立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2016.07.29

<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲

「昭和22年立命館専経同窓会」懇談会より

アジア・太平洋戦争の時代、時局の悪化に伴って学生や生徒は強制的に動員され、あるいは戦地に、あるいは工場労働や農業建設に駆り出されていきました。立命館でも同じように若者たちは学業半ばで動員されていきました。

 本稿は、当時豊川海軍工廠に学徒勤労動員で勤務した校友のお話です。

 

 平成272015)年1118日 水曜日、立命館の卒業生が愛知県豊川海軍工廠空襲で犠牲となった同窓生を追悼し、戦時下の自分たちの学生生活を語り始めました。その人たちは「昭和22年立命館専経同窓会」(以下「同窓会」)(注1)の方々です。座談会の出席者には事前に、次のような項目をお知らせして語ってもらいました。

・豊川海軍工廠での生活について、

・空襲当日の行動について、

・犠牲になった4名の遺骨収集について、

・慰霊活動と慰霊碑建立について、

などでした。「懇談会」の詳細な記録は「同窓会」懇談会資料として立命館史資料センターに保存されています。この文書はその資料をもとに概略をまとめたものです。

 座談会の発言内容は多岐にわたっていますので、豊川海軍工廠での勤労体験を中心として筆者の責任で要約いたしました。また、個人名につきましてはイニシヤルとしています。

当日の出席者は次の通りです。

昭和22年立命館専経同窓会の方々 TK氏 S・T氏 YI

空襲犠牲となった本田義次さんの弟のHA氏、妹のRH

立命館愛知校友会東三河支部の方 S・M氏 A・Y氏

他に立命館大学社会連携部、1名、立命館史資料センター3名

参加者のお1人は、「この懇談会が最後となるでしょう」と語り、この懇談会の1ヶ月後に逝去されました。氏はこの懇談会で初めて空襲で犠牲となった友の遺体を探し、友の位牌を学校に届けた辛い経験、そして終戦後、生まれて初めてというくらい勉強ができたと語っています。その言葉には重みがあり現代の学生に対する氏のメッセージのように思えました。

 

 戦時下の学園

 

  昭和171942)年、アジア・太平洋戦争の戦局に早くも陰りが見えはじめ、戦局の厳しさが現実となりつつあった。そんな中、文部省は昭和181943)年10月に「学校教育の敵前転回」といわれ、高等教育体系破壊である決戦即応措置を発表しました。

  昭和181943)年1022日付、文部省から「教育に関する戦時非常措置方策に関する件」としてだされた通達には「附属専門部に関する措置」として専門学校への改組転換を促す内容もありました。この通達によって各大学専門部は専門学校に転換されていったのです(注2)

                        

 この通達にもとづき立命館大学専門学部も昭和191944)年法経・文・理・工の四学科を置く立命館専門学校となったのです。「懇談会」の方々はこの1期生ということになります。

 

中京方面では豊川海軍工廠に最も多くの学徒が動員されていた

政府の戦時非常措置方策にもとづき、急激に学徒勤労動員が各学校に割り当てられ、終戦まで続きます。立命館史資料センターに保存されている『昭和198月 中京方面出動学徒勤労状況視察報告 立命館』(以下、『報告書』)(注3によれば愛知県豊川海軍工廠については、次のように報告されています。

動員学徒数は学部 35名、予科2,3138名、専門学校法経学科3115名の合計258名、その主な労務は各種砲弾の製造です。豊川海軍工廠では、学部、専門学校の学生が主に光学部精密工場、火工部第2信管工場、火工部第4信管工場に動員され、予科の学生は火工部第Ⅱ信管工場、火工部弾丸工場、光学部精密工場に学生が動員されています。


宿舎は第10工員宿舎第111112寮が割りあてられ、1室に6人から10人が宿泊しました。工廠では三交代制で24時間フル稼動の勤務でした。この『報告書』には他の中京方面の動員先と人数も報告されています。陸軍明野飛行場建設作業場に121名、愛知時計電機株式会社に41名、株式会社豊田製鋼所に64名、日本油脂火薬工業株式会社に70名でした。

 

この人数と比較すると豊川海軍工廠への動員がいかに多数であったかがわかると思います。当然、最も多くの学徒を動員していた「海軍工廠」が空襲を受ければ、その爆撃による危険度が高くなることは十分に理解できます。結果、「海軍工廠」は大きな被害を受けることになります。

