立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2017.09.26
<懐かしの立命館>1945年「舞鶴第三火薬廠」勤労動員の記憶 ―K・Sさんからの聞き取り調査―
アジア・太平洋戦争の時代、時局の悪化に伴って学生や生徒は強制的に動員され、あるいは戦地に、あるいは工場労働や食料増産に駆り出されていきました。立命館でも同じように若者たちは学業半ばで動員されていきました。
本稿は、この時期「舞鶴第三火薬廠」に学徒勤労動員された校友K・Sさんのお話です。
※「豊川海軍工廠」に動員された校友のお話もご参照ください。
<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲
<懐かしの立命館>豊川海軍工廠空襲の犠牲者慰霊碑と昭22・立命館専経同窓会
はじめに 戦時下1945年の学徒勤労動員と立命館
立命館商業学校1945年3月卒業アルバムより(勤労動員されたのはこのような若者であった)
学徒の勤労動員は、「勤労動員ヲシテ教育ノ一環タラシメ」「学行一体ノ練成ヲ期スルコト」と教育効果をあげるという名目でしたが、実情は戦争の拡大につれて不足となった労働力を補うための国策でした。
終戦直前の1945(昭和20)年3月18日には「決戦教育措置要綱」(注1)の閣議決定によって、原則すべての授業が1945(昭和20)年4月1日より1946(昭和21)年3月31日に至る期間停止されています。
立命館も同様、全ての授業は停止されていますが、1945(昭和20)年4月の入学にむけての学生募集は実施されました。
今回聞き取り調査をしたK・Sさんは、ちょうどこの時に立命館専門学校に入学したのです。この年の立命館専門学校入学志願者は4,411名、合格者1,747名でした。
しかし「入学式のみが挙行され、開講はなくただちに勤労動員」へと立ち向かったというのが実情でした(『立命館百年史 通史一』)。
戦争最末期、立命館の学生達はどのように学生生活を送っていたのか?
K・Sさんからの聞き取りは、学園史の記述を裏付ける貴重な証言となりました。
K・Sさんとの出会い-それは、理工事務室への問い合わせから始まった-
2015(平成27)年11月、理工学部事務室にK・Sさんよりこんな問い合わせがありました。
「K・Sといいます。私は、昭和20年4月立命館専門学校工学科土木科に入学し、昭和23年3月に卒業しています。現在、舞鶴市市民団体が私の戦時中の話を聞かせてほしいとの依頼を受けています。しかし70年前のことなので記憶が定かではありません。そこで当時の資料を見れば何か思い出せるかもしれないので、勤労動員に関する資料があれば、見せてほしい。私の当時の記憶としては、舞鶴第三火薬廠に配属され、寄宿舎が機銃掃射を受けたということだけは覚えていますが、その他は思い出せない。」ということでした。
理工学部事務室から照会を受けた史資料センターではK・Sさんと連絡を取って資料をお送りするとともに、「ぜひK・Sさんの学生時代の記憶について、聞き取り調査をさせていただきたい」と申し入れると、K・Sさんは快く引き受けてくれたのです。
<インタビュー>
(1)日時・場所
日時:2015(平成27)年11月27日(金) 13時30分~16時30分
場所:K・Sさん自宅(京都府宮津市)
Interviewee:K・S Interviewer:調査研究員 齋藤 重
(2)略歴
昭和3年9月18日 生まれ 宮津市在住 87歳
宮津中学(現在・京都府立宮津高校)昭和20年3月卒業、
同年4月立命館専門学校工学科土木科に入学
昭和23年3月 同学科 卒業
昭和24年4月 法学部(新制)入学
昭和26年3月 同学部 卒業
昭和26年4月 大学院法科入学、翌年6月退学
(3)K・Sさんの聞き取り調査
K・Sさんへの聞き取り調査は延べ3時間にわたりました。今回紹介するインタビュー記録はK・Sさんの勤労動員の体験および終戦直後の学生生活に絞って整理しました。その整理は齋藤重がおこない、内容をより理解していただくために注釈等を挿入しました。インタビューの中でK・Sさんは「○ K・S」とし、聞き手齋藤は「○空白」としています。
K・Sさんは1945(昭和20)年4月、立命館専門学校工学科土木科入学
○ 本日は急な申し出にお応えいただきありがとうございます。理工学部事務室から連絡をいただきこちらで調査いたしましたところ、大学には舞鶴第三火薬廠への勤労動員(以下、勤労動員)に関する記録や公文書は一切見つかっておりません。その点でK・Sさんの証言は非常に貴重ですので記録に残したいと思っております。録音をお許しください。
○ K・S 了解しました。
○ 早速ですが、K・Sさんは舞鶴第三火薬廠への勤労動員でしたね。入学の年度、覚えておられますか。
○ K・S 1945(昭和20)年の4月ですね。宮津中学校(現在の京都府立宮津高等学校)を卒業して、即、立命館専門学校に入学しました。工学科土木科でした。
○ その土木科には何人ぐらいの学生がおられたんですか。
○ K・S 人数ははっきり覚えておりませんが、そのときの卒業写真をもっていました。池のところにみんなで座って撮った写真があったんですけど、もうなくしてしまいました。昭和20年7月頃の写真ですからもう終戦直前ですね。
