立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2015.09.29
<懐かしの立命館>1970年代の学生生活 ―産業社会学部卒業生 大熊章一さんの寄贈資料から―
立命館史資料センターではこのほど、産業社会学部に1973(昭和48)年4月に入学し、1977(昭和52)年3月に卒業された埼玉県在住の大熊章一様から、学生時代の貴重な資料を寄贈していただきました。
本稿は、寄贈いただいた資料および大熊さんの思い出話をもとに、1970年代の立命館大学の学生生活にタイムスリップしてみます。
<当時の世相>
大熊さんの高校から立命館入学までの1970~1973年の日本は、高度成長期の最盛期から終焉に向かう時代でした。
70年には大阪で「日本万国博覧会」が開催、よど号ハイジャック事件が起こり、アメリカンクラッカーが流行しました。
71年にはドルショックが起こり、ボーリングのブームがあり、マクドナルド1号店が開店したりカップヌードルが発売されました。仮面ライダーや天才バカボン、ルパン三世が始まったのもこの年です。
72年には札幌オリンピックやミュンヘンオリンピックが開催され、沖縄が日本に返還されました。あさま山荘事件、ウォーターゲート事件が発生したのもこの年です。
大熊さんが入学した73年には、オイルショックで狂乱物価が始まりました。江崎玲於奈博士がノーベル物理学賞を受賞、あしたのジョーの連載が終了し、巨人がV9、王が三冠王となり阪神江夏が延長ノーヒットノーランを達成し、ハイセイコーが活躍してブルースリーの「燃えよドラゴン」がヒットした年でもあります。
立命館大学では、1968年~70年にかけて大学紛争の経験を経て、「平和と民主主義」の教学理念を改めて学園教職員学生が再確認して出発し始めた時期でもあります。
産業社会学部は、1965年に広小路学舎で誕生しましたが、大学紛争の中で基本棟である「恒心館」が1969年2月に封鎖・破壊され教育・研究に大きな支障が生じ、翌1970年に心機一転衣笠学舎の「学而館」に移転した時期でした。
≪1973年4月、産業社会学部に入学≫ 合格~オリエンテーション
1977年(大熊さん4回生時)の衣笠キャンパス。産業社会学部の学生は2,895名(当時の衣笠キャンパスは学生数約11,900名。経済・経営・産業社会・理工が所在し、法・文・二部は広小路キャンパスだった)
(大熊) 立命館大学に入学したのは1973年4月です。先立って昭和48年2月21日付けの『合格通知書』が届きました。受験番号12687番、入学式は4月11日(水)に衣笠学舎(体育館)で挙行することが記されていましたね。
通知は立命館大学産業社会学部長藤井松一の名でした。B6サイズほどの大きさです。文面の、余りの素っ気なさが新鮮で且つ重々しい響きでした。
1973年2月の衣笠キャンパスでの入試風景。大熊さんもこの時に受験していた。
大熊さんの合格通知書(寄贈資料)。手続き書類が同封されて速達郵便で送られていた。
大熊さんが受験した1973年度入学試験では、産業社会学部の受験者数10,923名、合格者1,735名 手続きを終えて入学したのは650名でした。倍率6.3倍ですね。(典拠「昭和48年度入学試験に関する資料集」立命館大学教学部学務課)1974年の衣笠キャンパス入学式。大熊さんが入学した1973年の入学式と同じです。式の最初、校歌斉唱のシーン。(立命館学園広報 1974.4.20号)ちなみに、1973年度の入学金は50,000円、学費(授業料等)は年額80,400円でした。また後述の社会状況から、1974・1975年度の入学金は70,000円、学費(授業料等)は117,400円、1976年度の入学金100,000円、学費(授業料等)は197,400円となりました。(ただし金額は文系学部)
(大熊) 4月11日(水)は午前中に入学式・学部説明会、午後学生証・通学証明書交付、父兄懇談会がありました。体育館での入学式が終わると、入学手続き書類に記入しておいた第2外国語(ドイツ語を選択)毎にクラス分けが既にされており、そのクラス毎に体育館前で「新入生クラス写真」を撮りましたよ。45人の学生と担任の先生が写っていますが、ネクタイやおしゃれな服装の学生は一人もいません。見事に当時の立命の雰囲気・気風が表れているでしょう?
