立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2017.02.15
「今日は何の日」2月 末川名誉総長40回忌
講演中の末川博立命館名誉総長(1975年)
2017年2月16日は、名誉総長末川博が亡くなって40年目の命日になります。
末川先生には多くの著書があり寄稿もされていて、これを読む機会はいくらでもありますが、夫人について述べられたことがありません。そこで、ご夫婦の姿をご紹介して末川先生を偲ぶことにします。
1962(昭和37)年12月15日、立命館では学園を挙げて、総長の古稀(70歳)祝賀会を開きました。この時、夫人も列席されていて、その場で末川総長ははじめて大勢の前で夫人について次のように語られたのでした。
「実は、これまで家内のことを他人に話したことはないのだが、今日だけは、大きな声で家内について一言することを許していただきたい。(中略)書斎や研究室や教室などで自分が好きなようにわがまま勝手な生活をして今日を迎えることができたのは、四十年余りの長いあいだ、家内がよく家のなかをみてくれたおかげである。私は、この美しい京都で私の道を思う通りに歩んでくることができたのをいつも感謝していると同時に、それは、家内が私のやることを理解して家庭のことなどで私を煩わさぬように心がけてきてくれたおかげだと私は感謝している。」
古稀祝賀会でのご夫婦
八重夫人は、61歳の誕生日をまじかに控えた1964(昭和39)年2月5日に亡くなりました。悲しみも癒えないそのわずか1ヵ月後、夫人を癌で亡くされた思いを地元の新聞に随感として二度に亘って寄稿されています。そして、夫人が逝って半年後には、「時と人を追うて」という著書を近しい方々だけに贈られましたが、その最後は「亡き家内のことども」という夫人へ捧げられた次のような一文でまとめられていました。
16歳で同じ山口県出身の末川博という男性と結婚して44年。ひかえ目で、ただ家庭のことや子どもたちのことを中心にして過ごしてきて、夫の自分がまったくわがまま勝手に振る舞って、好きなことをして生活してこられたのは、すべて家内のおかげでした。そして最後は「病魔の苦しみによく耐えて、泣きごと一ついわずにしんぼう強くたたかった姿を追想しますと、まったく断腸の思いを禁じえません」と結ばれていました。
1949(昭和24)年、教職員・学生生徒(高校生も3人)を選挙人として参加した全国初の総長公選制で、末川先生が選出されてから5期20年。戦後の学園改革に力を注ぎ、学園の教学理念である「平和と民主主義」を築き上げてきた末川総長は、退任で名誉総長の称号をうけられたのでした。
夫人が亡くなって13年後の同じ2月。16日に末川博立命館名誉総長は84歳で永眠されました。祝賀会で「土地にほれて仕事にほれて、そのうえに女房にほれる者は仕合せ」と語っておられたとおり、今はご夫婦仲良く墓地に静かに眠っておられます。
ご夫婦の墓石(大谷本廟)
2017.01.11
<懐かしの立命館>立命館初代理事長 池田繁太郎
はじめに
1935(昭和10)年、池田繁太郎は立命館最初の理事長に就任した。
1900(明治33)年に私立京都法政学校創立、1913(大正2)年に財団法人立命館を設立し、学校の名称も私立立命館大学、私立立命館中学となって以来(以下、「私立」を略す)、初めての理事長であった。
中川小十郎総長が寄附行為を改正し後継者として理事長に選任した池田繁太郎。
その池田理事長は、創立35周年の諸事業を行うなか、その記念祝賀式を目前にして、就任後わずか3ヵ月で病により帰らぬ人となった。
その池田繁太郎はどんな人物であったのか。どのような足跡を残したのだろうか。
池田繁太郎
1.生い立ちから立命館卒業、弁護士に
(1)生い立ち
池田繁太郎は、1885(明治18)年11月18日(注1)、島根県の山村、簸川郡乙立村(現・出雲市乙立町)の今岡臺八の四男として生まれた。1895(明治28)年3月に乙立尋常小学校を卒業し、叔母の婚家である出西村(現・出雲市斐川町)の池田幸太郎の養子となり、池田の姓を継いだ。続いて直江高等小学校、郡立簸川中学校に進んだが、県立に移管され改称した第三中学校(現在の大社高等学校)の4年級を1901(明治34)年6月に修了し、数え年17歳にして青雲の志を抱いて上洛した。
(2)京都法政学校入学、京都法政大学卒業、弁護士試験合格
上洛した池田は1902(明治35)年9月9日に京都法政学校法律科に入学した。
京都法政学校は翌年京都法政専門学校と改称、更に1904(明治37)年9月、京都法政大学となった。同期には繁田保吉、畝川鎮夫らがいた。池田は大変に優秀な成績であったようで、憲法学の大家であった京都帝国大学教授井上密は、池田が1年の時憲法の試験の答案を京都帝大の学生に示し激賞したという。同じく京都帝大から講師として来ていた勝本勘三郎もまた、京都帝大に池田ほどの学生がいたらと褒め称えたという。
3年次には京都法政大学の学術情報誌『法政時論』に論説「物権の優先権とは何ぞや」を掲載し、また雄弁会の第2回演説会で「留置権の効果」について演説している。
繁田によれば卒業試験は池田が首席で、卒業式では優等受賞者となった。