 

豊川海軍工廠の空襲は、広島と長崎への原爆投下の間におきた大規模な空襲だった

 豊川海軍工廠は昭和141939)年に機銃部と火工部から始まり、その後光学部・指揮兵器部・機材部が新たにできます。この工廠は91の区画に仕切られ186haBKCキャンパス=22.5haの約8.4倍)の敷地の中に工場群が整然と並んでいました。周辺には、1000床規模の豊川海軍共済病院、第1工員養成所、会議所があり、少し離れて女子寄宿舎、男子寄宿舎、さらに男女学徒寮もありました。


工廠は、昭和201945)年87日米軍の空襲を受けますが、この頃工廠には職員700人、工員10,000人、徴用工員・女子挺身隊・朝鮮人徴用工40,000人、動員学徒6,000人の合計56,700人が働いていました。そのうち徴用工員・女子挺身隊・朝鮮人徴用工、動員学徒の数は46,000人(81.1%)にものぼります。87日の空襲によって犠牲となった人数は2,517名といわれ、その内、勤労動員学徒は452名となっています。

犠牲者の数をみると勤労動員された中学生、高等女学校生徒の犠牲者が顕著に多いことがわかります。


この犠牲者の中に立命館専門学校在学中の石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんがおられます。         

 

 

座談会 豊川海軍工廠学徒勤労動員の思い出

 

この記録は懇談会資料(立命館史資料センター保存)をもとに概略をまとめたものです。

 

TK氏】 「回天」とか人間魚雷の潜望鏡になる部分を作っていた。

TK氏は、京都市中京区姉小路通り新町にK4男(昭和2(1927)年9月4日生)として生まれ、京都市立龍池(たついけ)小学校卒業後、立命館商業学校に入学、昭和191944)年4月1日に立命館専門学校に入学しました。この年から立命館大学専門学部は立命館専門学校に改組します。ですからTK氏をはじめ昭22年立命館専経同窓会のみなさんは立命館専門学校の第一期生にあたります。

TK氏は入学してから「すぐに勉強より教練ばかり、剣道とか銃剣とか、そういったことばかり」励んでいたようですが、入学した半年後の昭和191944)年の9月10日には豊川海軍工廠に勤労動員で行っています。昭和201945年)6月に繰り上げ召集(注4)によって入隊し終戦を迎えます。1年あまりの豊川海軍工廠の経験を次のように語っています。

 

当時、豊川海軍工廠は東洋一の規模で海軍の兵器を生産していた工場でした。ここに258名の学生が動員されました。わたしは豊川海軍工廠では、フライス盤で長さ1m、直径10m余の鉄管の中央部に7cm×10㎝位の処を平面に削る作業でした。それは何になるのかと後でわかったわけですが、「回天」(注5)とか人間魚雷の潜望鏡のレンズにあたる部分を造っていました。

 

学徒寮の不衛生と食事のまずさには閉口した。

 

夏なんか工場から帰って、足を洗ってから部屋に行くわけですが、部屋にいくまでの廊下を歩いただけで足に蚤がくっついてきます。毎日ですから、これは手に負えんわ、なれなしゃないなという気持ちになります。食事はというと、食堂に入った瞬間に臭いんです。何でやいうと、糞や内臓を除去していないイナゴが毎日のように出されのですが、これには閉口しました。これも「万事が団体生活」と従いましたが。

 

   勤労と寮生活に耐えられない生徒に対する軍の罰を代わりに受けた、そんなやさしい先生がいた。

 

厳しい労働と不衛生な生活と食事に耐えられない生徒が出てきます。そうすると将校がやってきて「お前のところはけしからん」と罰則が科されます。MO先生は将校に対して直接学生に手を出してくれるな。学校の責任だから学校から教えるからと軍から直接罰を受けないよう守っていました。それでもできない子がおりますので、MO先生はその子の代わりに自ら罰の便所掃除をしておりました。そんなやさしい先生がおりました。

 

 

【S・T氏】 犠牲者となった本多義次さんの位牌を持ち帰り大学に届けた。

S・T氏は豊川海軍工廠への勤労動員について大学が聞きたいというので、座談会に参加してくれました。S・T氏は豊川海軍工廠への勤労動員第一陣として勤務し、空襲の当日も勤労学徒として働いていました。空襲で犠牲となった犠牲者の一人、本多義次さんの位牌を持ち帰って、大学に届けた経験をもつ数少ない方です。

