立命館あの日あの時

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2017.10.18

<学園史資料から>陶庵印譜

まえがき

 

 西園寺公望はその号を陶庵と称した。陶庵は印刻を趣味とし、自刻の印章のみならず著名な印刻家の印章も所蔵し、後に坐漁荘の執事であった熊谷八十三により「陶庵印譜稿」を残した。

 このほど、立命館所蔵および国立国会図書館憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」並びに清風荘の執事であった神谷家所蔵の「陶庵印譜」を調査する機会を得たので、ここに「陶庵印譜」について紹介する。


晩年の西園寺公望(陶庵) 昭和10年 興津坐漁荘書斎にて

 

1.陶庵印譜とは

 

「陶庵印譜」とは、陶庵西園寺公望が所蔵していた印章を用い、西園寺公の執事を務めた熊谷八十三が印譜に作成したものである。

 作成の経過については、熊谷がその日記に記している。

 

  昭和1643

    「陶庵印譜作成ヲ原田男カラ注文アリ 今日取リ掛ル 序ニ五部作成ノ事トスル 

   原田・逗子・柿沼・手許控二」

 昭和1647

    「引キ続キ印譜作成ニ掛ル 跡一両日デ完成ノ処ニ漕ギ附ケル」

 昭和1648

    「印譜捺印ダケ結了 跡ㇵ帳面ヲ作ル事」

 昭和1649

    「印譜出来」

 

 「陶庵印譜」は西園寺公の秘書であった原田熊雄男爵が熊谷に作成を依頼し、五部作成することとなった。作成した印譜は原田のほか、逗子の西園寺八郎公爵、柿沼はやはり興津に別荘のあった井上馨の執事柿沼昇に渡した。それに熊谷の手許に二部保存することにした。

 続く410日・11日の日記に、作成した印譜を二か所に発送やら残存品に書き入れをし、陶庵印譜調べで得るところが多かったという。

 

  昭和1677

    「水口屋元一ノ懇望陶庵印譜作成第二回ニ取リ掛ル 今度ㇵ限定四部 懇望者ㇵ

   浮月主人 原田男爵方デ見テ欲シクナッタトノ事 元一ハ之ニ便乗 第二回ノ事ト

   テ初メヨリ稍ウマク出来ル」

  昭和1679

    「陶庵印譜稿限定四部成ル 第二回目デ前ノ時ヨリㇵ上手ニ出来ル 只肉色ガ稍

淡ク過グ 然シ其ガ為ニ対側ヲ汚損スル事は少カルベシ」

 

 熊谷は、4月に引き続き、7月にも陶庵印譜を作成することとなった。

 水口屋は坐漁荘の近くにあった旅館で、中川小十郎など西園寺公への訪問者がしばしば宿泊した。西園寺公ゆかりの宿である。その主人のたっての依頼で第二回限定四部を作成した。浮月主人というのは静岡の浮月楼の主人杉本宗三である。711日の日記に浮月楼主杉本宗三と水口屋元一が礼に来たと記している。

 浮月楼は明治に入り徳川慶喜が屋敷とした跡で、明治26年に料亭として開業した。伊藤博文、井上馨、西園寺公望など名だたる政治家がしばしば利用した。

 第二回目の陶庵印譜は第一回のものよりもやや印影が薄かったものの、上手にできたと言っている。

 

以上のように、陶庵印譜は昭和16年の4月および7月に限定九部作成されたのである。

「陶庵印譜」はその後、どのようになったのだろうか。

 

2.立命館所蔵「陶庵印譜稿」

 