池田は京都法政学校から数えると第3回の、京都法政大学としては第1期の卒業生となった。1905(明治38)年7月のことである。
池田の在学当時の学費は、2年次が月額2円、3年次が2円50銭であった。在学中には弁護士事務所で働いたこともあった。
卒業した秋11月、弁護士試験を受け、全国で14名しか合格しないなか、しかも未成年で見事合格したのであった(注2)。未成年者は弁護士を開業できなかったので、成年に達したのちの1906(明治39)年4月に弁護士を開業した。
(注1) 11月9日とする資料もあるが、本稿では「学籍簿」および「履歴書」によった。
(注2) 当時は文官高等試験・判事検事試験・弁護士試験が最難関試験で、『立命館学報』第1号(大正
3年2月発行)によると大正2年7月までの卒業生535名のうち3試験に合格した者は12名であ
った。明治37年に貫名弥太郎(第1回卒業生)が文官高等試験に、明治38年に池田繁太郎が弁護
士試験に、古賀才次郎(第2回卒業生)が判事検事試験に合格したのが最も早い事例である。
合格者数は「官報第6722号」(明治38年11月25日)による。池田は弁護士試験のため上京し
た時、古賀の下宿に滞在している。
2.校友会活動と中川小十郎市長就任要請
池田繁太郎は弁護士業の傍ら、立命館の校友として様々な活動をした。
1913(大正2)年12月、中川小十郎は財団法人立命館を設立、校名も立命館大学、立命館中学と改称した。
池田はその法人設定祝賀校友大会、京都校友大会に出席したのを初め、中川館長への記念品贈呈式に出席し、橋井孝三郎・奥村安太郎・浅原静次郎・政岡亨の各氏とともに校友有志総代として記念品贈呈をした。
1915(大正4)11月30日には秋季校友大会に参加、校友会協議員となった。法人の基本財産募集の事業では協議員として名を連ねた。
1916(大正5)年3月開設の校友倶楽部では役員・評議員に就任し、校友倶楽部は同年5月に総会を開催している。
同年7月、井上密が病気のため京都市長を辞職した。井上は京都市長就任前は京都帝国大学教授で、立命館の教頭でもあった。9月、京都市会は台湾にあって台湾銀行副頭取であった中川小十郎を京都市長候補に選出した。9月23日、京都校友倶楽部の校友大会は中川の市長就任歓迎決議をあげ、京都市議であった橋井孝三郎(第2回卒業生)と池田繁太郎が代表で台湾に行き市長就任を要請した。しかし中川は台湾銀行の職のため固辞し、中川の京都市長就任は実現しなかった。
1917(大正6)年に入ると、京都法政学校創立以降学園の運営に力を尽くし前年に亡くなった井上密法学博士記念事業の発起人になった。
その年7月には円山公園左阿彌で全国校友大会を開催、続いて8月にも臨時大阪校友大会を開催した。
このように池田は初期の校友会活動に力を尽くした。
3.大学昇格運動と理事就任
(3)大学昇格運動
1918(大正7)年12月、大学令が公布され、早稲田・慶應・同志社などがこの新しい大学令のもとでいち早く「大学」となった。
立命館大学は旧専門学校令に基づく「大学」であったが、立命館の首脳部の中川・織田萬・佐々木惣一らは大学昇格に否定的・批判的であった。それは立命館の創立以降の教学が実質的に京都帝国大学の教授陣により行われてきていたことともかかわっていた。首脳部は教育の自由、学問の独立を主張し、国の関与を避け教育内容の充実を図ることを考えていた。
否定的な学園首脳部に対し、大学への昇格を積極的に取り組んだのが校友会であった。
京都校友会は、1919(大正8)年1月11日に大学令問題の調査及び校友総会準備のための京都校友大会を開催し、大学昇格問題に着手した。調査及び校友総会準備委員として奥村安太郎・永澤信之助・池田繁太郎・浅原静次郎の4氏が就任した。大阪校友会もこれに続いて臨時校友大会で織田萬、末弘威麿理事あてに大学問題に関する建議書を提出した。
11月22日には創立20周年記念祝賀式が開催され、翌日には記念校友大会を開催し、校友会規則も定められ校友会の組織化が進んだ。
1920(大正9)年4月には大学側と校友有志池田繁太郎・永澤信之助・畝川鎮夫・浅原静次郎らによる昇格問題についての懇談会が開催された。5月23日には中川館長出席のもとで校友総会が開催され、校友も大学の経営の協議に参加していくことや大学昇格を進めることが決議された。7月11日に全国校友大会が開催され、池田は母校の大学昇格問題について概説し、昇格基金の募金活動に積極的に取り組んだ。昇格には供託金50万円の資金が必要だったのである。
9月には校友会常任委員であった池田らが末弘威麿理事を訪問し打ち合わせ、昇格問題について準備書面の作成に入り、17日に大学令による大学設立を文部大臣に申請した。
こうして、大学昇格問題に積極的でなかった中川館長を動かし、池田ら校友の熱心な昇格運動の結果、1922(大正11)年6月5日に認可を受け、立命館大学はそれまでの専門学校令による「大学」から大学令による大学に昇格したのである。
この年、大学の卒業生は創立以来932名、在学生は専門部1,155名、予科679名、中学の卒業生1,087名、生徒数700名となっていた。
(2)財団法人立命館理事に
