立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2023.03.16

<学園史資料から> 揮毫「世界元来大 山川終不老」が意味するところ

末川博「世界元来大~」1

 2022年8月22日の史資料センターホームページの記事「<懐かしの立命館>寄贈された末川名誉総長の扁額」で、本学の名誉総長である末川博が総長だったときに揮毫し、本学自動車部にフォード社製の自動車を贈ってくださった大鳥居満也氏に、その御礼として贈られた横額が、大鳥居氏のご親族から本学に寄贈されたことについてご紹介いたしました。貴重な横額を寄贈いただいた経緯については、前記事でご紹介しておりますが、本稿では、揮毫された「世界元来大山川終不老」が意味するところについてご紹介します。

 結論から申し上げますと、はっきりとは分かりませんでした。

 末川の残した文章の中で、「世界元来大山川終不老」が意味するところにもっとも近いと思われる文章は以下のものです(※1)。

 私は、この京都の秋が好きである。澄みきった空をあおいで、「世界は元来大なり」と思い、「山川ついに老いず」と口ずさんで心なごむのも、この京都の秋である。若いころに読んだ「空ゆく雲をながめよ、千変万化、地上のいかなる景観にもまさる」という意味の英詩を思い出しながら、空をながめるのが、私の日課のようになっている。

 英詩の出典については不明ですが、太古の昔から変わらない、雄大でかつ清澄な景色を称える気持ちを込めているのではないかと思われます。

 また、インターネット上に、本学ワンダーフォーゲル会の1981年の機関誌と思われる「漂雲」という冊子がアップされており(※2)、その巻頭に、末川の言葉として、

雲のさすらいに.あてどはないけれど.山にも川にも. 道があるように.
われらのさすらいには. 遠くてとうとい道がある.
山川終不老世界元来大

と記述されています。こちらも雄大な景色を称えているようですが、その雄大な自然の中を力強く歩む人間の尊さも感じさせます。

 最初に引用した文章で、「世界は元来大なり」「山川ついに老いず」と読み下している通り、この十文字の文章は、意味としては「世界元来大」と「山川終不老」の間で切れます。そして、どうやら前段と後段はまったく出典が異なるようです。

 さて、横額を寄贈いただく際に寄贈者からお聞きしたところでは、これが贈られたのは1956年以降だろうということでした。その後、1962年に末川によって書かれた次の文章が残されています(※3)

 物好きな知人や友人から何か一筆書いてくれと頼まれると、ことわることもなく、下手な字を書くことが多い。…こうなると、いつも同じ文句ばかり書いているのも気が引けるし、また自分でも面白くないので、何を書こうかと迷うことがしばしばである。学校を卒業していく学生たちへは若い諸君向けの処世訓めいたものを書いたり、結婚した新家庭へは未来をきずく教訓めいた文句を列べたものを贈ったりしているのだが、頼まれる人の筋によってはそうはいかぬことがある。

 他人のものを拝借するとなると、古今を通じ和漢にわたり、無尽蔵といってよいほどの宝の山がある。…私の知識と教養が貧弱であり、それに字を書く場合の事情に制約されたりこちらの気分に左右されたりして、おのずからそこには大きな限界がある。そういう限界のなかで私が利用させてもらっているのは、だいたい中国の詩人のものであるが、そのなかでも古いところでは陸放翁の詩が多く、新しいところでは魯迅の語が多い。

 放翁の詩に心をひかれたのは、河上肇の遺著『陸放翁鑑賞』を見てからのことである。

 「桃園憶故人」という詩のなかで「残年我に還る従来の我」とうたっている通りに、私が詩歌を解する素質と詩歌を語る資格のないことは、従来の我であって、強弩の始も末もないけれども、私自身は自ら力めてきた積りだからである。しかも、同じ詩中の「世界元来大」という字句は、まことに爽快雄渾で、私は、好んでこれを書いている。

 揮毫の経緯を推量するような資料は何も残っていませんが、引用したこの文章から察するに、あまり自ら進んで揮毫するようなことはなかったのではないかと思われます。自動車部に高級車を贈っていただいた大鳥居氏に何か御礼をしたいと末川が申し出て、「いえいえ御礼なんて結構ですよ」と言う大鳥居氏に、「いえいえ何か心ばかりのものだけでも」と末川が押し、「それなら先生のお好きな言葉を一筆書いていただければ、大切にいたしますよ」と大鳥居氏が答えるというようなやりとりを、末川の残したこの文章から想像するのも一興かもしれません。

