立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2016.10.27
<学園史資料から>創立者中川小十郎生誕150年記念 中川小十郎ゆかりの地を巡る現地見学会の報告
2016年は、創立者中川小十郎生誕150年にあたります。
生誕の地亀岡市では、7~8月にかけて「中川小十郎-馬路村より立命館創立者へ」と題した企画展を実施しました。
この企画展に関連して、2016年9月24日(土)小十郎が育った丹波馬路村(亀岡市馬路町)やゆかりの場所を巡るバスツアーを開催しました。
当日は、亀岡市民の方、中川小十郎顕彰会の方、立命館校友など92名が参加され、天平13(741)年に建立された「丹波国分寺」の史跡、丹波一宮とされた「出雲大神宮」を見学した後、小十郎が幼少期を過ごした亀岡市馬路町(丹波馬路村)に今も残るゆかりの場所を歩いて巡りました。
その様子をお伝えします。
1.丹波国分寺
当日の朝、ツアー一行はバスで亀岡市千歳町にある「丹波国分寺」に向かいました。
丹波国分寺は、聖武天皇が国土安穏や護国豊穣を祈るため、天平13(741)年に建立した寺です。245m四方を築地で囲み、奈良の法起寺式の伽藍配置(東に塔、西に金堂を配す)で建てられました。その後遺構の発掘調査の結果、当時の瓦や塔の礎石、梵鐘の鋳型などが出土しています。現在見られる本堂、山門、鐘楼は安永年間(1772~1781)に再建されたものとのこと。
ツアーの面々は雑草で覆われた広い寺域を抜けて、本堂に向かいます。
当日は曇りで涼しく、途中のあぜ道には曼珠沙華がまっ盛りでした。
国分寺の本堂。2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主人公あさが新次郎に自分の気持ちを打ち明けるシーンのロケ地としても使われています。
ガイドの説明を聞くツアー参加者
2.出雲大神宮
丹波国分寺を見学した一行は、再びバスに乗り「出雲大神宮」に向かいました。
出雲大神宮は、和銅2(709)年創祀と伝えられ、中世の丹波一宮とされた古社です。大国主命とその后神である三穂津姫命を主祭神とし、崇神天皇はじめ多くの摂社、末社が祀られており、本殿背後の「御蔭山」を御神体とする信仰形態を残しています。
バスを降りた一行は大神宮への道を登ります。背景の山が出雲大神宮の御神体である「御蔭山」です。
大神宮の神饌田では、ちょうど抜穂祭神事の最中でした。
出雲大神宮の大鳥居と本殿。本殿は中社で、上社は御神体山「御蔭山」山中にあります。
3.小十郎生誕の地「馬路町」へ
午前中をかけて「丹波国分寺」「出雲大神宮」を回った一行は、バスで馬路町に移動しました。
馬路町は、小十郎が生まれた慶応2(1866)年当時、丹波国桑田郡馬路村と呼ばれていました。馬路村は亀岡盆地の北部に位置し、大堰川左岸の田畑に囲まれた豊かな土地で、江戸時代は旗本の杉浦氏の知行地として陣屋が置かれた大きな集落でした。一方で馬路村は郷士の家が力をもっている村でもあり、こうした郷士が幕末・明治維新期に活躍していきます。
また、馬路村は学問の土壌も培われた土地柄で、小十郎の恩師である田上綽俊(たがみ しゃくしゅん)の致遠館、私塾の典学舎、北村龍象(きたむら りゅうしょう)の塾などが開設されていました。
馬路町でのツアーは、まず自治会館に集合して昼食を取った後、こうした事蹟を徒歩で辿りました。
ツアー参加者は馬路町自治会館に集合
全員で昼食をとり、馬路町自治会長の中澤基行さんからご挨拶をいただきました。
昼食を済ませ、2つのグループに分かれて元気に出発。これからは徒歩で小十郎ゆかりの場所をめぐります。