宮津中学校時代の勤労動員体験
1944(昭和19)年2月戦局はいよいよ不利となり、政府は、同月25日の閣議において「決戦非常措置要綱」を決定し、国民生活の各分野にわたって当面の非常措置を定めました。この要綱によって中等学校程度以上の学徒は「今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常勤務ニ出動セシメ得ル組織体制ニ置キ必要ニ応ジ」動員することに決定されました。3月には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され動員基準が明らかにされました。この中において、1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調されました。文部省は詳細な学校別動員基準を決定し、3月末に各学校に指令します。全国の学徒は4月半ばころから、通いなれた校舎に訣(けつ)別して続々と軍需工場へ動員されていきました(『学制百年史』文部省)。
○ K・S もうそれこそ沖縄に上陸されたような時期(注2)で戦争の最終段階ですね。だけど、あまり戦争に関する詳しい記憶は無いんですわ。わたしは、宮津中学校のころから勤労動員にいっていましたし、中学校のときに東京大空襲(注3)があったんですが、その時に私は何に使うのかわからない軍用と思われる荷物を持たされ東京へ行った記憶があるんですわ。
○ それは東京大空襲の直後ですか。
○ K・S いや、その大空襲のあった当日だったと思います。もう東京が焼け野原になったような状態でした。それが中学校のときの勤労動員でした。思い出してみれば中学のときから、もう動員、動員の毎日でしたね。
○ それは大変な時でしたね。
○ K・S はい。その頃、私の兄は戦争へ行っておったんですが、兄弟2人しかいなかったもんですから、親は「2人とも徴兵される」と困る、そんな心配をしておったんかもわかりません。余り大きな声で言えませんけど、徴兵延期というのが理工系学生にはあったはずです。それで親の気持ちを考えて理工系を希望したのかも知れません。
多分、わたしが入学した立命館専門学校の理工系は徴兵延期扱いだったと思いますよ。
○ K・Sさんも徴兵延期の対象だったんでしょうね。
在学徴集延期臨時特例(勅令)に関する件
1943(昭和18年)9月、「現状勢下に於ける国政運営要綱」(閣議決定)により、学生・生徒の卒業までの徴兵猶予を停止することとされ、同年10月2日、在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布されました。大学・高等専門学校の満20歳に達した学生・生徒は徴集されることとなり、10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省主催の学徒出陣壮行会が行われました。なお、陸軍省により入営延期を行う理工医系・教員養成系学校学部等が指定されています(国会公文書館 資料「在学徴集延期臨時特例(勅令)に関する件」)。
このように「在学徴集延期臨時特例」が公布され,理工科系および教員養成学校を除いて徴兵延期措置は撤廃されました。K・Sさんは土木科入学ですので徴兵延期措置の対象者でした。
舞鶴第三火薬廠への勤労動員と空襲経験
京都府舞鶴市には舞鶴旧海軍工廠(以下、舞鶴海軍工廠)と舞鶴旧海軍第三火薬廠(以下、舞鶴第三火薬廠)とがあり、舞鶴海軍工廠は1889(明治22)年全国4番目の鎮守府、軍港として整備されました。一般的に、海軍工廠は、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場のことですが、ほかに海軍が直営する航空機の製造・修理整備する「空廠」、火薬製造・充填を担当する「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する「療品廠」がありました。兵器を兵器たらしめるには目標物を破壊する爆薬がなければならず、兵器を構成する比重の4分の1を火薬がもつといわれています。それだけに火薬廠の役割は大きく高いレベルの軍事機密とされていました。海軍火薬廠は全国三箇所(平塚、舞鶴、柴田<宮城>)にあり、舞鶴はその第三番目の火薬廠に位置していました。太平洋戦争中、舞鶴第三火薬廠では5,000名の従業員が生産に従事しており、そのうち約1,330人以上が勤労動員(1944(昭和19年)年調査で、1945年7月30日までの数はふくまれていない)されていました(『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』関本長三郎編著)。舞鶴第三火薬廠は現在東舞鶴大浦半島の付け根の海岸付近から朝来(あせく)地域、舞鶴高専地域に広がる。
○ K・S 1945(昭和20)年4月に入学しますが、入学式が終わるとすぐに舞鶴第三火薬廠に動員されたんですね。わたしは土木科ですから爆弾や弾丸の製造には関わらず、もう地底に張りめぐらされていたトンネル、このトンネルは火薬を貯蔵するところか何かわかりませんけど、そういうトンネルばっかり掘っておったんです。土木科だからということで、そういう作業をさせたんかもわかりませんけどね。
