立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2025.07.29

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校商業学校(Ⅰ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

 史資料センターには戦前の立命館中学校・立命館商業学校時代に発行された広報誌「立命館禁衛隊」が創刊号から保存されています。
 立命館禁衛隊は、1928(昭和3)年11月10日の京都御所での昭和天皇即位の御大典に当たって、立命館の全教職員、学生、生徒が御所を警護するという目的で結成されたものです。その一年後の1929(昭和4)年10月、広報誌「立命館禁衛隊」は、「立命館中学校竝に立命館商業学校の人心の統制学術の奨励を目的」(注1)として創刊され、
禁衛隊表紙1
 【写真1】第1号表紙

以後ほぼ月刊で1938(昭和13)年2月の第83号まで発行されています。その後は不定期で刊行されました。
 今回は、広報誌「立命館禁衛隊」表紙に掲載された写真から昭和初期の立命館付属学校の姿を紹介します。
 
(1)第1号表紙写真 1929(昭和4)年10月発行「中学校・商業学校教職員 全校生徒集合」
 
禁衛隊表紙2
 【写真2】
 創刊号を飾る表紙の写真は、1929(昭和4)年9月3日午後1時に中学校と商業学校全員が校庭に集合して記念撮影されたものです。生徒は夏服に制帽。教職員も白色を基調とした服装で、見事な姿勢で整列をしています。
 前日2日午前8時に両校職員生徒一同が校庭に集合し、朝礼が行われ、その後に授業が行われています。放課後の職員会議では、「立命館禁衛隊」発刊の件、学校と家庭との連絡の件、一般訓育に関する件、防寒具を外套に統一する件などが議題とされたと記録されています。
 
(2)第3号表紙写真 1929(昭和4)年12月発行「立命館禁衛隊旗 授与式」

禁衛隊表紙3
 【写真3】
 立命館が昭和天皇即位大典のための御所警護を行ったことに対し、天皇から賜金をいただくことになり、これを基に「天賜立命館禁衛隊」の文字が錦糸で刺繍された禁衛隊旗2本が制作され、大学と中学商業にそれぞれ交付されることになりました。
 そして、昭和天皇即位の翌年11月10日が「禁衛隊記念日」と定められました。この日は早朝から降りしきる雨の中で禁衛隊旗の授与式が行われました。校庭に中学商業の生徒約千名が凹の字に整列し、中央には中川小十郎参謀長(総長)と塩崎隊長(校長)。中川参謀長は、全生徒教職員に向けて「この隊旗は禁衛隊精神の象徴である。この隊旗を主持して禁衛隊精神を発揮せよ」と述べられ、隊旗は生徒旗手へと渡されたのでした。
 雨中の校庭での分列式を終え、最後は塩崎隊長の発声で天皇陛下万歳を三唱して隊旗授与式は終わったのでした。

(3)第4号表紙写真 1930(昭和5)年1月発行「山国村協一尋常高等小学校に於ける塩崎校長の講話」

禁衛隊表紙4
 【写真4】
 立命館では、「立命館禁衛隊映写班」として、御大典の時からフィルムによる記録撮影を行い、校友会で撮影機映写機などを購入して活動を活発化していました。そして、禁衛隊広報の一環として、京都市内の小学校など様々な場で上映することが計画されていました。すでに禁衛隊の行進曲にもなっていたのが、時代祭でも知られる山国隊の鼓笛でした。軍楽の発祥地ともいわれる山国村から禁衛隊の写真を見たいとの依頼を受け、12月3日に上映会を開催することになりました。塩崎校長が講話を行った後に映画が上映されました。
 映画は、学校準備の「立命館禁衛隊」8巻(1巻400フィート)
     「感激の東郷大将」「高山彦九郎」各1巻
     「不破數右衛門(赤穂浪士四十七士)」全6巻の長編もの 

