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2015.12.10

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 後編

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 前編へ


4.東京・駿河台邸


 明治31(1898)3月、住友吉左衛門春翠は東京神田区駿河台南甲賀町に地所と建物を買い、東京控邸とした。地積850坪余、建坪約200坪であった。

 春翠は明治33年になると内閣総理大臣臨時代理となった兄西園寺公望のために邸宅を新築し、公望がこの邸に入った。これにより駿河台邸は公望の東京本邸となった。

 明治から大正初期にかけての駿河台邸の様子を知ることのできる資料は少ない。

 この間の明治3411月末から翌年2月初めにかけて、国木田独歩が西園寺の知遇を得ていた竹越与三郎の紹介で駿河台邸内の長屋に寄宿した。西園寺は独歩に目をかけていたが、警備の巡査や家人が独歩の日頃の行状に不満を抱き2ヵ月余りで邸を辞した。

 西園寺は明治406月には、17日・18日・19日と3日続けて駿河台邸に小説家など文士を招いて宴を催した。泉鏡花、大町桂月、国木田独歩、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、森鷗外など著名な文士が参加した。夏目漱石や坪内逍遥、二葉亭四迷は出席を辞退したが、現職の総理大臣が自邸に文士を招いて宴の会を開いたことは世間の注目をあびた。この会はその後邸外に場所を変えて明治44年までの毎年と大正5年まで続き、雨声会と呼ばれた。

 この企画には国木田独歩や竹越与三郎などが関わったようだが、幕末期に青年西園寺公望が当時の錚々たる文人を御所の自邸に集め文筵を開いたことを彷彿させよう。

 

 大正8(1919)1月、西園寺公望は第1次世界大戦の講和全権委員に任ぜられパリに赴いたが、大任を終え帰国し東京に戻ったのはその年の824日であった。その日西園寺は東京駅から駿河台の「新邸」に帰った。帰国の様子を伝える新聞各紙から「新邸」の様子を知ることができる。

 読売新聞(大正8818日朝刊)は「新邸」の様子を、

 「……御主人の留守中に竣工した此の新邸は約一千坪あり、建築は中央に庭園を設け之れを囲みて方形に設計せられ、大表門は見るからに気持ちの宜い白木作り、敷き詰めし礫は左右の塀添ひの青々しき樹木の間を斜に表玄関に連ってゐる。玄関を左に入れば客間、応接間、食堂の三間何れも洋式設備で、右へ廊下を折れゝば二階建で階下四間は何れも洋式である。そして侯爵の居間なる階上は六間に分れ二間は書斎、四間は休憩室という。階下を右折すると三間続きの家族の居間があり、其の続きの小玄関の側までが下女使用人の居所、小玄関より表玄関の間の三間は書生、取次部屋の筈である。又中央の庭園は約五百坪に日本式の風致を凝らしたもの……」と伝えた。

 

 しかし大正2年に完成した京都の清風荘や、駿河台邸を新装した同じ大正8年に興津に別荘が新築されると次第にそちらを使うようになり、駿河台邸の使用は少なくなっていった。

 

大正1291日、関東大震災が発生し駿河台邸は全焼した。このとき西園寺は御殿場の別荘に滞在していた。

 駿河台邸の再建はやはり住友家によって行われている。住友合資会社の大正13年度の「処務報告書」(1)によると、

東京駿河台別邸の建築工事は、「京都衣笠別邸日本家全部及附属家ノ一部ヲ取毀ノ上駿河台別邸焼跡ニ移転改増築スルモノニシテ本館(元平家建ヲ二階建ニ改築)及番人運転手部屋ノ二棟移転改築(請負者氏名略)鉄筋コンクリート蔵(請負者氏名略)物置男部屋及自動車庫新築並ニ外部工事トス 本年三月衣笠別邸移築建物ノ取毀ニ着手順次運搬建築シ十月完成本家ニ建物ノ引継ヲナセリ」

としている。

この住友衣笠別邸は、住友春翠が長男のために京都の北野紅梅町に建て大正9年に竣工していたが、駿河台邸の再建のため大正13年に移築された。()

現在衣笠別邸の跡には平野通に面して当時の門衛所が残っている。

 

 昭和15(1940)7月、西園寺公望は校舎の拡張を図っていた中央大学の求めに応じ駿河台邸を譲渡することを承諾し、所有者の住友家が中央大学に売却した。こうして駿河台邸は中央大学の施設として使用されたが、昭和319月に住友本社の理事であった北沢敬次郎大丸百貨店社長に売却、建物は品川区大崎の花房義質子爵の所有地に移転され、清風荘と命名して利用されたが、その後昭和59(1984)年に解体された(2)

 中央大学『西園寺公追憶』によると、「表門より左斜に見える手前の建物が玄関で、その左隣に応接間がある。そして遠く見える二階建が母屋で、その二階には二間つゞきの客間があり、公は日常階下の座敷に起居されたのである。又玄関の後に当り、屋根に避雷針のある建物は洋館で、右の一半が公の書斎兼応接室、左の一半が専用の応接室である」とされている。

そして、その宅地    81221

   その建物総建坪 25528

      内訳    1. 木造瓦葺一部鉄筋コンクリート造2階建1

              此建坪18754勺、22158勺、

              同2816

            2. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪1625

            3. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪75

            4. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪95

            5. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪475

であった(3)

 () 小泉策太郎は『中央公論』(193210月号)の「西園寺公の第宅」で「現在の建物は、地震後、

嵐山に在った住友の別荘を移せるもの」としているが、嵐山ではなく衣笠である。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 住友合資会社「大正十三年度処務報告書」 住友史料館架蔵複製本より

(2) 『中央大学百年史編集ニュース』 198912

(3) 中央大学『西園寺公追憶』 1942

 

駿河台邸 中央大学所蔵

 

5.京都・清風荘

 

 (1) 清風荘以前

 清風荘はもと徳大寺家の別邸で清風館といった。徳大寺家は平安時代後期には衣笠山西南麓(龍安寺のあたり)に別邸を営んでいたこともあったが、江戸時代末には本邸を御所の北側、烏丸今出川北東の地に営んでいた。

 文政2(1819)年、徳大寺(さね)()(公望の祖父)は田中村に別所を建て、清風館と名づけた。実堅はその清風館で安政5(1858)年逝去、その後実堅の子公純(公望の実父)が幕末の難を避けるため本邸から清風館に引き移った。明治4年には公純が隠居を受け入れ清風館に退いた。公望はフランス留学から帰朝した明治131012日から11月半ばまでと、明治16年に公純が亡くなった際に上洛し清風館を訪れた。

 明治40年春、住友春翠は誕生の地清風館を長兄徳大寺実則(さねつね)から住友家に譲り受け、西園寺公望上洛時の別邸とすることにした。同年8月に地所建物を登記し、附近の土地も購入した。

 

 (2) 清風荘

 明治44(1911)6月、西園寺公望は同地を視察、8月には新館建設が着手された。8月末には第2次西園寺内閣が発足した時期であった。1225日には工事中の別荘を視察した。