大熊さんが新入生の時のクラス写真(寄贈資料)「基礎演習」Gクラス 担当教員は藤原壮介先生。
「基礎演習」の人数は当時おおよそ50名程度で「第一外国語(英語)」と同じクラスであったので、毎週3回は同じクラスメートが顔をあわせた。また産業社会学部では、1回生全員が同じ基礎学力を得られるよう基礎演習共通教材「現代社会と社会科学」を編集発行してこの年から使用を始めている。
1973年4月7日の学而館。新入生の大熊さんが学んだ産業社会学部の基本施設。
産業社会学部は学而館を基本施設として使っていた。事務室は1階にあり、2階には小教室、3・4階には中・大教室があった。最も大きな教室は4階の「402教室」で483席だった。地下には生協の「学而館食堂」があり、食券を購入して食事をした。また同じ地階には産業社会学部系の学生クラブのBOXがあった。1978年10月11日の学而館前。当時の学生ファッション。産業社会学部は女子学生比率が高かった上に、1978年4月清心館に文学部が移転してきたため、学而館前のこの通りは衣笠キャンパスで最も女子学生の往来があり、「学而館ストリート」と俗称された。
(大熊) その後クラス毎に学而館の教室に入り、各種書類や「昭和48年度新入生オリエンテーション日程表」が配布されました。4月12日(木)は学修指導、学友会・自治会ガイダンス、翌日以降新入生歓迎の学生団体の諸企画などがあり、開講は1週間後の4月18日(水)からでした。
1973年度産業社会学部のオリエンテーション日程表(寄贈資料)このころの新入生オリエンテーションは1週間あった。土日にも企画があり、4月15日(日)には「新入生歓迎合同ハイキング」があった。
≪学生生活のスタート 受講登録 基礎演習クラス 教科書共同購入≫
(大熊) オリエンテーションで「学修要項」が配付されました。これを熟読して理解しないといけないわけですが、かなり複雑で、1〜2回生で必修の専門科目と一般教養科目、3〜4回生で必修のそれがあり、系列毎の必修単位数も決まっており、まるでパズルのようでした。
オリエンテーション期間中にクラスの運営委員を選定し、ほどなく彼らの手に依って「産社1回生Gクラス住所録」が配布されました。○○荘や○○アパートの住所より、○○方という下宿生のほうが多かったですね。大熊さんが使った1973年入学者用産業社会学部「学修要項」(寄贈資料)。当時の産業社会学部の卒業に必要な単位の構造とともに、専門科目の履修計画や単位計算に思案した後がうかがわれる。
(大熊) 教科書は生協発行の「‘73立命館大学産業社会学部教科書目録」をもとに購入しました。表紙には教科書の買い方や辞典類・参考書の買い方が記され「共同購入」の紹介などが書かれています。当時の生協の通常価格は5%引きでしたが共同購入は1割引きでした。いずれの教科書も数百円といったところで、千円以上のものはごく一部でした。
1973年度 教科書共同購入の目録表紙(寄贈資料)。4月オリエンテーションの時期から開講にあわせて、図書館前の広場(現在の充光館あたり)にプレハブ小屋が建ち、生活協同組合が販売していた。語学や基礎演習などクラス全員が使用する教科書は、クラスで選出された生協委員やクラス委員が、クラス全員分をまとめて購入し、クラスで配付していた。
≪図書館を利用する 体育の授業≫
(大熊)入学時に図書館の「館外貸出証」が発行され、借り出しするにはいちいち本に記載されている図書登録番号を記入し、返却期日・受領日が押印されるようになっていました。
よく利用した方ですが、読み終えないうちに返却期限がきて、同じ本を何度も借りたことがありました。
授業は土曜日もありましたが、本格的に始まったのはゴールデンウィーク明けでした。
もちろん体育実技もあり、他のクラスが卓球やテニスを楽しそうにやっているのを尻目に、Gクラスの最初の種目が「体力測定」で、1500m走やらソフトボール投げやら走り幅跳び(これは高校時代陸上部で都の新人戦で4位になった)やらいろいろやらされて、「入学早々、何でこんな事やらなきゃいけないの?」とクラス全員ブーイングでした。大熊さんの図書館「館外貸出証」(寄贈資料)。図書館の利用は、この貸出証を使った。現在の「入館ゲート」や「自動貸出機」などなかった時代、図書の裏側に貸出日付を記録するラベルと対にして「誰に何を貸し出したか」がわかるようになっていた。現在の図書館の図書にも、このころの名残が残っている。
≪下宿と通学≫