○ 最初に聞いたときは、火薬廠だったら化学の学生とかと思っておりましたが、そしたら土木科の学生でしかもトンネルを掘っていたと聞き驚きました。
○ K・S ええ、地底のトンネルをずっと掘っておったのですが、勤労動員の間、私の記憶は、本当に怖かった記憶しかないです。空襲を受けた時など、とにかく窓から米軍の飛行機が見え、屋根の瓦のすれすれのところまで来て「ダダダダーッ」とやられるんですよ。
いわゆる機銃掃射ってやつですね。その恐怖しか覚えていないですね。舞鶴湾でも、空襲を受けて軍艦とか沈んでいくところを見ました。それは恐ろしかったですわ。
○ 舞鶴の空襲は1945(昭和20)年7月29日と30日ですね。
○ K・S はい、29日の空襲でした。29日は多分休日(日曜日)で寄宿舎にいたと思います。
舞鶴海軍工廠、舞鶴第三火薬廠への空襲は、1945年7月29(日)晴天、7月30日(月)晴天にわたって行われています。29日は、米軍艦上爆撃機1機が来襲し、舞鶴海軍工廠に機銃掃射、爆弾投下、舞鶴第三火薬廠に機銃掃射、30日には舞鶴第3火薬廠のある朝来(アセク)地域を頻繁に(12回に及ぶ)アメリカの航空機P-51 マスタング( P-51 Mustang)に奇襲されています。さらに8月7日には米軍B29六機によって舞鶴湾に機雷が投下されました(『舞鶴市史』)。
K・Sさんが受けた空襲の経験は7月29日の経験でした。同じ経験した人は、K・Sさん同様、空襲は青葉山(舞鶴市)の方からやってきてP-51の操縦士の顔も見え、「バリバリ」と機銃掃射されるため凄く恐ろしかったと述べています(『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』)。
旧舞鶴第三火薬廠があった場所付近から青葉山を望む。青葉山方向から飛来した戦闘機の機銃掃射を受けた。
○ 大変な経験をされましたね。
○ K・S ええ、もうそれはもう「怖い」という強烈な印象しか残っていないんですわ。とにかく機銃掃射の恐ろしかったこと。だから、食事がどんなだったとか、宿舎の様子とか、トンネル掘りしている時のつるはしとか、そんな断片的なことしか記憶がないんですね。
履歴書に立命館専門学校工学科土木科4月に入学と書いても、本当に学校に行っておったんだろうかと思ったりします。実際に4月に入学しましたが授業は無いので、入学式が終わると、すぐに勤労動員にいって終戦までおったんですしね。
○ 誰かつき添いの先生とかはおられなかったんですか。
○ K・S そういう記憶はありません。
とにかく勤労動員の間は、ただ々恐ろしかったという記憶だけが強かったですね。米軍は、わたしが寄宿舎の屋根から見ているのを発見し、こちらに向けて機銃掃射したんやないか思いました。本当に怖かった。
○ 舞鶴第三火薬廠の場所は朝来地域(舞鶴市朝来)ですよね。
○ K・S ええ。
○ 今の舞鶴工業高等専門学校がある辺りとか。
○ K・S はい、日本板硝子(現在、日本板硝子株式会社舞鶴事業所)とか、そういう工場は今でもありますけどね。
舞鶴海軍第三火薬廠朝来工場施設図(関本長三郎編『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』出版センターまひつる 2005)
○ 舞鶴海軍工廠は日立造船(現在、Hitz日立造船株式会社舞鶴工場)のあった場所ですよね。
○ K・S そうです。東舞鶴の海軍工廠のあたりにいとこが住んでおりまして、そこへ行ったりしておった記憶があるのですけれど、空襲の恐怖心がそういう楽しい記憶をもみ消しにしてしまうのか、何にも覚えてないんですよね。
軍事機密の多い舞鶴では空襲の記録・資料が極端に少ない
○ ところで舞鶴第三火薬廠の空襲に記録が極端にないのはなぜでしょうかね。
○ K・S それは、要するに舞鶴は鎮守府でしょ。それだけに軍の機密がいっぱいあるところです。だから、いっさいこの戦争の空襲のことは公開するなとか、記録するなとか言われていました。
○ なるほど。やっぱり大学に勤労動員の記録が残っていないこともうなずけます。
○ K・S あそこ(舞鶴第三火薬廠)は、特攻隊の弾丸、それから魚雷の火薬ですね。特に魚雷は得意だったんですよ。だから火薬類でも沢山貯蔵しておったんと違いますか。だから、海軍にとっても、日本軍にとっても、軍事機密の強い場所だったんですよね。
○ なるほど。学園には理工系学生の動員名簿があるんですけれども、その名簿には、学生をどこに、何人派遣したか、とか書いてあるのですが、その名簿にも舞鶴第三火薬廠は現在の調査では出てきていません。
勤労動員に一緒に行った学友たち
○ 話は変りますが、勤労動員に、一緒に行かれた学友の方とかは覚えておられますか。
○ K・S 京都で学友の者が7名ほどで撮った写真があったのですが、それもありません。残念だなと思っています。
○ そうですか。もしありましたら、ぜひ史資料センターに寄贈していただいければありがたいですね。今のお話だと、学友7人で行ったとのことですが、学友は本学の学生なのですか。
○ K・S 土木科が一緒に行ったんだと思いますよ。第三火薬廠には従業員が5,000人ほどおり、1,000人以上が勤労動員の学生、生徒だったと聞いています。それだけたくさん作業をさせておったんですね。
