立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2025.10.07
<懐かしの立命館>広小路時代に通ったあの店は今…?
1955年から1980年(1981年の衣笠キャンパス一拠点化前)までの学園祭パンフレットに掲載されていた(パンフレットの広告費を頂いていた)広小路近辺の主な飲食店等について現在はどうなっているのか調べてみました。1979年度新入生歓迎パンフレット「息吹」(注①)より広小路学舎周辺マップを図①に提示しますが、この時点で既に閉店している店もあります。下記の年表記は、各店舗広告の初出年度。店舗等の写真の説明は省略。
【図① 立命館大学広小路学舎周辺マップ】
1.広小路周辺
【歴史的写真① 立命館大学広小路学舎】
河原町広小路の北西角には食堂や本屋があったのですが、府立医科大学付属病院のそばということで、現在は薬局になっています。
ちなみに府立医科大学ですが、相当古い建物も残っています(左下の写真)。立命館大学広小路学舎跡(府立医科大学図書館の一角)には「立命館学園発祥の地」の碑があります。
〇喫茶パピヨン(寺町広小路下る東側)<1978年学園祭パンフレット>
閉店しました。現在は「画廊百練堂」になっていて、パピヨンの名前を消して画廊の名前を書いた看板がおいてありました。
〇純喫茶御所(寺町広小路下る)<1965年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇コンドル(立命館大学文学部前)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。跡地が不明確ですが、北から「中国酒家西香」、「ローストビーフともや」、「かぎや洋菓子店」、食堂跡と並んでおり、「かぎや」は現在は閉店しています。
〇櫻町食堂(立命館大学文学部前)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇てんぐ(立命館大学文学部前)<1955年学園祭パンフレット>
「学食の他にはこの店しか知らない。第2の学食」という文学部校友がいました。店主が校友で、現在も営業中です。
〇ジャマイカ(河原町広小路下る西側)<1973年学園祭パンフレット>
閉店しました。「ジャマイカ」があった場所は、骨董品買取の「たからばこ」とスリランカ料理の店になっています。
2.荒神口から丸太町通周辺
〇麺類丼一式 福助(荒神口上る東側)<1955年学園祭パンフレット>
お寿司も提供していましたが、閉店しました。
〇シアン・クレール(河原町荒神口電停前)<1957年学園祭パンフレット>
1956年に1階がクラシック喫茶、2階がモダンジャズ喫茶として開店しました。高野悦子の「二十歳の原点」に登場した「名所」でもありましたが、1990年に閉店しました。
「ジャズの大阪バンビなどなつかしいです」(法学部校友)、「今は駐車場になっていて、さみしいかぎり」(校友)といった感想も出ていました。
〇coffeeチャオ(荒神口西入)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店し、現在は京都和牛100%使用で好評の「OLU BURGER」になっています。
〇喫茶シャポー(荒神口)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
シアンクレールの東隣にありましたが、そのお店の雰囲気そのままに、現在はレストラン「どんグリル」となっています。
〇田毎食堂(荒神口)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店していて、現在は写真のようにホテル「雲町屋」と手作りクッキーの「ホームメードクッキーハウス」になっています。
〇さつき(荒神口)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。
〇和洋食堂やぶ入(荒神橋西詰)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇ほていや食堂(河原町荒神口東入)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇中華そば興津(河原町荒神口東入る南側)<1960年学園祭パンフレット>
閉店しました。この辺りは、「コーヒーハウスPAL」、「レストランパッション」、「新福菜館」、「居酒屋くれない」になっています。
