立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2023.04.26

<懐かしの立命館>北大路学舎(立命館中学校・高等学校)初の女子生徒たち ~立命館夜間高等学校~ 戦後京都の夜間定時制高校の歴史とともに

1) はじめに
 1905(明治38)年9月に清和普通学校が大学と同じ広小路学舎内に誕生し、1923(大正12)年には北大路学舎(現、立命館小学校所在地)へと移転しました。その後の発展によって、狭隘な校地に年間で最多3,300名以上もの男子生徒を抱える旧制の中学校として、学園の付属校は男子校としての長い歴史をもっています。
 戦後も同じ校地に新制の中学校高等学校として展開し続けてきましたが、1988(昭和63)年に中高の男女共学と広大なキャンパス(京都市伏見区深草)への移転という大改革を実現したのでした。付属校の男女共学はこの時に始まったと考えられがちですが、それまでにも付属校で女子生徒を受け入れたことがあります。以前にこのサイトで、京都市からの委託という特殊事情で女子生徒を受け入れた立命館神山中学校の歴史を紹介しましたが【注1】、今回は北大路学舎で女子生徒を受け入れた歴史について紹介します。
 その初めての女子生徒誕生を紹介する資料が、1950(昭和25)年10月発行の立命館高等学校新聞局の立命館タイムスです【写真1】。
北大路学舎初の女子生徒1
【写真1】「立命館タイムス」第15号 1950年10月13日発行

 この記事によれば、1950年9月、立命館夜間高等学校(以下、立命館夜間高校)の補欠募集の試験に女子3名が合格し、入学を許可されたと記されています。記事中、「女人禁制」の伝統を破って男女共学実施や「勇カン」「芳キ」という表現には、生徒記者たちの興味津々の心情がよく表れています(実際には、4月入学が10代と20代の2名。10月編入が20代の1名)。
 北大路学舎の歴史で初めての女子生徒たちはどのように入学し、学校生活を送っていたのかを、当時の社会的背景とともに調査してみました。

2) 立命館夜間高校の誕生
 付属の夜間学校は、京都私学の中で最も古く、1937(昭和12)年の立命館夜間中学と商業学校夜間部から始まります。当時、創立者中川小十郎から両校設置の命を受け奔走したのが城内辰尾【写真2】で、城内は後に立命館夜間高校校長に就任しています。

北大路学舎初の女子生徒2
写真2】 城内辰尾立命館夜間高校学校長
(1951年度 夜間高等学校卒業記念写真集より)

 立命館での夜間における中等学校は、第四中学校や工業学校夜間部などと校名や教育内容を変えながら展開し、1950(昭和25)年3月に最後の生徒へ卒業証書を贈って戦前からの旧制中学校としての歴史に幕を下ろしました。
 戦後、新制の高等学校としてこの夜間学校のタスキを繋いだのが、1948(昭和23)年4月に開校した立命館夜間高校でした。この高校の特色を当時の副校長であった松井美知雄は次のように語っています。

校長城内辰尾先生の訓育方針である「紳士たれ」を教育方針として現在まで生徒の訓育指導に当たってきたのでありますが、特に本校は創立以来校長を中心として教師、生徒を打って一丸とした一大家族的学園であり、(中略)先生方は全部夜間専任であった事等は、府下幾多の公立定時制高校に比べてその比を見ないのであります。これはわが校の特色として大いに誇るべき点でありましょう。(中略)15歳位の年齢の者もあれば、先生よりも年上の40歳にも達しているという妻子ある紳士等もあり、年令の枠を外した文字通りの家族的雰囲気の中で授業を受けているのは特に本校の目立つ特色の一つでもありましょう【注2】。

設置の目的は「主として晝間實務に從事する勤勞青年に對して夜間を利用して日本國憲法の精神に則り(中略)、一般的な教養を高め、個性の確立に努めると共に文化の創造と發展に貢献する」とされています【注3】。教員がすべて専任制という恵まれた夜間独立制を採用したことによって定時制ではなく夜間高校として出発し、教育を展開しました。そして、学則の第二条には「本校は日本國憲法の精神に則り主として晝間實務に從事する男子に對して(中略)高等普通教育を行うことを目的とする」として、民主主義教育を進める勤労男子のための学校であることを明確に謳っています。新制の立命館中学校と立命館高等学校の学則には「男子」という文字は記されていません。同年では私学で明徳(女子高で商業科と宗教家科)、同志社商業(男女共学)の2校が設立されています。立命館夜間高校は京都府の公私立夜間・定時制高校で唯一の男子夜間高校として設立されたのでした。