(大熊)埼玉南部出身でしたので、下宿を決めないといけないのですが、三月末頃に生協に顔を出したら、今頃?と言われるだけ。どうしても斡旋して下さいと頼み込んでやっと西京極にある、生協の斡旋基準価格より高い新築の壁式鉄筋コンクリート4階建ての民間の学生寮を紹介してもらいました。ここしか無かったんですね。今時の学生マンションとは比べようもない設備で、部屋は畳4畳半、踏み込み半畳分、押入れ1畳分の計6畳のスペースでした。風呂は無く、共同トイレ・共同炊事場(ガスはコイン式)でした。それでも友人からは贅沢な住まいと言われましたよ。電話は共同で、誰かが受けると部屋の番号を押してブザーで知らせるといったものでした。テレビもロビーにはありましたが自室には無く、もっぱらラジオを聴くという生活でした。家賃は11,500円でしたね。
この当時、立命館大学学生の半数は地方出身者で学生寮か下宿があたりまえだった。
「1975年度立命館大学入学案内」によれば、昭和49年(1974年)の自宅通学学生の月あたりの生活経費は18,500円。下宿をしていた地方出身者の生活経費は42,000円で、自宅通学生の2.3倍が必要であった。当然実家からの仕送りだけでは足らず、アルバイトは必須だった。大学の厚生課では奨学金を勧め、学資貸与制度や学生生活援助金制度など準備するとともに、アルバイトの斡旋を行っていた。アルバイトは日当2,000~3,000円、京都独特の祭礼行事、染色手伝いなどもあった。最も実入りの良かったアルバイトは家庭教師で、週1回で5,000円、週3回で12,500円だった。
下宿は、生活協同組合以外に大学でも斡旋しており「京滋地区学生アルバイト・下宿対策協議会」で月額の協定料金が設定され、3帖5,000円、4.5帖6,500円、6帖7,500円、これに加えて水光熱・雑費1,000~1,500円であった。学生寮の月額は水光熱費含めて1,600~1,900円程度で下宿の場合の20%前後の負担で済んだ。
大熊さんと同じ条件の下宿だと、大学斡旋の場合8,000円程度なので、11,500円は「高額な」下宿代である。
(大熊)通学には阪急と市電を利用しました。3回生(昭和50年)のときの市電の「通学定期券」と、4回生時(昭和51年)の「阪急通学定期券」が残っています。
市電は10・11・12の3ヶ月定期で3,770円、わら天神―西大路七条間です。西大路七条にスーパーがあったので、帰りに阪急に乗らず、ここで降りて食料品を買って帰った事もよくありました。阪急の定期券は昭和51年4月12日から7月11日までの3ヶ月で1,710円、乗車区間は西院から西京極の一駅でした。阪急の定期券はもの凄く安くて、入学時の1ヶ月定期券は3往復で元が取れる値段でした。関東出身者にとっては自動改札になっていたのが驚きでした。
阪急電車と京都市電の定期券(寄贈資料)
市電の運賃は、1972年8月に40円、1973年4月に50円、1975年8月に70円、1976年4月に90円、1977年3月時点は120円と毎年のように値上げされました。(京都市交通局ホームページによる)
1978年9月30日を以て、長い歴史を誇った京都市電は全廃されました。大熊さんからは、卒業翌年の市電全廃前日に録音された「全線車内生録音」のCDも別途寄贈していただいています。
≪学生生活 狂乱物価とアルバイト≫
(大熊)学生時代4年間での物価高騰は凄まじく、入学時と卒業時では全ての値段がほぼ3倍になっていました。いわゆるオイルショックを端緒とした「狂乱物価」で、今思うとよく生活出来てたなぁとゾッとするほどです。
今の学生もやっているんでしょうか? 小遣い帳に毎日の支出を記入していました。
それも半年だけ、狂乱物価が始まる直前のものです。最後の半年分もあれば比較出来る貴重な資料だったのでしょうが、まさか4回生で小遣い帳をやっているなんて気味悪いですからね。
学生寮に入ってすぐに、寮までの道を聞かれました。「アルバイトをしてくれる学生を捜しに行くんだけれど。」という事だったので、「じゃ、私にやらせてください!」とオーナー即決でした。
阪急西京極駅前ビルの2階の和風レストランで、週3日/夜2〜3時間ほど、カウンターの中に入っていました。「おいでやす」「おおきに」ってなかなか言えず苦労しました。
2回生になるとサークルが忙しくなって、このアルバイトは1年ほどで止めました。
1973年4月 大熊さん1回生の時の「金銭出納帳」(4月8日~10日)です。(寄贈資料)
