立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2018.02.27
<懐かしの立命館>学徒勤労動員中における犠牲者への鎮魂
ようやく判明した9名
戦後初めて立命館における「学徒出陣の実態調査」(注1)をおこなったのは、1994(平成6)年のことでした。翌年が学徒出陣50周年の節目にあたっていましたので、本格的に調査をするには良いきっかけとなりました。その内容は常任理事会に中間報告され、概要は『立命館百年史紀要 第2号』(1994年3月)に掲載されました。しかし、その後追加調査はおこなわれず今日に至っています。すでに戦後72年が過ぎた今日、各学部に残されている勤労動員に関する諸資料は散逸し、その体験者も少なくなり調査を困難にしています。
今回、先の学徒出陣実態調査(1994年)をすすめている中で、勤労動員中に動員先で犠牲になった9名の方々が明らかになりました。それは、必ずしも空襲による犠牲者だけではありませんでした。勤労先の不衛生な住居環境やひどい食事によるであろう病死、また劣悪な労働環境、労働条件の悪さによる過労死などによって亡くなった人もおられました。
学徒勤労動員は、1938(昭和13)年4月「国家総動員法」の公布とそれに続く、文部省通達「集団勤労作業実施に関する件が端緒(注2)といわれますが、同調査で明らかになった点は、通年勤労動員が始まった1944(昭和19)年(注3)以降、終戦までの間に犠牲となった人たちでした。本稿は、これまでに判明した史資料センター所蔵の資料と証言を元に再構成したものです。
ひき続き、学徒勤労動員の「端緒」といわれる『国家総動員法』公布(1938年)から終戦(1945年)までの本格的調査、研究が前進することを願っています。
1.豊川海軍工廠空襲による犠牲者
豊川海軍工廠は、主に航空機や艦船に搭載する機銃やその弾薬包、信管を生産していました。さらに1941(昭和16)年12月には新たに設置された光学部では、双眼鏡や測定儀、磁気羅針儀などの航海兵器を製造していました。学生たちは主に光学部での勤労でした。
そのなかの学生の一人は「わたしは豊川海軍工廠ではフライス盤で長さ1m、直径10cm余の鉄管の中央部に7cm×10cm位の平面に削る作業でした。その作業は人間魚雷の潜望鏡のレンズにあたる部分を造っていた。」と語っています。(注4)
〔豊川海軍工廠の学生たちの寮にて〕
1945(昭和20)年8月7日、豊川海軍工廠は空襲を受けます。
10時13分~10時39分(26分間) 出撃米軍機131機、投下爆弾816.8トン
(注:詳しくは、HP「懐かしの立命館 OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲」参照)
この空襲で4名の本学学生が犠牲になります。
「その爆撃が終わってみたら、立命館の一緒にいた連中が4人おらんということがわかり、早速探しました。私は、相原和男君が私の隣の部屋で寝泊りしていたもんですから、どうしても見つけたらなあかんと思って、工場の東から西まで3日、4日かけてずっと遺体を探し回りました。空襲が10時か11時ごろでしたから、何も食べずに広い海軍工廠の工場に転がっている遺体をずっと見て回りました。随分沢山の遺体の顔を見ましたが、『違う』『ここにはない』といって必死で探し回りました。結局4人はわからずじまいで、とうとう見つけ出すことができませんでした。本当に遺族の方々にお詫びしたい気持ちです。」(同級生T氏)
空襲の犠牲者となった学徒は次の方々(敬称略)です。
石川巌 津野森正 本田義次 相原和男
(愛知県豊川市に建立された慰霊碑)
最後の母への言葉
なつかしい郷里のお母さん
遠い豊川の地より
お元気で昭和20年1月1日の元旦を、お迎え下さる様お祈りします。
何時も思うことはお母さんのことであります。
僕の健康を祈って下さるお母さんお元気で
遠い豊川の生産戦線より 義次 (本田義次の「日記」より)
2.東洋高圧工業(株)における犠牲
1944(昭和19)年、立命館専門学部工学科化学工業科の学生達は、九州の3企業の工場に分かれて動員されました。その3つ工場は、東洋高圧工業株式会社大牟田工業所(福岡県大牟田市)34名、三菱化成工業株式会社牧山工場17名(福岡県八幡市枝光)、日産液体燃料株式会社若松工場17名(福岡県若松市二鳥)です。
(勤労動員(昭和19年)を前に化学工業科の仲間たちと)
この動員された3工場の1つ東洋高圧工業㈱大牟田工業所では2名の学生が犠牲になったと思われます。
一人は辻勇(敬称略)です。辻たちは1944(昭和19)年6月から1945(昭和20)年6月下旬まで勤務します。辻は1945(昭和20)年5月に過労が原因で死亡したと思われますが、学籍簿には「1945(昭和20)年5月27日大牟田ニテ動員中死亡、除籍」と事実のみが記載されています。しかし、その死を同級生は次のように語っています。
約1年間硫安硫酸の製造に従事。辻勇君を病気で失う。食料不足と闘いながら奮闘した。
(A 昭和20年専1電)
東洋高圧工業にて1名(辻勇)が過労死。製造機械が老朽のため生産量が低下。
(S 昭和20年專1化工)
動員先の労働は、昼11時間、夜間13時間の連続無休作業(注5)という過酷なものでした。また、食事は満州大豆を多く混ぜただけのお粗末な食事でした。(注6)おそらくは東洋高圧工業㈱大牟田工業所も同じように厳しい環境であったと考えられます。そんな劣悪な環境の中で辻は亡くなったと考えられます。
もう一人はH(敬称略)です。
「Hは爆撃で死んだと聞いた」(注7)と回想されていますが、Hは立命館の学生ではなかった、とも言われています。なぜなら、立命館の学生たちは東洋高圧工業㈱大牟田工業所を1945(昭和20)年6月下旬に引き上げたので、1945(昭和20)年8月7日の大牟田空襲には遭遇していません。したがってHは立命館の学生ではないのではないか、との見方(注8)です。