3) 夜間・定時制高校誕生と社会状況
 新たな学制により義務教育の公立中学校が誕生し、男女の中学校進学率は一気に増加しましたが、その生徒たちが卒業すると、次には高校進学や就職問題が発生してきます。 
 その対策として、1948年8月には京都府下の公立定時制高校が本校19校、分校34校、京都市内10校設立されました【注4】。これは全日制高校に入学できなかった一部生徒が入ってきたことなどもありますが、「経済的な理由によって昼間働き夜学ぶ生徒が男女で激増したことによるものと見られ、府教委ではできるだけ多くを収容したい意向である」とされていました【注5】。
 就職問題も深刻でした。1949(昭和24)年4月時点で京都府下の中学卒業生は20,272名で求職希望者4,439名(男子2,402名、女子2,037名)に対して就職者2,102名(男子868名、女子1,234名)【注6】という状況でした。特に、戦後に女性の社会進出が高まってきたにも関わらず就職は厳しく、夜間・定時制高校はこうした女子が、在学中に就職する可能性を残して就学できる受け皿として不可欠の役割を果たしたのでした。
 その上に、公立定時制高校の授業料は年額480円で、私学に比べて低額(1948年7月、立命館夜間高校では月額を50円値上げして200円)であったため、1950(昭和25)年4月、京都市内の公立定時制高校の入学志願者は、市内10校へ約2,200人(定員1,800人)が押し寄せるという状況でした【注7】。
 このように公立定時制高校が大人気であった状況に対して、当時の京都市高教組は「大きな年齢差があっても熱心な勤労青年が集まる定時制高校でありながら、バラエティに富む教育運営などが見当たらず画一的で、夜間教育の目的と意義を忘却した言説をなすものが多い」という内容で意見書を提出し、定時制高校の在り方に危険を訴えていました【注8】。
 
4) 中退学者問題
 戦後インフレは異常な物価上昇を続けて国民生活を困窮させていたため、全日制高校への進学者は、家計のひっ迫から授業料滞納などで中途退学する生徒が目立ち、定時制高校へと転校する生徒が増えました。このような状況であったため、公立校が授業料減免、私立校では奨学制度などの強化(立命館高校では1952年度に初めて奨学生制度を導入し、一人年間1万円で25万円の予算を計上)をはかるなどの対策を講じましたが、とても追いつけないというのが実状でした。1948年4月から1950年3月まで2年間での中退学者は立命館高校125名のうち家事の都合、授業料未納、立命館夜間転校への転校を理由とする者が全体の約60%にあたる67名。
 立命館夜間高校723名のうち家事の都合と授業料未納を理由とする者が全体の約80%にあたる572名。
 また、立命館夜間高校の学費だけをみても、1948年4月に月額150円であったものが8月には200円、10月には220円、1949年4月には500円へと値上げ。私学全体で学校経営は大変厳しい状況にありました。

5) 立命館夜間高校での学校生活
 立命館夜間高校の学則によれば、4年制で定員640名(1学年160名)の学校規模で開校されましたが、生徒数は大幅に定員超過になっています【表】。これは既述したように中学卒業生の増加に対して、公・私立の高校が積極的な生徒の受け入れをしなければいけない社会的要請があったからでした。立命館夜間高校1年の入学試験は面接のみで、定員を超過した場合に限って試験を行う方式をとっていて(2年以上の学年は、学科試験が国語、数学、理科、英語、社会で他に人物考査を実施)。立命館夜間高校へ進学を希望する生徒にとって入学は広き門でしたが、学校生活を維持することは厳しかったのでした。

北大路学舎初の女子生徒3
【表 夜間高校の生徒数変化】
(生徒数と卒業生数「立命館百年史 資料編三 統計」よる)
(中退学数は、立命館中高所蔵「中退学者記録簿」による)
(新入生募集人数は、当時の新聞広告記事による)

 授業は、午後5時から午後9時までの4時間授業で行われました。始業に間に合うためには、勤務を終えて着替える間もなく職場を出て、夕食もとらずに登校するという生徒も多く、服装は作業着や背広姿などまちまちでした。授業が終わってから帰宅して夕食などをとる生徒もいて、健康を害する生徒もいたようです。学則の生徒心得には「本校生徒は常に自主自立の精神を養うと共に、相協力して明朗闊達な校風の樹立につとめ、心身ともに健全なる国民としての資質を作るように心掛けなければならない」とされていました。立命館夜間高校は、男子校として勤労と勉学との両立のために体力と健康維持が強く求められる学校でもありました。

