(1)第61号 表紙写真「御眞影を奉迎す(紀元節)」 1936(昭和11)年1月
【写真1】禁衛隊に護衛されて正門を入場する御眞影
1936(昭和11)年が明けた1月8日から、禁衛隊道場という名で訓練の場とされていた運動場に宇治川の砂が搬入されました。各教室には練炭ストーブが設置されましたが、室内は暖まっても5℃程度だったそうです。この冬には感冒が流行し、関西でも小中学校が休校するほどの広がりを見せていました。2月になって大雪のため立命館でも臨時休校するほどでしたが、それでも毎朝の禊と遥拝は行われていました。
2月11日は紀元節と呼ばれる建国の祝日(紀元二千五百九十六年)で、建国の聖地とされていた奈良の橿原神宮でも天皇の勅使を迎えて祭典が催され、立命館学園からは教員が引率して中学、商業の生徒代表が参拝しました。校内の生徒たちは、御眞影の前で祝賀式が行われたのでした。
この禁衛隊第61号には、中川総長を高く評する新聞記事の一文が紹介されていました。
「凡そ大學長の中で立命館の中川翁ほど開放的なスバぬけた人物は又と一人、他に見られない、その是非を問ふにあらず、その膽量を愛する。」(注1)
禁衛隊第61号には、紀元節由来の記事に続き、神武天皇の軍勢を導いた八咫烏についての説明が記紀を引用して詳しく書かれていました。
(2)第62号 表紙写真 説明なし(校庭での軍事教練風景)
卒業生送別号 昭和11年3月
【写真2】
立命館中学校第三十回(59名)、立命館商業学校第三回(56名)卒業記念の特集号です。
この号の最初に「京都御所・二條離宮の拝観に就いて」と題して19ページにわたる解説が掲載されています。その文の最初に配属将校の陸軍歩兵大尉が、京都御所への拝観は光栄にも立命館の学生生徒だけが卒業時に限り許されていることであると心構えを述べています。
【写真3】卒業式式次第
式次第によれば、中川校長は欠席で、倉橋勇蔵幹事が代読しています。卒業証書に続いて皆勤賞が授与されて御真影奉掲殿閉扉。その後に優秀生徒へ優等賞と記念品がそれぞれ授与されています。成績優秀者よりも皆勤賞を優先するという学校の姿勢が窺われます。「赤き血潮」の新しい校歌が1931(昭和6)年7月が制定されていましたが、卒業式で君が代の斉唱だけとなっているのが不思議です。式典での校歌斉唱がまだ一般的でなかったのか、疑問の生じるところです。
この禁衛隊号には「立つ鳥の言葉」と題して生徒31名が思い出を語っていますが、その中に、寄宿舎で教職員やその家族たちと一緒に夜遅くまで送別会が催されたことが写真入りで紹介されています【写真4】。寄宿舎の卒業生は2名だけでしたが、下級生たちが落語、漫才、浪曲、寸劇、ハーモニカ独奏、そして教員の歌など余興が様々に趣向を凝らし和やかに卒業生を祝っていました。寄宿生活で寝食を共に過ごした温かな仲間意識と、家族的な職員との生活に、日常の学校生活で忘れかけていた故郷の温かさを感じていたのではないでしょうか。
【写真4】寄宿舎送別会での集合写真
(3)第63号 表紙写真「榮の入学式(四月八日)禁衛隊旗奉迎」
入学生歓迎号 昭和11年4月
【写真5】雨中で行われた禁衛隊旗と御真影奉迎式(右手向こうが北大路通)
雨の中を保護者と共に登校した新入生たちは、まず教室で担任から手拭とバケツを渡され、直ちに上級生たちと共に禊を行い式へと臨みました。
【御真影奉迎式】中学入学生は職員室前、商業入学生は東道場前(写真では正面右手と左手側)。上級生たちは禁衛隊隊形(写真手前と左手側)で整列。大学から自動車で送られてきた御真影が正門に到着するや、配属将校の「脱帽」の号令に続いて「御真影到着」の声。
咳払い一つ聞こえない運動場に雨の降る音だけが聞こえる中、上級生は「捧げ銃」、入学生と保護者は脱帽し、傘を閉じて「頭右」の号令で禁衛隊旗を先頭にして御真影が入場。
【入学式】新入学生と編入生、保護者が惟一殿(講堂)へ移動。御真影が開扉されて君が代斉唱。御真影を拝して閉扉。中川校長の教育勅語奉読後に訓示(校長の命令に背くとすぐに退学になるなど)があり、その後は入学生が退出。保護者への校長挨拶。父兄会(保護者会)代表挨拶を終えて、再び雨の運動場へ。全員で御真影を奉送した後に上級生と入学生とで挨拶交換し、中川校長の閲兵が行われた後、禁衛隊旗を奉送。在校生たちが解散後、入学生には禁衛隊記念の雑炊が接待され、記念の紅白饅頭が配られて式はすべて終了しました。
この時の商業学校三クラスの担任の一人が白川静先生(後の立命館大学教授)でした。
その二日後、禁衛隊入隊の宣誓式が行われ、禁衛隊バッジを制服に縫い付けて、入学生たちは全員禁衛隊員として学校生活を送っていくことになるのでした。
注1:中外日報の記事。発行年月日は未記載。
2026年7月29日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
