立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2025.11.04
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校商業学校(Ⅱ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第13号表紙写真 1930(昭和5)年12月発行
「丹波山国村花脊村方面への二泊旅行を無事終へ帰校したる際の記念写真」
【写真1】
11月3日の明治節の日、立命館中学校禁衛隊軍部隊は校門前に整列した12台のトラックに分乗し、隊旗を先頭に山国村へ向かいました。引率は隊長の塩崎校長以下教員11名。生徒は軍楽隊42名、5年生106名、4年生122名。学校から周山まではトラックによる輸送演習(全軍のトラック輸送は全国学校教練実施上初めて)。高雄から杉坂を経て笠峠、栗尾峠の険しい難所を越え周山小学校までトラックの荷台に揺られて約3時間。昼食休憩後は、山国鳥居村付近において対抗発火演習を行い、その後山国隊招魂社参拝し、生徒たちは山国村民家に分宿、職員全員は草木左内氏宅(創立者中川小十郎の妻好栄の実家)に舎営しています。
二日目は禁衛隊行進で常照皇寺、山国陵を参拝。黒田村から大布施を経て花脊スキー場のある別所まで行軍。その夜はスキー場の旅館で宿泊しました。
三日目は途中で戦闘訓練などを行った後、最後の険難花脊峠を越えて鞍馬到着が午後1時半、遅れ過ぎたため鞍馬から二軒茶屋までは電車移動。二軒茶屋付近では学校から到着の留守隊との抗戦演習を行い、午後4時に帰校。最終日の行軍で疲れ果てた後に校庭で整列して記念撮影【写真1】となっています。
(2)第14号表紙写真【写真2】 1931(昭和6)年1月発行
「臥薪嘗胆の生徒隊野球部」
第15号表紙写真【写真3】 1931(昭和6)年2月発行
「臥薪嘗胆の生徒隊野球部」
【写真2】
【写真3】
1929(昭和4)年2月、兼任で中学校校長を務めていた中川小十郎が退任し、それまで中学校教頭を務めていた塩崎達人(注1)が校長に就任しました。母校出身で運動好きの熱血校長の塩崎(【写真2】と【写真3】の中央に写る人物)は、自らもユニフォーム姿で部員たちにノック練習もしていたほどで、当時の様子を次のように語っています(注2)。
「運動競技に於いては精神的訓練が最初であって同時に最後のものである。去る七月下旬京津野球大会に参加し球場に於ての一挙一動が立命館式で中学チームの本領を発揮し加ふるに技量も斯界の識者に一大ショックを与えたのであった。(中略)
服装に就いて
野球衣(帽子を含む)は学校制服と同一に取扱ふ。野球衣は質素なる無地白色のものたるべし。胸章は以前はローマ字綴りでリツメイとやっていた。その後のここ数ケ年は帽章をそのまま胸章に使用してきたが、今回愈々立命館の三字を用いることにした。この胸章のために国粋チームの名を頂戴し、或は反動?猟奇?などの批評を得たわけだがわれわれの心持はそんなものではない。(以下略)」
この時の立命館中学校の選手の様子は、当時の新聞でも次のように紹介していました
「出場三十四チームの中、異彩を放ってゐるのが立命館チーム。ユニホームは漢字で右書き斜めに立命館と印し、挨拶は必ず軍隊式の挙手の敬礼、中澤委員長の訓示に対し挙手の答禮をなし満場拍手して厳粛さに賛辞を呈す。」(注3)
(3)第18号表紙写真【写真4】 1931(昭和6)年5月発行
「新興に燃える商業学校野球部の意気」
【写真4】
立命館商業学校は1929(昭和4)年に設立されましたが、2年後には前述の立命館中学校と同じユニフォームで野球部が創部されています。前列中央には塩崎校長が写っています。
ところが、この4年後、1933(昭和8)年8月に再び中学校・商業学校の両校長を兼任することとなった中川小十郎は、野球や庭球、陸上などのスポーツを学校として禁止することにしたのでした。その理由を次のように語っています。
「立命館は天下の立命館である。区々たる京都一地方を目標としているのではない。從って市内各学校の連合競技会だの対抗仕合などに依て勝つたの負けたのと騒ぎ立てる様な根性ではだめだ。諸君の本校に学ぶ目的は、天皇陛下の為、国家の為、人の為めに大いに仕事の出来る人間となる事である。」(注4)
こうして立命館中学校・商業学校の野球部は姿を消すこととなりました。
(4)第19号表紙写真【写真5】 1931(昭和6)年5月発行
「優勝―立命館中学校―京都中等学校弓道連盟戦」
【写真5】
