立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2017.01.10

<懐かしの立命館>立命館大学の長い1日 その日「わだつみ像」は破壊された

「わだつみ像」は、立命館学園の教学理念「平和と民主主義」の象徴です。

1953128日に広小路キャンパスに建立された後、1969520日大学紛争の最中に破壊され、1970128日再建・1976520日再建立を経て現在は立命館大学国際平和ミュージアムに設置され、今も立命館学園の教学理念を伝えています。

本項は、

「わだつみ像」とは何か?

どのようにして「立命館大学」に建立されたのか?

そしてどのようにして破壊されたのか?

を史資料センター所蔵の資料、当時の証言を元に改めて再構成したものです。

「わだつみ像」誕生

194712月、『はるかなる山河にー東大戦没学生の手記』が刊行されました。

この本は東大学生自治会に設けられた東大戦没学生手記編集委員会が編集し、東大協同組合出版部から刊行されましたが、対象が一校(東京大学)の戦没学生に限られたという大きな欠点もっていました。

その後1948年春、東大協同組合出版部の中に『日本戦没学生手記編集委員会』がつくられ全国の大学、専門学校出身の戦没学生の遺稿を募り、『きけわだつみのこえ』(日本戦没学生記念会編)として194910月刊行されました。

 なげけるか いかれるか

 はたもだせるか

 きけ はてしなきわだつみのこえ

               (「きけわだつみのこえ」に寄稿した藤谷多喜雄氏の詩)

この『きけわだつみのこえ』は、30万部のベストセラーとなりました。本書の著作者である「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」(1950422日結成)(以下、「わだつみ会」)は、その印税を資金に、さらに本の意義を発展させて反戦を訴える社会事業を興すことにしました。主な事業は次の様なことでした。

①全日本の学生の中に戦没学生の平和意志継承の運動を興すことを本旨とする。

②そのため具体的事業に意志を結集せしめる。

③国際的に広く平和愛好者と連携し推進する。

④あらゆる戦争挑発の企てに反対する。

 この具体的事業(上記②)として、映画製作(映画「きけわだつみの声」)、機関紙発行、

戦没学生記念像(「わだつみのこえ」)の創作がすすめられました。

この戦没学生記念像「わだつみのこえ」の創作が、後の「わだつみ像」となるのです。

「わだつみ会」発起人の一人である中村克郎氏メモ「わだつみ像縁起」(注1によれば、19501月 寒い日、中村克郎氏とO氏と二人で世田谷の彫刻家本郷新氏宅を訪問し、戦没学生記念像の制作を依頼した。3月にエスキース(注2ができあがり、422日(土)、「わだつみ会」の席上で本郷新氏自らが製作意図を説明されたと書かれています。

920日に像は完成し、1130日に「わだつみ会」理事長より「平和記念像の寄付と共に(東京大学)図書館前に建立し、128日に除幕式並びに慰霊祭を挙行したい」と東京大学に申し入れおこないました。この申し入れに対する当時の東京大学総長の内諾に基づいて、建立と慰霊祭の準備は進められていました。

しかし直前の124日になって、東京大学の最高決議機関である評議会は「学術上及び教育上本学(東京大学)に対し顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取り扱いによって、この申し込みを遠慮したい」と「わだつみ会」の申し入れを断ることを可決したのです。事実上の建立拒否でした。(注3


「わだつみ像」立命館大学に建立・「不戦の集い」の始まり

像は195152年の2年間、本郷新氏のアトリエに眠りつづけました。1951年、立命館では末川博総長を先頭に立命館挙げて戦没学生記念像(わだつみ像)(以下、「わだつみ像」)(注4誘致の取り組みが開始されました。

誘致は決定し、本郷新氏のアトリエに眠り続けていた像は、1953118日に立命館大学に届きます。

この時、わだつみ像歓迎大会に参加しようとした学生約120名が、荒神橋上で警察官に力ずくで阻止され、欄干から10数名の学生が転落して重軽傷を負うという事件がおきました。いわゆる「荒神橋事件」です。

その事件を知った学生達は直ちに京都市警本部にむけて抗議行動を起こしました。ところが市警前で抗議行動をしている学生にむかって、突如武装した警察官が襲いかかり、約70名の学生が負傷します。この事件は「京都市警前事件」(注5と呼ばれています。(『立命館百年史 通史二』(以下、『通史二』)p954

