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  • ISSUE 26:
  • カラフル

モア・ザン・ヒューマンとの出会い

未来を動かすコ・デザインへ

上平 崇仁共通教育推進機構 教授

    sdgs04|

デザインとは未来を指向する活動である。そして未来はみんなでつくるもの、だからさまざまな立場の人たちの関わりが求められる。その際に大切なのが、人間だけを自然から切り離すのではなく、多様な種との絡まり合いとして捉える「モア・ザン・ヒューマン」の視点だ。その上で上平崇仁は、従来のデザインの枠組みを止揚する、新たな「コ・デザイン」の可能性を追究している。

コンクリートをはがすと見えてくるもの

「都市に小さな森をつくるというと、そんなばかなと思うかもしれませんが、実際に、それも真剣にやっている人たちがいます。私の友人たちが、東京・代々木上原の空き地を利用して始めたComoris Urban Share Forestというシェアサービス、これは都市を野生化しようとする取り組みです」と、一見デザインとは関係なさそうな話から上平崇仁は切り出した。

このサービスで行われている活動をひと言で表すなら「コンクリートはがし」だという。街なかにあったコンクリートやアスファルトをはがしてしまい、その下の土を掘り返して緑地に変える。といっても観賞用のガーデンをつくるのではなく、野菜などを育てる畑にするわけでもない。特に具体的な目的を設定せずに、さまざまな生き物たちの活動を包含する生態系としての「森」を育て、シェアメンバーたちがそれぞれ好きなように使う。

「しかも使うのはメンバーに限らず、近所の人がふらっと立ち寄ってもいいし、集まってきた子どもたちが勝手に遊ぶのも大歓迎。要するに土地のゴールをあえて定めていないのです。デザインとは基本的には何らかのゴールを設定し、それに向かって近づけていく作業とされます。その意味でこの土地で行われているのは、いわゆる一般的なデザインとは真逆とも言える。ではこれはデザインではないのかといえば、それも違う。Comorisでの活動は、今の都市の現状、空き地があったとしても駐車場にしか活用できない窮屈な世界―に異議をとなえて、自分(たち)の手で別のありかたを提示する活動であり、それは確かにデザインだと思います。しかもいろいろな立場の人が集って共に活動する、Co-Design(コ・デザイン)でもあります」

住宅地の中にある小さな森の風景
『都市の中の多種とともにデザインするーモア・ザン・ヒューマン,そして相依相関/上平 崇仁・南部 隆一』

コ・デザインの観点からみれば、自然状態を取り戻した緑地で活動するのは人間だけではない。近所の子どもがカエルを捕まえてきて放したり、ウサギを飼っている女性が散歩の途中に立ち寄ったりもする。緑が育てば、昆虫たちの住処をつくることにもなるだろう。あえて人が手を加えなくても生態系全体が変えられて(デザインされて)いき、その結果として、気候変動がごくわずかでも動かされる。気候変動やヒートアイランド現象を緩和する都市の緑化機能として、このようなアーバンフォレストにはいま、世界中で注目が集まっている。

モア・ザン・ヒューマンとの出会い、そして気づき

「花が咲くと、ミツバチが集ってきます。植物、昆虫、人に連れられて来るペットから地中の微生物までが絡まり合いながら、少しずつだけれど森がつくりあげられていく。もちろんメンバーたちも、水やり当番などさまざまに分担しながら作業を進めています。彼らの活動から見えるように、都市の中では個人では何もできないような気がしてしまうけれども、その気になれば本当は変えることができるんです。その結果として未来が動いていくのですから」

注目すべきは、ここで行われているコ・デザインに関わっているのが、人間だけにとどまっていない点だ。そもそも呼吸に必要な酸素をつくり出しているのは植物である。細部へと目を向ければ、土の中では微生物たちが活動し、さまざまな栄養分をつくり出している。その微生物たちと人間は共存共栄の関係にあり、食べ物の消化にも細菌たちの力を借りている。人間の体は約37兆個の細胞でできているとされるが、その人体の中にはそれ以上の個数の菌が暮らしているのだ。腸内細菌の力が解明されるにつれて、人間の気分が体内の微生物から影響を受けていることも明らかになってきている。