 立命館大学の図書館に「陶庵印譜稿」が所蔵されている。

 熊谷八十三氏贈附 昭和十六年 と記され、中川小十郎の署名と花押があり、『西園寺公印譜』と題した和装の表紙が付けられている。

 「陶庵印譜」作成後その年のうちに中川あて寄贈したもので、4月作成の手控二のうちの一冊と思われる。

熊谷は昭和1511月の西園寺公没後も中川と交流があり、173月には立命館文庫長に就任している。

 中表紙は、「陶庵印譜稿 昭和十六年四月三日作成」、また巻末に「限定五部ノ一」と記されている。

 陶庵印譜稿と記された一葉ごとに袋とじとなっていて44葉が綴られている。一葉は表裏があり、1点から数点の印影が朱で押されている。

 巻末に「一ノオ」(一枚目の表)、「一ノウ」(一枚目の裏)から「四十四ノウ」までそれぞれ印影・印材の説明や作者の名が記されている。

 「一ノオ 三個揃ヒ黒木印」、「一ノウ 三個揃 石印田黄」などである。

 「二ノウ、九ノオ」は桑名鉄城刻で桑名は西園寺公の篆刻の先生である。

 「十一ノオ」は「三個揃石印櫛紐田白 缶道人呉昌碩 病臂」とあり、清代最後の文人呉昌碩が病をおして印刻したものと説明している。西園寺公望と呉昌碩の関係は後述する。

 「十三ノオ」は「山陽刻 天草ノ詩」で、頼山陽の印刻である。

 「十九ノオ」は蔵書印である。

 巻末には、西園寺の偽印を二例あげており、偽物が出回っていたことを窺わせる。

 

【立命館所蔵 陶庵印譜】

 

3.国立国会図書館憲政資料室所蔵「陶庵印譜稿」

 

 国立国会図書館憲政資料室に熊谷八十三関係文書が所蔵されている。関係文書は熊谷八十三没後の1984年および1986年に熊谷家から寄贈されたものである。熊谷八十三日記がそのほとんどであるが、関係文書の中に「陶庵印譜」と「陶庵印譜稿」がある。

 

「陶庵印譜」は断片的でそのうちの一葉に「昭和十六年八月十八日陶庵印譜稿用紙ノ堆裡ニ此数紙ヲ発見ス 依ッテ各印名一枚ヲ出シテ一綴トス」とあるが、内容については割愛する。

 

「陶庵印譜稿」については、表紙に「陶庵印譜稿 昭和十六年七月九日 第二回作成」としており、末尾に限定四部ノ一としている。

熊谷日記に第二回分は水口屋と浮月楼主人に渡した以外記されていないので、さしあたり熊谷が二冊保存し、そのうちの一冊が後に熊谷家から国会図書館に寄贈されたものであろう。

用紙の大きさは横16センチ、縦28センチほどで、立命館所蔵のものとほぼ同じである。

46葉がそれぞれ二つ折りになっていて、立命館所蔵の印譜と同じく、一葉にそれぞれ表と裏がある。

また別にバラで7葉がある。

 立命館の印譜稿は巻末にまとめて簡単な解説がついていたが、憲政資料室所蔵の印譜稿はそれぞれの印影ごとに解説がつけられている。印影についても全く同一というわけではない。

 印材については、一の裏が田黄、三の表が寿山などと記載され、他に木印、石印、銅印などと書かれたものもある。作者についても三の裏は桑名鉄城刻、また七の裏は「缶道人呉昌碩病臂作此 己未立春 行年七十有六」で、立命館所蔵十一ノオと同じ印影である。

 十六には木印常用として、「静岡縣興津 公爵西園寺公望」「静岡縣御殿場町 公爵西園寺公望」と「静岡縣興津 西園寺公望」「静岡縣御殿場町 西園寺公望」「京都上京田中町 西園寺公望」がある。立命館所蔵のものでは十八ノウがこれにあたる。

 全体に立命館所蔵よりも印影が薄いが、熊谷が「上手ニ出来」と言っているのは、それぞれの印影毎に解説をつけたことによろうか。

 また挟み込みの7葉のうちには、偽印について書かれたものや、金印の比重について計算したものがある。

 

【国立国会図書館憲政資料室所蔵 陶庵印譜】

 

 4.神谷家所蔵「陶庵印譜」

 