こうした苦難の道を辿りながらも、反戦平和を願う青年・学生、市民に支持され、わだつみ像は広小路キャンパスの校庭に建立され、1953128日に除幕式が挙行されました。

その時、学生の代表によって「不戦の誓い」が宣言されました。

   

1953128日「わだつみ像」除幕式



不戦の誓い

わだつみ像よ

  かつて私たちの先輩は、

愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。

その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。

     再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。

 わだつみ像よ

  かつて私たちの先輩は、

何の憎しみももたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。

その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。

     再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。

 わだつみ像よ

  かつて私たちの先輩は、

魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。

その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。

     学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。

                          一九五三年十二月八日

                             (『通史二』pp.955-956

翌年の1954128日、建立一周年を記念してこの像前で第1回「不戦の集い」が開催されました。

以来、このわだつみ像前での「不戦の集い」は、2016年で63回目をむかえ、半世紀を越えてもなおその伝統は生き続けています。

2016年度 第63回「不戦の集い」での吉田美喜夫総長


立命館大学の長い1

1969(昭和44)年520日(火)「わだつみ像」は破壊された

この「わだつみ像」は47年前の1969(昭和44)年、「大学紛争」の最中に全学共闘会議(以下、「全共闘」)の一部学生によって破壊されています。

史資料センター資料整理の中に、「わだつみ像」が破壊された当時の様子を描いた学生の漫画(ビラ)1枚が発見されました。そのビラを主材料として当時の目撃証言とともに顛末を追ってみました。


516日(金) 

立命館大学は「創立記念日に向けて 教職員・学生への大学の訴え」((学内)理事会)(以

下、「訴え」)をだします。

 その「訴え」は、「全共闘」の学生諸君が519日の創立記念日を立命館の「解体記念日」にせよとよびかけ、本部(中川会館)を奪還し、封鎖を拡大しようとする動きをみせている。全学の教職員・学生が当面している事態を正しく認識し全力を結集されるよう期待する、というものでした。

518日(日)~520日(火)

 516日の「訴え」に応えて大学の教職員及び教職員組合の組合員、生協労働組合の組合員、1・2部学友会学生たちが518日から大学内に泊まり込みました。学生は「延べ3000名」もの学生が泊まり込んで警戒にあたっていました。

519日(月) 立命館創立記念日 

 この日は創立記念日のため全学休講でした。「全共闘」はこの日を立命館大学「解体記念日」とするとしてバリケード封鎖を宣言していましたが、行動はありませんでした。

520日(火)そして長い1日が始まる

深夜0時頃

M教授宅に警察から電話がかかります。「(何がおこるかわからないので)今晩の居所をはっきりして欲しい」との内容でした。

M教授は不安な予感がしたので、電話直後、大学内で待機することにして自宅を出ました。

540分頃

 警察(注6より電話があり、至急に会いたいので御所(清和院門)まで来て欲しい、との内容でした。

M教授、I講師が指示された場所に行くと、出迎えた警察官は詳しいことは警察でお話しますと言って車に乗せ警察に連れて行きます。

警察署長室に着くと捜査令状を見せられ、すでに恒心館に対する強制捜査の準備を整えており、その開始は640分の予定であると告げられます。

 「恒心館を捜査したい。罪名は、放火未遂、暴行、監禁、傷害の容疑です。」「場所は恒心館及びその敷地内です。広小路キャンパスは含みません。」(注7

 M教授、I講師が捜査令状の説明を聞き終わった時はすでに630分になっていました。すぐにM教授は、大学に電話連絡し警察の執行に立ち会う人の人選を頼み、急ぎ大学に戻りました。その時には7時少し前で、すでに警察機動隊が恒心館突入の態勢を整えていました。

640

 226日以来「全共闘」学生によって封鎖されていた恒心館の強制捜査(640分~945分)が行なわれました。

細野武男元立命館総長(当時、産業社会学部長)等の立会いの下、火炎瓶171本、トラック1台分の石、鉄パイプ244本、灯油、石炭かます19袋が押収され「全共闘」の学生約200名は恒心館裏庭に集められ身体検査の後、解放されました。

800分~1200 

強制捜査で恒心館から機動隊に排除された「全共闘」学生は、支援の他の学生を含め約2百数十名の集団となって広小路キャンパスに侵入、正門・西門をバリケード封鎖した上で清心館、存心館、尽心館、生協食堂等校舎を破壊しました。(『通史二』p942