入学時の昭和48年4月8日から約半年間、毎日記録されていました。収入はアルバイト代と仕送りのみです。支出は食費・交通費・本代・娯楽費・光熱費・衣服衛生費のほかタバコ代もありました。ギョーザ100円、新聞15円、コカコーラ40円など、当時の物価がよくわかります。1973年5月の大熊さんのアルバイト「出勤表」(寄贈資料)時給は250円だったそうです。
≪学生生活 課外活動≫
(大熊)高校が工業高校建築科でしたので、いくらか関係があるだろうと、産社系学術サークルの「都市問題研究会」に入りました。でも入部してみると建築とは全く関係無く、一時はかなり悩みましたが慣れというのは恐ろしいもので、いつのまにかサークル中心の学生生活になっていました。当時産社には公認/同好会を含めて学術系サークルが華盛りで、非常に活気がありました。でも時代の趨勢でしょうか、「都市研」も1987年卒を最後に解散しました。しかしOB/OG会は健在で、毎年総会をやっています。
西京極球場はすぐ近くだったので、野球の立同戦にもよく行きました。昭和50年春の立同戦では、球場で紙製の陣笠が配布されました。「関西六大学野球昭和50年春の同立戦」と白ヌキ文字で書かれ、KBS近畿放送テレビと舞妓の茶本舗と書かれていますので、両者が陣笠のスポンサーだったのでしょうか。関西六大学野球 昭和50年の陣笠(寄贈資料)。
≪1976年秋に引っ越し、1977年3月卒業≫
(大熊)4回生の秋に、最後の半年くらいは京都らしいところに住みたいと、上賀茂神社の近くの社家の離れに引っ越しました。一軒家をベニヤ板で仕切り、部屋は畳4畳で元は台所の板敷だったようです。何人住んでいたかも解りません。家賃は9,000円でした。隣の部屋は三畳間でした。
京都市も南区に近かった西京極に比べて、上賀茂の冬の寒さといったら…何だったのでしょう!
3回生の前期に、専門科目の短期集中講義(半年で4単位取れる)を2科目取ったりしてがんばったので、4回生で卒業に必要な単位は、ゼミ論と専門科目一つ取れれば満たされる状況でした。
サークルも半引退状態なので、この機会に自転車(2回生の時にチッキで送った)で京都を存分に走り回りました。チッキとはJRが国鉄時代に乗客が車内に持ち込めない大きな「手荷物」「小荷物」を、別列車で目的地の駅まで送るサービスで、発送駅に持ち込み、到着駅で受け取る仕組み。1986年に廃止。
難問だった実家へ帰る引っ越しも、家業の得意先が機械の納品で大阪に来るというので、その帰りのトラックに生活に必要の無い物全て積み込んでもらい、残りの二週間ほどはコタツと布団だけでした。そのコタツも下宿を見に来た新入生に、「コタツ要る?だったら置いてくよ!」って差し上げて、自転車も下宿の住人に3,000円で買ってもらいました。
最後に京都を離れる時には、タクシーに布団を無理矢理詰め込んで京都駅まで行って貰い、布団はチッキで送り、自分は手荷物だけで新幹線で帰りました。
昭和52年3月21日、春分の日の卒業式で卒業証書が授与されました。産業社会学部長細迫朝夫と総長細野武男連名の卒業証書です。えんじ色の証書カバーに差し込まれた証書でした。
また立命館大学校友会の「終身会費納入証」も何か必要らしいので、結構高かったのですが払い込みました。昭和52年4月1日付けで発行されています。終身校友のため、現在も校友会誌「りつめい」が届いています。
もちろん最後の最後は忘れずに、生協の出資金返還手続きを行い、こちらの方は即酒代に消えました。
大熊さんの卒業証書(写し)(卒業証書番号と誕生日は削除した)
1976年度の卒業者数は、産業社会学部650名、立命館大学4,553名でした。
大熊さんの「立命館大学校友会終身会費納入証」(寄贈資料)。
校友会費は、1976年度の卒業生は入会金500円、終身会費5,000円でしたが、1977年4月から改訂され、入会金1,000円、終身会費15,000円となりました。中央のマークは通称「亀の子マーク」。1960年立命館大学創立60周年を記念して公募・入選した立命館大学の愛称マークで、「立」の字の図案。1994年まで立命館大学・附属校で愛用された。
<あとがき>
多くの資料を寄贈していただくきっかけとなったのは、大熊さんから自分の学生手帳の「校歌」の歌詞と現在の歌詞が違うと照会の電話をいただいたことでした。校歌は大熊さんが在学中の1976年1月16日に歌詞が統一されたのですが、「学生手帳」の記載には間に合わなかったようです。
