立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2024.06.07

<学園史資料から>中川小十郎と夏目漱石の交友関係について

 史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
 また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
 文豪夏目漱石(以下「漱石」という)と中川小十郎(以下「小十郎」という)は「東京府第一中学」、英学塾「成立学舎」、「予備門(後に第一高等中学校)」、「帝国大学」の学生生活を通してどのような交友関係があったのかを調べてみました。

(1)「東京府第一中学」時代
 夏目漱石の「落第」(『定本漱石全集』第二十五巻別冊上181~186頁、岩波書店2018年版)では、冒頭部分に「其頃東京には中学と云うものが一つしか無かった。…学校は正則と変則とに別れて居て、正則の方は一般の普通学をやり、変則の方では英語を重にやった。其頃変則の方には今度京都の文科大学の学長になった狩野だの、岡田良平なども居って、僕は正則の方に居たのだが、柳谷卯三郎、中川小十郎なども一緒だった。」と小十郎が級友であったことを述べています。その後の部分では学生生活や先生へのいたずら、腹膜炎罹患、落第などが述べられ、米山という学生に「文学をやれ」と力説されて「僕は文学をやることに定めた」という話になっています。
 また小十郎の名前は出てきませんが、漱石は自分の学生時代について「私の学生時代を回顧して見ると、殆んど勉強という勉強はせずに過した方である。」と「一貫したる不勉強―私の経過した学生時代」(『定本漱石全集』第二十五巻別冊上337~345頁、岩波書店2018年版)に述べています。

(2)英学塾「成立学舎」時代
 小十郎が漱石等と学んでいた「成立学舎」について、漱石は「満韓ところどころ」(『定本漱石全集』第十二巻小品275~277頁、岩波書店2017年版)において佐藤友熊という学友の思い出として語っています。
 「始めて彼を知ったのは駿河台の成立学舎という汚ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。佐藤はその頃筒袖に、脛の出る袴を穿いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。ちょうど白虎隊の一人が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論下駄を穿いたまま上った。もっともこれは佐藤ばかりじゃない。我等もことごとく下駄のままあがった。上草履や素足で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。床に穴が開いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子に、向脛を摺剥くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。」
 なかなかの劣悪な教室条件ですが、予備門に入るために一生懸命に学んだ懐かしい学舎を回想しています。ここには小十郎の名前は登場しませんが、予備門に入学後にこの「成立学舎」で学んでいた学友を中心に、夏目漱石、中川小十郎、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、斎藤英夫、小城斎、中村是公等で「十人会」が組織されました。