北大路学舎初の女子生徒4
【写真3】 夜間高校北校舎と東校舎

6) 初の女子生徒の入学と卒業
 3)で紹介したように市高教組が要望書を提出して公立定時制高校の危機を訴えるなか、立命館夜間高校では男子校としてスタートした3年目に1950年度に向け初めて女子生徒募集を発表しています【注9】。その結果、1年生男女300名の募集に対して2名が4月入学、3年生1名(2年生以上は男女若干名の募集)が10月編入学しています。この3名を紹介したのが、最初に紹介した学校新聞記事でした【写真1】。1950年度の女子3名は以下のとおりです。
Aさん(1933年生まれ)は、府立定時制高校を1年生で中退した後、1年生で入学して翌年3月に中退。
Bさん(1923年生まれ)は、1年生で入学したが、翌年9月2年生で中退。
Cさん(1926年生まれ)は、高等女学校を卒業後、1950年10月に3年生に編入し、翌年3月卒業。公務員技術職として勤務。

 翌1951(昭和26)年度に向けては、1952年度から校名を夜間高校から定時制高校に変更することと併せて、再び1年生男女300名(2年生以上は男女若干名)募集を発表しています。その結果、6名の女子生徒が入学・編入学しています。
Dさん(1930年生まれ)は、1年生で入学したが、同年11月に中退。
Eさん(1934年生まれ)は、高等女学校を卒業後、1951年9月2年生に編入、翌年3月に中退。公立定時制高校へ転校。
Fさん(生年月日未記載)は、4年生で編入したが9月に除籍。
Gさん(1935年生まれ)は、公立全日制高校1年で中退し、11月に編入、翌年2月に除籍。
Hさん(1932年生まれ)は、高等女学校卒業後、4月4年生に編入、翌年3月卒業。在学時代からの会社勤務。
Iさん(1928年生まれ)は、高等女学院卒業後、9月4年生に編入、翌年3月卒業。公認会計士として勤務。

 1950年から51年の2年間に北大路学舎で在学した女子生徒は9名でしたが、卒業したのはこのうちの3名でした。女子生徒は少なかったうえに大部分が中退や除籍となりましたが、最終的に初めて卒業したのは1952年3月に卒業した3名(この年度の卒業生は230名。うち大正生まれは16名)でした。この学年を記録する写真は見開き2ページの卒業記念クラス写真集が1部母校に残されているだけです。

北大路学舎初の女子生徒5
【写真4】 1952年3月卒業 1組クラス写真 (当時の制服は自由服)

7) 施設状況
 北大路学舎は1937(昭和12)年から翌年にかけて完成された鉄筋3階建てのものでしたが、戦後になっても改修はされないままに経過していました。そのため、窓の開閉も不具合なものが多くあり、教室の窓は割れても予算不足から入れ替えもままならない状況でした。
 トイレは1階だけにしか設けられていなかったため「2階以上の教室の生徒は、屋上で用便を済ます風習が新築当時から継続していると伝えられている」【注10】という報告もある状態でした。
 1951年の校舎図では、トイレは1階にしか示されておらず、この頃の女子生徒たちは男子と共用でトイレを使用しなければならない状況だったのです。後に2階以上に男女別のトイレが設置され、水洗化工事が完了したのは1963(昭和38)年のことでした。

8) 中高男子校と夜間共学校
 今まで述べてきたように、北大路学舎では夜間高校だけが男女共学を実施し、昼間の中学高校は男子校という変則的な学校として教育を進めてきました。男女共学を実施するためには、現存する校舎校地に限界があったわけですが、この点について、学園の末川博総長は、次のように述べています。
 

わが立命館高校では古くからの伝統もありまた施設の関係などもあって、男女共学とはなっていない。だが、男女共学には一長一短があって、立命館高校のあり方が必ずしもまちがっているとは考えられない。(後略)【写真5】

当時の末川総長自身は男女共学の実施には積極的でなかったことがわかります。

北大路学舎初の女子生徒6
【写真5】 「立命館タイムス 第108号」1968年5月14日

 立命館夜間高校は、経営事情から1952(昭和27)年4月に高等学校の授業課程を昼夜二部制の高等学校定時制に変更しました。それ以降の立命館高校定時制では女子生徒も増え、定時制の全国弁論大会で女子が優勝し、女子の生徒会長が誕生するなどの活躍があり、私学の定時制としては大きな発展を遂げたのでしたが、全国的な定時制生徒減少の波は厳しく、1968(昭和43)年3月、立命館高校定時制はついにその灯を消すことになったのでした。
 それから20年後の1988(昭和63)年、キャンパス大移転と男女共学を実現しました。現在では、女子の人数が半数を超える男女共学校として京都府長岡京市で教育を発展し続けていますが、女子生徒の開拓者ともなった夜間高校の大先輩たちの歴史をご紹介しました。

