立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2025.12.12

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅳ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から



(1)第25号表紙写真 1932(昭和7)年2月発行
   「京洛の覇者 立命館中学校相撲部」

禁衛隊表紙Ⅳ1
【写真1】

 この当時、相撲は中学校スポーツの中でもメジャーな競技で、各大学主催の中等学校相撲大会が開催されるようになっていました。1931(昭和6)年10月には立命館大学主催第1回全国中等学校優勝大会が開催され、立命館中学校の選手が優勝と3位に。また、11月の同志社大学主催第4回京都中等学校優勝相撲大会では第1回大会以来の優勝を果たしています。表紙【写真1】はその時の優勝記念写真で、その後も相撲部は活躍していました。


(2)第28号表紙写真 1935(昭和10)年9月発行
「浦上範士射――五月七日」
  


禁衛隊表紙Ⅳ2
【写真2】

 1932(昭和7)年3月、武徳殿で開催された第32回関西連合競射大会において、立命館中学校・商業学校からは各2チームが出場。中学校4年の伊藤英夫が大学生や一般も含めた百名ほどの出場者の中で第2位に入賞しています。商業4年の伊藤節夫と共に17歳にして弓道初段を允許されています。
 この頃になると弓道部の活動は目覚ましい活躍として報じられていました。前年の1934(昭和9)年5月には京都武徳会による武徳祭が開催され、演武のために全国からも有名な弓道師範が京都を訪れていました。5月3日には学習院と東京帝国大学師範の大内儀一範士が来校し、講堂で生徒を直接に指導していました。続いて、表紙【写真2】の海軍大学校師範浦上榮範士が7日に校庭で日置当流の妙技を披露されました。浦上範士は、立命館中学校・商業学校生徒が前年秋に東京で開催された明治神宮体育大会に出場した際、特別にお世話をいただいたという経緯もあったのでした。
 この年の6月には第4回京都中等学校弓道連盟競射大会が立命館大学道場で開催され、立命館商業学校が優勝を果たしました。


(3)第29号表紙写真 1932(昭和7)年10月発行
 「塩崎校長 奉射
    七月三十一日・官幣中社御上神社 」 





禁衛隊表紙Ⅳ3
【写真3】
 1932(昭和7)年7月、中学校と商業学校の弓道部では、夏期講習を終えてから生徒22名(中学2年2名、3年9名、4年5名、5年1名。商業3年4名、4年1名)と引率教員団5名(団長は塩崎達人校長)で、7月31日から8月3日の日程で滋賀県の東江州の史蹟踏査を行いました。
 立命館の弓道流派である日置流に最もゆかりのあるのが滋賀の御上神社(注1)であったことから、第1日目には御上神社楼門前で校運の隆昌と武運長久を祈願する禮射一手の儀式を塩崎校長の奉射によって表紙【写真3】のように行われました。続いて生徒代表2名、校医で塩崎校長と清和中学校同級生であった藤野幸太郎師範代【写真4】(注2)が禮射を行いました。
禁衛隊表紙Ⅳ4
【写真4】

 その後は三日間で滋賀県八日市の連隊と沖野が原飛行場を訪問。観音寺から安土。そして長命寺を訪れてから京都へ帰っていったのでした。


(4)第31号表紙写真 1932(昭和7)年12月発行
  「大阪御親閲記念」


禁衛隊表紙Ⅳ5
【写真5】

 1932(昭和7)年11月16日、天皇による親閲式が大阪城東練兵場で行われ、分列式に参加をするために近畿圏内の中等学校と高等学校生徒、専門学校生徒、大学生、青年団、在郷軍人、女子学生と8万人もの若者が集合しました。雨中のなかでの親閲式にもかかわらず、表紙の【写真5】の天皇と分列式行進を見たいと集まった観衆は数万人と記されていました。
 戸山陸軍軍楽隊の演奏する行進曲が流れるなか、立命館中学校(35名)と商業学校(30名)生徒たちは、京都第十三集団第一大隊第十七中隊として行進しました。日頃から禁衛隊としての精神と訓練をこなしているだけあって、生徒たちにとっては最高の姿を天皇に披露できたと感激していました。
 この親閲式に参加をした生徒たちの感想が、この第31号に掲載されていますが、この中の中学5年生の一人は最後に
 「その一日こそ吾等が一生の光栄の日であり、且又、己が一生の憶ひ出の頁を飾るであらう」と結んでいたのですが、その人物は、中学校卒業(昭和8年3月)してすぐに入隊。中途幹部候補生の試験に合格し首席で卒業。翌年、北満州の松花江のほとりで戦死しました。あまりにも若すぎる生涯を終えることとなったのでした。