 S・T氏は京都市東山区出身で現在は大津市在住で立命館商業学校から立命館専門学校法経学科経済科へ入学しました。入学したその年から豊川海軍工廠に勤労動員されました。その体験を次のように語っています。

 

豊川海軍工廠に動員された経過は学校のほうからここに行けということでしたので、当然のように参加しました。豊川海軍工廠では最初は工場のほうの旋盤工をやっておりましたが、途中から事務方へ、作業係に変わるように言われました。空襲を受けたときは、事務の仕事をしていました。その日の朝、海軍の士官としゃべっておりましたら、昨日(昭和2086日)、広島で新型爆弾が落ちたというので、「どないして防いだらいいのか、いろいろ考えてるんやけど」というような会話をかわしていました。その会話が終わった11時前後やったと思いますが、爆撃が始まりました。その時、班長が早く逃げるよう言ってくれたので一緒に逃げて地下の防空壕へ飛び込んだ。それでも工廠はB29でどんどんやられていましたので、「これで一生終わりかな」と思っていましたら、爆撃も終わって助かりました。

 

ドキュメント 豊川海軍工廠空襲(『新編豊川市史』資料編近代)

    日時 昭和201945)年87日 目標 豊川海軍工廠  出撃米軍機 131

    目標(豊川海軍工廠)上空時間 871013分~1039分(26分間) 投下爆弾トン数量 816.8トン

    出撃米軍機 131機 投下爆弾トン数 816.8トン

1006東海軍管区発令「120機以上の敵B29爆撃機を主体とする大編成隊、愛知県豊川空襲に向かう模様」

100?(ママ) 工廠本部発令「警戒警報発令、敵の先頭目標は知多半島中部を東北進中、空襲警報、…女子ならびに低学年学徒退避せよ」

1013 豊川海軍工廠高角砲が一斉に砲火する。ほとんどの工場は退避していない。

  次に9機、12機と飛来し爆撃

111(ママ) 工廠本部総員退避命令。

 

その爆撃が終わってみたら、立命館の一緒にいた連中が4人おらんということがわかり、早速探しました。私は、相原和男君が私の隣の部屋で寝泊りしていたもんですから、どうしても見つけたらなあかんと思って、工場の東から西まで3日、4日かけてずっと遺体を探し回りました。空襲が10時か11時ごろでしたから、何も食べずに広い海軍工廠の工場に転がっている遺体をずっと見て回りました。随分沢山の遺体の顔を見ましたが、「違う」「ここにはない」といって必死で探し回りました。結局4人はわからずじまいで、とうとう見つけ出すことができませんでした。本当に遺族の方々にお詫びしたい気持ちです。

 

終戦の1週間後、友の位牌を学校に届けた。

 

戦争が終わった8月15日(昭和20年)、それから1週間たってから、位牌(いはい)、といってもみんな行方不明ですから遺骨はないんです。あれは何が入っとったんかわからんけども、軽かったですからね。それを持って京都へ帰ってまいりました。そのとき私、感激したのは、当時終戦直後で列車にはみんな窓から入るぐらいやったのに、位牌を持っている私にはみんな席を空けてくれるんです。「どうぞ座って下さい」、「ここへ座れ、座れ」と言って。それで豊橋から京都まで座らせていただいて位牌を学校へ届けました。

学校では次の日、豊川海軍工廠に勤労動員していた者全員が集められましが、その時でもやはり4人はわからずじまいでした。結局4人のことはわからずじまいなんです。

終戦後、S・T氏は復学し、昭和22年立命館専門学校法経学科経済科を卒業、その後も本学夜間部に進み卒業しました。

 

YI氏】 入学してすぐに勤労奉仕が続き、学校におったのは三ヶ月ほど。

Y・I氏は滋賀県近江八幡の南、日野町(現在、滋賀県近江八幡市日野町)に生まれ、中学は水口中学校(現在の甲賀高校)を卒業後、立命館専門学校に入学しました。入学してしばらくすると次から次と勤労奉仕が続き「本当に学校におったのは三ヶ月ほど」と語るほど戦時下に青春をすごします。氏は豊川海軍工廠での労働実態が三交代制で毎日が「眠とうてしゃあない」といい、その後昭和201945)年2月に繰り上げ召集で軍隊に入った後は「軍隊より豊川海軍工廠の勤労動員のほうがきつかった」とその過酷な労働について語っています。