先頭を行くのは、このグループの引率・講師の中川茂雄さん(左)と人見淳生さん(右)。
4.中川祖霊社と顕彰碑
最初に回ったのは、中川一族を祭る「中川祖霊社」と西園寺の山陰道鎮撫に同道した馬路の人々や中川謙二郎の顕彰碑が置かれた場所です。
画面左の門が「中川祖霊社」。この馬路の地は、先人を祭る風習があり、他の一族も同じように祖霊社を祀っています。
「中川祖霊社」の隣には、奥に「戊辰唱義(清声千古)碑」、手前右に「中川謙二郎先生碑」、手前左に「中川小十郎先生碑」が建立されています。
「戊辰唱義(清声千古)碑」は、慶応4(1868)年の戊辰戦争時に西園寺の山陰道鎮撫に同行した馬路村の人々を讃え、大正11(1922)年に小十郎が中心になって建立したものです。清声千古(せいせいせんこ)とは「清い誉れを永久に伝える」という意味です。
「中川謙二郎先生碑」は小十郎の叔父で山陰道・北陸道鎮撫に同行し、その後東京女子高等師範学校(現 御茶ノ水女子大)の校長などを務めた謙二郎を、郷土出身の教育者として讃え、昭和3(1928)年に小十郎が中心となって建立したものです。
「中川小十郎先生碑」は、平成5(1993)年小十郎の50回忌に学校法人立命館が建立したもので、当時の西村清次理事長、大南正瑛総長の顕彰文が刻んであります。
5.小十郎の生まれた生家(堀ノ内)へ
次に一行が向かったのは、小十郎が生まれた中川禄左衛門(実父)の旧宅です。堀に囲まれていることから、(堀ノ内)と呼ばれていました。既に住まう人はなく、母屋は取り壊されて倉と土塀、長屋門が残るだけになっています。
一行は敷地の入口から入っていく。御子孫の中川陽子さんが管理している。ツアーのために事前に草刈をしていただいていたので広々としている。
生家(堀ノ内)の邸内全景。奥の倉と右手の小屋・長屋門だけが残るが劣化が激しい。
左、長屋門を内側から見る。右、長屋門を外側から見る。
6.養家(四ツ辻)
小十郎の生家(堀ノ内)を後にした一行は、養家(四ツ辻)に向かいました。(四ツ辻)は小十郎6歳の時に養子に入った中川武平太の旧宅です。
小十郎は養父武平太の下で幼少期を過ごし、田上綽俊の致遠館にもここから通っていました。
養家(四ツ辻)の敷地内に入る。住まう人は無いが、母屋は健在。事前に草刈をしていただいたので全景が良く分かる。
木戸を潜って、母屋の玄関に向かう。
7.人見龍之進旧宅(西園寺公望宿泊の家)
続いて、人見龍之進の旧宅に向かいました。人見龍之進は、人見一族を代表して山陰道鎮撫に同行するとともに、総督西園寺の宿泊施設として自らの屋敷を提供しました。西園寺は馬路滞在の3日間ここに投宿しています。現在は住む人も無く雑草で覆われていたのですが、今回のツアーのために草刈をするなどご尽力いただきました。
人見龍之進旧宅。ここを西園寺公望が出入りしたと想像を膨らませる。
人見淳生さん(中央)から人見一族と山陰道鎮撫の関係を解説いただきました。
8.川東学園(旧致遠館)と馬路陣屋跡へ
人見龍之進旧宅を出発した一行は、小十郎が幼少期に学んだ田上綽俊の致遠館跡地へ向かいました。
致遠館の在った場所は、元々江戸時代には馬路一帯を管轄した旗本杉浦氏の代官所(陣屋)が置かれていた場所でした。明治に入って、山陰道鎮撫使の功績により下賜されて、明治5(1872)年、致遠館が建てられます。
小十郎はここで学問の大切さ面白さを学びました。
その後この場所は、昭和37(1962)年に周辺の小学校4校が合併して「川東小学校」となり、平成27年からは小中一貫校の「亀岡川東学園」となっています。
亀岡川東学園の正門。敷地は広く通りに面して校地の塀が続いていた。