そして財団法人立命館の協議員会が開催され寄附行為の変更を申請し、8月12日に認可された。その内容は、理事・監事・協議員の定員を増員し、校友から選任する道が開かれたのである。この結果、新たな理事に校友の池田繁太郎および京都帝国大学の山田正三教授、協議員に浅原静次郎ら校友13名が入り、11月に畝川鎮夫が監事となった。
大学令による大学への昇格と寄附行為の改正による新たな学園の運営体制によって、「立命館大学」は国家の実務に有用な人材を養成することを目的とする大学となったのである。
1925(大正14)年には中川が台湾銀行を辞任し、館長職に専念することとなった。
1927(昭和2)年には理事の一人末弘威麿が死去した。
大学令による立命館大学で最初の専任教授となった法学部の板木郁郎(1899~1991年)も乙立の出身で池田の知遇を得た。板木は1927(昭和2)年、野球部長として台湾遠征を行うが、池田理事は初の海外遠征をする野球部の歓送をした。池田は板木と同郷ということもあってこの頃しばしば野球部の応援に足を運んだという。
1931(昭和6)年の職制改正により中川小十郎は館長から総長となった。
池田は、1933(昭和8)年8月には立命館中学校・商業学校設立者、立命館理事として、中学校・商業学校の校長を塩崎達人、中西弘成から両校とも中川小十郎にする届・願を文部大臣あてに申請し、教学体制の変更を実施している。
4.法律家・弁護士と社会的活動
ここで池田繁太郎の法律家・弁護士としての活動をみておきたい。
池田は、前述のように1906(明治39)年4月、満20歳にして弁護士を開業した。
そのわずか2年後の1908(明治41)年6月に『判例挿入自治法規全集』(帝国地方行政学会)、同7月には『行政裁判所判例要旨類集』(同)を発行している。22歳の若さであった。
1907(明治40)年には「法政時報」、1911(明治44)年からは「法政」という新聞の発行もした。
『京都新人物百短評』(萬朝社 1912年)は、池田を京都弁護士中の最年少者で、弁護士試験の記録を破り試験官をアッと言わせたとし、民法学者としては既に一家の説を有しており、28歳にして前途は多事である、と評している。
そして1924(大正13)年に『実用帝国六法全書』(内外出版)、1926(大正15)年には『新旧対照民事訴訟法』(巌松堂書店)を発行した。
池田繁太郎著作
法律家としての活動は多岐にわたっている。そのなかのいくつかをあげると、
1914(大正3)年6月 京都取引所取引員組合顧問就任
1919(大正8)年6月 無料法律相談所開設
1920(大正9)年4月 同相談所を京都市無料法律相談所とし嘱託就任
1923(大正12)年6月 京都弁護士会会長就任
同 日本積善銀行整理委員・破産管財人
1924(大正13)年8月 内外出版株式会社監査役
1927(昭和2)年11月 京都市中央卸売市場顧問就任
のほか、京都美術倶楽部、十五銀行、名古屋銀行、宮川町貸座敷組合の各顧問に就任している。また1931(昭和6)年には調停委員にも就任した。
京都弁護士会会長の際には、副会長中江源、北川敏夫など会員61名にて、1924(大正13)年1月26日に皇太子殿下(のちの昭和天皇)御結婚祝賀の臨時総会を開き、萬養軒にて祝賀会を開催している。
また京都弁護士会会則の制定に関わった。
5.初代理事長
1933(昭和8)年、立命館は京大事件によって京都帝国大学を辞職した教授・助教授を専任教員として受け入れた。佐々木惣一、末川博ら十数名である。受け入れ後数人が京都帝国大学に復帰するという事態も起きたが、受け入れによって立命館の教育体制も格段に充実し、大学の名にふさわしい大学となったといえよう。
佐々木は翌年3月に学長に就任したが、1935年には美濃部達吉の天皇機関説が貴族院で攻撃され、国体明徴運動が展開された。こうした状況の中で中川総長と意見を異にする佐々木学長は学外に去り、代わって織田萬が学長事務取扱となった。
1935(昭和10)年3月及び5月に立命館は寄附行為の変更を申請し、6月17日に認可された。改正の内容は、理事・監事・協議員の人数を増やしたこと、理事長・常務理事を新設したことである。
この改正は中川が古稀を迎え、また創立三十五周年という節目を迎えて自らの財団の組織強化を図るためであった。そして学園の経営と教学に関する責任を分離し理事会が経営責任を、教授会が教学責任を負う体制を構築したのである。
理事長には、これまで理事を務め学園の運営に参画してきた池田繁太郎が就任した。
「本館理事池田繁太郎氏ハ今回本館寄附行為第八条ニ依リ理事ノ互選ニテ本館理事長ニ選任セラレ七月二十日就任ヲ承諾セラル」
(『立命館学誌』第183号 昭和10年9月)(注3)
中川は、池田を理事長に選任したのは「私(中川)ガ愈々落城スル暁ニ於テハ池田理事ヲシテ理事長トナッテ他ノ理事ノ上ニ立チ経営ノ重キニ任セシメン」ためであったと語っている(『立命館学誌』185号「学園葬での弔辞」)。
しかし、既に1月から病にあった池田は、学園の経営の最高責任者に任命され、立命館の将来を託されたにも関わらず、10月27日、鳴滝の自宅にて帰らぬ人となった。51歳であった。中川は、三千名が参列するなか立命館学園葬をもって池田を送った。
立命館は前年10月に田島錦治学長を、池田の亡くなる前月には初代校長・学長であった富井政章を亡くし、これまで中川とともに学園を創ってきた要人を次々と失った。