「わだつみ像」もこの時に破壊されています。

                                    

わだつみ像破壊は、11時過ぎではなく830分~900分の間

わだつみ像の破壊行為がおこなわれた時間について、『通史二』(p942)によれば「午前11時過ぎ、全共闘の中の学生がわだつみ像にロープをかけ、これを引き倒し破壊」したとしています。しかしながら、その当時学生が配布したビラおよび当時研心館に泊まりこんでいて一部始終を目撃したI氏の証言等から破壊行為は830分~900分であったようです。(注8

 恒心館から排除されたほとんどの「全共闘」の学生は広小路キャンパス存心館前で集会をはじめた。この集団の中から黒いヘルメットを被った45名のグループ(以下、「黒ヘルG」)が集会に参加せず直接に「わだつみ像」前まで行き、「わだつみ像」にロープをかけ、これを引き倒し破壊しました。

I氏の証言によれば、

「黒ヘルG」の一人が「わだつみ像」の台座に上がり、「わだつみ像」の首にロープをかけ台座から降りた。

台座からおりた一人は他の「黒ヘルG」の仲間34名といっしょにロープを右方向(広小路キャンパス南東方向)に引っ張りわだつみ像を倒した。

わだつみ像は顔面を下にうつ伏せに倒され、その時に左腕も破損した。

うつ伏せに引き倒された「わだつみ像」を「黒ヘルG」がひっくり返して仰向けにし、鉄パイプで頭部を破壊して身体部分をめった打ちにした。

その後、「わだつみ像」の胸に赤いペンキで「死」と落書きをしたとのこと。

さらにI氏は、

  「黒ヘルG」は当初から計画していたかのようにロープとペンキを持ち出してきて(注9わだつみ像を引き倒し破壊している。この「黒ヘルG」の行動は存心館前で集会に参加していた他の「全共闘」学生達は知らなかったのではないか。研心館前に来て初めて事態を知ったようだったとも語っています。

11時頃 

大学声明発表「五月二十日の強制捜査について」(立命館大学 1969520日)

 この声明は、520日早朝の恒心館の強制捜査について、大学の要請によるものではないこと、京都府警察当局に対して強い抗議の意志を表明すること、事態を招来した「全共闘」学生の破壊的暴力行為に対して深刻な反省を要求するものでした。

 

1200分直前

 警察より「府警機動隊を広小路キャンパス西門(寺町通りに面している)より入れる」との電話が入り、直後機動隊が侵入してきます。大学は一方的な通告と侵入にたいして抗議しています。侵入した機動隊は「全共闘」学生を広小路キャンパスから追い出した後、学外に退去しました。

1220

 「全共闘」学生は再び学外から広小路キャンパスに戻り、いっそう激しい破壊行動をおこないました。                                    

14時頃(時間不明・前後関係からおおよその時刻) 

大学声明発表「府警機動隊の学内進入について」

 この声明では、広小路キャンパス内にいる「全共闘」学生に対し、破壊行為をやめ学外に退去するよう強く要求し、同時に、大学の事前了解なしに警察の一方的に判断によって学内侵入したことは、事態を一層混乱させ大学の自主的解決の努力を水泡に帰する行為として抗議の意を表明しています。

1445分頃 

12部学友会学生は「学園破壊をこれ以上許すわけにはゆかない。」「われわれは直ちに館外(泊り込んでいた研心館)にでて暴力学生を実力で排除する。キャンパスをとりまく学友、一部キャンパス内にいる学友も共に協力を」してほしい(『通史二』p942)と訴え、「黄色いヘルメット」(注10を着用し、一団となって暴力学生を学外に追い出しました。

1500分「全共闘」による封鎖・占拠が解除

 封鎖解除された広小路キャンパスは先に破壊されていた中川会館や恒心館、衣笠キャンパス4号館同様すさまじい破壊が行なわれていました。事態を知って登校してきた学生たちは「破壊され、腕をもぎ取られ、頭に大きな穴をあけられたうえ、その胸には赤いペンキで「死」と落書きされ」(『通史二』p943)、キャンパスに横たわる「わだつみ像」を目の当たりにするのです。その衝撃は大きく「全共闘」に対する幻想を捨て去る出来事になりました。

