立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2026.10.23

広小路キャンパスを想う ―緑と気概と志と―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第4回

 かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
 第4回は、戦後間もない広小路キャンパスに就職し、学園の苦難と飛躍を見つめ続けた岩井忠熊名誉教授の一編です。
 ビルの谷間で息が詰まると京都御所の芝生へ逃げ込んだ日々。マイクもなく、白木の粗末な机が並ぶ大教室、女子トイレすら整備されていなかった万事不備の環境の中で、教員も学生もあふれんばかりの議論と熱気に包まれていました。

 東シナ海の底に沈みかけた自身の戦争体験と重なる「わだつみの像」への思い。緑あふれる現代の衣笠キャンパスで生きる私たちへ、学園発展の原動力となった「あの頃の気概」を語りかける貴重な手記です。


広小路キャンパスを想う ―緑と気概と志と― 岩井忠熊
『UNITAS』第243号(1992年7月)

 かつてある新聞が広小路キャンパスを評して「葉緑素欠乏症」と書いた。故北川理事長がそれを読んで「うまいことを書くもんだ」とつぶやかれたのを今のように憶えている。コンクリートの建物とアスファルトの校地のなかにほんの数本の樹木があった。ビルの谷間で精神を抑圧されたような気分に陥ると、隣りの御所の芝生に息抜きに入った。そこで円座になっての語らいも楽しい思い出である。
 御所と立命館といえばやはり「禁衛隊」の歴史を抹殺できない。「禁」は「禁苑」つまり御所を意味する。 1928年御大典にさいしてできた時は、任意の学内団体だったらしい。それが全学生自動加入となったのは、戦争末期、文部省の方針で全国の大学高専に報国隊という強制加入の組織ができた時だった。国家主義的狂熱のはてに「学徒出陣」となり、多くの学生が帰らぬ人となった。その渦中にあった一人として、私の胸も今だにうづく。
 1949年戦没学生記念会が結成され、文集『きけわだつみのこえ』が編まれ、やがて本郷新氏によって「わだつみの像」が作られた。その像の建立が東大当局に拒否され、末川総長の決断によって広小路キャンパスに迎え入れられたのは1953年である。以来「わだつみの悲劇をくり返すな」が全国の心ある学生の合言葉となり、「像」はただ立命だけでなく全国学生にとって象徴的な意味をもつ存在となった。危うく東シナ海の「わだつみ」の底に沈みかけた経験をもつ筆者などには、「像」が我が身に問いかけてくるような思いを禁じえない。広小路キャンパスが研究と教育の場であったことはいうまでもない。戦後間もなく私が就職した頃、大教室にマイクはなく、机も椅子も白木の素人づくり然とした粗末な品だった。図書館も十脚ぐらいの机と椅子があるばかりで、開架式でなかったから、図書検索のために、教員は自分で カギをあけて書庫に入った。それでもそこで埃をかぶった天下の珍籍を発見し、躍り上がった記憶がある。
 学部、図書館の図書費はあったが、研究費は一文ももらえなかった。個室も全教員にあったわけではない。授業終了時の校庭、校門は、ラッシュアワーのターミナルのように混雑していた。もちろん各学部の学生談話室などというものは思いの外だった。初期女子学生の一人だった妻の言では、便所さえ男女別になっていなかったという。
 万事不備のキャンパスだったが、あの頃の広小路には言うに言われぬ熱気がムンムンとしていた。よかれあしかれ、教職員も学生も議論に熱中した。何事も試行錯誤の時代である。いま思えば穴の中に入りたくなるような思い出を自分のこととしてももっている。然し、あの気概と志が全学園をおおっていたのが、まぎれもなく広小路の一番鮮明な記憶なのだ。そしてそこにこそ後年の立命館学園発展の原動力があったと思われてならないのである。
 いま立命館大学学舎は、衣笠山を借景に、緑したたるキャンパスに変貌した。とくに正門から中川会館・図書館にいたる道がいい。南門から等持院にそって西へむかう銀杏並木もすてがたい。桜・つつじ・楠・あせび・もくせい等、季節の花と香りが絶えない。秋の紅葉も美事である。快適な図書館は休日も開いている。私は学園生活を楽しみに登校している。広小路時代の気概と志だけは失わないようにしよう。
 「立命館発祥之地」碑文の原案は、そんな私の気持をぶちまけて書いたつもりである。
(名誉教授)
かつての記憶4-1
岩井忠熊名誉教授が原案を書いた「立命館学園発祥之地」記念碑に刻まれた文