 

勤労は三交替制でした。一直は朝の8時から夕刻5時まで、二直は夕刻4時から深夜12時まで、三直は深夜12時から朝8時までの三交代で工場へ行くわけです。私は第2工場、光学部と光学機械にいきまして特殊潜航艇の潜望鏡などを旋盤で削っていました。勤務は三交代制のため、夜中眠とうてしゃあないですけどそういうわけにいきません。夜勤でいくと「昼、寝とれ」とよく言われましたが、昼なんか暑いのでなかなか寝られやしません。そこに持ってきて、シラミ、ノミが多いときてますから、寝れるどころではありません。

豊川海軍工廠での勤労動員の方が軍隊よりひどかった。兵隊にはあんなひどいイナゴなんか食べさせませんでした。我々の3分の2は召集され豊川海軍工廠の宿舎を出て、中には志願で特攻隊にいった者もいるが、結局3分の1ぐらいが生きていました。S・T氏をはじめ230人、三十人残ったわけです。それが今、S・T氏から聞いたけど、我々、同じ仲間でも最後まで残っていた方のほうが凄惨だったというのを、今日、初めて聞きました。そんなにひどい状況だったということをね。

 

【本田義次さんのご兄妹】

最後に、本田義次さんのご兄妹に今回初めてお話を聞くことができました。

弟のHA氏、妹のRH氏は、兄をこの空襲で亡くしました。お二人は年いくほどに母親の気持ちがわかるようになりました。自分らの息子、孫にはこんな経験をさせたくない、と遺族として初めて大学にその苦しみを語ってくれました。

 

本田義次は、本田家の長男でして出身地は京都府向日市です。あの事件が起きたのは小学校4年生頃だったと思います。私のところの家はもともとお米屋で商売人でしたから、息子はみんな商業科コースにいくべきだ、というような方針だったらしいです。しかし結局、後々考えてみたら、うちの家は長男を早くに空襲で亡くなり、父親も私が5歳のとき、この妹が生まれた年に亡くなりました。わたしたちはおじいさんと母親に育ててもらいました。母親は世間とは全然違うような経験をしたかと思います。2人の兄貴のうち一番上の兄貴は立命館専門学校に行ったけど勤労動員中に空襲で亡くなった。その当時あまり感じなかったけれども、年いくほど母親の気持ちがひしひし伝わります。だから自分らの息子、孫にはこんな経験を何が何でもさせたくないというような気持ちで生きてきました。今はそんな心境です。

 

妹のRH氏は、母親が動員先の息子たちを心配していた姿をこんな風に語っています。

 

   当時、私はまだ5歳だったんですが幾つか覚えております。2人の兄が帰ってくるとものすごく痒くなるんです。それは兄たちについていたシラミやノミが家の中にも入ってきたんです。母親は物すごくきれい好きだったものですから、それ以来、兄たちが帰ってきましたら家の中に入る前に、着ている物すべて脱がせて熱湯消毒するんです。母は兄たちが全部脱いでからでないと絶対に家の中に入れないよう、必死になっていた姿を覚えています。いま一つは食糧や小包を月に1回か、1週間に1回兄たちに送るんですが、おじいちゃんと母が荷物いっぱいに制限の重さぎりぎりまで詰め込んで発送していたことをわずかに覚えています。母やおじいちゃんは兄たちに少しでも沢山食べさせてあげたかったんだと思います。

 

妹のRH氏は最後に空襲で犠牲になった義次さんの位牌が大学から届けられた時のことをしっかり覚えていました。

 

最後に兄が帰ってきた時、道から母家まで、20mぐらいあるのかな。その道に車が止まり、二人の先生が降りて来られたときの一瞬をやっぱり一番鮮明に覚えてます。母親と私が玄関に立っていますと、車から黒腕章をつけた先生が降りてこられるのを見つけたんです。その時、何がおきたかを理解した母親の悲嘆した姿を今でも忘れません。それが一番私の胸にこびりついています。

 