(3)「予備門」時代
 漱石との関係を小十郎は「我輩の中学生時代」(『立命館百年史』資料一18~24頁、学校法人立命館)の中で次のように回想しています。二人は学校終わりに遊んでいた友人でした。「…神田の裏神保町に末廣という下宿屋があって、そこに漱石や中村是公などが下宿していたので、我輩等は学校の帰りにそこで立ち寄って漫談をやるのが例であった。漫談と云ってもこの頃能くある雑誌の原稿にでもなるのとは全く異って本当の無駄話しをやって時日を徒消するのが本領であった。その仲間に漱石こと塩原金之助、中村是公こと柴野是公、太田達人、佐藤友熊、土井軍平、白浜重敬、綿貫吉秋こと堤喜代吉、それに我輩であった。…漱石は何時も室の片隅に寝転んでいて、点々として仲間の所謂漫談を聞いているのであった。」とあります。
 また、後年になって漱石は、「『極北日本 樺太踏査日録』への序」(『定本漱石全集』第十六巻評論ほか558~560頁、岩波書店2019年版)において、「蟹堂君が親しく大経営の方針を聴いたといふ平岡長官や、それから君が世話になつたといふ中川第一部長は、二人共豫備門時代における余の同窓である。平岡君とは夫程親しくはなかつたが、中川君とは別懇の間柄であつた。たしか學校を卒業した時の話だと記憶してゐるが、知り合ひの某々等がある序で顔を合はした折り、座上を見廻して此うちで誰が一番先に馬車に乗るだらうといつたものは此中川君であつた。誰も答へない先に、まあ己だらうなと云つたのも此中川君であった。其時居合はした五六の卒業生のうちで出入りに馬車を驅つてゐるものが今あるかないか、まだ調べて見ない余の知らう筈もないが、少なくとも中川君丈は、慥かに橇に乗つて樺太を横行してゐるに違ひない。その時の一人であつた某理學士も近々樺太へ轉任するといふから、これも中川君と前後して橇に乗る事だらう。」と述べています。このように「別懇の間柄」である中川との思い出を漱石が懐かしく語っています。
 他に、実際の書簡は残されていませんが、漱石による「中川小十郎宛夏目漱石英文書簡下書き」(『漱石全集』第二十六巻492~493頁、岩波書店1996年版)に英文書簡の下書きが残っています。
 「先週土曜日に君を訪ねて聞いたところでは、だいぶ回復に向かっているとのことだったから、2、3日うちには学校でお目にかかりたいものと切に願っている。土曜日に言ったように、君の代わりに学校へ斎藤君に会いに行った。だが残念ながら、きょう斎藤君は休んでいた。君を病床に見舞って、斎藤君からのお見舞いを伝えることもできず、やむなく帰宅した。赦してくれ給え。明日、あるいは明後日、また病床の君を訪ねて、君の気が紛れればとも想う。御快復を心から祈りつつ、親愛なる中川の忠実なる友 塩原金之助 中川小十郎様」。病床の中川小十郎を気遣う漱石の様子がよく表われています。
 さらに、龍口了信著「予備門の頃」(十川信介編『漱石追想』30~35頁、岩波文庫2022年版)では、大学に入学するための予備門での学生生活を描いていて、「私は病気のために学校を休んだので、…中川小十郎君等より一年おくれて明治二十三年に第一高等中学校を卒業した。第一高等学校の同窓会名簿を見ると、中村、夏目、正岡(子規)君等は私と同じく二十三年の卒業になっているから、これらの人々も何等かの理由で一年おくれたのだろう。」とそれぞれ学友の名前を挙げて述べています。
 また太田達人「予備門時代の漱石」(『定本漱石全集』別巻漱石言行録15~26頁、岩波書店2018年版)には上述の「十人会」について書かれています。「…佐藤友熊だの、橋本左五郎だの、それから西園寺公に附いてゐる中川小十郎だのと云つたやうな、成立学舎から来た連中ばかりが集まつて『十人会』といふのを組織しました。勿論、その中には夏目君も私も加はつてゐました。中村是公は成立学舎出身ではないが、ああいふ気性だから、やはり気が合つたものと見え、『十人会』の一人になつてゐました。正岡子規はその時分は未だ別の仲間でした。」この後には、「十人会」のメンバーが一人十銭の予算でほとんど歩いて江の島に一泊旅行に行ったことが描かれています。

(4)「東京帝国大学」時代
 小十郎と漱石が親しい交友であったことを示す帝国大学卒業記念写真があります。明治26(1893)年7月、小十郎が帝国大学を卒業する際に撮影した同級生との記念写真(『立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集』62頁、学校法人立命館史資料センター)があります。この写真では小十郎と漱石が正装で写っています。


中川と漱石1
*左から、太田達人、中川小十郎、夏目漱石、佐藤友熊


 これまで見てきましたように、漱石と小十郎の交友関係は、漱石が「別懇の間柄」というくらい親しかったことが分かりました。大学卒業後にはそれぞれ進む道が違いましたが、どこかで影響を受け合っていたかも知れないと想像するのも楽しいですね。

【参考】「立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集」

2024年6月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2024.05.08

<学園史資料から>立命館校友の作家たち

 史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
 また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
 今回、「立命館も様々な分野での校友を輩出しているけれど、作家さんはどのくらいいるのだろう」と立命館校友(卒業・中退)で作家さんの調査をしてみました。

 活躍が記憶に新しい、こちらのお二方も校友です。
立命館校友の作家たち4 
 第168回直木三十五賞
千早茜 著『しろがねの葉』(新潮社刊)
    
立命館校友の作家たち5
第167回芥川龍之介賞
高瀬隼子 著「おいしいごはんが食べられますように」(講談社刊)

