かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
第3回は、昭和20年(1945年)から立命館に勤務し、北大路・広小路・衣笠の3つの学舎・キャンパスを駆け抜けた生物学者・菊池立身教授。氏が記録したのは、建物の歴史ではなく「キャンパスに生きる草木や虫たち」の姿でした。
かつて衣笠キャンパスの池に自生していた綺麗な水を示すプランクトン、工事や人の行き来にともなって広がった外来種、そして正門近くに植えられた巨木メタセコイアの由来――。
学園の目まぐるしい発展と引き換えに変化していった自然の姿を、温かい眼差しで捉えた貴重なエッセイ。当時のキャンパスの匂いが伝わってくるような「生きた証言」です。
学園の変遷と自然の変化(『立命館学園広報』第57号(1975.9.20)〈立命館70年余話〉より)
菊池立身
私の立命館での生活は、三つの学舎を次々に本拠にして移っていったことになる。昭和20年秋に非常勤として当時の立命館一中に勤めだし、21年専任になり、昭和20年代はだいたい北大路学舎に勤務。昭和27年、法学部に移り、30年代は広小路学舎に勤務。昭和38年の二部改組で、生物学・地学実験室が衣笠キャンパスに移り、広小路・衣笠往復の勤務。実験室も今はない木造建物を2度、移転利用した。昭和43年、理工学部に移籍となり今日に至ったわけである。しかし、北大路にいたときも、新制度の高校の教頭をしていたので、広小路や衣笠にもときどき行っていたし、生物学が各学部に開講され、どの学舎にもよく出入りしていたが、特に理工学部は生物学実験で関係が深かった。
専門の関係で、三つの学舎を移動しながら、その自然環境にいくらか関心をもっていたので、これまでこの欄にあまり出なかった話を書いてみようと思う。
もっとも自然の変化の著しいのは衣笠キャンパスであろう。しかし、キャンパス自身としてあまり変わらないように思われる北大路・広小路も京都全体の変化の中で生物を含めて長い間にはずいぶん変わっている。広小路学舎についていうなら、施設がずっと少なかったこと、緑化に乏しく殺風景だったことは、すでにこの欄で何度も紹介されている。
私が広小路学舎に移ったのは、文系学部にも自然科学系の教員と施設が必要であるという、当時の設置基準の関係で、故江原真伍先生と私が、生物学・地学実験室の設営に当たるためであった。現在高校におられる西村寮平氏と堀井篤氏が助手で移って来られ、江原先生はおもに理工学部におられたのではじめのころは3人で組んで仕事をしていた。貞廣太郎氏の実験担当は、すこし後のことである。
実験室は現在二部の占めているところで、二部事務室が地学実験室、委員長室・講師控室が生物実験室、前の廊下に準備室があった。その前の尚学館のあたりに道場があり、その付近はかなり植物やこん虫なども豊富で、実験材料を手近にえることができた。学生数が少なかったので 、実験室は文系学生にもかなり利用できたし、理工学部も学生数が少なく、生物実験の受講者は衣笠から通いで実習に来る時期がかなり続いた。私は理工学部にも講義に行っていたので、午前中は等持院、午後は学生といっしょに広小路ということもしばしばだった。
生態実習のプランクトンは、衣笠学舎の池で採取し、持ち帰って広小路実験室で調べるのである。池は、今あるものよりも2号館のある場所にあった池の方をよく利用した。つまり理工学部の事務室のある建物はその池を埋めたてて建設されたわけである。新1号館との間の空地の少し高い部分に松が生えているが、そこは池のへりの名残りだと思われる。その池は現在の池とともにプランクトンが豊富で、きれいな水に多いサヤツナギという種類が多く、農薬が流れこまないので他の池よりもよほど実習に適した池だった。
ここで衣笠キャンパスに話題を移そう。戦前の話は別にして、戦後の衣笠での大変化のはじまりはグラウンドの新設であったと思われる。この話もすでに方々で紹介されているが、木造の理工学部の校舎の東側は衣笠山の山麓の松林であり、裾野は田園で、畑や田のあいだに笹原も混じっていた。そこを当時新兵器のブルドーザーで削ったように思うが、とにかく地ならししてグラウンドができ、公認球場となり、プロ野球にも貸した時代があった。その名残りが今のグラウンドにも少し残っている。