(4)第12号表紙写真 1930(昭和5)年11月発行「射場開式 天地四方祓 小笠原清道範士」

禁衛隊表紙5
 【写真5】
 立命館中学校商業学校では、1930(昭和5)年4月に弓道場が新設され、同時に弓道部が誕生していました。そして、10月5日午前8時半から弓道射場開きの式典が開催されました。
 塩崎達人会長(中学校長)の開会の辞の後、大日本武徳会師範である小笠原範士による式射禮が行われ、次いで巻藁前を行ったのが本校顧問の田島錦治立命館大学長でした。その後に射禮として大学や高等学校、京都・大阪の中学校などから多くの選手出場があり、午前の最後を清和中学校卒で立命館の校医であった藤野幸太郎の射禮で終えました。昼食後は競射が行われ、表彰の後には田島学長による万歳三唱ですべてを終了しました。

2025年7月29日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 注1;「立命館学誌」127号 (1929年10月発行)

2025.07.22

<学園史資料から>「明治村」に移設されている「坐漁荘」について

 立命館史資料センターホームページで<立命館あの日あの時>「立命館大学衣笠キャンパス学術・文化資源紹介<立命館の学祖・西園寺公望>」2020123日)や<懐かしの立命館>「西園寺公望公と佐乃春の料理」20171003日)、「西園寺公望公とその住まい 後編」20151210日)で紹介しており、Facebookにて見学第一報報告を行いましたが、愛知県犬山市の「明治村」に移設されている西園寺公望が晩年に過ごした静岡県興津の「坐漁荘」を見学しました。

オリジナルの建物は大正九(1920)年に創建された数寄屋造りの建物で、昭和四(1929)年に洋間やサンルーム、湯殿、台所等が増築されました。それらすべてと庭もできる限りそのまま移設されています。ここに紹介している写真は、ガイドの許可を得てすべて筆者が撮影したものです。


明治村の坐漁荘1

 

 まずは建物の外観ですが、外塀は舟板塀で、少し赤味がかっています。

明治村の坐漁荘2

 時間指定で建物ガイドがあり、建物内部について説明して頂けます。早速中に入って説明を聞きましょう。

 主屋は木造2階建てで、梁や鉄筋を工夫し、強い海風に耐えられるような工夫が込められています。

明治村の坐漁荘3

 居間にある大きな机は、公望の特注ということでした。少し低い気がしますが、ここに座って机に肘をつき、庭を観ながら好きな読書をしていたのでしょうか。

 明治村の坐漁荘4

 次に洋室です。室内に設置されている調度品は、すべて「坐漁荘」で実際に使われていたもので、フランス留学経験があった公望は西洋の暮らしに慣れ親しんでおり、洋式の家具を愛用していました。愛用の竹製ステッキが飾ってありました。

明治村の坐漁荘5

明治村の坐漁荘6

上下階の南側の建具には、紫外線を透過する「並厚ヴァイタガラス(vita glass)」が使用されています。

明治村の坐漁荘7

 お風呂場はヒノキ造りで、浴槽が深めです。この建物には、公望の好みを反映して竹がふんだんに用いられていますが、湯殿は白竹を張り込めた舟底天井となっています。

明治村の坐漁荘8

2階座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池を見渡す美しい景色が広がります。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山、左手には伊豆半島が遠望されました。

明治村の坐漁荘9

 台所はガスレンジこそありませんが、いわゆる「アイランド・キッチンテーブル」がある結構モダンですっきりした雰囲気です。三つのかまどがありますが、料理を一から作っていたのではなく、たいていは取り寄せた料理を温めていたとのことでした。

明治村の坐漁荘10

格子の向こう側には警備員のための部屋がありました。また当時は連絡や警備の関係で、建物内各所に呼び出しボタンが設置されていました。ボタンが設置されていた所は、洋間、ベランダ、化粧室、湯殿、二階応接、御居間、書庫、便所の8か所で、ボタンを押すと、女中部屋の表示盤に部屋番号が表示され、女中や書生を呼び出せる仕組みです。

