立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2026.07.29
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(11)「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第61号 表紙写真「御眞影を奉迎す(紀元節)」 1936(昭和11)年1月
【写真1】禁衛隊に護衛されて正門を入場する御眞影
1936(昭和11)年が明けた1月8日から、禁衛隊道場という名で訓練の場とされていた運動場に宇治川の砂が搬入されました。各教室には練炭ストーブが設置されましたが、室内は暖まっても5℃程度だったそうです。この冬には感冒が流行し、関西でも小中学校が休校するほどの広がりを見せていました。2月になって大雪のため立命館でも臨時休校するほどでしたが、それでも毎朝の禊と遥拝は行われていました。
2月11日は紀元節と呼ばれる建国の祝日(紀元二千五百九十六年)で、建国の聖地とされていた奈良の橿原神宮でも天皇の勅使を迎えて祭典が催され、立命館学園からは教員が引率して中学、商業の生徒代表が参拝しました。校内の生徒たちは、御眞影の前で祝賀式が行われたのでした。
この禁衛隊第61号には、中川総長を高く評する新聞記事の一文が紹介されていました。
「凡そ大學長の中で立命館の中川翁ほど開放的なスバぬけた人物は又と一人、他に見られない、その是非を問ふにあらず、その膽量を愛する。」(注1)
禁衛隊第61号には、紀元節由来の記事に続き、神武天皇の軍勢を導いた八咫烏についての説明が記紀を引用して詳しく書かれていました。
(2)第62号 表紙写真 説明なし(校庭での軍事教練風景)
卒業生送別号 昭和11年3月
【写真2】
立命館中学校第三十回(59名)、立命館商業学校第三回(56名)卒業記念の特集号です。
この号の最初に「京都御所・二條離宮の拝観に就いて」と題して19ページにわたる解説が掲載されています。その文の最初に配属将校の陸軍歩兵大尉が、京都御所への拝観は光栄にも立命館の学生生徒だけが卒業時に限り許されていることであると心構えを述べています。
【写真3】卒業式式次第
式次第によれば、中川校長は欠席で、倉橋勇蔵幹事が代読しています。卒業証書に続いて皆勤賞が授与されて御真影奉掲殿閉扉。その後に優秀生徒へ優等賞と記念品がそれぞれ授与されています。成績優秀者よりも皆勤賞を優先するという学校の姿勢が窺われます。「赤き血潮」の新しい校歌が1931(昭和6)年7月が制定されていましたが、卒業式で君が代の斉唱だけとなっているのが不思議です。式典での校歌斉唱がまだ一般的でなかったのか、疑問の生じるところです。
この禁衛隊号には「立つ鳥の言葉」と題して生徒31名が思い出を語っていますが、その中に、寄宿舎で教職員やその家族たちと一緒に夜遅くまで送別会が催されたことが写真入りで紹介されています【写真4】。寄宿舎の卒業生は2名だけでしたが、下級生たちが落語、漫才、浪曲、寸劇、ハーモニカ独奏、そして教員の歌など余興が様々に趣向を凝らし和やかに卒業生を祝っていました。寄宿生活で寝食を共に過ごした温かな仲間意識と、家族的な職員との生活に、日常の学校生活で忘れかけていた故郷の温かさを感じていたのではないでしょうか。
【写真4】寄宿舎送別会での集合写真
(3)第63号 表紙写真「榮の入学式(四月八日)禁衛隊旗奉迎」
入学生歓迎号 昭和11年4月
【写真5】雨中で行われた禁衛隊旗と御真影奉迎式(右手向こうが北大路通)
雨の中を保護者と共に登校した新入生たちは、まず教室で担任から手拭とバケツを渡され、直ちに上級生たちと共に禊を行い式へと臨みました。
【御真影奉迎式】中学入学生は職員室前、商業入学生は東道場前(写真では正面右手と左手側)。上級生たちは禁衛隊隊形(写真手前と左手側)で整列。大学から自動車で送られてきた御真影が正門に到着するや、配属将校の「脱帽」の号令に続いて「御真影到着」の声。
咳払い一つ聞こえない運動場に雨の降る音だけが聞こえる中、上級生は「捧げ銃」、入学生と保護者は脱帽し、傘を閉じて「頭右」の号令で禁衛隊旗を先頭にして御真影が入場。
【入学式】新入学生と編入生、保護者が惟一殿(講堂)へ移動。御真影が開扉されて君が代斉唱。御真影を拝して閉扉。中川校長の教育勅語奉読後に訓示(校長の命令に背くとすぐに退学になるなど)があり、その後は入学生が退出。保護者への校長挨拶。父兄会(保護者会)代表挨拶を終えて、再び雨の運動場へ。全員で御真影を奉送した後に上級生と入学生とで挨拶交換し、中川校長の閲兵が行われた後、禁衛隊旗を奉送。在校生たちが解散後、入学生には禁衛隊記念の雑炊が接待され、記念の紅白饅頭が配られて式はすべて終了しました。