しかし、その後発見された『督学報告工学科動員実施調書』(1944<昭和19>年6月)には、小さく尚書として「派遣期間ハ成績良好ナル場合ハ1ケ年間ニ延長する予定」と記載されています。Hは成績良好者として1945(昭和20年)6月以降も残留し、大牟田空襲の被害を被った可能性もあります。現在も調査中ですが、事実を明らかにすることがHに対する鎮魂になると考えています。
厳しい勤労動員でしたが、動員先ではこんなほのぼのとした逸話も残っています。昭和19年6月、立命館専門学部工学科化学工業科の学生T・O(昭和20年工業化学科卒)は、日産液体燃料㈱若松工場(現・北九州市若松区)に勤労動員で勤務していました。その時の思い出がある雑誌に掲載されています。
「北九州もB-29爆撃機が飛来し、毎日が灰色だった。ある夏の宿舎の灯火管制の下、T・Oさんが弾くマンドリンの東京娘(注9)はわたしの胸にやさしく明かり点してくれた。この若き日の懐かしい思い出の色を今も忘れることができない。」(『ジパング倶楽部』2016年6月号)
3.名古屋造船所における犠牲者
名古屋造船㈱は1941(昭和16)年に設立され、1964(昭和39)に石川島播磨重工業㈱と合併し、同社名古屋造船所となります。その後、1972(昭和47)年に同社名古屋工場となります。現在はIHI愛知工場となっています。
1944(昭和19)年に名古屋造船㈱での勤労動員中にT(敬称略)は死亡します。同級生だったK・T、M・Tは同社の劣悪な労働環境をこう語ります。
「寄宿舎に入って夜の食事に食堂に行きました。豆粕(まめかす)のたくさん入ったご飯が丼鉢につけてあるが、蝿がいっぱいたかっていてとても食べる気がしないが、それでも上の方をすてて中の方を少したべましたが、とてものどを通らなかった。寄宿舎の部屋は蚊がぶんぶん飛び手足、顔までさされて一晩中蚊との闘いだった。寝不足と空腹、暑さに困惑した。」(K・T 昭和20年專1法)
「宿舎は埋立地の用水を飲料水としていたため、入寮すると全員下痢をしたが、診療もしてもらえなかった。全員で会社に待遇改善をもとめますが一向に改善されず、友人のTさんは亡くなった。Tさんが亡くなった日に初めて医師がやってきた。会社側と待遇改善を話し合いますが、一向に改善される様子もないので、全員学校に引き上げました。」(M・T 昭和20年專1法)
それまで会社に労働環境の改善を交渉していた学生達は、一向に改善しない会社に対して憤慨していました。その交渉途中にTは病気で死亡しました。この事をきっかけに学生達は「一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲ」ました。学校に引き上げた後、リーダーは退学処分を受けました。また、学生たちの行動に理解を示していた立命館出身の先輩社員も社内の非難を受け、辞表を提出せざるを得ませんでした。学校に引き上げてきた彼らは、すぐに別の会社である愛知時計電機(株)に動員されました。動員先の愛知時計電機㈱では、会社の幹部や工員達がみな名古屋造船㈱での一件を知っており、彼らを白眼視したといいます。さらに、憲兵や特別高等警察(特高)も危険思想を持つ集団としてその動静を監視していました。その時の様子を『督学報告』では「立命館学徒ノ状況」として次のように報告しています。
「会社ノ幹部ヨリ工員ニ至ルマデ、名古屋造船ニ於ケル経緯ヲ知悉(ちしつ)シテ事毎ニ白眼視スルト云ウ」、その事実に対して大学側は、「不憫(ふびん)ニシテ涙ヲ催ス程ナリ」と学生に同情し、学生たちのとった行為を「名古屋造船ノ不誠意トソレニ依ル学友ノ死ニ同情シテ一時ニ感情ノ激発セルモノニシテ決シテ悪質ノモノニ非ズ」と断じています。(注10)
戦争末期の情勢を考えると学校側の学生たちに対する精一杯の弁護だったのかもしれません。名古屋造船㈱のひどい労働環境のために亡くなったTも犠牲者であると考えます。
4.㈱播磨造船所における犠牲者
兵庫県相生の村長唐端清太郎を中心に相生の繁栄を図って出資者が募られ、1907(明治40)年に播磨船渠(株)が設立されます。第一次大戦後1916(大正5)年に鈴木商店が買収し㈱播磨造船所となり、1918(大正7)年 帝国汽船(株)に合併し、更に1921(大正10)年には(株)神戸製鋼所と合併し播磨造船工場となります。1929(昭和4)年には同社から独立して(株)播磨造船所となり、戦後1960(昭和35)年12月に石川島重工業と合併します。
『㈱播磨造船所50年史』には、勤労動員された生徒たちの様子を次のように述べています。
「学徒動員(学徒勤労動員)は国家動員計画の最後のもので決死の段階に入った1944(昭和19)年より各学校の学生生徒が入社した。制服姿の青年学徒が船台(せんだい)上でハンマーやスパナを使い、炎天下あるいは寒風のもとで働く姿はりりしく、また悲壮なものであった。」(『㈱播磨造船所50年史』)
立命館第二中学校(京都市の上賀茂に設立され、戦後は立命館神山中学校・高等学校となる)の勤労動員数は278名で、その内訳は3年生138名、2年生140名、合計278名となっています。生徒達の大部分は播磨造船所興亜寮(のちに工和寮)(注11)に入寮し終戦まで勤労動員を続けます。当時、播磨造船所に勤労動員されたK・K(昭和21年二中)は、次のように回想しています。
「この寮は埋め立地で木造二階建て、満潮時は海水がすぐ近くまで押し寄せてくる劣悪な環境で衛生設備も悪く、また給食はとうもろこし入りの丼鉢一杯と一汁一菜とひもじい思いをした。昭和19年夏、赤痢が発生し二人の生徒が死亡した。また、同年10月鋳造(ちゅうぞう)工場で溶解炉のクレーンが転覆し数名の生徒が大やけどを負ったこともあった。昭和20年になると再三の空襲があって、終戦まで惨々な日々であった。」(立命館中学校・高等学校の同窓会報である「清和会報No11」1991年発行)
この死亡した学徒二名は勤労動員下での犠牲者といえます。調査では、このお二人はK・OとS・Tと考えられますが調査中です。