 大正2(1913)326日の京都日出新聞は、新装なった清風荘を紹介した。

 「(新別邸は)出町橋東詰を東へ五六丁ばかり愛宕郡役所の南側を通って美くしい白川の支流に添ひ、軈て百万遍知恩寺の方へ出やうとする南側の極広い邸宅()。西側の大通りに面して高さ四尺ばかりの石垣造りの土堤がつゞいて其の上には植えたばかりの檜苗で生垣が出来てゐる。道路に面して西向きに大きな表門もできる筈だが、北向きになっている綺麗な中門だけは立派に出来上がっている。……玄関前には白梅が今を盛りと咲き匂ふてゐる。……大玄関の前を通つて左へ折れると此処が侯爵の居間で其の隣が書斎、次が清洒な奥座敷となっている。総て南向きの日当たりがよく庭の植込みには紅梅が咲乱れて何所からか鶯の声がする。応接間の直ぐ横手から二階へ登るようになって二階にも客座敷、書斎と云ふやうに三室に別れて居り四方硝子窓で之れを放つと北は比叡山から如意ヶ嶽は元より東山三十六峰一眸の中に眺め、加茂の森に吉田山なども兎も角うらうら霞む洛陽の風光は居ながらにして望むべき。」

 西園寺公望は、大正2年に事実上立憲政友会の総裁を辞して政界を引退し、京都の田中村清風荘に落ち着いた。清風荘での日常は、政客もあったが、東京の駿河台邸や興津の坐漁荘と異なり、学者や文人との交流が多かった。

 

 <文人との交流>

 私塾立命館の賓師をした富岡鉄斎と大正51024日に八坂倶楽部で50年ぶりの再会をし、以後親交を深めた。鉄斎の子謙蔵も西園寺と親交があり、謙蔵の妻とし子氏も鉄斎と清風荘を訪問したことを語っている。

 また学者や文人も大正から昭和にかけてしばしば清風荘を訪れ西園寺と親交をもった。内藤湖南・狩野直喜・新城新蔵など京都帝国大学の学者や、長尾雨山・桑名鉄城・橋本独山などの文人である。とりわけ内藤湖南との交流は深く、これらの人々と清談をすることを楽しみにしていた。

 実業界で活躍し茶の湯をやるようになり数奇者と言われた高橋箒庵(本名高橋義雄)も清風荘を訪れた。もともと大正初めに伊香保温泉で避暑をしていた際に交流が始まったが、箒庵は大正51122日に清風荘を訪問したときの様子を記している(1)

 「門には羅振玉揮毫の「清風」と刻まれた扁額が掛けられていた。門内に入ると丈の低い竹が植えられ鍵の手の通路を通り玄関に達した。客間に案内されると上段八畳、次に六畳の部屋があり、横長の心字様の大きな池があった。松翠楓紅の間を通して大文字山を望み、池辺には雪見燈籠があり飛泉が石に激し、筆舌に尽くしがたい風景であった。……築山の裏手には花壇があり、芋畑があり、また田圃には稲が干されていて、四方の景色を見渡すと叡山が近くに見えた。書斎の前に戻ると鳥籠に雌雄の鶴と一羽の雛が佇んでいた。」

 

  <西園寺公望最後の清風荘>

 昭和7(1932)年は西園寺公望最後の入洛となった。公望はこの年915日から118日まで清風荘に滞在した。

 西園寺の入洛は立命館にとっても忘れることのできない年となった。922日のことであった。中川小十郎が桃山御陵参拝に随伴し、帰途立命館の広小路学舎に立ち寄った。私塾立命館の創設から63年、立命館の名を譲ってから初めての、そして最後の立命館訪問であった。工事中の中央講堂国清殿や授業中の教室を訪問し、そしてなにより存心館の正面に飾られた自筆の「立命館」の文字に感慨深いものがあったと思われる。

 滞在中何度となく清風荘を訪ねた中川小十郎は、118日再び興津に随伴した。

 

 <その後の清風荘>

 昭和15(1940)年に主を亡くした清風荘は、昭和19年に所有者の住友家から京都大学に寄贈された。西園寺公望が文部大臣の際に京都帝国大学創設に関わったことによる。

 清風荘で西園寺公の執事を務め、京都大学に譲渡された後も管理を続けられた神谷千二氏によると、清風荘は占領軍が接収して宿舎に改造しようとしたが、京都大学総長が折衝して接収を免れたとのことである(2)

 

 現在清風荘は、敷地面積12,535㎡、うち庭園部分が10,884㎡で、建物の延べ面積1,453㎡、本館ほか8棟からなる(3)。庭園は本館に南面し、やわらかな芝生が張られ、ゆったりとした曲線の園路を回遊すると築山の植生を通してわずかに大文字を望むことができる。もともとは東山を借景にしていたが、周囲の環境の変化によって困難となっている。庭は小川治兵衛(植治)の作で、園池の水は太田川の流れを取り込んでいる。

 邸内には、今出川通りを北に上がり正門(表門)を入る。門扉は割竹で設え徳大寺家の家紋である木瓜花菱浮線綾が彫られている。その正門から前庭を通り主屋の玄関に至る。主屋は客間や居間をもち、廊下で繋がる離れもまた居間となっている。主屋はさほど大きくはないが2階があり、離れもまた2階建である。主屋から独立して南側に「保眞斎」と呼ばれる茶室があり、その茶室に附属する「閑睡軒」という名の供待がある。その他邸内には数棟の附属屋・物置・土蔵などがある。

 建築は明治44(1911)年から大正2(1913)年にかけて八木甚兵衛により普請されているが、茶室保眞斎は古く江戸後期のものである。小川治兵衛による庭園は文化財保護法による「名勝清風荘庭園」として昭和26(1951)年に国の名勝に指定、建物は2007年に登録有形文化財に、平成24(2012)年に重要文化財に指定されている(4)

 () 当時は現在の今出川通はまだ開通していず、後に開通するにあたり敷地の一部が提供された。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 高橋箒庵 『東都茶会記』復刻版 淡交社 1989

  (2) 神谷千二「西園寺公を偲ぶ」 1960

(3) 京都大学パンフレット「清風荘」2012

  (4) ()京都市埋蔵文化財研究所「名勝清風荘庭園」2009年・2010

 

清風荘 立命館史資料センター所蔵

 

6.御殿場・便船塚別荘

 

興津の坐漁荘に住むようになってから、群馬県の伊香保温泉に代えて夏を過ごす別荘が探され、大正11(1922)8月、富士岡村の小林家を買い取り御殿場町の便船塚に移築し、西園寺公望の夏の別荘とすることになった。この移築は、中川小十郎が京都の岸田組を使い完成させた。庭先から富士が見える自然豊かな土地であった。

別荘には名前がつけられなかったので、地名から便船塚別荘と呼ばれた。所在地は御殿場町新橋字便船塚754番地(現在は御殿場市)である。ただし登記上は西園寺八郎の名義で大正11926日に33筆を取得した。

1年後の大正129月、西園寺公望は御殿場の別荘に滞在していたが、関東大震災に遭った。幸い西園寺は房子「夫人」(中西房子)、房子さんとの間にもうけた園子さんとともに無事であった。附近の竹藪で過ごし坐漁荘に帰ったという。御殿場の町も被災したため町に見舞金を贈った。

本館は木造亜鉛葺日本風で、玄関左手に14畳の応接間、居間が10畳・8畳・8畳の3部屋、右手に6畳の執事室、ほかに女中室2室、湯殿などがあり、洋風の別館は木造で、合わせて7575勺の建坪であった。