大熊さんは産業社会学部の御卒業で、今年2015年は「産業社会学部創設50周年」でもありましたから、寄贈いただいた資料から、40年ほど前の産業社会学部の学生生活を振り返ってみました。
最後に、大熊さんは浪人時代から古文の練習の意味で、学生生活を短歌に詠んでおられましたので、3首ご紹介いたします。
梅雨寒し京の暑さは何処やら 他人ごこちたり故郷の夜(昭和50年)
頭上まで跳ばむと競いし若き日は 築地見るたび越せむ気のせり(昭和51年 朝日歌壇入選)
ひとつずついつか果たさん数々の 夢を消しつつ生きて行くかな (昭和53年 朝日歌壇入選)
2015年9月 立命館 史資料センター準備室
2015.09.15
<懐かしの立命館>相訪会、相訪会館そして「形影相訪」
現在衣笠キャンパスでは新図書館を建設中で、それに伴い現図書館周辺の整備が計画されています。
その整備計画にあたり、先日図書館前の「立命館大学理工学部発祥の地」の碑の移設場所について相談がありました。碑は近くの理工学部発祥にふさわしい場所に移設されることになると思いますが、ここではその機会に、発祥の地の碑を建てた「相訪会」、合わせてかつて衣笠キャンパス(等持院学舎)にあった「相訪会館」およびその名の由来となった創立者中川小十郎が残した「形影相訪」について紹介します。
1.相訪会とは
碑は1993年11月23日、理工学部が翌年のBKC拡充移転を迎えるにあたり「理工学部衣笠学舎さよならの集い」を開催し、その記念として「相訪会(理工学部校友の会)」によって建立されたものです。
相訪会は理工学部校友の会ですが、現在理工学部は学科毎の同窓会組織が基本となっており(注1)、相訪会の名を知る人は残念ながら少なくなっています。
(1) 相訪会の始まり
「相訪会」という組織は、そもそも理工学部の前身である立命館高等工科学校、立命館日満高等工科学校の時代に遡ります。
立命館高等工科学校は、1938(昭和13)年に北大路学舎に設立され、翌年立命館日満高等工科学校と改称し、その11月に衣笠学舎(当時は等持院学舎といった)に移転しました。しかし実は、立命館高等工科学校は更にその前身といえる学校があり、1914(大正3)年に京都帝国大学理工科大学内に設置された私立電気工学講習所を継承しています。
したがって現在の理工学部・生命科学部などは、1938年から数えて77年、1914年から数えると100年を超えた学部なのです。
さて「相訪会」です。
① 相訪会の名称が初めて資料に見えるのは、1940(昭和15)年4月10日の新聞「立命館」です。「高工新卒業生等送別宴を開催」の記事に、本年度卒業の高工生同窓会が3月10日に相訪会京都支部の主催により京大楽友会館で開催されたとあります。
出席者は本野会長、関野、松尾ほか諸先生方、新卒業生合わせて37名でした。この席上で本野会長が相訪会の由来を語っています。「諸君が御卒業になれば日満高工の校友会であり同窓会である所の此「相訪会」に入会されるのであります。「相訪会」とは電気工学講習所の経営が立命館財団に移管された際に講習所の卒業生を以て組織してをる所の同窓会をも立命館高工が継承するといふ意味に於て中川総長先生が新に附けられた名前であります。形影相訪といふ禅語からとられたものでありまして「形」と「影」とはいつでも途づれになってあるくといふ意味であります。……最初中川総長先生が筆を執って「形影相訪」といふ四字を認めて私に渡されたときの御言葉によれば、電気工学講習所の卒業生と其のあとにつゞく立命館高工の卒業生との関係を深く考慮されて斯く命名されたのであります」(注2)
② 次いで翌年の1941(昭和16)年2月27日に卒業生に対して送付された相訪会からの「御案内」があります。
相訪会京都支部は3月10日の日満高等工科学校第1回卒業式当日卒業祝賀会を開催し、相訪会入会の歓迎晩餐会を開催するとの案内を相訪会京都支部長井口誠一の名で送っています。第1回卒業生は高等工科学校からの編入学者を含む336名でした(『立命館要覧』昭和16年10月現在)。井口誠一氏は1917(大正6)年電気工学講習所の卒業生で、戦後全学の校友会が再建された際、法人に拡充部が設置されると、1948年5月20日に工学科相訪会幹事長として拡充委員に推薦されています。
③ また同じ1941年4月30日現在で作成された「学校教育概況」(日満高等工科学校に関する)には、その「同窓会ト学校トノ関係」の項に、
