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2015.12.10

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 前編

目次 

 はじめに

 1.京都の住まい

  (1) 御所公家町西園寺邸

  (2) 等持院の萬介亭

 2.東京の住まい

  (1) 帰国後の住まい

  (2) 大森不入斗の望緑山荘

 3.大磯の隣荘 

 4.東京・駿河台邸   

 5.京都・清風荘

  (1) 清風荘以前

  (2) 清風荘

 6.御殿場・便船塚別荘

 7.興津・坐漁荘

  (1) 興津以前

  (2) 坐漁荘

 おわりに

 

はじめに

 西園寺公望は嘉永2(1849)1022日に京都で生まれ()、昭和15(1940)1124日に静岡県興津でその生涯を閉じた。

 幕末から昭和にかけ、別の言い方をすれば孝明・明治・大正・昭和の四朝にわたる、激動の時代を生きた。その間西園寺はどこに住んだか。時代とともに過ごした場所は変転するが、本稿はそれぞれの時代の西園寺の住まいを訪ねることを目的とする。

 () 戸籍上は1023日生まれ。

 

1.京都の住まい

 

 (1) 御所公家町西園寺邸

 西園寺公望の父は右大臣徳大寺(きん)(いと)、生母は末弘斐子(あやこ)(千世浦)で、清華家である徳大寺家の次男として生まれた。2歳にして西園寺(もろ)(すえ)の養子となり、西園寺を名乗ることになったのである。

 したがって養子となってから御所公家町の西園寺邸に入ったのであって、幼名美麿((よし)(まる))が生まれたのは西園寺邸ではなかった。

 徳大寺家本邸は烏丸今出川東北(現在同志社大学の地)にあって、別邸を田中村にもち清風館といった。しかし美麿が誕生したのは徳大寺の本邸でも清風館でもなく、徳大寺家本邸に近い諸大夫堀川久民の家であった。

 『住友春翠』(1)は、「千世浦が美麿(のち)の西園寺公望を生んだのは、家の諸大夫堀川西市正久民の家であったことが糸屯記にって明かとしている。

 雅楽の普及に努めた堀川家は、明治の初期には武者小路新町西入ルの西無車小路町にあった。嘉永7(1854)46日に京都は大火に見舞われ、御所を始め百五十町、5,400戸が被災し、堀川家も焼失したと思われるが、美麿(のちの西園寺公望)は堀川久民邸で誕生したのである。

 

 公望は嘉永4(1851)年に西園寺家の養子となり、明治3(1870)年にフランス留学に旅立つまでのおおよそ20年間、御所公家町、蛤御門(新在家門)東南の西園寺邸を本邸とした。

 その地には現在「西園寺邸跡」の標柱が立ち、白雲神社がある。白雲神社はもともと西園寺邸の鎮守社であった。

西園寺師季は公望が養子となって間もない7月、25歳の若さで病死したため公望は幼くして西園寺家の当主となった。

 御所およびその周辺は江戸時代にたびたび大火に遭って、西園寺邸もそのたびに公家町のなかで移転したり規模も変わっているが、西園寺家の様子は、明治4(1871)11月に朝廷にその土地・家屋を返還する際に提出された「華族建家坪数書扣」(2)によっておおよそがわかる。その資料によれば、

 土地は、拝領地が1,3302厘、拝借地が551坪、合わせて1,8812(6,207)であった。

 建物は瓦平家建2698厘、瓦物入4025厘、土蔵10坪、瓦湯殿雪隠12坪、計33133(1,093)であった。

 したがって明治2年に開いた私塾立命館の建物は、概ね上記の通りであったと考えてよいだろう。

 

 嘉永7年の大火の際は、孝明天皇も御所から逃れ仮御所を聖護院に置いたが、このとき西園寺邸も焼失し、公望は諸大夫芦田兵庫助の家に寓居した。芦田家は鴨東の聖護院村にあり、垣根の向こうに儒家の中島棕隠が住みその家を銅駝余(どうだよ)霞楼(かろう)と称していた。少年公望は垣根越しに坊主の農夫(中島棕隠)が書生に何事かを講説する様子を物珍しく見ていたという(3)。西園寺は後にその農夫を儒者の中島棕隠と知る。後年公望と交流のあった富岡鉄斎はその頃熊野神社の近くに住んでいて「聖護院村略図」に棕隠の家などを描いている(4)

 

 少年期には漢学や書に親しんだが、やがて青年期に達すると自邸に文筵を開き、当時の著名な文人であった淡海槐堂、富岡鉄斎、神山鳳陽、谷口藹山、広瀬青邨、松本龍、梁川紅蘭などと交流した。

 時は幕末維新の激動の時代に入り、公望は新政府の参与となった。慶応4(明治元)年、年が明けると戊辰戦争が勃発し、公望は山陰道鎮撫使に任ぜられ、山陰から帰ると引き続き北越戊辰戦争に赴き越後や会津で戦った。

 戦争が終結すると公望は京都に戻り、明治29(7月とも)には西園寺邸に私塾立命館を開いた。この時集まった賓師の多くは先の文筵に名を連ねていた。淡海槐堂、神山鳳陽、谷口藹山、広瀬青邨、松本龍、富岡鉄斎らで、江馬天江が塾長として加わった。塾は大変な評判で100人を超す塾生が集まり、邸内に長屋を増築するほどであったという。