〇荒神口食堂(荒神口東)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
もともと広小路学舎内にあった食堂ですが、閉店しました。
〇リバーバンク(荒神橋西詰め)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。
〇喫茶カワカミ(河原町荒神口電停前)<1960年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇ヴィナス(河原町丸太町上る西側)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇丸太町東洋亭(丸太町)<1956年学園祭パンフレット>
1924年創業のフランス料理の店で、2017年に店舗を建て替えてビルの5階になりましたが、調度品は昔のままで現在も営業中です。但し創業以来使用し続けてきたデミグラスソースづくりのための「石炭ストーブ」は無くさざるを得なかったようです。
〇大力食堂(荒神口下る)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。現在は、食堂の「たじま」があります。
〇中華・焼肉 玄武(河原町丸太町上る東側)<1970年学園祭パンフレット>
閉店しました。
3.出町柳から今出川通周辺
【叡山電車 出町柳駅】
〇音楽喫茶柳月堂(りゅうげつどう)(出町柳)<1957年学園祭パンフレット>
1953年にベーカリーとして開業しました。1階がベーカリー、2階が名曲喫茶で、リスニングルームと談話室があります。リスニングルーム内では、一切の私語が禁じられていて、音楽鑑賞の妨げとなり得るあらゆる物音についても発することが禁じています。また、上着類の脱着についても室外にて行うよう求めているほか、「靴を脱がないこと」という注意事項も存在します。かつては京都大学、立命館大学、同志社大学の学生や教員で賑わっていたとのことです。現在も営業中です。
【出町橋を渡って枡形商店街へ】
〇天狗(出町枡形西入北川)<1967年学園祭パンフレット>
手作りお惣菜の店で鯖の煮つけなどが評判でしたが、2023年に閉店しました。
〇大力餅(寺町今出川上る)<1970年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇喫茶7(セブン)(今出川寺町角)<1970年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇グリル喫茶 ん(un)(寺町今出川下る)<1972年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇すし ひさご(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
河原町通と今出川通の南東角にありましたが、現在は写真のように工事現場となっています。
〇喫茶クイーン(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
河原町通と今出川通の南東角、すしひさごの隣にありました。現在は隣接していたパチンコ・キングも了徳寺跡も上の写真のように工事現場となっています。
〇ミスタードーナツ(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
現在も営業しています。
さらに南に進むと、おしゃれな「SECOND HOUSE出町店」、「田中コーヒ今出川店」が並んでいます。
〇マクドナルド(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
河原町通と今出川通の南西角にありましたが、現在は写真のように「出町輸入食品」と「京菓子處鼓月」になっています。
〇喫茶ジャルダン(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。建物は空き家のままになっています。
〇喫茶モコ(河原町今出川下る)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。
〇なかじま食堂(河原町今出川下る)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
