立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2022.12.20
<懐かしの立命館>「立命館第四中学校 昭和19年卒業アルバム」から辿る夜間付属校史
はじめに
立命館中学校・高等学校には何冊かの戦前の旧制中学校時代の卒業アルバムが保存されています。その中に一冊だけ「立命館第四中学校」(以下、「第四中学校」)と表紙に記されたものがあります【写真1】。
【写真1 アルバム表紙・内表紙 】
突然に「第四中学校」と聞いても、何のことかわからない方がほとんどではないでしょうか。付属校では、北大路学舎で1928(昭和3)年に校名を立命館中学から立命館中学校に変更し、翌1929年に立命館商業学校を設立して以来、戦後の新学制が出発するまでに、いくつもの付属校新設や校名の変更を行ってきました。その学制変遷を図にすると以下のとおりです。
【沿革表 戦前の付属校変遷】
学園の夜間付属校である立命館夜間中学校が改組改名したものが「第四中学校」でした。夜間中学校は、昼間勉学の機会に恵まれない好学の勤労青年に対し、夜間にも便宜を与えようという学園創設以来目指してきたことで、専門学校や大学に続き中学校にも一貫して実現しようとするものでした。
その「第四中学校」の卒業アルバムから戦前における付属校の夜間学校の歴史を辿ってみました。
1)学園における夜間大学の開設
創立以来、専門学部は夜間授業を行い多くの英俊を輩出してきました。学園では1929(昭和4)年4月から予科の夜間授業を開始し、夜間大学部を1931(昭和6)年4月に開講しています。この開講にあたって中川館長は「世の中には高い志と力はあっても、機会が与えられず志を遂げることができないでいる人が案外に多い。今回の新計画は、これらの人々に対する門戸開放であり機会均等であり、このことはわが学園創始以来一貫する主義主張である」と述べています【注1】。
2)夜間中学校の創設
1937(昭和12)年4月、京都府内私学初の夜間中学校として立命館夜間中学校【注2】と立命館商業学校夜間部を設立開校し、中川小十郎がこの新設両校の初代校長に就任しました【注3】【写真2】。この時の入学式で中川校長は「夜学部の生徒は立志においては申分ないが、途中でその志が挫折してしまう者が頗る多いのは実に残念な事である。諸君の先輩である二年生は入学したときの三分の二に減っている。夜学では成功した者も多いが、落伍する者もまた頗る多い事を銘記せねばならない。(中略)私は学問を志した者のために夜学で中学から、予科、大学、学部或いは専門学校へと一貫した教育を行う事が必だと考えている。立命館ではこれが可能なのだ(原文ママ)」と挨拶しています【注4】。
【写真2 校庭に立つ校長中川小十郎】
京都市内には、京都府からの育英資金制度が適用されて設立時から3倍以上の競争率で人気の夜間中学校として府立の第二夜間中学校と第三夜間中学校【注5】がありました。また、立命館の設立と同年に女子夜間商業学校も設立されていました。
立命館の夜間学校設立によって、本学の伝統的な方針である学問の門戸開放と機会均等を幅広く発揮されることになりました。ちょうどこの1937年から2年間をかけて北大路木造学舎の鉄筋コンクリート改築工事が始まっており、第1期工事が同年6月下旬に竣工、第2期工事も翌年2月末に終えて完了しました。夜間2校では、立命館中学校と商業学校と同方式で無試験の申込順に生徒を受け入れ、その上に入学金も免除されていました。
その後、京都府下の中学校生徒数が激増して学校数も不足したため、夜間学校への希望が増加することとなり、1941(昭和16)年には京都府立第一夜間中学や京都府立桃山夜間中学校【注6】などが設立されていきました。1943(昭和18)年からは中等学校令による新しい中等学校制度が実施されました。この中に夜間中等学校の設置が加えられ、国民学校高等科卒業程度を入学資格として、勤労青少年に教育の機会を与えることが進められました。