「そもそも人間は人間だけで生きてはいけません。腸内細菌はもとよりほかの生命と互いに依存しあって初めて、生きていられるのです。このようにこれまでは人間の外側とされてきた存在、それらも含めて考える包括的な概念がモア・ザン・ヒューマンです」

デザイン研究においても、モア・ザン・ヒューマンには注目が集まりつつある。従来は人間に限られていたデザイン参加の概念を、上平らは早い段階でモア・ザン・ヒューマンにまで拡張して提示した(※1)。

歴史を振り返れば人間と人間以上の存在は、以前から相互に包摂しあう関係にあった。上平は京都に独特なモア・ザン・ヒューマンの例として、街中にある地蔵を挙げる。

「祀られているのは霊、まさに人間を超えた存在です。そのお地蔵さんを京都の人たちはとても大切にしていて、一つひとつを名前で呼び、毎日誰かが世話をしている。このようなモア・ザン・ヒューマン、一種の霊的存在が日々の暮らしの中に『共にいる』からこそ地域の人々が結ばれているのです」

歴史を遡っていくと、かつて人間は霊と共存していた。それが近代化の過程の中で失われた。失われたものを再興するのもデザインに通じる考え方である。そして少し注意してみれば、私たちのまわりに人間以上の存在はいくらでもある。

※1:「Expanding Participation to Design with More-Than-Human Concerns」

デザインとは鵺(ぬえ)のようなもの

概念としては実際にあり、確かにそこには人々を駆動させる力がある、けれどもそれを見た人は誰もいない。このような正体不明の存在を、上平はデザインと呼ぶ。

「だからデザインとはある意味、鵺のようなものだと思っています。鵺とはすなわち猿の顔、狸の胴体、虎の四肢、蛇の尻尾が合体した妖怪です。各部分だけを見れば、知っているものと合っている。ところが全体を見ると、決して既存の知識には当てはまらない、誰も見たことのない存在となる。デザインが鵺であるというのは、そこには設計や問題解決、あるいは意味生成など一つの言葉では表し切れない何かが含まれていて、いろんなものが混じり合った複雑な概念であることを表しています。ひとつの図の中にいくつかの見え方が同居している多義図形のようなものであるとも言えますね。」

鳥山石燕『今昔画図/続百鬼』(江戸東京博物館所蔵)より「鵺」
出典:国書データベース https://doi.org/10.20730/100450749

目を閉じて、象を撫でるような行為を思い浮かべてもよいだろう。鼻や足など撫でる部分によって感触は変わるが、目を閉じている限り全体像は理解できない。けれども、目を開けて見れば、いずれも象の一部であるのがわかる。一部だけを理解して、全体像をわかったつもりになってしまう早とちりへの戒めである。

デザインはときに、あえて早とちりさせるために使われるケースも有る。たとえば極めて合理的かつスマートにデザインされたデバイスとして、多くの人がiPhoneを使っている。けれどもiPhoneがどのような原料でつくられているのか、その原料はどのようにして採集されているのか。iPhoneのデザインの全体像を理解している人が、どれぐらいいるだろうか。

「たとえば、スマホに内蔵されているリチウムイオン電池には、素材としてコバルトが使われています。けれどもレアメタルのコバルト鉱石は、非人間的とも言えるほど過酷な採掘現場で、人の手によって掘り出されているのです。そのように表には見えない都合の悪いことから目を逸らせて、覆い隠してしまうのもデザインの一面と言えます」

コバルト鉱石の採掘風景

そのようなデザインのリスクを学ぶべき国内の事例として、上平は水俣病をあげる。かつて水俣では公害が起こったため、多くの人が苦しめられた。この話は小学生の教科書にも出てくるから誰でも知っている。けれども水俣で、何がつくられていたのかについて触れられることはほとんどない。