かつての記憶4-2
「立命館学園発祥之地」記念碑

2026年10月23日 立命館 史資料センター

2026.10.13

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(14) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第68号 表紙写真「秋日の下に胸を張って(昼の合同体操)」
昭和11年10月発行

禁衛隊14-1
【写真1】全生徒による昼休みの体操

 中川校長が生徒の健康管理と維持に極めて厳しかったことは、今までに何度か紹介してきましたが、今号はその徹底ぶりを紹介する写真です。生徒たちは毎日、登校直後の禊(乾布摩擦)に続き、昼休みには体操を行っていました。体操の内容は詳しく記されていませんが、すでに陸軍戸山学校での体操が配属将校などによって全国的に普及されていたことから、ラジオ体操(昭和天皇即位を記念して1928年12月から開始)のような簡易体操ではなかったのではないかと考えられます。

 この第68号の最後には清和会報で卒業生会員の動向が紹介されています。軍人で昇進した人物もあるなかで、田中伊三次(中学校昭和5年卒業)が弁護士として事務所を開設(大学広小路学舎の近くで寺町通り丸太町を上がった場所)したと書かれています。(注)

注:田中伊三次は立命館大学法学部在学中に市議会議員に当選。卒業後に弁護士となり、府議を経て衆議院議員に当選、戦後も政治家への道を諦めず、通算で15期も衆議院議員に選出されている。その間、2回法務大臣に就任。ロッキード事件問題では調査特別委員長を務めた。


(2)第69号 表紙写真「御眞影奉迎(十一月三日明治節)」昭和11年11月発行

禁衛隊14-2
【写真2】校庭での御真影奉迎の様子

 11月3日は明治節で、立命館中学校商業学校では祝賀式を挙行していました。【写真2】のように明治天皇の御真影を迎え、午前8時から講堂で拝賀式。8時半から校庭で分列式を行った後、午前9時からは運動遊技会を行っていました【写真3】。

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【写真3】第68号に紹介された運動遊技会のプログラム

 種目内容を見ると、全生徒が楽しんで競うというものでした【写真4】。

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【写真4】パン喰い競争の様子

 午前11時からは賀茂川の河川敷で飯盒炊事(当時はこのように呼ばれていました)。中川校長も生徒たちと一緒に飯盒で炊いたご飯を食べていた写真も紹介されています【写真5】。

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【写真5】中央に立って生徒たちの作業を見守る中川校長

 午後1時からは再び学校に戻って遊技会の後半で、最終種目は職員による抽選競争が行われ、一等の景品には自転車があったことが記されています。こうして楽しい明治節行事は午後2時に終了し解散となりました。
 この第68号には一般的に知られていない【写真6】のような写真が紹介されています。完成間近の中川会館3階の総長室には、中学校商業学校の生徒全員の寄附によって贈られる中川総長の木像が飾られることになっていました。11月3日の明治節の日に生徒全員に披露されたのでした(この木像は現在、立命館の学宝として保存されています)。

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【写真6】中川総長の木像

(3)第70号 禁衛隊記念誌記号
 表紙写真「捧げ銃(十一月二十二日御所建禮門前にて)」昭和11年12月発行

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【写真7】分列式最後の「捧げ銃」

 毎年恒例となっている11月22日の禁衛隊記念式の様子を表紙と16枚にわたる「禁衛隊記念式グラフ」写真で紹介しています。立命館大学の校庭に集合した中学校商業学校の生徒たちは、スピーカーを通して国清殿内での中川総長の式典式辞を聞いた後、学生と共に、御苑での閲兵分列式のために移動しました。山国隊から伝わる軍楽隊の演奏を先頭に、行進の後列には禁衛隊名物となった槍隊が続きました。
 分列行進の最後に建禮門前で【写真7】のように全員よる「捧げ銃」行い、中川総長の発声で万歳三唱して終了となりました。その後、生徒たちは学校へ戻り、名物「禁衛隊お粥」でお腹を膨らませて【写真8】一日の行事を終えたのでした。