2000

 武藤守一総長事務取扱(注11は、広小路キャンパスの有心館で記者会見を行いました。

  その内容は、朝、恒心館を京都府警が捜査したのは、警察は独自の判断で学内に入れるという文部次官通達を早速実施したものと思える。授業は521日(翌日)からすぐに始めたい。開講に当たっては20日(今日)の事態について全学に説明する、というものでした。

また、「わだつみ像」の破壊に関わって「許しがたい暴挙と厳しく批判し、像は直ちに修復もしくは再建にとりかかる」と言明しています。(『通史二』p957) 

                                   

立命館大学の長い1日は終わった

 こうして立命館大学の長い1日は終わりました。後年、武藤守一元総長は『回想録』の中でわだつみ像が破壊された怒りと反戦平和運動が続く限り、わだつみの再建は実現されないわけがない、とその怒りと展望を日記に記しています。

 わだつみ像は出陣学徒のなげきといかりともだせ(黙だせ=黙って見過ごす)を再び繰り返すなという悲願を本郷新氏が芸術的に表現したものではないか。

わだつみ像を虚像にすることは真の反戦平和運動をさぼるということであろう。

全共闘はどれだけの平和運動をしたというのか。

わだつみ像は再建しなければならない。

それは困難をともなうであろうが、困難をともなわない反戦平和運動というものがあり得ただろうか。

この困難な闘いを進めるからこそ戦争を阻止し平和を守り得るのである。

もしそうならこのような運動が進められる限りわだつみ像再建が実現しないわけがない。

(『元総長武藤守一回想録』武藤守一著)

 その後、わだつみ像は翌1970年に再建され、128日にはわだつみ像再建除幕式(広小路キャンパス研心館)が行なわれました。

再建されたわだつみ像は1976(昭和51)年に衣笠図書館(旧)に再建立され、1992(平成4)年2月に平和ミュージアムに移設(注12され今日に至っています。


20171月 史資料センター 調査研究員 齋藤 重


参考文献・資料

 『立命館百年史 通史学校法人立命館 20063月)

 『立命館百年史 資料編二』(学校法人立命館 20077月)

『月刊美術』平成69月号実業之日本社 

『『きけわだつみのこえ』の戦後史』(保坂正康著 文春文庫)

『彫刻の美』(本郷新著 中央公論美術出版)

 『元総長武藤守一回想録』(武藤守一著 史資料センター所蔵) 

「学友会宣伝ビラ」(漫画)(史資料センター所蔵) 

 「わだつみ像縁起」(中村克郎 史資料センター所蔵)

注:

(注1

メモ「わだつみ縁起」は中村克郎氏が関わった「わだつみ像」の建立から破壊までをメモしたもの。複写資料が史資料センターに保存されている。

(注2

このエスキース(仏: esquisse)とは、スケッチのこと。わだつみ像の創作あたりイメージを仮像(彫刻)として創り、この仮像をもとに、わだつみ像が検討されました。 

このエスキースは、わだつみ像が創作されると役割がおわり、末川博元総長に贈呈されます。2015年には、末川博元総長の御家族から立命館に寄贈され末川記念会館に置かれた後、現在は大阪いばらきキャンパスに設置されています。

(注3)

 「この年の十一月三十日には、日本戦没学生記念会理事長より平和記念像の寄付と共に、それを図書館前に建立し十二月八日に除幕式並びに慰霊祭を挙行したいとの申込があった。これに対して評議会は『本学としては学術上及び教育上本学に対し特に顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取扱によって、この申込を遠慮したい〔略〕寄付の申込は断ることに異議なく可決』している。この決定の後も「わだつみ像」設立運動は継続され、翌年の五月祭では「像」が展示された。しかし建立予定地の綜合図書館前に噴水がつくられることにより、運動は終息したものと思われる。」(『東京大学学生新聞』十月四日付)(『東京大学百年史Ⅲpp.470-471』)

(注4

・「わだつみ像」という呼称は、像の台座に刻まれた末川博総長の言葉には「わだつみ像」と記されていますが、『通史二』の記述ならびにその他の諸資料の記載に従って「わだつみ像」としています。

・「わだつみ」もしくは「わたつみ」は漢字では「海神」、万葉集や古今和歌集にも出てくる言葉ですが、字のとおり、海を司る神のことです。

この言葉が「きけわだつみのこえ」として戦没学生の手記の表題になったのは、この手記に寄せられた京都の藤谷多喜雄氏の詩「なげけるか、いかれるか、はた もだせるか、きけはてしなきわだつみのこえ」に由来しています。南や北に散っていった学徒の心を「わだつみ」であらわしたわけです。以来、戦没学生をあらわす言葉として「わだつみ」が使われだし、像も「わだつみ像」と名づけられました。