 末川が先の文章で言及している河上肇の『陸放翁鑑賞』は、本学図書館の末川文庫に所蔵されていて、利用者が閲覧できるようになっています(※4)。読んでみますと確かに、

桃園憶故人

一弾指頃浮生過  一弾(いちだん)指頃(しけい)に浮生過ぐ。
堕甑元知當破    甑(そう)を堕さば元と當に破るべきを知る。
去去酔吟高臥    去々酔吟高臥。
独唱何須和     独唱何ぞ須ゐむ。
残年還我従来我  残年我に還る従来の我
萬里江湖煙舸    萬里江湖の煙舸(えんか)
脱盡利名韁鏁    脱っし盡(つく)す利名の韁鏁(きやうさ)
世界元来大     世界元来大

一弾指頃:一瞬間と云ふに同じ。
堕甑:甑は土やきの槽。昔し後漢の孟敏、甑を荷して地に堕し、顧みずして去りし時、人その意を問へば、甑既に破る之を視て何の益かあらむ、と答へし故事に本づき、この一句あり。
去々は、去れ去れ、速に去れ、といふ意味。
韁鏁はきづな、束縛。

と記されています。目先の利益に捕らわれがちな人の世の小ささと、そこから離れたところにある「爽快雄渾(※5)」な世界を対比しているように思えます。本学で中国文学を専門にする研究者に照会したところ、これは詩ではなく、唐宋以後に行われた詞という歌謡文芸の作品なのだそうです。

 これで前段は出典がわかったのですが、後段の「山川終不老」は『陸放翁鑑賞』には見当たりません。ただ、衣笠キャンパスの末川記念会館にある末川の座像に「青山白雲深 一湲身廻曲 心事連広宇 山川終不老」と刻まれており、これも末川が好んだ言葉であることが分かります。

 これについても研究者に照会したところ、座像の四句は押韻されておらず一首の詩ではないとのこと。すべての出典を明らかにはできないものの、「山川終不老」を始めそれぞれ古今の詩人が詠んだものからお気に入りの句を列べたものでしょう、とのことでした(※6)。

 末川がどうしてこの言葉を選んで揮毫したのかについて、確実なことはやはり分かりませんが、本学の学生のために高価な私財を投じていただいた寛大なお気持ちに対して、これを雄大で清澄な自然になぞらえることで、感謝と称賛の気持を表したのではないかと考えられます。

2023年3月16日 立命館 史資料センターオフィス 山田和幸

※1 『末川博随想全集 第八巻 京洛閑話』(栗田出版会, 1972年2月. 立命館大学図書館 所蔵, 立命館史資料センター 所蔵)p.491~「京の四季:京都の空と瓦と土」より引用。初出は、1969年9月27日『京都新聞』

※2 http://ruwv-ob.cute.coocan.jp/index.files/user_img/kumo1981.pdf 2023.2.27アクセス

※3 『末川博随想全集 第七巻 若い諸君へ』(栗田出版会, 1972年5月. 立命館大学図書館 所蔵, 立命館史資料センター 所蔵)p.32~「放翁の詩と私」より引用。初出は、1962年7月『中国詩人選集』二集「陸游」付録

※4 河上肇 著. 『陸放翁鑑賞』(三一書房, 1949年. 上下巻. 立命館大学図書館 所蔵)

※5 雄渾 : 雄大で勢いのよいこと。書画の筆勢や詩文などが力強くよどみのないこと。また、そのさま。

"ゆう‐こん【雄渾】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-03-01)

※6 「青山白雲深」は元の李繼本『一山文集』卷一「松下鼓琴圖」詩の末に「我欲往聽之、青山白雲深」とあること、「山川終不老」については、最近の臺灣の詩人がこれをつかっていることが、ネットにみられることなどを教示いただいた。

2023.02.17

立命館のモニュメントを巡る(第6回) 佐々木惣一先生の胸像

佐々木惣一胸像1
【佐々木惣一先生胸像】
 胸像は高さ一尺、台座前面に「頌徳」、背面に「贈 佐々木惣一先生 昭和十一年四月、立命館大学学生一同」 揮毫は天龍寺管長関精拙師