立命館中学校商業学校には、既に1930(昭和5)年に弓道射場が開設されて(注5)対外試合にも出場していましたが、なかなかよい結果を残すことができずにいました。それが1931(昭和6)5月、立命館大学弓道場で開催された第2回京都中等学校弓道連盟競射大会で見事に優勝を果たすことができました。その後も弓道部は華やかな戦績を収めていくこととなりました。
2025年11月4日 立命館 史資料センター調査研究員 西田 俊博
注1:清和中学校(明治44年卒)から京都帝国大学へ進学。卒業後に立命館中学校の教員となる。
注2:「立命館禁衛隊」第10号(1930年9月発行)に「野球部を語る」
注3:大阪朝日新聞(1930年7月25日)
注4:「立命館禁衛隊」第56号(1935年9月発行)中川校長の訓示
注5:史資料センターHP <懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校商業学校(Ⅰ)
2025.10.07
<懐かしの立命館>広小路時代に通ったあの店は今…?
1955年から1980年(1981年の衣笠キャンパス一拠点化前)までの学園祭パンフレットに掲載されていた(パンフレットの広告費を頂いていた)広小路近辺の主な飲食店等について現在はどうなっているのか調べてみました。1979年度新入生歓迎パンフレット「息吹」(注①)より広小路学舎周辺マップを図①に提示しますが、この時点で既に閉店している店もあります。下記の年表記は、各店舗広告の初出年度。店舗等の写真の説明は省略。
【図① 立命館大学広小路学舎周辺マップ】
1.広小路周辺
【歴史的写真① 立命館大学広小路学舎】
河原町広小路の北西角には食堂や本屋があったのですが、府立医科大学付属病院のそばということで、現在は薬局になっています。
ちなみに府立医科大学ですが、相当古い建物も残っています(左下の写真)。立命館大学広小路学舎跡(府立医科大学図書館の一角)には「立命館学園発祥の地」の碑があります。
〇喫茶パピヨン(寺町広小路下る東側)<1978年学園祭パンフレット>
閉店しました。現在は「画廊百練堂」になっていて、パピヨンの名前を消して画廊の名前を書いた看板がおいてありました。
〇純喫茶御所(寺町広小路下る)<1965年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇コンドル(立命館大学文学部前)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。跡地が不明確ですが、北から「中国酒家西香」、「ローストビーフともや」、「かぎや洋菓子店」、食堂跡と並んでおり、「かぎや」は現在は閉店しています。
〇櫻町食堂(立命館大学文学部前)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇てんぐ(立命館大学文学部前)<1955年学園祭パンフレット>
「学食の他にはこの店しか知らない。第2の学食」という文学部校友がいました。店主が校友で、現在も営業中です。
〇ジャマイカ(河原町広小路下る西側)<1973年学園祭パンフレット>
閉店しました。「ジャマイカ」があった場所は、骨董品買取の「たからばこ」とスリランカ料理の店になっています。
2.荒神口から丸太町通周辺
〇麺類丼一式 福助(荒神口上る東側)<1955年学園祭パンフレット>
お寿司も提供していましたが、閉店しました。
〇シアン・クレール(河原町荒神口電停前)<1957年学園祭パンフレット>
1956年に1階がクラシック喫茶、2階がモダンジャズ喫茶として開店しました。高野悦子の「二十歳の原点」に登場した「名所」でもありましたが、1990年に閉店しました。
「ジャズの大阪バンビなどなつかしいです」(法学部校友)、「今は駐車場になっていて、さみしいかぎり」(校友)といった感想も出ていました。
〇coffeeチャオ(荒神口西入)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店し、現在は京都和牛100%使用で好評の「OLU BURGER」になっています。
〇喫茶シャポー(荒神口)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
シアンクレールの東隣にありましたが、そのお店の雰囲気そのままに、現在はレストラン「どんグリル」となっています。
〇田毎食堂(荒神口)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店していて、現在は写真のようにホテル「雲町屋」と手作りクッキーの「ホームメードクッキーハウス」になっています。
〇さつき(荒神口)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。