3)夜間中学校の概要
文部省では、1932(昭和7)年、夜間中学校への専門学校入学資格認定を与えるために、修業年限を尋常小学校卒業ならば5年、高等小学校卒業は4年と決定して、この資格を与えられていたのが先に紹介した府立の2校でした。
立命館の学則では、夜間中学校の定員が500名。年齢12歳以上で尋常小学校を卒業した者又はこれと同等以上の学力ありと認められた者が入学を認められました。商業学校夜間部の定員は400名。年齢14歳以上の者で高等小学校卒業と同等以上の学力ありと認められた者とされました。
1939(昭和14)年4月に立命館夜間中学校に勤めた松井美知雄【注7】【写真3】は、当時のことを次のよう述懐しています。
夜間中学は5年制、商業夜間部は4年制で、まだ完成年度に達していなくて3年生までしかなく、各学年とも2クラスをおいて、中学と商業を合わせて12クラス、生徒数は400名ほどであったろうか。生徒の年齢も昼間部と違って、40歳ちかくの年長者や、妻子もあり世帯をきりまわしている者や、20~25歳くらいで新参者の私と年齢の変わらない者、また高等小学校卒業まなしの者といったように変化に富んでいた。(中略)勤務先の職業も官公庁、会社事務員、会社給仕(年少者で雑用担当)、個人商店と多種でした。
制服もなかったので、年長者になると職場の服装(背広や作業着)のままで登校してくるという状態であった。設立間もないころの立命館夜間学校では、専門学校受験資格を与えることのできる認可がとれていなかったので、生徒たちはその資格がとれる検定試験合格を目指してよく勉強した。放課後も10時30分ごろまで補習授業を続けていたことを思い出す【注8】。
【写真3 向かって右から松井、宮本伊三松(教練)、角野太郎(数学) 注8から】
昼間の中学校と商業学校だけで約2,000名の生徒たちが通っていた北大路学舎は、学校規則によれば、夜間の両校の授業は、午後5時30分から午後9時30分までとされ、始業時刻は季節により変更するとなっていました(1937年3月の認可願)が、翌年に京都府提出の学事年報【注9】では午後6時から午後9時15分までと変更されています。
夜間中学校と商業学校夜間部の年齢構成と出身地(本籍地)は、以下のようなものでした【グラフ】。特筆されるのは、夜間中学校に朝鮮出身の生徒が多くみられることです。当時の社会情勢を知ることができます。
【立命館中学校・高等学校保存の資料から作成】
このような生徒たちによって、真剣に働き学ぶ生徒たちが集う夜間学校の灯はコンクリート3階建て校舎と共に北大路烏丸のシンボルとして灯り続けていました。
中川小十郎は、1940(昭和15)年に夜間中学校校長を退任しましたが、再度校長となり1941年4月に退任しています。その後は大学教授の末包留三郎が中学と夜間の校長に、串本友三郎が商業と夜間商業の校長に就きました(中川は1933年8月に中学校と商業学校校長に再任後、1937年には夜間中学校校長も兼任し、1941年4月まで校長の職にありました)。
夜間中学校出身で後に母校の教員となった卒業生には、第1期(1942年)卒の時岡喜代治(理科)、第2期(1943年)卒の長谷川金市(理科、校長を2度歴任)、第3期(1944年)卒の芳賀金一(理科)、第4期(1945年)卒の柴田亨三(保健体育)などがあげられます【注10】。
4)夜間中学校から第四中学校へ