「本校ノ前身私立電気講習所ノ同窓会ヲ相訪会ト改称シテ之ヲ継承シ会長ニ校長ヲ
副会長ニ主事ヲ推シ各地ニ支部ヲ置キ学校ト緊密ナル聯絡ヲ保テリ」
とあります。
④ 1943(昭和18)年12月の『全立命館学友会名簿』には「相訪会々則」が掲載されています。
第1条に「本会ハ相訪会ト称ス」とし、第5条に3種の会員を設け、名誉会員、特別会員、正会員としています。名誉会員は総長、校長などですが、特別会員は母校恩師、元電気工学講習所同窓会特別会員とし、正会員は立命館大学専門学部工学科、立命館日満高等工科学校卒業生、元電気工学講習所同窓会正会員、としています。会則は全15条及び附則からなっていますが、昭和18年11月現在の役員が掲載され、会長は本野享、副会長に関野彌三、幹事長武石萬一のほか幹事が9名です。幹事のうち藤谷景三はのちに理工学部機械工学科教授となっています(会則は『立命館百年史 資料編一』にも掲載されています)。
(2) 新制理工学部開設以降の活動
1953年5月には立命館大学校友会会則が改正され、会員として新たに「立命館日満高等工科学校及びその前身である電気工学講習所の卒業生」が明記されました。
その後の相訪会の活動をいくつかの資料から紹介します。
① 1955年6月1日の「全立命学生新聞」に相訪会長白坂勇城氏(大正11年電気工学講習所卒業生)が「相訪会」の紹介をしています。氏によると、「母校(電気工学講習所)が立命館日満高工と変わって後もその益々発展する途は先輩講習所同窓生による所大なるものがあるとして故中川総長は理工学部の発展が形となって表れるのは他方に於て影の講習所卒業生が相訪う結果によるものでありこれを「形影相訪」と表現され、今後この気持ちを以て両者(講習所卒業生立命館卒業生並に立命館学風を結ぶ)を永久に結合して行きたいと云われて講習所同窓会員と立命館日満高工卒業生は同一母校の卒業生として立命館内の一部へ同窓会を作る事になった時、故中川総長はその会名を自ら「相訪会」とされてその揮毫されたものを頂いておる」とその由来を明らかにし、「我々理工学部関係の校友会員は特に相訪会と称する様に総長から命名されたことであり……母校創立の伝統精神を失う事なく更に本相訪会を根幹として従来以上の結束を友誼を発揮し後進の誘掖と母校の発展のため会の発展のため努力していかねばならない」と結んでいます。② そしてその6月26日に相訪会の総会が開催されました。
7月の校友会誌『立命』(第12号)に、「相訪会総会催さる」の記事があり、総会が理工学部新館(2000年に解体された3号館)で6月26日に開催されたことが紹介されました。清水相訪会長の挨拶、門脇理工学部長の祝辞と学園の近況報告、佐久間ダムの建設状況の映画が上映されたとあります。
③ 1958年10月19日、理工学部同窓会「相訪会」総会が等持院学舎新館で開かれました。末川総長、田中理工学部長、小田校友会長、中島事務局長、理工学部教職員、会員百人余が参加し、清水氏の渡米報告のあと、黒部ダム開発の記録映画を観賞し、会長に近藤勇次郎、副会長に藤谷景三、長谷川忠男、などを選出したことを報告しています。(「立命館学園新聞」1958.12.13号)
なお「立命館学園新聞」は、翌1959年11月8日にも相訪会総会が開催されたことを報じています。
④ 1960年5月10日の「立命館学園新聞」には、「相訪会総会開く」の記事があり、4月24日に理工学部新館で西村理工学部長、小田校友会長を迎え42人が出席して開かれたと紹介しています。総会のあと日本スピンドルの土屋謙二氏(校友)の「中規模機械工業における技術」の講演、映画と懇親会が行われたと報じました。
このように、1960年頃までは「相訪会」の活動が活発に行われていたことが知られます。
(3) 理工学部創立50周年記念事業
1988年、理工学部は高等工科学校の創立から数え50周年を迎えます。9月には相訪会記念総会を開催する準備が始まりました。大南正瑛学部長、藤谷景三教授、辻村寛教授、校友などが中心となって進められましたが、諸企画は理工学部・理工学研究所の主催で開催することとなり、11月には記念講演会、実験施設の公開、12月から1月の2ヵ月間土曜講座で理工学部創立50周年・理工学研究所設立35周年記念特集を組むなど多彩な企画が続けられました。記念講演会と土曜講座の講演は『新時代の科学技術』として発行され、また記念誌『21世紀の扉を開く 理工学部の今日・明日』が発行されました。