〇和洋食堂やぶ入(荒神橋西詰)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇ほていや食堂(河原町荒神口東入)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇中華そば興津(河原町荒神口東入る南側)<1960年学園祭パンフレット>
閉店しました。この辺りは、「コーヒーハウスPAL」、「レストランパッション」、「新福菜館」、「居酒屋くれない」になっています。
〇荒神口食堂(荒神口東)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
もともと広小路学舎内にあった食堂ですが、閉店しました。
〇リバーバンク(荒神橋西詰め)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。
〇喫茶カワカミ(河原町荒神口電停前)<1960年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇ヴィナス(河原町丸太町上る西側)<1955年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇丸太町東洋亭(丸太町)<1956年学園祭パンフレット>
1924年創業のフランス料理の店で、2017年に店舗を建て替えてビルの5階になりましたが、調度品は昔のままで現在も営業中です。但し創業以来使用し続けてきたデミグラスソースづくりのための「石炭ストーブ」は無くさざるを得なかったようです。
〇大力食堂(荒神口下る)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。現在は、食堂の「たじま」があります。
〇中華・焼肉 玄武(河原町丸太町上る東側)<1970年学園祭パンフレット>
閉店しました。
3.出町柳から今出川通周辺
【叡山電車 出町柳駅】
〇音楽喫茶柳月堂(りゅうげつどう)(出町柳)<1957年学園祭パンフレット>
1953年にベーカリーとして開業しました。1階がベーカリー、2階が名曲喫茶で、リスニングルームと談話室があります。リスニングルーム内では、一切の私語が禁じられていて、音楽鑑賞の妨げとなり得るあらゆる物音についても発することが禁じています。また、上着類の脱着についても室外にて行うよう求めているほか、「靴を脱がないこと」という注意事項も存在します。かつては京都大学、立命館大学、同志社大学の学生や教員で賑わっていたとのことです。現在も営業中です。
【出町橋を渡って枡形商店街へ】
〇天狗(出町枡形西入北川)<1967年学園祭パンフレット>
手作りお惣菜の店で鯖の煮つけなどが評判でしたが、2023年に閉店しました。
〇大力餅(寺町今出川上る)<1970年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇喫茶7(セブン)(今出川寺町角)<1970年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇グリル喫茶 ん(un)(寺町今出川下る)<1972年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇すし ひさご(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
河原町通と今出川通の南東角にありましたが、現在は写真のように工事現場となっています。
〇喫茶クイーン(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
河原町通と今出川通の南東角、すしひさごの隣にありました。現在は隣接していたパチンコ・キングも了徳寺跡も上の写真のように工事現場となっています。
〇ミスタードーナツ(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
現在も営業しています。
さらに南に進むと、おしゃれな「SECOND HOUSE出町店」、「田中コーヒ今出川店」が並んでいます。
〇マクドナルド(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
河原町通と今出川通の南西角にありましたが、現在は写真のように「出町輸入食品」と「京菓子處鼓月」になっています。
〇喫茶ジャルダン(河原町今出川)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。建物は空き家のままになっています。
