立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2016.08.10
<懐かしの立命館>昭和18年 報国「立命館號」献納顛末
1943(昭和18)年 立命館は総額16万5千円の募金を集め、2機の海軍戦闘機製造費を献納しています。報国第一三〇〇号(第一立命館號)と報国第一三二九号(第二立命館號)です。
献納機を記念する絵葉書には、駆逐艦を背景に飛翔する零式艦上戦闘機二一型が写り、翼に画像合成で報国-1300(第一立命館號)と描かれています。
本項では、立命館 史資料センターに保存されている資料に基づいて、報国「立命館號」の献納顛末をご紹介しましょう。
(立命館が献納した海軍戦闘機絵葉書)
<国防献金・献納機運動>
1931(昭和6)年、満州事変が勃発すると国民による軍部への献金活動(国防献金)が本格的に始まりました。国防献金は軍需物資調達費となり、1932(昭和7)年には軍用機調達のための献金も始まるようになります。
献金は様々な人々の募金によって集められ、献金で製造された機体は「愛国號」(陸軍)、「報国號」(海軍)と呼ばれ、献納機の命名式を経て戦場に送られました。(注1)
1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発し戦火が拡大すると、献金・献納運動もさかんになりました。
小学生の十銭献金や個人の私財を投じた献金(赤誠献金)をはじめ、学校単位、職域単位、婦人会、町村単位から10円、100円~1万円単位の献金が区役所や警察署、新聞社に届けられるようになります。
目的を定めた献金・献納も増え、馬の献納、建艦献納、師団への恤兵金、慰問袋の献納、新聞社主催の「日の丸献納」などが新聞紙上を飾るようになります。
陸海軍の軍用機製造費拠出を目的とした献納機運動も盛んになり、祝祭日などの節目を目標に募金が集められました。
1943(昭和18)年4月・5月の『京都新聞』を見ると、京都市内の各商店からの献金により天皇節(4月29日)に陸軍戦闘機・偵察機・練習機計5機の献納式が岡崎公園で開催され、5月27日の「海軍記念日」(注2)を目標に献金が集められている様子が伺えます。
立命館でも、この1943(昭和18)年に学内の募金によって2機分の海軍艦上戦闘機「報国 立命館號」を献納しています。
<1回目の献納機運動-海軍記念日に向けて->
最初の献納機運動は、1943(昭和18)年立命館中学校の取組から始まっています。
何月から取組を始めたかは趣意書などの史料が無いため不明ですが、5月27日の「海軍記念日」に献納することを目標に、立命館第一、第二、第四中学校、立命館商業学校の生徒が起案し、これに教職員や父兄が協力して8万円を集めています。
当時の献納機では、零式艦上戦闘機が7万~8万円程度でしたから、1機分を集めたことになります。
寄付者には、総長中川小十郎から1,000円、父兄の井上利助氏から2,000円の寄付があったと記録されています。(注3)
「海軍記念日」を目前に様々な行事が国中で行われている最中の5月22日、連合艦隊指令長官山本五十六大将の戦死が報道されました。山本長官はすでに4月18日に戦死していましたが事実が伏せられていて、1ヶ月後の5月21日午後3時に公表されたのです。(注4)
京都市民は、明けて5月22日の『京都新聞』朝刊でこの事実を知ることとなったのです。
連合艦隊司令長官が戦死したというショックは大きく、翌5月23日に山本大将の遺体が東京に帰国すると、京都でも大々的な追悼行事が行われます。
軍楽隊が市中行進を行い山本大将の追悼とともに、「決戦」や「復仇」を声高に叫び、全ての市民に一丸となるよう訴える集会や新聞報道が増えました。
こうして、5月27日の「海軍記念日」を迎えます。
立命館では、かねてから募集していた献納金8万円を、舞鎮人事部(注5)に献納。あわせてこの日、京都市内の大学高専中等学校では午前中から国威発揚の行事が開催され、立命館でも午前十時から軍人や教授の講演を聴き、海軍志願兵を多数輩出した立命館中学校などの学校や2名以上の志願者を出した家庭に対しては海軍から感謝状が送られています。(注6)
<2回目の献納機運動-山本長官国葬日に向けて->
山本長官戦死の報を受けて迎えた海軍記念日は、立命館関係者にとって2回目の献納機運動を発起する日ともなりました。立命館が起案した「海軍戦闘機献納資金募集趣意書」(昭和18年5月27日)には、こう書かれています。
「昭和16年度より現在に至るまで我が立命館中等学校の在校生徒並びに卒業生にして帝国海軍の各科に志願し既に聖戦に参加皇国の御楯として奮戦力闘している勇士の数は、他の中等学校に比し抜群の多きに達している。
依って、今回第三十八回海軍記念日に際し、海軍省より特に表彰せられて軍艦旗一旒を贈与せられた。我等の感激、言い尽くすに言葉がないのである。
時恰も元帥山本海軍大将閣下の壮烈なる戦死の報に接し奮激措く能わず。
茲に我等立命館第一中学校、第二中学校、第四中学校、商業学校生徒一同相議り海軍戦闘機を献納し、以って我等の熱誠を捧げんとするものである。」
発起人は、立命館第一中学校、同第二中学校、同第四中学校、立命館商業学校の生徒一同となっており、一口5円として総額8万5000円を集めるとしています。
こうして始まった2回目の献納機運動は、6月5日の山本長官国葬日に献納することを目標として取り組まれました。
史資料センターには、5月31日付けの中川小十郎総長の寄付領収書と6月1日付けの中川の家族から合計700円分の領収書(写し)が保存されています。中川小十郎個人は、1回目に1,000円、2回目にも1,000円の寄付をしたようです。
中川小十郎総長の昭和18年5月31日付け1,000円寄付の領収書
この取組の最中の5月30日、今度はアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が玉砕したとの報が入ります。
