3年目、野球部はフィラデルフィア・ボビーズ(米国女子プロ野球団)と試合をした。
草創期、京都の学生野球界は、京都大学、同志社大学、第三高等学校などが強くはばをきかせていて、本学野球部など相手にしてくれないものだからA大学、B大学、C専門学校などとの交流試合をおこなっていました。3年目には部員も確保でき初めて合宿をやっています。合宿といってもグランドはないので、「東海道の草津」(現在の滋賀県草津市)の空き地で各自米と夜具を持参して一軒家を借り自炊生活の合宿でした。部長の高畑彦次郎先生は「京都から肉を買って暑い夏の日に草津まで差し入れに行った」というほど熱心でした。(『立命館学誌169号』)
先生も創部3年目でようやく歩き始めた野球部が愛しかったのかもしれない。
この頃(1925〈大正14〉年)になると部員数も20数名となり、一応チームとして整ったことから、京都・大学専門学校野球連盟に加盟し、初のリーグ戦(公式戦)に参加しました。
写真:岡崎球場(現在の岡崎公園野球場)立命館 史資料センター所蔵
この創部3年目の野球部は、米国からきた女子プロ野球団と岡崎球場(京都岡崎公園野球場)で試合をおこないました。その米国女子プロ野球団のチーム名はフィラデルフィア・ボビーズ(以下、ボビーズ)といいました。
ボビーズは、1921(大正10)年に創部されたといわれていますが、詳しいことはわかっていません。ボビーズは13才から20才までの女子選手で編成されたチームで13名、他に元メジャーリーグ選手のエディ・エイムスミスとアール・ハミルトンも参加した15名から編成された女子プロ野球団であったようです。エディ・エイムスミスとハミルトンはボビーズが試合をやってみて弱いようだったら、助っ人として出場し試合を盛り上げたようです。ボビーズは1925(大正14)年10月19日に来日し東京、大阪、京都、神戸と遠征して、11月6日に京都入りします。京都入りしたボビーズは11月8日にまだ創部して3年目の立命館大学野球部(現在の立命館大学硬式野球部)と試合をおこないました。
当時の野球専門雑誌『野球界』(注4)では、ボビーズのメンバーが次のように紹介されています。
エル・カーンス 左利き投手。身長6フィート1インチ 、無邪気な少女である。
エン・シャーク 1塁手。チームの花形、ダンスの名手との評判が高い。
キ・ルース 投手。日本人タイプの美人、ダンスを好む。
エル・シャスター 左翼手。ダンスと音楽がご飯よりも好きと云う評判。
エス・イーキン 捕手。強肩の持ち主である。
エン・ガーンス 右翼手。フィラデルフィアの資産家の娘。
エム・オガラー 中堅手。チームの最年長者。
エス・ゴンリン 捕手。活動写真が好き。
ジェー・フリップス 捕手。将来を期待されている。
エー・ノーラン 2塁手。活発な少女
エー・コーラス 投手。スローカーブを得意とするという評判である。
イー・ホートン 遊撃手。金髪の美少女で、1軍のスタープレイヤーである。
エフ・ガーネット 3塁手。金髪の美人で打撃に自信があるとの評判である。
(『野球界』第15巻50号 米国女子野球団評判記 森泰城 )
一方、野球部は、京都・大学専門学校野球連盟(注5)に加入して、初めて公式戦を戦うというほどの発達途上にあるチームでした。この点では同じ草創期にあったボビーズとよく似ていたのかもしれない。
写真:ボビーズと対戦した当時の野球部部員(大正14年)立命館 史資料センター所蔵
ボビーズと対戦した主な野球部のメンバーは、次の通りです。
1番 松蔭暁 8 センター
2番 北川久仁 7 レフト
3番 長村甚一 6 ショート
4番 太田□□(注6)2 キャッチャー
5番 佐藤清 1 ピッチャー
6番 田村和男 5 サード
7番 小原映太郎 3 ファースト
8番 江崎覺 4 セカンド
9番 安藤重三郎 9 ライト
試合は、立命館の先攻で始まり、ハミルトンとエイムスミスのバッテリーから1回に2点、3回に1点、4回1点、5回には太田の3塁打で2点、最終7回(7回コールド)に2点を入れました。
一方、ボビーズは、1回裏にエイムスミスの3塁打で3点を先取し、6回にも安打と4球とで2点を加点し、7回には4球とエイムミスのホームランで2点を追加し、合計7点と追い上げましたが8A対7にて立命館が勝ちました。
1 2 3 4 5 6 7 計
立命館 2 0 1 1 2 0 2 8A(注7)
ボビーズ 3 0 0 0 0 2 2 7
当時の試合の様子がこのように報告されています。
「1925(大正14)年11月8日 岡崎公園運動場に於いて米国女子職業野球団ボビーズと対戦した。敵は米国でも名高いハミルトンとエイムスミスがバッテリーを組み、我が立命館の打撃を封じるつもりであったらしいが、我が選手はよく善戦し遂に8A対7を以てボビーズを破ることができた。」(『立命館学誌』90号)
