立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2016.09.07
<創立者中川小十郎 生誕150年>亀岡市文化資料館 企画展と講演会 開催
2016年は、創立者 中川小十郎生誕150年です。
生誕の地、亀岡市では7月16日(土)~8月28日(日)の期間 亀岡市文化資料館にて「第61回企画展 中川小十郎-馬路村より立命館創立者へ-」を開催しました。
期間中の8月6日、8月27日には史資料センターからの講師により史資料の調査研究を通して垣間見えた中川小十郎の姿を講演しています。
この企画展と講演会をご紹介しましょう。
<企画展「中川小十郎-馬路村より立命館創立者へ->
亀岡市文化資料館は、亀岡市の歴史・文化と自然を実物展示で紹介する資料館です。
常設展では原始から近現代にかけての亀岡市の歴史・文化の実物資料を中心に展示し、企画展は年3回(企画展2回、特別展1回)開催しています。
また、亀岡に関する文献資料、民俗資料、考古資料などの収集・整理・保管および調査研究を行うとともに、連続文化財講座や地域の子ども歴史学校「アユモドキ見守り隊」などを開催して、地域文化の教育を担っています。
今回の企画展「中川小十郎-馬路村より立命館創立者へ-」では、期間中561名の入館者がありました。資料館のお話では「企画展は有料(高校生以上260円)ですが、これだけの方が入館される企画展はかなりのものです。市民の関心が高いのでしょうね。」とのこと。
展示資料は、中川小十郎が生まれ幼少期を過ごした丹波馬路村の文化や人々、西園寺と中川家の出会い、小十郎の恩師との出会いから、志を立てて帝国大学で学び、文部官僚や実業界での経験を経て京都法政学校の設立、そして立命館に至る半生、馬路村に残る小十郎ゆかりの史跡などを亀岡市文化資料館所蔵の資料と立命館 史資料センター所蔵の資料を使って綴ったものです。
「亀岡市文化資料館」外観と企画展エントランス
企画展会場全景と展示の様子(小十郎を育んだ人々)
展示(京都法政学校から立命館大学へ)と西園寺の山陰道鎮撫に同行した際の甲冑
展示 小十郎に関わる手紙や任官状など
展示 日本女子大学設立に関する資料やその他書状など
<8月6日(土)講演「中川小十郎を育んだ亀岡のひとびと-中川家史料から-」> 立命館 史資料センター調査研究員、元馬路町史編集委員 長谷川澄夫
展示期間中の8月6日午後2時、亀岡市文化資料館3階研修室で講演会を開催しました。
当日は夏まっさかり。室内まで暑さがしみてくるような中、約40名の熱心な参加者で研修会室は満員でした。
講演は、「中川小十郎を育んだ亀岡のひとびと」と題して、丹波馬路村の中川家家系の紹介、馬路村の当時の私塾や小学校に携わった人々の話。西園寺公望の山陰道鎮撫に同行した「弓箭組」と中川家の話。小十郎の恩師田上綽俊(しゃくしゅん)の「致遠館」での教育や遊学の様子と小十郎の思い出などの話。叔父・中川謙二郎や母から小十郎に当てた手紙、中川禄左衛門や馬路の人々から小十郎への思いと小十郎から丹波の人々への支援の話。など、当時の小十郎をとりまく馬路の人々を史料を提示しながら活写しました。
講演会の様子(参加約40名)と長谷川澄夫先生
<8月27日(土)講演「イノベーター 中川小十郎の挑戦」>
立命館大学文学部非常勤講師、立命館 史資料センター調査研究員 藤野真挙
8月27日(土)午後2時、8月6日と同じ研修会室にて「イノベーター 中川小十郎の挑戦」の講演会を開催しました。6日とは打って変って涼しい日で、前回に引続いて約40名の参加がありました。
講演では、中川小十郎をイノベーター(実業界における起業家)の視点から捉え、明治後期の社会状況の中で、小十郎がどのように志を立て実現していったかが話されました。
明治後期の社会は、諸法律の整備も進み、民間企業が勃興して経済力も増し近代国家の姿を整えていった一方で、国民の経済格差が広がる時代であったこと。
小十郎はこうした状況は未だ「国家官僚」養成の大学とその他多数の「労働者」養成の小中学校しかない教育システムに問題があるとし、今後は「実業家」を養成する教育システムが国家隆盛の鍵であることを喝破していたこと。
また、こうした小十郎の考えは、既に予備門時代から顕在化しており、その後の帝国大学在学中も、卒業後の文部官僚時代の京都帝国大学設立経験も、広岡浅子の加島銀行時代の実務経験や社員教育の「草鳥寮」も、自らが描く「実業家」養成の学校に収斂し、明治33年の「京都法政学校」の創設に繋がること。
従って「京都法政学校」は京都帝大という最高レベルの講師によって実務法律を教授し、夜間時間帯に開講して学歴に関係なく受講者を受け入れることにしたのだということ。