募金運動は、山本長官の戦死にアッツ島の玉砕が加わりより一層加速され、(注7)6月1日には立命館大学学部、専門部、予科の昼間部学生が校庭に集まって各自5円以上を献金する決議をあげ、3日には夜間部学生も同様の決議をし、教職員は25円の献金をすることとなりました。(注8)
6月5日 山本長官国葬の日、京都市内では山本長官国葬にアッツ島守備隊玉砕を機に一層の献納機運動を行う決議が出されます。
京都中の学園でも長官を偲んで遥拝し、米英撃滅を誓う行事が行われる中、立命館では午前10時から約4000名の学生が遥拝式を挙行、中川総長の訓辞の後、集めた献納金8万5千円を舞鎮人事部へ献納しています。
あわせて、専門部の1・3年生は阪神地区の工場へ1週間の労働に従事してその賃金を献金することになりました。(注9)
<9月12日 岡崎運動公園で献納機命名式開催>
5月27日「海軍記念日」と6月5日「山本長官国葬日」に献金した立命館の献納機2機は、1943(昭和18)年9月12日 京都市岡崎公園で「命名式」が開催されることになりました。
8月30日付けで立命館宛に届いた命名式開催案内状には、海軍大臣嶋田繁太郎名で午後1時30分から開催する旨の記載があります。
また「報国号飛行機命名式次第」(昭和18年9月12日)では、第一部は海軍大臣列席の上、国歌奉唱に続いて神事が行われ、献納者代表による献納の辞に続いて海軍大臣から命名を受ける。其の後再び神事を執り行った後に感謝状授与、祝辞・花束贈呈と続き命名式の歌「報国の翼」の合唱、万歳奉唱して閉会という次第で、第二部では軍楽隊演奏と「海行かば」の映画上映という流れでした。
「命名式」会場の略図と「報国の翼」の楽譜の資料も残されています。
命名式は、二条通と平安神宮参道の角地にある岡崎公園で開催。学生児童も参列しています。献納機は実機が展示されるのではなく、本項冒頭の献納機写真が額装されて飾られていました。中央に「式台」があり、ここで祝詞や献納の辞などを上げています。
式台に立ち、献納者代表として「献納の辞」を読み上げる総長中川小十郎と読み上げた「献納の詞」も保存されています。
献納者代表として「献納の辞」を述べる立命館総長中川小十郎
中川小十郎が読み上げた「献納の詞」
献納の辞の後、海軍大臣代理の村上少将から 報国第一三〇〇「第一立命館號」、報国第一三二九「第二立命館號」の命名がありました。
続いて祝辞や祝電披露の後、立命館中学校代表第一中学校五年一組の吹田武史さん、立命館大学学生生徒代表学生総務長の浅野文彰さん、大野道子さん、上田技良さんが「壮途を送る辞」を読み上げ、5歳から10歳までの少女4名がそれぞれ立命館号2機を含めて4機の献納機に花束の贈呈があったと記録されています。(注10)
<最後に>
この「立命館号」がその後どのようになったのか記録はありません。他多くの献納機の顛末と同じようにこれらの資料は失われています。(注11)
立命館での献納機運動も、戦争後半期の国家総動員体制の一部でしかありませんでした。戦局の悪化に伴って、中学や大学の生徒・学生は次々と学徒出陣や学徒勤労動員に駆り出され、キャンパスはしだいにその機能を失い敗戦へとむかうのです。
立命館 史資料センター 奈良英久
(注1)
陸軍「愛国號」海軍「報国號」に関する概要は以下の文献を参考にした。
・横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」 『航空情報』1984年 2,3,12号 酣燈社
・横川裕一「陸軍愛国号献納機調査報告」
http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html(参照2016年7月28日)
・「献納機<愛国号・報国号>」『別冊1億人の昭和史 日本航空史』1979年 p231-235 毎日新聞社
「愛国」「報国」の命名は、軍用機以外にも戦車や艦艇、諸兵器にも付けられている。 軍用機「報国號」の総献納数は不明であるが、横井は「海軍軍備年鑑」等公的諸資料から昭和7年~昭和20年までに1,700~1,800機と想定しており、721機程度同定している。その後の調査を行っている横川は、2016年7月現在横井の調査に追加して約500機を同定している。
「立命館號」の2機は、横川の調査によって追加されている。
(注2)
「海軍記念日」は、1905年5月27日 日露戦争時の日本海海戦における戦勝を記念して制定された日。陸軍の奉天会戦の戦勝日を記念した3月10日の「陸軍記念日」とともに戦時中の一大イベント日であった。
(注3)
『京都新聞』昭和18年5月28日 夕刊(第四版) 二面 記事
「立命館から艦上機を献納す 立命館第一、第二、第四各中学及び同商業生一同は予ねてから艦上機献納運動をおこし、これに教職員父兄等も合併協力、中川総長の一千円、父兄側は井上利助氏二千円等を始め総計八万円を得たので二十七日の海軍記念日に舞鎮人事部に献金した。」
(注4)
この事件を「海軍甲事件」という。
1943年4月18日、ラバウルに滞在していた山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島やショートランド島に駐留している兵士を慰労するため視察飛行を行う計画を執ったが、通信暗号が米軍に解読されていたため、ブーゲンビル島上空で待ち伏せにあって撃墜戦死した。真珠湾攻撃の立役者山本の戦死は、全軍の士気に影響することから事実の公表が控えられ、5月21日なって公表され、勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章、元帥の称号を与えて6月5日国葬とした。あわせて新聞等では山本戦死を忠君愛国の美談として、国民の米英への復讐心を煽り一層の団結と軍への志願・献納を求めるプロパガンダに利用している。