(『本田義次 日記』より)

昭和191231日(日)晴れ

 なつかしい郷里のお母さん 

遠い豊川の地より

お元気で昭和2011日の元旦を、お迎え下さる様お祈りします。

何時も思うことはお母さんのことであります。

僕の健康を祈って下さるお母さんお元気で 

遠い豊川の生産戦線より  義次 

                                       (続く)

 

                             文責 史資料センター

調査研究員 齋藤 重


注 釈

(注1) 昭和22年立命館専経同窓会とは、立命館専門学校法経学科経済科に入学し、昭和221947)年に卒業した同窓によって組織された校友会です。同窓の中には豊川海軍工廠の空襲の際に犠牲となった四人(石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さん)がおられます

 

(注2)『立命館百年史通史Ⅰ』 「第四章戦時下の学園 第三節5戦時体制下の教学と学生」p711717

 

(注3『昭和19年中京方面出動学徒勤労状況視察報告』(立命館史資料センター所蔵) 政府は昭和191944)年225日「決戦非常措置要綱」閣議決定、これを受けて、37日「決戦非常措置要綱ニ基ヅク学徒動員実施要綱」を閣議決定します。ここに通年の学徒勤労動員が進められます。学校を所管する文部省は「決戦非常措置要綱ニ基ヅク学徒勤労動員ニ関スル件」昭和19417日文部省訓令として通達します。さらに10日後の427日文部省、厚生省、軍需各省は学徒勤労動員実施要綱を各学校通達します。昭和191944)年8月23日には「学徒勤労令」「女子挺身勤労令」を勅令(第518号)だし徹底した勤労動員体制をしきます。立命館学園は文部省が通達を受け、立命館督学制度を新設して「戦時国家の緊喫要請に綜合、統一的にあたる」こととしました。この制度にもとづく督学会議はほぼ毎週開催され、その都度に「学徒勤労状況視察報告」が報告されていました。同報告書はその1部といえますが、もっとも多数の学徒を派遣していた「豊川海軍工廠報告書」は実態がより詳細に報告されています。

(注4) 昭和18194310月、教育ニ関スル戦時非常措置方策閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者(学徒出陣者等)の卒業資格の特例なども定められた。この方策により昭和19194410月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられた。それによって勤労動員中に徴兵による召集される学徒が増えた。

(注5) 回天(かいてん)とは、太平洋戦争海軍が開発した人間魚雷であり、帰還を予定しない特攻兵器である

 

参考文献

 『学制120年史』 文部省(現文部科学省)

 『立命館百年史通史一』 学校法人立命館(1999

 『督学報告書』(綴) 立命館史資料センター所蔵資料

 『ガイドブック 豊川海軍工廠』豊川市平和都市推進協議会

 『新編豊川市史』本編近代・『同書』資料編近代

 『日本教育史年表』 株式会社三省堂(1990

 

表・図 

(表1) 豊川海軍工廠の組織 『豊川海軍工廠近代遺産調査報告書』(第1分冊 本編編) 豊川市教育委員会発行

(表2) 豊川海軍工廠被爆学徒殉難者 昭和201945)年8月 『新編豊川市史第7巻資料編 近代』 

 

(図1) ガイドブック「豊川海軍工廠」豊川市平和都市推進協議会 発行 P9-10 豊川海軍工廠の面影

(図2 図面 ガイドブック「豊川海軍工廠」豊川市平和都市推進協議会) より

2016.07.28

<創立者中川小十郎 生誕150年>生誕の地亀岡市で 小十郎の事績を学ぶ講演会 開催

2016年は、創立者中川小十郎 生誕150年です。

生誕の地、亀岡市ではこれを記念して、様々な講演会が開催されています。

7月に開催された講演会をご紹介しましょう。

 

<7月9日(土)講演「亀岡の先人 中川小十郎(教育功労者)」> 

日時:201679日(土) 13:3015:30

会場:ガレリアかめおか 

主催:NPO法人 中川小十郎先生亀岡顕彰会

共催:立命館大学校友会亀岡校友会

後援:亀岡市

 

この講演会では、約130名の市民の方が参加されました。

登壇されたのは、史資料センターで中川小十郎関係史資料を調査・分析している藤野真挙先生と眞杉侑里先生。マンガ『中川小十郎』も配布しました。

 

 