○ その中には文系の学生たちもおられたんですか。
○ K・S 文系はおそらくいなかったのと違いますかね。でも立命館商業学校(注4)から行ったようですね。
わたしの学生時代
○ K・S 私は、京大の近くに下宿しておったんですけれども、そのときに採鉱冶金科(立命館専門学校工学科採鉱冶金科)というのがあったんですね。その採鉱冶金科の方が同じ下宿だったんです。
○ 採鉱冶金科の学生も勤労動員されていますね。ここもかなりいろんなところに行っているんですね。例えば、三井鉱山神岡鉱業所、石原産業紀州鉱山、遠くは日本鋼管諏訪鉱業所など鉱山関係ですね。
○ K・S それで、その方はちょっと年配だったもんですから学徒出陣して行ったんです。
○ そうですか。ところで学生時代に教えていただいた先生で、覚えておられる先生とかおられますか。
○ K・S テラカド先生(土木科 寺門四志穂教授)とかいうのがおられたかな。とにかく立命館専門学校の先生は、京都帝国大学からこられた方が多かった。だから有名な先生が結構おったんです。それこそ総長さんを初めとしてね。
○ 末川博先生のことですか。
○ K・S そう末川博先生を初め、有名な先生方がぎょうさんおられましたな。だから、お話を聞く範囲では、十分勉強しごたえのある方ばっかりでしたけれども。わたしは余り勉強はしなかったんやけど。
○ いやいや、なかなか勉強に専念するだけの余裕がなかったと思うんですけどね。終戦前後の方って、みなさんそうですよね。戦後引き揚げてこられた方も一、二年してから復学された。勤労動員の場合も終戦後すぐに学校に引き上げてくるわけですが、学校に戻ってきてからですけど、皆さんやっぱりしばらくは何していいかわからないで、一、二年間ぼぉーっとしていたといいますね。
○ 学徒出陣していた学生は、復学して大学を出られたとか、あるいは休学のまま退学して別の仕事をされたり、在日朝鮮人学生の場合はそのまま本国に帰ったりと、終戦後、様々なようですね。だから、戦後直後の学生だった人たちが、戦時下の学生生活をどんな風にすごしたか、何を考えていたか、などその人の生き方を記録し、残すことが非常に大切になると思うんです。
○ K・S そうですな。
○ 動員などでほとんど学生がいなかった立命館も、8月のお盆明けぐらいに9月から授業を再開しますよと新聞に告知しているんです。
○ K・S ほう、そうですか。
『大阪朝日新聞』昭和20年9月6日付
(敗戦直後の授業再開新聞広告)
写真(写真「新聞広告」)のように、立命館大学と立命館専門学校の学生に対して9月11日(1部(昼間部)は9時から、2部(夜間部)は18時から授業を再開することが告知されました。K・Sさんも勤労動員先の舞鶴から学園に戻りました。学園も9月14日の理事会で大学・専門学校の学則を改正し、国家主義的な科目、国体学、国防国家論、東亜共栄論などを廃止し、常識的な学問体系に沿った科目配置がなされました(『立命館百年史 通史一』)。再開された授業は、民主主義教育を基本として行われました(1945年9月14日理事会)。
○ それで大学に戻って来た方、当然戻ってこられなかった方もいます。それから二、三年後になって戻ってきた方もおられるんですね。大学も大変だったようです。
○ K・S そうですね。もし大学に戻っていなかったら私は何しておったんだろう、と思います。
戦後、米軍相手のバンド(アルバイト)から始まった。
○ それでは、戦争からお話がちょっとずれるかもしれませんけど、戦争が終わった後のK・Sさんの学生生活というか、勉強のこと、楽しかったことなど、お話くださいますか。
○ K・S 楽しかったことは思い出せませんが、とにかくもう生活が第一でしたね。まず第一に、生活せなならんので勉強もしたかったですけどまずは生活でした。仕事は米軍の仕事をしておったんですわ。京都宝塚劇場というのがありますね。三条河原町近くにあったと思います。そこを米軍が接収して米軍専用劇場にしましたが、そこでバンドのアルバイトをやっておったんですわ。
○ そうですか。
京都宝塚劇場(現ミーナ京都)が太平洋戦争の終戦後、アメリカ軍専用の映画館になっていました。京都に実際にアメリカ軍が進駐してきた1945(昭和20)年9月25日でした。アメリカ軍に接収され「ニュー・キョウト・ステートサイド・シアター」という名の占領軍専用劇場になりました。コメディー映画で有名なダニー・ケイをはじめ、多くのタレントのほか一流バンドがやって来て大変なにぎわいだったといいます(「京都の映画80年の歩み」京都新聞社)。そのシアターでK・Sさんはバンドのアルバイトを始めました。
○ K・S そこはステイトサイド・シアターいうて、それは米軍専用という意味ですわね。そこで何をやったかというたら、楽器はギターです。米軍専用ですので出入りは厳重にチェックされました。それで結構生活はできましたけど、勉強のほうがさっぱりできへん。
○ 落ち着いて勉強するどころではないということですか。
○ K・S 終戦後兄貴が帰ってきたんですが、帰ってくるまでに二、三年、間があったんですねん。その間、わたしは就職したらええものか、学校へ行けるもんか迷っていました。兄がすぐに帰ってくれば兄貴が家計を継ぎますから、わたしの方はなんでもするつもりでいました。ところが、兄貴の帰りが二、三年遅れたものですから、自分の気持ちもどっちつかずになっちゃいました。
