立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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立命館あの日あの時内記事を検索します

2026.06.09

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅸ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第57号 表紙写真「空の護り」 1935(昭和10)年10月
禁衛隊Ⅸ1
【写真1】照空燈、高射砲、聴音器、警報用サイレンなどを囲んだ生徒と配属将校

 禁衛隊第56号には、前年夏に近畿地方で防空演習が実施され、立命館においても校内における防空施設を完備し、大規模な防空演習を実施したと記されています。この訓練を更に重ね、国家有事の際に不覚をとらないための心構えと防空思想の普及徹底をはかる必要があると考え、1935(昭和10)年7月17、18日の二日間にわたり、立命館中学校・商業学校では大規模な防空演習を行いました。この演習には東京警備参謀伊佐中佐が参観し、「東京方面には数々の学校があるが、こんなに立派に訓練され、遺憾なく実施できる学校は極めて稀である」と高く評価していました。
 これによって立命館中学、商業の評判は高まり、京都師団管内配属将校の学校教練研究会第二日目(10月11日)、立命館の防空演習が視察されることになりました。
 生徒たちが禊から朝拝、体操を行って教室へ戻った午前8時、対空監視哨生徒がマイクで「敵機見ゆ」との飛行機警報を発令して演習が開始。敵機が学校の上空に現れ、雨天体操場へ爆弾を投下し火災発生という想定で生徒全員が校庭に集合。三年生以下は鴨川河畔に避難し、そこで銃による応戦演習が行われました。
 学校に残った上級生たちによって、まず兵器の埋蔵並びに重要書類を格納。屋上の高射砲隊や高射機関銃隊が敵機を射撃。これによって敵機を退却させたとして警報が解除されました。
 その間、校庭には焼夷弾やガス弾が投下されたとして、防毒マスクを着用した消防班消毒班などによる迅速な活動が行われ、敵飛行機による来襲に備えての灯火管制の訓練も行われたのでした。
 その他の防空施設としては、非常時望楼(木造校舎の屋根上)、兵器埋蔵設備、重要書類格納所、防火用砂、消火用ポンプ、非常用バケツ、集団防護設備、灯火管制用電気覆、非常用井戸、防毒衣防毒面若干、劇薬品格納庫等が紹介されていました。
 兵器、劇薬や重要書類格納など学校レベルを超越する態勢がとられていたことがうかがえられます。当時は木造校舎でしたが、2年後には鉄筋3階建てで地下道(防空壕兼)も備えた頑強な学舎が建設されていくことになります。


(2)第58号 表紙写真「禊の朝」 1935(昭和10)年11月

禁衛隊Ⅸ2
【写真2】

 中川校長による指示で、生徒たちは毎朝、禁衛隊道場のうちの「西の道場」で冷水摩擦を行うことになりました【写真3】。当初は、風邪予防のための健康対策として始まったものが、心も身体も清めるための修行とされるようになり、禊の後には皇城遥拝を行い、それから一日の授業が開始されたのでした。

禁衛隊Ⅸ3
【写真3】禊の場面 (史資料センター保存) 

 禊のために校庭から汲み上げる井戸は、中川校長の命名により「御楯の井」【写真4】と呼ばれ、払拭の水は清泉とされました。その傍には萬葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つ我は」の歌碑【写真5】が建てられました。

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【写真4】「御楯の井」石碑(史資料センター保存)

禁衛隊Ⅸ5
【写真5】「御楯の井」碑裏面の防人の詩(史資料センター保存)

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【写真6】『立命館要覧』1934年版に掲載された「御楯の井」

 さらに詳しくは、立命館史資料センターHP
「懐かしの立命館」 立命館中学校・商業学校の「御楯の井」をご覧ください。

2026年6月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田 俊博

2026.05.28

<懐かしの立命館>華麗なる銭湯の「変身」!

 京都にある銭湯について、立命館史資料センターのホームページ、「立命館あの日あの時 <懐かしの立命館>懐かしの銭湯」とフェイスブック「学生時代に通った銭湯は今?」でご紹介しました。
 そこで残念ながら閉められた銭湯の中で、「カフェ」としてリノベーションされた所が有りますので、ご紹介します。かつてのレトロな銭湯時代を想像しながら、おしゃれにカフェを楽しんでみませんか。

1.SAGANOYU(カフェスタイルリゾート嵯峨野湯)
 1923(大正12)年に建てられ、2004年に廃業された銭湯「嵯峨野湯」(右京区嵯峨天龍寺今堀町4-3)ですが、2006年にリノベーションされ、カフェとして生まれ変わりました。銭湯時代の設備の一部や壁のタイル等を生かしたおしゃれなカフェになっており、パスタやカレー、各種ドリンク等が提供されています。
 店内は基本的に撮影禁止だったため、写真を紹介できないのが残念ですが、許可をとって撮影した写真を掲載します。