敷地は近親者が滞在する家の必要などから拡張され、新たに西園寺八郎の別荘なども建てられた。

北野慧は「東に箱根の青巒を仰ぎ、西に富岳を望むといったところ、南は遥かに開けて駿河湾方面からの涼風が颯々と訪れ、北は駿相を境する箱根連山の裾がゆるやかな起伏を遠望さしている。附近にこんもりした小丘便船塚があり」と別荘周囲の環境を記している(1)

 

公はこの別荘を夏の避暑地として昭和14年まで使った。政治向きのことは東京の駿河台邸や興津の坐漁荘で対応したため、御殿場に来訪する政客は少なかったようだ。

しかしそれでも警察による警備は厳重に行われた。

そんななか秘書であった中川小十郎はしばしば御殿場別荘に詰め、昭和12年に立命館中学校・商業学校の生徒が富士山麓滝ヶ原で野外演習をした際には表敬訪問をしている。

演習は81日に始まり10日まで行われたが、その86日、生徒一行は便船塚別荘に西園寺公を訪問した。その様子は「公爵訪問の記」と題して残されている。

「……あの維新の官軍の士気を鼓舞し幾多の逸話を生んだ山國隊の軍楽を先頭に御庭を廻る。維新の元老公爵と維新に関係ある軍楽とが結び附いて、色々な空想がぐるぐると頭を馳けめぐる。御庭は全くの自然の御庭園で昔の武蔵野も、かくやと思はれる。公爵の自然を愛され、自然を解される御趣味が偲ばれ、奥ゆかしい事極りなかった。」(2)

 

その後拡張をしたが、昭和151124日に公が亡くなると、翌昭和16920日に西園寺八郎氏から住友吉左衛門(16)に名義が移された。そして昭和3096日に住友家から大丸に売却している。現在跡地は大型ホームセンターとなっている。

 

【参照文献・資料】

(1) 北野慧『人間西園寺公』大鳥書院 昭和16

(2) 『立命館禁衛隊』第78号「富士裾野演習日誌」立命館中学校・商業学校 19379

 

便船塚別荘 小池辰夫様提供

 

7.興津・坐漁荘

 

 (1) 興津以前

西園寺公望が静岡県に別荘を求めたのは明治40年代に遡る。初め公は沼津に保養の地を求め、沼津公園(現在の千本浜公園)の一角の仙松閣ホテルに時折滞在した。明治42(1909)12月の大森鐘一あて書簡は仙松閣ホテルから出され、その後432月に成瀬仁蔵、442月には桂太郎・牧野伸顕あて出されている。温暖な地に冬の住まいを求めたと思われ、別館が西園寺専用に使われた。千本浜公園には現在も西園寺公望が揮毫した「沼津公園」(明治4012)の碑と間宮喜十郎を顕彰する「頌徳碑」(明治435)がある。

沼津には御用邸もあり、西園寺公はまもなく別荘用地を近くに取得した。現在の港口公園の東側である。ところが着工したものの大正382度にわたって台風が来襲し工事は中断、沼津を冬の住まいとすることを断念した(1)

西園寺は大正(3)1230日の中田敬義あての書簡で、沼津の地処の処分を依頼している()

 () 中田敬義は明治期の外務省官僚で、特に外相陸奥宗光の大臣秘書官として信任が厚かった。西園

寺とは明治20年代からの知己であった。

 

  【参照文献・資料】

 (1) 川口和子『思い出のふるさとの町並』 1987

 

(2) 坐漁荘  

大正5(1916)12月、西園寺公は興津に冬の保養地を求めた。興津は東海道の宿場として栄えた町で、江戸時代は脇本陣であった水口屋の勝間別荘に1230日から翌年の326日まで滞在、更にその年12月と、7年には3月と12月の2度滞在し、合わせて4度興津の冬を過ごした。

興津は南東に伊豆半島を、名勝清見潟を前にして沖合に三保の松原を望む景勝の地で、温暖な気候も合ったからか、西園寺公はこの地を気に入って別荘を建てることにした。その別荘は住友春翠の出資により大正8921日、清見寺町117番地に竣工した。そして同年1210日に坐漁荘に入った。もっとも坐漁荘という名は当初から付けられたのではなく、のちに別荘を訪ねた渡辺千冬が中国の故事に習って坐漁茅荘とすべきところを略して坐漁荘とし、太公望と公望を重ねたことによる(安藤徳器『陶庵公影譜』(1))

当初の敷地は約300坪で、興津にあった井上馨の長者荘や伊藤博邦(伊藤博文の養子)の独楽荘などに比べると格段にその所有地は狭小であった。

北側は東海道に面し、南側は駿河の海が広がっていた。建物は2階建であったが、1階に居間が2室、洋間が1室、そのほかに執事室、女中室、警護詰所、厨房など、更に2階に3室あったから余裕のある間取りではなかった。そのうえ昭和4(1929)9月に改造し応接間を、また避難場所を兼ねた書庫を造っている。

大きな邸ではなかったが、様式は京風の数寄屋造りで、建材は上質なものであった。好みの竹も建物に設えられ、また玄関先にも植えられた。

建物には割竹の格子、網代天井の竿縁に竹が用いられるなど随所に竹の意匠が採りいれられている。

大正13年に別荘に名が付けられると、高田忠周が揮毫した「坐漁荘」の扁額が掛けられた。

西園寺公はこの坐漁荘で大正8年から昭和15年までの16年間を過ごした。夏は御殿場の便船塚別荘、春や秋は京都の清風荘、時に東京の駿河台邸と季節や時々の元老としての政務で本邸や別荘を行き来したが、坐漁荘に滞在することが多かった。

坐漁荘は清風荘に比べ東京に近いこともあり、政客が頻繁に訪れた。また、大正1011月の原首相暗殺や昭和7年の犬養首相が暗殺された5.15事件、昭和9年の血盟団事件や昭和11年の2.26事件で西園寺自身が対象になったことで、静岡県警察部や時に憲兵による厳重な警護が行われ、悠々自適の余生というわけにはいかなかった。坐漁荘では元老としての政務が常に求められた。

北野慧の『人間西園寺公』(2)には「坐漁荘訪問客名簿」が搭載されているが、昭和4年から15年までの間の訪問者は延べであるが実に1,500人を超えている。政客ばかりではないが、「興津詣で」、「西園寺詣で」と言われた由縁である。

 

そうした生活のなかでも、坐漁荘には近所の子供との関係が窺えるエピソードがある。

興津坐漁荘の『坐漁荘余話』(3)に、昭和の初めごろの話であるが、当時少年であった方が坐漁荘や西園寺公の思い出を語っている。

清見寺から坐漁荘一帯の海岸を清見潟といったが、近所の子供が遊べる場所は坐漁荘の前の浜くらいしかなかったようだ。野球のまねごとをして遊んでいたがボールが坐漁荘の庭に入ってしまって謝りに行ったところ、西園寺公が出て来て、窓ガラスがドイツ製のものだから気をつけてやってくれと言われ、その後もそこで野球ができ、また西園寺公と話ができるようになったということである。

よその家の前で野球をしてボールが飛び込むなどはよくある話だが、何と西園寺公の別荘でそんな話があったとは。近所の子供とのそんな話が残っているのも意外な一面である。

 

お花さん(奥村花子)やお綾さん(漆葉綾子)、熊谷執事などと暮らした坐漁荘であったが、昭和15(1940)1124日、年初から体調を崩していた西園寺公は帰らぬ人となった。91歳と1ヵ月を迎えた晩秋であった。