明治村の坐漁荘11

明治村の坐漁荘12

「坐漁荘」と名付けられたこの建物は、呂尚の故事「坐茅漁」が由来で、「座ってゆっくり魚を捕る」という意味が込められています。しかしながら、引退後も公望の元には事あるごとに政治家の来訪がありました。決して”ゆっくり”とは言えない晩年であったようです。

 明治村の坐漁荘13

2025年7月22日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2025.05.14

<学園史資料から>西園寺公望の「雨聲會」について

 史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
 また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
 今回は、7回にわたって実施された西園寺公望による文士招待会(のちに「雨聲會」と称される)について調べてみました。

はじめに
 立命館史資料センターのホームページにある「<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 後編(2015年12月10日)」の「4.東京・駿河台邸」の説明の中に、「西園寺は明治40年6月には、17日・18日・19日と3日続けて駿河台邸に小説家など文士を招いて宴を催した。泉鏡花、大町桂月、国木田独歩、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、森鷗外など著名な文士が参加した。夏目漱石や坪内逍遥、二葉亭四迷は出席を辞退したが、現職の総理大臣が自邸に文士を招いて宴の会を開いたことは世間の注目をあびた。この会はその後邸外に場所を変えて明治44年までの毎年と大正5年まで続き、雨聲會と呼ばれた。」と記されています。そこで、その「雨聲會」(雨声会)について詳しく調べることにしました。

雨声会について1
駿河台邸(中央大学所蔵)

文士招待に至るまで
 発案は、西園寺邸に寄宿していた国木田独歩によるという説と西園寺が文部大臣となった際に文部省参事官兼文相秘書官となった読売新聞主筆の竹越与三郎(竹越三叉)によるという説があります。西園寺自身は「雨聲會の催しは、…国木田がすゝめたのがもとです。後になつて、竹越と横井が世話をした。」と語っています。
 フランス文学に造詣が深く、内外の文芸に格別の関心と造形が深い風流宰相、西園寺公望に、文士との自由な議論の場を設定しようという趣旨でした。人選の原案は文芸評論家の近松(徳田)秋江が行い、竹越が修正し、結果として次の20名が選出されました。
小杉天外、小栗風葉、塚原渋柿園、坪内逍遥、森鴎外、幸田露伴、内田不知庵、広津柳浪、
巖谷小波、夏目漱石、大町桂月、後藤宙外、泉鏡花、柳川春葉、徳田秋声、島崎藤村、
国木田独歩、田山花袋、川上眉山、二葉亭四迷
 選ばれずに不満を表した人もいます。また3名(坪内逍遥、二葉亭四迷、夏目漱石)が辞退しました¹。
 「公は、ただ廣く文壇人と交わって、一夕閑談をしたいと云ふのであつたが、新聞紙は首相が文士を招待すると云ふので、すばらしいニュースとして取りあつかつた。」²ということで、マスコミの注目度も高かったようです。

第1回文士招待会
 東京・駿河台邸での文士招待会は、招待者を3つに分け、三夜連続で行われました。
(1)第一夜 明治40(1907)年6月17日
 出席は広津柳浪、川上眉山、小栗風葉、柳川春葉、田山花袋の5名で、坪内逍遥、二葉亭四迷、夏目漱石の3名が欠席でした。主催側として西園寺公望と横井時雄が参加しました。『毎日電報』(明治40(1907)年6月18日)の記事によると、「階下の日本新座敷八畳十畳の二室に通れり」、「膳は日本食二の膳付にてシャンパン・日本酒など出し席上は新橋の芸妓」といった様子で、西園寺は「この文士招待会で文界の事情を知り、諸君の高話を聞きたい」と語り、夕方5時半頃から9時40分まで懇談されました。