立命館では生徒増に対応するために第二中学校を開校し、従来の立命館中学校を立命館第一中学校と改称しています。また、戦争が続く中、軍需生産のために技術者が大量に必要とされるようになると商業学校への志願者が減少し中学校や工業学校への志願者が増大していきました。1943(昭和18)年10月、政府は戦争遂行政策に沿って「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を閣議決定し、男子商業学校の改廃を発表しました。これによって、京都府下で14の商業学校等が工業学校や農業学校への転換を行っています【注11】。こうした経過のなかで、学園では1943(昭和18)年4月、「中学校令」により夜間中学校は今回の卒業アルバム調査のきっかけとなった「第四中学校」(夜間三年制)【注12】に転換しました。1944(昭和19)年4月に第三中学校を開校し、この年度からの商業学校と商業学校夜間部二校の生徒募集を停止して商業学校夜間部の在校生を新たに開校した立命館工業学校夜間部(四年制)に編入したのでした。
5)「第四中学校」卒業アルバムから
戦争が激しさを増すなかで、生徒たちの学校生活にも戦争色が一層色濃くなっていきました。「第四中学校」では夜間での通常授業以外に、体錬として4月、5月、6月及び9月、10月、11月の第三日曜日の昼間に於いて各6時間の教練が実施されていました。卒業アルバムに掲載された数少ない写真には、軍事教練関係が大部分を占めています。
【写真4 校庭での式典】
【写真5 夏の授業風景】
【写真6 校庭での射撃訓練】
【写真7 校庭での軍事教練】
【写真8 講堂での集会風景】
【写真9 校門での集団登校風景】
【写真10 全員集合写真】
【写真11 軍事教練】
【写真12 アルバムで笑顔が写った唯一の写真 水泳訓練 】
6)夜間高等学校へ
夜間中学校から「第四中学校」へと続いた旧制の夜間中学校の歴史は、1948(昭和23)年3月をもって廃校となりました。卒業生は合わせて605名。商業学校夜間部と工業学校(夜間)の卒業生は691名。旧制の夜間付属校卒業生1,296名の灯は消えることなく、その年の4月から立命館夜間高等学校として灯り続けていくことになりました。(戦後の夜間高校・高校定時制については戦後編としてご紹介していきます)
2022年12月20日 調査研究員 西田俊博
注1「立命館學誌」第123号(1929年4月発行)「新学年に於ける新施設」中川館長談
注2 正式名称「私立立命館夜間中学」 (立命館百年史 資料編1)
夜間中学設置ノ目的(抜粋)
交通至便ナル本校ノ位置上夜間就学ヲ希望スルモノ年々其数ヲ増加シツツアルノ状況ナリ(中略)夜間就学希望者ノ多クハ昼間勤務シテ家計ヲ助ケツツ乏シキ学資ヲ以テ進学セントスルモノナルコト會ヲ俟タス(中略)
通学上ノ便利ノ点ニ於テ市ノ北部ニ位スル私立立命館中学校内ニ夜間中学ノ設置ヲ見ルコトトナレハ此種生徒ノ為、更ニ進ンテ本市教育振興ノ為ソノ効果甚大ナルモノアリト思惟ス
此ニ於テ本校ハ以上ノ状況ニ鑑ミ修業年限五ヶ年ノ夜間中学ヲ設置シ之ニ要スル諸般ノ施設ヲ整備シ本校ノ特ニ意ヲ用ヒツツアル日本精神主義ノ教育ヲ施シ生活上須要ナル知識技能ヲ授ケ国家有用ノ士を養成センコトヲ期スモノナリ
(「京都府へ提出の夜間中学設置の許可願」1937年3月31日)
注3 中川が初めて付属校校長に就任したのは1928(昭和3)年4月1日付の立命館中学校校長あったが、翌29(昭和4)年2月11日には退任。
注4 「立命館禁衛隊」新入生歓迎 第84号(1938年4月発行)
注5 京都府立夜間中学として1935年に創立された後、京都府立第二中夜間中学校(1936年)、府立上鳥羽中学校(夜間)と代わり、鳥羽高校定時制で廃制。京都府立第三中夜間中学校は1936年に創設された後、夜間で府立双陵中学校、府立双陵高校定時制と代わり、山城高校定時制で廃制。両校共に夜間中学校で制服制帽があった。
注6 京都府立第一夜間中学は、後に夜間で府立賀茂中学校、戦後には府立賀茂高校定時制と代わり、府立鴨沂高校定時制で廃制。京都府立桃山夜間中学校は、後に夜間で府立伏見中学校、府立柏原高校定時制と代わり、府立桃山高校定時制で廃制
注7 松井美知雄(国語科で主に漢文、古文、書道担当)