(『像と共に未来を守れ-わだつみ像再建立記念-』わだつみ像建立立命館大学実行委員会1976520日)p11 

・現在、「わだつみ像」は8体あります。立命館大学に建立された「わだつみ像」は、その最初の像でした。

「本郷新の代表作は8体あっても、平和のモニュメントとしてのそれ(わだつみ像)は1体しかない。それが立命館大学にあるものである。」(『月刊美術』平成69月号 事業之日本社)

本郷新氏は『彫刻の美』(中央公論美術出版)の中で彫刻について、彫刻に生命が宿っているのは、その彫刻の形が自然そのままの形ではなく、生き生きとした感じをあたえるためのデフォルメをするからである。しかし実際にそう感じもしないのに無理に変型したところで美しくなるものではなく、しないではおられないような実感が作者の気持ちのうちにわき起こらなければ生きた変形(デフォルメ)はできないのである。という主旨を述べています。

この「わだつみ像」は戦争に犠牲になった全国の戦没学生の嘆き、怒り、黙(も)だせ(=口を閉ざして言わないこと、沈黙すること)を芸術家本郷新が実感をもって表現した芸術モニュメントでもあります。

この初代の「わだつみ像」は現在、歴史の証言者として立命館大学が大切に保存しています。2代目は再建され現在立命館大学国際平和ミュージアムに建立されています。その他に、本郷新記念札幌彫刻美術館、長万部平和祈念館、私立北海高等学校、神奈川県立近代美術館別館(鎌倉)、東京世田谷区立美術館、和歌山市市民体育館に建立されています。

 いつの日か破壊された「わだつみ像」も学園の史資料として保存され歴史資料として活用されることを期待しています。

(注5

1947(昭和22)年、旧警察法(法律第196号)により自治体警察が全国の自治体に設置されました。1948(昭和23)年37日、従来の京都府警察部は解体、京都市警察局が設置され、1950(昭和25)年1月に京都市警察本部と改称されています。

その後1954(昭和29)年新警察法の公布により京都府警察本部が設置され1955(昭和30)年7月、京都市警察は京都府警察に統合されています。従って1953年の「荒神橋事件」「京都市警前事件」の頃は、「京都市警察」でありました。

(注6

歴史的に明らかになっている警察署名、警察官名もありますが、ここでは特定せず警察と一般呼称しました。

(注7

520日の警察による強制執行は、同年421日の文部次官通達「大学内における正常な秩序維持について」に依っています。それまで大学構内への警察の侵入は「警察の学内立ち入りは、第一次的には大学当局の要請による」(昭和25年文部次官通達)とされ、大学の要請や許可無く立ち入ることは出来なかったのですが、この通達は一部過激な学生による違法行動を理由として警察当局が独自の判断で措置することを認め、大学側はこれに協力体制をとることを要請するものでした。

52日 大学はこの通達に対して反対を表明しましたが、520日の京都府警による恒心館強制執行が実施されたのです。対象となった恒心館は広小路キャンパスの中心部から河原町通りを挟んで独立した棟であったことから「広小路キャンパスは含みません」は広小路キャンパスの中心部(存心館や中川会館がある)は対象ではないという意です。

(注8

I氏は当時法学部3回生に在籍し、大学側の呼びかけに応えて研心館に泊まりこんでいた一人。「わだつみ像」破壊を目撃し鮮明に記憶していました。この証言と当時の学生が配布したビラの記載内容から、破壊行為が行なわれたのは830分~900分であった可能性が高いと考えています。

52011時過ぎ大学が声明文をだしますが、その声明文には「午前8時過ぎから広小路校庭に集合しわだつみ像を倒し広小路学舎の破壊行為行なった」と記されています。もし11時頃に「わだつみ像」の破壊が行なわれたとしたならば、同時頃に破壊行為を記した声明文を出すということは現実的でないように思われます。むしろ830分~9時頃に行為が行なわれたとすれば、充分に声明文に反映することは現実に可能です。