 しかし西園寺はこのころフランス留学を志しており、明治32月にはその準備のため西園寺邸を後にし、長崎に旅立ったのである。

 

【参照文献・資料】

 (1) 芳泉会『住友春翠』(再版)1975(初版は1955)。糸屯記は実父徳大寺公純の日記である。誕生

の地を清風館とする資料もあるが、本稿では『住友春翠』によった。

 (2) 京都府庁文書「華族建家坪数書扣」1871年 京都府立総合資料館所蔵

(3) 西園寺公望著 国木田独歩編『陶庵随筆』(中公文庫1990)

 (4) 京都市『史料京都の歴史』第8巻 1985 

 

西園寺公邸跡

 

(2) 等持院の萬介亭

 あまり知られていないが、西園寺公望は幕末期に時折「萬介亭」で過ごした。萬介亭は立命館大学衣笠キャンパスの東側にあたる等持院東町にあった。当時は等持院村と言って等持院の東に位置する。

 萬介亭は『西園寺公望自傳』(1)や『随筆西園寺公』(2)に登場する。

 「京都の等持院辺に西園寺池という池があるだろう、そこに別荘があって、萬介亭と称した」と『西園寺公望自傳』で西園寺が語っている。そのなかで西園寺は萬介とは竹であり、その別荘に竹が植えてあったから号を竹軒としたと語っている。

 また小泉策太郎は『随筆西園寺公』でも萬介亭を紹介している。同書所収の「坐漁荘日記」に「慶応の初年頃、新たに等持院の近傍に創建した別荘に瀟湘の風露を移して萬介亭と称し」、また「萬介亭は維新前、公の所作。此辺高島鞆之助のかくれ家あり。高島牛肉を持ち来り、云々。是より先、公私に牛肉を知れり」と記している。

 高島鞆之助は誤りで実兄の高島六三が正しいことは、西園寺公望が亡くなったときの中川小十郎の朝日新聞の談話『「竹軒」の由来』(3)でも語られていることなどから裏付けられるが、西園寺公望と高島六三の萬介亭での交誼は高島が薩摩から上洛した時期や西園寺が慶応4(明治元年)に戊辰戦争で山陰道に向かうことから慶応年間であったことは間違いない。高島は薩摩藩士で、近くに薩摩藩の調練所があり、萬介亭の北一丁ほどのところに住んでいた(4)。なお中川は、邸の名称を「萬亭」としている。

邸はおそらく御所の西園寺邸と同じ頃に返還されたと思われるが、邸に隣接していた西園寺池は昭和11年頃まで附近の灌漑用の池として残っていた。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集『西園寺公望自傳』 講談社 1949

  (2) 小泉三申全集第三巻『随筆西園寺公』 岩波書店 1939

  (3) 中川小十郎『「竹軒」の由来』 朝日新聞 1940126

  (4) 高島健三『小松原附近郷土史』私家版 1989

  なお萬介亭の詳細については、久保田<懐かしの立命館>竹軒西園寺公望と「萬介亭」立命館史資料センターホーム

ページ 2014年 参照 

 

西園寺公邸址碑 もと等持院東町にあったものを西園寺記念館に移転

 

2.東京の住まい

 

 (1) 帰国後の住まい

 西園寺公望は明治13(1880)10月、10年ほどにわたるフランス留学を終え、東京に戻った。しかし、1030日に天皇から麹町区一番町の旧一条忠貞邸を貸与されて以降、10年余にわたって本邸といえる屋敷を持っていない。

 明治15年に築地二丁目35番地に屋敷を構え、明治19年には永田町二丁目20番地を新住所とし、明治19年から23年には尾張町二丁目15番地にも屋敷を構えた。

 明治251月頃、麹町区三番町74番地に屋敷を構え、明治261月頃には赤坂区氷川町53番地に屋敷を構えたが、明治281月には文部大臣となったため麹町区永田町一丁目19番地文部大臣官舎に居住した。

 明治299月頃は内幸町一丁目5番地に控家を、明治3111月頃は三田四国町2番地17号に控家を、また同年12月には内幸町一丁目3番地に新しい控家を構えている(1)

 この間西園寺は欧州出張や、ウィーン、ベルリン、パリで公使などを務め、外国に在った期間も長いことから、本邸らしい本邸をもつ間もなかったということだろうか。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 立命館大学『西園寺公望傳』別巻二「西園寺公望年譜」1997

 

(2) 大森不入斗の望緑山荘

 ようやく屋敷を構えたのは、フランス留学による帰国から13年も経った明治26(1893)12月頃のことであった()。それも東京の中心部から外れた、当時の地名で、東京府荏原郡入新井村1475番地、大森停車場側の根岸、不入斗(いりやまず)とも言われるところで、駅から歩いて10分ほどのところであった。

 大森不入斗には明治32年半ばまでの6年ほど住み、その邸を望緑山荘と言った。望緑山荘の様子は、のちに住んだ随筆家の内田誠がその著『遊魚集』(1)の「望緑山荘の記」に残している。内田誠の父親は内田嘉吉といい、台湾総督を務めたことがある。望緑山荘跡はその父親が購入した。

 「敷地も千余坪に過ぎず、公の旧邸としては質素を極めたものであった。一体に京都風のものやはらかな平家普請で、座敷なども、茶室のやうに縁をとってしまひ、軒をひくくした、風流な構へだったり、部屋にかこまれた中庭があったりして、閑寂の趣きのどこやらにあるようなものではあったが、如何にも飾り気の無い家だった。