藤野先生は、時代の社会問題を喝破するだけでなく自ら問題解決にあたる中川小十郎の姿こそ、「イノベーター」にふさわしいと明快に説明されました。
藤野真挙先生と講演会の様子(参加約40名)
立命館 史資料センター
奈良 英久
2016.08.25
<懐かしの立命館>1着の古い制服からたどる戦時中の付属学校の歴史
現在の立命館中学校・高等学校の前身となる私立清和普通学校は、1905(明治38)年、大学と同じ地広小路に誕生した。111年の校史のなかで北大路、深草、長岡京へと移転が行われてきた。現在の長岡京キャンパスには学園展示コーナーが新設されていて、そこに戦中戦後の立命館に関わる深い歴史が沁み込んでいる1着の古い制服が展示されている。キャンパスが新しくなり、だれひとり戦争を知らなくなった学校で、戦争を語り継ぐ貴重な語り部資料である。
《長岡京キャンパス学園展示コーナー その1》
(1)制服との出会い
この制服の話は今から16年前、滋賀県草津市から通う一人の立命館の男子高校生が、古着屋で偶然に見つけて購入したことから始まる。古着を広げると、かなり小柄で、今の中学1年生ほどの背丈の大きさだったが、古着には「立命」の文字がはいったボタンが着いていて、紛れもない戦前の制服であった(注1)。戦時中には国防色と呼ばれ、色褪せたカーキ色の制服はいたる箇所が擦り切れ、継ぎ接ぎだらけであったが、かえってそれが戦争を生き抜いてきた逞しさを感じさせてくれていた。
(2)持ち主との再会
この古着は、当時、学園創立100周年の取り組みを行っていた高校生徒会に届けられた。幸いにも制服の裏には持ち主であろう人物の氏名、住所、血液型、勤務先(戦時中は、勤労動員と言って、旧制中学校の多くの生徒たちが授業を中断されて勤労動員に借り出されていた)が書き込まれていた。生徒会の役員たちは、戦時中にその制服をきた先輩が立命館の生徒として過ごした青春時代を想像し、学園創立100周年の記念の年に母校へ戻ってきた制服に不思議な縁を感じ、どうしても持ち主の先輩を探し出したいと思ったのであった。
生徒会長(1988年に男女共学となってからで二人目の女子会長)を中心に調査に乗り出した。まず、同窓会である清和会名簿を探すと、同じ苗字で名前の字が異なる人物が一人見つかった。しかし、住所は不明のまま。次に、戦後50年以上が過ぎているので、住人も建物も変わっていて無理だろうと思いながらも、制服に記入されていた住所地へ向かった。高齢の方なら知っておられるかもしれないと尋ねていると、その持ち主をご存知だという方に出会えたのであった。
制服の持ち主は、1947(昭和22)年の立命館工業学校卒業で、その後は京都市内で時計・貴金属店を経営されていた。自分の制服と半世紀ぶりに対面された驚きと、50歳以上も年下の後輩たちとの不思議な出会いに感動され、当時の厳しく苦しかった時代を懐古しながらも、男女共学となって移転した大きく発展している母校の様子を熱心に尋ねられたのであった。
(3)立命館工業学校
制服の主が立命館工業学校に入学したのは1944(昭和19)年であった。それより以前から戦争が続くなか、国内で軍需生産のための技術者が大量に必要とされるようになると、商業学校への志願者が減少し、中学校や工業学校への志願者が増大していた。1929(昭和4)年に中学校と同じ場所に開校していた立命館商業学校(夜間は1937年開校)は昼夜の二部制で1,500名もの生徒が在籍していたが、戦争が続いてくると、政府は1943年に男子商業学校の改廃を発表した。そのため全国450校のうち約6割が工業学校となり、立命館でもその情勢をうけて、1943(昭和18)年に生徒募集を停止し、昼間は立命館第三中学校に、夜間は工業学校へと変わっていた。1944年はその開校1年目の年であった。学校は、等持院に開校されていた立命館専門学校工学科(当時は衣笠と呼ばずに等持院と呼んでいた)の諸施設を夜間に活用するというもので、機械科と土木科で各学年定員100名で修業年限は4年であった1943年までの商業学校夜間部の在校生1,2年生たちは、翌年そのまま工業学校の2、3年生編入となった。
こうした強引な開校には次のような設立理由があった。「教育に関する戦時非常措置方策に基づき商業学校夜間部の生徒募集を中止し、これによって生じる余剰の人的物的資源と大学専門部(昼間授業)の諸施設を活用して工業学校を設立し、もって国家の要請に応えんとす」(注2)るためであった。戦局がますます悪化するなか、立命館が時局の要請に応じる形で工業学校が設立されたのであった。
(4)当時の付属校
この当時の立命館には北大路室町(現在の立命館小学校所在地)を中心として、いくつもの付属校が存在していた。(注3)