〇喫茶モコ(河原町今出川下る)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
閉店しました。
〇なかじま食堂(河原町今出川下る)<1979年学園祭パンフレットのMAP>
「ここの注文システムは、名前を言って、注文。お金は先払い。料理ができてくると「〇〇さぁぁぁん」とか呼んでくれて、「はぁぁぁい」というと運んできてくれる。」という食堂でした。最近までお弁当販売中心で、食堂は12:00~14:00、土曜日定休で営業していたのですが、「The Ofukuro no Aji」看板を残したまま残念ながら現在は閉店しています。
〇ほんやら洞(寺町今出川西)
もともと休業中だった喫茶店をシンガーソングライターやミュージシャン、文化人、市民たちの募金や労務提供により開店されたお店です。2階にはライブラリー兼会議室のスペースがありました。2015年1月に火災があり、残念ながら閉店しました。
〇にこにこ亭(寺町今出川西)
ビルの3階にあった「ハードロック・スポット」で、巨大なスピーカーで曲がかかっていました。注文もLPレコードのリクエストも口パクだったという噂もあります。現在は閉店しています。
4.その他
〇そば河道屋倖松庵分店(河原町竹尾町角)<1976年学園祭パンフレット>
創業300有余年の老舗「総本家河道屋」の由緒ある屋号を冠する、数少ない暖簾分けを許された店のひとつで、現在も営業しています。平屋の店舗からビルになって2階に引っ越ししたため一見わかりにくくなりましたが綺麗になりました。
〇志津屋(河原町二条東、河原町三条上る、河原町四条上る)<1961年学園祭パンフレット>
1948年創業で美味しいパンを売っており、イートインもできます。現在も営業中です。
〇TEA ROOM幌馬車(河原町二条西)<1961年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇珈琲店六曜社(河原町三条下る)<1956年学園祭パンフレット>
豪華客船をイメージして作られたという店内は、カウンター席がなく、すべてソファ席となっています。混んできたら相席となります。1階が喫茶で地下1階が喫茶とバー(18:00以降)になっています。ドーナツ、ロールケーキ、パウンドケーキも好評です。創業70年で、現在も営業中です。今時珍しく喫煙可となっています。
〇高級喫茶京都プリンス(六角河原町東入)<1956年学園祭パンフレット>
閉店しました。
〇丸善(河原町)<1956年学園祭パンフレット>
1872年に「京都支店(丸屋善吉店)として開業し、一度閉店した後、1907年に三条通麩屋町に「丸善京都支店」として再開しました。梶井基次郎の「檸檬」の舞台ともなりました。1940年には河原町通蛸薬師に移転し、2005年に閉店となりました。2015年からは河原町三条の「京都BAL」地下1階・地下2階に「丸善京都本店」として営業中です。
〇喫茶ソワレ(西木屋町四条上る)<1962年学園祭パンフレット>
1948年に開店し、BGMは流さず青色の照明で静かな空間を提供しています。店名の「ソワレ」とは、フランス語で「夜会」「素敵な夜」、またメニュー表紙にある「Soyez la bienvenue(ソワイエ ラ ビアンヴニュ)」は、「ようこそお越しいただきました」という意味です。東郷青児氏ほかの絵画も飾っており美術館のような佇まいもあります。「ゼリーポンチ」が名物で、現在も営業中です。よく行列が出来ています。
〇高島屋<1972年学園祭パンフレット>
1912年に烏丸店を新築開店した当時は、商業施設初の鉄筋コンクリート3階建てで、一部地階もありました。1946年には京都四条店マーケットセンターを開店し、1950年には四条店第1期増築を行います。1994年に京都店全館増築が完成し、グランドオープンしました。2006年に京都店レストラン街が「ダイニングガーデン京回廊」としてリニューアルオープンしました。そして2023年にリニューアルし、京都高島屋S.C.(ショッピングセンター)がグランドオープンしました。
〇大丸<1956年学園祭パンフレット>
1912年に四条通高倉に鉄筋木造3階建ての新店舗を開業し、現在も営業中です。
〇丸物百貨店(京都駅前)<1955年学園祭パンフレット>
1934年に「株式会社丸物」を創業し、その後1977年に「京都近鉄百貨店」、2000年に「プラッツ近鉄京都」となり、2010年には「ヨドバシカメラ・マルチメディア京都」になっています。
【歴史的写真② 立命館大学文学部校舎】