以上、勤労動員先で犠牲になったといわれていた9名の方々の調査をすすめてきました。まだまだ真実にとどかない部分もあり、引き続き調査が必要であると思っています。
今回の調査報告によって少しでも犠牲者への鎮魂歌となれば幸いです。
注釈
(注1)本学がおこなった「学徒出陣」調査では、全て在学中に兵役に就いたことを「学徒出陣」としており、1936(昭和11)年から1945(昭和20)年までの期間を調査範囲としています。一般的には1943(昭和18)年10月2日に「在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布された以降に徴集された学徒を「学徒出陣」と考えることがほとんどです。
(注2)学徒勤労動員は「1938(昭和13)年4月に『国家総動員法』が公布され、同年6月に文部省は全国の学校に対して『集団勤労作業実施に関する件』を通達し、後の学徒勤労動員の端緒を開いている。」(『立命館百年史 通史一』)としています。
(注3)1944(昭和19)年3月7日「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、4月17日に文部省訓令第11号「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒勤労動員ニ関スル件」がだされます。この訓令は「今や中等学校程度以上ノ学徒ハ挙テ常時勤労ソノ他ノ非常任務ニ服スヘキ」として、学徒勤労動員の通年化を各学校に命令しました。
(注4)立命館大学昭和22年専経同窓会「学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲を語る」から引用
(注5)立命館は1944(昭和19)年6月に「立命館督学制度」を新設しました。この督学制度とは「決戦下ノ学園全般ノ教授、訓育、修練、勤労作業及ビ保健等ノ振興ニ付之ヲ査察、督励シ、(中略)戦時国家ノ緊喫要請ニ綜合統一セシムル」ことを目的として作られました。これにより勤労動員先の実態は毎月報告され、戦時下の限界はあるものの学生、生徒の労働実態、環境衛生などが一部分はわかりました。その『督学報告書』は発見され、重要な資料として史資料センターに保存されています。
(注6)『学徒出陣の実態報告書』の勤労動員体験者アンケートより
(注7)『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集 1977年より
(注8)大牟田市では、1944(昭和19)年7月8日未明の米軍B29が初めて来襲し写真撮影偵察して以来、米軍による空襲は、11月21日に三池・通町空襲、1945(昭和20)年 6月18日未明、7月27日未明、7月30日、8月7日、8月8日、8月8日夕刻と連続的に空襲を受けました。東洋高圧工業㈱大牟田工業所に勤労動員されていた学生達は、1945(昭和20)年6月18日の空襲に遭遇しますが、幸い学生達に被害はありませんでした。しかし、大学側は学生達の安全を考慮して6月下旬に京都に引き上げました。したがって『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』のいう8月7日の大牟田空襲に立命館の学生は遭遇していない、という見方があります。
(注9) 「東京娘」 当時流行した歌謡曲
(注10)昭和19年8月に督学報告マル秘『中京方面出動学徒勤労状況視察報告』(立命館)に「愛知時計電株式会社」視察報告書があります。その報告書の中で、いかに名古屋造船㈱の医療設備がひどく死亡したTさんが充分な治療受けることが出来なかったかを、同じように病気になったT・Sさんの例をあげて報告しています。
「本校T・Sハ大腸カタルニテ入院シ居レリト聞キ病床ニ之ヲ見舞ヒタルニ、充分手厚キ看護受ケツツアリ、・・・T・S君の父母交々、『名古屋造船ニテ立命館学徒1名死亡セシ時ノ実情ト比較シテ、之ナラバ安心シテ我ガ兒(子)ヲ託シ得ル、名古屋造船ハ誠ニ冷淡ニシテ何等ノ設備モ無ク、御話ニナラヌ会社デアル』ト申シ居タリ」
又,生徒たちが名古屋造船でおかれていたひどい状態と会社の体質についても報告され、抗議をして学校に引き上げた学生たちの行動を擁護しています。
「重役ハ・・・・学徒ノ心理ヲ知ラズ設備モ不完全ニシテ、名古屋地方ノ人々ハ名古屋ノ三大地獄ノ随一ナリト称シ、何人此ノ会社ニ働クヲ欲セズ」のような会社である。このような会社であるため医療設備が不備なため「立命館学徒1名ノ死亡者ヲ出シタリ、之ニ憤慨シテ一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲタ者ナリ」
(注11)興亜寮(のちに工和寮)の入寮者は主に勤労学徒、一部一般工員でした。所在地は工場より少し離れた相生市千尋にあり、木造、瓦葺、2階建で、約4622坪の土地に19棟建設されていた。各地から動員された学徒が入寮していたと考えられます。参考
『立命館百年史通史Ⅰ』
『督学報告』 昭和19年度 百年史編纂室編纂
『百年史百年史紀要2号・別冊』 百年史編纂室
『播磨造船所50年史』播磨造船所50年史編纂室
「清和会報」11号(1991)立命館清和会
『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集
『大牟田空襲の記録』大牟田の空襲を記録する会
『学制100年史』文部省
『学制120年史』文部省
『学徒』総員・学徒出陣』本間敏矩著
2017.12.20
<懐かしの立命館>戦後初期の立命館中等教育を支えた女性教職員たち
1945(昭和20)年8月15日は、新しい平和日本の出発点でした。教育の民主化も連合軍の占領政策の一環としてさまざまな政策が実施されました。新しい教育制度のもと、女性の教育への参加も急速に進みました。立命館学園においても「平和と民主主義」を教学理念に掲げ、多くの課題と向かいながら新たな学園づくりへと進みだしました。それは決して明るいだけの道ではありませんでした。