① 立命館第一中学校。1905年清和普通学校創立以来、1906年私立清和中学校、1913年私立立命館中学、1919年立命館中学、1928年立命館中学校と校名を変更してきたが創立からの伝統の流れをもつ。1942(昭和17)年に第一中学校となった。
② 立命館第三中学校。立命館商業学校は、既述のように1943(昭和18)年に生徒募集を停止し、同年4月新たに開校したのが第三中学校であった。昼間の商業学校生徒が編入された。
③ 立命館第四中学校。1937(昭和12)年に勤労青少年にも広く門戸を開くため考査料と入学金を免除する形で立命館夜間中学校と立命館商業学校夜間部が開校されていた。もともと家計的にも就学が厳しかった生徒が多かったため、戦争が激しくなってくると中退者が多くなってきた。「中等学校令」(注4)に従い、夜間中学校を廃止して1943(昭和18)年4月に第四中学校とした。
④ これらに加え、上賀茂には立命館第二中学校(神山)があった。
これらの4つの中学校をあわせると生徒数は3,718名となっていた。当時の立命館全体の生徒学生数は9,313名(兵休者1,367名を含む)であったので、これに工業学校を加えれば、中等学校だけで全体の4割弱を占めていたことになる。《1946年の立命館第一中学校卒業アルバムから》
《北大路校舎の正門右側に掲げられた1枚に5つもの校名が書かれた門標》
(5)制服・制帽
戦局が進んでくると、学園では服装の面にも戦時色を濃くしていった。大学では「黒色、紺色の詰襟服を陸軍将校型に変え、帽子も角帽を廃止して将校型の丸帽に改めた。これらは「東亜共栄圏確立への邁進の今日、好んで欧米を模するに及ばず」という理由からであった(注5)。立命館中学校や立命館商業学校でも、1940(昭和15)年には陸軍幼年学校型に変更され、学生帽も戦闘帽(旧日本軍が用いた略式の軍帽の略称)へと変えられ、すべてカーキ色へと統一された。制服の生地は、初めは木綿や小倉(綿織物の一種で、太糸で厚地に織ったもの)などの生地のしっかりした物で丈夫であったが、戦争が激化してくると天然の繊維がなくなり、スフ(略称で、正式名はステープル・ファイバー。くず綿や木材を原料とする非常に弱い繊維)という生地で作られるようになった。そのため、半年も着ていると袖口をはじめあちこちがぼろぼろに破れてしまうほどであった。色、型、素材と国民はみんな辛抱しなければならなかった時代であった。
《制服》
(6)戦時中の学校生活
当時を生徒として過ごした卒業生たちは、次のように語っていた(一部要約)。
≪ア≫1939(昭和14)年4月、あこがれの鉄筋校舎(北大路学舎で昭和13年完成だからまだピカピカの校舎だった)に入学したのである。
我々は、昭和18年12月に繰り上げ卒業をしたのであるが、修学旅行とてなく卒業パーティーもクラス毎に、握り飯と簡単なおつまみで勿論酒もなく、ただ恩師への感謝と恐らく皆と最後の別れとなるかもしれない宴としたものである。(注6)
≪イ≫私が中学生として北大路学舎に通学することになったのは、太平洋戦争も末期の昭和20(1945)年の4月でした。当時は通学手段としてほとんどの生徒が市電を利用していましたが、「歩け、歩け」の時代で、登校の際、烏丸線を利用する生徒はすべて、烏丸今出川で下車、北大路まで徒歩と決められていましたので、私は数人の学友達と共に徒歩で通学する毎日でした。当時の校内での行動は、軍隊の兵営生活的な規律ですることが定められ、例えば朝礼の際には、全校生徒は直立不動の姿勢で整列し、先生の訓示等を聞いている時は「鼻の先に蜂が止まっても動くな」と教え込まれました。
中学1年生の時の担任は英語の先生で、「This is a pen」で授業が始まりました。英語は敵性語と呼ばれ世の中から抹殺されていた時代でしたが、まことに不思議であったと、後になって思っています。(注7)
《昭和18年第一中学校1年生の愛宕神社参拝遠足》
(7)勤労動員
1944(昭和19)年に、政府は「勤労即教育」と規定(注8)して、中等学校以上の学校に勤労動員を強いてきた。立命館の中学校にも各地への指示がなされ、兵庫県播磨造船所や舞鶴の第三海軍火薬廠、京都市内の工場、京都府下の各地の農村への耕作作業などで動員されていった。展示されている古着の制服の内側には「勤務先 壽十條工場」と記されていたので、この持ち主も1年生にして勤労動員されたのであった。壽十條工場での「学徒出動工場視察報告」(注9)によれば、この工場での作業は「砲弾及び魚雷の部品作成に関する旋盤及び仕上げ」と記載されていた。生徒たちはかなり責任のある仕事を任されていたことになる。