川東学園沿いの道を少し行くと、「馬路陣屋跡」(杉浦氏の代官所跡地)の碑が立っている。
川東学園を含めてこのあたりが馬路一帯を管轄する陣屋だった。
9.典学舎碑から北村龍象碑を巡って馬路町自治会館へ
致遠館跡地の亀岡川東学園・馬路陣屋跡を見学した一行は、最後に幕末に開設された私塾「典学舎」跡地、「典学舎」の後を継いで「馬路の塾」を開いた教育者の北村龍象の碑を訪ねて馬路自治会館に戻りました。
民家の入口に建てられた「典学舎跡」の碑。幕末の頃、桑田郡で開かれた私塾としては最古のもの(嘉永年間 1848~1854 に開塾)です。小十郎の父親世代が学んだ塾で、叔父謙二郎も塾生の一人。塾長であった中條侍郎の娘梅野は後の三輪田眞佐子(明治・大正の女子教育家。三輪田学園の創設者)で、日本女子大学校(現 日本女子大学)の設立にも関わり、中川謙二郎の招聘によって東京女子高等師範学校(現お茶ノ水女子大学)の講師を務めています。
北村龍象は明治・大正期の教育者。幕臣の子息として京都に生まれ、戊辰戦争に従軍の後、馬路に居を移しました。「典学舎」の後を継ぎ4年間塾を運営しています。その後も馬路村に住い、「馬路学校」と呼ばれる塾を開くなどして亀岡地域周辺の青年教育に尽力しています。
10.最後に
亀岡・馬路町の地域は、肥沃な土地を持ち都に近く交通の要衝であったことから、古くから生産・流通などの地域経済がさかんで、教育・文化も発達しました。人々は経済力と教養を身につけ、郷士として地域を担ない、維新の激動期に積極的に関与していったのです。
今回のフィールドワークで史跡を巡ってみると、立命館創立者中川小十郎は、馬路の人々とともに学び育ったからこそ、世に出てきたのだなあと改めて納得しました。
最後に今回のツアーの概略図を掲載しておきます。
2016年10月 史資料センターオフィス
奈良 英久
<亀岡地域の概念図>
<馬路町内のツアー順路>
2016.10.14
立命館学園創立者 中川小十郎生誕150年記念 中川小十郎の生涯と人物像展のお知らせ
2016.10.05
<懐かしの立命館>相訪会『会員名簿』(昭和14年)と立命館日満高等工科学校
はじめに―相訪会『会員名簿』の“発見”
昨年9月、立命館史資料センターのホームページに、『相訪会、相訪会館そして「形影相訪」』という記事を掲載しました。
ところが、このほど相訪会の起源についてそれ以前に遡る資料の存在が判明しました。立命館日満高等工科学校相訪会『會員名簿』(昭和14年11月末現在、昭和14年12月31日発行)です。(以下、『会員名簿』と表記します。)
『会員名簿』は単に相訪会の歴史を遡るだけでなく、日満高等工科学校の歴史が見えてきます。本稿はこの『会員名簿』と、その名簿をもとに理工学部所蔵の「学籍簿」を調査しましたので、『立命館日満高等工科学校報告(第一回)』および『立命館日満高等工科学校報告(第三回)』等、当時の資料を参照しながら、生徒の動向を中心に理工学部の前史について紹介します。
1.理工学部の発祥
―電気工学講習所から立命館高等工科学校、立命館日満高等工科学校へ―
『会員名簿』の概要及び日満高等工科学校の状況を見る前に、日満高等工科学校開設に至る経緯について簡単にふれておきます。
(1)私立電気工学講習所
1914(大正3)年、京都帝国大学理工科大学電気工学教室のなかに、教員有志により電気技術者を養成する私設の教育機関が設立されました。私立電気工学講習所です。その私立電気工学講習所は1937(昭和12)年頃になると、京都帝国大学の学外に移設し工業学校として改組し自立しようという動きが起こってきました。
(2)立命館工科学校から立命館高等工科学校へ