ここでは、戦後まもない頃に付属校の教育改革に参加してきた女性教職員の姿を紹介していきます。(なお、紹介する方々は、内容によって実名表記とイニシャル表記の方とに区別しています)
1)戦前までの立命館中等教育と女性教諭
立命館の付属校の歴史は、1905(明治38)年、当時の大学敷地内に設立された清和普通学校に始まります。その後、校舎は北大路(当時の住所は上京区小山上総町)に移され、商業学校や夜間部などを設立し、また上賀茂(神山)に拡大移転され、校名変更も経て、第一から第四までの立命館中学校と工業学校に拡大していきました。
旧学制では、小学校以後は男女別学のため、立命館の付属校も男子校として発展をしてきました。そのなかにあって、極めて少数ながらも女性教諭が中等教育を支える一員として勤務していました。
(ア)サウター教諭(1909年~1931年まで在職)英語科で主に上級生の英会話担当。
詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>「明治・大正における立命館中学の英語教育とそれを支えた外国人女性教員」参照。
(イ)H.T教諭(1928年在職)英語科で主に1,2年生の発音・綴り方担当
上記サウター教諭と共に当時の新聞には「中学校に婦人教員を採用する例は他に一二あるが、我京都府下では立命館中学が最初のものであると云ふ」と紹介されています(注1)。翌年の教職員名簿に氏名が記載されていないので在職期間は不明。
(ウ)S夫人教諭(1929年在職)英語科で商業学校の英会話担当
当時の立命館大学で教鞭をとった講師のS氏夫人とだけ紹介されていて、名前も在職期間も不明。(注2)
(エ)M.T教諭(1944年まで在職)中学校と商業学校の武道(杖術)担当。
薙刀術の指導者として高等女学校や女子師範学校、大日本武徳会薙刀術教員養成所主任教授などを歴任。立命館では1928(昭和3)年に中学校嘱託として指導を始める。その後に他校へ移るが、戦争の長期化によって武術を教えられる男性教員が応召されて減少したため、1941(昭和16)年から再び女性教諭が男子生徒に杖術を指導するような状況になった。在職期間は不明。
2)戦後初の女性教諭たち
戦後における中等教育の大規模な再編で、義務教育の年限延長の基本方向のもと、旧制中学校は新制の中学校(1947年)と高等学校(1948年)に転換されます。これによって立命館でも北大路に中学校・高等学校と夜間高等学校、上賀茂に神山中学校・高等学校と5つの付属校が開校されることになりました。但し、神山中学校は当時の四カ村(旧愛宕郡の岩倉村・鞍馬村・静市野村・八瀬村)との委託契約で生徒募集を行ったため、立命館と名はつくものの男女共学で地元の公立中学校的位置づけになっていました。その他の付属校は男子校のままでした。
新学制になってから立命館は女性教諭を採用しています。新憲法の下での男女平等と、中学校の教育課程に音楽や家庭の教科が新らたに設けられたことなどが理由と考えられます。1947年新制中学校の設立に併せた女性教諭の採用は以下のとおりでした。
(ア)S.K教諭(中学国語担当)
S.K教諭は1943(昭和18)年に女子高等専門学校を卒業し、1947(昭和22)年4月に立命館大学文学部二部(夜間)の国文科に戦後初の立命館大学女子学生として入学。その9月に立命館中学校に就職。S.K教諭を知ることのできる資料が立命館タイムス(注3)に2つ残されています。1つは短編小説(注4)で、もう一つの記事は「先生の言葉」というコーナーです(注5)。そこには戦後の新しい時代を生きる女性らしい視点で男子生徒たちを励ます気持ちが表されていました。
「まあ、男のくせに度胸がないのねえ。間違ってもいいから堂々と大きな声で答えるんですよ。
授業中の態度==多分それは学業への熱心さを表しているんじゃないでしょうか。
電車の中でつまらない流行歌を歌っている学生がいるわ。立命館の生徒じゃないかしら。」
S.K教諭は1949(昭和24)年8月退職後、立命館第一中学校時代からの美術教諭で後に公立高校へ移られたK.Y教諭(日本画家として後に京都市文化功労者表彰を受ける)と結婚されています。在職時代にロマンスが生まれていたのかもしれません。
(イ)A.T教諭(中学理科担当)
女子専門学校生物科を卒業後に就職。戦後まだ北大路学舎に在籍していた旧制中学校の生徒たちによって発行された「立命館タイムス」第1号にはA.T教諭が顔写真入りで「生理学より見た良心について」と題した投稿をされています。新しい時代のなかで新しい良心が育っていくという希望に満ちた熱い論調の内容です。翌1948(昭和23)年4月退職。
(ウ)Y.F教諭(神山中学家庭担当)
戦前に結婚、戦後に教職へ復帰。就職の翌年に神山中学校となってからも教諭を続けましたが、1952(昭和27)年の神山中高の廃止・北大路併合によって北大路中高事務職員となり、その後は大学職員として定年退職。
3)新風を吹き込む女性教諭たち
占領下の軍政部の強い指導や勧告により、公立の新制中学校が劣悪な施設・教員という条件のもとに発足しました。京都市では1947年5月5日に新制中学校が一斉にスタートするも現場は何もかもが大混乱であったようです。そのため、翌年にはこれを敬遠して多くの男子の優秀な志願者が、立命館へ殺到してきたと考えられます。1948(昭和23)年の中学1年の新入生を迎えるにあたって、立命館中学校では執行部の意気込みが違っていました。この年度に入学の新1年生たちは、以後、中高合わせて6ヵ年の間、さぞかし注目されたことでしょう。
新しい教育は女性の働く場にもなりました。当時の様子は、時岡喜代治元教諭の回顧録(注6)には「この年から公立校のように男女共学にこそ踏み切れなかったものの、男子校の立命館に女性教諭を一挙に5名も採用するという英断が下され、新1年生の学級担任や教科担任の決定にもそれなりの配慮がなされたようです。」。また、次のようなことも述べられています。