(注5)
舞鎮 は舞鶴鎮守府の略称。
日本海軍の根拠地の一つとして設置された機関で横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府がある。京都は舞鶴鎮守府の所管。
(注6)
『京都新聞』昭和18年5月27日夕刊(第四版)二面には「職場にZ旗の誓 東郷、山本両元帥の心を心とし けふ第三八回海軍記念日」の見出しで、「学園の進軍」と題して京都市内の大学高専中等学校国民学校ではそれぞれの行事が開催され、立命館では午前十時から軍人や教授の講演を聴く。立命館中学など多数の志願者を出した学校には感謝状が送られるとの記事がある。
また、これに先立つ『京都新聞』昭和18年5月9日(第四版)二面には「海軍志願兵徴募に尽した町聯学校等 海軍記念日に表彰」の見出しで「無敵海軍への若き憧れに胸をおどらせる昭和十八年海軍志願兵徴募に尽力、優良な成績をあげた町聯、国民学校、中等学校、市区町村並びに一家から二名以上の志願兵を出した家庭が来る二七日の意義深き海軍記念日知事から表彰せられ感謝状及び記念品(軍艦旗)が贈呈せられることとなり(中略) 中等学校 (中略)私立立命館中学校(後略)」とある。
(注7)
アッツ島玉砕
1942(昭和17)年6月 日本軍はミッドウェー作戦の一環として、アメリカ領アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領。1943(昭和18)年5月12日、アッツ島奪回のためアメリカ軍が上陸し、激戦となった。5月18日大本営はアッツ島放棄を決定。守備隊長山崎保代大佐は戦力補給を要請していたが切り捨てられた形となった。補充の無い約2,700名の守備隊は5月28日崩壊状態となり、翌29日残存300名が最後の突撃を敢行して壊滅、生存は28名だけだった。大本営は山崎大佐の補給要請の事実を隠蔽し「玉砕」という表現を初めて使い軍国美談として5月30日に公表している。
以後、島嶼戦や陣地戦での部隊壊滅には「玉砕」という言葉が使われるようになった。
(注8)
『京都新聞』昭和18年6月4日夕刊(第四版)二面 記事
「挙学復仇に燃ゆ 立命館大学から戦闘機を献納
(前略)躍起した立命館大学学部、専門部、予科の学徒たちの間に盛り上がる殉忠の英魂に応えんとの熱意は、ここに海軍戦闘機献納運動の展開となり、去る一日昼間部全学生が校庭に集い、各自五円以上の献金を決議すれば、ついで三日夜間部全学生も同じく決議、これに呼応して全教職員も起ち、二十五円献出を決議するなど故山本元帥の壮烈なる戦死およびアッツ島守備隊勇士の血戦玉砕の忠節に応えて挙学一致復仇の決意を固めたが、五日山本元帥の国葬日を期し教職員、学生代表が舞鎮人事部へ出頭、戦闘機一機分八万五千円の献納手続を執ることになった、去月二九(ママ)日の海軍記念日に立命館中学ならびに商業から舞鎮に献納手続を執った分と合わせ、立命館から二機の献納命名式が近く学園で盛大に行われる運びである」
(注9)
『京都新聞』昭和18年6月5日夕刊(第三版)二面 記事
「我らも続かん意気 立命館第二号の献金式も
(前略-京都の各学園では、午前中に遥拝や元帥を偲んで米英撃滅の決意を固める式が開かれた)立命館では午前十時から学部、専門部、高商、予科約四千の学徒が校庭で遥拝式を挙行、中川総長の烈々の訓示があって後「海軍戦闘機立命館第二号」の献金式を行い教職員、学生代表は舞鎮人事部へ八万五千円の献金手続きを執った。なお専門部第一、三学年生徒全員は勤労献金を決議、阪神両都市の工場へ各班別に出勤して五日から向こう一週間ハンマーを振るい、報酬の全額を献金することになった(後略)」
(注10)
『京都新聞』 昭和18年9月13日(第四版) 二面 記事(判読不明箇所は■)
「“撃滅”へ輝く首途 四海軍機の献納命名式
苛烈なる航空決戦下米英撃滅の固き決意と共に銃後の赤誠を示して立命館(艦上戦闘機二機)表千家千宗左社中(同一機)京都東山区福稲高原町穴田由太郎氏(同一機)から海軍に献納した海軍機四機に対する献納命名式は十二日午後一時半から京都岡崎公園運動場において海軍大臣代理村上房三少将臨場、平安神宮寺田宮司斎主、友貞操一大佐式委員長の下に盛大且つ厳粛に挙行された。
この日正面祭壇には報国号四機の勇ましい写真が飾られ、定刻京都師団代理相■健大佐以下上條大尉、土橋中尉、村井京都連隊副司令官、在郷将官横地海軍少将はじめ雪澤知事府知事、京都市長代理有本第二助役、森市民防衛部長並びに献納者立命館全学徒等軍官民来賓多数参列と共に開式
国歌奉唱ののち■儀が進められ寺田斎主の祝詞についで献納者代表立命館総長中川小十郎氏、千宗左氏、穴田由太郎氏から献納の辞があって海軍大臣(代理村上少将)から報国号四機に対して第一、第二、立命館号、表千家号、穴田号と厳かに命名されたのち斎主、海軍大臣献納者来賓各代表の玉串奉奠次で海軍大臣(代理村上少将)から献納者に対し感謝状授与並に謝辞あって雪澤京都府知事京都師団長(相■大佐代読)京都市長(有本第二助役)から報国機の首途を祝福する祝辞続いて立命館中等学校代表第一中学五年一組小隊長吹田武史君、立命館大学学生生徒代表学生総務長浅野文彰君、大野道子さん、上田技良君からそれぞれ壮途を送る辞についで満場の拍手に迎えられた■田和■子さん(七つ)田中なをみさん(五つ)■陽理代さん(六つ)上田トモさん(一〇)が可愛い姿で報国機に花束贈呈ののち軍楽隊奏楽により命名式の歌“報国の翼”を合唱万歳奉唱、友貞委員長から挨拶があって同三時滞りなく終了
引続き同式場で■■■■中尉指揮の下に軍楽隊員により“行進曲”“海軍の歌”を始め“爆撃機■■く■”等七曲目の演奏が行われ参列者へ多大の感銘を与えた、またこの日式場上空へ飛来した海鷲三機は空から友機の首途を祝福した。
(注11)