禁衛隊14-8
【写真8】お粥を美味しそうに食べる生徒たち

 この頃の各号には、学内行事の報告が丁寧に記載されていますが、11月13日には朝鮮各地の小学校教員による学校参観があったと紹介されています。

2026年10月13日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

2026.09.28

学園の変遷と自然の変化―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第3回

 かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。

 第3回は、昭和20年(1945年)から立命館に勤務し、北大路・広小路・衣笠の3つの学舎・キャンパスを駆け抜けた生物学者・菊池立身教授。氏が記録したのは、建物の歴史ではなく「キャンパスに生きる草木や虫たち」の姿でした。

 かつて衣笠キャンパスの池に自生していた綺麗な水を示すプランクトン、工事や人の行き来にともなって広がった外来種、そして正門近くに植えられた巨木メタセコイアの由来――。

 学園の目まぐるしい発展と引き換えに変化していった自然の姿を、温かい眼差しで捉えた貴重なエッセイ。当時のキャンパスの匂いが伝わってくるような「生きた証言」です。

 

 

学園の変遷と自然の変化(『立命館学園広報』第57号(1975.9.20)〈立命館70年余話〉より)

菊池立身

 

私の立命館での生活は、三つの学舎を次々に本拠にして移っていったことになる。昭和20年秋に非常勤として当時の立命館一中に勤めだし、21年専任になり、昭和20年代はだいたい北大路学舎に勤務。昭和27年、法学部に移り、30年代は広小路学舎に勤務。昭和38年の二部改組で、生物学・地学実験室が衣笠キャンパスに移り、広小路・衣笠往復の勤務。実験室も今はない木造建物を2度、移転利用した。昭和43年、理工学部に移籍となり今日に至ったわけである。しかし、北大路にいたときも、新制度の高校の教頭をしていたので、広小路や衣笠にもときどき行っていたし、生物学が各学部に開講され、どの学舎にもよく出入りしていたが、特に理工学部は生物学実験で関係が深かった。

専門の関係で、三つの学舎を移動しながら、その自然環境にいくらか関心をもっていたので、これまでこの欄にあまり出なかった話を書いてみようと思う。

もっとも自然の変化の著しいのは衣笠キャンパスであろう。しかし、キャンパス自身としてあまり変わらないように思われる北大路・広小路も京都全体の変化の中で生物を含めて長い間にはずいぶん変わっている。広小路学舎についていうなら、施設がずっと少なかったこと、緑化に乏しく殺風景だったことは、すでにこの欄で何度も紹介されている。

私が広小路学舎に移ったのは、文系学部にも自然科学系の教員と施設が必要であるという、当時の設置基準の関係で、故江原真伍先生と私が、生物学・地学実験室の設営に当たるためであった。現在高校におられる西村寮平氏と堀井篤氏が助手で移って来られ、江原先生はおもに理工学部におられたのではじめのころは3人で組んで仕事をしていた。貞廣太郎氏の実験担当は、すこし後のことである。

実験室は現在二部の占めているところで、二部事務室が地学実験室、委員長室・講師控室が生物実験室、前の廊下に準備室があった。その前の尚学館のあたりに道場があり、その付近はかなり植物やこん虫なども豊富で、実験材料を手近にえることができた。学生数が少なかったので 、実験室は文系学生にもかなり利用できたし、理工学部も学生数が少なく、生物実験の受講者は衣笠から通いで実習に来る時期がかなり続いた。私は理工学部にも講義に行っていたので、午前中は等持院、午後は学生といっしょに広小路ということもしばしばだった。

生態実習のプランクトンは、衣笠学舎の池で採取し、持ち帰って広小路実験室で調べるのである。池は、今あるものよりも2号館のある場所にあった池の方をよく利用した。つまり理工学部の事務室のある建物はその池を埋めたてて建設されたわけである。新1号館との間の空地の少し高い部分に松が生えているが、そこは池のへりの名残りだと思われる。その池は現在の池とともにプランクトンが豊富で、きれいな水に多いサヤツナギという種類が多く、農薬が流れこまないので他の池よりもよほど実習に適した池だった。

 

かつての記憶3-1

 

ここで衣笠キャンパスに話題を移そう。戦前の話は別にして、戦後の衣笠での大変化のはじまりはグラウンドの新設であったと思われる。この話もすでに方々で紹介されているが、木造の理工学部の校舎の東側は衣笠山の山麓の松林であり、裾野は田園で、畑や田のあいだに笹原も混じっていた。そこを当時新兵器のブルドーザーで削ったように思うが、とにかく地ならししてグラウンドができ、公認球場となり、プロ野球にも貸した時代があった。その名残りが今のグラウンドにも少し残っている。