このエピソードは「創部3年目、ようやく量的に一応整ったチームとなり京都・大学専門学校連盟に加盟し始めて公式戦に参加した栄誉ある年に、米国女子プロ球団と試合をしていることは、(93年前で)時代のちがいとはいえ面白い(楽しい)ことである。」(『体育会の歩み 第1集』1960年11月発行)と語っています。
1990年代以降、女子スポーツの活性化にも力を入れてきた立命館学園でも女子野球部や女子選手の活躍する姿が見れるかも知れません。
2018年5月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重
<注釈>
注1 本学教授であり、硬式野球部創部時に初代部長となり硬式野球部を支援します。教授は、大正14年10月30日には立命館高等予備校の主事、その後高等予備校の校長なるなど学園の教育に尽力します。
注2 現在調査中ですが、同じ姓の方が複数おられたため特定できません。
注3 現在調査中ですが、同じ姓の方が複数おられたため特定できません。
注4 雑誌『野球界』は、1908年から1959年までの間に、日本で発行していた月刊野球専門雑誌である。
注5 『立命館学誌』No108号
注6 史資料センター所蔵の卒業生名簿から可能な限り該当者を推定しましたが、太田氏については該当する同姓名者が複数のため、特定できませんでした。
注7 試合は7回コールドゲームとしています。その理由はっきりしていません。
<参考>
1.パンフ『平成30年春季リーグ戦』関西学生野球連盟(2018年度)
2.『立命館学誌』90号
3.『立命館学誌』169号
4.『野球界』第15巻50号-米国女子野球団評判記-森泰城 野球界社 1925(大正14年)12月1日発行
5.「日の出新聞」1925(大正14)年10月21日、同年 14年11月7日、同年11月8日、同年11月9日
6.『体育会の歩み』(1号)1960年11月発行
7.『日米野球裏面史』佐山和夫著
8.立命館大学硬式野球部HP 硬式野球部の歴史
9.『立命館百年史 通史三』
2018.04.04
「今日は何の日」4月 1988年4月8日は立命館中学校・高等学校で初めての男女共学入学式が行われた日
1988(昭和63)年4月8日、立命館中学校・高等学校が男女共学となって初めて女子生徒を迎えての入学式が行われました。夏に深草学舎移転を控えて北大路学舎最後となるこの入学式は、歴史的改革への第一歩となる日でした(北大路学舎跡地は現在の立命館小学校)。
それまでの中村和歳校長に代わって大学から馬原鉄男校長を迎え、午前10時から高等学校の、午後1時から中学校の入学式がそれぞれ執り行われました。学校移転に向け生徒の増員が決定していたため(注1)、中学生は女子66名を含めて228名(前年が男子178名)、高校生は女子67名を含めて367名(前年が男子261名)でした。特に、中学校では女子の入学を機に、詰襟の学生服からブレザー型となり、ネクタイを締めた制服姿(服装指導でも生徒の自主性を育てることを目指して上下完全制服ではなかった)で、その表情は希望と緊張感がいっぱいでした。2,3年生は詰襟の学生服であったので、上級生から下級生を見る目は男女共学とあわせて特別であったようです。
この中学校の新入生のなかからは、現在、立命館の附属校で活躍する教職員が何人も誕生しています。
北大路学舎における女子生徒の入学は、この年が最初ではありませんでした。1948(昭和23)年設立の立命館夜間高等学校(注2)とその後の立命館高等学校定時制(注3)には女子生徒が在籍していました。1950(昭和25)年9月に夜間高等学校の補欠募集を初めて男女共学で実施し、3名の女子が合格入学したと記録に残っています(注4)。
30年後の2018年の入学式は4月7日に挙行されます。新入生は中学校240名(うち女子115名)、高等学校333名(うち女子176名)です。今では中学校高等学校共に女子生徒の割合が50%を超えています。
2018年4月4日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;中学校が4から5クラス、高等学校が6から8クラスに増やされた。北大路学舎には急遽、特別教室を普通教室に改装し、簡易な女子更衣室も増設された。
注2;1952年3月廃止
注3;夜間高校の廃止に伴い、1952年4月に設立し1966年3月廃校
注4;立命館タイムス(立命館高校新聞局発行)第15号(1950年10月13日発行)記事
「本校の同僚である立命館夜間高等学校が本年9月の補欠募集に「女人禁制」の伝統を破って男女共学を実施した際、勇カンなる女子三名が見事試験を突破して入学し、毎日北大路学舎に通学されている。参考までに失礼ながらお年を伝えると三氏とも芳キまさに三十余才。諸君よ失望するなかれ。」