本項は、立命館史資料センター所有の資料と『京都新聞』昭和18年4月~9月掲載の記事を元に作成したが、他の公的資料等の調査を継続すれば、もう少し事実が判明することもあろうと考える。
現時点で事実関係の調査が必要な点を挙げておく。
①立命館号の献納金の募集については、新聞報道に基づけば、1回目(5/27集約)は立命館中学校、2回目(6/5集約)は立命館大学の募金であろうと思われるが、典拠は発見できなかった。また、史資料センター所蔵資料の2回目募金の趣意書の発起人が中学校となっているため、2回目が立命館大学だけの募金であると断定できない。どちらも中学・大学が募金している可能性もあるため本文では特定していない。
②1回目の募金の始期は典拠が無いため不明としたが、5月22日山本長官戦死の報以降京都市内では献納機運動が盛んになっていることから、5月22日直後に発起した可能性もある。
③本文執筆の参考とした横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」によれば同一献納者が複数の献納をする場合、陸軍機(愛国号)海軍機(報国号)の按分しており、特別の理由がある場合どちらかの軍の機体だけの献納であった。2機を献納した立命館の場合、海軍志願兵を多数送り出し、海軍より表彰された関係で海軍機(報国号)だけになったと思われる。
④「立命館号」の絵葉書は零式艦上戦闘機二一型であるが、他の機種であった可能性がある。横井忠俊「報国号海軍機の全容を追う-その中間報告-」によれば、昭和17年以降の献納機写真に96式艦上戦闘機のものがあること、また戦闘機は零戦ばかりで紫電や雷電の絵葉書が存在しないことから、防諜上の理由などから、戦闘機はすべて零戦の写真で代用したのではないかと推測している。
⑤昭和18年5月27日に発起した2回目の献納募金の発起人に「立命館商業学校」があるが、「立命館商業学校」は昭和18年4月30日に昼間部が廃止され、同日を持って「立命館第三中学校」に再編されている。従って2回目の献納募金発起人は本来「立命館商業学校」ではなく「立命館第三中学校」でなければならないはずである。なぜ「立命館商業学校」のままであるかは不明である。
2016.07.29
<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲
「昭和22年立命館専経同窓会」懇談会より
アジア・太平洋戦争の時代、時局の悪化に伴って学生や生徒は強制的に動員され、あるいは戦地に、あるいは工場労働や農業建設に駆り出されていきました。立命館でも同じように若者たちは学業半ばで動員されていきました。
本稿は、当時豊川海軍工廠に学徒勤労動員で勤務した校友のお話です。
平成27(2015)年11月18日 水曜日、立命館の卒業生が愛知県豊川海軍工廠空襲で犠牲となった同窓生を追悼し、戦時下の自分たちの学生生活を語り始めました。その人たちは「昭和22年立命館専経同窓会」(以下「同窓会」)(注1)の方々です。座談会の出席者には事前に、次のような項目をお知らせして語ってもらいました。
・豊川海軍工廠での生活について、
・空襲当日の行動について、
・犠牲になった4名の遺骨収集について、
・慰霊活動と慰霊碑建立について、
などでした。「懇談会」の詳細な記録は「同窓会」懇談会資料として立命館史資料センターに保存されています。この文書はその資料をもとに概略をまとめたものです。
座談会の発言内容は多岐にわたっていますので、豊川海軍工廠での勤労体験を中心として筆者の責任で要約いたしました。また、個人名につきましてはイニシヤルとしています。
当日の出席者は次の通りです。
昭和22年立命館専経同窓会の方々 T・K氏 S・T氏 Y・I氏
空襲犠牲となった本田義次さんの弟のH・A氏、妹のR・H氏
立命館愛知校友会東三河支部の方 S・M氏 A・Y氏
他に立命館大学社会連携部、1名、立命館史資料センター3名
参加者のお1人は、「この懇談会が最後となるでしょう」と語り、この懇談会の1ヶ月後に逝去されました。氏はこの懇談会で初めて空襲で犠牲となった友の遺体を探し、友の位牌を学校に届けた辛い経験、そして終戦後、生まれて初めてというくらい勉強ができたと語っています。その言葉には重みがあり現代の学生に対する氏のメッセージのように思えました。
戦時下の学園
昭和17(1942)年、アジア・太平洋戦争の戦局に早くも陰りが見えはじめ、戦局の厳しさが現実となりつつあった。そんな中、文部省は昭和18(1943)年10月に「学校教育の敵前転回」といわれ、高等教育体系破壊である決戦即応措置を発表しました。
昭和18(1943)年10月22日付、文部省から「教育に関する戦時非常措置方策に関する件」としてだされた通達には「附属専門部に関する措置」として専門学校への改組転換を促す内容もありました。この通達によって各大学専門部は専門学校に転換されていったのです。(注2)
この通達にもとづき立命館大学専門学部も昭和19(1944)年法経・文・理・工の四学科を置く立命館専門学校となったのです。「懇談会」の方々はこの1期生ということになります。
中京方面では豊川海軍工廠に最も多くの学徒が動員されていた
政府の戦時非常措置方策にもとづき、急激に学徒勤労動員が各学校に割り当てられ、終戦まで続きます。立命館史資料センターに保存されている『昭和19年8月 中京方面出動学徒勤労状況視察報告 立命館』(以下、『報告書』)(注3)によれば愛知県豊川海軍工廠については、次のように報告されています。
動員学徒数は学部 3年5名、予科2,3年138名、専門学校法経学科3年115名の合計258名、その主な労務は各種砲弾の製造です。豊川海軍工廠では、学部、専門学校の学生が主に光学部精密工場、火工部第2信管工場、火工部第4信管工場に動員され、予科の学生は火工部第Ⅱ信管工場、火工部弾丸工場、光学部精密工場に学生が動員されています。