翌年3月、政府は閣議決定(注10)で「全学徒を食料増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其の他直接決戦に緊要なる業務に総動員」し、その目的を達成するとために4月1日から一ヵ年間、原則として全学校の授業を停止し、生徒たちに勤労作業だけを行わせることにしたのであった。
当時の勤労動員の思い出を卒業生たちは、次のように語っていた。
≪ウ≫一番強烈な思い出は、今でも時々夢に見る学徒動員による播磨造船での苦しい一年間でした。当時、播磨地獄と酷評されていましたが、今思えばB29の本土侵入の空路となりながら爆撃の被害を受けずに済んだことは、名古屋や舞鶴で多数の犠牲者を出した他校の人たちに比べれば幸運でした。(注11)
≪エ≫戦争の始まった翌年の昭和17年4月、あの美しかった桜並木を通って、立命館第二中学校に入学した。周囲は緑に囲まれ桜の花の咲く頃は一段と美しく、作業の時間には桜の木の手入れをしたものである。しかし、敗色濃き昭和19年7月私達は一機一艦をより多く、早く戦場へ送ってくれのスローガンで勉学を捨て、お国のためにと学校を後に兵庫県相生市の播磨造船所へと行った。これが学徒動員である。
(注12)
≪オ≫私は昭和19年に入学した。第二次世界大戦の末期で3年生以上は学徒工場動員で不在、我々1~2年生は農繁期に戦時召集で男手のない農家へ農作業の手伝いに駆り出されたが、食糧難の当時、昼食に白米を腹一杯に食べられたのと、帰りにさつまいもやじゃがいもを土産に貰ったのが嬉しかったのを覚えています。五条通や堀川通の家屋を被爆による火災の類焼を防ぐために拡幅する目的で撤去する作業に動員され、家屋の支柱や床柱に綱引き用のロープをくくりつけ、クラス全員で引っ張って倒壊させ、その倒壊した材木から各自がバールで釘を抜き取り、武器製造の材料(鉄)とするため集めたりもしました。(注13)
(8)未来を見つめ、平和を願う制服
この制服の持ち主が入学したのは、創立者中川小十郎の亡くなった1944年。卒業のときには末川博学長によって平和と民主主義が全国へ呼びかけられていた。卒業生が前年は42名、翌年は51名だが、この学年は28名しかいなかった。これだけでは言い切れないが、最も困難な時代の学年であったと想像される。その持ち主が卒業して来年で70年となる。傷みはてた古い制服は、その姿をもって平和の尊さを教え、「未来を信じ、未来に生きる」生徒たちを毎日見守ってくれているのである。
《長岡京キャンパス学園展示コーナー その2》
2016年8月25日
立命館 史資料センター
調査研究員 西田 俊博
(注1) 昭和15年、大学では陸軍将校型に変え、中学、商業学校の生徒も陸軍幼年学校型に準じたものに決定された。「立命館創立五十年史」p506
(注2) 「立命館百年史 資料編一」p1541 703 工業学校設置、商業学校夜間部廃止
「立命館工業学校設立理由」
(注3) 「立命館百年史 通史一」第四節付属学校の戦時体制 p750以降より要約
(注4) 昭和18年1月20日勅令 第三十六號 中等學校令 第六條
(注5) 「立命館創立五十年史」p506
(注6) 清和会報第13号 K.Y氏(昭和18年12月商業卒)平成5年5月発行
(注7) 清和会報第16号 T.H氏(昭和26年3月高校卒) 平成8年6月発行
(注8) 1944年1月18日 閣議決定「緊急学徒勤労動員方策要綱」で規定
(注9) 「立命館百年史 資料編一」p1555 706 立命館中学校学徒動員出動工場視察報告
生徒出動工場視察報告
(注10) 1945年3月18日 閣議決定「決戦教育措置要綱」
(注11) 清和会報第15号 S.I氏 昭和20年二中卒 平成7年6月発行
(注12) 清和会報第2号 K.S氏 昭和22年二中卒 昭和56年6月発行
(注13) 清和会報第16号 K.S氏 昭和24年二中卒 平成8年6月発行
2016.08.10
<懐かしの立命館>昭和18年 報国「立命館號」献納顛末
1943(昭和18)年 立命館は総額16万5千円の募金を集め、2機の海軍戦闘機製造費を献納しています。報国第一三〇〇号(第一立命館號)と報国第一三二九号(第二立命館號)です。
献納機を記念する絵葉書には、駆逐艦を背景に飛翔する零式艦上戦闘機二一型が写り、翼に画像合成で報国-1300(第一立命館號)と描かれています。
本項では、立命館 史資料センターに保存されている資料に基づいて、報国「立命館號」の献納顛末をご紹介しましょう。
(立命館が献納した海軍戦闘機絵葉書)
<国防献金・献納機運動>
1931(昭和6)年、満州事変が勃発すると国民による軍部への献金活動(国防献金)が本格的に始まりました。国防献金は軍需物資調達費となり、1932(昭和7)年には軍用機調達のための献金も始まるようになります。
