(1)第53号 表紙写真「愛宕神社正式参拝(中学四ノ二)」 1935(昭和10)年5月
【写真1】
1935(昭和10)年5月に中学校・商業学校1年生から4年生までの生徒たちが学年毎に合同で愛宕神社へ正式参拝しています。そのため生徒も引率教員も正装(教員は背広や羽織袴、軍服)でカメラにおさまっています。このうち4年生は愛宕神社から亀岡馬路村へ向かい1泊し、翌日午後に帰校という行程でした。
当日は、嵐電北野駅(当時の嵐電は始発駅が北野天満宮前の駅)前に商業学校午前7時半、中学校午前8時に集合し、嵐山駅で電車を乗り換え、清滝駅終点まで。その後はケーブルカーに乗車して頂上駅へ。そこから愛宕神社参道の山道を登りました。生徒の感想文には、5月ながら途中にはまだ桜とつつじが咲いていたと書かれていました。正装で腰に弁当を巻き、水筒をかけただけの姿の生徒たち250名が山頂の本殿を目指したのでした。
この年から4学年までが愛宕神社を正式参拝することになり、最初の山門には「立命館禁衛隊第一回正式参拝」と張り紙がされてあったそうです。愛宕神社の祭神と併せて社務所横には好菴社と呼ばれるお社があり、中川総長の母方の祖父中川好菴の像が祀られていました。
中川総長と愛宕神社との関係は、立命館 史資料センターHP
<懐かしの立命館>「中川小十郎が寄進した愛宕山の石段」を参照。
【写真1】は下山時にクラス毎の記念写真として撮影されました。学年途中で中退学・編入する生徒も多くいたので、毎年の撮影でも顔触れが変わっていました。
【写真2】【写真1】と同年に撮影された中学校3年1組
以前に当史資料センターHPで【写真2】を紹介した際、偶然にも寄贈いただいた戦没者ご遺族とは別のご遺族から「戦死した自分の叔父が写っています」と連絡をいただいたという深い繋がりのある1枚です。
HP「1枚の中学校クラス集合写真~ご遺族から届けられた写真~」
【写真3】は、1946(昭和21)年から47年に卒業の立命館第二中学校同窓会名簿に掲載された中学校2年生時の写真です。1943(昭和18)年には制服が異なっていたことがわかります。それでも上着の右胸下には「禁衛隊」の記章が縫い付けられています。【写真2】とは異なり、配属将校が左右に立ち、生徒たちの緊張した表情が印象的です。
【写真3】
(2)第54号 表紙写真
「中川総長先生邸前に於ける中商五年生(東京見学旅行)」 1935(昭和10)年6月
【写真4】
前年が二泊三日(うち車中泊一泊)であった中学商業5年生の東京見学旅行は、翌年一週間の日程に拡大され、東京を中心に広範囲での旅行で実施されました。それでも、前年と同じく中川小十郎総長兼校長の邸宅に全員が宿泊しています。旅程のみ紹介すると、
(中学校・商業学校の第五学年63名)
5月20日 午前7時 京都駅集合。鳥羽行快急列車(原文のまま)に乗車し伊勢へ。
内宮・外宮に正式参拝。午後6時56分二見駅出発。沼津駅で電気機関車に乗り換え。
夜は普通座席の車中泊。
5月21日 藤沢駅下車。江ノ島・鎌倉を見学。 午後5時20分東京駅着。宮城奉賀。
省電で高田馬場駅へ。中川総長邸へ隊列行進。宿泊。
5月22日 観光バスにて東京市内見学。靖国神社・明治神宮を正式参拝。
夜は再び中川総長邸に宿泊。
5月23日 上野駅から日光駅へ。東照宮・二荒山神社を見学、中禅寺湖畔の旅館泊。
5月24日 華厳滝見学後、日光駅から上野駅へ。その後は自由行動で、午後10時新宿駅集合。10時45分発夜行列車で長野へ。
5月25日 午前8時10分長野駅着。善光寺参拝。その後、車中から日本アルプス、親不知・子不知を眺めて、午後7時金沢駅着。 同窓会石川支部の諸先輩に迎えられて旅館泊。
5月26日 午前10時59分金沢駅発。午後6時17分京都駅帰着。解散。
(3)第55号 表紙写真「槍術貫流指南の久保先生」 1935(昭和10)年7月
【写真5】
立命館禁衛隊の名に相応しい古武士の精神を吹き込もうとする中川小十郎校長による新たな取り組みで、槍術が中学校商業学校の必須科目に取り入れられました。【写真5】に写る教士は、植物園前で書店経営の久保澄雄氏で、南北朝時代の楠木正成があみ出した長さ二間(約3.6m)の長槍を使いこなす貫流の使い手で、当時全国でこの流派を伝える人物が5人しかいなかったという典型的古武道でした。
(4)第56号 表紙写真「勉強の第二學期が来た」 1935(昭和10)年9月
【写真6】
中川小十郎総長は、67歳にして2度目の校長兼任を1933(昭和8)年から務め、京都と東京を行き来し、中学校商業学校のある北大路学舎に頻繁に顔を出していました。1935(昭和10)年第2学期の始業式当日は雨であったため、式は生徒たちが教室に着席して行われました。式開始にあたり、中川校長は放送で全生徒に「頭右へ」と号令をかけて教員一同に敬礼をさせ、以下のような新たな指導を訓示しました(禁衛隊第56号に掲載内容)。
「今までは入学した生徒を全員進級卒業できることを目標に指導してきたが、今後は専ら優秀で才能ある者と堅実な志をもった者だけを留めて指導し、不勉強な者や堕落者を容赦なく除名退学処分にしていく。但し、努力する者は除名の外はない。立命館は悪い事をしたから懲戒に処するとか謹慎を命ずるとか云ふ事は余りしないが、校長の主旨を理解せず学校の方針に反した行動をする者は用捨なく除名処分をする。」
「遅刻した者は、最初の一時間を教室に入れない事にし、東の道場【写真7】に入って修養してもらう。用意の円座の上にによって坐り凝念修養するのである。」
立命館坐法は中川校長が少年の頃から伝授されてきた武士道作法で、禁衛隊第50号に掲載されていました【写真8】。
【写真7】禁衛隊道場碑(史資料センター所蔵)
また、禊についても校長公示で次のように述べています(禁衛隊第56号掲載)。
「愉快に勉強を持続せんとするには、勉強の方法では駄目である。身体が健康でなければ根気が出てこない。どうしても身体を健全にして根気よく勉強を続けねばならぬ。根の張った勉強でなければ本当の学問はできない。それをやらんとするには、身体そのものが健全でなければならぬと云ふのが私の論法である。私が毎早朝励行せんと期している禊の行は実にこの点から出発しているのである。
禁衛隊の精神は私の教育の指導精神である。私は教育家でもなく、また哲学者でもない、併し禁衛隊の隊長を以て自ら任ずるものである。」
【写真8】立命館坐法の解説
中川校長は学力を向上させるため、勉学意欲なき生徒には除名(退学)の厳しい指導を行い、学習持続力を高めるため禊によって健康な身体づくりを行うとしています。中川校長の指導熱は、このように「立命館禁衛隊」第55号・56号あたりから、中学・商業学校生に向けて次々と発揮され実行されていったのでした。
2026年4月28日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