 間取りも決して広いものではなかった。記憶をたぐりながら、ここに書きならべてみても、座敷八畳二間、居間八畳六畳、茶の間八畳八畳六畳、表玄関三畳、中玄関三畳、書生部屋四畳半、女中部屋三畳、応接室十坪、土蔵二階共十五坪、外に湯殿、台所、位のもので、間違ひはあるかも知れぬが、大体に誤りはなく、公の簡易な生活が、之等の数字にしのばれるのである。

 建坪は案外そのように狭いのであったが、庭や周囲の空地は割にゆったりと取ってあった。庭も何の奇もなかった。芝生と四、五十本の梅の木があるだけであった。たゞ、梅の花の盛りの時分は見事だった。白い花が霞に銀粉を撒いたやうであった。」

 内田誠が住んでいたころ望緑山荘の名残は庭の梅の木と、応接室のシャンデリヤのみであったという。近くには梅林の名所八景園もあった。

 また、安藤徳器の『園公秘話』(2)に最初の「奥さん」であった玉八こと小林菊子による「玉八聞書」があり、公望の最初の子・新子さんと一緒に住んでいたことを語っている。また同書の「園公の趣味と教養」に西園寺公望が詠った

   数楹郊墅築方成 時欽農夫楽太平

   夏日読書冬射猟 曹公志未在功名

を掲載している。当時の生活の一面を詠ったものであろう。

 織田萬は『法と人』(3)の「嗚呼陶庵公」で、明治28年秋に大森不入斗邸を訪ねたことを記している。織田の訪問は、文部大臣兼外務大臣であった西園寺に、京都帝大創立に向けて教授を任用するための外国留学を願い出るものであった。

 所在地であった不入斗(いりやまず)は不居読(いりよまず)から転訛したといわれることから、この頃西園寺公望は俳名を不読と名乗った。

 現在望緑山荘の一部は大森郵便局となっており、旧土地台帳によれば、敷地面積は1,387.88坪であった。

 () 西園寺公望の伊藤輶斎あて明治(26)1224日書簡に、発信元を東京荏原郡入新井村第千四百

七拾五番地大森停車場側字根岸としている。(立命館大学『西園寺公望傳』別巻一)

 

 【参照文献・資料】

  (1) 内田誠『遊魚集』 小山書店 1941

  (2) 安藤徳器『園公秘話』「玉八聞書」 育生社 1938

  (3) 織田萬『法と人』 春秋社 1943

 

3.大磯の隣荘

 

 明治32(1899)228日、西園寺公望は伊藤博文に誘われて大磯の伊藤の別荘滄浪閣に泊まった()。そしてその年の11月、伊藤の紹介でその隣に別荘を普請した。大磯町西小磯68番地である。大磯駅から西に歩くことおよそ15分、大隈重信、陸奥宗光、山縣有朋などの別荘がすぐ近くにある。大磯には歴代総理大臣のうち8人が別荘を構えた。

 西園寺の別荘は「隣荘」と言ったが、その名の由来は伊藤博文の別荘滄浪閣の隣にあったことによる。また所在地の大磯が陶綾郡(淘綾郡・ゆるぎぐん)といったことから西園寺の号と同じ「陶庵」とも言われたようである。

 隣荘は北側が旧東海道で、南側は相模湾に面していた。敷地はおよそ4,400坪あった。

 

西園寺公望の孫公一は、子供の頃大磯の別荘で夏休みを過ごした。その頃の思い出を後

年、『貴族の退場』(1)で語っている。

 「家は、部屋数こそ多くなかったが、今から考えると、かなり広かった。御前様のお居間と呼ばれていたのが祖父の部屋、お部屋様のお部屋というのがおばあちゃんの部屋、それにお客間、お茶の間、玄関脇の詰所、女中部屋、風呂場、台所は土間付きで、駄々ッ広い台所であり、土間には、丈の高い雲雀籠や、鶉籠が吊(ママ)下げられていた。……家は茅葺きで、垢抜けのした百姓家とでも言うか、お茶がかった気取りはなし、庄屋さんの家みたいな格式張った、おどかしはなし、思い出の中にも快く浮び上って来る家である。庭は狭く、梅の木が数本と、竹の植込み――竹は業平という種類だったと思う。その庭の前から、大磯特有の高い砂山まで続いた松林が、この別荘の生命であり、また、子供たちに取っては、楽しい遊び場である

 西園寺公一は、「祖母」(菊子さん)についても書いているのだが、その祖母は普通の家庭のおばあちゃんではないことを子供ながらに気がついていた。孫や家人には結構厳しいが、祖父(おじいちゃん)やパパ(西園寺八郎)には頭があがらない関係であったようだ。

 

 西園寺と親しかった小説家国木田独歩が、「人物ト其平生」(2)で「侯の別荘論」を載せている。侯の語るところに依れば、

 「別荘は決して主人公の逃げ場処、隠れ場処に非ず、季節来れば朋友知己の家族を案内して自由に滞在せしめ、数家族こゝに落合へば一種の交際其間に始まり、日夕相会して談笑す、……学者来れば科学を談ずるが故に益し、政治家来れば政治を語るが故に利す、客も亦た面白ろく季節を過ごして得る処少からず……」