(2)第二夜 明治40(1907)年6月18日
 出席は森鴎外、小杉天外、後藤宙外、泉鏡花、巖谷小波、徳田秋声の6名で、主催側は西園寺公望と竹越与三郎が参加しました。『読売』(明治40(1907)年6月19日)は「竹越氏の発議により俳句の寄せ書き」が全員で行われ、5時半頃から9時35分までの懇談となったことが報じられています。
 『国民新聞』(明治40(1907)年6月20日)に当夜の献立が載っています。
・本膳=吸物(石鰈、火取り根芋)、口取(鯛の昆布〆、車海老の雲丹焼、隠元の青煮)、刺身(おこぜ湯ぶり、独活)、鉢肴(鮎の塩焼き、蓼酢)、茶碗(龞)、中皿(南瓜五目蒸)、取肴(生貝塩蒸、青唐辛付焼)
・会席=向(鯵、山葵、甘酢)、汁(蒪菜、水辛子)、飯、椀(蕎麦切豆腐)、焼肴(鱚の醤油ぼし)、漬物(白瓜、茄子)
 とても豪華な食事で、しかも日本酒、シャンパン、さくら酒、ペパーミント等が供されました。
 『東京朝日』(明治40(1907)年6月19日)には、巌谷小波が西園寺について、西洋文学、支那文学に造詣の深いことに敬服したと書かれています³。
 この日の会について、「巌谷小波の追憶によると、その夜の公は、結城か何かの光らないしぶい着物は、公の好みらしく、日本酒をさけて、上等のブドウ酒をチビリチビリとやり、(中略)一流の藝妓と一流の餘興をそへられ、酒のまはるにつれて、無遠慮な連中からは座興が出る、笑聲が爆發する⁴。とざっくばらんな様子が述べられています。

(3)第三夜 明治40(1907)年6月19日
 出席は内田不知庵、島崎藤村、塚原渋柿園、国木田独歩、大町桂月、幸田露伴の6名で、主催側は西園寺公望と竹越与三郎が参加しました。『二六新聞』(明治40(1907)年6月26日)では「…首相は芸術家に対する感想より徳川文学支那文学西洋小説に及びたるが当夜の談話は文学上の話よりも寧ろ鮎に就いての話が中心」になったと伝えています。5時半頃から10時ころまでの懇談でした。
 『東京新聞』(明治40(1907)年6月20日)には大町桂月が「…侯が、宰相としてならずして私人として、文芸の為に、よび給ふ事なり。よばれて行くに、理屈も、へちまも、あつたものにあらず。よび給うにも、もとより、窮屈な理屈はなかるべし。首相は、曾て会津戦争に臨みたる人なり。西洋に遊学したる人なり。貴紳の方ながらも、山林、および市井の気を解せる人也。今の総理大臣也。文武あはせ得たるのみならず、詩をものし、俳句をものし、あらゆる芸術の美を解せるなり。かゝる首相が、文芸の士を召し給ふは、従来、市井の気に充ちたる我が小説家にとりては、此上なき好機会なり。首相は久しく仏国にありて、仏国の文学を味はへるより、我日本の小説家の有様を知らむとす。我小説家たるものも親しく侯に接して、叩く所あらば、自ら益する所少なからざるべし。知らぬことは侯にをそはるがよし。知れる者は、侯に教ふるも、功徳也。」と述べています。
 懇談の中では、大町桂月が西園寺に「貴公は女好きの相がある」と言ったことに対して、西園寺は「イヤ僕が女を好くのではない、先方が捨てゝ置かぬのだ」と言ったというエピソードが残っています⁵。

文士たちによる首相西園寺侯爵招待会(第2回雨聲會)―明治40(1907)年10月18日
 こうした文士招待会について、「文士権門に媚びる」等といった悪評を打ち消し、文士と首相の交流、接近を積極的に恒常化しようということで、巌谷小波、田山花袋が発起人となって答礼として文士が首相を招くことになりました。
午後五時より芝公園内の紅葉館で開催されました。来賓は西園寺公望と横井時雄(竹越与三郎は旅行中)の2名で、文士は泉鏡花、巖谷小波、内田不知庵、大町桂月、川上眉山、国木田独歩、幸田露伴、後藤宙外、島崎藤村、田山花袋、塚原渋柿園、徳田秋声、広津柳浪、柳川春葉の14名でした。森鴎外は公務出張中で小杉天外、小栗風葉は病気のため欠席、坪内逍遥、二葉亭四迷、夏目漱石は欠席でした。
 当日の話題は、植物のこと、朝鮮の硯石のこと、下駄のことや自然派の作品が子供=青年に読ませられる小説か、などでした。またこうした会合を今後も年に1回くらいは開きたいということで、西園寺も賛同しました。会合の名前は広津の「雨聲會はいかが。単に雨声を聴いたからといふだけではなく、杜甫の詩に『雨催詩』といふ句があるし、文士の会でもあり背景にもピッタリするからと思つてね」という発案から「雨聲會」とされたということですが、諸説あるようです⁶。