中川はその後1944(昭和19)年10月に亡くなるが、その12月石原廣一郎が理事長に就任するまで寄附行為に置かれた理事長職は9年間空席のままであった。
(注3) 池田の理事長就任については、9月とする資料もあるが、本稿では『立命館学誌』183号の記事
により、7月20日就任とした。池田の理事長在任前後の昭和8年2月から昭和10年12月の間の
理事会・評議員会資料が残されていないためその間の経緯の詳細については確認できない。
おわりに―池田君紀念碑
池田繁太郎の生地である島根県出雲市乙立町上田代には「池田君紀念碑」が建立されている。
氏は母校の乙立小学校に奨学金制度(池田賞)を創設し教育の振興に務めたこと、立久恵浮嵐橋の新設工事の費用を負担したこと、地域の永年の水利権争いを解決したことなど、郷里乙立の発展にも大きな貢献をした。こうした郷里への貢献や業績により、池田の生家跡である上田代集会所の地に上田代の人々によって顕彰碑が建てられた。
1942(昭和17)年8月のことであった。碑の裏面には立命館の理事長であったことが刻まれている。
池田君紀念碑
【参考文献】
『立命館学誌』各号、特に第185号「池田繁太郎先生哀悼号」(1935年11月)
『立命館創立五十年史』 1953年
『立命館百年史』通史一 1999年
『故池田繁太郎君追慕録』 故池田繁太郎君追悼会編 1936年
『ふるさと物語』所収「池田繁太郎氏伝」 今岡美友編 出雲市乙立公民館 1982年
『京都弁護士会史 明治大正昭和戦前編』 京都弁護士会 1984年
2017年1月11日 立命館史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2017.01.10
<懐かしの立命館>立命館大学の長い1日 その日「わだつみ像」は破壊された
「わだつみ像」は、立命館学園の教学理念「平和と民主主義」の象徴です。
1953年12月8日に広小路キャンパスに建立された後、1969年5月20日大学紛争の最中に破壊され、1970年12月8日再建・1976年5月20日再建立を経て現在は立命館大学国際平和ミュージアムに設置され、今も立命館学園の教学理念を伝えています。
本項は、
「わだつみ像」とは何か?
どのようにして「立命館大学」に建立されたのか?
そしてどのようにして破壊されたのか?
を史資料センター所蔵の資料、当時の証言を元に改めて再構成したものです。
「わだつみ像」誕生
1947年12月、『はるかなる山河にー東大戦没学生の手記』が刊行されました。
この本は東大学生自治会に設けられた東大戦没学生手記編集委員会が編集し、東大協同組合出版部から刊行されましたが、対象が一校(東京大学)の戦没学生に限られたという大きな欠点もっていました。
その後1948年春、東大協同組合出版部の中に『日本戦没学生手記編集委員会』がつくられ全国の大学、専門学校出身の戦没学生の遺稿を募り、『きけわだつみのこえ』(日本戦没学生記念会編)として1949年10月刊行されました。
なげけるか いかれるか
はたもだせるか
きけ はてしなきわだつみのこえ
(「きけわだつみのこえ」に寄稿した藤谷多喜雄氏の詩)
この『きけわだつみのこえ』は、30万部のベストセラーとなりました。本書の著作者である「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」(1950年4月22日結成)(以下、「わだつみ会」)は、その印税を資金に、さらに本の意義を発展させて反戦を訴える社会事業を興すことにしました。主な事業は次の様なことでした。
①全日本の学生の中に戦没学生の平和意志継承の運動を興すことを本旨とする。
②そのため具体的事業に意志を結集せしめる。
③国際的に広く平和愛好者と連携し推進する。
④あらゆる戦争挑発の企てに反対する。
この具体的事業(上記②)として、映画製作(映画「きけわだつみの声」)、機関紙発行、
戦没学生記念像(「わだつみのこえ」)の創作がすすめられました。
この戦没学生記念像「わだつみのこえ」の創作が、後の「わだつみ像」となるのです。
「わだつみ会」発起人の一人である中村克郎氏メモ「わだつみ像縁起」(注1)によれば、1950年1月 寒い日、中村克郎氏とO氏と二人で世田谷の彫刻家本郷新氏宅を訪問し、戦没学生記念像の制作を依頼した。3月にエスキース(注2)ができあがり、4月22日(土)、「わだつみ会」の席上で本郷新氏自らが製作意図を説明されたと書かれています。
9月20日に像は完成し、11月30日に「わだつみ会」理事長より「平和記念像の寄付と共に(東京大学)図書館前に建立し、12月8日に除幕式並びに慰霊祭を挙行したい」と東京大学に申し入れおこないました。この申し入れに対する当時の東京大学総長の内諾に基づいて、建立と慰霊祭の準備は進められていました。
しかし直前の12月4日になって、東京大学の最高決議機関である評議会は「学術上及び教育上本学(東京大学)に対し顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取り扱いによって、この申し込みを遠慮したい」と「わだつみ会」の申し入れを断ることを可決したのです。事実上の建立拒否でした。(注3)