主を失った坐漁荘は、その後高松宮に献上されるなどの変遷を経て、昭和26年に財団法人西園寺記念協会が設立されて、協会により維持管理されてきた。そして昭和45年から46年にかけて愛知県の明治村に移築復元され、更に興津の跡地には2004年に復元して現在に至っている。

 

【参照文献・資料】

 (1) 安藤徳器『陶庵公影譜』審美書院 1937

(2) 北野慧『人間西園寺公』 大鳥書院 1941

(3) 渡辺俊治『坐漁荘余話』 2015

 

現在の興津・坐漁荘 立命館史資料センター所蔵

 

おわりに

 誕生から晩年に至るまでの西園寺公望の主な「住まい」を訪ねてきた。清華家に生まれ育ち、総理大臣や文部大臣にもなり、更に最後の元老といわれた人物の住まいとしては、意外とも思えるものであった。決して豪壮でないどころか、どちらかと言えば質素・簡素な邸であった。政界に身を置いた人物の邸としての設えもあるが、しかしその造作は文人としての風雅な装い、高踏な趣味を感じさせる住まいであった。

 今その面影は清風荘と坐漁荘に留めるのみであるが、望緑山荘や隣荘、そして駿河台邸、御殿場便船塚別荘などもまた残された資料からそのことを思い起こさせてくれる。

 西園寺の人となりを彷彿させる西園寺の住まいであった。

 

 本稿作成にあたり、下記の機関・皆様から資料・情報をご提供いただきました。お礼申し上げます。

  京都府立総合資料館、京都府立図書館、東京法務局城南出張所、大磯町郷土資料館、大磯町立図書館、中央大学大学史編纂課、神谷厚生様、静岡地方法務局沼津支局、御殿場市立図書館、住友史料館、

小池辰夫様、J.フロント リテイリング史料館、沼津市立図書館、興津坐漁荘・渡辺俊治様、

清水興津図書館

 

【参考】

 1.御所西園寺邸  京都市上京区京都御苑内 地下鉄烏丸線丸太町駅下車

 2.萬介亭     京都市北区等持院東町  (現在跡を示すものは無い)

 3.大森・望緑山荘 東京都大田区山王    JR京浜東北線大森駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 4.大磯・隣荘   神奈川県大磯町西小磯  JR東海道本線大磯駅下車 現在は池田成彬邸跡が残る                      

 5.東京・駿河台邸 東京都千代田区神田駿河台 JR中央線御茶ノ水駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 6.京都・清風荘  京都市左京区田中関田町  現在一般公開はしていない

 7.御殿場・便船塚別荘 静岡県御殿場市新橋 JR御殿場線御殿場駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 8.興津・坐漁荘  静岡県静岡市清水区興津 JR東海道線興津駅下車 一般公開している

 

 【駿河台邸について追記】

 本稿執筆後、千代田区立図書館より下記についてご教示いただいた。

 

 坂内熊治『駿河台史』(1965)に神田駿河台の写真が掲載されており、そのなかの邸について「南甲賀町五番地に在った住友控邸で後に西園寺邸となった処」という解説がある。また『図説明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(学習研究社2007)の「神田駿河台よりみた東京360度 南側大手町方面」パノラマ写真のなかに『駿河台史』と同じ「駿河台邸」がある。

 

 パノラマ写真は明治22年頃の撮影とされ、『駿河台史』は「住友控邸」と解説しているところから、写真は明治20年代から30年代初期の邸で、住友吉左衛門が明治31年に取得した際の「駿河台邸」と思われる。そして明治33年に西園寺公望が新築された邸に入った。その邸は明治43年頃新たに建て直し、更に大正8年に新邸を建てた。その後の経過は本文に記した通りである。

 

以上

 

201512月10日 立命館史資料センターオフィス 久保田謙次〕

2015.11.04

朱雀キャンパス ミニ展示開催のお知らせ(シリーズ3)(11/2~12/16)

現在、京都・朱雀キャンパス1階フロアにて、

創立者中川小十郎誕生と立命館草創期をめぐる人々
     -京都法政学校の教育理念

と題して、ミニ展示を行っています。
お近くにお越しの際は、どうぞお気軽にお立寄り下さい。

期間:2015年11月2日(月)~12月16日(水)
開館時間:10時~17時
※会期中は土日祝日も開館
※初日は12時より、最終日は15時まで
会場:立命館大学 朱雀キャンパス1階フロア










2015.10.23

<懐かしの立命館>「自由と清新」「平和と民主主義」の始まり-建学の精神、教学理念は何時できたのか?-

※本文引用文の典拠でページのみ記載しているものは、全て『立命館百年史 資料編二』より引用。

引用文中の太字・下線は全て筆者による

<私立学園の志>

いずれの学園であっても、始まりがあり、始まりの時には「志」があります。

特に私立学園の場合は、草創期の人々が生きた時代背景の中で、教育の有り様に対して強い「志」が表れます。これが「建学の精神」です。

私立学園はまた、常に社会の変化や社会の教育にかける期待に呼応して、その教育の有り様を更新していきます。歴史を積み重ねるに従い、学園の個性が形作られていきます。

「教学理念」は、こうして形づくられた大学の個性を示すものです。

立命館学園も、始まりの時の「志」や、教育の歴史の積み重ねの中で個性を醸成してきました。

建学の精神である「自由と清新」

教学理念である「平和と民主主義」

は、私立学園である立命館の個性です。

2006年に制定した「立命館憲章」には、この言葉に凝縮された立命館学園の志やこれからの進む方向が簡潔明瞭に宣言されています。

※立命館には、もう一つ学園の特徴を示す「未来を信じ 未来に生きる」という言葉があります。詳しくは 以下の記事をご参照ください。

<懐かしの立命館>「未来を信じ 未来に生きる」の意味

 https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=72

<始まりは何時?>

さてでは、この「自由と清新」「平和と民主主義」はいったいいつから、全学に、そして一般に膾炙されるようになったのでしょう。

今日はこのお話。

1.建学の精神「自由と清新」の始まり

 この言葉は、立命館の創立の志です。

でも、立命館創始者の西園寺公望も、創立者の中川小十郎も、この言葉を使っていません。西園寺の生き方や西園寺に師事した中川の教育にかける思いはまさに「自由と清新」でしたが、この言葉を使ったことはないのです。

初出は、『立命館創立五十年史』(1953331日発行)の序文「創立五十年史刊行にあたって」の中で末川博総長が記述した言葉の中にあります。(注1)

 この年史発刊以前は、戦後立命館学園の気風を表現する言葉は「自由で民主的」「自由と平和」などの組み合わせでしたが、この年史を境に「自由」と「清新」がくみあわされるようになりました。

 末川博総長は、「創立五十年史刊行にあたって」で、立命館学園の始まりである京都法政学校の設立経過にふれて次のように述べています。

「京都大学の創立は、西園寺公望公が第二次伊藤内閣の文部大臣であった折に企画されたところであって、当時唯一の官立大学であった東京帝国大学に対して、政治の中心から離れた京都の地に自由で新鮮な、そして本当に真理を探究し学問を研究する学府としての大学をつくろうという意図に出たものだといわれている。