第3回雨聲會―明治41(1908)年5月27日
 築地の瓢屋にて行われ、出席は泉鏡花、巖谷小波、内田魯庵(不知庵から改名)、大町桂月、小栗風葉、川上眉山、小杉天外、後藤宙外、島崎藤村、田山花袋、塚原渋柿園、徳田秋声、広津柳浪、森鴎外、柳川春葉の15名で、主催側は西園寺公望と竹越与三郎、横井時雄が参加しました。国木田独歩は病気、幸田露伴は事故により欠席でした。
 同席した芸妓は「流石は学者さんですね、御前を捉へてもペコペコしてる方は一人もありませんよ、よくね、外務省の方だとか何だとか豪い方がお在んなさつても伊藤の御前や西園寺の御前の前ではお盃を頂戴いたしましやうとか何とかペコペコして居らつしやいますが其んな方は一方もありません皆んな胡坐をかいて太平楽を仰有つてです」と『国民新聞』(明治41(1908)年5月29日)に掲載されているように、雨聲會は率直で自由な雰囲気の懇談の場でした⁷。

【雨聲會への対抗?】小松原文相による文士招待会―明治42(1909)年1月19日
 「第二次桂内閣の小松原文相は、文芸行政―といっても風俗壊乱小説すなわち自然主義小説の駆逐策だが―に関して、強権的発売禁止といった鞭のみでは到底効果あがらずと見て、文芸院(文芸委員会)という、なんとなく口当たりのよい飴に相当する機関の設立を、鴎外などの建議もあって、泥縄式に急遽企てた。その第一歩として、西園寺前首相主宰の雨聲會に対抗するかのように、文相による文士招待会が、明治42(1909)年1月19日夜、文相官邸において開かれた。」とあり、上田万年、森鴎外、夏目漱石、幸田露伴、巖谷小波、芳賀矢一、島村抱月、上田敏、塚原渋柿園の9名が招待されています。夏目漱石はこちらの招待会には参加しています⁸。

第4回雨聲會―明治42(1909)年6月16日
 日本橋の常磐屋で行われ、出席は泉鏡花、巖谷小波、内田魯庵、小杉天外、後藤宙外、島崎藤村、田山花袋、塚原渋柿園、徳田秋声、広津柳浪、森鴎外、柳川春葉の12名で、主催側は西園寺公望、竹越与三郎でした。大町桂月、幸田露伴は旅行中、小栗風葉は帰省中、川上眉山は自死、国木田独歩は病死、横井時雄は下獄中のため、欠席でした。またずっと出席辞退だった二葉亭四迷は5月に病死しました。
 この会では、文芸作品の「発禁問題」が話題になりました。
 明治25(1892)年 巖谷小波『緑源氏』
 明治29(1896)年 小栗風葉『寝白粉』
 明治34(1901)年 内田不知庵『破垣』
 明治35(1902)年 島崎藤村『旧主人』
 明治41(1908)年 小栗風葉『恋ざめ』
          飯田旗軒訳エミール・ゾラ『巴里』後篇(西園寺の序文)
 明治42(1909)年 徳田秋声『媒介者』
          小栗風葉『姉の妹』
          森鴎外『ヰタ・セクスアリス』
          永井荷風『陥落』
          後藤宙外『冷涙』
 雨聲會で発禁となった作品は以上の通り⁹。
 ちなみに、ゾラ『巴里』翻訳に西園寺が序文をつけたことになっていますが、実際には西園寺が飯田に「序文は困る」と断り『巴里』前篇の献本に対する礼¹状を書いたところ、その礼状が「巴里」後篇の序文代わりとして掲載されてしまったものです¹⁰。