同窓会総会は、翌1989年9月10日「理工学部創設50周年校友大会」として都ホテルで開催され、卒業生・教職員約900名が集い、50周年を祝うとともに新たな飛躍を誓いました。
そして「相訪会」の名は、1993年11月の衣笠学舎さよならの集いにて建立された理工学部発祥の地の碑に残されることになったのです。
2.相訪会館について
1938(昭和13)年4月、北大路学舎に高等工科学校が創立されると理事会は新校舎建設のため、土地を等持院に求めました。
順次土地を取得し、日満高等工科学校は翌1939(昭和14)年11月に等持院の地に移転、開設されました。
(1) 相訪会館となった土地・建物の取得
その中に1939(昭和14)年6月16日に取得した土地・建物がありました。
上京区等持院北町52番地の2(現在は北区)、土地260.66坪と、建物 木造瓦葺2階建、附属建物ともで71.56坪でした。土地の所有者は東京在住の太田黒養二氏(同志社出身)、建物の所有者は同所の冨田惠四郎氏(京都帝国大学出身)でした。(売買の資料からお二人は親族と思われます。)
(2) 倉橋勇蔵と石原莞爾
建物は日満相訪会館と名付けられ、当時立命館常務(のち専務)であった倉橋勇蔵が入居しました。等持院学舎が開設された翌月の1939(昭和14)年12月の資料には、倉橋勇蔵の住所が等持院北町52番地の2となっており、また1941(昭和16)年3月の『立命館大学校友名簿』にも上京区等持院北町 相訪会館内となっています。倉橋はこの相訪会館で日満高等工科学校の開設・充実発展に力を尽くしました。
同年、中川総長は立命館に国防学研究所をつくり国防学講座を開設するため、4月所長として石原莞爾を招聘しました。中川総長は石原に住居として相訪会館を用意し、石原は母親と奥さんの3人で寄寓することとなりました。倉橋はそのため龍安寺の近くに転居しています。
5月にはやはり国防学研究所で教授となった里見岸雄が相訪会館に石原を訪ねています。
石原莞爾が寄寓していた時には臥龍庵と呼ばれましたが、石原は立命館出版部から発行した『国防論』や『戦争史大観』などがもとで軍部の圧力により同年9月に立命館を去り、郷里山形県鶴岡にその居を移しました。
なお、奥田鑛一郎『師団長石原莞爾』芙蓉書房(1984年)の「洛北衣笠山、臥龍庵」には、石原莞爾が寄寓した相訪会館について次のように記述しています。
「安山岩の自然石を積み重ねた風雅な門を入ると、十間ほどの石畳の小径があって、その奥がガラス格子の玄関になっている。玄関を上がったすぐ右手が、十畳ほどの応接間である。ドンスのゆったりとしたソファーのほか、ちゃんとした調度品が備えつけられている。すべて中川総長が事前に用意したものだ。中央にはよくみがかれた北山杉の廊下が走り、右側に南面した明るい八畳の座敷と六畳の茶の間が続き、一番奥に茶室がある。廊下の左側は、手洗いや風呂場に続いて、納戸と台所がある。二階は六畳の書斎と八畳の寝室の二部屋になっている。家屋の周囲は、小じんまりした庭で、自然石や桜・梅・桃・楓などの樹々が配され、南側に十坪ほどの芝生がある。」
(3) その後の相訪会館
石原が去り、相訪会館は学校の施設として使用されました。主に等持院学舎の教職員・学生の集会場・会議室、来賓の接待や校友の親交の場として使われたようです。
1952年10月7日には、1944年10月7日に亡くなった中川小十郎の9周年の追悼会が等持院で行われ、墓所に参拝ののち相訪会館で故人を偲ぶ集いが開かれました(『立命』第2号)。
その相訪会館には1946年から閉鎖される1955年まで、住み込みで管理をした職員夫妻もおりました。
(4) 相訪会館の閉鎖
1955年9月、理事会はキャンパスの整備計画のため同地に変電所を新設することとして相訪会館の取り壊しを決め、処分。11月8日に建物は宗教法人聖護院に売却され、その歴史を閉じました。
聖護院に売却されたのには次のような経緯がありました。
当時本学の理事を務めていた中坊忠治氏は1953年頃聖護院で御殿荘という修学旅行生向けの旅館を始め、御殿荘は翌1954年11月立命館の指定旅館となりました。1955年9月に既に取り壊しが決定していた相訪会館の処分について10月28日の理事会に諮られると中坊理事から御殿荘に移築のため払い下げを受けたいとの申し入れがあり、これを了承したものです。