「わだつみ像」立命館大学に建立・「不戦の集い」の始まり
像は1951~52年の2年間、本郷新氏のアトリエに眠りつづけました。1951年、立命館では末川博総長を先頭に立命館挙げて戦没学生記念像(わだつみ像)(以下、「わだつみ像」)(注4)誘致の取り組みが開始されました。
誘致は決定し、本郷新氏のアトリエに眠り続けていた像は、1953年11月8日に立命館大学に届きます。
この時、わだつみ像歓迎大会に参加しようとした学生約120名が、荒神橋上で警察官に力ずくで阻止され、欄干から10数名の学生が転落して重軽傷を負うという事件がおきました。いわゆる「荒神橋事件」です。
その事件を知った学生達は直ちに京都市警本部にむけて抗議行動を起こしました。ところが市警前で抗議行動をしている学生にむかって、突如武装した警察官が襲いかかり、約70名の学生が負傷します。この事件は「京都市警前事件」(注5)と呼ばれています。(『立命館百年史 通史二』(以下、『通史二』)p954)
こうした苦難の道を辿りながらも、反戦平和を願う青年・学生、市民に支持され、わだつみ像は広小路キャンパスの校庭に建立され、1953年12月8日に除幕式が挙行されました。
その時、学生の代表によって「不戦の誓い」が宣言されました。
1953年12月8日「わだつみ像」除幕式
不戦の誓い
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、
愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。
その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。
再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、
何の憎しみももたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。
その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。
再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、
魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。
その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。
学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。
一九五三年十二月八日
(『通史二』pp.955-956)
翌年の1954年12月8日、建立一周年を記念してこの像前で第1回「不戦の集い」が開催されました。
以来、このわだつみ像前での「不戦の集い」は、2016年で63回目をむかえ、半世紀を越えてもなおその伝統は生き続けています。
2016年度 第63回「不戦の集い」での吉田美喜夫総長
立命館大学の長い1日
1969(昭和44)年5月20日(火)「わだつみ像」は破壊された
この「わだつみ像」は47年前の1969(昭和44)年、「大学紛争」の最中に全学共闘会議(以下、「全共闘」)の一部学生によって破壊されています。
史資料センター資料整理の中に、「わだつみ像」が破壊された当時の様子を描いた学生の漫画(ビラ)1枚が発見されました。そのビラを主材料として当時の目撃証言とともに顛末を追ってみました。
5月16日(金)
立命館大学は「創立記念日に向けて 教職員・学生への大学の訴え」((学内)理事会)(以
下、「訴え」)をだします。
その「訴え」は、「全共闘」の学生諸君が5月19日の創立記念日を立命館の「解体記念日」にせよとよびかけ、本部(中川会館)を奪還し、封鎖を拡大しようとする動きをみせている。全学の教職員・学生が当面している事態を正しく認識し全力を結集されるよう期待する、というものでした。
5月18日(日)~5月20日(火)
5月16日の「訴え」に応えて大学の教職員及び教職員組合の組合員、生協労働組合の組合員、1・2部学友会学生たちが5月18日から大学内に泊まり込みました。学生は「延べ3000名」もの学生が泊まり込んで警戒にあたっていました。
5月19日(月) 立命館創立記念日
この日は創立記念日のため全学休講でした。「全共闘」はこの日を立命館大学「解体記念日」とするとしてバリケード封鎖を宣言していましたが、行動はありませんでした。
5月20日(火)そして長い1日が始まる
深夜0時頃
M教授宅に警察から電話がかかります。「(何がおこるかわからないので)今晩の居所をはっきりして欲しい」との内容でした。
M教授は不安な予感がしたので、電話直後、大学内で待機することにして自宅を出ました。
5時40分頃
警察(注6)より電話があり、至急に会いたいので御所(清和院門)まで来て欲しい、との内容でした。
M教授、I講師が指示された場所に行くと、出迎えた警察官は詳しいことは警察でお話しますと言って車に乗せ警察に連れて行きます。
