立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2016.11.15

平井嘉一郎記念図書館 創立者中川小十郎生誕150年記念 中川小十郎の生涯と人物像展のお知らせ

立命館創立者・中川小十郎生誕150年記念講演会「立命館創立者・中川小十郎の思いをつなぐ」の関連企画といたしまして、立命館朱雀キャンパス1階ギャラリーピロティにて開催しておりました「中川小十郎の生涯と人物像展」を、11月26日(土)に開催される「平井嘉一郎記念図書館」開館記念行事の講演会「中川小十郎の教学理念と戦後を創った卒業生たち」にあわせて、衣笠キャンパス 平井嘉一郎記念図書館にて開催致します。
→講演会「中川小十郎の教学理念と戦後を創った卒業生たち」の詳細はこちら


お近くにお越しの際は、どうぞお気軽にお立寄り下さい。

期間:2016年11月15日(火)~12月22日(木)
会場:立命館大学衣笠キャンパス 平井嘉一郎記念図書館1階ギャラリーと一部エントランスホール


2016.11.09

<懐かしの立命館>豊川海軍工廠空襲の犠牲者慰霊碑と昭22・立命館専経同窓会

この文書は<懐かしの立命館>OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲の続きとして書いたものです。合わせて読んでいただければ幸いです。


昭和501975)年429日の愛知県豊川市にある豊川稲荷戦没者供養塔墓前に豊川海軍工廠の犠牲者石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんの遺族の方々、西村光次校友会会長、奥村三舟名誉教授、そして昭和22・立命館専経同窓会校友あわせて33名が亡き4名の30回忌に集まりました。慰霊祭終了後におこなわれた懇親会に来賓として招待された豊川市長に、早稲田大学など他大学が戦没学友のために慰霊碑を立てていることを知っていたS・K氏は話しかけました。

「諏訪墓地(豊川市諏訪墓地)に立命館も慰霊碑を建立致したい。市長さんの御許可をいただきたい。」豊川市長は「よろしい引受ました。2坪貸与いたしましょう。」

快諾を得たS・K氏、T・K氏、Y・K氏は早速建立準備に入りました。

 

 立命館学園の終戦

 

昭和201945)年8月、各教育機関は、昭和203月の閣議決定「決戦教育措置要綱」(国民学校初等科以外の授業を4月以降停止)にもとづいて授業を停止していました。(注1しかし、立命館学園(以下、学園)はこの要綱項目1ー六(緊要な専攻学科を修める学徒に対しては授業を継続実施する)にもとづいて、9月卒業を前にして勤労動員が解除された専門学校工学科・理学科の学生に対し、8月夏休みにもかかわらず集中的な授業が行われていたました。学生達は昭和20815日終戦の詔勅を衣笠学舎で整列して聴いた様です。(注2政府はこの詔勅直後の818日に勤労動員を解除します。(注3この通知をうけて学園は直ぐに、『大阪朝日新聞』(昭和201945)年96日付)紙上に授業再開の通知広告を掲載します。これによって勤労動員についていた者学徒出陣していた者達が次々と学園に戻ってきました。(注4 復学手続きした者は11月末には546名に達します。

 

 22・立命館専経同窓会の方々のそれぞれの戦後

 

昭和191944)年に、立命館大学専門学部は文部省による「戦時中とはいえ有無をいわせない高圧的な通達」(注5により立命館専門学校の設置を決議します。それまでの専門学部の学生は専門学校に「吸収シテ、其ノ教育ヲ継続スル」こととなりました。22専経同窓会の方々は、この立命館専門学校(以下、専門学校)の第1期生に当たります。この方々が入学した昭和191944)年の1月には、緊急学徒勤労動員方策要綱が決定され、225日には学徒動員態勢の徹底、国民勤労体制の刷新、防空体勢の強化等を国民に徹底する閣議決定なされました。8月になると各学校では竹槍訓練がはじまり、23日には女子挺身勤労令、学徒勤労令が公布され、高等教育機関から中等教育機関まで文字通り「国民総武装」態勢が敷かれます。

22・立命館専経同窓会T・K氏さんは、当時を振り返って語ります。

 私は立命館専門学校に昭和191944)年春に入学しましたが、すでに勉強どころではなく軍事教練・勤労動員の毎日で、9月には学徒勤労動員令で豊川海軍工廠に入りました。昭和201945)年6月には繰り上げ召集で久留米連隊に通信兵として入営しました。(注6) 終戦後、すぐに学園のよびかけに応えて復学をはたします。