銭湯の変身1

銭湯の変身2

2.Hashigo Cafe Kyoto
  元「じぞう湯」(右京区太秦青木ヶ原町3-4)という銭湯が2017年にリノベーションされ、カフェになりました。
 大勢で囲める大テーブルは、浴槽の上に天板を乗せて作られています。下を覗き込むと、タイル製の浴槽が見えます。洗い場と湯船の境目の段差もそのままで、さまざまなモザイクタイルを生かしています。男湯と女湯を隔てる壁は、半分だけ残してあります。奥のドーム状のタイルで囲われている場所は、元はネオン風呂でした。数多くのかき氷メニューやパンケーキ、ケーキ等が提供されています。

銭湯の変身3

銭湯の変身4

銭湯の変身5

銭湯の変身6

3.さらさ西陣
 80年営業を続け、1999年に廃業した銭湯「藤森湯」(北区紫野東藤ノ森町11-1)がリノベーションされてカフェになりました。
 外観の唐破風が見事で、内装は、特徴のある和製マジョルカタイルは極力残し、格天井もそのまま使っています。男湯・女湯の仕切り壁も一部を残しています。奥の浴室は美しいタイルに囲まれたカフェとなっています。ドリンクや定食等が提供されています。
 会計は、ロッカーの番号札のような席札をレジに持っていきます。

銭湯の変身7

銭湯の変身8

銭湯の変身9

銭湯の変身10
立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2026.04.28

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅷ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第53号 表紙写真「愛宕神社正式参拝(中学四ノ二)」 1935(昭和10)年5月

禁衛隊表紙Ⅷ1
【写真1】

 1935(昭和10)年5月に中学校・商業学校1年生から4年生までの生徒たちが学年毎に合同で愛宕神社へ正式参拝しています。そのため生徒も引率教員も正装(教員は背広や羽織袴、軍服)でカメラにおさまっています。このうち4年生は愛宕神社から亀岡馬路村へ向かい1泊し、翌日午後に帰校という行程でした。
 当日は、嵐電北野駅(当時の嵐電は始発駅が北野天満宮前の駅)前に商業学校午前7時半、中学校午前8時に集合し、嵐山駅で電車を乗り換え、清滝駅終点まで。その後はケーブルカーに乗車して頂上駅へ。そこから愛宕神社参道の山道を登りました。生徒の感想文には、5月ながら途中にはまだ桜とつつじが咲いていたと書かれていました。正装で腰に弁当を巻き、水筒をかけただけの姿の生徒たち250名が山頂の本殿を目指したのでした。
 この年から4学年までが愛宕神社を正式参拝することになり、最初の山門には「立命館禁衛隊第一回正式参拝」と張り紙がされてあったそうです。愛宕神社の祭神と併せて社務所横には好菴社と呼ばれるお社があり、中川総長の母方の祖父中川好菴の像が祀られていました。

中川総長と愛宕神社との関係は、立命館 史資料センターHP
<懐かしの立命館>「中川小十郎が寄進した愛宕山の石段」を参照。

【写真1】は下山時にクラス毎の記念写真として撮影されました。学年途中で中退学・編入する生徒も多くいたので、毎年の撮影でも顔触れが変わっていました。

禁衛隊表紙Ⅷ2
【写真2】【写真1】と同年に撮影された中学校3年1組

 以前に当史資料センターHPで【写真2】を紹介した際、偶然にも寄贈いただいた戦没者ご遺族とは別のご遺族から「戦死した自分の叔父が写っています」と連絡をいただいたという深い繋がりのある1枚です。
HP「1枚の中学校クラス集合写真~ご遺族から届けられた写真~」

【写真3】は、1946(昭和21)年から47年に卒業の立命館第二中学校同窓会名簿に掲載された中学校2年生時の写真です。1943(昭和18)年には制服が異なっていたことがわかります。それでも上着の右胸下には「禁衛隊」の記章が縫い付けられています。【写真2】とは異なり、配属将校が左右に立ち、生徒たちの緊張した表情が印象的です。

禁衛隊表紙Ⅷ3
【写真3】

(2)第54号 表紙写真
 「中川総長先生邸前に於ける中商五年生(東京見学旅行)」 1935(昭和10)年6月

禁衛隊表紙Ⅷ4
【写真4】

 前年が二泊三日(うち車中泊一泊)であった中学商業5年生の東京見学旅行は、翌年一週間の日程に拡大され、東京を中心に広範囲での旅行で実施されました。それでも、前年と同じく中川小十郎総長兼校長の邸宅に全員が宿泊しています。旅程のみ紹介すると、