 さすがに史資料センター所蔵の資料で作家さんにまつわるものはありませんでしたので、インターネットで「立命館出身の作家」を検索したところ75名の方々が判明しました。あくまでインターネット検索なので、情報ソースが不確実であったり、ペンネームしかわからなかったりなど、データの検証が十分ではありませんので、ご容赦ください。もし訂正が必要な点などお気づきの点がありましたら、正確な情報をお報せいただくことができれば幸いです。
 今回情報を整理しましたところ、有名な文学賞である芥川賞は2名、直木賞は3名の方々が受賞されていることがわかりました。そのほか、このリストにはすべてを網羅できていないのですが、各ジャンルでの様々な賞を多くの方々が受賞されています。取り上げました「作家」もいわゆる小説家だけでなく、児童文学、短歌、俳句、ライトノベル等幅広いジャンルにわたり、著書を出されている方を紹介しました。いかがでしょうか、読んでみたい本が見つかりましたか?

      以下のリストをクリックすると、別画面で大きなリストをご覧いただけます。
立命館校友の作家たち2
2024年5月8日 立命館史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2024.04.12

<懐かしの立命館>勝敗の無い運動部~立命館中学校ワンダーフォーゲル部~

中学ワンダーフォーゲル1
【写真1】創部者で顧問の野崎教諭と創部2年目の生徒たち
(1968年3月卒業アルバム)

1.ワンダーフォーゲルとは
 現代のスポーツには、健康維持を目的として楽しむスタイルが増えてきています。しかし、学校の運動部といえば、団体や個人ともに勝敗を決定する競技が一般的で、勝利に固執するあまりに指導がエスカレートして問題化する場合もあります。
 そうしたなかにあって、異色の存在であったのがワンダーフォーゲル部で、ワンダーフォーゲルは、「渡り鳥」という意味をもつドイツ語で、野山を旅し、自然のなかで独立の精神を育むことを趣旨として始められたとされています。歴史的には、国民の身体を鍛えながら団体行動を身につけるという目的でドイツのワイマール時代に普及させたものでした。
 ワンダーフォーゲルはドイツから始まり、その後、世界各国に伝わり盛んとなりました。日本では昔から「行脚」という語で山々を歩く旅行が親しまれていましたが、これが山岳や登山の活動と共に広がり、1960年代になってからは各地の学校にもワンダーフォーゲル部が創設されるようになりました。

2.立命館中学校ワンダーフォーゲル部の誕生
 1966(昭和41)年、立命館中学校にもワンダーフォーゲル部(以下、ワンゲル部)が美術科教諭の野崎龍吉【注1】によって創部されました。野崎教諭は、学生時代にワンゲル部に所属して山行を好んでいて、風景画の作品にはその特徴をもつものがありました。後に中高の美術部顧問となってからは、部員たちと山々を歩いて作品を描いていました。
 まだ男子校であった立命館中学校の1966年当時のクラブ数は、文化部の方が多く(文化部8つ、運動部が6つ)、部員数(全校生徒数532名)は文化部170名で運動部180名とほぼ同数という状況でした。運動部では野球部(部員数32名)、庭球部(56名)、卓球部(31名)、排球部(18名)、陸上部(13名)で、創部1年目のワンゲル部には31名の部員が所属していました【注2】

3.ワンゲル部の活動内容
 ワンゲル部では、ユニフォームとしてやまぶき色の登山帽とエンジの登山シャツを着用していました。初期は部員数が多かったため、5つの班に分けて、各班には班長と副班長が決められました。活動は、週3日のトレーニングで体力づくりを行い、時々はハイクに必要な知識を学科と称する学習会を生徒たちで開いて学んでいました。
 月1回行われるハイクは、全員参加の総会で希望が聞かれ、それを生徒幹部会の役員たちで検討し、コースの行程や装備を決定しました。資料は、部員たちの手でガリ版印刷したものを配布されました。
 当時の立命館中学校のクラブ規定では、合宿を伴う宿泊が禁じられていたため、ワンゲル部の活動も日帰り可能な距離での行程でした。初期は10㎞程度だったのが、徐々に距離を伸ばして25㎞ほどになっていました。その達成感を生徒のリーダーは次のように述べています。
 「キャンプができず、一日で歩ける距離にコースが限られる。それでも、一日という時間を有効に使って京都のあちこちを歩いて見た。京都の郊外に、こんなにすばらしい所があるのかと言うほどの所があることを知った」【注3】 
 こうした自主的で地道な活動が学校から評価され、創部の翌1967(昭和42)年には宿泊(キャンプ)が許可されることになり、ワンゲル部の年間計画の中に宿泊コースが加えられるようになりました。