第5回雨聲會―明治43(1910)年11月25日
 日本橋の常磐屋で行われ、出席は泉鏡花、巖谷小波、内田魯庵、大町桂月、小杉天外、後藤宙外、島崎藤村、田山花袋、塚原渋柿園、徳田秋声、広津柳浪、森鴎外、柳川春葉の13名で、主催側は西園寺公望、竹越与三郎に海相の斎藤実が加わりました。小栗風葉は帰省中、幸田露伴は病気で欠席でした。
 この会では故人となった国木田独歩、川上眉山に代わる会員の補欠選挙が行われ、永井荷風、江見水蔭が選ばれました¹¹。

第6回雨聲會―明治44(1911)年11月17日
 日本橋の常磐屋で行われ、出席は泉鏡花、巖谷小波、内田魯庵、大町桂月、小栗風葉、小杉天外、後藤宙外、島崎藤村、田山花袋、広津柳浪、森鴎外、柳川春葉、永井荷風の13名で、主催側は西園寺公望、竹越与三郎、斎藤実でした。幸田露伴は旅行中、塚原渋柿園は病気、徳田秋声は多忙から欠席しました。また補欠に選ばれた江見水蔭は初めに選ばれなかった忿懣から辞退しています。
 この会では、西園寺から「此頃は小説は何が尤も売れる」という問いかけに対して意見交換が行われました。
 『国民新聞』(明治44(1911)年11月19日)の第4面に当夜の出席者全員の記念写真が掲載されています¹²。

第7回雨聲會―大正5(1916)年4月18日
 日本橋の常磐屋で行われ、出席は泉鏡花、巖谷小波、内田魯庵、大町桂月、小杉天外、田山花袋、塚原渋柿園、森鴎外、柳川春葉、永井荷風の10名で、主催側は西園寺公望、竹越与三郎、横井時雄、斎藤実でした。
 小栗風葉、後藤宙外は帰省中、島崎藤村は渡仏中、幸田露伴、徳田秋声、広津柳浪は理由不明で欠席でした。
 西園寺は「大正2(1913)年2月22日に政友会総裁職への辞意を表明し、以後政界の表舞台から身を退いて、京都へ帰り、悠々自適の生活をしていたため、5年ぶりに開かれたこの雨聲會をもって終了となりました¹³。

まとめ
 以上、西園寺を囲む「雨聲會」について見てきました。西園寺はもともと徳大寺家の生まれであり、養家西園寺家も高貴な家柄であり、少年時代から読書や詩文の創作に熱心でした。一六、七歳のころから京都在住の儒者・文士・詩人・画家などを自宅に招いて、毎月詩会を開いています¹⁴。西園寺は「文芸雑感」の中で「日本の小説も時々読んで見る、が如何も感服しない、…少なからず進歩はして居るが、まだ満足はできない、其一の理由は作者の主義…と云っては語弊があるが、作者の主張が少しも文学の上に現はれて居ない事である、之は日本の小説には少しも見る事は出来ない、或は主張はあるのかも知れないが如何にも我々には解し得ないのである」と述べています。フランス文学等に造詣が深い西園寺は、そうした問題意識を持って日本を代表する文士たちと楽しく懇談したのでしょう¹⁵。
 西園寺公望自傳では「大體に世態人情を描寫することは、小説に待つべきものだと思う。それで當代の小説家と親しく交わつてみる氣になつたのです。」と語っています¹⁶。 