 今回は、昭和13(1938)年の卒業アルバムに残された、佐々木惣一学長(名誉学長)の胸像の紹介です。残念ながら、現在はその実物の所在が不明ですが、アルバムによってその胸像がよみがえります。
 佐々木惣一(注1)は、昭和8年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の先生方とともに立命館大学に招聘されます。12月12日には法律学科部長に、そして翌9年3月9日に立命館大学の学長に就任しました。
 学長の任期の間、大学の教学はもちろんですが、昭和10年には創立35周年記念事業にも取り組みました。
 学長の任期は3年でしたが、昭和11年3月に1年の任期を残し辞職しています。当時の天皇機関説問題などを巡る、国の動向と社会の状況によるのでは、と言われています。
 立命館は佐々木学長の功績を深謝し、名誉学長としています。
 『立命館学誌』192号(昭和11年9月15日)と193号(昭和11年10月15日)に名誉学長佐々木博士の胸像贈呈の記事があります。
 この胸像は法経学部の学生の拠金により制作されました。贈呈式が10月2日に広小路学舎の国清殿で行われました。夜には学生幹事会主催で佐々木学長を囲む座談会が開催されています。
 贈呈式翌日の京都日出新聞も「教え子が築いた佐々木博士の彫像完成 立命館国清殿で贈呈式」と記事を掲載しました。
 昭和13年の卒業アルバムに胸像が掲載されたのは、11年の学生の卒業年にあたったからでしょう。
佐々木総一胸像2

佐々木惣一胸像3
【写真:胸像の贈呈式と謝恩座談会―昭和13年卒業アルバムより―】

 末尾に佐々木学長のエピソードに触れたいと思います。
佐々木博士還暦記念祝賀会編『佐々木博士還暦祝賀記念』(昭和13年10月)の「祝賀会々録」に掲載されている、吉川大二郎氏(注2)の祝賀会での佐々木への挨拶です。ちょっと長くなりますが引用します。
 「現在の教育制度におきまして、学生生活に、試験制度が附きものであります。そして、又変なことを言ふやうでありますが、試験制度には遺憾ながら不正行為が附きものであります。この不正行為を、佐々木先生の学問に対する熱情とその徳育とが、一時的ではあったとしても、之を阻止し得たといふ事実をここに御披露に及びたいと思ひます。……それは恰度、先生が立命館大学をお辞めになる直前の一昨々年の三月、同大学の廿二号の大教室で試験が開始されて居った際でありますが、その試験の酣なるときに当りまして先生が突如として、その温容を現はされました。……学長自から試験場に現はれるといふことは私の短い学生生活におきましては、まづ経験しなかったことであります。……それまでの間は可成り雑音がありまして、我々試験官共は閉口して居ったのでありますが、先生が突如としてお見えになると共に、学生は静粛になり而も感激の心が我々にもひしひしと感ぜられたのであります。……その後に、或る学生が私の許に来て、「学生中の不良分子は不正行為をやらうと着々と準備を整へて居ったところへ、佐々木先生の温顔を拝しびっくりして、その悪い意図を抛棄した、従って成績は非常に不良であった、併しこの不良であったということは尊い不良であった」と。……
 このエピソードには、学生が自ら拠金をして胸像を贈呈したことにつながる、教育者としての先生に対する学生の信頼と感謝が覗えるのではないかと思います。

(注1)佐々木惣一〔1878(明治11)年~1965(昭和40)年〕
 戦前の立憲主義憲法学を代表する憲法学者。1933(昭和8)年、京都帝国大学で京大事件(瀧川事件)が発生。瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものであったが、教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い免官となった。この事件により佐々木惣一教授はじめ18人を立命館に招聘した。立命館では、既に1907(明治40)年から講師をしていたが、1934(昭和9)年3月から2年間学長を務めた。学長辞任後名誉学長となった。
 戦後憲法改正にあたり憲法改正案(佐々木試案)を起草、1952年には文化勲章を受章、また京都市名誉市民となった。

(注2)吉川大二郎〔1901(明治34)年~1978(昭和53)年〕
 民事訴訟法を専門とする法学者。1935(昭和10)年に立命館大学教授に就任。
 1966(昭和41)年定年退職、名誉教授。この間、評議員・理事を務める。戦前裁判所判事を務め、弁護士となっている。1959年には日本弁護士連合会会長。

 ≪参考≫
(1) 立命館 史資料センターHP「昭和9年前後の立命館大学-佐々木惣一学長の時代―2022年6月
(2) 立命館 史資料センターHP「立命館のモニュメントを巡る(第3回)佐々木惣一書「平和塔」 2021年9月