警察署長室に着くと捜査令状を見せられ、すでに恒心館に対する強制捜査の準備を整えており、その開始は6時40分の予定であると告げられます。
「恒心館を捜査したい。罪名は、放火未遂、暴行、監禁、傷害の容疑です。」「場所は恒心館及びその敷地内です。広小路キャンパスは含みません。」(注7)
M教授、I講師が捜査令状の説明を聞き終わった時はすでに6時30分になっていました。すぐにM教授は、大学に電話連絡し警察の執行に立ち会う人の人選を頼み、急ぎ大学に戻りました。その時には7時少し前で、すでに警察機動隊が恒心館突入の態勢を整えていました。
6時40分
2月26日以来「全共闘」学生によって封鎖されていた恒心館の強制捜査(6時40分~9時45分)が行なわれました。
細野武男元立命館総長(当時、産業社会学部長)等の立会いの下、火炎瓶171本、トラック1台分の石、鉄パイプ244本、灯油、石炭かます19袋が押収され「全共闘」の学生約200名は恒心館裏庭に集められ身体検査の後、解放されました。
8時00分~12時00分
強制捜査で恒心館から機動隊に排除された「全共闘」学生は、支援の他の学生を含め約2百数十名の集団となって広小路キャンパスに侵入、正門・西門をバリケード封鎖した上で清心館、存心館、尽心館、生協食堂等校舎を破壊しました。(『通史二』p942)
「わだつみ像」もこの時に破壊されています。
わだつみ像破壊は、11時過ぎではなく8時30分~9時00分の間
わだつみ像の破壊行為がおこなわれた時間について、『通史二』(p942)によれば「午前11時過ぎ、全共闘の中の学生がわだつみ像にロープをかけ、これを引き倒し破壊」したとしています。しかしながら、その当時学生が配布したビラおよび当時研心館に泊まりこんでいて一部始終を目撃したI氏の証言等から破壊行為は8時30分~9時00分であったようです。(注8)
恒心館から排除されたほとんどの「全共闘」の学生は広小路キャンパス存心館前で集会をはじめた。この集団の中から黒いヘルメットを被った4、5名のグループ(以下、「黒ヘルG」)が集会に参加せず直接に「わだつみ像」前まで行き、「わだつみ像」にロープをかけ、これを引き倒し破壊しました。
I氏の証言によれば、
「黒ヘルG」の一人が「わだつみ像」の台座に上がり、「わだつみ像」の首にロープをかけ台座から降りた。
台座からおりた一人は他の「黒ヘルG」の仲間3~4名といっしょにロープを右方向(広小路キャンパス南東方向)に引っ張りわだつみ像を倒した。
わだつみ像は顔面を下にうつ伏せに倒され、その時に左腕も破損した。
うつ伏せに引き倒された「わだつみ像」を「黒ヘルG」がひっくり返して仰向けにし、鉄パイプで頭部を破壊して身体部分をめった打ちにした。
その後、「わだつみ像」の胸に赤いペンキで「死」と落書きをしたとのこと。
さらにI氏は、
「黒ヘルG」は当初から計画していたかのようにロープとペンキを持ち出してきて(注9)わだつみ像を引き倒し破壊している。この「黒ヘルG」の行動は存心館前で集会に参加していた他の「全共闘」学生達は知らなかったのではないか。研心館前に来て初めて事態を知ったようだったとも語っています。
11時頃
大学声明発表「五月二十日の強制捜査について」(立命館大学 1969年5月20日)
この声明は、5月20日早朝の恒心館の強制捜査について、大学の要請によるものではないこと、京都府警察当局に対して強い抗議の意志を表明すること、事態を招来した「全共闘」学生の破壊的暴力行為に対して深刻な反省を要求するものでした。
12時00分直前
警察より「府警機動隊を広小路キャンパス西門(寺町通りに面している)より入れる」との電話が入り、直後機動隊が侵入してきます。大学は一方的な通告と侵入にたいして抗議しています。侵入した機動隊は「全共闘」学生を広小路キャンパスから追い出した後、学外に退去しました。
12時20分
「全共闘」学生は再び学外から広小路キャンパスに戻り、いっそう激しい破壊行動をおこないました。
14時頃(時間不明・前後関係からおおよその時刻)
大学声明発表「府警機動隊の学内進入について」
この声明では、広小路キャンパス内にいる「全共闘」学生に対し、破壊行為をやめ学外に退去するよう強く要求し、同時に、大学の事前了解なしに警察の一方的に判断によって学内侵入したことは、事態を一層混乱させ大学の自主的解決の努力を水泡に帰する行為として抗議の意を表明しています。
14時45分頃
1・2部学友会学生は「学園破壊をこれ以上許すわけにはゆかない。」「われわれは直ちに館外(泊り込んでいた研心館)にでて暴力学生を実力で排除する。キャンパスをとりまく学友、一部キャンパス内にいる学友も共に協力を」してほしい(『通史二』p942)と訴え、「黄色いヘルメット」(注10)を着用し、一団となって暴力学生を学外に追い出しました。
15時00分「全共闘」による封鎖・占拠が解除
封鎖解除された広小路キャンパスは先に破壊されていた中川会館や恒心館、衣笠キャンパス4号館同様すさまじい破壊が行なわれていました。事態を知って登校してきた学生たちは「破壊され、腕をもぎ取られ、頭に大きな穴をあけられたうえ、その胸には赤いペンキで「死」と落書きされ」(『通史二』p943)、キャンパスに横たわる「わだつみ像」を目の当たりにするのです。その衝撃は大きく「全共闘」に対する幻想を捨て去る出来事になりました。