招待者たちについて
 雨聲會の参加状況の一覧表が作成されているので、引用します¹⁷。

雨声会について2
雨聲會参加者一覧







 雨聲會の文士は有名人が多いので皆さんには「釈迦に説法」かも知れませんが、筆者にとってはなじみの無い文士もおられるため、それぞれ代表作と思われる作品を挙げておきます。
〇小杉天外(こすぎてんがい)(1893―1952)『はつ姿』『はやり唄』『魔風恋風』『コブシ』『長者星』
〇小栗風葉(おぐりふうよう)(1875―1926)『亀甲鶴』『青春』『世間師』
〇塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)(1848―1917)『由井正雪』『天草一揆』『木村重成』
〇坪内逍遥(つぼうちしょうよう)(1859―1935)『小説神髄』『当世書生気質』
〇森鴎外(もりおうがい)(1862―1922)『青年』『雁』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『ヰタ・セクスアリス』
〇幸田露伴(こうだろはん)(1867―1947)『五重塔』「血(けっ)紅(こう)星(せい)」
〇内田魯庵(うちだろあん)(不知庵(ふちあん))(1868―1929)『くれの廿八日』『社会百面相』翻訳『罪と罰』『復活』
〇広津柳浪(ひろつりゅうろう)(1861―1928)『変目伝』『黒蜥蜴』『今戸心中』
〇巖谷小波(いわやさざなみ)(1870―1933)『こがね丸』民話再生『桃太郎』『花咲爺』など
〇夏目漱石(なつめそうせき)(1867―1916)『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』
〇大町桂月(おおまちけいげつ)(1869―1925)『美文韻文花紅葉』『一蓑一笠』『学生訓』『行雲流水』
〇後藤宙外(ごとうちゅうがい)(1967―1938)『ありのすさび』『腐肉団』
〇泉鏡花(いずみきょうか)(1873―1939)『高野聖』『照葉狂言』『婦系図』『歌行灯』『縷紅新草』
〇柳川春葉(やながわしゅんよう)(1877―1918)『錦木』『生(な)さぬ仲』
〇徳田秋声(とくだしゅうせい)(1872―1943)『新世帯(あらじょたい)』『黴(かび)』『爛(ただれ)』『あらくれ』『仮想人物』『縮図』
〇島崎藤村(しまざきとうそん)(1872―1943)『若菜集』『破戒』『夜明け前』
〇国木田独歩(くにきだどっぽ)(1871―1908)『武蔵野』『忘れえぬ人々』
〇田山花袋(たやまかたい)(1872―1930)『蒲団』『生』『妻』『田舎教師』『縁』『一兵卒の銃殺』
〇川上眉山(かわかみびざん)(1869―1908)『観音岩』『大盃』『うらおもて』
〇二葉亭四迷(ふたばていしめい)(1864―1909)『浮雲』『平凡』
〇永井荷風(ながいかふう)(1879―1959)『あめりか物語』『ふらんす物語』『断腸亭日乗』『濹東綺譚』
〇江見水蔭(えみすいいん)(1869―1934)『女房殺し』『炭焼の煙』


雨声会について3
雨聲會会合

2025年5月14日 立命館 史資料センター調査研究員 佐々木浩二

¹ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』14~35頁、不二出版2002年
² 田中貢太郎『西園寺公望』141頁、改造社出版2010年
³ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』41~43頁、不二出版2002年
⁴ 田中貢太郎『西園寺公望』142頁、改造社出版2010年
⁵ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』43~51頁、不二出版2002年
⁶ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』59~73頁、不二出版2002年
⁷ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』73~78頁、不二出版2002年
⁸ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』177~179頁、不二出版2002年
⁹ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』78~82頁、不二出版2002年
¹⁰ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』145~147頁、不二出版2002年
¹¹ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』82~84頁、不二出版2002年
¹² 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』87~89頁、不二出版2002年
¹³ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』91~99頁、不二出版2002年
¹⁴ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』137頁、不二出版2002年
¹⁵ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』141~142頁、不二出版2002年
¹⁶ 木村毅編『西園寺公望傳』191頁、大日本雄辯會講談社1949年
¹⁷ 高橋正『西園寺公望と明治の文人たち』100頁、不二出版2002年

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