 大磯の隣荘といい、のちの坐漁荘や清風荘における西園寺公望の生活は文字通り西園寺公の別荘論そのものであったと言えよう。

 現在は松林と海岸との間に道路が走っているが、松林は今も周囲の地形より高いところにある。

 隣荘は明治45年頃まで使用し、大正6(1917)年に当時三井銀行常務であった池田成彬に譲渡した。池田はその後近衛内閣で大蔵大臣・商工大臣を務めているが、昭和7年に洋館に建て替え、現在その建物が残っている。

 () 西園寺公望の竹越与三郎あて明治(32)31日書簡。(立命館大学『西園寺公望傳』別巻一)

 

 【参照文献・資料】

  (1) 西園寺公一『貴族の退場』 文藝春秋社 1951

  (2) 国木田独歩 「人物ト其平生」『国木田独歩全集』第9巻 学研 1966(原文は「報知新聞」1900

5月~7)

 

隣荘 大磯町郷土資料館提供

 

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 後編へ

2015.12.10

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 後編

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 前編へ


4.東京・駿河台邸


 明治31(1898)3月、住友吉左衛門春翠は東京神田区駿河台南甲賀町に地所と建物を買い、東京控邸とした。地積850坪余、建坪約200坪であった。

 春翠は明治33年になると内閣総理大臣臨時代理となった兄西園寺公望のために邸宅を新築し、公望がこの邸に入った。これにより駿河台邸は公望の東京本邸となった。

 明治から大正初期にかけての駿河台邸の様子を知ることのできる資料は少ない。

 この間の明治3411月末から翌年2月初めにかけて、国木田独歩が西園寺の知遇を得ていた竹越与三郎の紹介で駿河台邸内の長屋に寄宿した。西園寺は独歩に目をかけていたが、警備の巡査や家人が独歩の日頃の行状に不満を抱き2ヵ月余りで邸を辞した。

 西園寺は明治406月には、17日・18日・19日と3日続けて駿河台邸に小説家など文士を招いて宴を催した。泉鏡花、大町桂月、国木田独歩、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、森鷗外など著名な文士が参加した。夏目漱石や坪内逍遥、二葉亭四迷は出席を辞退したが、現職の総理大臣が自邸に文士を招いて宴の会を開いたことは世間の注目をあびた。この会はその後邸外に場所を変えて明治44年までの毎年と大正5年まで続き、雨声会と呼ばれた。

 この企画には国木田独歩や竹越与三郎などが関わったようだが、幕末期に青年西園寺公望が当時の錚々たる文人を御所の自邸に集め文筵を開いたことを彷彿させよう。

 

 大正8(1919)1月、西園寺公望は第1次世界大戦の講和全権委員に任ぜられパリに赴いたが、大任を終え帰国し東京に戻ったのはその年の824日であった。その日西園寺は東京駅から駿河台の「新邸」に帰った。帰国の様子を伝える新聞各紙から「新邸」の様子を知ることができる。

 読売新聞(大正8818日朝刊)は「新邸」の様子を、

 「……御主人の留守中に竣工した此の新邸は約一千坪あり、建築は中央に庭園を設け之れを囲みて方形に設計せられ、大表門は見るからに気持ちの宜い白木作り、敷き詰めし礫は左右の塀添ひの青々しき樹木の間を斜に表玄関に連ってゐる。玄関を左に入れば客間、応接間、食堂の三間何れも洋式設備で、右へ廊下を折れゝば二階建で階下四間は何れも洋式である。そして侯爵の居間なる階上は六間に分れ二間は書斎、四間は休憩室という。階下を右折すると三間続きの家族の居間があり、其の続きの小玄関の側までが下女使用人の居所、小玄関より表玄関の間の三間は書生、取次部屋の筈である。又中央の庭園は約五百坪に日本式の風致を凝らしたもの……」と伝えた。

 

 しかし大正2年に完成した京都の清風荘や、駿河台邸を新装した同じ大正8年に興津に別荘が新築されると次第にそちらを使うようになり、駿河台邸の使用は少なくなっていった。

 

大正1291日、関東大震災が発生し駿河台邸は全焼した。このとき西園寺は御殿場の別荘に滞在していた。

 駿河台邸の再建はやはり住友家によって行われている。住友合資会社の大正13年度の「処務報告書」(1)によると、

東京駿河台別邸の建築工事は、「京都衣笠別邸日本家全部及附属家ノ一部ヲ取毀ノ上駿河台別邸焼跡ニ移転改増築スルモノニシテ本館(元平家建ヲ二階建ニ改築)及番人運転手部屋ノ二棟移転改築(請負者氏名略)鉄筋コンクリート蔵(請負者氏名略)物置男部屋及自動車庫新築並ニ外部工事トス 本年三月衣笠別邸移築建物ノ取毀ニ着手順次運搬建築シ十月完成本家ニ建物ノ引継ヲナセリ」

としている。

この住友衣笠別邸は、住友春翠が長男のために京都の北野紅梅町に建て大正9年に竣工していたが、駿河台邸の再建のため大正13年に移築された。()

現在衣笠別邸の跡には平野通に面して当時の門衛所が残っている。

 

 昭和15(1940)7月、西園寺公望は校舎の拡張を図っていた中央大学の求めに応じ駿河台邸を譲渡することを承諾し、所有者の住友家が中央大学に売却した。こうして駿河台邸は中央大学の施設として使用されたが、昭和319月に住友本社の理事であった北沢敬次郎大丸百貨店社長に売却、建物は品川区大崎の花房義質子爵の所有地に移転され、清風荘と命名して利用されたが、その後昭和59(1984)年に解体された(2)