「ここの注文システムは、名前を言って、注文。お金は先払い。料理ができてくると「〇〇さぁぁぁん」とか呼んでくれて、「はぁぁぁい」というと運んできてくれる。」という食堂でした。最近までお弁当販売中心で、食堂は12:00~14:00、土曜日定休で営業していたのですが、「The Ofukuro no Aji」看板を残したまま残念ながら現在は閉店しています。
〇ほんやら洞(寺町今出川西)
もともと休業中だった喫茶店をシンガーソングライターやミュージシャン、文化人、市民たちの募金や労務提供により開店されたお店です。2階にはライブラリー兼会議室のスペースがありました。2015年1月に火災があり、残念ながら閉店しました。
〇にこにこ亭(寺町今出川西)
ビルの3階にあった「ハードロック・スポット」で、巨大なスピーカーで曲がかかっていました。注文もLPレコードのリクエストも口パクだったという噂もあります。現在は閉店しています。
4.その他
〇そば河道屋倖松庵分店(河原町竹尾町角)<1976年学園祭パンフレット>
創業300有余年の老舗「総本家河道屋」の由緒ある屋号を冠する、数少ない暖簾分けを許された店のひとつで、現在も営業しています。平屋の店舗からビルになって2階に引っ越ししたため一見わかりにくくなりましたが綺麗になりました。
〇志津屋(河原町二条東、河原町三条上る、河原町四条上る)<1961年学園祭パンフレット>
1948年創業で美味しいパンを売っており、イートインもできます。現在も営業中です。
〇TEA ROOM幌馬車(河原町二条西)<1961年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇珈琲店六曜社(河原町三条下る)<1956年学園祭パンフレット>
豪華客船をイメージして作られたという店内は、カウンター席がなく、すべてソファ席となっています。混んできたら相席となります。1階が喫茶で地下1階が喫茶とバー(18:00以降)になっています。ドーナツ、ロールケーキ、パウンドケーキも好評です。創業70年で、現在も営業中です。今時珍しく喫煙可となっています。
〇高級喫茶京都プリンス(六角河原町東入)<1956年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇丸善(河原町)<1956年学園祭パンフレット>
1872年に「京都支店(丸屋善吉店)として開業し、一度閉店した後、1907年に三条通麩屋町に「丸善京都支店」として再開しました。梶井基次郎の「檸檬」の舞台ともなりました。1940年には河原町通蛸薬師に移転し、2005年に閉店となりました。2015年からは河原町三条の「京都BAL」地下1階・地下2階に「丸善京都本店」として営業中です。
〇喫茶ソワレ(西木屋町四条上る)<1962年学園祭パンフレット>
1948年に開店し、BGMは流さず青色の照明で静かな空間を提供しています。店名の「ソワレ」とは、フランス語で「夜会」「素敵な夜」、またメニュー表紙にある「Soyez la bienvenue(ソワイエ ラ ビアンヴニュ)」は、「ようこそお越しいただきました」という意味です。東郷青児氏ほかの絵画も飾っており美術館のような佇まいもあります。「ゼリーポンチ」が名物で、現在も営業中です。よく行列が出来ています。
〇高島屋<1972年学園祭パンフレット>
1912年に烏丸店を新築開店した当時は、商業施設初の鉄筋コンクリート3階建てで、一部地階もありました。1946年には京都四条店マーケットセンターを開店し、1950年には四条店第1期増築を行います。1994年に京都店全館増築が完成し、グランドオープンしました。2006年に京都店レストラン街が「ダイニングガーデン京回廊」としてリニューアルオープンしました。そして2023年にリニューアルし、京都高島屋S.C.(ショッピングセンター)がグランドオープンしました。
〇大丸<1956年学園祭パンフレット>
1912年に四条通高倉に鉄筋木造3階建ての新店舗を開業し、現在も営業中です。
〇丸物百貨店(京都駅前)<1955年学園祭パンフレット>
1934年に「株式会社丸物」を創業し、その後1977年に「京都近鉄百貨店」、2000年に「プラッツ近鉄京都」となり、2010年には「ヨドバシカメラ・マルチメディア京都」になっています。
【歴史的写真② 立命館大学文学部校舎】
【歴史的写真③ 立命館大学恒心館】
【歴史的写真④ 上から見た立命館大学広小路学舎】
【歴史的写真⑤ 広小路学舎閉校祭典】
立命館 史資料センター調査研究員 佐々木浩二