(5)第32号表紙写真  1933(昭和8)年3月発行
 「東久邇宮殿下台臨
    明治大帝聖像奉拝式
     禁衛隊観兵式

禁衛隊表紙Ⅳ6
【写真6】
 
 立命館学園では、明治天皇を学園の守護神と仰ぎ、明治天皇の聖像の謹製を学内国清殿に奉安することとして、1933(昭和8)年1月14日、東久邇宮稔彦(注3)を招き学園で奉拝式を挙行しました。京都の第十六師団長、京大総長、京都府知事、京都裁判所所長をはじめ、府下の公私立学校関係者、校友、保護者、教職員学生生徒など多数が迎えるなか、表紙の【写真6】のように、中川小十郎総長の先導で東久邇宮稔彦が大学構内へ入場してきました。
 奉拝式の終了後には、「東久邇宮殿下御観閲立命館禁衛隊観兵式」が御苑広場にて行われました。この観兵式には荒木陸相や山本師団長も立ち合い、式後は御苑から烏丸通り~四条通~河原町通~大学(広小路)まで行進を行ったとあり、翌日の大阪朝日新聞には
「立命館の軍事教練は師団管下のみならず、全国的に名声をあげてゐる。」と歩武堂々の行進の様子を紹介していました。

2025年12月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
                
注1:滋賀県野洲市にあり、近江富士と呼ばれる三上山をご神体として祀る神社。
注2:中学校・商業学校の校医であった藤野と塩崎とは清和中学校第5回(明治44年)卒業の同級生(年齢は藤野が6歳上)であった。
注3:東久邇宮稔彦は、明治天皇の娘婿にあたり、昭和天皇にとっては義父の弟という当時の天皇と深い縁故関係にあった皇族。敗戦処理を行った総理大臣として知られる。

2025.12.09

<お知らせ>『シンポジウム「強い国にならなくてもいい、尊敬される国日本になるべき‐西園寺公望がみた未来‐』の動画を公開しました。

 『シンポジウム「強い国にならなくてもいい、尊敬される国日本になるべき‐西園寺公望がみた未来‐』を公開しました。

 こちらは、2025年8月31日に実施したシンポジウムの編集映像です。磯田道史氏(国際日本文化研究センター教授)、藪中三十二氏(学校法人立命館理事・元外務事務次官)、西園寺裕夫氏(公益財団法人五井平和財団理事長)をお迎えして、西園寺公望の事歴を「政治」「外交」「教育」の視点から語っていただきました。
政治・外交・教育という多角的な視点から、西園寺公望が目指した"日本の未来像"について語り合う、非常に密度の濃い内容です。
 約80分の動画です。是非ご覧ください。


周年記念誌シンポジウム2

2025.11.11

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅲ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から


 立命館禁衛隊は立命館学園の学生生徒を対象として結成されたものですが、広報誌「立命館禁衛隊」は立命館中学校・商業学校の生徒と保護者、そして京都府の各小学校へ配布され、立命館の生徒たちの姿を広く伝え、生徒募集を拡大する目的ももっていました。

(1)第20号表紙写真 1931(昭和6)年9月発行
禁衛隊表紙Ⅲ1
 【写真1】
 1930(昭和5)年10月17日、 京都府下の全中等学校(37校)が参加する陸上競技大会が京都の植物園運動場で開催されました。各校の応援団がスタンドいっぱいに陣取り、野球と同様に熱く燃え上がった応援を行っていました。立命館が最も会場に近い学校(北大路室町にあり徒歩で約15分。現在は立命館小学校)であったこともあって、中川小十郎校長の指示で3年生以下の全生徒が応援に向かうという熱の入れようでした(4、5年生は同日に上賀茂の立命館グラウンドで開催の立命館学園の総合運動会へ参加・応援)。当時の大会は記録よりも入賞順位の得点を総合で競う対校形式で、立命館中学校の選手は200m1位、5000m3位、走り幅跳び2位などに入賞して総合12位となっています。
 この前年の大会では立命館の高木正平選手が中長距離全種目出場して、1500mで優勝するなど活躍していました(高木は後に立命館大学が関西学生駅伝で初優勝した時のエースで主将)【写真2】。
 陸上部は、当時の立命館中学校で学校を代表するような運動部でした。写真【写真1】の上段が中学校で、ユニフォームの校名はやはり野球と同じく(前回のⅡで紹介)左下がりの漢字表記でした。 