○ K・S 結局、米軍の仕事でバンドマンを続け、米軍のキャンプ回りをしておったんです。大津(注5)だとか、それから大学、京都川端の日独文化研究所(現在 ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川)とか、秘密に米軍将校が集まる場所などでした。それから大津にキャンプがあったんですが、そこで御飯を食べさせてもらったりしました。とにかく米軍の仕事をやらせてもらって生活していました。そうこうして学校も卒業したんです。
K・Sさんは、卒業後、叔父がやっていた土建業の会社に入社しますが、再び、立命館大学法学部(注6)、大学院法学研究科にすすみます。卒業後、苦労して舞鶴職業安定所(現・ハローワーク)に勤め、昭和60年に定年で退職します。退職後も経験を生かしシルバー人材センターを立ち上げ、事務局長を勤めて、シルバー人材センターも退職して、現在も御健康です。
<最後に後輩に送るメッセージ>
戦争はしないことが一番肝心ですわ。
○ 本日、インタビューさせていただいて本当によかったと思っています。ありがとうございました。最後に、私も含めて、後輩にですけど、今の人たちに何か伝えるメッセージがありましたらおっしゃってください。
○ K・S この年代になりますと、やっぱり戦争というものをもう一度見直してもらえる、そういう材料になれば良いと思っています。そのためには、やっぱり戦時中どういうことがあったかということを皆さんに残しておくということも大事だと思います。戦争はしないことが一番肝心ですわ。
○ おっしゃるとおりですね。私も学園の歴史を扱って10年近くになるんですけど、舞鶴第三火薬廠での勤労動員のお話や戦後直後の学生生活をこんなにリアルに話を聞いたことは初めてでした。本当によかったと思っています。本当にありがとうございました。
2017年9月26日
立命館 史資料センター調査研究員 齋藤重
(注1) 「決戦教育措置要綱」は次のような内容でした。
決戦教育措置要綱 昭和20年3月18日 閣議決定
第一 方針
現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス
第二 措置
一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス
二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス
国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス
三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム
四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス
五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム
六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ
七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス
備考
一 文部省所管以外ノ学校、養成所等モ亦本要綱ニ準ジ之ヲ措置スルモノトス
二 第二項ハ第一項ノ動員下令アリタルモノヨリ逐次之ヲ適用ス
三 学校ニ於テ授業ヲ停止スルモノニ在リテハ授業料ハ之ヲ徴収セズ
学徒隊費其ノ他学校経営維持ニ要スル経費ニ付テハ別途措置スルモノトシ必要ニ応ジ国庫負担ニ依リ支弁セシムルモノトス
(『資料日本現代教育史4』宮原誠一ほか編 三省堂)
(注2) 1945(昭和20)年3月26日―6月23日の間の沖縄本島および周辺島々・海域での戦闘を指す。日本側死者・行方不明者約19万人 内民間人は9万人を超えるとされるが未だ正確な数はわかっていない。
(注3) 1945年(昭和20)年3月9日夜半から10日にかけて東京下町を中心とする空襲を東京大空襲とよぶ。
死者・行方不明者10万人を超えるとされるが正確な数は不明。東京は1944(昭和19年)11月14日以降106回もの空襲を受けた。
(注4) 立命館商業学校の生徒が舞鶴第三火薬廠に勤労動員されています。3年生184名、4年生181名、5年生151名、総人数516名もの生徒が勤労動員されました。5年生は1944(昭和19)年6月から、4、3年生は7月から動員されました(『立命館百年史 通史一』)。しかし、「勤労動員された生徒達は、働く場がなく炎天下の草むしりが続いて、生徒たちの怒りが爆発しても当然だった。暮近くになっても帰さないため父母からの不安の声が殺到した。国鉄(現 JR)と交渉して汽車を手配し、生徒は無事に帰った。」(『私の履歴書』白川静)このように立命館中学校・商業学校生徒の動員先、その様子は残されていますが、立命館大学、立命館専門学校の動員の記録は現在ほとんど発見されていません。