 

 

演題「中川小十郎と樺太」 立命館大学授業担当講師 眞杉侑里

 

眞杉先生は、中川小十郎が1908(明治41)年から1912(大正元)年の4年間、樺太庁第一部長(注1)として行った樺太経営を題材に講演しました。

1931年の『樺太日日新聞』に連載された葛西猛千代の「中川小十郎氏巡視随行記」(注2)を参考史料として、中川小十郎が190974日~822日の1ヶ月半を費やして樺太東西海岸沿いの村や産業を視察し、現地の人々の生活に深く入り込んで調査したことを解説。

この実態調査によって樺太の経済・文化を十分把握した後、樺太神社の創立(1911年)、財団法人樺太慈恵院設立(1912年)を始め産業・漁業の振興を進めたことや、真岡小学校の視察などを経て教育行政に力を入れていたことなどを、史資料センターに保存されている関係史資料の調査分析を下に報告しました。

 

 

演題「青年中川小十郎の学習風景」立命館大学非常勤講師 藤野真挙

 

藤野先生は、中川小十郎の少年・青年時代を題材に、小十郎の2人の恩人や小十郎の教育観について、講演しました。

小十郎は、幼少の頃から学才に秀でていたが、将来は僧侶となるはずであった。その運命を変え、帝国大学を経て明治の日本を担う官僚に、そして立命館の前身である京都法政学校設立に導いたのは、小学校長の田上綽俊(注3)と叔父の中川謙二郎(注4であったこと。

小十郎は帝国大学入学以前から、多数の論文投稿を行い海外の経済書の翻訳を行う中で、自らの教育観をすでに形成していて、その根幹は、専門知識を身につけた多くの実業家(企業人)によって国家の富強が決まるとし、働く人々への専門教育こそが重要であると喝破していたこと。

民法・商法の専門教育を夜間に行う京都法政学校は、すでに20代の頃に形作られていた小十郎の教育観の姿であったことなどを関連史資料の研究に基づき報告しました。

 

 

723日(土)「亀岡の偉人 中川小十郎の生涯」講義> 

日時:2016723日(土) 13:3015:30

会場:ガレリアかめおか 

723日(土)亀岡生涯学習市民大学の第2講で、立命館大学文学部 山崎有恒教授が「亀岡の偉人 中川小十郎の生涯」と題して講義しました。

 

2016年度の亀岡生涯学習市民大学は、「市民の学びが未来を拓く~共に学んで 豊かなこころ~」をテーマに全8回の講義で開講されています。(5)

講義には約360名の市民参加があって、用意した席が不足するほどでした。


講義は、「中川小十郎の軌跡」と題する8ページのレジュメを元にして、

 

1.少年時代の中川小十郎

2.青雲の志を抱いて-東京就学始末-

3.文部官僚としての日々

4.実業家としてアジアに羽ばたく~「あさ」との出会い

5.教育者としての小十郎の軌跡

6.京都大学と立命館大学

7.中川小十郎の高等教育観

 

の項目毎に これまでの研究で明らかになった史料から小十郎の半生を辿るとともに、中川小十郎の個性が垣間見える数々のエピソードを織り交ぜながらのお話でした。

 

 

立命館大学文学部 山崎有恒教授

 

 

亀岡市での中川小十郎に関わる記念行事は8月も続きます。

 

「亀岡市文化資料館」では、828日まで「中川小十郎―馬路村より立命館創立者へ―」と題した展示会が開催中。86日(土)、827日(土)には講演会も開催されます。

 

参照:中川小十郎生誕150周年記念行事に関するお知らせ

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=112 

立命館 史資料センター

奈良 英久

 

 

(注1)

樺太島(現 サハリン州)は190595日日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度以南がロシアから日本に割譲され、以降「南樺太」として日本領となる。19459月敗戦とともにソ連占領地となり、翌1946年1月に日本の行政権が停止された。

樺太庁は190741日に設置。長官官房、第一部、第二部で構成され、勅令第33号樺太庁官制(1907315日)では、第一部は教育・商工業水産漁猟・警察及び衛生・気象測候・他部の主掌に属せざる事項、第二部は拓殖・土木・鉱山森林農業牧畜に関する事項となっている。また長官事故ある時は第一部長が代理となるとある。

 

(注2)

