立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2014.06.24

「資料保存の現場から」癒着した写真の剥離・保存

 

全国各地に入学試験会場を設置して実施する「出張入試」に関する資料が、出張入試が行われて2年目の1957(昭和32)年の資料から、史資料センターに残されていることを以前にこのホームページで紹介しました。

<懐かしの立命館>出張入試(地方入試)の歴史と当時を伝える関係書類・写真

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=41

 

史資料センター開設に向けて、改めて資料一点一点を確認し整理する中で、1964(昭和39)年の出張入試の資料には、当時の様子を伝える写真が綴じこまれていることがわかりました。

そのいくつかは上記のページで紹介した通りですが、中には完全に癒着していて、はがれない状態になっている写真もありました。写真の紙の表面の薬液がくっついて乾燥してしまっている状態です。

 

見たところ、試験会場内の様子が撮影されたもののようで、当時の入学試験の様子を知ることのできる写真は現在のところ史資料センターでは発見されていないため、貴重な資料になるものと思われました。

 

 そこで、株式会社東京光音 様に相談・依頼したところ、水による剝離は難しい状態だったようで、専用の薬剤にて癒着部分をきれいにはがしていただくことができました。

 写真が一枚ずつの状態になり、史資料センターに戻ってきました。


(写真が出てきた手製簡易アルバム もとはこのような状態でおさめられていたのでしょう)

 

 

 試験会場内の様子のみならず、出張入試を実施する本部内で、おそらく試験監督者の方に向けて説明を行っていると思われる写真も出てきました。

写真手前には、これから試験会場ごとに配付されると思われる試験問題や解答用紙と思われるものも写っていて、当時の様子が伝わります。


 1964(昭和39)年の出張入試で撮られた写真は、「ハーフサイズ」で撮影され、「手札版」で焼き付けられています。

「ハーフサイズ」とは、35mmフィルムの半分のサイズで、1本のフィルムで2倍の枚数が撮影できたことから、フィルムや現像の価格が高かった6070年代に、一世風靡しました。「手札版」は、大体縦78センチ、横1011センチくらいの小さなサイズで6070年代には安価な焼付けサイズでした。

 翌年1965(昭和40)年の資料に綴じこまれていた写真はサイズが異なり35mmフルサイズになっているようです。

 カメラや写真にお詳しい方は、「ハーフサイズ」とか「手札版」は懐かしく思われるかもしれませんね。

 

 

 写真は、PETフィルムを和紙テープでとめた、癒着をしない保護フィルムに入れ、今後、史資料センターで大切に保存していきます。


 

株式会社東京光音様の会社概要や業務内容・実績につきましては、ホームページに紹介があります。

http://www.koon.co.jp/

 

2014.06.18

<懐かしの立命館>中川小十郎が寄進した愛宕山の石段

中川小十郎の献納碑

京都の西北にそびえる愛宕山(あたごさん・あたごやま、標高924㍍)は、京都の人々にとって馴染みぶかい「信仰の山」であり、また近年は山登りの人々でにぎわう身近かな山でもある。山頂の愛宕神社へと続く参道の石段の一角に、「中川小十郎」の名前が刻まれた石柱が残されている。山頂へと続く表参道の、水尾へと分かれるところを少し上がった「ハナ売場前」のあたり、神社まで1.1㌔のあたりにこの石柱は残されている。石柱のサイズは一辺24㌢・高さ(地上部)約66㌢で、石段の登り口に建てられた角柱である。石に刻まれた文字を読んでみると、立命館の創立者である中川小十郎が愛宕山の参道に石段を寄進したことを記した「献納碑」であることがわかる。


「 為 中川好菴重行公百年祭

   記念参道石階献納

  昭和十八年九月二十六日 曾孫中川小十郎 花押 」(現物はタテ書)

と記された碑文から、中川小十郎が、昭和18年(1943)に、曽祖父である中川好菴(こうあん)の没後百年にあたり、その顕彰をおこなうために石段を寄進したことがわかる。


愛宕山の中川好菴

では、中川小十郎の曽祖父の中川好菴とはどのような人物であったのか、その一端を紹介してみよう。

中川小十郎は丹波の馬路(うまじ)村(亀岡市馬路町)の中川禄左衛門の子として生まれた。父の中川禄左衛門は明治維新に際して「山陰道鎮撫総督」の西園寺公望に、「弓箭組(きゅうせんくみ)」のリーダーとして随従して活躍した勤王郷士である。小十郎の実母はさき(咲)と言い、その母方の祖父が中川好菴(重行・しげゆき)である。好菴は愛宕山の塔頭の福寿院(ふくじゅいん)に出仕して寺務に励み、文政13年(18307月の「京都大地震」によって愛宕山の社寺が壊滅的な被害を受けた時には、「造営元締」としてその再建事業に尽力したという。天保14年(1843)に亡くなると社殿の奥に好菴の霊が祀られ、この祠は現在も山上の社務所の横に「好菴堂」として祀られている。