宿舎は第10工員宿舎第111、112寮が割りあてられ、1室に6人から10人が宿泊しました。工廠では三交代制で24時間フル稼動の勤務でした。この『報告書』には他の中京方面の動員先と人数も報告されています。陸軍明野飛行場建設作業場に121名、愛知時計電機株式会社に41名、株式会社豊田製鋼所に64名、日本油脂火薬工業株式会社に70名でした。
この人数と比較すると豊川海軍工廠への動員がいかに多数であったかがわかると思います。当然、最も多くの学徒を動員していた「海軍工廠」が空襲を受ければ、その爆撃による危険度が高くなることは十分に理解できます。結果、「海軍工廠」は大きな被害を受けることになります。
豊川海軍工廠の空襲は、広島と長崎への原爆投下の間におきた大規模な空襲だった
豊川海軍工廠は昭和14(1939)年に機銃部と火工部から始まり、その後光学部・指揮兵器部・機材部が新たにできます。この工廠は91の区画に仕切られ186ha(BKCキャンパス=約22.5haの約8.4倍)の敷地の中に工場群が整然と並んでいました。周辺には、1000床規模の豊川海軍共済病院、第1工員養成所、会議所があり、少し離れて女子寄宿舎、男子寄宿舎、さらに男女学徒寮もありました。
工廠は、昭和20(1945)年8月7日米軍の空襲を受けますが、この頃工廠には職員700人、工員10,000人、徴用工員・女子挺身隊・朝鮮人徴用工40,000人、動員学徒6,000人の合計56,700人が働いていました。そのうち徴用工員・女子挺身隊・朝鮮人徴用工、動員学徒の数は46,000人(81.1%)にものぼります。8月7日の空襲によって犠牲となった人数は2,517名といわれ、その内、勤労動員学徒は452名となっています。
犠牲者の数をみると勤労動員された中学生、高等女学校生徒の犠牲者が顕著に多いことがわかります。
この犠牲者の中に立命館専門学校在学中の石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんがおられます。
座談会 豊川海軍工廠学徒勤労動員の思い出
この記録は懇談会資料(立命館史資料センター保存)をもとに概略をまとめたものです。
【T・K氏】 「回天」とか人間魚雷の潜望鏡になる部分を作っていた。
T・K氏は、京都市中京区姉小路通り新町にK家4男(昭和2(1927)年9月4日生)として生まれ、京都市立龍池(たついけ)小学校卒業後、立命館商業学校に入学、昭和19(1944)年4月1日に立命館専門学校に入学しました。この年から立命館大学専門学部は立命館専門学校に改組します。ですからT・K氏をはじめ昭和22年立命館専経同窓会のみなさんは立命館専門学校の第一期生にあたります。
T・K氏は入学してから「すぐに勉強より教練ばかり、剣道とか銃剣とか、そういったことばかり」励んでいたようですが、入学した半年後の昭和19(1944)年の9月10日には豊川海軍工廠に勤労動員で行っています。昭和20(1945年)6月に繰り上げ召集(注4)によって入隊し終戦を迎えます。1年あまりの豊川海軍工廠の経験を次のように語っています。
当時、豊川海軍工廠は東洋一の規模で海軍の兵器を生産していた工場でした。ここに258名の学生が動員されました。わたしは豊川海軍工廠では、フライス盤で長さ1m、直径10m余の鉄管の中央部に7cm×10㎝位の処を平面に削る作業でした。それは何になるのかと後でわかったわけですが、「回天」(注5)とか人間魚雷の潜望鏡のレンズにあたる部分を造っていました。
学徒寮の不衛生と食事のまずさには閉口した。
夏なんか工場から帰って、足を洗ってから部屋に行くわけですが、部屋にいくまでの廊下を歩いただけで足に蚤がくっついてきます。毎日ですから、これは手に負えんわ、なれなしゃないなという気持ちになります。食事はというと、食堂に入った瞬間に臭いんです。何でやいうと、糞や内臓を除去していないイナゴが毎日のように出されのですが、これには閉口しました。これも「万事が団体生活」と従いましたが。
勤労と寮生活に耐えられない生徒に対する軍の罰を代わりに受けた、そんなやさしい先生がいた。
厳しい労働と不衛生な生活と食事に耐えられない生徒が出てきます。そうすると将校がやってきて「お前のところはけしからん」と罰則が科されます。M・O先生は将校に対して直接学生に手を出してくれるな。学校の責任だから学校から教えるからと軍から直接罰を受けないよう守っていました。それでもできない子がおりますので、M・O先生はその子の代わりに自ら罰の便所掃除をしておりました。そんなやさしい先生がおりました。
【S・T氏】 犠牲者となった本多義次さんの位牌を持ち帰り大学に届けた。
S・T氏は豊川海軍工廠への勤労動員について大学が聞きたいというので、座談会に参加してくれました。S・T氏は豊川海軍工廠への勤労動員第一陣として勤務し、空襲の当日も勤労学徒として働いていました。空襲で犠牲となった犠牲者の一人、本多義次さんの位牌を持ち帰って、大学に届けた経験をもつ数少ない方です。
S・T氏は京都市東山区出身で現在は大津市在住で立命館商業学校から立命館専門学校法経学科経済科へ入学しました。入学したその年から豊川海軍工廠に勤労動員されました。その体験を次のように語っています。
豊川海軍工廠に動員された経過は学校のほうからここに行けということでしたので、当然のように参加しました。豊川海軍工廠では最初は工場のほうの旋盤工をやっておりましたが、途中から事務方へ、作業係に変わるように言われました。空襲を受けたときは、事務の仕事をしていました。その日の朝、海軍の士官としゃべっておりましたら、昨日(昭和20年8月6日)、広島で新型爆弾が落ちたというので、「どないして防いだらいいのか、いろいろ考えてるんやけど」というような会話をかわしていました。その会話が終わった11時前後やったと思いますが、爆撃が始まりました。その時、班長が早く逃げるよう言ってくれたので一緒に逃げて地下の防空壕へ飛び込んだ。それでも工廠はB29でどんどんやられていましたので、「これで一生終わりかな」と思っていましたら、爆撃も終わって助かりました。