「教員室の雰囲気も、期待を担った紅顔の新1年生と女子教員の出入りによってガラリと明るく変わり、前年度に較べて、私たち職場の空気も180度の転換を余儀なくされたように思います。よかれあしかれ、この年度からGHQ(連合国軍最高司令部)指令の新教育ムードが北大路学舎にも漲り出して、カリキュラムとか、ガイダンスと言った耳慣れぬ言葉がよく口に出されました。」
(写真1) 新制高校の第1回卒業生となる1950(昭和25)年の高校卒業アルバム
2列目の右から友松教諭、E.N校医、Y.I教諭、E.K教諭、A.N教諭
3列目の右から2人目は後に中高校長となった上田勝彦教頭
1948年4月1日付で採用された5人の女性教諭は次の方々でした。
(ア)友松とし教諭(中学国語担当)
女子専門学校を卒業後、教職につかれるも結婚などで一時離職後の就職で、生徒たちにとって母親のような存在。就職後に図書館司書の資格も取得、司書兼任で図書館利用の啓蒙に務められました。高校新聞局発行の立命館タイムスに投稿された記事からは、当時の学校の様子もよく知ることができるので、以下に主な見出しを紹介します。
「図書館あれこれ」第47号1954年11月発行
「愛の泉はここにあり」第48号1955年2月発行
「武谷三男編“死の灰”について」第49号1955年3月発行
「青春の日によせて」第50号1955年4月23日発行
「高校生の読書と図書館―調査にあらわれた実態―」第51号1955年5月発行
「スライド設備 本校図書館に完成」第57号1956年7月発行
「第二回優秀学校図書館に本校指定さる」第59号1956年12月発行
「図書だより・竣工の喜びと新刊紹介」第74号1959年12月発行
(写真2) 1955(昭和30)年中学校卒業アルバム 学級担任として
(イ)E.K教諭(中学音楽担当)
戦時中に臨時教員養成所を終了。京都市内の小学校を勤務の後に立命館へ就職。新制の高校教育課程で「芸能」(芸術とは呼ばれず)として設けられていたのが図画と書道で、音楽はまだ設定されず、ピアノはあるが使用できないような学校設備でした。E.K教諭は、生徒の大半が戦時中の軍歌や流行歌くらいしか歌えない状況にあった高校に音楽部を創設、その後は合唱部や軽音楽部を指導して音楽普及に務め、高校合唱部を部員40名もの大所帯に育てあげられました。立命館タイムスへの投稿「合唱礼賛」(注7)にはその熱い思いが語られています。1959(昭和34)年8月に依願退職。
(写真3) 1950年高校第1回卒業アルバム 音楽部
(ウ)A.N教諭(中学数学担当)
女子専門学校を卒業と同時に就職。1951(昭和26)年8月退職。
(写真4) 1951年中学卒業アルバム 中学所属の教職員、2列目の左から2人目がA.N教諭で、その隣がK.I教諭。1列目の右から3人目が友松教諭。3列目の右端が小川看護婦で左端がM.S看護婦。2列目の右端がK.N職員、3列目の右から2人目がR.N職員
(エ)K.I教諭(中学理科担当)
A.N先生と同じ学校(生物科)を同期で卒業、就職。1954年5月退職。
(写真5) 1950年高校第1回卒業アルバム 生物部
(オ)K.U教諭(神山中学体育音楽担当)
東京の女子体育専門学校を中退して神山中学校助教諭で就職。1952年の神山北大路合併によって高校(北大路)専任講師に。その年6月に退職。神山中高当時から同じ職場にあったS・T教諭と結婚されています。立命館中高で誕生した職場結婚第一号でした。
当時の厳しい教育環境や教員の労働条件の様子は、上田勝彦元教諭(教員生活3年目の31歳で高校教頭を務め、その後に中高校長となる)の回顧録に詳しく述べられています。
「授業では外部からの騒音のひどいのに驚かされた。市電に面してコの字型に建てられた校舎に交通騒音がもろにぶつかって反響しあった。そのうえ校庭即運動場であったので体育での掛け声や歓声も教室に入り込み、普通の声では後ろに届かぬことがしばしばであった。(中略)
生活物資の不足と激しいインフレにはいささか閉口した。(中略)年二回ベースアップをしてもらったこともあったが焼け石に水で、遅配の場合は前借や昼食抜きの日が続いた。耐えられなくなって学校をやめる同僚もあった。(中略)新制の中学校、高等学校及び夜間高等学校が生まれ、これにともない五人の女性教員が中学校に迎えられて清新の気がみなぎった。また、教員の再教育が始まり、新憲法・教育基本法に基づく新教育が真剣に追求され始めた。こうした動きのなかで起こったのが学校民主化の動きであった。(中略)平均年齢が府下で最も高く50歳を超えるような教員集団のなかで徹底した議論を行い、民主教育を推進した。」(注8)
また、上島有元教諭は「教員間の意識格差があります。一方は戦前からの禁衛隊を正史と考えている教員がいる。他方は戦後の平和と民主主義を実践しようとする僕ら若い世代の教員がいる。民主主義論をめぐる両者のズレが歴然とありましたね。」と座談会で語っています。(注9)
戦前戦中とさまざまな人生を送りながら同期となった5人の女性教諭たちは、戦後の新しい教育と時代づくりに挑戦してきたのでしょう。しかし、現実的にはすべての面で教育の道を歩み続けていくには厳しい条件がそろい過ぎていました。その結果、それぞれの人生へと分かれていくことになったと考えられます。
4)生徒の成長を支えた医務局(保健室)と看護婦
1943(昭和18)年末から翌年にかけて戦局の悪化に伴う看護婦不足が叫ばれるようになり、立命館のなかでも第二中学校の状況は厳しく、1944(昭和19)年4月では「看護婦一人も勤務シ居ラズ。医務室ヲ利用センコト無シ」とあり、6月には「時局の影響ニ依リ看護婦ノ雇入レ困難ナル為」(注10)という状態にまでなっていました。この時期に立命館に就職し、北大路学舎で長く生徒たちの健康管理に務められたのが看護婦(現在は看護師)の小川ステさんでした。