愛宕山の石段造営事業

立命館 史資料センター準備室が所蔵する中川家資料のなかに、昭和初期の愛宕神社関係の資料が残されているが、その中に『愛宕神社表参道石段構築寄進書類』としてまとめられた簿冊がある。冒頭には中川小十郎の「寄進申出書」(昭和17218日)があり「児孫ノ輩等相図リテ表参道四十二丁目樒茶屋ノ辺ヨリ黒門ニ至ル間道路嶮峻ノ部分ニ石段約二百五十段ヲ構築シ」と社司に願い出ている。「工事概説」によると、「昭和16年秋故中川好菴大人百年祭記念トシテ愛宕神社表参道嶮峻ノ部分ニ石段構築ノ上寄進」とその目的を記し、5月には京都府市の許可が下り、翌188月に起工式をおこない、12月に工事は終了したと記録されている。「昭和1612月大東亜戦争勃発シテ兵馬倥偬国ヲ挙ゲテ軍旅ニ奔走スルニ至リ・・・時局下困難視セラレタル本工事ガ予定ノ工程ヲ了ヘテ其ノ完成ヲ見タル」とあって、戦時下の困難な状況のなかで工事が完成したことを伝えている。

愛宕山のケーブルも軍需物資として撤去・供出される戦時下、敬神事業の一環としてこの事業が進められた面もあったようである。『神社巡拝講話(愛宕神社の巻)』という大政翼賛会京都支部発行のパンフレット(昭和1812月)には、立命館大学の太田亮(中川小十郎の招聘した国史教授)の講話も掲載されている。





立命館の生徒たちと愛宕山

 愛宕山はまた、立命館の生徒たちにとって、参拝の場所であり、幕営(野外演習の一環で、幕を張って野営すること)の場所として馴染みぶかい山でもあった。学校における軍事訓練としての「教練」の授業が制度化された戦時体制下、愛宕山への「行軍」もその一環であったのだろう。

愛宕山には昭和4年(1929)にケーブルが敷設され、スキー場やホテルもつくられて観光のスポットとなっていたようで、生徒たちにとっては野営訓練の一方で、屋外での幕営を楽しむ側面もあったのかもしれない。

戦前の立命館中学校、立命館商業学校の校内誌である『立命館禁衛隊』には、生徒たちの愛宕山の参拝記や感想文が時折掲載されている。例えば『立命館禁衛隊』第67号(昭和119月)は「愛宕幕営号」と題され、「愛宕幕営グラフ」(昭和1178日)として野営訓練の写真が掲載されている。


そのほか、写真につけられたキャプションからも、幕営の様子の一端を伺い知ることができる。

「愛宕山ケーブル終点に到着、粛然と降車前進する健児」

「飯盒炊事、さぁ飯だ。慣れぬ手付で、飯盒炊事を習う健児。和やかな顔、顔、顔」



また、立命館中学校、立命館商業学校の『校歌集』に収録されたなかには、愛宕山が登場する「スピリット」という歌がある。当時の生徒たちによって歌われたのだろうか。



愛宕山の石段と石柱は、中川小十郎と当時の立命館の生徒たちの学校生活の一コマを今に伝える遺跡と遺物でもある。

2014.06.13

<学園史資料から>立命館デザインのバッジ

立命館 史資料センター準備室の今月の展示をご紹介します。



今月の展示は、立命館デザインのバッジです。
数あるバッジ類の中から15点(13種類)を選んで展示しています。


法学部のバッジ、校友会のバッジ、体育会のバッジ、帽章など色も形も様々なバッジたち。


実験の授業でしょうか?学生服を着た学生たちの帽子に立命館の帽章がついているのが確認できます。


ご寄贈頂いた角帽にも、帽章がついています。格好良いですね。
※角帽は展示しておりません。


時代や用途も様々な立命館バッジたち。

史資料センター準備室では、バッジ類の収集も行っております。
お手持ちの資料でご寄贈いただけます方はご連絡くださいますようお願いいたします。
また、お手持ちの資料には、貴重なもの思い出の品でお手元に置いておかれたいものなどもおありのことと思います。ご寄贈ではなくとも、複写・複製の作成等のご相談をさせていただければと考えておりますので、ぜひ情報をお寄せくださいますようお願いいたします。


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