ドキュメント 豊川海軍工廠空襲(『新編豊川市史』資料編近代)
日時 昭和20(1945)年8月7日 目標 豊川海軍工廠 出撃米軍機 131機
目標(豊川海軍工廠)上空時間 8月7日10時13分~10時39分(26分間) 投下爆弾トン数量 816.8トン
出撃米軍機 131機 投下爆弾トン数 816.8トン
10:06東海軍管区発令「120機以上の敵B29爆撃機を主体とする大編成隊、愛知県豊川空襲に向かう模様」
10:0?(ママ) 工廠本部発令「警戒警報発令、敵の先頭目標は知多半島中部を東北進中、空襲警報、…女子ならびに低学年学徒退避せよ」
10:13 豊川海軍工廠高角砲が一斉に砲火する。ほとんどの工場は退避していない。
次に9機、12機と飛来し爆撃
11:1?(ママ) 工廠本部総員退避命令。
その爆撃が終わってみたら、立命館の一緒にいた連中が4人おらんということがわかり、早速探しました。私は、相原和男君が私の隣の部屋で寝泊りしていたもんですから、どうしても見つけたらなあかんと思って、工場の東から西まで3日、4日かけてずっと遺体を探し回りました。空襲が10時か11時ごろでしたから、何も食べずに広い海軍工廠の工場に転がっている遺体をずっと見て回りました。随分沢山の遺体の顔を見ましたが、「違う」「ここにはない」といって必死で探し回りました。結局4人はわからずじまいで、とうとう見つけ出すことができませんでした。本当に遺族の方々にお詫びしたい気持ちです。
終戦の1週間後、友の位牌を学校に届けた。
戦争が終わった8月15日(昭和20年)、それから1週間たってから、位牌(いはい)、といってもみんな行方不明ですから遺骨はないんです。あれは何が入っとったんかわからんけども、軽かったですからね。それを持って京都へ帰ってまいりました。そのとき私、感激したのは、当時終戦直後で列車にはみんな窓から入るぐらいやったのに、位牌を持っている私にはみんな席を空けてくれるんです。「どうぞ座って下さい」、「ここへ座れ、座れ」と言って。それで豊橋から京都まで座らせていただいて位牌を学校へ届けました。
学校では次の日、豊川海軍工廠に勤労動員していた者全員が集められましが、その時でもやはり4人はわからずじまいでした。結局4人のことはわからずじまいなんです。
終戦後、S・T氏は復学し、昭和22年立命館専門学校法経学科経済科を卒業、その後も本学夜間部に進み卒業しました。
【Y・I氏】 入学してすぐに勤労奉仕が続き、学校におったのは三ヶ月ほど。
Y・I氏は滋賀県近江八幡の南、日野町(現在、滋賀県近江八幡市日野町)に生まれ、中学は水口中学校(現在の甲賀高校)を卒業後、立命館専門学校に入学しました。入学してしばらくすると次から次と勤労奉仕が続き「本当に学校におったのは三ヶ月ほど」と語るほど戦時下に青春をすごします。氏は豊川海軍工廠での労働実態が三交代制で毎日が「眠とうてしゃあない」といい、その後昭和20(1945)年2月に繰り上げ召集で軍隊に入った後は「軍隊より豊川海軍工廠の勤労動員のほうがきつかった」とその過酷な労働について語っています。
勤労は三交替制でした。一直は朝の8時から夕刻5時まで、二直は夕刻4時から深夜12時まで、三直は深夜12時から朝8時までの三交代で工場へ行くわけです。私は第2工場、光学部と光学機械にいきまして特殊潜航艇の潜望鏡などを旋盤で削っていました。勤務は三交代制のため、夜中眠とうてしゃあないですけどそういうわけにいきません。夜勤でいくと「昼、寝とれ」とよく言われましたが、昼なんか暑いのでなかなか寝られやしません。そこに持ってきて、シラミ、ノミが多いときてますから、寝れるどころではありません。
豊川海軍工廠での勤労動員の方が軍隊よりひどかった。兵隊にはあんなひどいイナゴなんか食べさせませんでした。我々の3分の2は召集され豊川海軍工廠の宿舎を出て、中には志願で特攻隊にいった者もいるが、結局3分の1ぐらいが生きていました。S・T氏をはじめ2、30人、三十人残ったわけです。それが今、S・T氏から聞いたけど、我々、同じ仲間でも最後まで残っていた方のほうが凄惨だったというのを、今日、初めて聞きました。そんなにひどい状況だったということをね。
【本田義次さんのご兄妹】
最後に、本田義次さんのご兄妹に今回初めてお話を聞くことができました。
弟のH・A氏、妹のR・H氏は、兄をこの空襲で亡くしました。お二人は年いくほどに母親の気持ちがわかるようになりました。自分らの息子、孫にはこんな経験をさせたくない、と遺族として初めて大学にその苦しみを語ってくれました。
本田義次は、本田家の長男でして出身地は京都府向日市です。あの事件が起きたのは小学校4年生頃だったと思います。私のところの家はもともとお米屋で商売人でしたから、息子はみんな商業科コースにいくべきだ、というような方針だったらしいです。しかし結局、後々考えてみたら、うちの家は長男を早くに空襲で亡くなり、父親も私が5歳のとき、この妹が生まれた年に亡くなりました。わたしたちはおじいさんと母親に育ててもらいました。母親は世間とは全然違うような経験をしたかと思います。2人の兄貴のうち一番上の兄貴は立命館専門学校に行ったけど勤労動員中に空襲で亡くなった。その当時あまり感じなかったけれども、年いくほど母親の気持ちがひしひし伝わります。だから自分らの息子、孫にはこんな経験を何が何でもさせたくないというような気持ちで生きてきました。今はそんな心境です。
妹のR・H氏は、母親が動員先の息子たちを心配していた姿をこんな風に語っています。