 神谷千二は西園寺公望の京都別邸清風荘で執事をしていた。

 その神谷家(神谷厚生氏)に西園寺公望関係文書が所蔵されている。その中に「陶庵印稿(白紙)」、「陶庵印譜稿」、2種の「陶庵印譜」、と計4点の印譜資料がある。

 これらは西園寺公の遺品を整理する際に熊谷から神谷千二に贈られたものと思われる。

 「陶庵印稿(白紙)」は、憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」の挟み込みのうちの1葉と同じ用紙であるが、白紙とあるように印影、解説等何もなく文字通り陶庵印稿とあるのみである。

1枚の用紙の中央に陶庵印稿の文字、両側に印影を押す枠があり、袋とじにして表裏になるように作られている。

 「陶庵印譜稿」は、袋とじにする予定であったであろうものがそのまま見開きで25枚ある。大方は朱の印影のみである。印影についての解説は無い。

 「陶庵印譜」2点のうち1点は竪帳である。横14センチ、縦21センチで、それぞれの白紙に朱の印影が1から3個押されている。印影のみで解説は無い。

 特徴的なものがもう1点の「陶庵印譜」である。133点ほどの印影(朱印)が横19センチ、縦127.5センチの台紙に押され、更に横30.5センチ、縦180センチほどの軸装となっている。

 これらの印譜は、おそらく限定九部を作成する過程で作られたものではないかと思われる。いずれも印影ははっきりしていて、朱も鮮やかである。

 

 【神谷家所蔵 陶庵印譜稿】    【神谷家所蔵 陶庵印譜】

【神谷家所蔵 陶庵印譜】        【神谷家所蔵 陶庵印譜部分】

 

5.竹越與三郎「陶庵公印譜抄」と呉昌碩の印


(1)竹越與三郎『陶庵公』「陶庵公印譜抄」

竹越與三郎の『陶庵公 西園寺公望公傳』(叢文閣 昭和8)には、12件の「陶庵印

譜」が掲載されている。

「道徳爲師友」 大正天皇御宸翰中の語から取ったもので、桑名鉄城刻

「公望之印」 側面に(ママ)未立春先一日製 呉昌碩時年七十有六、とあり呉昌碩の刻

「陶庵」   側面に缶道人病臂作此、同じく呉昌碩刻

「無量壽佛」 側面に(ママ)未初春老(ママ)  同じく呉昌碩

「陶庵」   

「明月淸風我」 桑名鉄城刻

「悠然見南山」 自刻印か

「公望 陶庵」 桑名鉄城刻

「公望 陶庵 不讀 佛心 浩々乎 先酔」

「陶庵 不讀 呵々 清風荘 自在 多病」 鉄城

「煙横篷牕」  頼山陽刻

「小石 笠懌 平安 伯海」 

これらは①が憲政資料室所蔵の二ノ裏、②③④が七ノ裏、⑤⑥が四ノ表、⑧が十三ノ裏、

⑨が十二、⑩が十一、⑪が十八ノ裏、⑫が三十四ノ裏に当たる。⑦は見当たらない。

 竹越與三郎は『陶庵公』で、西園寺公は清風荘で印刻を覚え、その師は小林卓斎や桑名鉄城などであった。西園寺の印刻熱は中々に激しく、印譜に関する名著も所蔵し、集めた印も数千顆、田黄田白をはじめとした名材を数百個所蔵し愛玩していた、という。

 なお、「陶庵公印譜抄」は、伊上凡骨の摸刻で、石刻を木板で摸したものである。

 (2)呉昌碩の印

 松村茂樹は『呉昌碩研究』(研文出版 2009)で、西園寺公望所蔵の呉昌碩刻印について述べている。

「公望之印」〈己未立春先一日製 安吉呉昌碩 時年七十有六〉

「陶庵」〈缶道人病臂作此〉

「無量寿仏」〈己未初春 老缶〉

は三顆の組印(正方の姓名、正方の号、変形の雅句を組にしたもの)で、1919(大正8)年に西園寺公望が上海で呉昌碩と会談した際に依頼し刻印したものであるとしている。