 

同じ同窓会に所属するT・K氏さんは豊川海軍工廠に第1陣(昭和19年)から終戦まで勤労動員に行っていました。昭和2087日、豊川海軍工廠の空襲を経験し、亡くなられた友人の位牌を学校に届けた辛い経験をもっています。T・K氏さんは、終戦後すぐに復学し、2年後の昭和221947)年に立命館専門学校法経学科経済科を卒業しました。復学後のT・K氏さんは「復学後は、私、生まれて初めてというぐらい勉強ができました。戦時中にいっぺん死んだと思ったんですからね」と語りました。専門学校終了後、さらに立命館大学第二部(夜間部)に働きながら学び卒業しました。

 

同じくI・Y氏さんは、滋賀県の近江八幡に生まれました。昭和204月に立命館専門学校法経学科経済科に入学しました。しかし「入学してしばらくしてから、次から次と勤労奉仕が続きました。本当に学校におったのは3ヶ月ほど」と回想しています。

I・Y氏さんもまた終戦後復学し、卒業後、国税庁調査査察部で敏腕をふるいます。

22・立命館専経同窓会の方々は、それぞれの戦後を歩み始めますが、しかし、同窓生で豊川海軍工廠空襲の犠牲となった石川巌さん、津野森正さん、本田義次さん、相原和夫さんは再び学園に戻ることはありませんでした。

 

愛知県豊川市諏訪墓地に慰霊碑を建立

 

 昭和501975)年1027日末川博名誉総長に報告し、賛同を得て、翌年の昭和51年(1976522日の昭22・立命館専経同窓会においてS・K氏、T・K氏は「8月に完成したい」と同窓会参加全員の賛同を得て募金活動に入りました。725日には慰霊碑が完成し、豊川諏訪墓地慰霊碑前にて入魂式が行われました。慰霊碑は縦横各2m、表には犠牲となった相原和夫さん、石川巌さん、津野森正さん、本田義次さんの名が刻まれて、後ろには次の様な末川博名誉総長の追悼文が記されています。

 「広島に原爆が投下された日の翌昭和2087日午前925分から約1時間にわたり、豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された。そのさい学徒動員として勤労奉仕のためにあった立命館大学の学生のうち表記の4名はむざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去られた。終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする。ここに碑を建てて諸君の冥福を祈り、安らかな眠りを念願する。末川博 昭和5187日 立命館大学 立命館大学校友会 立命館大学22年専経専 法同窓会一同 遺族一同」

 昭和511976)年87日「4人の学友よ やすらかに 現地で33回忌・戦没学友慰霊祭」(注7がおこなわれ、細野武男総長、奥村三舟名誉教授、西村光次校友会会長など29名が参加しました。以来、毎年墓碑前にて四氏の慰霊祭が開催されています。

 

22・立命館専経同窓会 戦没四君50回忌に集まる。

 

 1992(平成4)年1023日(土)、10月にしては少し残暑が残る土曜日の午後、昭22・立命館専経同窓会の人達が新しくできた立命館大学国際平和ミュージアムに、石川巌、津野森正、本田義次、相原和夫、戦没四君の50回忌式典のために集まりました。式典には芦田文夫副総長、安西育郎国際平和国際ミュージアム館長など23名が出席しました。国際ミュージアムには豊川海軍工廠空襲の犠牲者の遺品や海軍工廠の遺品などが展示されました。その後、22専経同窓会は「豊川海軍工廠学徒勤務日誌10冊」「米軍機B-29の爆弾破片」「日本海軍機銃弾丸収納箱」「特殊潜望鏡レンズ」「旋盤研磨機の回転盤」「電話機」など当時の歴史資料を寄贈しました。式典に参加した昭22・立命館専経同窓会を代表してS・K氏は犠牲者四氏に対して追悼の辞を述べました。

生前のあなた方は、お母さんを思い、そしてお母さんを愛されました。人一倍親孝行の方でした。戦争は痛ましい破局をもって終結し、その結果かつてない奇酷事態に直面しました。

恐ろしいあのような惨事は「もう二度と繰り返させません」と心からお誓いする以外に言葉はありません。四君の霊よ安らかにお眠り下さい。

あなた方の魂は永遠に消えることなく、私達同級生の心を照らし続けることでしょう。

謹んでご冥福をお祈り申し上げ追悼の辞と致します。

 

 