献金は様々な人々の募金によって集められ、献金で製造された機体は「愛国號」(陸軍)、「報国號」(海軍)と呼ばれ、献納機の命名式を経て戦場に送られました。(注1)
1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発し戦火が拡大すると、献金・献納運動もさかんになりました。
小学生の十銭献金や個人の私財を投じた献金(赤誠献金)をはじめ、学校単位、職域単位、婦人会、町村単位から10円、100円~1万円単位の献金が区役所や警察署、新聞社に届けられるようになります。
目的を定めた献金・献納も増え、馬の献納、建艦献納、師団への恤兵金、慰問袋の献納、新聞社主催の「日の丸献納」などが新聞紙上を飾るようになります。
陸海軍の軍用機製造費拠出を目的とした献納機運動も盛んになり、祝祭日などの節目を目標に募金が集められました。
1943(昭和18)年4月・5月の『京都新聞』を見ると、京都市内の各商店からの献金により天皇節(4月29日)に陸軍戦闘機・偵察機・練習機計5機の献納式が岡崎公園で開催され、5月27日の「海軍記念日」(注2)を目標に献金が集められている様子が伺えます。
立命館でも、この1943(昭和18)年に学内の募金によって2機分の海軍艦上戦闘機「報国 立命館號」を献納しています。
<1回目の献納機運動-海軍記念日に向けて->
最初の献納機運動は、1943(昭和18)年立命館中学校の取組から始まっています。
何月から取組を始めたかは趣意書などの史料が無いため不明ですが、5月27日の「海軍記念日」に献納することを目標に、立命館第一、第二、第四中学校、立命館商業学校の生徒が起案し、これに教職員や父兄が協力して8万円を集めています。
当時の献納機では、零式艦上戦闘機が7万~8万円程度でしたから、1機分を集めたことになります。
寄付者には、総長中川小十郎から1,000円、父兄の井上利助氏から2,000円の寄付があったと記録されています。(注3)
「海軍記念日」を目前に様々な行事が国中で行われている最中の5月22日、連合艦隊指令長官山本五十六大将の戦死が報道されました。山本長官はすでに4月18日に戦死していましたが事実が伏せられていて、1ヶ月後の5月21日午後3時に公表されたのです。(注4)
京都市民は、明けて5月22日の『京都新聞』朝刊でこの事実を知ることとなったのです。
連合艦隊司令長官が戦死したというショックは大きく、翌5月23日に山本大将の遺体が東京に帰国すると、京都でも大々的な追悼行事が行われます。
軍楽隊が市中行進を行い山本大将の追悼とともに、「決戦」や「復仇」を声高に叫び、全ての市民に一丸となるよう訴える集会や新聞報道が増えました。
こうして、5月27日の「海軍記念日」を迎えます。
立命館では、かねてから募集していた献納金8万円を、舞鎮人事部(注5)に献納。あわせてこの日、京都市内の大学高専中等学校では午前中から国威発揚の行事が開催され、立命館でも午前十時から軍人や教授の講演を聴き、海軍志願兵を多数輩出した立命館中学校などの学校や2名以上の志願者を出した家庭に対しては海軍から感謝状が送られています。(注6)
<2回目の献納機運動-山本長官国葬日に向けて->
山本長官戦死の報を受けて迎えた海軍記念日は、立命館関係者にとって2回目の献納機運動を発起する日ともなりました。立命館が起案した「海軍戦闘機献納資金募集趣意書」(昭和18年5月27日)には、こう書かれています。
「昭和16年度より現在に至るまで我が立命館中等学校の在校生徒並びに卒業生にして帝国海軍の各科に志願し既に聖戦に参加皇国の御楯として奮戦力闘している勇士の数は、他の中等学校に比し抜群の多きに達している。
依って、今回第三十八回海軍記念日に際し、海軍省より特に表彰せられて軍艦旗一旒を贈与せられた。我等の感激、言い尽くすに言葉がないのである。
時恰も元帥山本海軍大将閣下の壮烈なる戦死の報に接し奮激措く能わず。
茲に我等立命館第一中学校、第二中学校、第四中学校、商業学校生徒一同相議り海軍戦闘機を献納し、以って我等の熱誠を捧げんとするものである。」
発起人は、立命館第一中学校、同第二中学校、同第四中学校、立命館商業学校の生徒一同となっており、一口5円として総額8万5000円を集めるとしています。
こうして始まった2回目の献納機運動は、6月5日の山本長官国葬日に献納することを目標として取り組まれました。
史資料センターには、5月31日付けの中川小十郎総長の寄付領収書と6月1日付けの中川の家族から合計700円分の領収書(写し)が保存されています。中川小十郎個人は、1回目に1,000円、2回目にも1,000円の寄付をしたようです。
中川小十郎総長の昭和18年5月31日付け1,000円寄付の領収書