小川さんは、長野県出身で京都府立医科大学附属病院看護科を卒業後、満州の炭鉱の病院に一年間勤務。退職後、1944年4月から看護婦として北大路で勤務。その後、広小路と衣笠に勤務し定年退職。一緒に写真に写るのはM.K(旧姓S)さんです。小川さんと同期で看護婦として就職。長く北大路保健センター(保健室)に勤められました。
小川さんは、座談会と学園広報のなかで貴重な体験と大切な思いを語っておられるので、その一部を紹介します。
「戦争も終りに近い頃で、生徒は工場動員で出かけたり、残された生徒は軍事教練の多い頃でした。勤務は大学とかけもちで、動員先へ救護班を編成して出かけた事もありました。」
「私は今の二条駅の前に下宿していたのですが、中学校の医務室は『救護所』になっていましたので、警報が鳴ると真夜中でも北大路まで歩いていきました。あの頃は責任感を植えつけてられていました。」
「そして終戦。MPが学園へ乗り込んで来て、何か隠していないか、麻薬はないということも調べて、校庭に武具類をみんな集め、ガソリンをかけて燃やしました。進駐軍が来て万一のことがあったら自殺するためにというので、青酸カリを持たされていました。『お国のため』と覚悟していましたので、それを何とも思わなかったですね。それでも炎を眺めながら、これから世の中どうなるのだろうか、学校は継続するかしらと不安に思っていました。」(注11)
北大路在職当時、クラブ活動でやんちゃだった卒業生たちは、小川さんを姉のように慕っていて、高校時代のよき思い出として忘れることのできない方だと話しています。
「中高生徒と共に遊び、学び、大学生たちからも多くのことを学んだことを振り返って、人の創る歴史の流れを重く尊く思います。(注12)
その小川さんが、北大路勤務の後半には卒業アルバムに「小川寿テ」と寄せ書きに記名されています。戦中戦後を生徒と共に歩んでこられた小川さんの感謝の気持ちだったのかもしれません。(写真6) 1950年高校第1回卒業アルバム 医務局
左から小川さん、M.Sさん、E.N校医
(写真7) 1955(昭和30)年創立50周年記念の全教職員集合写真
女性の教諭で写るのは友松教諭とE.K教諭の二人で、他の女性は職員たち
戦後の女性専任教諭は、友松教諭が退職されて以降はなく、次に専任採用されるのは20年後の1985(昭和60)年で3名(英語科・数学科・技術家庭科)でした。1988(昭和63)年の男女共学と学校移転を経てまもなく30年が過ぎようとしています。今では多くの女性教諭と女子生徒たちの姿が当たり前の光景となった立命館中学校・高等学校の教育には、こうした女性教職員たちが厳しい環境のなかで基礎を築いてきた歴史も忘れてはならないのでしょう。
2017年12月20日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
(注1)「日出新聞」1928年4月2日付 (立命館百年史 通史1 p.556)
(注2)立命館学誌 第124号(1929年5月15日)で紹介
(注3)「立命館タイムス」は1947(昭和22)年11月から1976(昭和51)年まで発行された生徒の自主発行の学校新聞。戦後の混乱期のなか、当時の高校生が何を考え、悩み、怒りをもってきたか。その苦闘の跡を如実に伝えており、戦後の立命館高校の歩みを知るうえで欠かせない資料。
(注4)「崩れた城壁」立命館タイムス 第2号(1947年12月13日)
(注5)立命館タイムス 第3号(1948年1月31日)
(注5)創刊第1号は1947年11月27日発行。
(注6)時岡喜代冶「北大路学舎の思い出」立命館学園広報第127号 1982年1月20日発行
(注7)立命館タイムス 第6号(1948年5月13日)
(注8)立命館中学校高等学校元校長上田勝彦著「昭和を歩む野の小径」p125
(注9)立命館百年史紀要第8号 立命館中学校・高等学校史研究会
座談会「初期の立命館中等教育について」p86
(注10)「1944年 督学報告綴」(史資料センター所蔵)
(注11)立命館百年史紀要第11号 座談会「女性職員に聞く敗戦前後の立命館」P120~137
(注12)小川ステ「定年退職にさいして」立命館学園広報第32号(1981年3月21日号)2017.12.07
<懐かしの立命館>西園寺公を偲ぶ展覧会
最後の元老西園寺公望は、昭和15(1940)年11月24日、興津の坐漁荘において92歳の生涯を閉じた。今年(2017年)で77年となる。
12月5日国葬、明くる昭和16年1月から3月にかけて、明治・大正・昭和の3代にわたり政治に外交に文化に多大な功績を残した西園寺公望の偉勲を讃えて、全国4都市で「西園寺公を偲ぶ展覧会」が開催された。
本稿はその出品目録や関係資料などにより、展覧会を概観する。
【写真1 展覧会絵葉書】
1.西園寺公を偲ぶ展覧会の概要
展覧会は下記の通り、開催された。
(1)東京会場
主催:讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省
会期:昭和16年1月7日~1月18日
会場:日本橋三越
(2)大阪会場
主催:讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省
会期:昭和16年1月29日~2月8日
会場:大阪三越
(3)京都会場
主催:京都日出新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省
会期:昭和16年2月11日~2月16日
会場:京都大丸
(4)福岡会場
主催:九州日報社・讀賣新聞社、協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省
会期:昭和16年3月9日~3月29日
会場:福岡岩田屋
2.東京会場
讀賣新聞社は、昭和15年12月21日と1月2日に讀賣新聞に社告を出し、1月7日から18日まで「西園寺公を偲ぶ展覧会」を開催する告知をした。