【歴史的写真③ 立命館大学恒心館】
【歴史的写真④ 上から見た立命館大学広小路学舎】
【歴史的写真⑤ 広小路学舎閉校祭典】
立命館 史資料センター調査研究員 佐々木浩二
【注】①1979年度「息吹」:立命館大学一部学友会新入生歓迎実行委員会発行
【参考】立命館史資料センターホームページ他
2025.09.19
<懐かしの立命館>懐かしの銭湯
現在ではバス・トイレ付の学生アパート・学生マンションが主流だと思いますが、京都で下宿生活をしていて、銭湯に通った思い出のある方々も多いでしょう。
立命館大学校友会創立100周年記念の「みんなの思い出」メッセージにも、「風呂は、龍安寺商店街の谷口湯に行ってました。」(1992年経営学部卒業)、「風呂がなかったので、近所にあった銭湯『小松湯』『扇湯』『金閣寺湯』へ通いました。当時の銭湯代は230円ぐらいでしたが、仕送り日の前には隔日に利用するなど切り詰めていたと思います。」(1988年経営学部卒業)、「風呂といえば、白沙村荘の近くに銀閣寺湯という銭湯があり、そこでの羨ましくも妬ましい光景を思い出します。巷は、かぐや姫の神田川という曲がヒットして数年後の頃で、男湯と女湯との間で『外で待ってる』『ハーイ』とかいうカップルのやりとりが何組もあり、森見登美彦氏流に言えば、『呪いの言葉をわめき散らし』たいような気分によくなったものです。その銭湯の近く、白川通今出川の交差点から銀閣寺へ通じる途中の疏水添いの小径は、4月の桜の花の散り際にはピンクの絨毯を敷いたような美しさで、私にも銭湯でのカップルのように、いつか春が来るのではという妄想を抱かせてくれました。」(1980年法学部卒業)といった思い出が語られています。
ところが、最近はその数が減少の一途を辿っています。原因は様々です。林宏樹『京都極楽銭湯読本』(淡交社2011年)(以下「同上書」と表記)によれば、「約十年に一度やってくる釜の更新時期が廃業するひとつのタイミングのようだ。数百万円の費用を掛けて釜を更新しても、あと十年、自分たちの身体がもつかどうかわからないため、暖簾を下ろされるパターンだ」と書いています(135頁)。後述の「経営者の年齢構成」グラフ(2008年調査)を見ても60歳以上が75.3%と銭湯経営者の高齢化がわかります。また「利用者の年齢構成」も年齢層が高いことがわかります。さらに、風呂付の住宅の増加や新型コロナウイルス蔓延なども影響していると考えられます。
京都府公衆浴場生活衛生同業組合加盟の銭湯数は、1955年に586軒、1975年に502軒、1990年に372軒、2000年に301軒、2010年に236軒、2020年に163軒、2025年に143軒となっています。
同上書に1964(昭和39)年当時の京都府の浴場組合加盟銭湯一覧(そのうち2010(平成22)年末現在営業中の銭湯)が示されていましたので、そこに2025年現在の情報を加えてまとめてみました。京都市北区と上京区、中京区にある銭湯に絞っていますが、皆さんが利用していた銭湯はありましたか?なお、1964年当時には「〇〇湯」としていた名前が、今日では「〇〇温泉」と名乗っている所も多くなっています。もっとも現実に温泉もあったようです。同上書では、「とかく暗い話題の多い銭湯業界だが、2006年5月に、京都市右京区西京極の大門湯(現、天翔の湯大門)で、地下千メートルから温泉が沸いたという明るいニュースが届いた。街のお風呂屋さんが自前で温泉を掘削し、見事に掘り当てたのだ。泉質は療養泉にも認定される「ナトリウム―塩化物泉(純食塩泉)」で、泉温35.5℃。浴用した場合の適応症としては、神経痛や関節痛などがあるほか、引用も可能なのだとか。ご主人は、療養泉であることが確認された日、一日中成分表を眺めておられたというから、その嬉しさがどれほどだったか窺える。」と書かれています(115頁)。
さて、銭湯の大人の入浴料ですが、1959年は16円(+洗髪料10円)、1965年は28円(+洗髪料10円)、1966年から洗髪料が5円に値下がりし、1972年に48円(+洗髪料5円)、1973年は60円で洗髪料は廃止、1975年は100円、1981年は200円、1990年は250円、1995年は300円、2000年は350円、2005年は370円、2010年は410円、2024年は510円、2025年は550円と、値上がりが続いてきました。
*注:円グラフは、同上書のグラフの数値をもとに筆者が編集しました。
懐かしの銭湯の営業状況推移表はこちら→♨ ※別ウィンドウで一覧表が表示されます。
2025年9月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二