禁衛隊表紙Ⅲ2
【写真2】1930(昭和5)年2月の陸上部中学5年生送別記念写真
中列右から3人目が高木正平選手

(2)第21号 1931(昭和6)年10月発行
   「=酷暑四十日=弓道部夏稽古」
禁衛隊表紙Ⅲ
【写真3】
 この第21号では、紙面全体(30ページ)の3分の1を弓道部と立命館中学校・商業学校主催の秋期大運動会関係の記事で占めていました。
 6月21日には立命館大学弓道場において立大、三高、桃山中学、立命館中学、立命館商業の5校が参加して「北垣教士祝賀 連合競射大会」が開催され、1等までを立命館中学が、次いで五位までを立命館商業の生徒が独占しています。教員3名も特別出場していて、塩崎達人校長が八位に名を連ねています。野球部の指導も含めスポーツマン校長の存在は注目されます。
 次いで記事は、夏休みを皆勤で練習に励んだ商業3年生の古家嘉一の記事が、「弓道練習日記」と題して3ページに亘って掲載されています。実力をつけてきた立命館の弓道部の模範生徒として、その熱心な活動記録が紹介されています。 

 この他の記事としては、「府下学童陸上競技大会」は9月24日に上賀茂の立命館学園運動場に高等小学校15校、尋常小学校31校(すべてが京都市内の小学校)が参加して競い、優勝校には優勝旗が授与され、参加者全員へ記念メダルが贈られました。
 次いで9月27日からは同じく上賀茂の運動場で「府下学童野球大会」が高等小学校7校、尋常小学校13校の参加で戦われ、高等小学校決勝戦では九條、尋常小学校では郁文がそれぞれ優勝しています。
 
 この当時は、立命館中学校・商業学校では文武両道を掲げて励んでいたのでした。

(3)第22号 1931(昭和6)年11月発行
  「光栄のわが隊旗」
禁衛隊表紙Ⅲ4
【写真4】
 1928(昭和3)年11月10日、京都御所に於いて天皇即位の大礼が挙行されるにあたり、立命館学園の学生生徒が禁衛隊を組織し、御所の警護を行いました。これに対して天皇から賜金をいただくことになり、立命館では禁衛隊旗2旗を製作し、翌1929年11月10日の禁衛隊記念日に「天賜 立命館禁衛隊」の文字が記された隊旗が、禁衛隊の精神として大学と中学・商業学校へ授与されました。隊旗は、校内校外において扱われる要領が決められており、樹立格納する際には送迎式が行われていました。立命館の象徴として敬意を表わされていました。

4)第23号 1931(昭和6)年12月発行
 「立命館禁衛隊愛国総行進 十一月十九日」
 上段は「建禮門前に於ける敬禮」
 下段は「烏丸通にて」

禁衛隊表紙Ⅲ5
【写真5】
 11月10日の禁衛隊記念日を皮切りに、立命館禁衛隊の行事が続きました。
 10日は午前8時半に広小路の大学中庭に大学生中学生商業学校生全員が集合して記念式典が挙行されました。禁衛隊の中学喇叭隊による君が代吹奏の後、田島学長式辞、中川総長訓話と続き、陸軍少将の記念講演が行われ、昼食には生徒学生全員で記念の雑炊を食べた後、大学を出発し、全隊員による行進で梨木神社前を南下、丸太町通り堺町御門から御苑に入り、建禮門に至っています。
 19日は写真下段のように立命館全学生生徒が隊列を組んで、大学を出発し、烏丸通、四条通、河原町通、大学へと大行進を実施しています。
 21日には、商業学校生徒全員による大阪行軍が行われました。伏見中書島を午前5時50分に出発し、大阪城を目指しました。途中で歩けなくなった10名が電車で移動しただけで、ほぼ全員が完歩。天守閣を参観した後、京阪電車の臨時貸切車両で天満橋から京都三条まで乗車。午後5時30分に到着した後、全員で万歳三唱して解散しています。

2025年11月11日 立命館 史資料センター調査研究員 西田 俊博

最新の投稿

RSS