当時、私はまだ5歳だったんですが幾つか覚えております。2人の兄が帰ってくるとものすごく痒くなるんです。それは兄たちについていたシラミやノミが家の中にも入ってきたんです。母親は物すごくきれい好きだったものですから、それ以来、兄たちが帰ってきましたら家の中に入る前に、着ている物すべて脱がせて熱湯消毒するんです。母は兄たちが全部脱いでからでないと絶対に家の中に入れないよう、必死になっていた姿を覚えています。いま一つは食糧や小包を月に1回か、1週間に1回兄たちに送るんですが、おじいちゃんと母が荷物いっぱいに制限の重さぎりぎりまで詰め込んで発送していたことをわずかに覚えています。母やおじいちゃんは兄たちに少しでも沢山食べさせてあげたかったんだと思います。
妹のR・H氏は最後に空襲で犠牲になった義次さんの位牌が大学から届けられた時のことをしっかり覚えていました。
最後に兄が帰ってきた時、道から母家まで、20mぐらいあるのかな。その道に車が止まり、二人の先生が降りて来られたときの一瞬をやっぱり一番鮮明に覚えてます。母親と私が玄関に立っていますと、車から黒腕章をつけた先生が降りてこられるのを見つけたんです。その時、何がおきたかを理解した母親の悲嘆した姿を今でも忘れません。それが一番私の胸にこびりついています。
(『本田義次 日記』より)
昭和19年12月31日(日)晴れ
なつかしい郷里のお母さん
遠い豊川の地より
お元気で昭和20年1月1日の元旦を、お迎え下さる様お祈りします。
何時も思うことはお母さんのことであります。
僕の健康を祈って下さるお母さんお元気で
遠い豊川の生産戦線より 義次
(続く)
文責 史資料センター
調査研究員 齋藤 重
注 釈
(注1) 昭和22年立命館専経同窓会とは、立命館専門学校法経学科経済科に入学し、昭和22(1947)年に卒業した同窓によって組織された校友会です。同窓の中には豊川海軍工廠の空襲の際に犠牲となった四人(石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さん)がおられます
(注2)『立命館百年史通史Ⅰ』 「第四章戦時下の学園 第三節5戦時体制下の教学と学生」p711-717
(注3)『昭和19年中京方面出動学徒勤労状況視察報告』(立命館史資料センター所蔵) 政府は昭和19(1944)年2月25日「決戦非常措置要綱」閣議決定、これを受けて、3月7日「決戦非常措置要綱ニ基ヅク学徒動員実施要綱」を閣議決定します。ここに通年の学徒勤労動員が進められます。学校を所管する文部省は「決戦非常措置要綱ニ基ヅク学徒勤労動員ニ関スル件」昭和19年4月17日文部省訓令として通達します。さらに10日後の4月27日文部省、厚生省、軍需各省は学徒勤労動員実施要綱を各学校通達します。昭和19(1944)年8月23日には「学徒勤労令」「女子挺身勤労令」を勅令(第518号)だし徹底した勤労動員体制をしきます。立命館学園は文部省が通達を受け、立命館督学制度を新設して「戦時国家の緊喫要請に綜合、統一的にあたる」こととしました。この制度にもとづく督学会議はほぼ毎週開催され、その都度に「学徒勤労状況視察報告」が報告されていました。同報告書はその1部といえますが、もっとも多数の学徒を派遣していた「豊川海軍工廠報告書」は実態がより詳細に報告されています。
(注4) 昭和18(1943)年10月、教育ニ関スル戦時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者(学徒出陣者等)の卒業資格の特例なども定められた。この方策により昭和19(1944)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられた。それによって勤労動員中に徴兵による召集される学徒が増えた。
(注5) 回天(かいてん)とは、太平洋戦争で海軍が開発した人間魚雷であり、帰還を予定しない特攻兵器である
参考文献
『学制120年史』 文部省(現文部科学省)
『立命館百年史通史一』 学校法人立命館(1999)
『督学報告書』(綴) 立命館史資料センター所蔵資料
『ガイドブック 豊川海軍工廠』豊川市平和都市推進協議会
『新編豊川市史』本編近代・『同書』資料編近代
『日本教育史年表』 株式会社三省堂(1990)
表・図
(表1) 豊川海軍工廠の組織 『豊川海軍工廠近代遺産調査報告書』(第1分冊 本編編) 豊川市教育委員会発行
(表2) 豊川海軍工廠被爆学徒殉難者 昭和20(1945)年8月 『新編豊川市史第7巻資料編 近代』
(図1) ガイドブック「豊川海軍工廠」豊川市平和都市推進協議会 発行 P9-10 豊川海軍工廠の面影
(図2) 図面 ガイドブック「豊川海軍工廠」豊川市平和都市推進協議会) より
2016.07.28
<創立者中川小十郎 生誕150年>生誕の地亀岡市で 小十郎の事績を学ぶ講演会 開催
2016年は、創立者中川小十郎 生誕150年です。
生誕の地、亀岡市ではこれを記念して、様々な講演会が開催されています。
7月に開催された講演会をご紹介しましょう。
<7月9日(土)講演「亀岡の先人 中川小十郎(教育功労者)」>
日時:2016年7月9日(土) 13:30~15:30
会場:ガレリアかめおか
主催:NPO法人 中川小十郎先生亀岡顕彰会
共催:立命館大学校友会亀岡校友会
後援:亀岡市
この講演会では、約130名の市民の方が参加されました。
登壇されたのは、史資料センターで中川小十郎関係史資料を調査・分析している藤野真挙先生と眞杉侑里先生。マンガ『中川小十郎』も配布しました。
演題「中川小十郎と樺太」 立命館大学授業担当講師 眞杉侑里
眞杉先生は、中川小十郎が1908(明治41)年から1912(大正元)年の4年間、樺太庁第一部長(注1)として行った樺太経営を題材に講演しました。
1931年の『樺太日日新聞』に連載された葛西猛千代の「中川小十郎氏巡視随行記」(注2)を参考史料として、中川小十郎が1909年7月4日~8月22日の1ヶ月半を費やして樺太東西海岸沿いの村や産業を視察し、現地の人々の生活に深く入り込んで調査したことを解説。