 中央大学『西園寺公追憶』によると、「表門より左斜に見える手前の建物が玄関で、その左隣に応接間がある。そして遠く見える二階建が母屋で、その二階には二間つゞきの客間があり、公は日常階下の座敷に起居されたのである。又玄関の後に当り、屋根に避雷針のある建物は洋館で、右の一半が公の書斎兼応接室、左の一半が専用の応接室である」とされている。

そして、その宅地    81221

   その建物総建坪 25528

      内訳    1. 木造瓦葺一部鉄筋コンクリート造2階建1

              此建坪18754勺、22158勺、

              同2816

            2. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪1625

            3. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪75

            4. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪95

            5. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪475

であった(3)

 () 小泉策太郎は『中央公論』(193210月号)の「西園寺公の第宅」で「現在の建物は、地震後、

嵐山に在った住友の別荘を移せるもの」としているが、嵐山ではなく衣笠である。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 住友合資会社「大正十三年度処務報告書」 住友史料館架蔵複製本より

(2) 『中央大学百年史編集ニュース』 198912

(3) 中央大学『西園寺公追憶』 1942

 

駿河台邸 中央大学所蔵

 

5.京都・清風荘

 

 (1) 清風荘以前

 清風荘はもと徳大寺家の別邸で清風館といった。徳大寺家は平安時代後期には衣笠山西南麓(龍安寺のあたり)に別邸を営んでいたこともあったが、江戸時代末には本邸を御所の北側、烏丸今出川北東の地に営んでいた。

 文政2(1819)年、徳大寺(さね)()(公望の祖父)は田中村に別所を建て、清風館と名づけた。実堅はその清風館で安政5(1858)年逝去、その後実堅の子公純(公望の実父)が幕末の難を避けるため本邸から清風館に引き移った。明治4年には公純が隠居を受け入れ清風館に退いた。公望はフランス留学から帰朝した明治131012日から11月半ばまでと、明治16年に公純が亡くなった際に上洛し清風館を訪れた。

 明治40年春、住友春翠は誕生の地清風館を長兄徳大寺実則(さねつね)から住友家に譲り受け、西園寺公望上洛時の別邸とすることにした。同年8月に地所建物を登記し、附近の土地も購入した。

 

 (2) 清風荘

 明治44(1911)6月、西園寺公望は同地を視察、8月には新館建設が着手された。8月末には第2次西園寺内閣が発足した時期であった。1225日には工事中の別荘を視察した。

 大正2(1913)326日の京都日出新聞は、新装なった清風荘を紹介した。

 「(新別邸は)出町橋東詰を東へ五六丁ばかり愛宕郡役所の南側を通って美くしい白川の支流に添ひ、軈て百万遍知恩寺の方へ出やうとする南側の極広い邸宅()。西側の大通りに面して高さ四尺ばかりの石垣造りの土堤がつゞいて其の上には植えたばかりの檜苗で生垣が出来てゐる。道路に面して西向きに大きな表門もできる筈だが、北向きになっている綺麗な中門だけは立派に出来上がっている。……玄関前には白梅が今を盛りと咲き匂ふてゐる。……大玄関の前を通つて左へ折れると此処が侯爵の居間で其の隣が書斎、次が清洒な奥座敷となっている。総て南向きの日当たりがよく庭の植込みには紅梅が咲乱れて何所からか鶯の声がする。応接間の直ぐ横手から二階へ登るようになって二階にも客座敷、書斎と云ふやうに三室に別れて居り四方硝子窓で之れを放つと北は比叡山から如意ヶ嶽は元より東山三十六峰一眸の中に眺め、加茂の森に吉田山なども兎も角うらうら霞む洛陽の風光は居ながらにして望むべき。」

 西園寺公望は、大正2年に事実上立憲政友会の総裁を辞して政界を引退し、京都の田中村清風荘に落ち着いた。清風荘での日常は、政客もあったが、東京の駿河台邸や興津の坐漁荘と異なり、学者や文人との交流が多かった。

 

 <文人との交流>

 私塾立命館の賓師をした富岡鉄斎と大正51024日に八坂倶楽部で50年ぶりの再会をし、以後親交を深めた。鉄斎の子謙蔵も西園寺と親交があり、謙蔵の妻とし子氏も鉄斎と清風荘を訪問したことを語っている。

 また学者や文人も大正から昭和にかけてしばしば清風荘を訪れ西園寺と親交をもった。内藤湖南・狩野直喜・新城新蔵など京都帝国大学の学者や、長尾雨山・桑名鉄城・橋本独山などの文人である。とりわけ内藤湖南との交流は深く、これらの人々と清談をすることを楽しみにしていた。

 実業界で活躍し茶の湯をやるようになり数奇者と言われた高橋箒庵(本名高橋義雄)も清風荘を訪れた。もともと大正初めに伊香保温泉で避暑をしていた際に交流が始まったが、箒庵は大正51122日に清風荘を訪問したときの様子を記している(1)