この意図に沿うて京都大学では、後年、いかなる権威にも屈しない真に自由でアカデミックな学風が樹立され、学園の自治独立が現実化されるとともに、世にいう京都法学、京都哲学、京都経済学の如きが栄えるに至ったのである。

だから、京都大学の法科大学が出来てそこに新進気鋭の優秀な学者が集まったのを機縁にわが学園が創立されたということは、立命館学園の性格すなわち自由で清新な学府たるべき性格を決定する一つの要因となっているということができるであろう。」(『立命館創立五十年史』pp.2-3

末川博総長は、西園寺が意図した京都帝国大学の学問の気風が、中川が創立した京都法政学校に引き継がれたとし、西園寺と中川のつながりが「自由で清新」な気脈で通ずるとしたのです。

 以降、末川博総長は学園の歴史にふれるとき、しばしば「自由」と「清新」を組み合わせて使い、これが「立命館大学」受験者向けパンフレット(1955年)、「大学要覧」(大学発行の学園案内冊子)(1958年)などで記載され、徐々に認知度を高めていきました。

 

 「自由と清新」を建学の精神とすることは、この時期の機関会議(理事会や大学協議会などの学園の意思決定機関)で審議決定された記録はありません。

 末川博総長の言葉から始まり、学園の学生・教職員が一体となって教育や研究に邁進してゆく中で共有され、確信していったのです。

 しかしながら、末川博総長が意図した西園寺、中川から続く戦後立命館学園の「自由」「清新」という連続性は、その後強調されなくなりました。

 改めて「自由と清新」という学園史の連続性が強調されたのは、1981年衣笠一拠点の取組みに向けた70年代後半学園創造の全学討議の中でした。

当時の天野和夫総長は後日振り返って「戦後の40年代、50年代に末川先生が学園の歴史を語る際には、必ず学祖西園寺、創立者中川の業績に触れられていたが、それ以降6070年代には触れることが弱くなっていたので、自分が総長に就任してからはかなり意識的にそれに触れるようにしてきた。」(注2)と述べ、全ての学生教職員が、学園の歴史と到達点に確信をもち、衣笠一拠点を始めとする大きな諸改革を進められるようにしたのです。

続く谷岡武雄総長の80年代は、学園の国際化を推進し「国際関係学部」(1988年開設)設置の取り組みの中で、国際派・自由主義者であった学祖・西園寺公望(注3)とともに「自由と清新」を学園の気風、建学の精神として学園の創始の志として定着させ、現在に至っています。

2.「平和と民主主義」という教学理念

 立命館学園の教学理念は「平和と民主主義」です。

これもまた、いずれかの機関会議で決定したというものではありません。

 日本国憲法にもとづく「あたりまえ」の教育理念が、戦後の社会情勢の変化と立命館の真摯な取組み過程で「あたりまえ」のことをあえて確認する必要が生まれ、さらに立命館のあり方と不可分一体となるまでに重要視されるようになって、教学理念「平和と民主主義」として確立していったのです。

 これは1947年~50年代、60年代、そして68年~70年それぞれの時代を背景とする立命館の歩みそのものでした。

 この歩みを辿っていくと、現在の教学理念「平和と民主主義」が確立・定着したのは、1970年の「立命館大学の現状と課題について」(19701024日学内理事会)といえます。

 それはどのような経過だったのでしょうか。

立命館の学園史である『立命館百年史』の記述にもとづいて辿ってみましょう。

2.1戦後「あたりまえ」であった「平和と民主主義」(19471962年)

戦後日本の教育機関は、「日本国憲法」と「教育基本法」「学校教育法」にもとづいて設置されました。その教育の根本的精神は、基本的人権の尊重の下、二度と戦争を導かない平和教育と国民一人ひとりを主権者とする民主主義教育でした。

ですから、日本全体の教育機関にとって「平和と民主主義」は、改めて強調する必要のないほどに「あたりまえ」のポリシーだったのです。

当然立命館も「平和と民主主義」は「あたりまえ」であって、大学自治や意志決定機構の有り様をめぐる議論の中でも、「民主化」「自由で民主的な」等の言葉は多用されていますが、「平和と民主主義」を教育の理念であるとまで明言することはなかったのです。

『立命館創立五十年史』、「1957年度 全学協議会確認事項(十二月原則)」(19571214日 全学協議会)、「1960年度 全学協議会確認事項(新十二月原則)」(1961116日全学協議会)にもあえて記述は見当たりません。(注4

2.2全体方針文書に現れ始める「平和と民主主義」(1963年~1967年)

1960年代に入って、教学理念あるいは教学方針の基本である「平和と民主主義」という言葉は、学園全体の課題を議論する際に、必ず現れるようになります。

 立命館学園は、将来計画は学生教職員全体で討議して決め、決まったら全員一致して推進する「長期計画委員会」方式「全学協議会」方式を特徴としていました。この「立命館民主主義」と通称される特徴の幹は、提案者と学園の主体である学生教職員との意見の往復にありました。

理事会や「長期計画委員会」の提案は、各クラス、教授会、職員職場で説明・討議され、出された意見が「長期計画委員会」や理事会に集約され、意見にもとづき提案が修正されて再び全学の討議に付されるという往復作業です。

これは大変な時間がかかるのですが、一旦決定すれば学園全体が主体者となって目標に向かって邁進し、必ず実現するという力強い仕組みでありました。

この討議を有効にするためには、理事会や学生教職員が、立命館の基本的な立場や考え方、「誰の何のための立命館であるか」ということについて同じ認識に立つ必要がありました。

 だからこそ提案文書には必ず、「自由にして清新」という学園の気風や「平和と民主主義」という教育の基本理念が明示され、主権者たる「国民」「庶民」のための高等教育を目指すことを明示したのです。

1963、学園の初めての長期計画である「学園基本計画要綱」1963615日大学協議会)(pp.564-572)には、「本学は戦後一貫して平和と民主主義を基調とする教学方針を堅持し、他の諸大学に見られない伝統と特徴をつくりあげてきた。」(p564

と、立命館学園の基本的考え方がしっかりと記載されました。

この「学園基本計画要綱」の全学討議を経てまとめられた1963年度 全学協議会確認」1964118日)(pp.574-578)では、確認文書の最後の項目で、大学の機能充実のための財政的基盤を学生の父母に転嫁することは「憲法に保障された教育の機会均等を阻害し、平和と民主主義の教学内容に否定的な結果を及ぼすものである。」(p578)と明記され、全学一丸となって国庫負担大幅増額運動を推進することが確認されています。

1967年、「立命館大学における大学自治(案)」<総長選挙規程改定案討議資料>19671124日理事会)(pp.881-887では、

  「立命館においても、平和と民主主義の教学理念を追求しつつ、上のような大学自治の原則を堅持し、その内容をいっそう充実するよう全学的に努力を傾けてきた」(p881

という記述が見られます。

 この文書は、総長選挙規程改定の原案を学生・教職員で検討した際に提起されたもので、

立命館学園の教学理念を平和と民主主義であると明言しています。

こうして、「立命館民主主義」は、提案文書の「はじめに」の部分で世界・日本をとりまく情勢と立命館の建学の精神や教学理念を明示した上で、全学で共通の認識に立ち、立命館の社会的使命から見て、どのように情勢を捉え、どのように改革を行っていくかを議論したのです。

2.3あたりまえのはずの「平和と民主主義」の危機と再確認(19681970年)