同じ1937(昭和12)年、日中戦争が起き時局が緊迫し重工業建設の現場技術者が必要とされる中、総長中川小十郎は技術者養成の学校を設立しようと考え、10月には工業系の学校を開設することを理事会で決議しました。
こうした経過の中で立命館は翌1938(昭和13)年2月、電気工学講習所の移管を受けて、立命館中学校・商業学校のある北大路学舎の地に電気工学に関する技術者養成の「立命館工科学校」を設立することとなりました。
ところがその工科学校は認可翌々日の2月26日に「立命館高等工科学校」として、工科学校の学則変更という形で再度認可申請をし、3月30日に認可を受け、4月18日に開校式を挙行しました。開校式には320余名の新入生徒が列席しています(『立命館学誌』208号、1938年5月?)。学科は電気科のほか土木科・建築科・機械科・応用化学科の5学科で、修業年限は3ヵ年と定められ、機械科と電気科には二部が設けられました。
『立命館学誌』第209号(昭和13年10月15日)は、高等工科学校の現況を、一部(昼間部)は1年のみで5科にて200名余、二部(夜間部)1年は2科にて70名余り、二部2年・3年(前京都帝大内私立電気講習所)は電気1科で約170名、全生徒数約450名である、としています。そして1939(昭和14)年3月19日の卒業式には、58名が卒業を迎えました(『立命館学誌』第212号 昭和14年6月1日)。
(3)立命館日満高等工科学校へ
高等工科学校は工業専門学校に準じる工業学校として北大路学舎に開校しましたが、「満洲国」が技術者養成機関を必要としている状況のなか、1938(昭和13)年秋には高等工科学校を拡充し「立命館日満高等工科学校」を開設することを検討、翌年1月末に高等工科学校の学則を一部変更することで「立命館日満高等工科学校」開設の認可申請を行いました。
2.立命館日満高等工科学校の開校
日満高等工科学校の所在地は等持院として申請し1939(昭和14)年3月30日に認可されましたが、等持院学舎での開設は間に合わず、当面は北大路学舎を仮校舎としました。中学校・商業学校と併設のため狭隘化が著しく、施設条件は劣悪でした。
学科は機械工学科・自動車工学科・航空発動機科・電気工学科・応用化学科・採鉱冶金学科・建設工学科の7学科、修業年限は3ヵ年のところ、「時局ノ要求ニ鑑ミ当分ノ内」授業期間・時間を増やすことにより2ヵ年に短縮して開校しました。
等持院学舎の開設は11月となりました。
等持院学舎位置図(出典『立命館日満高等工科学校概況』1940年)
日満高等工科学校校舎
開校した日満高等工科学校の概要を『立命館日満高等工科学校報告(第一回)』などから紹介します。
(1)設立の目的と教育の方針
設立の目的と教育の方針は、日満高等工科学校規則にうたわれています。
第一条「本校ハ満洲国ニ於ケル工業ノ進歩発展ガ東亜安定ノ要諦タルニ鑑ミソノ任務達
成ニ邁進スル工業人ヲ養成スルヲ以テ主タル目的トス」
第三条「本校ノ教育方針ハ其設立目的ニ鑑ミ日満両帝国不可分関係ノ認識ト民族協和ノ
精神ノ涵養ヲ基調トスル人格ノ陶冶ト満洲国重工業開発ニ必要ナル実際的技術
ノ習得トヲ図ルニ在リ」
第四条は、委托生徒と普通生徒(以下委託生、普通生と表記。)を定め、委託生は満洲国政府の補助を受け学費を免除、卒業後の就職は満洲国政府の命令によるものとし、寄宿舎に入居することが義務付けられました。普通生は学費の補助は無く、授業料年額120円、実習料年額60円でした。
(2)入学試験の実施
第1回の入学試験は4月6日・7日に実施されました。試験場は京都のほか、秋田・東京・高松・松江・福岡に設けました。