 「門には羅振玉揮毫の「清風」と刻まれた扁額が掛けられていた。門内に入ると丈の低い竹が植えられ鍵の手の通路を通り玄関に達した。客間に案内されると上段八畳、次に六畳の部屋があり、横長の心字様の大きな池があった。松翠楓紅の間を通して大文字山を望み、池辺には雪見燈籠があり飛泉が石に激し、筆舌に尽くしがたい風景であった。……築山の裏手には花壇があり、芋畑があり、また田圃には稲が干されていて、四方の景色を見渡すと叡山が近くに見えた。書斎の前に戻ると鳥籠に雌雄の鶴と一羽の雛が佇んでいた。」

 

  <西園寺公望最後の清風荘>

 昭和7(1932)年は西園寺公望最後の入洛となった。公望はこの年915日から118日まで清風荘に滞在した。

 西園寺の入洛は立命館にとっても忘れることのできない年となった。922日のことであった。中川小十郎が桃山御陵参拝に随伴し、帰途立命館の広小路学舎に立ち寄った。私塾立命館の創設から63年、立命館の名を譲ってから初めての、そして最後の立命館訪問であった。工事中の中央講堂国清殿や授業中の教室を訪問し、そしてなにより存心館の正面に飾られた自筆の「立命館」の文字に感慨深いものがあったと思われる。

 滞在中何度となく清風荘を訪ねた中川小十郎は、118日再び興津に随伴した。

 

 <その後の清風荘>

 昭和15(1940)年に主を亡くした清風荘は、昭和19年に所有者の住友家から京都大学に寄贈された。西園寺公望が文部大臣の際に京都帝国大学創設に関わったことによる。

 清風荘で西園寺公の執事を務め、京都大学に譲渡された後も管理を続けられた神谷千二氏によると、清風荘は占領軍が接収して宿舎に改造しようとしたが、京都大学総長が折衝して接収を免れたとのことである(2)

 

 現在清風荘は、敷地面積12,535㎡、うち庭園部分が10,884㎡で、建物の延べ面積1,453㎡、本館ほか8棟からなる(3)。庭園は本館に南面し、やわらかな芝生が張られ、ゆったりとした曲線の園路を回遊すると築山の植生を通してわずかに大文字を望むことができる。もともとは東山を借景にしていたが、周囲の環境の変化によって困難となっている。庭は小川治兵衛(植治)の作で、園池の水は太田川の流れを取り込んでいる。

 邸内には、今出川通りを北に上がり正門(表門)を入る。門扉は割竹で設え徳大寺家の家紋である木瓜花菱浮線綾が彫られている。その正門から前庭を通り主屋の玄関に至る。主屋は客間や居間をもち、廊下で繋がる離れもまた居間となっている。主屋はさほど大きくはないが2階があり、離れもまた2階建である。主屋から独立して南側に「保眞斎」と呼ばれる茶室があり、その茶室に附属する「閑睡軒」という名の供待がある。その他邸内には数棟の附属屋・物置・土蔵などがある。

 建築は明治44(1911)年から大正2(1913)年にかけて八木甚兵衛により普請されているが、茶室保眞斎は古く江戸後期のものである。小川治兵衛による庭園は文化財保護法による「名勝清風荘庭園」として昭和26(1951)年に国の名勝に指定、建物は2007年に登録有形文化財に、平成24(2012)年に重要文化財に指定されている(4)

 () 当時は現在の今出川通はまだ開通していず、後に開通するにあたり敷地の一部が提供された。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 高橋箒庵 『東都茶会記』復刻版 淡交社 1989

  (2) 神谷千二「西園寺公を偲ぶ」 1960

(3) 京都大学パンフレット「清風荘」2012

  (4) ()京都市埋蔵文化財研究所「名勝清風荘庭園」2009年・2010

 

清風荘 立命館史資料センター所蔵

 

6.御殿場・便船塚別荘

 

興津の坐漁荘に住むようになってから、群馬県の伊香保温泉に代えて夏を過ごす別荘が探され、大正11(1922)8月、富士岡村の小林家を買い取り御殿場町の便船塚に移築し、西園寺公望の夏の別荘とすることになった。この移築は、中川小十郎が京都の岸田組を使い完成させた。庭先から富士が見える自然豊かな土地であった。

別荘には名前がつけられなかったので、地名から便船塚別荘と呼ばれた。所在地は御殿場町新橋字便船塚754番地(現在は御殿場市)である。ただし登記上は西園寺八郎の名義で大正11926日に33筆を取得した。

1年後の大正129月、西園寺公望は御殿場の別荘に滞在していたが、関東大震災に遭った。幸い西園寺は房子「夫人」(中西房子)、房子さんとの間にもうけた園子さんとともに無事であった。附近の竹藪で過ごし坐漁荘に帰ったという。御殿場の町も被災したため町に見舞金を贈った。

本館は木造亜鉛葺日本風で、玄関左手に14畳の応接間、居間が10畳・8畳・8畳の3部屋、右手に6畳の執事室、ほかに女中室2室、湯殿などがあり、洋風の別館は木造で、合わせて7575勺の建坪であった。

敷地は近親者が滞在する家の必要などから拡張され、新たに西園寺八郎の別荘なども建てられた。

北野慧は「東に箱根の青巒を仰ぎ、西に富岳を望むといったところ、南は遥かに開けて駿河湾方面からの涼風が颯々と訪れ、北は駿相を境する箱根連山の裾がゆるやかな起伏を遠望さしている。附近にこんもりした小丘便船塚があり」と別荘周囲の環境を記している(1)

 