立命館大学専門学部文学科卒後、1939年立命館夜間中学校専任教諭(漢文)として就職。後に応召。1946年から第四中学校、工業学校勤務を経て1950年夜間高等学校副校長、定時制副校長中学校副校長、中高図書部長を経て1977年定年退職。
戦前・戦後の22年を立命館の夜間・定時制教育のために尽くした。
注8 【写真3】共に松井美知雄「草創期の夜間中学」
(立命館学園広報 1972年2月20日発行)
注9 「夜間中学設置ノ件許可願」立命館百年史 資料編1
京都府提出「昭和十三年度学事年報」
注10 夜間以外での付属学校出身の教諭には、
1938年卒;大西永太郎(中学)
1939年卒;小林喜二郎(商業)
1940年卒;北野清(中学)
1941年卒;竹上信次(中学)
1942年卒;武輪辰夫(商業)
1943年卒;住岡幹雄、峯一男(中学)などがいた。
注11 「京都新聞」1944(昭和19)年2月5日夕刊
注12 第四中学校学則 「立命館八十五年史 資料集」第一集
第一條 本校ハ主として昼間実務ニ従事スル男子ニ対シ夜間ヲ利用シテ皇国ノ道ニ則リテ高等普通教育ヲ施シ国民ノ練成ヲ為スヲ以テ目的トス
2022.12.12
「資料保存の現場から」立命館創立者・中川小十郎の遺宅「白雲荘」リバイタルプロジェクト進行中!オープン白雲荘の様子をご報告
立命館創立者・中川小十郎の遺宅「白雲荘」のリバイタルプロジェクト進行中!
2022年12月4日(日)「オープン白雲荘」開催
学園関係者有志により「白雲荘」を再度復活して今日的な利活用を目指すこのプロジェクト。
白雲荘がどんなところか来て・知ってもらい、より多くの方とともに白雲荘について考えるきっかけづくりとして、まずは白雲荘を開放してみる「オープン白雲荘」を開催しました。
来場者は白雲荘の庭「きゅう園」を鑑賞しながら茶室より上がり、飲み物と大黒屋鎌餅本舗の鎌餅を受けとり屋内へ
本日のプログラム
薫豆堂さんのほうじ茶フレーバーコーヒーを飲みながら、広い和室でくつろぎのひととき
隣の和室では、史資料センターによる「中川小十郎と白雲荘」と題したトークショーや、ほうじ茶フレーバーコーヒーをご提供くださった株式会社ミームファクトリー田村さんによる「白雲荘にぴったりのフレーバーは何か?」をさぐるワークショップが開催されました。次回開催時には今回だされたアイディアを元にいくつかの試作品をご提案いただきます。
中川小十郎のミニ展示やデジタル白雲荘3D点群データをご覧いただける展示室の様子
データ収集・動画編集協力:クモノスコーポレーション株式会社
近隣住民の方や、面白そうなことをやっているのかな?とフラッとお立ち寄りくださった方、立命館の卒業生や教職員、その関係者の方々など、お子様からご年配の方まで幅広くお越しくださり、総勢62名の方に白雲荘を実際に見ていただくことができました。
2022.11.01
「今日は何の日」11月8日 わだつみ像が立命館にやってきた日
『立命館百年史 通史二』によると、「折しも京都では全学連が呼びかけた「全日本学園復興会議」が開催されていた。像を迎えた立命館大学の建立委員会は、11日に「わだつみ像歓迎」の市中パレードを、同夜には「学園復興会議文化祭」と共催で「わだつみ像歓迎大会」を開催する」予定だったようです。「11月11日、小型トラックに積み立てられた「わだつみ像」を先頭に、オープンカーに乗った末川博総長がこれに続き、学生約400名が河原町通り→五条通り→烏丸通りと、京都の中心街をパレードし、多くの市民の歓迎を受けた」と書かれています(※1)。
ここで、「荒神橋事件」「市警前事件」と呼ばれるようになる二つの大事件が起こりました。