  慰霊祭をきっかけに愛知県東三河支部は誕生し、今も慰霊碑を守り続けている

 

慰霊祭がきっかけで愛知県東三河支部が誕生したと同支部のS・Mは語ります。

私が愛知県校友会の副会長をやっているときに、T・K氏さんたちが豊川海軍工廠犠牲者慰霊祭に毎年来ていらっしゃるということを知り、これをきっかけに東三河支部をつくり、いっしょにやろうと考えた。T・K氏さんが来られたときに東三河支部は設立された。その時から豊川海軍工廠の慰霊碑を何とか我々の手でお守りすることが東三河のスローガンのひとつになっています。戦後70年(2015年)の節目に慰霊祭に吉田美喜夫総長が参加されたことを非常に喜んでいる。

同じ支部のA・Iもまた、戦後70年の節目となる慰霊祭を通じて諸先輩と縁ができたことを大事にして後輩につなぎ、慰霊碑を守り続けていくことをお約束します、と語りました。

戦後70年(2015年)の慰霊祭に参加した吉田美喜夫総長は、次のように決意をのべました。

戦後、立命館大学は平和と民主主義を教学理念に掲げ、1992年に国際平和ミュージアムを設立し、戦争の悲惨さち平和の尊さを伝える努力をしてまいりました。四学友の慰霊にあたり、再び学生が銃をとることなく、平和実現への努力を続けることが立命館の責務であると考えます。

(完了)


 注1 決戦教育措置要綱 昭和20318日 閣議決定

第一 方針

現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス

第二 措置

一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス

二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス

国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス

三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム

四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス

 五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム

 六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ

 七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス

備考

一 文部省所管以外ノ学校、養成所等モ亦本要綱ニ準ジ之ヲ措置スルモノトス

二 第二項ハ第一項ノ動員下令アリタルモノヨリ逐次之ヲ適用ス

三 学校ニ於テ授業ヲ停止スルモノニ在リテハ授業料ハ之ヲ徴収セズ

学徒隊費其ノ他学校経営維持ニ要スル経費ニ付テハ別途措置スルモノトシ必要ニ応ジ国庫負担ニ依リ支弁セシムルモノトス

決戦教育措置要綱の第2の二により1945(昭和20)年4月~1946(昭和21)年3月末の間、国民学校初等科を除く学校の授業は、停止させられていた。

同要綱の第2の六により、戦争完遂の為特に緊要なる専攻学科を修めしむるを要する学徒に対しては学校に於ける授業も又、之を継続実施するものとす。

2 『立命館百年史通史二』P53

3 昭和201945)年816日 学徒動員解除通達

4 現在、詳細な学園の復員・復学の記録は発見されていません。

注5 立命館百年史通史二』p770

注6 校友会機関誌「りつめい」 1995(平成7)年121日発行

 注7 中日新聞 1976年7月26日付

2016年11月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重


慰霊碑のある諏訪墓地の入口


慰霊碑正面


慰霊碑裏面

2016.10.27

<学園史資料から>創立者中川小十郎生誕150年記念 中川小十郎ゆかりの地を巡る現地見学会の報告

2016年は、創立者中川小十郎生誕150年にあたります。

生誕の地亀岡市では、78月にかけて「中川小十郎-馬路村より立命館創立者へ」と題した企画展を実施しました。

この企画展に関連して、2016924日(土)小十郎が育った丹波馬路村(亀岡市馬路町)やゆかりの場所を巡るバスツアーを開催しました。

 

当日は、亀岡市民の方、中川小十郎顕彰会の方、立命館校友など92名が参加され、天平13741)年に建立された「丹波国分寺」の史跡、丹波一宮とされた「出雲大神宮」を見学した後、小十郎が幼少期を過ごした亀岡市馬路町(丹波馬路村)に今も残るゆかりの場所を歩いて巡りました。

その様子をお伝えします。

 

1.丹波国分寺

 当日の朝、ツアー一行はバスで亀岡市千歳町にある「丹波国分寺」に向かいました。

 

 丹波国分寺は、聖武天皇が国土安穏や護国豊穣を祈るため、天平13741)年に建立した寺です。245m四方を築地で囲み、奈良の法起寺式の伽藍配置(東に塔、西に金堂を配す)で建てられました。その後遺構の発掘調査の結果、当時の瓦や塔の礎石、梵鐘の鋳型などが出土しています。現在見られる本堂、山門、鐘楼は安永年間(17721781)に再建されたものとのこと。