公はこの別荘を夏の避暑地として昭和14年まで使った。政治向きのことは東京の駿河台邸や興津の坐漁荘で対応したため、御殿場に来訪する政客は少なかったようだ。

しかしそれでも警察による警備は厳重に行われた。

そんななか秘書であった中川小十郎はしばしば御殿場別荘に詰め、昭和12年に立命館中学校・商業学校の生徒が富士山麓滝ヶ原で野外演習をした際には表敬訪問をしている。

演習は81日に始まり10日まで行われたが、その86日、生徒一行は便船塚別荘に西園寺公を訪問した。その様子は「公爵訪問の記」と題して残されている。

「……あの維新の官軍の士気を鼓舞し幾多の逸話を生んだ山國隊の軍楽を先頭に御庭を廻る。維新の元老公爵と維新に関係ある軍楽とが結び附いて、色々な空想がぐるぐると頭を馳けめぐる。御庭は全くの自然の御庭園で昔の武蔵野も、かくやと思はれる。公爵の自然を愛され、自然を解される御趣味が偲ばれ、奥ゆかしい事極りなかった。」(2)

 

その後拡張をしたが、昭和151124日に公が亡くなると、翌昭和16920日に西園寺八郎氏から住友吉左衛門(16)に名義が移された。そして昭和3096日に住友家から大丸に売却している。現在跡地は大型ホームセンターとなっている。

 

【参照文献・資料】

(1) 北野慧『人間西園寺公』大鳥書院 昭和16

(2) 『立命館禁衛隊』第78号「富士裾野演習日誌」立命館中学校・商業学校 19379

 

便船塚別荘 小池辰夫様提供

 

7.興津・坐漁荘

 

 (1) 興津以前

西園寺公望が静岡県に別荘を求めたのは明治40年代に遡る。初め公は沼津に保養の地を求め、沼津公園(現在の千本浜公園)の一角の仙松閣ホテルに時折滞在した。明治42(1909)12月の大森鐘一あて書簡は仙松閣ホテルから出され、その後432月に成瀬仁蔵、442月には桂太郎・牧野伸顕あて出されている。温暖な地に冬の住まいを求めたと思われ、別館が西園寺専用に使われた。千本浜公園には現在も西園寺公望が揮毫した「沼津公園」(明治4012)の碑と間宮喜十郎を顕彰する「頌徳碑」(明治435)がある。

沼津には御用邸もあり、西園寺公はまもなく別荘用地を近くに取得した。現在の港口公園の東側である。ところが着工したものの大正382度にわたって台風が来襲し工事は中断、沼津を冬の住まいとすることを断念した(1)

西園寺は大正(3)1230日の中田敬義あての書簡で、沼津の地処の処分を依頼している()

 () 中田敬義は明治期の外務省官僚で、特に外相陸奥宗光の大臣秘書官として信任が厚かった。西園

寺とは明治20年代からの知己であった。

 

  【参照文献・資料】

 (1) 川口和子『思い出のふるさとの町並』 1987

 

(2) 坐漁荘  

大正5(1916)12月、西園寺公は興津に冬の保養地を求めた。興津は東海道の宿場として栄えた町で、江戸時代は脇本陣であった水口屋の勝間別荘に1230日から翌年の326日まで滞在、更にその年12月と、7年には3月と12月の2度滞在し、合わせて4度興津の冬を過ごした。

興津は南東に伊豆半島を、名勝清見潟を前にして沖合に三保の松原を望む景勝の地で、温暖な気候も合ったからか、西園寺公はこの地を気に入って別荘を建てることにした。その別荘は住友春翠の出資により大正8921日、清見寺町117番地に竣工した。そして同年1210日に坐漁荘に入った。もっとも坐漁荘という名は当初から付けられたのではなく、のちに別荘を訪ねた渡辺千冬が中国の故事に習って坐漁茅荘とすべきところを略して坐漁荘とし、太公望と公望を重ねたことによる(安藤徳器『陶庵公影譜』(1))

当初の敷地は約300坪で、興津にあった井上馨の長者荘や伊藤博邦(伊藤博文の養子)の独楽荘などに比べると格段にその所有地は狭小であった。

北側は東海道に面し、南側は駿河の海が広がっていた。建物は2階建であったが、1階に居間が2室、洋間が1室、そのほかに執事室、女中室、警護詰所、厨房など、更に2階に3室あったから余裕のある間取りではなかった。そのうえ昭和4(1929)9月に改造し応接間を、また避難場所を兼ねた書庫を造っている。

大きな邸ではなかったが、様式は京風の数寄屋造りで、建材は上質なものであった。好みの竹も建物に設えられ、また玄関先にも植えられた。

建物には割竹の格子、網代天井の竿縁に竹が用いられるなど随所に竹の意匠が採りいれられている。

大正13年に別荘に名が付けられると、高田忠周が揮毫した「坐漁荘」の扁額が掛けられた。

西園寺公はこの坐漁荘で大正8年から昭和15年までの16年間を過ごした。夏は御殿場の便船塚別荘、春や秋は京都の清風荘、時に東京の駿河台邸と季節や時々の元老としての政務で本邸や別荘を行き来したが、坐漁荘に滞在することが多かった。

坐漁荘は清風荘に比べ東京に近いこともあり、政客が頻繁に訪れた。また、大正1011月の原首相暗殺や昭和7年の犬養首相が暗殺された5.15事件、昭和9年の血盟団事件や昭和11年の2.26事件で西園寺自身が対象になったことで、静岡県警察部や時に憲兵による厳重な警護が行われ、悠々自適の余生というわけにはいかなかった。坐漁荘では元老としての政務が常に求められた。