展覧会の概要は、公に関する政治と文化年表、公の事蹟、遺墨・遺品、公に関する文献資料、公を囲る人々に関する文献、というものであった。
展覧会開催の1月7日、その挨拶で「紀元二千六百一年の新春に当り、公の偉勲を讃へその遺徳を偲ぶため」と開催の趣旨を述べた。
東京会場では97機関・個人が362点を出品した。出品が多かったのは立命館大学48点、帝国図書館36点であるが、個人が82人出品している。そのなかには三浦謹之助(西園寺公主治医)、徳富蘇峰、原田熊雄(西園寺公秘書)、安藤徳器、佐々木信綱、竹越與三郎、近衛文麿などがいた。立命館大学は48点のうち学宝が32点に及んだ。
また、立命館史資料センターに残る立命館出版部の会場写真によると、会場入口に展覧会看板が架けられ讀賣新聞社の挨拶文が掲出された。会場内には西園寺公の年譜、山陰道鎮撫に向かう写真、西園寺公のパネル、会場風景、書幅・扁額など14点の写真があり、会場風景からはジオラマの展示がされていたことが目を引く。
どんなものが出品されたか。
維新史料編纂事務局からは山陰道鎮撫に関する史料、北越御陣中日記など、興津の清見寺からは公の石膏像額面など、安藤徳器から公の写真、帝国図書館からは公に関する書籍、竹越與三郎からはヴェルサイユ平和会議の条約署名に使用した万年筆など、また、山陰道鎮撫の際に本陣とした出雲の藤間精氏、丹後宮津の三上勘兵衛氏から本陣に残された資料などが出品されている。
立命館大学からは、明治2年と大正7年の「立命館」の書、絶筆となった「静夜有清光云々」の書、亀の琵琶、管見記影印本など今日も学宝としているものや、英文西園寺公傳や公愛玩の瓢などの貴重なものが出品された。
1月12日の讀賣新聞は、「一目で分る西園寺公の一生」で、会場は公爵の一生が誰にも分るように年代順にジオラマで説明しているほか、生前に愛用した品々があり、子供の時からどんな経路を辿って一生を終ったかがはっきり分る、との記事を掲載した。
【写真2・3 立命館出版部資料 東京会場】
3.大阪会場
展覧会は東京に続いて讀賣新聞社の主催で1月19日から2月8日まで大阪三越で開催された。
出品点数は63機関・個人の260点であった。
立命館大学・帝国図書館・清見寺などは引き続き東京と同じものを出品した。維新史料編纂事務局・東京市立駿河台図書館などは大阪では出品がなかったが、長浜の下郷共済会が公の筆「墟烟淡云々」ほかを出品した。
4.京都会場
東京・大阪に続いて京都では、京都日出新聞社の主催で京都大丸に於いて2月11日から16日の間開催された。
立命館出版部の作成になる「偉勲を讃へて 西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」2セットが発行されている。
1セットは10枚組で、西園寺公筆の「十年無夢…、湖上風恬…」、「西園寺公愛玩の瓢、一輪挿」「西園寺大扁額」「九十一歳筆 静夜有清光」「山陰道鎮撫総督西園寺公 丹波亀山に向ふ」などである。
もう1セットは13枚組で、「藩士の昇殿を主張す(十九歳)」から「西園寺公爵近影」までの生涯を絵葉書(写真)で綴ったものである。
京都日出新聞社は、2月9日夕刊(2月10日付)に「西園寺公を偲ぶ展覧会」を2月11日より16日まで京都大丸にて開催する社告を出した。
開催日の11日には、「偲ぶ園公の偉業 同家始め各地名家より資料の出陳 大丸に開く西園寺公展」の記事を掲載し、総理大臣近衛文麿公爵、西園寺公一公爵など、公の遺品400余点が展示された。出品目録では40機関・個人が209点を出品しているが、新聞と目録で点数が異なるのは、目録が数点をまとめて1点としていることによる。
続く12日の記事「お綾さん感無量 追慕の瞳離れず 西園寺公を偲ぶ展覧会盛況」では、総理近衛文麿からは西園寺公揮毫の「荻外荘」、立命館大学の学宝をはじめとした各地の貴重な資料を出陳したと伝えた。展覧会は開場早々堰を切ったような人波に溢れた。
その中に、坐漁荘で女中頭を務めたお綾さんが来場、感慨深げに陳列品に見入り感無量の様子であった。閉店まで身動きもならぬ観覧者の波で大盛況であった。
13日夜には「西園寺公を偲ぶ講演会」が日出会館で開かれた。立命館大学講師釋瓢斎(永井瓢斎)による講演「山陰鎮撫使」である。釋瓢斎は立命館出版部から昭和10年に『鎮撫使さんとお加代』を出版し、同著も展覧会に出品されていた。映画・音楽・録音もあり、音楽は立命館音楽隊が出演している。録音は園公国葬前後の放送であった。
14日の新聞は、「雅号陶庵の謂れ? 平凡の裡に雅味は公の心境」と陶庵のいわれについて触れ、公の自刻印「悠然見南山」が陶淵明の「採菊東籬下悠然見南山」から採られていると紹介した。
15日には、「知遇得た湖南博士 高邁な識見に絶大な信頼」と、会場には内藤湖南に寄せた絶大な信頼があふれていると伝えた。
2月15日夕刊(16日付)には、「あす限り園公を偲ぶ展覧会 此期逸してはとどっと押し寄す」、16日には「茶碗の秘むる瓢逸 窯物に詠むきぬさんの名」で公と中川小十郎の逸話や、木屋町大可楼の松田きぬさんに与えた茶碗について掲載した。同紙面には公が揮毫した「白雲神社」の遺墨も写されている。
2月16日夕刊(17日付)の新聞は、「残る深き感銘 西園寺公偲ぶ展覧会幕閉づ」と、閉幕を告げた。
このように京都日出新聞は、連日展覧会の盛況ぶりを伝えた。
【写真4 展覧会絵葉書封筒】
5.福岡会場
最後の会場は福岡岩田屋であった。九州日報社・讀賣新聞社が主催し、3月9日から29日まで開催された。協賛:立命館大学、後援:外務省・文部省はこれまでの会場と同じであった。
九州日報社は3月8日の日刊および夕刊に社告を出した。
「西園寺公を偲ぶ展覧会」、幾多貴重なる資料を蒐めてひらく空前の大展覧会!と銘打ち、パノラマとジオラマ、公に関する政治と文化年表、公の事蹟、公の遺墨・遺品、公の生涯を語る各種写真、外務省・三條公爵家・大山公爵家など数十家より特に出品せられたる文献資料多数!というものであった。実はこの社告は開催期間を9日から23日までとしていた。