私どもの学園では、別に皆さんにご覧いただくようなものはありませんが、ここの下に立っておる「わだつみ像」と呼んでおる像だけは、ある意味において唯一の誇りといっていいか、皆さんに見ていただくに値するものであろうかと、私は考えているのであります。あの像の裏に、私は、まずい言葉ではありますけでども、つぎのようなことを書きしるしているのであります。「未来を信じ未来に生きる、そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。」…ところが、あの像を京都に運んでまいりましてから、やっかいな事件が起こりました。あの像をトラックに乗せまして、私はそのあとをオープンの自動車に乗って、目ぬきの通りをまわり、あれを京都の市民諸君に紹介したのであります。河原町通りから四条通りの方をまわって裁判所の前に来たときに、私の乗っておる車に学生たちがとびついてきて、「先生、たいへんだ、えらいことになりました。京都大学からわれわれ学生が百名あまりわだつみ像の行列に参加するために荒神橋を渡ろうとしたところを、警察隊がはばんで橋の上で大乱闘がはじまって、ランカンがこわれ、学生が橋の上から川の底にたたきつけられた。多勢の者がけがをしてたいへんです」とさけびました。私は、びっくりして、ここの校庭に帰ってみると、血にまみれた諸君が涙を流して訴えておるのであります。
11・11事件と呼ばれているものは、「和やかに大学の復興について話し合おう」ということで、全国70ばかりの学園から代表者約500名が集まって開かれた「全日本学園復興会議」にからまって起きた事件である。結果からいえば、京大当局が教室を貸していたら、学生たちは、おだやかに会議を進め、あんな不祥事も起こらないですんだろうに、というふうに考えられるわけである。現に、私は、第2日目には同志社大学で開かれていた法学部会にでて法律を学ぶことの意味を説き、第4日目には立命館大学における統一会議文化祭で、教育基本法にいうところの「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび」青年学徒の貴い未来と生命を守りぬくように、自重すべきことを講演したのであるが、いずれの場合にも、学生はきわめて真面目で真剣な態度であった。これを頭ごなしに危険視したり敵視したりするごときは、教育者の態度として許さるべきではない。[学生の教室利用の願い出に対して]学長は面会を拒み、事務当局は規程をタテに不許可の方針を堅持して譲らず、遂に学生は学長室前の廊下に座り込むというようなことになってしまった。学校当局は、川端署に警察隊の出動を要請すること、3回に及んだ。私は、昭和の初めごろ治安維持法適用の最初の事件といわれている学連事件で、京大の寄宿舎に手入れがあったとき、学園内の秩序は大学で保持するから、警察の侵入はけしからぬといって強く抗議したことを思い出し、今昔の感にたえぬものがある。学園復興会議4日目11月11日にも午後1時半から京大時計台下に約150人の学生が集まって、教室使用についての抗議集会を行っていたが、4時半過ぎ立命館大学で開催中の学園復興会議に合流するため京大を出発した。4時45分、学生の先頭が東方から荒神橋中央部を渡ったとき、市警中立売署員約20名が不法デモを理由として学生たちを阻止しにかかった。実力で阻止しようとする警察隊は、もみあううち、学生たちを木製ランカンに強く押しつけ、腐朽したランカンが折損し、十数名が約5米下の河原に折り重なって墜落、流血の惨事をひきおこした。学園復興会議統一文化祭で右の荒神橋事件が報告されると、学生たちは、憤慨興奮して、市警に抗議することとなり、夜10時半ごろ市警前に終結した。[そこに]約200名の武装警官が一大喚声をあげながら、コン棒をふるって静粛に集結している学生に襲いかかった。私は、一生、法律のことを学び、法律のことを究め、法律のことを教えて暮らしている。法というのは一片の紙上に書かれたものではなくて、人を生かし世を益するための生きた法を意味すると解しているから、京大の学内集会規程や京都市の公安条例のごときについても、これをタテにして人を傷つけ世を害するような方向に適用することについては断固反対せざるを得ない。未来を信じ未来に生きようとする青年学徒が純真な気持で健やかに伸びようとするのを、納得もさせずに警告もせずに、ただ一片の規定や条例をタテにとって抑圧しようとするごときは、法を守らしめるゆえんでもなければ、人を生かすゆえんでもない。