(中学校・商業学校の第五学年63名)
5月20日 午前7時 京都駅集合。鳥羽行快急列車(原文のまま)に乗車し伊勢へ。
内宮・外宮に正式参拝。午後6時56分二見駅出発。沼津駅で電気機関車に乗り換え。
夜は普通座席の車中泊。
5月21日 藤沢駅下車。江ノ島・鎌倉を見学。 午後5時20分東京駅着。宮城奉賀。
省電で高田馬場駅へ。中川総長邸へ隊列行進。宿泊。
5月22日 観光バスにて東京市内見学。靖国神社・明治神宮を正式参拝。
  夜は再び中川総長邸に宿泊。
5月23日 上野駅から日光駅へ。東照宮・二荒山神社を見学、中禅寺湖畔の旅館泊。
5月24日 華厳滝見学後、日光駅から上野駅へ。その後は自由行動で、午後10時新宿駅集合。10時45分発夜行列車で長野へ。
5月25日 午前8時10分長野駅着。善光寺参拝。その後、車中から日本アルプス、親不知・子不知を眺めて、午後7時金沢駅着。 同窓会石川支部の諸先輩に迎えられて旅館泊。
5月26日 午前10時59分金沢駅発。午後6時17分京都駅帰着。解散。 

(3)第55号 表紙写真「槍術貫流指南の久保先生」 1935(昭和10)年7月

禁衛隊表紙Ⅷ5
【写真5】

 立命館禁衛隊の名に相応しい古武士の精神を吹き込もうとする中川小十郎校長による新たな取り組みで、槍術が中学校商業学校の必須科目に取り入れられました。【写真5】に写る教士は、植物園前で書店経営の久保澄雄氏で、南北朝時代の楠木正成があみ出した長さ二間(約3.6m)の長槍を使いこなす貫流の使い手で、当時全国でこの流派を伝える人物が5人しかいなかったという典型的古武道でした。

(4)第56号 表紙写真「勉強の第二學期が来た」 1935(昭和10)年9月

禁衛隊表紙Ⅷ6
【写真6】

 中川小十郎総長は、67歳にして2度目の校長兼任を1933(昭和8)年から務め、京都と東京を行き来し、中学校商業学校のある北大路学舎に頻繁に顔を出していました。1935(昭和10)年第2学期の始業式当日は雨であったため、式は生徒たちが教室に着席して行われました。式開始にあたり、中川校長は放送で全生徒に「頭右へ」と号令をかけて教員一同に敬礼をさせ、以下のような新たな指導を訓示しました(禁衛隊第56号に掲載内容)。

 「今までは入学した生徒を全員進級卒業できることを目標に指導してきたが、今後は専ら優秀で才能ある者と堅実な志をもった者だけを留めて指導し、不勉強な者や堕落者を容赦なく除名退学処分にしていく。但し、努力する者は除名の外はない。立命館は悪い事をしたから懲戒に処するとか謹慎を命ずるとか云ふ事は余りしないが、校長の主旨を理解せず学校の方針に反した行動をする者は用捨なく除名処分をする。」
「遅刻した者は、最初の一時間を教室に入れない事にし、東の道場【写真7】に入って修養してもらう。用意の円座の上にによって坐り凝念修養するのである。」
 立命館坐法は中川校長が少年の頃から伝授されてきた武士道作法で、禁衛隊第50号に掲載されていました【写真8】。

禁衛隊表紙Ⅷ7
【写真7】禁衛隊道場碑(史資料センター所蔵)

 また、禊についても校長公示で次のように述べています(禁衛隊第56号掲載)。
 「愉快に勉強を持続せんとするには、勉強の方法では駄目である。身体が健康でなければ根気が出てこない。どうしても身体を健全にして根気よく勉強を続けねばならぬ。根の張った勉強でなければ本当の学問はできない。それをやらんとするには、身体そのものが健全でなければならぬと云ふのが私の論法である。私が毎早朝励行せんと期している禊の行は実にこの点から出発しているのである。
 禁衛隊の精神は私の教育の指導精神である。私は教育家でもなく、また哲学者でもない、併し禁衛隊の隊長を以て自ら任ずるものである。」

禁衛隊表紙Ⅷ8
【写真8】立命館坐法の解説
 
 中川校長は学力を向上させるため、勉学意欲なき生徒には除名(退学)の厳しい指導を行い、学習持続力を高めるため禊によって健康な身体づくりを行うとしています。中川校長の指導熱は、このように「立命館禁衛隊」第55号・56号あたりから、中学・商業学校生に向けて次々と発揮され実行されていったのでした。

2026年4月28日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

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