志願者は、京都458名、秋田12名、東京132名、高松24名、松江10名、福岡94名、合計730名でした。うち委託生志望が506名、普通生志望が224名でした。
試験科目は、英語・数学・物理・国語(作文)のほか人物考査・身体検査がありました。思想調査もあり、内申書と人物調査のなかで口頭試問を受けました。
学科別、委託生・普通生別の志願者・合格者は以下の通りです。
*は他学科の超過員を収容した、としています。
上記のうち委託生で合格した者125名は氏名・生年月日・原籍・入試評価が記されていますが、年齢は1915(大正4)年3月生まれ(24歳)から1922(大正11)年2月生まれ(17歳)までとなっています。
また原籍は、地方試験場を設けたことが反映してか、北海道・東北9名、関東12名、中部22名、近畿29名(うち京都11名)、中国10名、四国12名、九州27名、朝鮮3名、台湾1名でした。合格者は全国に及び、合格者がいない県はわずかに5県でした。
このほか、これまで高等工科学校に在学していた生徒151名が新規則により第1学年の普通生として編入されています。機械科から63名、電気科31名、応用化学科27名、土木科16名、建築科14名でした。
(3)立命館日満高等工科学校の教育
日満高等工科学校は4月16日入学式を挙行、授業は2ヵ年となったため、朝7時から夕方5時まで、その他特別授業を実施し、2年で3年分の学修をすることとなりました。
7月17日から8月19日は夏期休暇を返上し、午前中は講義、午後は実験実習などが行われることとなりました。各科共通の課程(科目)として、修身、教練、武道、英語、満洲語などがありました。
『立命館高等工科学校業務執行状況報告』(昭和14年7月発行)には、5月現在の委託生の就学状況報告があり、出席率が95%から100%と非常に高かったことがわかります。
教育の状況そのものではありませんが、この報告書には昭和14年に併記して、「康徳6年」とあります。他の発行物にもありますが、康徳という満洲国の元号を使用しているのは日満高等工科学校の性格ないし時代を象徴しているといえるでしょう。
教員の構成ですが、校長本野亨をはじめ、顧問に高等工科学校校長であった石井頴一郎、隈部一雄など8名、専任教授11名、講師は60名を超える陣容(その多くは京都帝大)でした。戦後の理工学部(電気工学科)の教員となった羽村二喜男、山本茂、井上勅夫などもいました。1940(昭和15)年からは後にトヨタ自動車工業の社長、会長となった豊田英二氏も講師として講義を担当しました。
BKC工作センターには今も当時の工具が残っています。
日満高等工科学校の工具
3.相訪会『会員名簿』(昭和14年)の概要
今回判明した立命館日満高等工科学校開設年度の『会員名簿』は、相訪会会則、役員、名誉会員、特別会員、正会員、支部所在地・役職者、電気工学講習所卒業者一覧、在学生、昭和14年中会員物故者の項目からなっています。
表題は『会員名簿』ですが、名簿の項目からこれまで知られていなかった日満高等工科学校の概要を知ることができます。
(1)相訪会会則
会則は15条と附則から成り、会の名称、事務所、目的、会員の種類、役員などについて定めています。
(2)役員
会長 本野亨、副会長 関野弥三、幹事長 岡本豊三、以下幹事11名、評議員34名で構成されています。
(3)名誉会員
総長・校長・前校長・母校特別の縁故者を名誉会員とし、立命館総長 中川小十郎、校長 本野亨、元電気工学講習所校長 青柳栄司、前校長(高等工科学校) 石井頴一郎 の4名が名誉会員となっています。
(4)特別会員
特別会員は母校恩師並に元電気工学講習所同窓会特別会員で、169名です。
(5)正会員