翌日の朝日新聞朝刊では、「学生、警官隊と衝突 鴨川河原へ転落 学生十人が負傷」の見出しのもとに、「催涙弾、コン棒の雨 流血、悲鳴の路上、散乱する角帽」など、学生の痛々しい姿を伝え、「血だらけになって抗議するデモ隊の学生」の写真や、「負傷者も助けぬ警官」という学生のコメントを掲載しています。また「市警前事件」に居合わせた本学学生部長の蔦田先生の、警官側がいきなり襲撃してきたという主旨の談話も掲載しています。
その中でも、末川先生の言説はあくまでも学生の側に立って、学生の主張と行動の正当性を擁護しています。学生もそれが分かっているから、事件が起こったときに末川先生に駆け寄って「先生、たいへんだ」と訴え出たのでしょう。
学費値上げ反対闘争を中心とする学内闘争、「反レッドパージ闘争」や「単独講和反対運動」をはじめとする全国的な民主主義擁護闘争の高揚のなかで、立命館における学生運動の態勢は次第に整えられていった。53年には立命館大学にわだつみ像を建立する取組みが、広範な学生・教職員の支持と活動の下で成功する(第三章第二節二)。その過程で起こった「荒神橋事件」や「市警前事件」などの弾圧事件、あるいはその翌年12月8日の第1回「全京都戦没学徒追悼不戦の集い」における警察によるスパイ事件などは、民主主義を守ろうとする学生運動の結束をいっそう固めさせた。
と記しています(※5)。
不戦の誓い
わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、何の憎しみもたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。一九五三年十二月八日
平和であるべき学生生活でさえも常に死と隣り合わせにあった時代の記憶が生々しいころは、わだつみ像から発せられる戦没学生の無念と嘆きを、多くの学生が自分に関係することとして感じとることができたはずです。しかし、いまの多くの学生にとっては、戦争の記憶は遠い過去のものとなり、戦争の悲劇は遠い世界のものとなって、それらを身近なものとして理解することが難しくなっているのではないかとも思います。わだつみ像を見て、それが、南海の孤島に、大陸の荒野に、空しくさらされた屍の悲しみのかたみであることを、もういちど考える。せめて11月8日だけでもそんな1日にしたいものです。
※1 『立命館百年史 通史二』第三章 「大学紛争」と立命館学園の課題, 第二節 立命館における「大学紛争」とその克服, 二 「わだつみ像」の破壊と再建, pp.953-954
※2 1958年8月22日に立命館大学で開かれた歴史教育協議会全国大会における、あいさつを兼ねた講演の速記。『末川博随想全集 第6集』に「教育と政治」という題で掲載されたものから、要約しながら引用。
※3 『中央公論』1954年1月. 『末川博随想全集 第6集』に「大学と警察と学生」という題で転載されたものから、要約しながら引用。[ ]内は筆者補記。
※4 京都地判昭和33年2月12日下級裁判所民事裁判例集9巻2号192頁、判例時報153号28頁、判例タイムズ80号110頁
※5 『立命館百年史 通史二』第一章 戦後の再出発と「立命館民主主義」への模索, 第三節 戦後学園体制の基盤形成, 五 学生自治活動・課外活動の展開, p.345
※6 『立命館百年史 通史二』第三章 「大学紛争」と立命館学園の課題, 第二節 立命館における「大学紛争」とその克服, 二 「わだつみ像」の破壊と再建, pp.955-956
※ この像の台座には「わだつみ像」と記されていますが、一般的に「わだつみの像」という名称も広く使われています。