(注5) 大津市にも進駐軍キャンプがあった。進駐はまずホテルの接収から始まった。9月30日、琵琶湖ホテルが将校専用宿舎として接収されています。米軍の大津市への本格的な進駐は、10月4日・5日でした。(『図説大津の歴史』大津市歴史博物館市史編さん室編)
(注6) 文部省は1947(昭和22)年12月に大学設置委員会を発足させ、新制大学設置の審査を始めることとなりました。四年制大学の設置申請の大部分は1949(昭和24)年発足をめざしました。しかし12大学(立命館大学、同志社大学、関西大学、関西学院大学、神戸商科大学、日本女子大、東京女子大、津田塾大学、聖心女子大学、神戸女学院、国学院大学、上智大学)は1948(昭和23)年度発足が認可されています。(『立命館百年史 通史二』p167)そのため新制立命館大学は1948(昭和23)年から始まりました。K・Sさんは、旧制専門学校(工学科土木科)卒業後、新制大学(立命館大学法学部)に入学され、旧制専門学校と新制大学の学生生活を経験された貴重な経験をもっています。2017.09.19
<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第1部 広小路から新天地北大路へ
第1部 広小路から新天地北大路へ
はじめに
立命館中学校・高等学校が京都法政大学の付属校として設立されたのは1905(明治38)年9月10日、今年(2017年)で創立112周年を迎えます。その歴史の中で66年間と最も長く生徒たちの成長を見続けてきたのが北大路学舎(1922年8月~1988年7月)でした。そこに学んだ最後の学年(当時、中学1年生)も今では40歳を超える年齢になりました。
この北大路学舎でシンボルとなっていたのが南校舎でした。1964(昭和39)年9月、東京オリンピック開催の前月に竣工して、その後、1988(昭和63)年の深草移転までの24年間にわたり「新館」と呼ばれていました。
写真1 北大路校舎 全景 1964年(南館竣工記念)
北大路学舎で生徒たちの生活の中心であったのは北と東の校舎棟(普通教室)でした。この校舎が、それまでの木造2階建から鉄筋コンクリート3階建に建て替えられたのは今から80年前の1937(昭和12)年6月で、戦争のなかで誕生し、昭和時代が終わるまで校舎としての役目を果たし、生徒たちの成長を見守ってくれたのでした。
1.北大路学舎への移転
1905(明治38)年に中学校が設立されてから17年目の1922(大正11)年、立命館中学は新天地への大移転を行いました。それまで広小路にあって大学(夜間)と校舎を共用していたのが、大学が大学令により正式に大学へ昇格するに伴い、昼間も学生の授業で校舎を使用しなければならなくなったことと、中学校の生徒数増で校舎が狭隘になったことが移転理由でした。
写真2 北大路新校舎の校庭と生徒(その向こうに聳えるのが比叡山)
新校舎の所在地は上京区小山上総町(現在は北区)で、移転の20年ほど前には愛宕郡上賀茂村字小山と呼ばれていた広大な田圃地帯でした。東南に真宗大谷大学(現大谷大学)、西南に師範学校(注1)がありました。校舎が建てられてから運動場の狭いことに気付き、同窓会である清和会が慌てて田二反(約20㌃、50m×40mの広さ)を購入して寄付することにしたのでした(注2)。運動場の東側には周辺の田に水をひくための小川が流れ水車を回していました。周辺には建物がなく、春には黄色い菜の花が木造校舎をつつみ、空気は澄んで常に涼しい風が教室から青田へと吹きぬける好適地でした。校舎2階の廊下に立てば、比叡山や植物園、鴨川は校庭の一部のように眺められ、教育環境としては理想的な地でした。
ただ残念なことに、路面電車である市電の烏丸線は1923(大正12)年10月に京都駅から上総町(後の烏丸車庫前)まで全線開通しましたが、北大路通りは開通していなかったため、生徒たちは長い距離を徒歩で通っていました(注3)。
2.北大路学舎での発展
1905(明治38)年に、立命館中学は、小西重直学監らによる自由教育の実践と充実が成果となって現れるようになり、勉学面のみならず、運動面でも飛躍的な活躍を果たすこととなりました。
野球部や相撲部は全国大会で活躍し、庭球部や陸上部なども目を見張るものがありました。と同時に、大正期から昭和期にかけて、北大路学舎とその周辺も大きく変貌をとげていくことになりました。
北大路学舎ができた頃、烏丸今出川から以北は徒歩以外に通学の手段がなく、洛北小山の里には狐や狸が棲むといわれていました。それが1931(昭和6)年、幅員十三間(約24m)の当時としては大道路である北大路通りが正門前の東西に開通し、12月には電車まで走ることになりました。これによって北大路通りは市街地を走る道路として期待されるようになり、学校周辺も急速に開発が進み住宅街が出来上がっていきました。そのために諸設備や上下水道の増設のみならず、学校としては周囲を仕切るための障壁や校舎の修理、生徒の増加に伴う教室の増築など多くの課題が山積することになりました。
写真3 昭和8年正門からの校庭と校舎(正門前に立つのは市電のための電柱)
3.校舎建て替えの必要性
「遠からずして学校はその外観設備を一新して、北大路通りの一角に堂々たる壮容を誇示するに到ると思ふ」、1931(昭和6)年に塩崎達人校長が予言した(注4)とおり、田畑の真ん中に木造校舎が建設されてから15年ほどで、立命館中学は建替えられることとなりました。その改築には二つの大きな理由がありました。