正会員は「立命館日満高等工科学校卒業生及元電気工学講習所同窓会正会員」としています。卒業年次が1915(大正4)年から1939(昭和14)年までの卒業生などで、1.096名となっています。
(6)支部
事務所は等持院学舎の日満高等工科学校内ですが、別に京都支部、神戸支部、大阪支部、東京支部、東海支部(名古屋市)、九州支部(小倉市)があり、それぞれ事務所所在地と支部長・委員などの役員がおかれています。京都支部の事務所は京都帝国大学電気工学教室内となっています。
(7)電気工学講習所卒業者一覧
1915(大正4)年から1939(昭和14)年までの卒業生の氏名が掲載されていますが、年度毎の卒業者数は以下の通りです。
卒業生のなかには更に補習科に進みその修了年度が付記されている場合がありますが、略しました。
(8)在学生
昭和14年11月現在の氏名・住所が記されており、学科別・学年別・組別の在学者数は以下の通りです。( )内は寄宿舎に入居した人数です。
二部電気工学科 3年 56名
〃 2年 16名
二部機械工学科 2年 15名
機械工学科 1年Ⅰ組 55名
〃 1年Ⅱ組 44名(うち第1寄宿舎22名、第2寄宿舎3名)
電気工学科 1年Ⅰ組 22名
〃 1年Ⅱ組 49名(うち第1寄宿舎16名、第2寄宿舎9名)
応用化学科 1年Ⅰ組 26名
〃 1年Ⅱ組 41名(うち第2寄宿舎10名)
建設工学科 1年Ⅰ組 土木16名、建築12名
〃 1年Ⅱ組 26名
自動車工学科 1年Ⅱ組 36名(うち第2寄宿舎25名)
航空発動機科 1年Ⅱ組 36名(うち第2寄宿舎25名)
採鉱冶金学科 1年Ⅱ組 38名(うち第2寄宿舎15名)
合計 488名(うち第1寄宿舎38名、第2寄宿舎87名)
日満高等工科学校の開設初年度ですが、3年生・2年生がいます。3年生は1937(昭和12)年に電気工学講習所に入学し、翌年に立命館高等工科学校を経て日満高等工科学校に在学している生徒です。2年生は1938(昭和13)年に立命館高等工科学校の二部電気工学科・機械工学科に入学し日満高等工科学校に在学している生徒です。
一部(昼間部)の機械工学科・電気工学科・応用化学科・建設工学科にはⅠ組とⅡ組があります。Ⅰ組は1938(昭和13)年に立命館高等工科学校に入学し、翌年に新制度により日満高等工科学校の1年に編入した生徒です。自動車工学科・航空発動機科・採鉱冶金学科は1939(昭和14)年の新設のためⅡ組のみです。
Ⅱ組の生徒には委託生と普通生があり、委託生は京都市内出身者の例外を除き寄宿舎に入ることが義務付けられていました。寄宿舎は等持院学舎内に建てる計画であったので、二つの寄宿舎は仮寄宿舎でしたが、第1仮寄宿舎は等持院の庫裏を借り、第2仮寄宿舎は出町寮に置かれました。
物故者の項は略します。
4.卒業と進路
1939(昭和14)年に日満高等工科学校に在学した学生は、次のように卒業しました。これまで、『立命館日満高等工科学校報告(第一回)』と相訪会の『会員名簿』で入学者や在学生を調べましたが、これらの資料をもとに、更に学籍簿にあたり調査しました。
(1)1940(昭和15)年3月の卒業生
日満高等工科学校には1939年11月現在で3年生56名が在学していました。しかし学籍簿の調査では更に2名が在学しており、このうち55名が卒業をしています。
財団法人立命館発行の新聞「立命館」(昭和15年4月10日号)には、第38回の大学卒業式の記事があり、3月17日に卒業式が挙行され、立命館大学全体で484名、そのうち「日満高工(電気講習所より引継ぎたる夜間部生)**君外58名」が卒業した、とあります。正確な卒業生数は確認できませんが、55名(あるいは58名)が卒業しました。