 19191月、西園寺は第1次世界大戦後のパリ講和会議の全権大使としてパリに向かった。その途次上海に立ち寄り六三園で呉昌碩と会談しているのである。

 この頃呉昌碩は病臂のためほとんど代刻をしていたようだが、西園寺のために病をおして刻印をしたことが、その印に記されている。

 呉昌碩は中国清朝最後の文人といわれ、書・画・詩・刻印の四絶に秀でた人物であった。

 西園寺と呉昌碩の会談の模様は、池田桃川の『続上海百話』(1922)に詳しい。

 

6.陶庵所蔵印

 上記に見てきたように、陶庵印譜には西園寺の自刻印のほか、桑名鉄城、頼山陽、呉昌碩などの印もあった。

 陶庵印譜には印影のほか、側款のあるもの、また熊谷による解説があり、印の作者、印材、鈕などのほか、その由来を知ることもできるものもある。

印材は、主に石材を使ったほか、銅印、木印、竹根などの印もある。石材は中国福建省寿山石、その中でも最高級品と言われる田黄や田白、寿山に近い月洋郷の芙蓉石、浙江省の昌化石の一つ雞血(鶏血)石などを用いた。水晶や琥珀などもある。

鈕には龍・象・亀・獣・羊などの動物、蓮など花果をあしらったものがある。

西園寺自身は、これらの印材を桑名鉄城や鳩居堂から手に入れていた。

先に述べたように桑名鉄城〔元治元(1864)年~昭和13(1938)年〕は西園寺の印刻・篆刻の先生であった。西園寺の桑名鉄城宛書簡が『西園寺公望傳』別巻一に31点掲載されている。その多くに印刀や墨・硯を依頼することや、篆文のお手本の依頼や批評を請うことなどが書かれていて、西園寺と桑名鉄城の印刻をめぐる関係が知られる。

そのなかの大正(11)32日の書簡を紹介して結びとしたい。

陶庵西園寺公望は「陶庵」と「明月清風我」の印を桑名鉄城に依頼した。白文でも朱文でもよく字配りは如何様にも、としている。

その「明月清風我」は、立命館所蔵版では四ノオに「二個揃 石印平龍紐白更紗模様」とし、憲政資料室所蔵版ではやはり四ノ表に「平龍紐白更紗材」とし、側款をもとに解説が書かれている。この「明月清風我」は竹越與三郎の「陶庵公印譜抄」にも取り上げられている。

「明月清風我」は、陶庵閣下が散逸を惜しんで再刻を依頼し、壬戌(大正11)秋に作成したものと桑箕(桑名鉄城)が謹んで記したとしており作成の由来がわかるのである。

 

陶庵公の印譜熱は並々ならぬものがあった。篆刻作品である印章はそれ自体が工芸品であり、印材に刻まれる印影はまた独立した芸術品である。

「陶庵印譜」は、西園寺公望の文人としての一面を伝えてくれる。

 

 

20171018

立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

2017.10.03

<懐かしの立命館>西園寺公望公と佐乃春の料理

立命館「学祖」西園寺公望。自ら私塾「立命館」を創り、明治法律学校(現 明治大学)の講師、京都帝国大学、日本女子大学校(現 日本女子大学)の創立に携わり、第12代、14代総理大臣を務めた「最後の元老」。

西園寺公望は、また食通としても名を知られた人であった。

 

 

本稿は、公晩年の居宅静岡県興津の「坐漁荘」で、しばしば料理を届けた料亭「佐乃春」に伺ったお話です。(佐乃春は3年ほど前に約120年続いた料亭を閉じ、現在ホテルを営業しています。)

 

 

西園寺公から料理の注文が入ると、坐漁荘から自動車(リンカーン)が来て、料理とともに調理人も同行し、坐漁荘で盛り付けや温め直しをしたという。

店に残されている「お品書き」は24コースある。

お品書きからは、やわらかいものやさっぱりした味付けのものが多かったようで、蒸し物を好んだようだ。興津鯛なども好んだ。

料理は時季により食材が変わるが、上折と下折がある場合は下折に寿司を配した。

 

お品書きの1点に昭和14928日提供のものがある。

蛇の目海老、松茸はさみ焼き、白川甘鯛、無花果(イチジク)の品などが見える。

 

昭和14928日のお品書き】

 