 ツアーの面々は雑草で覆われた広い寺域を抜けて、本堂に向かいます。

 


当日は曇りで涼しく、途中のあぜ道には曼珠沙華がまっ盛りでした。

 


国分寺の本堂。2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主人公あさが新次郎に自分の気持ちを打ち明けるシーンのロケ地としても使われています。


ガイドの説明を聞くツアー参加者

 

 

2.出雲大神宮

丹波国分寺を見学した一行は、再びバスに乗り「出雲大神宮」に向かいました。

出雲大神宮は、和銅2709)年創祀と伝えられ、中世の丹波一宮とされた古社です。大国主命とその后神である三穂津姫命を主祭神とし、崇神天皇はじめ多くの摂社、末社が祀られており、本殿背後の「御蔭山」を御神体とする信仰形態を残しています。


バスを降りた一行は大神宮への道を登ります。背景の山が出雲大神宮の御神体である「御蔭山」です。


大神宮の神饌田では、ちょうど抜穂祭神事の最中でした。

 


出雲大神宮の大鳥居と本殿。本殿は中社で、上社は御神体山「御蔭山」山中にあります。

 

3.小十郎生誕の地「馬路町」へ

午前中をかけて「丹波国分寺」「出雲大神宮」を回った一行は、バスで馬路町に移動しました。

馬路町は、小十郎が生まれた慶応21866)年当時、丹波国桑田郡馬路村と呼ばれていました。馬路村は亀岡盆地の北部に位置し、大堰川左岸の田畑に囲まれた豊かな土地で、江戸時代は旗本の杉浦氏の知行地として陣屋が置かれた大きな集落でした。一方で馬路村は郷士の家が力をもっている村でもあり、こうした郷士が幕末・明治維新期に活躍していきます。

また、馬路村は学問の土壌も培われた土地柄で、小十郎の恩師である田上綽俊(たがみ しゃくしゅん)の致遠館、私塾の典学舎、北村龍象(きたむら りゅうしょう)の塾などが開設されていました。

馬路町でのツアーは、まず自治会館に集合して昼食を取った後、こうした事蹟を徒歩で辿りました。

 


 

ツアー参加者は馬路町自治会館に集合


全員で昼食をとり、馬路町自治会長の中澤基行さんからご挨拶をいただきました。


昼食を済ませ、2つのグループに分かれて元気に出発。これからは徒歩で小十郎ゆかりの場所をめぐります。

先頭を行くのは、このグループの引率・講師の中川茂雄さん(左)と人見淳生さん(右)。

 

4.中川祖霊社と顕彰碑

最初に回ったのは、中川一族を祭る「中川祖霊社」と西園寺の山陰道鎮撫に同道した馬路の人々や中川謙二郎の顕彰碑が置かれた場所です。


画面左の門が「中川祖霊社」。この馬路の地は、先人を祭る風習があり、他の一族も同じように祖霊社を祀っています。


「中川祖霊社」の隣には、奥に「戊辰唱義(清声千古)碑」、手前右に「中川謙二郎先生碑」、手前左に「中川小十郎先生碑」が建立されています。

 「戊辰唱義(清声千古)碑」は、慶応41868)年の戊辰戦争時に西園寺の山陰道鎮撫に同行した馬路村の人々を讃え、大正111922)年に小十郎が中心になって建立したものです。清声千古(せいせいせんこ)とは「清い誉れを永久に伝える」という意味です。

 「中川謙二郎先生碑」は小十郎の叔父で山陰道・北陸道鎮撫に同行し、その後東京女子高等師範学校(現 御茶ノ水女子大)の校長などを務めた謙二郎を、郷土出身の教育者として讃え、昭和31928)年に小十郎が中心となって建立したものです。

 「中川小十郎先生碑」は、平成51993)年小十郎の50回忌に学校法人立命館が建立したもので、当時の西村清次理事長、大南正瑛総長の顕彰文が刻んであります。

 

5.小十郎の生まれた生家(堀ノ内)へ

次に一行が向かったのは、小十郎が生まれた中川禄左衛門(実父)の旧宅です。堀に囲まれていることから、(堀ノ内)と呼ばれていました。既に住まう人はなく、母屋は取り壊されて倉と土塀、長屋門が残るだけになっています。


一行は敷地の入口から入っていく。御子孫の中川陽子さんが管理している。ツアーのために事前に草刈をしていただいていたので広々としている。

 