(1) 入学者数減少対策
立命館では当時の社会情勢に応える目的で1929(昭和4)年に商業学校を設立しました。しかし、この年10月に皮肉にも世界恐慌が起こり、その猛威 は日本にも厳しく押し寄せ、立命館の中学校と新設間もない商業学校両校にも影響は深刻に現れました。それは、共に150名の募集に対して志願者と入学者が次のような数字であったことからもわかります。
募集定員に対して入学者が半数以下という状況によって、教職員の生活まで圧迫されることになりました。これは他私学も同様で、入学者をいかに確保するかは当時の私学にとって最重要課題となったのでした。
この対応策として立命館ではいくつかの改修や改善が行われました。授業の開始終了を伝える時鐘はそれまで教会式の点鐘だったのを電鈴式ベルに改められ、自転車置場が拡張整理されました。また、この年から体育正課として剣道が採用されたことで、剣道専用道場になりました。道場内部には、西園寺公筆の扁額が掲げられ、その下中央には禁衛隊旗(立命館禁衛隊は1927年7月に結成)と左右に校旗が立てられました。また、従来の銃器庫が木骨煉瓦とされました(注6)。
当時の日本の学校教育は、特色ある教育で他校に差をつけられるほどに進んでいなかったので、校舎の建て替えなどの外観で目を引くことが、最も簡単な方法であったのでしょう。
こうして、1933年(昭和8)年12月から中学・商業両校の講堂が新築工事に入ります。この工事経費は7千円以上にのぼり、当時の学校財政としては大変苦しいものであったため、大学二階建旧講堂百坪の木材を利用してこれに拡張が加えられて、1月中に竣工し、2月11日の紀元節の日に落成式が挙行されています。この講堂では両校生徒全員が一同に会し、清和会総会も将来的に開かれるという予定でした。
写真4 旧校舎 校庭での剣道(昭和初期)
(2) 強固な校舎対策
もう一つの理由となったのが、1934(昭和9)年9月21日に京都市内を直撃した室戸台風でした。「昭和の三大台風」と言われるこの台風は、午前8時半ころに京都市内での最大瞬間風速42.1m/秒の猛威をふるい、京都市内の小学校では児童112名教員3名の死者をだし、倒壊13校、大破38校という京都の災害史上最悪の被害を残したのでした。(注7)
この被害をうけて、京都市内の公立小中学校では鉄筋コンクリートへの改築の必要性が急速に広がっていき、京都市もそのための予算化を急いだのでした。また、校舎周辺の開発が目覚しく近接地に木造家屋の密集的建設が進み火災の不安も高まってきました。
立命館の学園関係者もこのことを痛感していて、翌年が学園創立35周年でもあったことから、この記念行事の一つとして北大路校舎の建替え計画が具体的に進行していくことになりました。
(3) 将来を見通した対策
これら(1)、(2)に加えてさらに重要な位置づけをされていくのが、戦時態勢への学校としての役割でした。1925(大正14)年に陸軍現役将校学校配属令が公布されるや、立命館ではすぐに申請書を提出しています(注8)。1931(昭和6)年9月に満州事変が勃発しましたが、その翌年のカリキュラムでは、1年生から5年生までで週5時間(30時間~35時間の授業時数)の体操・教練(軍事教練)が新設されました。
軍事教練を率先して取り入れていた立命館では、その鍛えられた姿を広く市民へ誇示する場を設けていきます。1935(昭和10)年10月11,12日には、授業の中で当時の府下の学校に配属されていた将校、学校の教練担当教員など100名以上が招待されて、軍事教練の成果を防空演習として実施されました。敵機空襲を想定して実物に近い高射砲、高射機関銃、聴音機などを駆使しての訓練で、京都府下では最大規模の演習として高く評価されました。立命館中学校・商業学校は全国でも有数の軍事教練の学校に発展していくことになり,皇室中心主義の教育を進める学校として新聞にも紹介されたのでした(注9)。
こうした実践を進めることと新校舎の建設とは、その後の生徒募集にとって大きな広報活動の役割を果たすこととなっていきました。
写真5 校庭で御所に向かっての遥拝(昭和初期)
写真6 全校生徒による旧校舎校庭での行進練習(昭和初期)
2017年9月19日
立命館史資料センター 調査研究員 西田 俊博
注1:現在は京都教育大学附属京都小中学校と京都府立清明高等学校(以前は紫野グラウンドとして立命館中高と京都府立鴨沂高等学校とで府から借用していた)
注2:第2代立命館清和会会長木村嘉一氏「立命館とともに」(立命館中学校高等学校『八十年の歩み』p.2 1985年)
「校舎が建てられたが、運動場が狭いのに気付き、清和会が田、二反を購入して寄付することにしました。坪五円で金額三千円であったが、二千円は直ちに集まったものの、残り千円は五ヵ年計画で集めることにしました。そうすると清和会は寄付を集める会となって、皆が集まらぬ様になる恐れがあるということで、其の千円を免除してもらう様、中川先生にお願いにいきました。先生は、学校で代金は支払ってあるから心配はいらぬ、それでよいとおっしゃいました。」
注3:『日出新聞』 大正11年4月23日付(日出新聞は京都新聞の前身)