2023年2月17日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.02.10

<懐かしの立命館>立命館中学校・高等学校初の女子生徒たち~立命館神山中学校~

1)はじめに
 立命館中学校・高等学校は、1988(昭和63)年4月に北大路学舎(現在、立命館小学校所在地。京都市北区)で男女共学が始められ、その年の8月に深草キャンパス(京都市伏見区)へと移転しました。1922(大正11)年8月に広小路学舎から北大路学舎へ移転して以来、戦前には昼夜で約3000名を超える生徒が通う学校へと発展していました。戦後は、あまりにも狭隘な学舎のため男女共学は不可能と考えられていたのが、深草への学舎移転に先立って共学化へ踏み出したということでした。
 1988年に入学した1年生女子生徒は、中学校が66名(男子は3学年で519名)、高等学校が67名(男子は3学年で847名)でした。その後、女子生徒の在籍者数は増え、中学校は2012(平成24)年に、高校も翌2013(平成25)年に女子数が男子数を上回り、現在も女子数が半数を超える共学校となっています【注1】。
 そして、2014(平成26)年9月、現在の京都府長岡京市へ再び移転したのでした。今では35年前まで男子校であったことをご存じない方も増えてきています。
 このようなことから、1988年入学の中高合わせて133名の女子生徒たちが、中高初の女子生徒たちと思われがちですが、実はそれより以前に女子生徒たちが在学していたのでした。

2)立命館神山中学校の女子生徒たち
 その初の女子生徒が誕生したのは立命館神山(こうやま)中学校でした。戦後の学制改革で6・3制の義務教育として開設されることになった京都市立中学校は、1947(昭和22)年4月開校への設立準備が間に合わず、全市での開校を5月に遅らせています。それでも学校数が不足していたため、私学が市からの委託を受けて中学生を受け入れることになりました。京都には戦前からの中等学校や実業学校が多数あり【注2】、戦後も学校経営を継続しようと計画していましたが、新設公立学校への憧れや私学に通わすための費用の問題などで思うように生徒が集まらず、廃校となったり委託制を採用する私学の中学校がいくつかありました。立命館神山中学校は、他のどの私学よりも早く委託を受け入れていたのでした【注3】。

中高初の女子生徒1
1951年卒業アルバムのクラス写真/写真1

 神山学舎には戦前からの旧制立命館第二中学校(男子校)が、予科練や軍隊から帰ってきた生徒たちも加えて存在していました(最後の生徒は1949年3月卒業)。そこに新制の立命館神山中学校が、京都市からの委託契約によって地域の男女子供たちを受け入れて発足しました。委託であったため、家庭が負担する費用はすべて市立と同じ額が徴収され、不足分は公から補助を受けての出発でした。
 翌1948(昭和23)年には、私学の男子校として立命館神山高等学校が開校されました。神山学舎は、男子高校生と男女共学中学生がともに通い学ぶ学校だったのです。

中高初の女子生徒2
立命館神山学舎の全景/写真2

中高初の女子生徒3
立命館神山中学校高等学校の門標/写真3
 (立命館神山高等学校槙野廣造教諭の揮毫による。学校別で異字体で書かれている。)

 当時の立命館神山中学校の様子を野崎龍吉教諭は次のように回顧しています。
「(昭和18年当時)この8,000坪の地は翠(すい)緑(りょく) したたる赤松の山を背にして、空気清澄、春から夏にかけては松蝉が鳴きしきり、叢(くさむら)から雉(きじ)や鶉(うずら)が飛び立ち、校庭には牝鹿が迷い込むこともある。今から考えると仙境ともいうべき閑静の地であった。校庭には、春は土筆(つくし)秋には初茸が頭を擡(もた)げ、井戸水を汲み上げる風車がゆるゆると回っていた。」
 また、「中学生の主体は旧愛宕郡の八瀬・岩倉・静市野・鞍馬の四か村の組合から委託された生徒たちで、男女共学のはなやいだ気分が漂うこととなった。とはいうものの、当初何年かは男女共に、モンペ穿き、藁草履のいでたちも多かった。家庭・体育と音楽に女の先生が来任、ミシンが動き、混声合唱が校内に流れた(以下略)。」とも書いています。【注4】