北野慧の『人間西園寺公』(2)には「坐漁荘訪問客名簿」が搭載されているが、昭和4年から15年までの間の訪問者は延べであるが実に1,500人を超えている。政客ばかりではないが、「興津詣で」、「西園寺詣で」と言われた由縁である。

 

そうした生活のなかでも、坐漁荘には近所の子供との関係が窺えるエピソードがある。

興津坐漁荘の『坐漁荘余話』(3)に、昭和の初めごろの話であるが、当時少年であった方が坐漁荘や西園寺公の思い出を語っている。

清見寺から坐漁荘一帯の海岸を清見潟といったが、近所の子供が遊べる場所は坐漁荘の前の浜くらいしかなかったようだ。野球のまねごとをして遊んでいたがボールが坐漁荘の庭に入ってしまって謝りに行ったところ、西園寺公が出て来て、窓ガラスがドイツ製のものだから気をつけてやってくれと言われ、その後もそこで野球ができ、また西園寺公と話ができるようになったということである。

よその家の前で野球をしてボールが飛び込むなどはよくある話だが、何と西園寺公の別荘でそんな話があったとは。近所の子供とのそんな話が残っているのも意外な一面である。

 

お花さん(奥村花子)やお綾さん(漆葉綾子)、熊谷執事などと暮らした坐漁荘であったが、昭和15(1940)1124日、年初から体調を崩していた西園寺公は帰らぬ人となった。91歳と1ヵ月を迎えた晩秋であった。

主を失った坐漁荘は、その後高松宮に献上されるなどの変遷を経て、昭和26年に財団法人西園寺記念協会が設立されて、協会により維持管理されてきた。そして昭和45年から46年にかけて愛知県の明治村に移築復元され、更に興津の跡地には2004年に復元して現在に至っている。

 

【参照文献・資料】

 (1) 安藤徳器『陶庵公影譜』審美書院 1937

(2) 北野慧『人間西園寺公』 大鳥書院 1941

(3) 渡辺俊治『坐漁荘余話』 2015

 

現在の興津・坐漁荘 立命館史資料センター所蔵

 

おわりに

 誕生から晩年に至るまでの西園寺公望の主な「住まい」を訪ねてきた。清華家に生まれ育ち、総理大臣や文部大臣にもなり、更に最後の元老といわれた人物の住まいとしては、意外とも思えるものであった。決して豪壮でないどころか、どちらかと言えば質素・簡素な邸であった。政界に身を置いた人物の邸としての設えもあるが、しかしその造作は文人としての風雅な装い、高踏な趣味を感じさせる住まいであった。

 今その面影は清風荘と坐漁荘に留めるのみであるが、望緑山荘や隣荘、そして駿河台邸、御殿場便船塚別荘などもまた残された資料からそのことを思い起こさせてくれる。

 西園寺の人となりを彷彿させる西園寺の住まいであった。

 

 本稿作成にあたり、下記の機関・皆様から資料・情報をご提供いただきました。お礼申し上げます。

  京都府立総合資料館、京都府立図書館、東京法務局城南出張所、大磯町郷土資料館、大磯町立図書館、中央大学大学史編纂課、神谷厚生様、静岡地方法務局沼津支局、御殿場市立図書館、住友史料館、

小池辰夫様、J.フロント リテイリング史料館、沼津市立図書館、興津坐漁荘・渡辺俊治様、

清水興津図書館

 

【参考】

 1.御所西園寺邸  京都市上京区京都御苑内 地下鉄烏丸線丸太町駅下車

 2.萬介亭     京都市北区等持院東町  (現在跡を示すものは無い)

 3.大森・望緑山荘 東京都大田区山王    JR京浜東北線大森駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 4.大磯・隣荘   神奈川県大磯町西小磯  JR東海道本線大磯駅下車 現在は池田成彬邸跡が残る                      

 5.東京・駿河台邸 東京都千代田区神田駿河台 JR中央線御茶ノ水駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 6.京都・清風荘  京都市左京区田中関田町  現在一般公開はしていない

 7.御殿場・便船塚別荘 静岡県御殿場市新橋 JR御殿場線御殿場駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 8.興津・坐漁荘  静岡県静岡市清水区興津 JR東海道線興津駅下車 一般公開している

 

 【駿河台邸について追記】

 本稿執筆後、千代田区立図書館より下記についてご教示いただいた。

 

 坂内熊治『駿河台史』(1965)に神田駿河台の写真が掲載されており、そのなかの邸について「南甲賀町五番地に在った住友控邸で後に西園寺邸となった処」という解説がある。また『図説明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(学習研究社2007)の「神田駿河台よりみた東京360度 南側大手町方面」パノラマ写真のなかに『駿河台史』と同じ「駿河台邸」がある。

 

 パノラマ写真は明治22年頃の撮影とされ、『駿河台史』は「住友控邸」と解説しているところから、写真は明治20年代から30年代初期の邸で、住友吉左衛門が明治31年に取得した際の「駿河台邸」と思われる。そして明治33年に西園寺公望が新築された邸に入った。その邸は明治43年頃新たに建て直し、更に大正8年に新邸を建てた。その後の経過は本文に記した通りである。

 

以上

 

201512月10日 立命館史資料センターオフィス 久保田謙次〕

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