2023年4月26日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

【注1】<懐かしの立命館>立命館中学校・高等学校初の女子生徒たち~立命館神山中学校~https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=282
【注2】立命館創立五十年史 p.786
【注3】立命館夜間高等学校設置認可申請書(昭和23年3月31日京都府知事提出)
設置の目的
【注4】京都新聞1948年6月3日付朝刊
【注5】京都新聞1949年4月22日付朝刊
【注6】京都新聞1949年4月28日付朝刊
【注7】京都新聞1950(昭和25)年4月7日付朝刊
【注8】京都新聞1950(昭和25)年5月28日付朝刊
【注9】京都新聞1951(昭和26)年2月5日付朝刊
         募集人員 第一学年 男女約300名
              第二、三、四学年 男女若干名
         願書受付締切  推薦 三月三十一日  一般 四月十七日
【注10】北大路高中校の現状と課題に関する資料(1955年発行)

2023.04.11

立命館のモニュメントを巡る(第7回) 織田萬の寿像

織田萬先生の寿像1

 京都大学キャンパスに織田萬先生(以下、織田萬)の寿像があります。
この寿像は、「昭和12年に織田博士の古稀を祝しその功徳を伝えるため、京都帝国大学の門人等が大学構内に建立した」(注1)ものです。
 織田萬は、立命館大学とも極めて深い関係をもっていました。
 今回は、織田萬の寿像を通して「織田萬と立命館」について紹介します。

1.織田萬と立命館の関係の始まり
 そもそも織田萬と立命館の関係は、西園寺公望文部大臣に始まります。
 明治28年の秋、外国留学を考えていた織田萬は留学生に選定されたいと大森不入斗(いりやまず)の西園寺公望邸に本野一郎博士(注2)とともに訪問します。織田萬は設立を予定していた京都帝国大学の教官を希望しており、そのために外国留学が必要だったのです。
 西園寺は、織田萬の訪問の前に本野一郎博士の話から織田を留学させようとしていたといいます。(注3)
 織田萬は3年間のフランス・ドイツ留学を終え、明治32年に開設された京都帝国大学法科大学の教授となります。
 京都帝国大学が設立されたのは、明治30年ですが、その最初の書記官(初代事務局長)は中川小十郎でした。織田萬と中川は帝国大学の同期生でした。中川小十郎は、明治33年に立命館大学の前身である私立京都法政学校を創立しますが、織田萬はその当初から京都法政学校の教育や運営に携わりました。

2.織田萬の立命館での経歴
 織田萬は、講師となり講義をしました。夜間の校内生の講義は講述でしたが、明治35年からは校外生制度も始まり、校内生の講義を校外生用の講義録として作成し、『法学通論』と『行政法講義』を発行しています。
 大正2年の財団法人立命館設立にあたっては協議員となり、また翌年4月から昭和2年8月まで教頭、昭和6年7月から昭和20年5月に逝去するまで名誉総長、昭和11年3月から昭和15年4月までは学長事務取扱となっています。織田萬は佐々木惣一学長の辞任に伴い学長事務取扱となったのですが、学長とならなかったのは、住所が東京にあって、大学の所在地に住所がなかったためとなっています。また学長事務取扱の辞任は、田中昌太郎が学長に就任したことによるものです。
 このように織田萬は、終生立命館で教学を担いまた役職を続けました。学園の経営の責任者は中川小十郎でしたが、織田萬は学園の教学の運営に関して最も力を尽くしたと言えると思います。

3.織田萬の国内外の経歴
 織田萬は、慶応4(1868)年、佐賀県生まれ。明治25年に帝国大学を卒業し、大学院で行政法を専攻しました。そしてフランス・ドイツに留学し帰国。明治32年9月、京都帝国大学法科大学の設置とともに教授となり、行政法講座を担当しました。明治34年1月から明治40年5月まで法科大学長に就任します。
 関西大学(関西法律学校)では、明治33年に講師となり、41年に教頭、大正6年から11年まで学長を務め、以後顧問となっています。
 大正10年には常設国際司法裁判所裁判官に当選、昭和5年までハーグに赴任しました。昭和6年、帰国後京都帝国大学を退官しています。そして貴族院議員に勅選され、終身在任しました。昭和20年5月東京大空襲により戦没しています。