「平和と民主主義」は「あたりまえ」であって、全学での議論において共通の認識として確認するというニュアンスであったものが、改めて再確認され教学理念として明示する必要が生まれます。

1968年から日本全国に起こりはじめたいわゆる「大学紛争」(注5は、立命館にも波及し、196812月に発生した「学園新聞社事件」を端緒として、これまで全学構成員の総意によって築き上げてきた民主主義的制度を否定し、暴力によって主張を押し通そうとする学生集団が生まれます。(注6

立命館はこれに対して、忌避したりおもねる態度を取ることなく、正面から立ち向かう道を選択しました。

その際に改めて強調したのが「平和と民主主義」でした。

だからこそ、建学の精神「自由と清新」、教学理念「平和と民主主義」、そして国民に開かれた大学を目指すという立命館の原点が改めて提起され、確認されることとなりました。

「平和と民主主義」は、これまでの立命館の教育の柱であるとともに、幾多の危機を乗り越えて民主的制度を整備してきた学生教職員の「諸問題は民主的討議をもって解決する」「暴力は絶対に許さない」という学園アイデンティティでありました。

立命館は、「大学紛争」を一部の学生の暴力行為という表層としては捉えませんでした。近年の日本を取り巻く情勢、日本の高等教育をとりまく情勢、そして個別立命館大学の戦後から現在(1969年)に至るまでの意思決定方法、教学と財政の関係など学園運営のあり方、学生教職員の勉学研究労働条件のあり方など、これまでの立命館の歴史的取組みの総括問題として捉え、大学全体の改革を持ってこの危機を乗り越えようとしたのです。

 この取組みは「大学改革のための討議資料」(注7を元に1年以上をかけて理事会、教授会、各クラス、職員の職場、教職員組合、学友会・自治会で討議を行い意見集約していったのです。

「大学改革のための討議資料」はその後全学の議論を反映しつつまとめられて、

「立命館大学の改革についての答申」〔一拠点、教学、学生規模、管理運営、財政〕(1970919日 長期計画委員会)pp.1102-1132)として改めて全学討議に付されました。

 この文書の「まえがき」には

 「本文書は、学園の展望を確定することが急務となっている現在、基礎資料として今後とも重視されなくてはなりません。『答申』が提起している諸課題に関しては、すでに各学部などの討議のなかから活発な意見が寄せられつつあり、学内理事会は『答申』ならびにこれをめぐる教職員の討議をふまえつつ、早晩学園の新たな基本的要綱ないし政策を立案し、大学協議会の決定をまって、全学に提示することを期しています。」(p1102

 

とあり、討議の前提として全学が共通の認識をもつことの重要性を訴え、これまでの意見の反映と再提案によるさらなる全学討議を呼びかけています。

 さらに、本文の最初には「はじめに」として本学の教学がこれまでどのように発展してきたかを共通認識にすべく

「戦後の民主化を背景にして、末川博氏が学長に就任され、本学は憲法と教育基本法に基づく『平和と民主主義』を基本理念とし、研究を重視し、それを基礎とした教育をめざし、学問・思想の自由と大学の自治の確立に努力した。

 教職員と学生の努力により『自由にして清新なる学園』と『庶民の大学』として他大学には見られない学園を築き上げてきた。」(pp.1102-1103

と再確認しているのです。

そして、平和と民主主義がカッコで囲われ、平和と民主主義は不可分一体であることが強調されました。

 他方、「大学紛争」は日本社会全体の問題となっていましたから、「大学改革」の学内議論と平行して、学生の父母、校友にむけても大学紛争に対する立命館の考え方を発信しています。

1969105日発行の「学園通信」(注8では、立命館大学総長事務取扱(事実上の総長)武藤守一経済学部長(注9が「立命館大学の近況報告-最近の紛争に関する大学の見解-」を掲載しています。

少し長いのですが、この時期の「空気」と立命館の考え方が端的に記されていますので引用します。

大学紛争は、全国的な現象であって立命館大学だけのことではなく、根深い問題をも含んでおりますので、われわれとしては当面の対策も重要であるが、同時に根本策についても検討を進めて来ました。これによって、いままでの立命館大学が社会から一定の評価を受けてきた基礎の上に、さらに新しい施策を加えて、今こそ大学改革の先駆的役割を果たしたいと考えております。

「世界のいたる所で思想的・政治的・経済的・軍事的にその他あらゆる面で矛盾や衝突が絶えず生じています。世界はまさに変革期にあるといえます。このような世界の中にある日本でありますから、非常な発展の側面をもちながらも、累積する矛盾の拡大、それが大きな底流となっていることを否定することはできません。

 このような国の内外の動きをまず敏感に感じとり、不安に思い、それを直接に行動に現わしがちであるのが青年であり学生であります。ただ、それを正しく受け止め、正しく行動に移すかどうか、ここに大きな問題があります。」

「矛盾を最も敏感に感じ不安に脅やかされる彼ら自身が、その出身階層に制約されて、意識は観念的に、行動はラジカルに陥り易いという弱点をもっています。」

立命館大学が戦後急速に発展した原因は果たしてどこにあったのでしょうか。平和と民主主義を教学の基本理念としていたこと、民主的体制の確立、経理の公開、低学費、教学の充実などといろいろ挙げ得るでありましょう。いわゆる「立命館方式」といわれるのは、総長選挙への学生参加をはじめ、全学協議会を中心として教職員・学生が一体となり得る全学的な民主的体制があったからであります。このような自他ともに許す民主的立命館にどうして紛争が生じたのでしょうか。

 それは三十五年の安保改定以後、国内の矛盾は拡大し、その反映として、それを受け止める学生の立場と行動に統一性が困難となり、さらに外部からの策動もあって、統一とは逆に対立と憎しみの度を加えることになりました。このために立命館大学においても、民主的体制をもちながら、民主的運営に重大な支障を来たすこととなり、数年間にわたって全学協議会を開くことができなくなりました。そのために、学生諸組織の間の摩擦が次第に激化し、昨年十二月中旬には学園新聞社問題をめぐって、ゲバ棒が公然と現れるに至り、総長選挙規定の改訂もできなくなりました。」

われわれは全共斗を責め、政府を追求し反対するだけでなく、自ら顧みて改革すべきことは大胆に改革するという積極的な姿勢と具体的な方針をもたねばなりません。立命館大学ではすでに、大学の理念から始まって、教学の内容・条件・体制の全般にわたる改革のための討議資料を全教職員・学生に配布し、全学的討議の中で、新しい大学のあり方、新しい立命館大学のヴィジョン確立のために、目下努力中であります。

2.4学園アイデンティティとしての教学理念「平和と民主主義」(19701980年)

1968年から1969年にかけての全学あげての大学改革討議の結果、1970年「平和と民主主義」は立命館の教学理念として再確認されました。

これを端的に示した文書が

「立命館大学の現状と課題について」(19701024日 学内理事会)pp.1132-1140です。文書からその部分を引用しましょう。 

「二、立命館大学の立場

 わが学園の現状と将来を考察するためには、まず立命館大学が何を拠り所にし、何を目ざしてきたか、学園の基本的立場を確かめておく必要があります。

 本学は戦後一貫して『平和と民主主義』の教学理念を標榜してきました。しかしこれは、なにか他の大学と異なる特別の目標を追求しようとしたのではありません。平和と民主主義のための教育・学問という理想は、敗戦後新しい憲法と教育基本法がつくられた時、戦争と軍国主義の惨苦を体験してきた国民が、過去の歴史の深い反省にたって、これからのわが国教育の根本理念として確認し合ったものです。わが大学が多少ともこの点で特色ある学風をもっているように人々に映るとすれば、それはただ、立命館大学がこの二十年余、そうした国民的理想にもっとも忠実であろうと努力してきた大学の一つであるからに過ぎません。」(p1132