この時の商業学校三クラスの担任の一人が白川静先生(後の立命館大学教授)でした。
その二日後、禁衛隊入隊の宣誓式が行われ、禁衛隊バッジを制服に縫い付けて、入学生たちは全員禁衛隊員として学校生活を送っていくことになるのでした。
注1:中外日報の記事。発行年月日は未記載。
2026年7月29日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
2026.07.09
私設立命館點鬼簿(国崎望久太郎)―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第1回
かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
第1回は、1974年(昭和49年)10月発行の機関誌より、激動の時代を駆け抜けた文学部の国崎望久太郎教授が、古い記憶を辿りながら書き残した貴重なコラムを復刻します。
昭和10年代、まだ文学部もなく「あわれなものであった」と振り返る立命館の創世記。そこには、人力車で初任給が配られた聖職としての教職の姿や、存廃をかけて猛勉強に励んだ夜間専門部の学生たちの熱気、さらには名古屋への学徒動員や京都空襲の生々しい恐怖がありました。
多くの仲間たちが鬼籍に入るなか、大学の発展の裏にあった先人たちの「忘却を許さぬ厳然たる事実」を、後世へと伝えるための貴重なアーカイブです。
※點鬼簿(点鬼簿・てんきぼ)とは: 過去帳(物故者の名簿)のこと。
私設立命館點鬼簿(国崎望久太郎) 第47号(1974.10.20)
古い記憶を辿って昔のことを語ることは、これまでほとんど無かった。そういうことには、私は興味がなかった。過ぎ去るものは過ぎ去らしめよ。行雲流水はわれわれの祖先以来の教えではないか。日本文学史のことに関係している以上、過去の年時の正確な確定への興味もないわけではない。しかし世代とか時代とかいう大ざっぱな時間帯で考える癖が、いつのまにか身についてしまった。それで古い立命館のことを想起してみても、漠然としたものでしかない。何年の何月何日のことだということは一切ない。「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ」という形式をとる昔話と同様のものだ。
茫々たる過去のとりとめもない話である。自分が直接経験したことだといっても歴史的事実だなどと主張は出来ぬ。夢まぼろしのごとき話にすぎない。
その二三を書きとめておこうか。私は昭和11年か12年の頃、学校を出てすぐ—すぐと言うとすこし正確でない—8月頃、藤村作博士の推薦状をもって、中川小十郎先生におめにかかった。いまの図書館の書庫の1階管理課のあたりが、学長兼理事長室であった。雑然と薄暗く、すぐ隣りに便所があった。中川会館がまだ出来ぬ前であったろう。すくなくともわが立命館は天下の立命館大学ではなかった。文学部はまだ無く、文科は夜間の専門部のみであった。書物も建物もなかった。十分にはなかった。卒業しても中等教員の資格さえもらえなかった。あわれなものであった。
しかしそこには創建の熱意がみなぎっていた。中川先生の文科によせる期待は非常なもので、京都法政学校以来の伝統をもつ法学部にまけないような文科系をつくろうとする熱意があった。それは周囲におのずから反照していた。子規の先輩である天田愚庵を庇護したり、山田美妙斎と友人であった先生には、文人にたいする理解と同情があった。文人生活は、むしろ一種の夢であり憧憬であったと言ってよかった。西園寺公望の秘書として日本の政界の機微に参劃した先生の目には、猟官運動やその他の世俗的欲望の渦中の人間はおぞましい限りに映ったのだ。政界や財界の動きを知悉していた先生には、反射的に文人的な世界への憧憬が秘められていた。文科への期待には、それがあった。
だから中川先生にとっては、少くとも観念的には教職は聖職そのものであり、世俗的職業とは一線を劃すべきものであった。教職は聖職であるという立場からすれば、各先生には御礼を申上げるのが筋で、教育労働の対価などと考えることは、とんでもない事であった。ハンコをもって俸給をうけとりに、わざわさ先生が出向くというようなことは、聖職にふさわしくないことであった。学校としてもそういう非礼を行なってはならないのだ。かくてその日になると、のちに京都大学の事務長になった上野左門氏が、人力車に乗って、各先生方の御宅を訪れ、御礼の金一封を差上げるという次第であった。私は南禅寺北ノ坊町にいたが、家貨は28円であった。そこに上野氏は金30円を御持参下さるのが例であった。それが私の初任給であった。聖職とはすこしつらいものであった。