会場入り口に文相当時の西園寺公の立像写真が置かれ、続いてジオラマが12点展示された。これは京都会場で発行された絵葉書の13枚組とほぼ同じ内容である。会場には図表も展示された。10点に及び、西園寺公年譜と閑院家系譜抄などである。西園寺公年譜は他の会場の目録にも掲載されているが、藤原公季から始まり西園寺公望に至る閑院家の系譜が脈々とつづられている。
九州日報は9日の日刊で、「偉人の俤偲ぶ 西園寺公展けふ蓋あけ」の記事を打ち、一世の偉人に対し深い崇拝の念をもつ福博市民の前に盛大に蓋をあける、と報道した。そして出品者を列挙、目録と2、3の相違があったが、ほぼ同数の機関・個人から出品されていることを伝えた。
3月13日の日刊は、「連日黒山の観覧者で賑ふ」の見出しで、中には北九州その他遠く県外各地よりの団体もあり素晴らしい盛況を呈している、活ける教育資料として各方面の絶賛を博している、と報じた。
当初は23日までの開催予定であったが、21日の新聞には「西園寺公を偲ぶ展覧会 29日まで日延べ」と、連日満員にて好評嘖々につき29日まで日延べするとの社告を出した。
23日の九州日報は、「29日まで日延べ 凄い人気を呼ぶ西園寺公展」と、市内各小学校や各種団体をはじめ遠くは大分、熊本からさへ観覧に来る者があり、“是非会期を日延べしてくれ”との各方面の熱心な要望によって、次の会場の期日を変更して会期を延ばすことになった、と報じている。
目録によれば、40の機関・個人から132点が出品されたが、立命館大学からの出品は見当たらない。代わって福岡開催ということから、元政友会福岡県支部・福岡県立図書館・福岡市市史編纂室など福岡関係者の出品があった。
また京都会場で配布されたものと同じ絵葉書が福岡会場でも配られた。
なお、目録および絵葉書では協賛立命館大学としているが、九州日報の社告では主催者と後援者名のみで、協賛がはいっていない。
【写真5 展覧会絵葉書】
6.立命館の出品
立命館は「西園寺公を偲ぶ展覧会」に協賛し、東京会場と大阪会場では48点、京都会場では55点の西園寺公望ゆかりの品々を出品した。
そのうち東京・大阪では32点の、京都では34点の学宝を出品している。
立命館が出品したものはどのようなものであったのだろうか。
学宝では、「額面」とある公の書が6点ある。「長吟対白雲」「運用之妙存乎一心」「立命館」(大正戊年の書)「禹悪旨酒而好善言云々」「才学識」「新詩日又多」である。
「軸物」の書が11点。「柳揺台榭東風暖」「十年無夢得還家」「蘆荻無花秋水長」「八月潮高海気豪云々」「静夜有清光云々」「生是迂拙男云々」「濯錦江辺憶昔遊」「太湖云々」「湖上風恬月澹時」「寒烟十里没荒原云々」「冷光脉々透簾帷」明治2年9月書の「立命館」。
そのほかの学宝として、西園寺家伝来の「亀の琵琶」、百五巻にのぼる西園寺家の「管見記」(影印)、佐倉丸の「時鐘」、公撰文による立命館学名由来記の「木刻大扁額」、坐漁荘で使用した公常用の椅子などが出品された。
また学宝以外のものでも、中川総長に贈られた瓢、一輪挿、公愛用の煎茶器、公愛玩の瓢などが展示されている。
これらの中には、戦時の状況のなかで失われたものもあるが、今日でも学宝として所蔵しているものが多い。
京都会場では学宝が2点追加展示されたが、1点は「清聲千古碑の拓本」、もう1点は明治2年9月筆の「木刻大扁額 立命館」である。
「清聲千古碑の拓本」は、西園寺公望が山陰道鎮撫に向かった際に最初に宿陣した丹波馬路村の郷士、中川・人見両姓の勲功を称えた碑文で、碑は現在も亀岡市馬路に建っている。
また「木刻大扁額 立命館」は現在修復したものが立命館大学の図書館にあり、立命館中学校・高等学校でも所蔵している。さらに複製したものが立命館各校に架けられている。
【写真6 立命館出版部資料】
終わりに
西園寺公の晩年は、2.26事件、日中戦争の勃発、そして国家総動員法が施行され、やがて対米英戦争へと突き進む時代であった。
こうした状況の中、元老西園寺公望は日本の外交や政治に失望、この国はどこに向かおうとしているのかと深く憂慮し、やがて処世若小夢の心境に至っていた。
「西園寺公を偲ぶ展覧会」は、公の偉勲を讃えその遺徳を偲ぶために開催された。同時に「紀元二千六百一年の新春に当たり皇道翼賛の実践に挺身せんとする銃後国民に資したい」との主催者の開催意図もあった。
日本は西園寺公が望まぬ道を走っていたが、いずれの会場でも展覧会は西園寺公を偲ぶ人々で大盛況であった。
【参照資料】
〔東京会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(立命館史資料センター所蔵)
立命館出版部資料(立命館史資料センター所蔵)
讀賣新聞記事
〔大阪会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(徳富蘇峰記念館所蔵)
〔京都会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東洋文庫所蔵)
「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」(立命館史資料センター所蔵)
京都日出新聞記事
〔福岡会場〕「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東京大学史料編纂所所蔵)
「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」(立命館史資料センター所蔵)
九州日報記事
なお、上記参照資料のうち
・「西園寺公を偲ぶ展覧会」(東京会場)立命館出版部写真資料 ①
・「西園寺公を偲ぶ展覧会出品目録」(東京会場)表紙、一部抜粋 ②
・「西園寺公を偲ぶ展覧会絵葉書」京都会場13枚組 ③、京都・福岡会場10枚組 ④
は、下記画像をクリックすると別ウィンドウで御覧いただけます。
以上