 本文書は、「立命館大学の改革についての答申」〔一拠点、教学、学生規模、管理運営、財政〕(1970919日 長期計画委員会)後の討議のまとめとして学内理事会で決定されたものです。「平和と民主主義」を不可分一体のものとし、立命館の教学理念とした長期計画委員会答申を再確認しています。

さらに、「平和と民主主義」の教学理念は憲法・教育基本法の理念であって、立命館の特色として写るのは、歴史の中で、どのようなことがあってもこれを忠実に護ろうと努力してきた結果にすぎない。とその原点を明言しています。

 以後、立命館の対外冊子、全学協確認等には必ず「平和と民主主義」が、立命館の原点として記載されるようになり、とりわけ立命館の教育の有り様(教学)を語るとき必ず「平和と民主主義」が教学理念として記述されるようになったのです。

 70年代の諸文書から、記述部分を総覧してみましょう。

1971年 「一九七〇年度全学協議会確認事項」1971118日)(pp.1232-1237

 「戦後一貫して憲法・教育基本法にもとづく『平和と民主主義』の理念の実現に努力してきた立命館大学」「『平和と民主主義』の理念にもとづく教育・研究の実現」(p1232

1971年「立命館大学教学の現状と課題」(1971327日 大学協議会)pp.1150-1170

 「本学は、戦後一貫として平和と民主主義の教学理念を掲げてきた。」(p1151

(注10

1975年「立命館大学の現状と課題」(19751021日 立命館(学内)理事会)pp.1324-1360

 「本学は一貫して“平和と民主主義”にもとづく新しい大学の創造をめざして(略)」(p1340

1976年「一九七五年度全学協議会確認」1976124日)(pp.1248-1267

「本学は、戦後一貫して、憲法と教育基本法にもとづく平和と民主主義の教育・研究を、教学の基本理念として教学改革をすすめてきた。」(p1267

1980年「一九七九年度全学協議会確認」1980121日)(pp. 1267-1301

「立命館大学は戦後一貫して平和と民主主義の教学理念を堅持し、国民的要請に応える教学の実現をめざして全学の構成員が一体となって努力してきた。」(p1267

19801980年立命館大学 入学試験概要」天野総長の言葉

 「本学では、特に憲法と教育基本法の精神である平和と民主主義を尊重し、これからの社会の発展に役立つ人材の育成を教学の基本理念としている。

「立命館の現状と課題」以降1970年代は、「平和と民主主義」の教学理念を常に再確認するとともに、徐々に「戦後一貫して」「国民的要請に応える教学」などの立命館学園の社会的使命に関わる文言が加わっていき、学園アイデンティティとして定着していく時代でした。

 これは同時に1963年の「学園基本計画要綱」の提示から68年~70年の「大学紛争」克服を経て1981年に衣笠一拠点実現に至る「学園振興」期の軌跡でもあったのです。

<結び・1980年代以降と立命館憲章>

 1980年代以降「自由と清新」「平和と民主主義」は「未来を信じ 未来に生きる」という言葉とともに立命館学園の個性として確立されました。

これらの言葉は100年以上もの長い学園の歴史の中で、時代に向きあい、あるべき学園の姿を模索する中で、常に原点として再確認し、その時代に応じた新しい意味を見出してきました。

 1950年代 「自由と清新」は、末川博総長によって創出され、私塾立命館から始まり戦前から戦後へと続く立命館の歴史が一貫していることを改めて捉え直す言葉となりました。

続く武藤守一総長と細野武男総長の1970年代、「平和と民主主義」は、戦後日本の「憲法」と「教育基本法」「学校教育法」に基づく基本的人権の尊重、平和主義、民主主義、国民主権という「あたりまえ」の教育を、5060年代後半の社会変動や大学紛争の中で改めて確認し、どのようなことがあっても憲法・教育基本法に忠実であろうとする立命館の確信として捉えなおされました。

1980年代 天野和夫総長は、1963年の「学園基本計画要綱」以来の念願であったキャンパスの移転統合という衣笠一拠点化を完遂するにあたり、建学の精神「自由と清新」教学理念「平和と民主主義」を全学で確認することに注力しました。

そして、1981年「未来を信じ 未来に生きる」の碑を衣笠キャンパスに建立して、「わだつみ像」に託した末川博総長の思いを、今一度学園の理念・姿勢として捉えなおしました。

続く谷岡武雄総長時代の1985年には、1990年の「立命館創始120年・学園創立90周年」の記念事業として学祖・西園寺公望の「伝記」事業に着手するとともに、国際主義・自由主義者である西園寺公望の「自由と清新」をさらに学園の前面に位置づけて、学園創造を進めます。

1988年に開設された「国際関係学部」は、学園の社会的期待に応える改革であると同時に、学祖・西園寺公望の理想を具体化するものとして展開していきました。

大南正瑛総長時代のBKC開設(1994年)や、長田豊臣総長、坂本和一APU初代長時代のAPU創設(2000年)は、「未来を信じ 未来に生きる」という言葉を「平和と民主主義」教学の象徴とともに、時代を切り開き未来を創造していく立命館学園の姿勢を象徴する言葉として、捉えなおしました。

また、1992年には、「平和と民主主義」の教学理念をより内実化し、平和についての教育・研究の拠点を構築することを目指して「立命館大学国際平和ミュージアム」を開設しました。

そして20067月、長田豊臣総長の時代にこうした歴史の中で培った立命館学園の確信や思いを明文化して、広く社会に宣言するとともに、これからの学園関係者にとっての「志」として「立命館憲章」を制定しました。

「立命館憲章」は、20051116日に初めて学園の常任理事会で提起され、2006118日に「起草委員会」が設置され、半年間かけて言葉、表現、文節の一つにいたるまで、全ての学生、教職員の議論に付されました。その後、意見集約・再提案をおこなって2006721日制定されたのです。

文面には、建学の精神、教学理念はじめ学園を支えてきた様々な理念、原則、教訓が織り込まれ、2大学5附属校となった立命館学園のアイデンティティとして確立されました。

 

立命館学園の建学の精神・教学理念は、万古不変のお題目ではなく、時代とともに歩む立命館の人々の真摯な努力が反映され、常に新しい意味を確認してきました。

それは今日においてもなお、続けられているのです。

 

(立命館 史資料センターオフィス 奈良英久)

<注>

※脚注引用文の典拠で、ページのみ記載しているものは、全て『立命館百年史 資料編二』より引用。引用文中の太字・下線は全て筆者による

(注1

『立命館創立五十年史』は立命館大学衣笠図書館、BKCメディアセンターにて閲覧できます。

(注2

天野総長の言葉は、以下を参照

吉田幸彦(1995.『自由にして清新』考<未定稿> 立命館百年史紀要 第3号(史資料センターHP 「刊行物」からダウンロードできます) 