【注】①1979年度「息吹」:立命館大学一部学友会新入生歓迎実行委員会発行
【参考】立命館史資料センターホームページ他
2025.09.19
<懐かしの立命館>懐かしの銭湯
現在ではバス・トイレ付の学生アパート・学生マンションが主流だと思いますが、京都で下宿生活をしていて、銭湯に通った思い出のある方々も多いでしょう。
立命館大学校友会創立100周年記念の「みんなの思い出」メッセージにも、「風呂は、龍安寺商店街の谷口湯に行ってました。」(1992年経営学部卒業)、「風呂がなかったので、近所にあった銭湯『小松湯』『扇湯』『金閣寺湯』へ通いました。当時の銭湯代は230円ぐらいでしたが、仕送り日の前には隔日に利用するなど切り詰めていたと思います。」(1988年経営学部卒業)、「風呂といえば、白沙村荘の近くに銀閣寺湯という銭湯があり、そこでの羨ましくも妬ましい光景を思い出します。巷は、かぐや姫の神田川という曲がヒットして数年後の頃で、男湯と女湯との間で『外で待ってる』『ハーイ』とかいうカップルのやりとりが何組もあり、森見登美彦氏流に言えば、『呪いの言葉をわめき散らし』たいような気分によくなったものです。その銭湯の近く、白川通今出川の交差点から銀閣寺へ通じる途中の疏水添いの小径は、4月の桜の花の散り際にはピンクの絨毯を敷いたような美しさで、私にも銭湯でのカップルのように、いつか春が来るのではという妄想を抱かせてくれました。」(1980年法学部卒業)といった思い出が語られています。
ところが、最近はその数が減少の一途を辿っています。原因は様々です。林宏樹『京都極楽銭湯読本』(淡交社2011年)(以下「同上書」と表記)によれば、「約十年に一度やってくる釜の更新時期が廃業するひとつのタイミングのようだ。数百万円の費用を掛けて釜を更新しても、あと十年、自分たちの身体がもつかどうかわからないため、暖簾を下ろされるパターンだ」と書いています(135頁)。後述の「経営者の年齢構成」グラフ(2008年調査)を見ても60歳以上が75.3%と銭湯経営者の高齢化がわかります。また「利用者の年齢構成」も年齢層が高いことがわかります。さらに、風呂付の住宅の増加や新型コロナウイルス蔓延なども影響していると考えられます。
京都府公衆浴場生活衛生同業組合加盟の銭湯数は、1955年に586軒、1975年に502軒、1990年に372軒、2000年に301軒、2010年に236軒、2020年に163軒、2025年に143軒となっています。
同上書に1964(昭和39)年当時の京都府の浴場組合加盟銭湯一覧(そのうち2010(平成22)年末現在営業中の銭湯)が示されていましたので、そこに2025年現在の情報を加えてまとめてみました。京都市北区と上京区、中京区にある銭湯に絞っていますが、皆さんが利用していた銭湯はありましたか?なお、1964年当時には「〇〇湯」としていた名前が、今日では「〇〇温泉」と名乗っている所も多くなっています。もっとも現実に温泉もあったようです。同上書では、「とかく暗い話題の多い銭湯業界だが、2006年5月に、京都市右京区西京極の大門湯(現、天翔の湯大門)で、地下千メートルから温泉が沸いたという明るいニュースが届いた。街のお風呂屋さんが自前で温泉を掘削し、見事に掘り当てたのだ。泉質は療養泉にも認定される「ナトリウム―塩化物泉(純食塩泉)」で、泉温35.5℃。浴用した場合の適応症としては、神経痛や関節痛などがあるほか、引用も可能なのだとか。ご主人は、療養泉であることが確認された日、一日中成分表を眺めておられたというから、その嬉しさがどれほどだったか窺える。」と書かれています(115頁)。
さて、銭湯の大人の入浴料ですが、1959年は16円(+洗髪料10円)、1965年は28円(+洗髪料10円)、1966年から洗髪料が5円に値下がりし、1972年に48円(+洗髪料5円)、1973年は60円で洗髪料は廃止、1975年は100円、1981年は200円、1990年は250円、1995年は300円、2000年は350円、2005年は370円、2010年は410円、2024年は510円、2025年は550円と、値上がりが続いてきました。
*注:円グラフは、同上書のグラフの数値をもとに筆者が編集しました。
懐かしの銭湯の営業状況推移表はこちら→♨ ※別ウィンドウで一覧表が表示されます。
2025年9月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二
2025.07.29