生家(堀ノ内)の邸内全景。奥の倉と右手の小屋・長屋門だけが残るが劣化が激しい。


左、長屋門を内側から見る。右、長屋門を外側から見る。

 

6.養家(四ツ辻)

 小十郎の生家(堀ノ内)を後にした一行は、養家(四ツ辻)に向かいました。(四ツ辻)は小十郎6歳の時に養子に入った中川武平太の旧宅です。

 小十郎は養父武平太の下で幼少期を過ごし、田上綽俊の致遠館にもここから通っていました。


養家(四ツ辻)の敷地内に入る。住まう人は無いが、母屋は健在。事前に草刈をしていただいたので全景が良く分かる。


木戸を潜って、母屋の玄関に向かう。

 

7.人見龍之進旧宅(西園寺公望宿泊の家)

続いて、人見龍之進の旧宅に向かいました。人見龍之進は、人見一族を代表して山陰道鎮撫に同行するとともに、総督西園寺の宿泊施設として自らの屋敷を提供しました。西園寺は馬路滞在の3日間ここに投宿しています。現在は住む人も無く雑草で覆われていたのですが、今回のツアーのために草刈をするなどご尽力いただきました。


人見龍之進旧宅。ここを西園寺公望が出入りしたと想像を膨らませる。


人見淳生さん(中央)から人見一族と山陰道鎮撫の関係を解説いただきました。

 

8.川東学園(旧致遠館)と馬路陣屋跡へ

人見龍之進旧宅を出発した一行は、小十郎が幼少期に学んだ田上綽俊の致遠館跡地へ向かいました。

致遠館の在った場所は、元々江戸時代には馬路一帯を管轄した旗本杉浦氏の代官所(陣屋)が置かれていた場所でした。明治に入って、山陰道鎮撫使の功績により下賜されて、明治51872)年、致遠館が建てられます。

小十郎はここで学問の大切さ面白さを学びました。

その後この場所は、昭和371962)年に周辺の小学校4校が合併して「川東小学校」となり、平成27年からは小中一貫校の「亀岡川東学園」となっています。


亀岡川東学園の正門。敷地は広く通りに面して校地の塀が続いていた。


川東学園沿いの道を少し行くと、「馬路陣屋跡」(杉浦氏の代官所跡地)の碑が立っている。

川東学園を含めてこのあたりが馬路一帯を管轄する陣屋だった。

 

9.典学舎碑から北村龍象碑を巡って馬路町自治会館へ

 

致遠館跡地の亀岡川東学園・馬路陣屋跡を見学した一行は、最後に幕末に開設された私塾「典学舎」跡地、「典学舎」の後を継いで「馬路の塾」を開いた教育者の北村龍象の碑を訪ねて馬路自治会館に戻りました。

 


民家の入口に建てられた「典学舎跡」の碑。幕末の頃、桑田郡で開かれた私塾としては最古のもの(嘉永年間 18481854 に開塾)です。小十郎の父親世代が学んだ塾で、叔父謙二郎も塾生の一人。塾長であった中條侍郎の娘梅野は後の三輪田眞佐子(明治・大正の女子教育家。三輪田学園の創設者)で、日本女子大学校(現 日本女子大学)の設立にも関わり、中川謙二郎の招聘によって東京女子高等師範学校(現お茶ノ水女子大学)の講師を務めています。

 


 

北村龍象は明治・大正期の教育者。幕臣の子息として京都に生まれ、戊辰戦争に従軍の後、馬路に居を移しました。「典学舎」の後を継ぎ4年間塾を運営しています。その後も馬路村に住い、「馬路学校」と呼ばれる塾を開くなどして亀岡地域周辺の青年教育に尽力しています。

 

10.最後に

 亀岡・馬路町の地域は、肥沃な土地を持ち都に近く交通の要衝であったことから、古くから生産・流通などの地域経済がさかんで、教育・文化も発達しました。人々は経済力と教養を身につけ、郷士として地域を担ない、維新の激動期に積極的に関与していったのです。

今回のフィールドワークで史跡を巡ってみると、立命館創立者中川小十郎は、馬路の人々とともに学び育ったからこそ、世に出てきたのだなあと改めて納得しました。

最後に今回のツアーの概略図を掲載しておきます。

                      201610月 史資料センターオフィス

奈良 英久

 

 

 

<亀岡地域の概念図>

 

<馬路町内のツアー順路>

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