(注3

西園寺公望は、194011月に没した後、翌月の12月に立命館の学祖と定められている。

(注4

この間「平和と民主主義」があえて議論の俎上に載るのは、「新学部設置準備」(1962年に開設された経営学部のこと)に関わって立命館教学の有り様を確認する必要からでした。

 「新学部増設について」(1961422日企画委員会)pp.626-629では、経営学部を設置する際の教学と経営のあり方について

「大学の運営は教学が優先し、しかもそれが経営と一体化しなければならない。教学の根本は平和と民主主義をめざし、それぞれの分野における学問と技術を身につけた人材を養成することにある(以下略)」(p626とあります。

1950年代の立命館は、戦後増え続ける大学進学者に対して、貧弱な教育施設設備で大学運営を行っており、教育施設設備の充実が喫緊の課題である一方、物価が上昇し続ける状況下にあって学園財政は逼迫していました。学園の財政と教育の充実を両立するためには、学園規模を拡大(新キャンパスの展開)する必要があり、そのために「商学部」を増設するとの議論があったのです。1957年「商学部」設置は凍結となりましたが、その後1960年代初めに「経済学を基礎とする経営学」を学問の中心とする「経営学部」の設置が改めて検討されました。「経営学部」設置の議論は新しい学問分野を切り拓くだけではなく、50年代の課題であった教職員の待遇改善、学費額の抑制、学園経営上の必要性からも重要だったのです。(pp.734-740

その議論の中で、教学を充実させることが経営の基盤であるという考え方の議論が行われ、教学の根本理念とは何かとして、「平和と民主主義」が述べられたのです。

とはいえ経営学部設置をめぐる各文書中には「平和と民主主義」は統一して使われておらず、422日企画委員会に続く「私学教学理念の在り方からみた新学部設置の意義」(1961513日)(pp.629-632)では「民主と自由の原則」「国民的教育、民主的研究の精神」という言葉が使われ、「新学部〔経営学部〕設置問題についてのまとめ」(196174日)(pp.635-639)では「自由と民主主義」という言葉が使われており、いずれも「平和と民主主義」は出てきません。

この時期「民主」「自由」「平和」はキーワードであって組み合わせに特別の意味を持たせるまでにいたっていなかったのでしょう。

(注5

一般的には「学園紛争」と称されますが、立命館学園ではこの紛争が立命館大学のみに発生し、附属校である立命館中学校・高等学校では発生しなかったことから「大学紛争」と呼称しています。

なお、「大学紛争」は19651月下旬の慶応義塾での学費値上げ反対闘争を端緒とし、翌年に首都圏の大規模私立大学(早稲田・明治・中央など)で、1967年に東京医科歯科大学や東京教育大学などの国立大学で、1968年に日本大学や東京大学で紛争が起こっている。立命館をふくめて関西や全国に紛争が広がっていくのは、1968年後半から1969年であった。

(注6

戦後立命館には様々な危機があり、全学の真摯で民主的な討議を経て乗り越えてきた歴史がありました。そしてその都度全学の合意による立命館らしい制度を創設して乗り越えてきました。1940年代の「総長公選制度」「総長選挙へ学生参加」「学内優先の原則」「全学協議会制度」、そして1950年代半ば「私学危機」と「緑の学園構想」を経て確立された「長期計画委員会」制度、1960年代初頭の学園財政を保障するためには教学改革こそが大切であるという、教学と財政の一致の考え方などがそうです。

こうして蓄積した立命館の民主主義的討議の仕方や諸制度を否定した上で一方的な要求を突きつけ、要求が受入れられないと施設の占拠・破壊によって大学の教育行為そのものを妨害する。これらの行為は他の学生の学ぶ権利、教員の教える権利を妨害し、大学そのものの機能を麻痺させるに至り、単にこの年度の個別問題や発達段階中の青年心理などというものではなく、戦後の立命館学園が築き上げてきた存在理由を全面否定する重大な危機であるとの認識でした

(注7

「大学改革のための討議資料」は次の4冊でした。(pp.737-827

19694月 「大学改革のための討議資料 その一〔大学、立命館民主体制改革の方向〕」(1969430日 立命館大学(学内)理事会)

1969年8月 「大学改革のための討議資料 その二〔教学の歴史的総括、教学各論〕(196986日立命館大学(学内)理事会)

196910月 「大学改革のための討議資料 その三(未定稿)〔研究・教育と組織運営、意思決定と執行組織、その他〕(19691018日立命館大学(学内)理事会)

19703月 「大学改革のための討議資料 その四(未定稿)〔学生処分制度〕(1970313日 立命館大学(学内)理事会)

(注8

当時の「学園通信」は年2回(4月、10月)発行。4月は新入生の大学生活、10月は大学の教育が中心記事であった。いずれも学生の親に向けた広報誌であったため、記載内容は大学の現状を知らせるものであり、書き方も父母向けだった。「学園通信」は立命館大学衣笠図書館で閲覧できます。

大学の広報はその後、1970年度から「立命館学園広報」(B5サイズ 学内教職員向け定期刊行物)の発刊、1974年から「学園通信タブロイド版」(A3サイズ 学内の学生・教職員を対象として、学園全体課題を周知することを目的とした不定期刊行物-多い年で561012月発行-)が発行され、学園情報の共有が図られた。「学園通信タブロイド版」は1985年まで発行された後、1986年から「学園通信」(B5)とサイズを揃えてカラー版となり定期発行となった。

(注9

末川総長は196941日、520年の任期を終えて退任し、武藤守一経済学部長が新たに総長となる予定であった。しかし「大学紛争」の混乱にあって総長選挙規程の改訂に関わる全学討議が出来ず、総長選挙も不可能であったため、この時期「立命館大学総長事務取扱」という臨時の役職についていた。

その後新総長選挙規程は、196912月に成立し、翌19702月に新規程による総長選挙を実施して武藤守一総長が誕生している。

(注10

この間に「1973年度全学協議会確認」(1974118日)があるが、「平和と民主主義」の言葉は出てこない。この年度の協議会確認のテーマが、学費値上げ反対ならびに財政民主化・事務体制民主化や相対的低学費堅持、公費助成への取り組みに特化しており、教育・研究に関する文言は学生・院生にとっての条件整備要求にとどまっていることに由来する。(公費助成に対する立命館の取組み、職員組織の教育機能などの提起の点で画期ではある)

<参考文献・資料について>

記述にあたっては、『立命館百年史 通史二』、『立命館百年史 資料編二』の記述と解釈を典拠としました。ただし、『立命館百年史 通史二』には、教学理念「平和と民主主義」の成立過程に焦点を当てた項目はありません。

本論考は、通史二の以下の章および記述を下敷きとして、主として立命館学園の正式な年史である『立命館百年史』所収の資料によって、教学理念「平和と民主主義」の成立と経過を再構成しています。

『立命館百年史 通史二』参考章

序章

 『平和と民主主義』の教学理念の内実化に向けてpp.7-8

第三章「大学紛争」と立命館学園の課題

 第一節 一九六〇年代後半の政治・社会状況と「大学問題」

  三「大学紛争」と立命館における民主主義の到達段階

    -「大学改革のための討議資料」による問題提起  

第四章 立命館学園新展開への胎動

 第一節 学園体制の新局面

  一「大学紛争」の克服と「自主改革」への模索

     教学理念「平和と民主主義」の再認識 (pp.1070-1072

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