20時00分
武藤守一総長事務取扱(注11)は、広小路キャンパスの有心館で記者会見を行いました。
その内容は、朝、恒心館を京都府警が捜査したのは、警察は独自の判断で学内に入れるという文部次官通達を早速実施したものと思える。授業は5月21日(翌日)からすぐに始めたい。開講に当たっては20日(今日)の事態について全学に説明する、というものでした。
また、「わだつみ像」の破壊に関わって「許しがたい暴挙と厳しく批判し、像は直ちに修復もしくは再建にとりかかる」と言明しています。(『通史二』p957)
立命館大学の長い1日は終わった
こうして立命館大学の長い1日は終わりました。後年、武藤守一元総長は『回想録』の中でわだつみ像が破壊された怒りと反戦平和運動が続く限り、わだつみの再建は実現されないわけがない、とその怒りと展望を日記に記しています。
わだつみ像は出陣学徒のなげきといかりともだせ(黙だせ=黙って見過ごす)を再び繰り返すなという悲願を本郷新氏が芸術的に表現したものではないか。
わだつみ像を虚像にすることは真の反戦平和運動をさぼるということであろう。
全共闘はどれだけの平和運動をしたというのか。
わだつみ像は再建しなければならない。
それは困難をともなうであろうが、困難をともなわない反戦平和運動というものがあり得ただろうか。
この困難な闘いを進めるからこそ戦争を阻止し平和を守り得るのである。
もしそうならこのような運動が進められる限りわだつみ像再建が実現しないわけがない。
(『元総長武藤守一回想録』武藤守一著)
その後、わだつみ像は翌1970年に再建され、12月8日にはわだつみ像再建除幕式(広小路キャンパス研心館)が行なわれました。
再建されたわだつみ像は1976(昭和51)年に衣笠図書館(旧)に再建立され、1992(平成4)年2月に平和ミュージアムに移設(注12)され今日に至っています。
2017年1月 史資料センター 調査研究員 齋藤 重
参考文献・資料
『立命館百年史 通史二』(学校法人立命館 2006年3月)
『立命館百年史 資料編二』(学校法人立命館 2007年7月)
『月刊美術』平成6年9月号(実業之日本社)
『『きけわだつみのこえ』の戦後史』(保坂正康著 文春文庫)
『彫刻の美』(本郷新著 中央公論美術出版)
『元総長武藤守一回想録』(武藤守一著 史資料センター所蔵)
「学友会宣伝ビラ」(漫画)(史資料センター所蔵)
「わだつみ像縁起」(中村克郎 史資料センター所蔵)
注:
(注1)
メモ「わだつみ縁起」は中村克郎氏が関わった「わだつみ像」の建立から破壊までをメモしたもの。複写資料が史資料センターに保存されている。
(注2)
このエスキース(仏: esquisse)とは、スケッチのこと。わだつみ像の創作にあたりイメージを仮像(彫刻)として創り、この仮像をもとに、わだつみ像が検討されました。
このエスキースは、わだつみ像が創作されると役割がおわり、末川博元総長に贈呈されます。2015年には、末川博元総長の御家族から立命館に寄贈され末川記念会館に置かれた後、現在は大阪いばらきキャンパスに設置されています。
(注3)
「この年の十一月三十日には、日本戦没学生記念会理事長より平和記念像の寄付と共に、それを図書館前に建立し十二月八日に除幕式並びに慰霊祭を挙行したいとの申込があった。これに対して評議会は『本学としては学術上及び教育上本学に対し特に顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取扱によって、この申込を遠慮したい〔略〕寄付の申込は断ることに異議なく可決』している。この決定の後も「わだつみ像」設立運動は継続され、翌年の五月祭では「像」が展示された。しかし建立予定地の綜合図書館前に噴水がつくられることにより、運動は終息したものと思われる。」(『東京大学学生新聞』十月四日付)(『東京大学百年史Ⅲpp.470-471』)
(注4)
・「わだつみ像」という呼称は、像の台座に刻まれた末川博総長の言葉には「わだつみの像」と記されていますが、『通史二』の記述ならびにその他の諸資料の記載に従って「わだつみ像」としています。
・「わだつみ」もしくは「わたつみ」は漢字では「海神」、万葉集や古今和歌集にも出てくる言葉ですが、字のとおり、海を司る神のことです。
この言葉が「きけわだつみのこえ」として戦没学生の手記の表題になったのは、この手記に寄せられた京都の藤谷多喜雄氏の詩「なげけるか、いかれるか、はた もだせるか、きけはてしなきわだつみのこえ」に由来しています。南や北に散っていった学徒の心を「わだつみ」であらわしたわけです。以来、戦没学生をあらわす言葉として「わだつみ」が使われだし、像も「わだつみ像」と名づけられました。
(『像と共に未来を守れ-わだつみ像再建立記念-』わだつみ像建立立命館大学実行委員会1976年5月20日)p11
・現在、「わだつみ像」は8体あります。立命館大学に建立された「わだつみ像」は、その最初の像でした。
「本郷新の代表作は8体あっても、平和のモニュメントとしてのそれ(わだつみ像)は1体しかない。それが立命館大学にあるものである。」(『月刊美術』平成6年9月号 事業之日本社)