キャンパスの拡張は体育施設が先行したように思われる。以学館の前身は小グラウンドやテニスコートがあったような気がするし、その北にはバレーやバスケットのコートがあった。衣笠山の裾野を削ったことは現在の地形にも反映しているし、近ごろまで山の草や木がかなりキャンパス内に残っていた。今でもグラウンドの西側にカンサイタンポポが残っているし、理工新館建設のため撤去された物理実験室棟周辺の空地に、カンサイタンポポがセイヨウタンポポの侵略に対抗して共存しつつ残っていて生態学上興味のある場所があったが、今はない。理工学部の前進のためには当然のことだが、ちょっと惜しい気もした。

衣笠キャンパスの生物的自然は特色があり、田畑に多い農地的植物と、衣笠山の山麓の山の植物、そして等持院裏と付近に多かった園芸商の圃場的植物が混在していて、小動物のすみ方もそれに応じた特色をもっている。それにさらに、立命館のキャンパスになってからの植樹緑化が加わっているわけである。

キャンパス内でもっとも目立つシロツメクサ(ホワイト・クローバ)は帰化植物だが、他の多くのイネ科の雑草とともに農地型の代表であり、山の植物としては樹木でいうと、池の西にあるエゴノキの巨木や、構内特に理工学部校舎周辺に散在するアラカシ、ウラジロガシなどがある。圃場的植物の1例としては、池の付近にバイモが自生していた。後の緑化の古い例は2株のメタセコイアで、理工学部正門から等持院裏を東行する道の角の巨樹は戦後日本にもたらされた中の古い方で、理工学部教授だった河路甲午郎先生の御尽力があったと聞いている。しかし、山地植物はだんだんに減りつつあり、帰化植物の殺風景な連中が勢力を増しつつある。しばらく前まで図書館の向かいにセイタカアワダチソウの侵略に対抗して、アキノキリンソウが残っていたし、カラスウリが紅い実をつけていた。

 

かつての記憶3-2

 

植物の話は一応やめて、学園の発展と自然環境の話にもどろう。二部改組、二部事務室開設で、生物学・地学の実験室が衣笠に移転した。場所は現在の修学館の西にあった木造建物であった。私の広小路・衣笠往復時代になるわけである。昭和40年に現在の学而館の建物の西北部分に当たる化学科木造棟の空いたあとに引越した。隣の木造棟が撤去された空地に、いろいろな野草雑草が芽生えるのを、生態実習で調べて、意外に山の植物が入っているのに驚いたことがある。しかし量的に多いのはこのころは圧倒的に帰化植物であった。大学紛争中、電気工学科の封鎖の際、とばっちりを受けて机や椅子を封鎖資材に持ち出され、被害を受けたのも実験室がここにあった時代の思い出である。さらに、現在の基礎工事務室(二部事務室衣笠分室)の階上に移転するのである。自然環境の話が引越しで中断したが、実習のプランクトンの話をもう一度例に出すことにする。衣笠学舎の池の水量はずいぶん滅り、プランクトンの質も、浅い泥底型に変わった。これは観光道路の開通以後の周辺の環境変化、衣笠山の変化とも関係しているので、学園だけの問題でない。池の東側の小溝の前身は水量豊富な流れであり、周辺には山地型の植物が豊富だった。体育館の南東を南下する流れがあり、その名残りの小さい溝にタデ科植物が細々と今も残っている。セイタカアワダチソウの侵入についても注意しているが、30年代後半から目立ちだし、経済・経営学部の移転の工事に関係が深いように思う。トラックの往復も分布拡大に関係があるようで、そういう資料を持っている。小烏やこん虫の話もいろいろあるが紙面の関係で今回は割愛する。

 

記憶のあいまいな点も少なくないし、書かなかった話題もまだ数々残っているが、学園の前進とよりよい環境づくりが考えられねばならない時に少し変わった自然環境の話もまたなんらかの意味があるのではないだろうか。

 近ごろは、自然観察も一般によくされるようになったし、衣笠キャンパス附近にも観察に向いた場所が残っている。キャンパス自身も生態学的観察の好対象である。誌面を借りてのお願いもあつかましいが、身近な自然の変化について、古くから御在職の皆さんに情報の提供をお願いして最後にしたい。

(理工学部教授・生物学)

 

2026年9月28日 立命館 史資料センター

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