(1)第57号 表紙写真「空の護り」 1935(昭和10)年10月
【写真1】照空燈、高射砲、聴音器、警報用サイレンなどを囲んだ生徒と配属将校
禁衛隊第56号には、前年夏に近畿地方で防空演習が実施され、立命館においても校内における防空施設を完備し、大規模な防空演習を実施したと記されています。この訓練を更に重ね、国家有事の際に不覚をとらないための心構えと防空思想の普及徹底をはかる必要があると考え、1935(昭和10)年7月17、18日の二日間にわたり、立命館中学校・商業学校では大規模な防空演習を行いました。この演習には東京警備参謀伊佐中佐が参観し、「東京方面には数々の学校があるが、こんなに立派に訓練され、遺憾なく実施できる学校は極めて稀である」と高く評価していました。
これによって立命館中学、商業の評判は高まり、京都師団管内配属将校の学校教練研究会第二日目(10月11日)、立命館の防空演習が視察されることになりました。
生徒たちが禊から朝拝、体操を行って教室へ戻った午前8時、対空監視哨生徒がマイクで「敵機見ゆ」との飛行機警報を発令して演習が開始。敵機が学校の上空に現れ、雨天体操場へ爆弾を投下し火災発生という想定で生徒全員が校庭に集合。三年生以下は鴨川河畔に避難し、そこで銃による応戦演習が行われました。
学校に残った上級生たちによって、まず兵器の埋蔵並びに重要書類を格納。屋上の高射砲隊や高射機関銃隊が敵機を射撃。これによって敵機を退却させたとして警報が解除されました。
その間、校庭には焼夷弾やガス弾が投下されたとして、防毒マスクを着用した消防班消毒班などによる迅速な活動が行われ、敵飛行機による来襲に備えての灯火管制の訓練も行われたのでした。
その他の防空施設としては、非常時望楼(木造校舎の屋根上)、兵器埋蔵設備、重要書類格納所、防火用砂、消火用ポンプ、非常用バケツ、集団防護設備、灯火管制用電気覆、非常用井戸、防毒衣防毒面若干、劇薬品格納庫等が紹介されていました。
兵器、劇薬や重要書類格納など学校レベルを超越する態勢がとられていたことがうかがえられます。当時は木造校舎でしたが、2年後には鉄筋3階建てで地下道(防空壕兼)も備えた頑強な学舎が建設されていくことになります。
(2)第58号 表紙写真「禊の朝」 1935(昭和10)年11月
【写真2】
中川校長による指示で、生徒たちは毎朝、禁衛隊道場のうちの「西の道場」で冷水摩擦を行うことになりました【写真3】。当初は、風邪予防のための健康対策として始まったものが、心も身体も清めるための修行とされるようになり、禊の後には皇城遥拝を行い、それから一日の授業が開始されたのでした。
【写真3】禊の場面 (史資料センター保存)
禊のために校庭から汲み上げる井戸は、中川校長の命名により「御楯の井」【写真4】と呼ばれ、払拭の水は清泉とされました。その傍には萬葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つ我は」の歌碑【写真5】が建てられました。
【写真4】「御楯の井」石碑(史資料センター保存)
【写真5】「御楯の井」碑裏面の防人の詩(史資料センター保存)
【写真6】『立命館要覧』1934年版に掲載された「御楯の井」
さらに詳しくは、立命館史資料センターHP
「懐かしの立命館」 立命館中学校・商業学校の「御楯の井」をご覧ください。
2026年6月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田 俊博