葛西猛千代(かさいたけちよ)は現地警察官。中川第一部長の樺太巡検に随行した。「中川小十郎氏巡視随行記」は『樺太日日新聞』連載、同紙は1906820日初刊で、マイクロフィルムで現存するのは19105月~19421月分。葛西猛千代の「中川小十郎氏巡視随行記」は、立命館大学の広報誌である『立命館学誌』第144号(19316月)・146149号(19321月)に転載されている。

 

(注3

田上綽俊(たがみしゃくしゅん)は佐賀県出身の儒学者。「致遠館」(現:亀岡市川東小学校)の校長。小十郎の勉学の才を認め自らの私塾でも学ばせた。1877(明治10)年石川県七尾に転勤となった際、小十郎の養父宛に小十郎は優秀であるから自分の手元において勉強を続けさせたいと求めている。

 

(注4

中川謙二郎(なかがわけんじろう)は小十郎の16歳年上の叔父。女子教育の第一人者。東京開成学校(現在の東京大学)で学んだ後、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)長、仙台高等工業学校(現:東北大学工学部)長となる。

謙二郎は、1878(明治11)年13歳の小十郎に対して郷里に残って暮らすのではなく、東京に出てもっと学び、日本のためになる人材になれと励まし、自らとともに上京するよう誘う手紙を送っている。また、小十郎の養父に直接会って説得し、翌1979(明治12)年小十郎とともに上京している。

 

(注5

亀岡生涯学習市民大学は、「市民がいつでもどこでも自発的に取り組む生涯学習であり、学歴社会から学習社会への変革を具現化していく実践力養成の場でもあります。

 平成元年に開学し、全国に誇る生涯学習都市亀岡のシンボル講座として継続しています。共に学び、共に生きる市民一人ひとりの学習の場として、毎年設定するテーマに沿って、亀岡の未来を展望し得る講座を設けています。」として、受講生有志で作る「運営委員会」が主体となって開講している無料講座です。

 

詳細はこちら↓

http://www.galleria.or.jp/sponsoring/symbol/citizenscollege

2016.07.14

中川小十郎生誕150周年記念行事に関するお知らせ

【展示会のお知らせ】

 亀岡市文化資料館にて「-馬路村より立命館創立者へ- 中川小十郎」と題した展示が開催されます。

 創立者としての事績を中心に生誕150周年記念事業を進める立命館大学、および中川小十郎先生亀岡顕彰会、馬路町自治会の全面的な協力を得て、小十郎のひととなりを紹介します。

 また亀岡での事績として、明治維新期に山陰道鎮撫士を迎え戊辰戦争に揺れ動く馬路村で幼少期を過ごした様子や、晩年に地元馬路村に建立した顕彰碑などにも触れ、小十郎と亀岡市の関係を描いた展示です。 

 ご都合がよろしければ、ぜひお立ち寄りください。

・展示名 :「中川小十郎―馬路村より立命館創立者へ―」

・開催期間:平成28716日(土)~828日(日)

・会場  :亀岡市文化資料館 展示室Ⅱ(亀岡市古世町中内坪1番地)

      [開館時間]9001700(入館は16:30まで)

      [休館日] 月曜日、719日(火)

 ・入場料 :大人260円 小・中学生150




【講演会のお知らせ】

 亀岡市文化資料館にて「中川小十郎―馬路村より立命館創立者へ―」と題した展示の関連事業としまして2回の講演会を開催いたします。

 ご都合がよろしければ、ぜひご参加ください。

 【講演会① 「中川小十郎を育んだ亀岡のひとびと -中川家史料から-」】

・講  師:長谷川澄夫(元馬路町史編集委員)

・開催日時:平成2886日(土)14時~16

・会  場:亀岡市文化資料館 3F研修室(亀岡市古世町中内坪1番地)

・入場料 :無料

【講演会② 「イノベータ 中川小十郎の挑戦」】

・講  師:藤野真挙(立命館大学文学部非常勤講師)

・開催日時:平成28827日(土)14時~16

・会  場:亀岡市文化資料館 3F研修室(亀岡市古世町中内坪1番地)

・入場料 :無料



くわしくはこちらから(亀岡市文化資料館ホームページ)

 https://www.city.kameoka.kyoto.jp/bunkashiryou/61kikaku.html

最新の投稿

RSS