(注9

「黒ヘルG」はロープとペンキを建物内から持ち出して、わだつみ像の破壊に使用しました。その時の様子を目撃していたI氏は、「それはあたかも、周到に準備されていたかのように、迷わず建物内から持ち出して、わだつみ像を破壊した」と述べています。

(注10

泊り込んでいた学友会学生達は、鉄パイプなど「全共闘」の襲撃から身を守るため広く工事現場で使われていた「安全用黄色いヘルメット」を着用して安全を守りました。

(注11

末川博総長の任期満了(196941日)に伴う方策について、理事会は「後任の総長が選ばれる迄の機関として代行または事務取扱を置くことについて、種々協議が行なわれた後、総長事務取扱を置くことに決定」(1969.3.21 理事会)し、412日に1969年度大学新体制を決定しました。総長事務取扱には武藤守一が任命されました。

(注12

1976(昭和51)年に衣笠図書館(旧)に再建立され、1992(平成4)年2月に立命館大学国際平和ミュージアムに移設されました。その時に常任理事会は破壊されたわだつみ像(初代)の取り扱いについて次のように決定していますが、まだ実現していません。

 2.旧像の扱いについて

  現在の本学倉庫に保管している旧像については、下記により再建立したい。

  (1)時期:19924月上旬

  (2)場所:図書館1階正面玄関のしかるべき場所

        (図書館長等の了解も得る)

  (3)旧像の説明:わだつみ像の意味、本学に設置された経過及び全共闘によって破壊された事実などを記した説明を像の前につける。

 「わだつみ像の(再)除幕および旧像の扱いについて」(1992212日常任理事会)

2016.11.15

平井嘉一郎記念図書館 創立者中川小十郎生誕150年記念 中川小十郎の生涯と人物像展のお知らせ

立命館創立者・中川小十郎生誕150年記念講演会「立命館創立者・中川小十郎の思いをつなぐ」の関連企画といたしまして、立命館朱雀キャンパス1階ギャラリーピロティにて開催しておりました「中川小十郎の生涯と人物像展」を、11月26日(土)に開催される「平井嘉一郎記念図書館」開館記念行事の講演会「中川小十郎の教学理念と戦後を創った卒業生たち」にあわせて、衣笠キャンパス 平井嘉一郎記念図書館にて開催致します。
→講演会「中川小十郎の教学理念と戦後を創った卒業生たち」の詳細はこちら


お近くにお越しの際は、どうぞお気軽にお立寄り下さい。

期間:2016年11月15日(火)~12月22日(木)
会場:立命館大学衣笠キャンパス 平井嘉一郎記念図書館1階ギャラリーと一部エントランスホール


2016.11.09

<懐かしの立命館>豊川海軍工廠空襲の犠牲者慰霊碑と昭22・立命館専経同窓会

この文書は<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲の続きとして書いたものです。合わせて読んでいただければ幸いです。


昭和501975)年429日の愛知県豊川市にある豊川稲荷戦没者供養塔墓前に豊川海軍工廠の犠牲者石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんの遺族の方々、西村光次校友会会長、奥村三舟名誉教授、そして昭和22・立命館専経同窓会校友あわせて33名が亡き4名の30回忌に集まりました。慰霊祭終了後におこなわれた懇親会に来賓として招待された豊川市長に、早稲田大学など他大学が戦没学友のために慰霊碑を立てていることを知っていたS・K氏は話しかけました。

「諏訪墓地(豊川市諏訪墓地)に立命館も慰霊碑を建立致したい。市長さんの御許可をいただきたい。」豊川市長は「よろしい引受ました。2坪貸与いたしましょう。」

快諾を得たS・K氏、T・K氏、Y・K氏は早速建立準備に入りました。

 

 立命館学園の終戦

 

昭和201945)年8月、各教育機関は、昭和203月の閣議決定「決戦教育措置要綱」(国民学校初等科以外の授業を4月以降停止)にもとづいて授業を停止していました。(注1しかし、立命館学園(以下、学園)はこの要綱項目1ー六(緊要な専攻学科を修める学徒に対しては授業を継続実施する)にもとづいて、9月卒業を前にして勤労動員が解除された専門学校工学科・理学科の学生に対し、8月夏休みにもかかわらず集中的な授業が行われていたました。学生達は昭和20815日終戦の詔勅を衣笠学舎で整列して聴いた様です。(注2政府はこの詔勅直後の818日に勤労動員を解除します。(注3この通知をうけて学園は直ぐに、『大阪朝日新聞』(昭和201945)年96日付)紙上に授業再開の通知広告を掲載します。これによって勤労動員についていた者学徒出陣していた者達が次々と学園に戻ってきました。(注4 復学手続きした者は11月末には546名に達します。