二部に在藉した学生諸君は、数はもちろんごく少なかったが、まず天下の俊秀であり、向学の念に燃えた人士のみであった。私はかれらから教わるのみであった。私より世間を知り、学問にも通じていた。年齢も同じ位かまたは年長でさえあった。浅田善二郎教授のあとをうけて『建礼門院右京大夫集』の講読を命ぜられたときは、人物関係が分らず、1年間しんどい思いをした。しかし彼等は同情して、ともかく抱擁してくれた。これらの古い友人諸君が毎年謝恩会をひらいてくれる。何ともありがたいことである。古い文科に関係のあった橋本循先生以下の旧職員がまねかれるが、国文関係では田中重太郎博士と私が出た。生き残っているということであろうか。小泉藤造、後藤丹治、清水泰、岡田希雄、宮島弘の諸先生も今やないのである。戦後いくばくもなくなくなられた。あの頃の国文関係では浅田善二郎教授が帝塚山学院大学に、田中重太郎教授が相愛女子大学に健在である。立命館に残っているのは、私一人である。発展と共に陣容も変って行った。
はじめ専門部二部は、卒業しても何の資格ももらえなかった。それを得るためには、卒業回生が、文部省の施行する学力検定を受け、それに合格しなければならなかった。中等教員の資格を授与できるか、どうかは立命館にとって、立つか倒れるか、存否に関わる大問題であった。そのため当時の学生諸君の勉強ぶりは大変なもので、その特訓ぶりもまた目覚ましかった。長野県立女子専門学校の教授であった小泉藤造氏が、文部省赤間専門学務局長の推薦をうけ立命に赴任してきたのも、そのためであった。検定試験のベテランと認められていたのであろう。無事、検定に合格して国文の基礎はかたまったし、以降はまず順調に発展の途についたと言えよう。この創世記の諸先生と卒業生の苦闘に似た努力は、われわれの忘却を許さぬ厳然たる事実である。創世記の古い卒業生に逢えば必ずこの時期の緊張感を懐かしく語った。
しかしそういう古い友人諸君も、ぼつぼつ點鬼簿中の人物になって行った。30年数も経ったから無理もないことだ。私が立命館に来たのは、この創世期にも似た混乱がすんだ直後であった。それでも先生方や学生の昂奮し緊張した空気が教室に残っていた。立命館大学文学部の「原蓄時代」であったわけだから、高度発展の時点からのみ見るわけには行くまい。歴史は無慈悲な歩みも避けないものだ。
まもなく戦時体制下に人り、勤労動員、学徒出征という時代になる。むしろこの時期が最大の危機であったかも知れない。禁衛隊だとか、里見岸雄による国体学の開講だとか、大東亜共栄圏のイデオロギーの浸透とか、体制的な動きもあった。文学部の末端にあった私には、そのあたりの動きは分らない。ただ豊川の海軍工廠や名古屋の愛知時計、野間の近くの大同製鋼、武豊の大日本油脂などの学徒動員について行った。細かい記憶はない。すべて茫々たる識域の中にかすんでいる。焼夷弾をさけるために、布団を頭にかむって、名古屋の市街が赤々と燃えるのを眺めた。野間の海岸で海苔を拾ってツクダ煮をこしらえた。万事終末だと不安になったり、絶望したりした。ものみなどうでもいいことに思えたりした。いま職員課になっている中川会館の2階が、文学部の事務室でもあり、会議室でもあった。来襲したグラマンが突如旋回して機銃掃射をし、あの部屋の硝子に穴をあけたことがあった。怖かった。立命館が空襲をうけたことを知っている人はあまりないだろう。あの時、ー諸にいたのは誰と誰であったか。「京都空襲を記録する会」の藤谷俊雄講師に知らしておく価値があるかもしれない。
やがて敗戦、末川先生指導による新しい出発がある。
天下の立命館に飛躍していくわけである。ごく最近のことであるが、何を思い何を考えていたのか、混沌そのものだ。一生懸命に考えたはずだが、何も残らなかった気がする。時勢にやっぱり流され泳いでいたに過ぎないようである。
私は一時帰郷し、やがてまた立命館に復帰した。復帰した立命館はまさに面目を一新していた。私も一新した気持で働いた。だが大学紛争が待ちかまえていた。それは衝撃であった。いまだに私には整理のつかない大問題である。十分に対象化できない。それに直面した同僚たちの辛労はみるも無惨であった。立命館を去った教授諸君の数はどれほどであろうか。残った諸君の苦労は一層大きなものであった。そのため、—そのためと言うことは正確ではないが、彼等のあるものは點鬼簿中の人になった。つぎつぎに倒れた。
武藤守一、高橋良三、井上晴丸、小椋広勝、山口竜夫、手島正毅、前芝確三、山元一郎、蓮尾千万人、平中苓次いずれも無理を強いられたのだ。進んで無理な局面に当った尊敬すべき人々だと思う。このほか11名の方が過去帳中に記録された。
