大切に使い続けられた建物には、人々の「記憶」が宿り、積み重なっていく。その記憶は思い出話を紐解くだけでなく、建物に「記録」された痕跡を読み解いていくことによっても明らかになる。明治時代に建てられ、独自の美しい建築として発展した京都の小学校。その研究から、どのような記憶が浮かび上がるのか。建築史を専門とする大場修に、詳しく話を聞いた。
建物を測って歴史を調査する
大場が専門とする建築史は、その名の通り、建築の歴史を研究する学問である。建築は、時代の技術や文化、人々の暮らしを反映して建てられる。逆に言えば、どのような建築が建てられたのかを調べることで、その建築に関わったさまざまな人々の姿が生き生きと見えてくるのである。
研究の手法は、現存する建物の調査が中心となる。それに加えて資料から得られた情報を組み合わせ、立体的に建物の存在を浮かび上がらせる。現場に足を運び、建物のあらゆる箇所を実測する。測定をもとに間取りや断面図を作成し、構造を明らかにしていく。また、現在の姿だけでなく、建て替えや増改築の痕跡も調査して、元の形の復元図も作成する。
特に大場が研究対象として選んだのは、公共の大規模な建物ではなく民家であった。民家には、建物に関する文献のような資料はほとんど残されていない。調査はゼロからのスタートであり、現場に行って調査しなければ何もわからない。調査の際には、家の中に複数人が何時間も立ち入ることになるため、住人の理解と協力が不可欠である。
「柱の構造を調べるためには屋根裏まで上がらないといけないし、押し入れの中も開けて確認しないといけません。住人との信頼関係がないとできない調査です。普段立ち入らない場所に入るので埃も落ちますし、迷惑千万な話ですよね。中には学生が天井板を踏み外して、上から足がポーンと出てきてしまったこともありました。それでも、建物の価値を明らかにし、しっかりと後世に残したいという思いに賛同していただき、協力してもらってきました。今は個人情報の扱いも厳しくなっていますから、このような研究はなかなか難しくなっていますね」
大場が京都の小学校の研究を始めたきっかけは、研究室の学生が「自分の母校を見てほしい」と言ったことだった。その学校は、西陣にある桃薗小学校(平成7年に閉校)である[図1]。平成6年に桃薗小学校を訪れた大場は、その建築のあまりの立派さに驚いた。この訪問を契機に、市中の小学校の調査が始まった。民家研究からキャリアをスタートさせた大場にとって、明治時代に建てられた京都の小学校は、近代建築と人々の暮らしの双方が見える、魅力的な研究対象だった。
材料を変えても移動しても残り続ける校舎の意匠
明治2年に京都市内に開校した64の小学校は、学区の住民たちの力によって誕生した、日本でもいち早く整備された近代的な小学校群である。多くの建築を見てきた大場を驚かせたほど、小学校とは思えないほど美しく重厚な建築が多くみられる。これらの校舎の一部は役目を終えた現在も、リノベーションによってホテルや文化施設、商業施設へと生まれ変わり、現代の私たちを魅了し続けている。
では、そのような魅力ある建物は、どのようにして生まれたのだろうか。そこには、京都ならではの歴史的背景があったと大場は話す。
「寺子屋という言葉があるように、全国の小学校の多くはお寺の境内のあまり使われていない場所を借りて始まっています。しかし京都の場合はそれに加えて、明治になって天皇とともに東京へ移った公家や武家の屋敷を転用した例がありました。敷地だけでなく、そこにあった御殿や大名屋敷をそのまま利用することもあったのです」
公家屋敷の名残を伝えるのが御殿建築である。その特徴の一つが、大きく張り出した立派な玄関である[図2]。この特徴は、後にコンクリート校舎に建て替えられた際にも意匠として引き継がれていく。
[図2]御殿建築の影響が見られる明治期の小学校本館(講堂)/修徳校・明治38年築(左)、明倫校・明治41年築(右)(写真左:『京都小学五十年誌』より、写真右:京都市学校歴史博物館所蔵)
さらに当時の京都の小学校は、学区内の住民たちの寄付や持ち出しによって建てられていた。そのため、学校ごとに個性が強く、地域の人々の思い入れの深い存在でもあった。単なる教育施設にとどまらず、集会所や行政機能も担う、町の公共的な拠点でもあった。
「当時の小学校は町会所としても使われていました。行政の末端機構でもあったので、学校の中に派出所もありました。それから、いまでいう公民館のような機能もありました。また、必ず和室や作法室があって、婦人会やお茶会など、さまざまなコミュニティ活動の場として使われてきました。政治と教育が一体になっていたのです」
日本の建築は、近代に入ると木造から鉄筋コンクリート造へと移行していく。京都の小学校もその流れの中にあったが、その転換は全国的に見ても比較的早い時期に進んでいた。木造校舎がコンクリートへと変わっていく大きな契機となったのが、災害の悲劇である。
1934年に、後に室戸台風と呼ばれる大暴風が京阪神地方を直撃した。木造校舎は激しく揺れ、倒壊し、死者を出した小学校もあった。最も多くの犠牲者を出したのが西陣小学校で、木造二階建ての校舎が潰れ、500名以上の児童が下敷きとなり、そのうち41名が亡くなった。