4.織田萬の立命館に対する思い
 織田萬は、著書『法と人』の「嗚呼陶庵公」で次のように語っています。(注4)
 「公の人生観、信条は「殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」であった。その公の人生観の表象である立命館は、中川小十郎と私ども二三の僚友と語り合って京都法政学校を創りさらに立命館の名称を継承することを許された。私は微力ながら学校(立命館)の学事上の施設にたづさわり……公の精神を生かしていくのが学園の今後の仕事であると、(中川君と)互いに激励し老後の余力を傾注してこれに当たりたいと思っている。これが公の恩顧に酬ゆる唯一の道であろう」
 また織田萬は、学報(新聞)「立命館」の記事「學生諸君に與ふ」のなかで「立命の文字の典拠は公爵の文中にも見る如く、孟子の中の一節に「殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」とあるのがそれであって、誠に千古不磨の金言であります。……要するに各自がその持って生まれた才能のありたけを磨き上げ、自分の人格を完成することを得れば、それで一個の人間としての務は果たされるのであって、成敗利鈍は顧みるところでないと云ふことであります。」と訴えています。(注5)

(注1) 吉岡達太郎著『須古村片影』1980年
 須古村は織田萬の出身地。現在の佐賀県杵島郡白石町(1955年に編入)
(注2) 本野一郎は西園寺公望が外務大臣を兼任した時の秘書官で、明治・大正期の外交官・政治家。立命館日満高等工科学校などで校長を務めた本野亨の兄。
(注3) 織田萬『法と人』所収「嗚呼陶庵公」 春秋社松柏館 昭和18年
(注4) (注3)に同じ
(注5) 学報(新聞)「立命館」昭和14年7月10日
 なお、「殀壽不貳……」の一文はいくつかの読みと解釈がありますが、ここでは織田萬の考えを紹介しました。
  
【参考資料】
   『立命館法学』第262号「織田萬年譜・著作目録」1998年
   『立命館百年史』通史一 1999年
   『京都帝国大学史』昭和18年
   『関西大学百年史』人物偏 昭和61年

2023年4月11日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.03.23

<学園史資料から>『末川博随想全集』宣伝パンフレット

末川博随想全集パンフレット1

 1970年代に本学に在学されていた校友の方から、『末川博随想全集』の宣伝パンフレットをいただきました。

 表紙には「末川博随想全集 全九巻」「内容見本」「予約募集」とあり、B5判、巻頭1頁、内容11頁、巻末2頁からなる小冊子で、ハガキ大の「予約申込書」が綴り込まれており、『栗田出版会 刊行物ご案内 1972』というA5判4頁のパンフレットが挟み込まれていました。

 内容を拝見すると、当時の知識人による「推薦のことば」が14篇掲載されており、ほかに内容見本など出版物の内容を紹介する記事が掲載されています。

 ところで、文学部のある大学の図書館などでは「同時代評を探している」という相談を受けることがあります。「同時代評」とは、その文学作品の著者と同じ時代背景を共有している人による、その著者や著作の評価です。「同時代評」は、その著者や著作の時代性や進取性を読み取ったり、あるいはその時代そのものを再評価したりといったことに通じる資料です。この宣伝パンフレットはまさに末川博の同時代評ですので、それぞれ短文とはいえ、1970年代初めという時代の中での末川博を研究して行くうえでも、あるいは1970年代初めという時代を研究するうえでも、一級の資料ということがいえます。

 末川博は本学の名誉総長で、『末川博随想全集』は末川博の学問的論文以外の随想を整理、集大成したものです。弊所のほか、本学図書館や国立国会図書館にも所蔵されており、末川博を研究する際の必読書といっても過言ではない資料となっています。しかし、今回いただいた宣伝パンフレットについては、これらの図書館の所蔵図書目録データベースには見当たらず、入手困難な資料であることは間違いありません。

 たいへん貴重な資料をご提供いただき、誠にありがとうございました。

2023年3月23日 山田和幸



『末川博随想全集 全九巻 内容見本』目次

著者の言葉末川博巻頭
推薦のことば
 日本近現代史についての貴重な証言家永三郎1
 ほんとうのジャーナリスト大内兵衛1
 時代のちがいをこえた共通遺産久野収2
 温容の大儒桑原武夫2
 真実を求めてやまぬ人白石凡3
 大衆への影響力住谷悦治3
 一人の自由主義者の軌跡奈良本辰也4
 末川博随想全集野間宏4
 考える人間の心の糧藤田信勝5
 リベラルな末川先生細野武男5
 末川博先生松田道雄6
 七〇年代への指針安田武6
 学問、思想、行動が渾然と統一吉野源三郎7
 末川君の随想全集を若い学徒の伴侶に奨める我妻栄7
全九巻内容8
末川博略年表11
組方見本巻末
刊行者のことば    株式会社栗田出版会 社長 栗田確也巻末

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