中高初の女子生徒4
1950年文化祭中学校演劇部/写真4

 学校に隣接して設けられた上賀茂ゴルフ場の入口前には京都バスの停留所がありましたが、朝夕を除けば1時間に1本のダイヤのため生徒たちは利用しておらず、通学は自転車を利用するか、市バス上賀茂御園橋から25分、京福鞍馬電車(現叡山電鉄)二軒茶屋駅からならば20分を徒歩で通っていました。学校までの途中には一軒の家もなく、トラックが行き交う未舗装の鞍馬街道には砂埃や泥水が飛び交い、街灯もほとんど無いような通学路ではありましたが、生徒たちは楽しく語らいながら通っていたのかもしれません。

中高初の女子生徒7
立命館神山中学校通学区域図
(京都市立洛北中学校開校式配布資料から作成)


 校舎の隣には、後に北区の区長にもなった飯田五男(はんだいつお)校長一家の住居があり、その傍には掘り抜き井戸がありました。私設水道でここからポンプでくみ上げられた水が、学校の生活用水でした。
 中学校ではこのような学校生活が送られたので、立命館神山という校名ながらも、地域の神山中学校と呼ばれる長閑な学校だったのでした。教員たちも地域の期待に応えるべく熱心に教育に取り組もうとしました。そのため、1947(昭和22)年の開設から地元小学校からの入学生は、女子も含めて順当以上に増加していきました。委託契約期限が切れて廃校となる1952(昭和27)年3月までの卒業生数の推移は以下のとおりです。
 1948年第1期卒業生 75名(1)
 1949年第2期卒業生225名(5)
 1950年第3期卒業生123名(43) 
 1951年第4期卒業生100名(39)【写真1,4】
 1952年第5期卒業生122名(44)【写真5,6】

( )内は女子生徒数。

中高初の女子生徒5
1952年卒業アルバム 中3女子全員/写真5

中高初の女子生徒6
1952年卒業アルバムのクラス写真/写真6

 驚かされるのは、第1期卒業生の女子が1名しかいなかったのが、二年後には女子が学年の3分の1を超えるまでに増えていったことです。立命館神山高等学校が男子だけの変則制度ながらも、教員たちの努力によって中学校の生徒たちはのびのびとした学校生活を送っていったことだと想像されます。
 委託契約期限が切れたことと学園の方針によって、1952(昭和27)年3月で立命館神山中学校高等学校は廃校となりましたが、校舎はそのまま京都市が借用するかたちで市立中学校が創設されたので、残された1,2年生は、公立中学校となった同じ校舎へと通うことになりました【注5】。立命館神山高等学校は男子校である立命館高等学校に統合されたため、立命館神山中学校を卒業した女子生徒たちが、その後にどのような道を歩んでいったかはわかりませんが、彼女たちの氏名は今も同窓会である立命館清和会の一員として名簿に記載されています。今では80歳も半ばとなったおばあちゃんが、ひ孫たちに楽しかった中学時代の思い出を語られているかもしれません。

2023年2月10日 調査研究員 西田俊博
 

注1;2022(令和4)年度の立命館中学校高等学校の在籍生徒数は、中学校735名(内女子384名)、高等学校1082名(内女子582名)。

注2;1948(昭和23)年度の京都府内には私学の中学校は24校存在した(元立命館中学校高等学校校長上田勝彦資料による)
大谷・京都学園・同志社・東山・平安・東寺夜間(現洛南)・立命館・立命館神山・京都・烏丸・家政(現京都文教)・華頂・京都女子・精華・光華・成安‘(現京都産業大学附属)・手芸(橘)・平安女学院・洛陽女子・両洋・淑徳女子・臨済学院・大谷実務女・聖峰

注3;昭和22年度京都の私立中学校出願者状況についての記事
 「京都の私立中等学校のほとんどは三月十日から一斉に新制中学一年生の募集を開始したが、一人の志願者もないというのが数校あり、私立志願者数はすこぶる低調で、中学の将来に暗いかげを投げかけている。(中略)なお、臨済学院中、大谷中、大谷実務女などは初制中学としての募集を停止し、立命二中は最初から委託制を採用している」(京都新聞 昭和22年3月12日付)

注4;野崎龍吉「神山学舎の思い出」(立命館学園広報第21号 1972年5月発刊)
注5; 1952(昭和27)年4月に校名は京都市立本山中学校となり、同年11月には京都市立洛北中学校と改称され、1957(昭和32)6月に学校は左京区岩倉に新築移転した。立命館に戻された校地と校舎は、改修されて1960(昭和35)年に立命館上賀茂グランド(合宿所併設)となった。

最新の投稿

RSS