また昭和15年度と書かれたものが数点ある。

写真の上部の日付は料理を提供した日ではないが、西園寺公は昭和151124日に薨去するので、最後の年に食べた料理ということであろうか。最も、体調が勝れない日が多かったと思われ、実際にどれほど食べることができたのかはわからない。

 

昭和15年お品書き】

 

実は、執事であった熊谷八十三の昭和15年の日記に次の記載がある。

1023日、園公爵誕生日 例ニ依リテ料理((ママ))ノ恵与アリ 

1024日、昨日ノ御馳走ノ中ニ於多福豆ノ甘煮アリ 此頃此辺デ売ツテ居ルモノニ

比シテ味質甚ダシキ差違アリ 矢張之ダケ異ナルモノカト感心ス

と記している。上のお品書きに福豆とあるのはそれであろうか。

更に1110日の日記には、紀元二千六百年記念奉祝式典のため、今日のお祝いに濱邸で佐(ママ)春の料理あり、と記載している。お品書きに日の丸や紀元二千六百年の文字が見えるが、料理の名に使ったのであろう。

 

佐乃春には現在も西園寺公が使用した食器が保存されている。九谷や京都の食器という。藍の色が深く美しい鉢や、黄色の地に水色のふちどりが美しい洋風のお皿、お椀の装飾も見事。どの器も料理の素材が生える色合いである。舟形のお皿にはアユなどを盛りつけたとか。

 

西園寺公使用の食器】

 

いつから佐乃春が西園寺公に料理を提供するようになったかはわからないが、お品書きには昭和11年のものも残っている。昭和11年といえば、二・二六事件の起こった年であり、西園寺公はこのとき興津を離れ静岡県知事官舎に避難した。その際佐乃春の食事を注文し、極秘裏に運ばせたと伝わる。

坐漁荘の調理人に対して厳しい西園寺公であったが、佐乃春の料理にはしばしば舌鼓を打っていたようである。

 

佐乃春では、西園寺公に提供した料理を復元していた。

次の写真は、割烹佐乃春が昭和13年に西園寺公に提供した料理を、平成16(2004)422日に現在の手法で復元したものである。

木の芽針魚昆布〆、穴子細川焼、里芋田楽、子持椎茸などの品が並んでいるが、当時(昭和13)レモンを付け合わせに出すことは珍しかったという。

現在は復元料理を味わうことはできないが、西園寺公の食した料理もまた歴史の遺産のひとつと言ってよいであろう。

 

【復元料理】

 

 

ご提供いただいた資料(複写)は、

 昭和11年献立表、13年度献立表、14年度献立表、15年度献立表

 復元料理資料

資料はいずれも 株式会社佐乃春 所蔵

 

 

2017810日、佐乃春を訪問。調査へのご協力、資料のご提供をいただいたこと、お礼申し上げます。

 

2017103

立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次

2017.09.27

<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第2部 昭和の時代を見届けた鉄筋校舎

こちらの記事は、全2部となっております。1部の記事は、「<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第1部 広小路から新天地北大路へ」をご覧下さい。


立命館中高 北大路校舎誕生物語

第2部  昭和の時代を見届けた鉄筋校舎

 

1.期待される学校・校舎

  校舎の建設は、生徒たちが毎日その進捗を目にする中で順調に進んでいきました。当初の計画では、中学校と商業学校の普通教室を中心とする建替えでしたが、建設会社からの提案を受けて、急遽、計画を変更し、講堂(1階に銃器庫や医務局、2階に大講堂)も追加で建設されることになりました。この講堂は、完成時では京都府下最大規模として注目されることになりました。また、医務局はレントゲンなどの診察器具を備え、立命館大学よりも早く、全国の学校でも先進的な設備と体制を整えた学校になったのでした(注10)。なお、図面にある西校舎は、後に上賀茂に設立される立命館第二中学校(戦後の神山中学校高等学校)の校舎として移築利用されました。

   

 

写真7 鉄筋建替え後の北大路学舎図(史資料センター所蔵  制作年不明)

 

1期工事 1937(昭和12)年6月竣工

    東校舎(中学校) 鉄筋コンクリート三階建 18教室

 