「つくられていたのはアセトアルデヒトで、ポリ塩化ビニール、つまり初期のプラスチックの原材料です。それにより日本では高度成長期に便利な日用品が数多く生産されたのです。原因となったメチル水銀はその過程で副生したものです。つまり日本全体の住環境がプラスチックにより快適になるのと引き換えに、水俣の人たちが犠牲になった。工場排水を止めることよりも、高度経済成長のなかで国民の暮らしを豊かにしようとする都市化の目標の方が優先されたため、それ以外つまり水俣の人たちの苦しみが周辺化されてしまったとも言えます。こうしたデザインの罪はアフリカだけでなく、我々のすぐ近くにいくらでもある。決して遠い話ではないんです」

上平の関心はデザインを超えて人類学にも向けられている。その背景には、無いところにニーズを生み出し、際限なく加速していきやすいデザインの性質への危険性への問題意識がある。水俣のような事例に直面したときに、人類学の知見があればブレーキをかけられたのではないか、と。そうした人類学の知見をも活用して、デザインのあり方を再検討していく。その先に見据えているのは、単一の「よりよい」を疑い、手戻りしつつ探索することが許容される未来である。

未来を動かすためのコ・デザイン

デザインは別のありかたを提示する、そのための手段でもある。その典型的な例がリハビリツールだと上平は語る。

「何らかの障害を持つ人に既製品のリハビリツールを渡すだけでは、つらいリハビリを頑張ろうとはなかなか思ってもらえません。けれども、リハビリツールを自分でデザインしてつくると状況は一変します。ラーメンが大好きなのに、脳梗塞でお箸を持てなくなった人がいました。そこで学生たちと協力して、麺を掴んで持ち上げるための道具を一緒につくりました。するとリハビリ嫌いだった人がその道具を使い、もう一度ラーメンを食べるために一生懸命に麺を掴んで持ち上げる練習をするようになったのです」

これは患者さんが一人だけでは、決してたどり着けない。作業療法士や学生などいろんな人が力を合わせてともにデザインするからこそ実現したストーリー。デザインといえば、プロのデザイナーにしかできない仕事と勘違いされがちだが、決してそうではない。自分たちで少し工夫すれば、デザインできる余地はいくらでも発見できる。

「目も手も不自由な方のために工夫された電話機があります。といっても特別に凝ったデザインを施されているわけではありません。数字のボタンを押しやすいように、奇数のボタンの上にだけ四角いサイコロ状の木を載せた。それだけでも手がかりとして対応付けることで数字の位置関係が判別できるようになります。デザインといえば、形を整えてスッキリさせるものと考えているだけでは、想像もつかないアイデアです。けれどもたとえ不格好だったとしても、これは十分にデザインになっている。iPhoneのデザインの裏に隠されたものと、このデザインを比べてみれば、デザインの本質が見えてくるのではないでしょうか」

デザインとは常に変わっていくものであり、これから大切になってくるのは負のデザイン、引き算のデザインだと上平は考えている。エネルギーや食料の限界がみえつつある状況で求められるのは、浪費に歯止めをかけつつも、その中で精一杯充実しながら生きる世界を描くことができるか。そのためのデザインに終わりはない。

「⽊⽚が付加されたプッシュ式電話機」ゼロの位置の⽊⽚は配置の⼿がかりになるよう、丸く削られている。それぞれの⽊⽚の形状や⾼さも異なる。「生活のデザイン展―ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」国立ハンセン病資料館より

上平 崇仁KAMIHIRA Takahito

共通教育推進機構 教授
研究テーマ

1. 生活者自身によるデザイン文化の創造のための実践活動
2. 人間以外の存在とともにデザインする理論・方法論の構築
3. 情報領域におけるデザイン教育

専門分野

デザイン学