 記念すべき第1回の1泊2日のコースは、
 比良~(安曇川上流)~ヒノコ~大見(キャンプ)~杉山峠~花背峠~三条京阪(解散)
 でした。この時の取り組みを文集で次のように振り返っています。
 「まず先立って日時は、皆の都合を計り、天候なども考えて決定しなければならない。次にキャンプで水の便利な場所を考えてコースを決定した。費用なども相談して、買い物にあたったが、これも僕らの勉強で、分量やカロリーを考え体力のつくものを選ばねばならなかった。実際の行動ではテントやリュックサックの荷が重く、ようやくキャンプ地にたどり着いてもテントの組み立てと夕食の準備に時間がかかり、やっと8時頃になって飯ごうの飯の匂いをかぐことができた。後片付けを終えて寝る準備をした時はもう10時前だった。眠ったと思ったらもう朝で、すぐに朝食の準備にかからねばならなかった。(以下略)」【注4】
    野崎教諭の経験と指導が生徒たちにしっかりと伝わっていたことが想像できます。
 その後、顧問は変わり、1971(昭和46)年からの5年間は国語科で中学校副校長であった橋本二三男教諭が顧問となっています。この頃の部員数は15,16名でしたが、「北山」「比良」「湖南アルプス」などとコースを拡大し、1975(昭和50)年夏には大山縦走を実現させています。この大山では、「思わぬハプニングで不成功に終わるかと思わせた縦走をきり抜けた実績は、ワンゲル部員だれもが経験した輝かしいことであった」と、生徒たちの記憶に熱く刻まれています【注5】。

中学ワンダーフォーゲル2
【写真2】生徒と肩を組む橋本顧問(1973年3月の卒業アルバム)

 その後の主なものをあげると、
 1977(昭和52)年春には3年生を送り出すための1泊2日合宿。
 1979(昭和54)年夏季合宿として大山縦走実施。
 1980(昭和55)年夏季合宿で立山合宿(4泊5日)。 
 この年の文化祭から運動部として展示参加開始
 1983(昭和58)年夏季合宿で芦生の京大演習林(2泊3日)。
 その後には、白山(2泊3日)や白馬岳(2泊3日)、槍ヶ岳(3泊4日)と3年周期で夏合宿を実施し、冬には雪中の山行などと山岳部のような行程へと変化していっています。
 生徒たちは、道に迷ったりしながらも、ワンゲル部の活動を通じて自然と親しみ、仲間との団結や協力の大切さを学んでいったのでした。



中学ワンダーフォーゲル3
 【写真3】山岳経験豊かな西脇顧問と(1984年3月 卒業アルバム)

 このように山岳部的な活動内容になった理由としては、1984年からワンゲル部の顧問として10年間を西脇終教諭(それまで高校山岳部の顧問であった)が、その後も高校山岳部顧問の前澤俊介教諭が担当したことがあげられます。

中学ワンダーフォーゲル4
【写真4】信州育ちの前沢顧問と(1987年3月 卒業アルバム)

4.ワンゲル部の残したもの
 1988(昭和63)年には男女共学、深草キャンパス移転と変わっていきましたが、女子部員の入部はなく、部員数も減少傾向となり、ついに1998(平成10)年3月をもってその歴史を閉じることになりました。
 立命館中学校ワンダーフォーゲル部は、勝敗のない運動部として異色で貴重な存在でした。これからの部活動のあり方を考えるうえでも参考になるのではないでしょうか。
  
中学ワンダーフォーゲル5
 【写真5】最後の槍ヶ岳合宿(1998年3月 卒業アルバム)


 2024年4月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博


【注1】 京都市立絵画専門学校本科(後の京都市立芸術大学)卒業。1943年に立命館第二中学校教諭として入職。1971年からは中高校長を務めた。
【注2】 1966年度学校要覧。
【注3】 立命館中学校生徒文集「清流」第13号 (1967年3月発行)
【注4】 立命館中学校生徒文集「清流」第14号 (1968年3月発行)
【注5】 立命館中学校生徒文集「清流」第24号 (1976年3月発行)

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