この取組の最中の5月30日、今度はアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が玉砕したとの報が入ります。
募金運動は、山本長官の戦死にアッツ島の玉砕が加わりより一層加速され、(注7)6月1日には立命館大学学部、専門部、予科の昼間部学生が校庭に集まって各自5円以上を献金する決議をあげ、3日には夜間部学生も同様の決議をし、教職員は25円の献金をすることとなりました。(注8)
6月5日 山本長官国葬の日、京都市内では山本長官国葬にアッツ島守備隊玉砕を機に一層の献納機運動を行う決議が出されます。
京都中の学園でも長官を偲んで遥拝し、米英撃滅を誓う行事が行われる中、立命館では午前10時から約4000名の学生が遥拝式を挙行、中川総長の訓辞の後、集めた献納金8万5千円を舞鎮人事部へ献納しています。
あわせて、専門部の1・3年生は阪神地区の工場へ1週間の労働に従事してその賃金を献金することになりました。(注9)
<9月12日 岡崎運動公園で献納機命名式開催>
5月27日「海軍記念日」と6月5日「山本長官国葬日」に献金した立命館の献納機2機は、1943(昭和18)年9月12日 京都市岡崎公園で「命名式」が開催されることになりました。
8月30日付けで立命館宛に届いた命名式開催案内状には、海軍大臣嶋田繁太郎名で午後1時30分から開催する旨の記載があります。
また「報国号飛行機命名式次第」(昭和18年9月12日)では、第一部は海軍大臣列席の上、国歌奉唱に続いて神事が行われ、献納者代表による献納の辞に続いて海軍大臣から命名を受ける。其の後再び神事を執り行った後に感謝状授与、祝辞・花束贈呈と続き命名式の歌「報国の翼」の合唱、万歳奉唱して閉会という次第で、第二部では軍楽隊演奏と「海行かば」の映画上映という流れでした。
「命名式」会場の略図と「報国の翼」の楽譜の資料も残されています。
命名式は、二条通と平安神宮参道の角地にある岡崎公園で開催。学生児童も参列しています。献納機は実機が展示されるのではなく、本項冒頭の献納機写真が額装されて飾られていました。中央に「式台」があり、ここで祝詞や献納の辞などを上げています。
式台に立ち、献納者代表として「献納の辞」を読み上げる総長中川小十郎と読み上げた「献納の詞」も保存されています。
献納者代表として「献納の辞」を述べる立命館総長中川小十郎
中川小十郎が読み上げた「献納の詞」
献納の辞の後、海軍大臣代理の村上少将から 報国第一三〇〇「第一立命館號」、報国第一三二九「第二立命館號」の命名がありました。
続いて祝辞や祝電披露の後、立命館中学校代表第一中学校五年一組の吹田武史さん、立命館大学学生生徒代表学生総務長の浅野文彰さん、大野道子さん、上田技良さんが「壮途を送る辞」を読み上げ、5歳から10歳までの少女4名がそれぞれ立命館号2機を含めて4機の献納機に花束の贈呈があったと記録されています。(注10)
<最後に>
この「立命館号」がその後どのようになったのか記録はありません。他多くの献納機の顛末と同じようにこれらの資料は失われています。(注11)
立命館での献納機運動も、戦争後半期の国家総動員体制の一部でしかありませんでした。戦局の悪化に伴って、中学や大学の生徒・学生は次々と学徒出陣や学徒勤労動員に駆り出され、キャンパスはしだいにその機能を失い敗戦へとむかうのです。
立命館 史資料センター 奈良英久
(注1)
陸軍「愛国號」海軍「報国號」に関する概要は以下の文献を参考にした。
・横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」 『航空情報』1984年 2,3,12号 酣燈社
・横川裕一「陸軍愛国号献納機調査報告」
http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html(参照2016年7月28日)
・「献納機<愛国号・報国号>」『別冊1億人の昭和史 日本航空史』1979年 p231-235 毎日新聞社
「愛国」「報国」の命名は、軍用機以外にも戦車や艦艇、諸兵器にも付けられている。 軍用機「報国號」の総献納数は不明であるが、横井は「海軍軍備年鑑」等公的諸資料から昭和7年~昭和20年までに1,700~1,800機と想定しており、721機程度同定している。その後の調査を行っている横川は、2016年7月現在横井の調査に追加して約500機を同定している。
「立命館號」の2機は、横川の調査によって追加されている。
(注2)
「海軍記念日」は、1905年5月27日 日露戦争時の日本海海戦における戦勝を記念して制定された日。陸軍の奉天会戦の戦勝日を記念した3月10日の「陸軍記念日」とともに戦時中の一大イベント日であった。