「西陣小学校では、実はコンクリート校舎が建設されていたのですが、まだ完成していなかった。もしゲートが開いていれば、そこに避難して犠牲を防げたはずなんです。ほんの一、二か月の差で、子どもたちを救えなかった。一方で、500メートルほど離れた桃薗小学校では、半年早くコンクリート校舎が完成していました。子どもたちはその中で授業を受けながら、窓越しに台風を眺めていたという記録も残っています。至近距離で、明暗が大きく分かれたわけです」
このような痛ましい悲劇が、木造校舎から鉄筋校舎への建て替えを一気に加速させた。戦前に建てられた鉄筋コンクリート造の小学校校舎が数多く残るのは、他都市と比べても特徴的であると大場は説明する。
鉄筋コンクリート校舎は一見すると木造校舎とは異なる様式に見えるが、御殿建築に見られる張り出した玄関や、本館を正面に据える配置など、木造校舎の意匠を一部引き継いでいることが、大場の研究から明らかになっている。さらに、当時流行していた建築様式も取り入れ、個性豊かな校舎が生み出されていった[図3]。
[図3]コンクリート造に建て替えられた立誠校・昭和3年築(左)とその前身木造校舎・明治41年築(右)(写真左:京都市学校歴史博物館所蔵、写真右:『京都小学五十年誌』より)
一方で、木造校舎の一部は形を変えながら、別の場所で現在も生き続けている。木造建築は、一度解体して運び、再び組み立てることができるため、移築が可能だからである。
「鉄筋コンクリート校舎を建てるには資金が必要です。そのため旧校舎を売却し、建設費に充てることもありました。八坂神社や嵐山のお寺にも、元小学校の校舎が残っていますし、最も遠い例では、鎌倉の建長寺に京都の小学校の建物が移築されています。日本の建築史は、移築の歴史でもあります。小学校の校舎を通して、日本の木造建築の特徴の一端が垣間見えてくるのです」
大場は、こうした研究の成果や調査の様子を、京都新聞に連載として発表してきた。その内容をまとめた『京都 学び舎の建築史』(京都新聞出版センター)は、貴重な写真や資料をふんだんに収録し、学術的関心を持つ読者だけでなく、古い建築に魅力を感じる人にとっても、写真を眺めるだけで楽しめる一冊となっている。
時代を超えて生き続ける価値
大場は最初から建築史を志していたわけではなかった。大学生の頃に目指していたのは建築家であり、新しい建物を設計することに関心を抱いていた。しかし、卒業研究を見た林野全孝教授に請われ、建築史の道へと進むことになる。そして、さまざまな調査を重ねるうちに、古い建物の魅力に強く惹かれていったと大場は話す。
「新しいものはやがて古びますが、古いものはずっと古いままで、その良さが続いていきます。木材も、年月を経るほど木肌が美しくなっていきますよね。時代を超えて生き続けるものの価値や魅力に、あるとき気づいたように思います。それに加えて、『手づくり』の面白さにも惹かれました。現代建築は機械や工業製品を使って大量に作られていきますが、伝統的な建築は基本的に手仕事です。明治の近代建築であっても、レンガを一つひとつ職人が積み上げていく。そうした人の営みの痕跡のようなものが建物から感じ取れることも、この研究の魅力です」
古い建物は100年、200年と生き続ける。しかし、その姿は決して不変ではない。増築や改築、さらには移築など、人の手を受けながら形を変えていく。その変化のプロセスこそが、建築史の醍醐味だと大場は語る。
「どんどん手が加えられていく建物の変化を歴史的にさかのぼり、もともとはどうだったのかを捉えていく。そして、その背景に何があったのかを考える。その動きを追うのが面白いのです。建物を測量して記録を取り、そこから読み解いていくことが私の仕事ですが、それを歴史としてまとめていく過程には、どうしても自分のものの見方や考え方が反映されます。歴史研究というのは、極めて属人的なものなのです」
建物に刻まれた痕跡という「記録」を読み解きながら、そこに重ねられてきた人々の営みや思い、すなわち「記憶」を浮かび上がらせる。その営み自体もまた、研究者自身の視点によって形づくられていく。まるで複数の記憶が織り重なり、ひとつの布になっていくかのようだ。
大場は、インタビューの中で何度か「感謝」という言葉を口にした。調査は、地域の人々や建物の所有者の協力なくしては成り立たない。さらに、建物の調査は一人で行えるものではなく、研究室の学生たちとともに進められる。自分の研究は、そうした人々の支えによって成り立っているのだという。その感謝の思いは、行動としても現れている。
「フィールドワークというのは、そこの地域で研究をして論文を書くと、それで関係が終わってしまうことも少なくありません。極端に言えば、『食い逃げ』のような形になってしまうこともあります。でも私は、その地域と長く関わり続けたいと思っています。実際、研究者としての初期に関わった兵庫県たつの市とは、現在も関係が続いており、街づくりにも継続的に関わっています。歴史を生かした町づくりに、少しでも役立ちたい。それは、自分に与えられた機会をきちんと生かし、きちんと返していきたいという思いからです。結果として仕事や業績にもつながりますが、それ以上に、やはり感謝を返したいという気持ちが大きいですね」
単に壊して新しいものをつくるのではなく、古いものをできるだけ生かす。それが地域の魅力をより引き出す一つの方法だと大場は考えている。建築に刻まれた時間の層を読み解く大場の研究は、過去を明らかにするだけでなく、未来の街のあり方をも照らしている。