中坊理事は1928(昭和3)年に立命館を卒業し、京都弁護士会会長や日本弁護士連合会常任理事を務めた弁護士でしたが、御殿荘の経営にも力を注いでいました。御殿荘の増改築のために相訪会館が使われたものと思われます。
3.そして形影相訪
立命館には「形影相訪」という扁額があります。中川総長が揮毫し、1938(昭和3)年に立命館に寄贈したものです。(注3)
扁額は相訪会館に架けられ、中川総長や本野校長がこの言葉をよく学生に聞かせていたと言います。日満高等工科学校の卒業生が満洲国内における待遇の是正を母校の先生方に依頼した文書(昭和16年)には、中川総長や本野校長がしばしば「形影相訪」について訓示していたと記しています。
相訪会・相訪会館の名称も中川総長が「形影相訪」から付けたと言われています。
1981年5月16日、衣笠学舎体育館で行われた立命館学園創立80周年・大学衣笠移転完成記念式典において、天野和夫総長は、式辞のなかで記念品として「形影相訪」の額皿を配ったことにふれ、次のように語っています。
「この言葉の意味は、常に親交を深め、お互いに語り合って、学園の発展のために尽くそうというようなことでありますが、現代風にいえば教育、研究の共同化、あるいは相互理解と相互批判という言葉に通ずると思います。私どもは、このような創立者の教えを引き継ぎ、今後の本学の発展に資さなければならない」(「立命館学園広報」第121号 1981.6.20)
「形影相訪」とともに「相訪会」「相訪会館」の名称もまた創立者中川小十郎の精神を表したものと言えるでしょう。
(注1) 現在理工系学部の同窓会は基本組織として数物会、化友会、電友会、機友会、建設会、情報会があり、理工学部・情報理工学部・生命科学部・薬学部を含めた「立命館大学理工系同窓会連絡協議会」が組織されています。
(注2) 立命館高等工科学校は1938(昭和13)年に創立し、翌年立命館日満高等工科学校と改称されまし
たが、日満高工の開設にあたり制度上は3年制であったところを「時局の要求に鑑み」2年制で運
用されました。
このため、1940(昭和15)年3月に高等工科学校の最初の卒業生が、1941(昭和16)年3月に日満高
等工科学校第1回の、続いて1942(昭和17)年3月に第2回の卒業生がでています。
(注3) 「形影相訪」の扁額の寄贈は昭和3年ですが、揮毫年は不明です。また、「形影相訪」の語の出
典は「禅語」「寒山詩」「法華経」などと言われていますが定かではありません。
本稿の作成にあたっては、辻村寛名誉教授、理工学部事務室日置正治氏から情報提供をいただきまし
た。お礼申し上げます。
〔2015.9.9立命館史資料センター準備室 久保田謙次〕
≪追記≫
本稿掲載後、「相訪会」に関する資料が保存されていることが判明しました。
あらためて資料を紹介します。
1954(昭和29)年3月、相訪会長白坂勇城氏が「新卒業生諸氏に告ぐ」と題し卒業式に贈った原稿があります。
氏はそのなかで電気工学講習所、日満高等工科学校の歴史とその関係にふれ相訪会について述べておられます。そして新たな会員を迎えるにあたり、ともに相訪会会員として母校の発展に努力しようと呼びかけています。
資料には昭和27年9月2日に改正された「相訪会々則」も添付されています。事務所を理工学部内に置くとし、事業として卒業生の就職斡旋をあげていることが注目されます。
「相訪会主要行事報告」には昭和25年8月から27年2月までの主要な行事が掲載されています。1950(昭和25)年の大学50周年記念事業に相訪会として取り組んだことが知られます。
また1955(昭和30)年8月に『相訪会会員名簿』が発行されています。門脇博明理工学部長が名簿の発行を祝して巻頭文を寄せていますが、相訪会の会員が八千名を超えると報告しています。更に来年度から推薦入学制度が廃止され一般入試制度一本になるので入学志願者の確保に協力を依頼していること、卒業生の就職についても協力に対し感謝を述べていることが注目されます。なお、名簿の「立命館大学及び同理学部概歴」のなかで相訪会設立を昭和16年4月としていますが、既に述べた1940(昭和15)年4月10日付けの新聞「立命館」の記事も合わせて紹介しておきます。
2015.09.01
朱雀キャンパス ミニ展示開催のお知らせ(シリーズ2)(9/1~10/16)
創立者中川小十郎誕生と立命館草創期をめぐる人々
-小十郎が活きた場所-
と題して、ミニ展示を行っています。
お近くにお越しの際は、どうぞお気軽にお立寄り下さい。