(注3)
『京都新聞』昭和18年5月28日 夕刊(第四版) 二面 記事
「立命館から艦上機を献納す 立命館第一、第二、第四各中学及び同商業生一同は予ねてから艦上機献納運動をおこし、これに教職員父兄等も合併協力、中川総長の一千円、父兄側は井上利助氏二千円等を始め総計八万円を得たので二十七日の海軍記念日に舞鎮人事部に献金した。」
(注4)
この事件を「海軍甲事件」という。
1943年4月18日、ラバウルに滞在していた山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島やショートランド島に駐留している兵士を慰労するため視察飛行を行う計画を執ったが、通信暗号が米軍に解読されていたため、ブーゲンビル島上空で待ち伏せにあって撃墜戦死した。真珠湾攻撃の立役者山本の戦死は、全軍の士気に影響することから事実の公表が控えられ、5月21日なって公表され、勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章、元帥の称号を与えて6月5日国葬とした。あわせて新聞等では山本戦死を忠君愛国の美談として、国民の米英への復讐心を煽り一層の団結と軍への志願・献納を求めるプロパガンダに利用している。
(注5)
舞鎮 は舞鶴鎮守府の略称。
日本海軍の根拠地の一つとして設置された機関で横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府がある。京都は舞鶴鎮守府の所管。
(注6)
『京都新聞』昭和18年5月27日夕刊(第四版)二面には「職場にZ旗の誓 東郷、山本両元帥の心を心とし けふ第三八回海軍記念日」の見出しで、「学園の進軍」と題して京都市内の大学高専中等学校国民学校ではそれぞれの行事が開催され、立命館では午前十時から軍人や教授の講演を聴く。立命館中学など多数の志願者を出した学校には感謝状が送られるとの記事がある。
また、これに先立つ『京都新聞』昭和18年5月9日(第四版)二面には「海軍志願兵徴募に尽した町聯学校等 海軍記念日に表彰」の見出しで「無敵海軍への若き憧れに胸をおどらせる昭和十八年海軍志願兵徴募に尽力、優良な成績をあげた町聯、国民学校、中等学校、市区町村並びに一家から二名以上の志願兵を出した家庭が来る二七日の意義深き海軍記念日知事から表彰せられ感謝状及び記念品(軍艦旗)が贈呈せられることとなり(中略) 中等学校 (中略)私立立命館中学校(後略)」とある。
(注7)
アッツ島玉砕
1942(昭和17)年6月 日本軍はミッドウェー作戦の一環として、アメリカ領アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領。1943(昭和18)年5月12日、アッツ島奪回のためアメリカ軍が上陸し、激戦となった。5月18日大本営はアッツ島放棄を決定。守備隊長山崎保代大佐は戦力補給を要請していたが切り捨てられた形となった。補充の無い約2,700名の守備隊は5月28日崩壊状態となり、翌29日残存300名が最後の突撃を敢行して壊滅、生存は28名だけだった。大本営は山崎大佐の補給要請の事実を隠蔽し「玉砕」という表現を初めて使い軍国美談として5月30日に公表している。
以後、島嶼戦や陣地戦での部隊壊滅には「玉砕」という言葉が使われるようになった。
(注8)
『京都新聞』昭和18年6月4日夕刊(第四版)二面 記事
「挙学復仇に燃ゆ 立命館大学から戦闘機を献納
(前略)躍起した立命館大学学部、専門部、予科の学徒たちの間に盛り上がる殉忠の英魂に応えんとの熱意は、ここに海軍戦闘機献納運動の展開となり、去る一日昼間部全学生が校庭に集い、各自五円以上の献金を決議すれば、ついで三日夜間部全学生も同じく決議、これに呼応して全教職員も起ち、二十五円献出を決議するなど故山本元帥の壮烈なる戦死およびアッツ島守備隊勇士の血戦玉砕の忠節に応えて挙学一致復仇の決意を固めたが、五日山本元帥の国葬日を期し教職員、学生代表が舞鎮人事部へ出頭、戦闘機一機分八万五千円の献納手続を執ることになった、去月二九(ママ)日の海軍記念日に立命館中学ならびに商業から舞鎮に献納手続を執った分と合わせ、立命館から二機の献納命名式が近く学園で盛大に行われる運びである」
(注9)
『京都新聞』昭和18年6月5日夕刊(第三版)二面 記事
「我らも続かん意気 立命館第二号の献金式も