 

 22・立命館専経同窓会の方々のそれぞれの戦後

 

昭和191944)年に、立命館大学専門学部は文部省による「戦時中とはいえ有無をいわせない高圧的な通達」(注5により立命館専門学校の設置を決議します。それまでの専門学部の学生は専門学校に「吸収シテ、其ノ教育ヲ継続スル」こととなりました。22専経同窓会の方々は、この立命館専門学校(以下、専門学校)の第1期生に当たります。この方々が入学した昭和191944)年の1月には、緊急学徒勤労動員方策要綱が決定され、225日には学徒動員態勢の徹底、国民勤労体制の刷新、防空体勢の強化等を国民に徹底する閣議決定なされました。8月になると各学校では竹槍訓練がはじまり、23日には女子挺身勤労令、学徒勤労令が公布され、高等教育機関から中等教育機関まで文字通り「国民総武装」態勢が敷かれます。

22・立命館専経同窓会T・K氏さんは、当時を振り返って語ります。

 私は立命館専門学校に昭和191944)年春に入学しましたが、すでに勉強どころではなく軍事教練・勤労動員の毎日で、9月には学徒勤労動員令で豊川海軍工廠に入りました。昭和201945)年6月には繰り上げ召集で久留米連隊に通信兵として入営しました。(注6) 終戦後、すぐに学園のよびかけに応えて復学をはたします。

 

同じ同窓会に所属するT・K氏さんは豊川海軍工廠に第1陣(昭和19年)から終戦まで勤労動員に行っていました。昭和2087日、豊川海軍工廠の空襲を経験し、亡くなられた友人の位牌を学校に届けた辛い経験をもっています。T・K氏さんは、終戦後すぐに復学し、2年後の昭和221947)年に立命館専門学校法経学科経済科を卒業しました。復学後のT・K氏さんは「復学後は、私、生まれて初めてというぐらい勉強ができました。戦時中にいっぺん死んだと思ったんですからね」と語りました。専門学校終了後、さらに立命館大学第二部(夜間部)に働きながら学び卒業しました。

 

同じくI・Y氏さんは、滋賀県の近江八幡に生まれました。昭和204月に立命館専門学校法経学科経済科に入学しました。しかし「入学してしばらくしてから、次から次と勤労奉仕が続きました。本当に学校におったのは3ヶ月ほど」と回想しています。

I・Y氏さんもまた終戦後復学し、卒業後、国税庁調査査察部で敏腕をふるいます。

22・立命館専経同窓会の方々は、それぞれの戦後を歩み始めますが、しかし、同窓生で豊川海軍工廠空襲の犠牲となった石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんは再び学園に戻ることはありませんでした。

 

愛知県豊川市諏訪墓地に慰霊碑を建立

 

 昭和501975)年1027日末川博名誉総長に報告し、賛同を得て、翌年の昭和51年(1976522日の昭22・立命館専経同窓会においてS・K氏、T・K氏は「8月に完成したい」と同窓会参加全員の賛同を得て募金活動に入りました。725日には慰霊碑が完成し、豊川諏訪墓地慰霊碑前にて入魂式が行われました。慰霊碑は縦横各2m、表には犠牲となった相原和夫さん、石川巌さん、津野森正さん、本田義次さんの名が刻まれて、後ろには次の様な末川博名誉総長の追悼文が記されています。

 「広島に原爆が投下された日の翌昭和2087日午前925分から約1時間にわたり、豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のためにあった立命館大学の学生のうち表記の4名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り、安らかな眠りを念願する。末川博 昭和5187日 立命館大学 立命館大学校友会 立命館大学22年専経専 法同窓会一同 遺族一同」

 昭和511976)年87日「4人の学友よ やすらかに 現地で33回忌・戦没学友慰霊祭」(注7がおこなわれ、細野武男総長、奥村三舟名誉教授、西村光次校友会会長など29名が参加しました。以来、毎年墓碑前にて四氏の慰霊祭が開催されています。

 

22・立命館専経同窓会 戦没四君50回忌に集まる。

 