キャンパスの拡張は体育施設が先行したように思われる。以学館の前身は小グラウンドやテニスコートがあったような気がするし、その北にはバレーやバスケットのコートがあった。衣笠山の裾野を削ったことは現在の地形にも反映しているし、近ごろまで山の草や木がかなりキャンパス内に残っていた。今でもグラウンドの西側にカンサイタンポポが残っているし、理工新館建設のため撤去された物理実験室棟周辺の空地に、カンサイタンポポがセイヨウタンポポの侵略に対抗して共存しつつ残っていて生態学上興味のある場所があったが、今はない。理工学部の前進のためには当然のことだが、ちょっと惜しい気もした。
衣笠キャンパスの生物的自然は特色があり、田畑に多い農地的植物と、衣笠山の山麓の山の植物、そして等持院裏と付近に多かった園芸商の圃場的植物が混在していて、小動物のすみ方もそれに応じた特色をもっている。それにさらに、立命館のキャンパスになってからの植樹緑化が加わっているわけである。
キャンパス内でもっとも目立つシロツメクサ(ホワイト・クローバ)は帰化植物だが、他の多くのイネ科の雑草とともに農地型の代表であり、山の植物としては樹木でいうと、池の西にあるエゴノキの巨木や、構内特に理工学部校舎周辺に散在するアラカシ、ウラジロガシなどがある。圃場的植物の1例としては、池の付近にバイモが自生していた。後の緑化の古い例は2株のメタセコイアで、理工学部正門から等持院裏を東行する道の角の巨樹は戦後日本にもたらされた中の古い方で、理工学部教授だった河路甲午郎先生の御尽力があったと聞いている。しかし、山地植物はだんだんに減りつつあり、帰化植物の殺風景な連中が勢力を増しつつある。しばらく前まで図書館の向かいにセイタカアワダチソウの侵略に対抗して、アキノキリンソウが残っていたし、カラスウリが紅い実をつけていた。
植物の話は一応やめて、学園の発展と自然環境の話にもどろう。二部改組、二部事務室開設で、生物学・地学の実験室が衣笠に移転した。場所は現在の修学館の西にあった木造建物であった。私の広小路・衣笠往復時代になるわけである。昭和40年に現在の学而館の建物の西北部分に当たる化学科木造棟の空いたあとに引越した。隣の木造棟が撤去された空地に、いろいろな野草雑草が芽生えるのを、生態実習で調べて、意外に山の植物が入っているのに驚いたことがある。しかし量的に多いのはこのころは圧倒的に帰化植物であった。大学紛争中、電気工学科の封鎖の際、とばっちりを受けて机や椅子を封鎖資材に持ち出され、被害を受けたのも実験室がここにあった時代の思い出である。さらに、現在の基礎工事務室(二部事務室衣笠分室)の階上に移転するのである。自然環境の話が引越しで中断したが、実習のプランクトンの話をもう一度例に出すことにする。衣笠学舎の池の水量はずいぶん滅り、プランクトンの質も、浅い泥底型に変わった。これは観光道路の開通以後の周辺の環境変化、衣笠山の変化とも関係しているので、学園だけの問題でない。池の東側の小溝の前身は水量豊富な流れであり、周辺には山地型の植物が豊富だった。体育館の南東を南下する流れがあり、その名残りの小さい溝にタデ科植物が細々と今も残っている。セイタカアワダチソウの侵入についても注意しているが、30年代後半から目立ちだし、経済・経営学部の移転の工事に関係が深いように思う。トラックの往復も分布拡大に関係があるようで、そういう資料を持っている。小烏やこん虫の話もいろいろあるが紙面の関係で今回は割愛する。
記憶のあいまいな点も少なくないし、書かなかった話題もまだ数々残っているが、学園の前進とよりよい環境づくりが考えられねばならない時に少し変わった自然環 境の話もまたなんらかの意味があるのではないだろうか。
近ごろは、自然観察も一般によくされるようになったし、衣笠キャンパス附近にも観察に向いた場所が残っている。キャンパス自身も生態学的観察の好対象である。誌面を借りてのお願いもあつかましいが、身近な自然の変化について、古くから御在職の皆さんに情報の提供をお願いして最後にしたい。
(理工学部教授・生物学)
2026年9月28日 立命館 史資料センター