写真8 東校舎

2期工事 19371月着工で1938(昭和13)年2月末竣工

    北校舎(商業学校)鉄筋コンクリート三階建 21普通教室 3特別教室

西校舎 1階 銃器庫、医務局、実験室、地歴教室

    2階 大講堂 (236坪で京都府下第一の規模)

    地下 射撃場 地下道 (生徒用食堂としても利用) 

 

写真9 北校舎前校庭に立つ中川校長(側の四角形は地下道への光の通し窓) 

 

写真10  講堂 (2階が講堂、1階が銃器庫・医務局など)

 

写真11 全国的にも最高の設備を備えていた医務局

 

この新校舎は2000人が収容できるように建設されていました。その設計には配属将校などの軍人が多くの意見を入れていたそうです。地下には銃器庫と兵器庫があり、空襲の際には地下道が校舎をつなぐだけでなく防空壕の役目も果たし、軍事教練として大事な射撃訓練が校内で実施できるように射撃場が設けてありました。年間で数発の実射を行う訓練は、通常の学校では校外の特別の場所まで出向いていましたが、軍事教練を強調する立命館としては、地下射撃場が学校の看板的役割も果たしていたのでした。つまり、北大路学舎は、将来の戦争に備えた軍事基地的要素をもって建設された学舎だったのでした。
 新校舎建築は、当時の金額で30余万円(現在では約4億円)を要する大工事でした。学園総長であり中学校商業学校校長でもあった中川小十郎の決断を実現させるため、学園関係者も資金捻出のために苦心し、不足分には学債の募集が行われました。寄付集めのためだけの同窓会という印象をさけたいと考えていた清和会も、これには積極的に協力することとし(注11)、それでも不足する分については、銀行からの借入れまで行ったのでした(注12)。

こうして耐火耐震も備えて完成した新校舎は、1937(昭和12)年新学期から授業が開始されました。この年はまた立命館の付属学校が大きく成長発展をする年でもありました。それは4月の夜間中学校(後に立命館第四中学校)と商業学校夜間部の創設でした(:13)。当時の夜間中学校は、京都府内で二中(現鳥羽高校)と三中(現山城高校)の二校で、私学では立命館だけでした。創立者中川小十郎は学校設立時から勤労者教育を非常に重んじていたので、夜間学校の開設は教育者としての夢であったといえるでしょう。

この年の中学校では募集160名に対して入学者321名(志願者352名)で、商業学校では募集150名に対して入学者319名(志願者381名)というように生徒数は、景気の回復とともに急増していったのでした(:14)

 

 

2.戦争と北大路学舎

まだまだ瓦屋根の民家が多く、高い建築物がなかった昭和10年代の北大路烏丸に聳えるように建つ白いコンクリート3階建ての校舎は、北大路通りや烏丸通りを走る遠くの路面電車からも大きなシンボルとして見えたことでしょう。
 学校は、校舎の色の選択に師団参謀部の意見を伺っていて、その結果は新聞で「最近徒らに美観のみを誇って敵機に素早く感知されるやうな明粧建築物の増加する折柄、目下建築中の立命館中学校が一朝有事の際を考慮してその建築外面を上空から感知されないやうな擬装色となすことになった」と紹介されていました(:13)。校庭(運動場)の色と同じように見せるために校舎の屋上には土が敷かれていました。校庭の隅には五百挺の小銃と弾薬が一時に隠匿できる地下室が設けられ、屋上には空襲監視の望楼が建設されるなどその徹底ぶりは、学舎としては突出していました。当時の新聞には「竣工の上は空襲戦時の有事に役立つ全国にも稀な模範的校舎として各方面から期待がかけられている」と賞賛されていました。(:15)

多くの生徒たちが待ち望んだ新校舎でしたが、なかには「(中略)その建築にすこしの建築美といふやうなものもなく、ただ単に昔ながらの学校風の建て方に流れてゐる事であった。(中略)平凡至極なひらべったな細長い校舎を見て入るよりはそこにいく分なりとも芸術味を加味したものの加へられてゐる方が気分に大変な差ができる」(:16)という失望の声もありました。