この年度の卒業証書の学校名は確認できませんが、卒業証明書・成績証明書の発行控が残されていて、1940(昭和15)年3月に卒業した生徒のうち9名の証明書控(昭和18年2月から昭和22年7月の間に発行)が「立命館日満高等工科学校」卒業としています。
更に1939(昭和14)年3月に卒業した生徒の証明書控も10名分が残されており(昭和18年3月から昭和34年3月の間に発行)、「立命館日満高等工科学校第二部電気工学科」卒業としています。
(2)1941(昭和16)年3月「第1回」の卒業生
学籍簿の調査では前述の在学生に加え、二部電気工学科に更に4名、二部機械工学科に更に9名の在学生がいました。
そのうえで1941(昭和16)年3月に卒業した生徒を学科・学年・組毎に調べると以下のようになります。
二部電気工学科 3年 20名
二部機械工学科 3年 20名
機械工学科 2年Ⅰ組 45名 (うち委託生1名)
〃 2年Ⅱ組 35名 (うち委託生25名)
(自動車工学科) 2年Ⅱ組 25名 (うち委託生20名)
(航空発動機科) 2年Ⅱ組 32名 (うち委託生24名)
電気工学科 2年Ⅰ組 21名
〃 2年Ⅱ組 42名 (うち委託生25名)
応用化学科 2年Ⅰ組 24名 (うち委託生2名)
〃 2年Ⅱ組 37名 (うち委託生13名)
建設工学科 2年Ⅰ組(土木) 14名 (うち委託生2名)
〃 2年Ⅰ組(建築) 12名
〃 2年Ⅱ組 19名 (うち委託生10名)
採鉱冶金学科 2年Ⅱ組 30名 (うち委託生15名)
合計 二部40名、一部336名(うち委託生137名)
自動車工学科と航空発動機科は学則改正により機械工学科として卒業しました。また、1938年に入学したⅠ組が116名、1939(昭和14)年に日満高等工科学校となってから入学したⅡ組220名となります。
委託生については学籍簿によれば普通生からの異動があり、定員を下回らないよう試験により普通生から「編入」が行われていました。特に1940(昭和15)年10月には10名が普通生から委託生に「編入」しています。
なお、学籍簿の調査により、原籍が朝鮮であった生徒が、1939(昭和14)年の制令により「創氏改名」をしています。
(3)卒業生の出身地と就職地
上記卒業生のうち一部各学科の336名について、その出身地と就職地を示すと以下の通りとなります。
1) 出身地 2) 就職地
北海道・東北 14名 内地 97名(28.9%)
関東 16名 樺太 4名( 1.2%)
中部 37名 朝鮮 22名( 6.5%)
近畿 167名 満洲 181名(53.9%)
中国 34名 台湾 3名( 0.9%)
四国 20名 中国 17名(5.1%)
九州 32名 不明 12名
朝鮮 9名 計 336名
台湾 5名 (注) 「中国」は「満洲」「台湾」
不明 2名 以外の表記のものとした。
計 336名
委託生は満洲国政府の補助を受けていたため卒業後の勤務について満洲国政府の命令を受けるものとされていましたが、普通生も相当数が満洲に就職し、委託生・普通生を合わせて卒業生の半数以上が満洲に就職しました。
その主な就職先は、満洲国政府・省庁をはじめ、満洲航空・満洲炭礦・満洲電業・満洲飛行機製造・満洲電信電話などの国策会社、その他同和自動車などの企業に就職しています。
1942(昭和17)年3月の第2回卒業生も満洲への就職が多数います。委託生142名、普通生62名、計204名の卒業生のうち154名が満洲に就職しました。
日満高等工科学校第2回卒業式
5.その後の立命館日満高等工科学校
(1)日満高等工科学校から専門学校工学科・理学科へ