(前略-京都の各学園では、午前中に遥拝や元帥を偲んで米英撃滅の決意を固める式が開かれた)立命館では午前十時から学部、専門部、高商、予科約四千の学徒が校庭で遥拝式を挙行、中川総長の烈々の訓示があって後「海軍戦闘機立命館第二号」の献金式を行い教職員、学生代表は舞鎮人事部へ八万五千円の献金手続きを執った。なお専門部第一、三学年生徒全員は勤労献金を決議、阪神両都市の工場へ各班別に出勤して五日から向こう一週間ハンマーを振るい、報酬の全額を献金することになった(後略)」
(注10)
『京都新聞』 昭和18年9月13日(第四版) 二面 記事(判読不明箇所は■)
「“撃滅”へ輝く首途 四海軍機の献納命名式
苛烈なる航空決戦下米英撃滅の固き決意と共に銃後の赤誠を示して立命館(艦上戦闘機二機)表千家千宗左社中(同一機)京都東山区福稲高原町穴田由太郎氏(同一機)から海軍に献納した海軍機四機に対する献納命名式は十二日午後一時半から京都岡崎公園運動場において海軍大臣代理村上房三少将臨場、平安神宮寺田宮司斎主、友貞操一大佐式委員長の下に盛大且つ厳粛に挙行された。
この日正面祭壇には報国号四機の勇ましい写真が飾られ、定刻京都師団代理相■健大佐以下上條大尉、土橋中尉、村井京都連隊副司令官、在郷将官横地海軍少将はじめ雪澤知事府知事、京都市長代理有本第二助役、森市民防衛部長並びに献納者立命館全学徒等軍官民来賓多数参列と共に開式
国歌奉唱ののち■儀が進められ寺田斎主の祝詞についで献納者代表立命館総長中川小十郎氏、千宗左氏、穴田由太郎氏から献納の辞があって海軍大臣(代理村上少将)から報国号四機に対して第一、第二、立命館号、表千家号、穴田号と厳かに命名されたのち斎主、海軍大臣献納者来賓各代表の玉串奉奠次で海軍大臣(代理村上少将)から献納者に対し感謝状授与並に謝辞あって雪澤京都府知事京都師団長(相■大佐代読)京都市長(有本第二助役)から報国機の首途を祝福する祝辞続いて立命館中等学校代表第一中学五年一組小隊長吹田武史君、立命館大学学生生徒代表学生総務長浅野文彰君、大野道子さん、上田技良君からそれぞれ壮途を送る辞についで満場の拍手に迎えられた■田和■子さん(七つ)田中なをみさん(五つ)■陽理代さん(六つ)上田トモさん(一〇)が可愛い姿で報国機に花束贈呈ののち軍楽隊奏楽により命名式の歌“報国の翼”を合唱万歳奉唱、友貞委員長から挨拶があって同三時滞りなく終了
引続き同式場で■■■■中尉指揮の下に軍楽隊員により“行進曲”“海軍の歌”を始め“爆撃機■■く■”等七曲目の演奏が行われ参列者へ多大の感銘を与えた、またこの日式場上空へ飛来した海鷲三機は空から友機の首途を祝福した。
(注11)
本項は、立命館史資料センター所有の資料と『京都新聞』昭和18年4月~9月掲載の記事を元に作成したが、他の公的資料等の調査を継続すれば、もう少し事実が判明することもあろうと考える。
現時点で事実関係の調査が必要な点を挙げておく。
①立命館号の献納金の募集については、新聞報道に基づけば、1回目(5/27集約)は立命館中学校、2回目(6/5集約)は立命館大学の募金であろうと思われるが、典拠は発見できなかった。また、史資料センター所蔵資料の2回目募金の趣意書の発起人が中学校となっているため、2回目が立命館大学だけの募金であると断定できない。どちらも中学・大学が募金している可能性もあるため本文では特定していない。
②1回目の募金の始期は典拠が無いため不明としたが、5月22日山本長官戦死の報以降京都市内では献納機運動が盛んになっていることから、5月22日直後に発起した可能性もある。
③本文執筆の参考とした横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」によれば同一献納者が複数の献納をする場合、陸軍機(愛国号)海軍機(報国号)の按分しており、特別の理由がある場合どちらかの軍の機体だけの献納であった。2機を献納した立命館の場合、海軍志願兵を多数送り出し、海軍より表彰された関係で海軍機(報国号)だけになったと思われる。
④「立命館号」の絵葉書は零式艦上戦闘機二一型であるが、他の機種であった可能性がある。横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」によれば、昭和17年以降の献納機写真に96式艦上戦闘機のものがあること、また戦闘機は零戦ばかりで紫電や雷電の絵葉書が存在しないことから、防諜上の理由などから、戦闘機はすべて零戦の写真で代用したのではないかと推測している。
⑤昭和18年5月27日に発起した2回目の献納募金の発起人に「立命館商業学校」があるが、「立命館商業学校」は昭和18年4月30日に昼間部が廃止され、同日を持って「立命館第三中学校」に再編されている。従って2回目の献納募金発起人は本来「立命館商業学校」ではなく「立命館第三中学校」でなければならないはずである。なぜ「立命館商業学校」のままであるかは不明である。