本郷新氏は『彫刻の美』(中央公論美術出版)の中で彫刻について、彫刻に生命が宿っているのは、その彫刻の形が自然そのままの形ではなく、生き生きとした感じをあたえるためのデフォルメをするからである。しかし実際にそう感じもしないのに無理に変型したところで美しくなるものではなく、しないではおられないような実感が作者の気持ちのうちにわき起こらなければ生きた変形(デフォルメ)はできないのである。という主旨を述べています。
この「わだつみ像」は戦争に犠牲になった全国の戦没学生の嘆き、怒り、黙(も)だせ(=口を閉ざして言わないこと、沈黙すること)を芸術家本郷新が実感をもって表現した芸術モニュメントでもあります。
この初代の「わだつみ像」は現在、歴史の証言者として立命館大学が大切に保存しています。2代目は再建され現在立命館大学国際平和ミュージアムに建立されています。その他に、本郷新記念札幌彫刻美術館、長万部平和祈念館、私立北海高等学校、神奈川県立近代美術館別館(鎌倉)、東京世田谷区立美術館、和歌山市市民体育館に建立されています。
いつの日か破壊された「わだつみ像」も学園の史資料として保存され歴史資料として活用されることを期待しています。
(注5)
1947(昭和22)年、旧警察法(法律第196号)により自治体警察が全国の自治体に設置されました。1948(昭和23)年3月7日、従来の京都府警察部は解体、京都市警察局が設置され、1950(昭和25)年1月に京都市警察本部と改称されています。
その後1954(昭和29)年新警察法の公布により京都府警察本部が設置され1955(昭和30)年7月、京都市警察は京都府警察に統合されています。従って1953年の「荒神橋事件」「京都市警前事件」の頃は、「京都市警察」でありました。
(注6)
歴史的に明らかになっている警察署名、警察官名もありますが、ここでは特定せず警察と一般呼称しました。
(注7)
5月20日の警察による強制執行は、同年4月21日の文部次官通達「大学内における正常な秩序維持について」に依っています。それまで大学構内への警察の侵入は「警察の学内立ち入りは、第一次的には大学当局の要請による」(昭和25年文部次官通達)とされ、大学の要請や許可無く立ち入ることは出来なかったのですが、この通達は一部過激な学生による違法行動を理由として警察当局が独自の判断で措置することを認め、大学側はこれに協力体制をとることを要請するものでした。
5月2日 大学はこの通達に対して反対を表明しましたが、5月20日の京都府警による恒心館強制執行が実施されたのです。対象となった恒心館は広小路キャンパスの中心部から河原町通りを挟んで独立した棟であったことから「広小路キャンパスは含みません」は広小路キャンパスの中心部(存心館や中川会館がある)は対象ではないという意です。
(注8)
I氏は当時法学部3回生に在籍し、大学側の呼びかけに応えて研心館に泊まりこんでいた一人。「わだつみ像」破壊を目撃し鮮明に記憶していました。この証言と当時の学生が配布したビラの記載内容から、破壊行為が行なわれたのは8時30分~9時00分であった可能性が高いと考えています。
5月20日11時過ぎ大学が声明文をだしますが、その声明文には「午前8時過ぎから広小路校庭に集合しわだつみ像を倒し広小路学舎の破壊行為行なった」と記されています。もし11時頃に「わだつみ像」の破壊が行なわれたとしたならば、同時頃に破壊行為を記した声明文を出すということは現実的でないように思われます。むしろ8時30分~9時頃に行為が行なわれたとすれば、充分に声明文に反映することは現実に可能です。
(注9)
「黒ヘルG」はロープとペンキを建物内から持ち出して、わだつみ像の破壊に使用しました。その時の様子を目撃していたI氏は、「それはあたかも、周到に準備されていたかのように、迷わず建物内から持ち出して、わだつみ像を破壊した」と述べています。
(注10)
泊り込んでいた学友会学生達は、鉄パイプなど「全共闘」の襲撃から身を守るため広く工事現場で使われていた「安全用黄色いヘルメット」を着用して安全を守りました。
(注11)
末川博総長の任期満了(1969年4月1日)に伴う方策について、理事会は「後任の総長が選ばれる迄の機関として代行または事務取扱を置くことについて、種々協議が行なわれた後、総長事務取扱を置くことに決定」(1969.3.21 理事会)し、4月12日に1969年度大学新体制を決定しました。総長事務取扱には武藤守一が任命されました。
(注12)
1976(昭和51)年に衣笠図書館(旧)に再建立され、1992(平成4)年2月に立命館大学国際平和ミュージアムに移設されました。その時に常任理事会は破壊されたわだつみ像(初代)の取り扱いについて次のように決定していますが、まだ実現していません。
2.旧像の扱いについて
現在の本学倉庫に保管している旧像については、下記により再建立したい。
(1)時期:1992年4月上旬
(2)場所:図書館1階正面玄関のしかるべき場所
(図書館長等の了解も得る)
(3)旧像の説明:わだつみ像の意味、本学に設置された経過及び全共闘によって破壊された事実などを記した説明を像の前につける。
「わだつみ像の(再)除幕および旧像の扱いについて」(1992年2月12日常任理事会)