この実態調査によって樺太の経済・文化を十分把握した後、樺太神社の創立(1911年)、財団法人樺太慈恵院設立(1912年)を始め産業・漁業の振興を進めたことや、真岡小学校の視察などを経て教育行政に力を入れていたことなどを、史資料センターに保存されている関係史資料の調査分析を下に報告しました。
演題「青年中川小十郎の学習風景」立命館大学非常勤講師 藤野真挙
藤野先生は、中川小十郎の少年・青年時代を題材に、小十郎の2人の恩人や小十郎の教育観について、講演しました。
小十郎は、幼少の頃から学才に秀でていたが、将来は僧侶となるはずであった。その運命を変え、帝国大学を経て明治の日本を担う官僚に、そして立命館の前身である京都法政学校設立に導いたのは、小学校長の田上綽俊(注3)と叔父の中川謙二郎(注4)であったこと。
小十郎は帝国大学入学以前から、多数の論文投稿を行い海外の経済書の翻訳を行う中で、自らの教育観をすでに形成していて、その根幹は、専門知識を身につけた多くの実業家(企業人)によって国家の富強が決まるとし、働く人々への専門教育こそが重要であると喝破していたこと。
民法・商法の専門教育を夜間に行う京都法政学校は、すでに20代の頃に形作られていた小十郎の教育観の姿であったことなどを関連史資料の研究に基づき報告しました。
<7月23日(土)「亀岡の偉人 中川小十郎の生涯」講義>
日時:2016年7月23日(土) 13:30~15:30
会場:ガレリアかめおか
7月23日(土)亀岡生涯学習市民大学の第2講で、立命館大学文学部 山崎有恒教授が「亀岡の偉人 中川小十郎の生涯」と題して講義しました。
2016年度の亀岡生涯学習市民大学は、「市民の学びが未来を拓く~共に学んで 豊かなこころ~」をテーマに全8回の講義で開講されています。(注5)
講義には約360名の市民参加があって、用意した席が不足するほどでした。
講義は、「中川小十郎の軌跡」と題する8ページのレジュメを元にして、
1.少年時代の中川小十郎
2.青雲の志を抱いて-東京就学始末-
3.文部官僚としての日々
4.実業家としてアジアに羽ばたく~「あさ」との出会い
5.教育者としての小十郎の軌跡
6.京都大学と立命館大学
7.中川小十郎の高等教育観
の項目毎に これまでの研究で明らかになった史料から小十郎の半生を辿るとともに、中川小十郎の個性が垣間見える数々のエピソードを織り交ぜながらのお話でした。
立命館大学文学部 山崎有恒教授
亀岡市での中川小十郎に関わる記念行事は8月も続きます。
「亀岡市文化資料館」では、8月28日まで「中川小十郎―馬路村より立命館創立者へ―」と題した展示会が開催中。8月6日(土)、8月27日(土)には講演会も開催されます。
参照:中川小十郎生誕150周年記念行事に関するお知らせ
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=112
立命館 史資料センター
奈良 英久
(注1)
樺太島(現 サハリン州)は1905年9月5日日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度以南がロシアから日本に割譲され、以降「南樺太」として日本領となる。1945年9月敗戦とともにソ連占領地となり、翌1946年1月に日本の行政権が停止された。
樺太庁は1907年4月1日に設置。長官官房、第一部、第二部で構成され、勅令第33号樺太庁官制(1907年3月15日)では、第一部は教育・商工業水産漁猟・警察及び衛生・気象測候・他部の主掌に属せざる事項、第二部は拓殖・土木・鉱山森林農業牧畜に関する事項となっている。また長官事故ある時は第一部長が代理となるとある。
(注2)
葛西猛千代(かさいたけちよ)は現地警察官。中川第一部長の樺太巡検に随行した。「中川小十郎氏巡視随行記」は『樺太日日新聞』連載、同紙は1906年8月20日初刊で、マイクロフィルムで現存するのは1910年5月~1942年1月分。葛西猛千代の「中川小十郎氏巡視随行記」は、立命館大学の広報誌である『立命館学誌』第144号(1931年6月)・146~149号(1932年1月)に転載されている。
(注3)
田上綽俊(たがみしゃくしゅん)は佐賀県出身の儒学者。「致遠館」(現:亀岡市川東小学校)の校長。小十郎の勉学の才を認め自らの私塾でも学ばせた。1877(明治10)年石川県七尾に転勤となった際、小十郎の養父宛に小十郎は優秀であるから自分の手元において勉強を続けさせたいと求めている。
(注4)
中川謙二郎(なかがわけんじろう)は小十郎の16歳年上の叔父。女子教育の第一人者。東京開成学校(現在の東京大学)で学んだ後、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)長、仙台高等工業学校(現:東北大学工学部)長となる。
謙二郎は、1878(明治11)年13歳の小十郎に対して郷里に残って暮らすのではなく、東京に出てもっと学び、日本のためになる人材になれと励まし、自らとともに上京するよう誘う手紙を送っている。また、小十郎の養父に直接会って説得し、翌1979(明治12)年小十郎とともに上京している。
(注5)
亀岡生涯学習市民大学は、「市民がいつでもどこでも自発的に取り組む生涯学習であり、学歴社会から学習社会への変革を具現化していく実践力養成の場でもあります。
平成元年に開学し、全国に誇る生涯学習都市亀岡のシンボル講座として継続しています。共に学び、共に生きる市民一人ひとりの学習の場として、毎年設定するテーマに沿って、亀岡の未来を展望し得る講座を設けています。」として、受講生有志で作る「運営委員会」が主体となって開講している無料講座です。
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