 1992(平成4)年1023日(土)、10月にしては少し残暑が残る土曜日の午後、昭22・立命館専経同窓会の人達が新しくできた立命館大学国際平和ミュージアムに、石川巌、津野森正、本田義次、相原和夫、戦没四君の50回忌式典のために集まりました。式典には芦田文夫副総長、安西育郎国際平和国際ミュージアム館長など23名が出席しました。国際ミュージアムには豊川海軍工廠空襲の犠牲者の遺品や海軍工廠の遺品などが展示されました。その後、22専経同窓会は「豊川海軍工廠学徒勤務日誌10冊」「米軍機B-29の爆弾破片」「日本海軍機銃弾丸収納箱」「特殊潜望鏡レンズ」「旋盤研磨機の回転盤」「電話機」など当時の歴史資料を寄贈しました。式典に参加した昭22・立命館専経同窓会を代表してS・K氏は犠牲者四氏に対して追悼の辞を述べました。

生前のあなた方は、お母さんを思い、そしてお母さんを愛されました。人一倍親孝行の方でした。戦争は痛ましい破局をもって終結し、その結果かつてない奇酷事態に直面しました。

恐ろしいあのような惨事は「もう二度と繰り返させません」と心からお誓いする以外に言葉はありません。四君の霊よ安らかにお眠り下さい。

あなた方の魂は永遠に消えることなく、私達同級生の心を照らし続けることでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げ追悼の辞と致します。

 

 

  慰霊祭をきっかけに愛知県東三河支部は誕生し、今も慰霊碑を守り続けている

 

慰霊祭がきっかけで愛知県東三河支部が誕生したと同支部のS・Mは語ります。

私が愛知県校友会の副会長をやっているときに、T・K氏さんたちが豊川海軍工廠犠牲者慰霊祭に毎年来ていらっしゃるということを知り、これをきっかけに東三河支部をつくり、いっしょにやろうと考えた。T・K氏さんが来られたときに東三河支部は設立された。その時から豊川海軍工廠の慰霊碑を何とか我々の手でお守りすることが東三河のスローガンのひとつになっています。戦後70年(2015年)の節目に慰霊祭に吉田美喜夫総長が参加されたことを非常に喜んでいる。

同じ支部のA・Iもまた、戦後70年の節目となる慰霊祭を通じて諸先輩と縁ができたことを大事にして後輩につなぎ、慰霊碑を守り続けていくことをお約束します、と語りました。

戦後70年(2015年)の慰霊祭に参加した吉田美喜夫総長は、次のように決意をのべました。

戦後、立命館大学は平和と民主主義を教学理念に掲げ、1992年に国際平和ミュージアムを設立し、戦争の悲惨さち平和の尊さを伝える努力をしてまいりました。四学友の慰霊にあたり、再び学生が銃をとることなく、平和実現への努力を続けることが立命館の責務であると考えます。

(完了)


 注1 決戦教育措置要綱 昭和20318日 閣議決定

第一 方針

現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス

第二 措置

一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス

二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス

国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス

三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム

四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス

 五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム

 六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ

 七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス

備考

一 文部省所管以外ノ学校、養成所等モ亦本要綱ニ準ジ之ヲ措置スルモノトス

二 第二項ハ第一項ノ動員下令アリタルモノヨリ逐次之ヲ適用ス

三 学校ニ於テ授業ヲ停止スルモノニ在リテハ授業料ハ之ヲ徴収セズ

学徒隊費其ノ他学校経営維持ニ要スル経費ニ付テハ別途措置スルモノトシ必要ニ応ジ国庫負担ニ依リ支弁セシムルモノトス

決戦教育措置要綱の第2の二により1945(昭和20)年4月~1946(昭和21)年3月末の間、国民学校初等科を除く学校の授業は、停止させられていた。

同要綱の第2の六により、戦争完遂の為特に緊要なる専攻学科を修めしむるを要する学徒に対しては学校に於ける授業も又、之を継続実施するものとす。

2 『立命館百年史通史二』P53

3 昭和201945)年816日 学徒動員解除通達

4 現在、詳細な学園の復員・復学の記録は発見されていません。

注5 立命館百年史通史二』p770

注6 校友会機関誌「りつめい」 1995(平成7)年121日発行

 注7 中日新聞 1976年7月26日付

2016年11月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重


慰霊碑のある諏訪墓地の入口


慰霊碑正面


慰霊碑裏面

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