いま私は研究室に井上晴丸の薊(あざみ)をかいた色紙を掲げている。趣きのある絵である。マルクス主義者であった彼は、マルクスのつぎの言葉を必ず読んだにちがいない。
「死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のように見え、そして両者の統一に矛盾するように見える。しかし特定の個人はたんに特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。」
(『経済学・哲学草稿』)マルクスは人間の死のまぬがれがたさを知り、そのおぞましさを直視していた。點鬼簿中の人になったこれら友人たちの心の安らぎをいまは祈ることにしようか。立命館はいまー拠点へ向ってその前進を開始している。
(文学部教授)
2026年7月9日 史資料センター
2026.06.23
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅹ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第59号 表紙写真「記念の分列式」 学園創立三十五周年記念号
1935(昭和10)年12月
【写真1】建礼御門に向かって分列行進する禁衛隊の学生生徒
① 創立三十五周年記念式典と分列式
1935(昭和10)年、立命館大学は創立三十五周年を迎えました。その記念式典が、11月23日の新嘗祭(天皇がその年の新穀を神に捧げ感謝し、自らも新穀を食べる宮中行事)の祝日午前9時から大学国清殿で挙行されました。多数の来賓が参列し、御真影奉拝、教育勅語奉読後、中川総長の演説(学園の歴史と精神を約35分にわたり述べた)、織田萬名誉総長、佐々木惣一大学長らの祝辞が続き、西園寺公望公をはじめ170通の祝電が披露されて11時閉式されました。
その後すぐに禁衛隊行事へと移りました。来賓一同は、大学傍の清和御門から入って、建礼御門前に位置し、学生生徒約四千名の分列式が約1時間にわたって行われました。
【写真2】分列式を見守る前から中川総長、織田萬名誉総長、佐々木惣一学長ら
昼からは学内で祝賀会が開かれましたが、その席上、中川総長は自らのポケットマネーを1万円投じて百年後に莫大な基金として未来の学園に活用するという計画を発表しました。
当時は利子が低下傾向にあり、百年後の経済形態の見通しがつかないとして、三井や住友は引き受けを躊躇しましたが、関西信託は立命館と多年にわたる取引があったことから引き受けたのでした。
② 中川総長古稀祝賀会
そして、午後5時から京都ホテルでは学園の教職員と校友ら五百名が列席して、中川総長の古稀祝賀晩餐会が開かれました。この喜びを永く記念するためとして、大学の校友会員、職員、中学・商業の卒業生と父母や職員らによって五万円を拠金して中川会館を建設することになりました。新聞紙上には学内東南の空地に近日着工予定と発表されていました。
③ 立命館創立三十五周年記念大演習(11月24日・深草練兵場にて)
前日の大祝賀会に引き続いて、午前8時から立命館禁衛隊約四千名の学生生徒たちが、大学校門から繰り出して禁衛隊楽隊を先頭に深草練兵場へ集合。激烈な白兵戦を演じました。西軍は騎兵隊、高射砲隊、野砲隊、歩兵隊、タンク隊、杖衛隊、自転車隊、瓦斯隊、槍隊、飛行機二機に義勇側車隊の応援も加わり京都を死守して演習が終了。その後、各教練が行われて午後4時に皇居を遥拝し、万歳を三唱して解散しました。
当日は好晴の日曜日とあって、多くの来観者が大演習を見守ったのでした。
【写真3】騎兵隊
【写真4】防空高射砲隊
【写真5】野砲隊
(2)第60号 表紙写真「三学期の勉強始まる」非常時の春と我等の覚悟号
1936(昭和11)年1月
【写真6】禁衛隊道場前の掲示板
掲示板には「禊修行第二学期皆勤ノ者ハ各組ニ於テ前列ノ席ヲ與フ 昭和11年1月6日」と書かれていました。総長として二度目の校長兼務となった中川校長は、就任二年目を過ぎて、自ら描く教育の理想に向かって、中学生・商業学校生へ次々と新しい改革を打ち出し、禊や遥拝も定着、禁衛隊としての軍事演習も高い評価をえるようになっていました。後は、生徒の学業をいかにして向上させるかが課題でした。長期欠席や成績不良の生徒には退学処分も含めて厳しく臨みながら、優秀な生徒には更に意欲を向上させるために飛び級などを実施して、学校としての評価を高めようとしていました。この掲示板の公示もその一つでした。
2026年6月23日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