「同館中学部が洛北に地を相して移転準備に取掛つて居る事は既報の如くであるが、都市計画の着手順序が変更されて烏丸線が第一期に廻されたお陰で急に至便の地になり、本年の二学期から三年以下を新校舎へ移転するに就いても電車開通が眼の前に見えて居るから甚だ好都合と関係者は喜んで居る」
『日出新聞』 大正11年9月7日付
「只恨むらくは交通の便に乏しいが『郊外の空気を呑吐しながら田畑の間を歩くは身体の為に良い』と体操教師などは反って喜んで居る位」
注4:塩崎達人「北大路線の開通に伴うて」(『立命館禁衛隊』第22号 昭和6年11月発行)
注5:『立命館百年史 通史一』 p.558「学事年報」「京都府公文書」
注6:『立命館禁衛隊』 第39号(昭和8年12月) p12
注7:『日出新聞』 昭和9年9月21日付
注8:官立、公立には将校が配属されることになっていたが、私学は学校判断によるものとされていて、申請をすることになっていた。財団法人立命館では代表理事末弘威磨の名で文部大臣と陸軍大臣宛に公布された1925年3月30日に申請がされていた。
注 9:『京都日日新聞』 昭和11年12月2日付(京都日日新聞は京都新聞の前身)
第2部は、こちらの記事をご覧下さい。
2017.09.19
<懐かしの立命館>立命館ゆかりの地を散策しました。
2017年9月9日(土)、今年度第3回目「立命館と歩く京都」を実施し8名の職員が参加しました。
今回は上京区の、西園寺公望が開いた私塾立命館、立命館大学の前身京都法政学校のあった清輝楼、80年間続いた広小路学舎、創立者中川小十郎の私邸(白雲荘)を巡りました。
<私塾立命館創設の地―西園寺邸跡> (京都御所 白雲神社周辺)
10時、西園寺邸跡探索に先立ち、近くの御所蛤御門に集合しました。
蛤御門は禁門の変(蛤御門の変)や、総督として山陰道鎮撫に向かった西園寺公望ゆかりの門でした。現在は烏丸通りに面していますが、幕末維新の時代は北側に向いていました。
京都御所内の西園寺邸のあった場所には「西園寺邸跡」の標柱が立っています。
西園寺家はこの場所にあり、1869(明治2)年9月、私塾立命館が邸内に創設されました。西園寺公望20歳のことです。
塾には江馬天江をはじめ賓師(先生)10人ほどと、100人あまりの塾生が集いました。
塾は翌年4月に閉鎖命令を受け、閉校のやむなきに至りました。そのときの西園寺公望から賓師に宛てた書簡が立命館に残されています。
西園寺邸跡の場所に白雲神社があります。白雲神社は西園寺邸の鎮守社でした。社殿には西園寺公望が揮毫した「白雲神社」の扁額が架かっています。
<京都法政学校創設の地―清輝楼跡> (上京区中之町 東三本木通り)
河原町丸太町から東側の東三本木通りを少し北に上がると、「立命館草創の地」の碑があります。鴨川の西側にあたります。
立命館大学の前身京都法政学校が、1900(明治33)年、この地に誕生しました。当時清輝楼という名の元料亭の2階と3階を使って、夕方5時から9時まで授業が行われました。
先生のほとんどが京都帝国大学から来て、第1回の生徒は入学者305人、卒業者57人でした。先生の中には織田萬、井上密など、生徒には西村七兵衛、貫名彌太郎などがいました。入学金1円、授業料月額1円80銭(8月は無し)でした。
もともと仮校舎としていましたが、1901年12月に広小路に移転することになります。
(清輝楼) (「立命館草創の地」記念碑)
<広小路学舎> (上京区中御霊町)
河原町広小路の広小路学舎の跡に「立命館学園発祥之地」の碑があります。現在跡地は京都府立医科大学図書館となっています。
最初は校地412坪、校舎1棟3教室の小さな学舎でしたが、徐々に拡張し、周辺の校地・校舎を含めると、最大時は校地21,495㎡(6,513坪余)、校舎延床面積36,589㎡(11,087坪余)ほどになりました。
学校は京都法政学校から始まり、京都法政専門学校、京都法政大学、立命館大学となり、また旧制中学が清和普通学校、清和中学校、立命館中学と大正期まであり、1981年3月の衣笠一拠点まで、80年間に学生・生徒10万人ほどが学びました。
広小路の周辺には河原町通りを挟んだ校舎、梨木神社の北側の校舎、河原町今出川近くに体育館もありました。
(1967年正門、存心館:1967卒業アルバムより抜粋)
(「立命館学園発祥之地」記念碑)
<創立者中川小十郎私邸―白雲荘> (上京区塔之段寺町通今出川上ル)
広小路学舎から寺町通りを上がり今出川を越えしばらく歩くと白雲荘があります。
建物は現在使用されていませんが、庭園を含め380坪ほどの御屋敷が残されています。
中川邸(塔ノ段邸)は1905(明治38)年に取得し、中川総長は1944(昭和19)年10月にこの御屋敷で亡くなりました。
その後1954年に学校の所有となり、1960年5月に福利厚生施設「白雲荘」として利用を開始、2007年3月まで使われました。
(桜の季節の白雲荘)
まだまだ日中は暑さの残る日でしたが、秋晴れの中、2時間ほどのゆかりの地散策により立命館の歴史を学びました。
白雲荘は現在、非公開ですが、他の場所はいつでもお訪ねいただけます。機会がありましたら、ゆかりの地で立命館の歴史について思いを馳せていただいてはいかがでしょうか。
2017年9月19日
立命館史資料センター 調査研究員 久保田 謙次