 

 

写真12  新校舎完成後の北大路学舎全景 (昭和13年)

 

写真13 陸軍現役将校学校配属令公布15周年御親閲(昭和145月)

 

 6)「さよなら北大路学舎」

北大路学舎は、戦争によって痛々しいくらいに姿を変えさせていました。軍需生産の工場として機械をいれるために校舎の窓や扉は壊され、空襲を避けるため校舎の壁面に迷彩が施されていました。そして、生徒たちのうちで3年生以上は学徒勤労動員で各地の工場へ、2年生以下は農作業の手伝いに駆り出されていて、主役である生徒たちがいない学校になっていました。
 それが、終戦となって生徒たちが戻ってきて、教職員と一緒になって学校の再建へと歩みだしました。1948年から発足した夜間高校には、向学の意欲に燃える勤労青年たちが集まり、夜遅くまでこうこうと輝く教室の明かりは、戦後の北大路の夜の名物風景にもなりました。

    北大路学舎は、この地で戦後の平和と民主主義への歩みと共に、さまざまな苦難の道を乗り越えながら生まれ変わりました。そして、その努力と成果を継承しながら、21世紀を展望し教育内容をさらに充実させ、より良い学校環境で男女共学を実現していくために学校の移転を決意しました。

    こうして北大路学舎は66年間の歴史に幕を閉じたのでした。新しい教育への夢をもって1988(昭和63)年にさらなる新天地深草へと移転したのでした。

 

2017927

立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 

写真14  北大路学舎校庭での中高合同体育祭 (1950年頃)

 

写真15 定時制高校での授業風景(卒業アルバム 1960年)

 

写真16 新館建設前の校庭風景 (1963年度 高校入学案内)

 

写真17 中高全生徒と教職員による人文字(小雨の中で撮影)

 

10:「文部省は学校に対して、年一回の定期健康診断をさせるだけで、これでは健康の管理は出来ない。学校には如何にも弱そうな青びょうたんの生徒や学生がいる。こんな人には勉強よりもまず健康だ、体力だと言う考えの下で、レントゲン其の他の診察器具を備えて、毎日、医者に診察させる医務局を設けられたのであります。そこでの診断の結果を父兄に通知して、治療をさせたのであります。実に先見の明で、其の後十年程して文部省は是を見習ろうて、各学校で診察をさせる様にしました。学校内に医務局の設置は、日本中本校が嚆矢(こうし)(最初)であります」

前掲書 木村嘉一氏「立命館とともに」p.3

    (木村氏は中川小十郎の家庭医で、戦後の立命館清和会の再建に奔走され、第2代会長として長く職につかれ、理事長も務められました。)

11:立命館清和会長本田義英氏からの寄付・学債協力趣意書

   「(前略)既に在学生父兄に於ては旧臘(きゅうろう)校舎改築期成後援會を組織せられ熱心なる後援をなされつつある由に之れ有り。我々三千名の卒業生としても此の際一致協力して、此の難事業に直面せる母校のため、出来得る限りの援助を致したく存ずる次第に之れ有り候。就ては御迷惑の至りと存じ候へども、学債と寄附との如何を問はず、特に各位の御尽力を願ひたく切に御依頼申し上候(後略)」

     (立命館清和会  保存資料)

12:「中川先生は『学校には今金がない、木村お前石原(広一郎氏、当時の立命館理事)の所へ行ってこのことを相談してくれ』とのことで、吉祥院の宅を訪ねて、其由を申しました。氏は『私の取引の第一銀行から私が保証人になって借入れよう』との話で、これがまとまり、北校舎と講堂が完成されたのであります。」

前掲書 木村嘉一氏「立命館とともに」p.3

13:後に工業学校となり第四中学校へ統合される。

14:『立命館百年史 通史一』 p.561

15:『京都日日新聞』 昭和12629日付 (京都日日新聞は現在の京都新聞の前身)

16:同上

17:『立命館禁衛隊』第77号(19377月号)「新校舎への待望」 生徒感想より 

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