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校商業学校(Ⅰ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
史資料センターには戦前の立命館中学校・立命館商業学校時代に発行された広報誌「立命館禁衛隊」が創刊号から保存されています。
立命館禁衛隊は、1928(昭和3)年11月10日の京都御所での昭和天皇即位の御大典に当たって、立命館の全教職員、学生、生徒が御所を警護するという目的で結成されたものです。その一年後の1929(昭和4)年10月、広報誌「立命館禁衛隊」は、「立命館中学校竝に立命館商業学校の人心の統制学術の奨励を目的」(注1)として創刊され、
【写真1】第1号表紙
以後ほぼ月刊で1938(昭和13)年2月の第83号まで発行されています。その後は不定期で刊行されました。
今回は、広報誌「立命館禁衛隊」表紙に掲載された写真から昭和初期の立命館付属学校の姿を紹介します。
(1)第1号表紙写真 1929(昭和4)年10月発行「中学校・商業学校教職員 全校生徒集合」
【写真2】
創刊号を飾る表紙の写真は、1929(昭和4)年9月3日午後1時に中学校と商業学校全員が校庭に集合して記念撮影されたものです。生徒は夏服に制帽。教職員も白色を基調とした服装で、見事な姿勢で整列をしています。
前日2日午前8時に両校職員生徒一同が校庭に集合し、朝礼が行われ、その後に授業が行われています。放課後の職員会議では、「立命館禁衛隊」発刊の件、学校と家庭との連絡の件、一般訓育に関する件、防寒具を外套に統一する件などが議題とされたと記録されています。
(2)第3号表紙写真 1929(昭和4)年12月発行「立命館禁衛隊旗 授与式」
【写真3】
立命館が昭和天皇即位大典のための御所警護を行ったことに対し、天皇から賜金をいただくことになり、これを基に「天賜立命館禁衛隊」の文字が錦糸で刺繍された禁衛隊旗2本が制作され、大学と中学商業にそれぞれ交付されることになりました。
そして、昭和天皇即位の翌年11月10日が「禁衛隊記念日」と定められました。この日は早朝から降りしきる雨の中で禁衛隊旗の授与式が行われました。校庭に中学商業の生徒約千名が凹の字に整列し、中央には中川小十郎参謀長(総長)と塩崎隊長(校長)。中川参謀長は、全生徒教職員に向けて「この隊旗は禁衛隊精神の象徴である。この隊旗を主持して禁衛隊精神を発揮せよ」と述べられ、隊旗は生徒旗手へと渡されたのでした。
雨中の校庭での分列式を終え、最後は塩崎隊長の発声で天皇陛下万歳を三唱して隊旗授与式は終わったのでした。
(3)第4号表紙写真 1930(昭和5)年1月発行「山国村協一尋常高等小学校に於ける塩崎校長の講話」
【写真4】
立命館では、「立命館禁衛隊映写班」として、御大典の時からフィルムによる記録撮影を行い、校友会で撮影機映写機などを購入して活動を活発化していました。そして、禁衛隊広報の一環として、京都市内の小学校など様々な場で上映することが計画されていました。すでに禁衛隊の行進曲にもなっていたのが、時代祭でも知られる山国隊の鼓笛でした。軍楽の発祥地ともいわれる山国村から禁衛隊の写真を見たいとの依頼を受け、12月3日に上映会を開催することになりました。塩崎校長が講話を行った後に映画が上映されました。
映画は、学校準備の「立命館禁衛隊」8巻(1巻400フィート)
「感激の東郷大将」「高山彦九郎」各1巻
「不破數右衛門(赤穂浪士四十七士)」全6巻の長編もの
(4)第12号表紙写真 1930(昭和5)年11月発行「射場開式 天地四方祓 小笠原清道範士」
【写真5】
立命館中学校商業学校では、1930(昭和5)年4月に弓道場が新設され、同時に弓道部が誕生していました。そして、10月5日午前8時半から弓道射場開きの式典が開催されました。
塩崎達人会長(中学校長)の開会の辞の後、大日本武徳会師範である小笠原範士による式射禮が行われ、次いで巻藁前を行ったのが本校顧問の田島錦治立命館大学長でした。その後に射禮として大学や高等学校、京都・大阪の中学校などから多くの選手出場があり、午前の最後を清和中学校卒で立命館の校医であった藤野幸太郎の射禮で終えました。昼食後は競射が行われ、表彰の後には田島学長による万歳三唱ですべてを終了しました。
2025年7月29日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注1;「立命館学誌」127号 (1929年10月発行)