本稿は、立命館高等工科学校、立命館日満高等工科学校の1期生についてその入学・在学・卒業の動向に視点をあてて検討してきました。
日満高等工科学校は、入学資格が中学(旧制)で、卒業後実際は各種学校卒としての取り扱いしか受けませんでした。電気工学講習所の卒業生が、満洲での待遇について母校に切々と訴えた手紙も残っています。
立命館はこうしたなかで、日満高等工科学校を専門学部に昇格させることになります。1942(昭和17)年4月には専門学部に昇格し、工学科(Ⅰ部)と理学科(Ⅱ部、Ⅰ部は翌年)が開設され、日満高等工科学校は翌18年3月をもって廃止となりました。
(2)立命館日満高等工科学校第1回卒業生の戦後
日満高等工科学校を1941(昭和16)年3月に卒業した第1期生はその後どうなったのでしょうか。
ここでは、1955(昭和30)年の『相訪会会員名簿』により、一部各学科で満洲に渡った181名について調べました。そのうち現住所の記載から帰国したと思われる生徒は145名、物故者26名、不明11名でした。いつどのようにして帰国したのか、どこでいつ亡くなったのか名簿からはわかりません。帰国した生徒はそれぞれの地で戦後を送っています。
日満高等工科学校の1期生で普通生であった藤谷景三は戦後理工学部機械工学科教授に、井上芳郎が化学科助手となっています。
あとがき
本稿はこれまでの文献・資料を参照しながら、新たに判明した相訪会『会員名簿』(昭和14年)と学籍簿などにより日満高等工科学校前後の生徒の動向について調査しました。
入学者数・在学者数・卒業者数は資料により相違があり、学籍簿の調査でもその確定は困難でした。学制が変遷するなか、生徒の学籍がどのように異動したのか、また卒業した学校名さえ正確には不明な場合がありました。
ちなみに、他の資料による日満高等工科学校の第1回卒業生数については
(1) 『立命館要覧』(昭和16年12月発行)は
日満高等工科学校 昭和16年 336名(昭和16年7月現在)
(2) 『立命館百年史 通史一』(1999年)は
1941年3月の第1回卒業生数を本文では336名とし、図表では日満高等工
科卒(2年制)221名、立命館高等工科卒(3年制)116名としています(P620)。
なお、『立命館百年史 資料編一』(2000年)の卒業者数一覧では、電気工学講習所、立命
館高等工科学校、立命館日満高等工科学校とも卒業者数の記載がありません。
その他の資料で卒業者数が大きく異なるものもあります。
立命館日満高等工科学校は、「満洲国」の技術者を養成する学校でした。
1904~05(明治37~38)年の日露戦争後日本は中国東北部の満洲に進出、1931(昭和6)年満洲事変を起こし、翌1932(昭和7)年3月に「満洲国」を建国しました。1937(昭和12)年7月には日中戦争に突入、そうした時代の中で日満高等工科学校の生徒の多くは満洲国や中国、朝鮮の各地や内地でも関連する企業などに就職していきました。
そして1945(昭和20)年8月の敗戦とともに満洲国は消滅しました。
今日戦前の時代や当時の学校の状況を知ることは困難ではありますが、こうした時代におかれた生徒がどのような学校生活を送り、各地でどのような仕事をしてきたのか、限られた資料から解明することも必要な作業と思います。今後新たな資料により戦時期の生徒の実態が更に解明されればと思います。
【追記】昨年9月の相訪会の記事中の「立命館大学理工学部発祥の地」の碑は、新図書館の開館、旧図書館の解体により、修学館前に移設されました。
2016年10月5日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次