立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2014.12.09

<学園史資料から>立命館校歌・学園歌の歴史

こちらの記事で紹介するレコードの音源は学園歌集・音源 のページで試聴頂けます。

1.最初のレコードの“発見”

 

 「あかき血潮 胸に満ちて 若人真理の 泉を汲みつ ………」

 

 歌い継がれてきた立命館の「校歌」。

 その校歌は1931(昭和6)年の初夏にでき、その12月にレコードの吹き込みが行われたのですが、これまで最初に製作されたレコードの所在が不明でした。

ところが、史資料センター準備室ではこの8月にその貴重なレコードを入手することができました。

 レコードはSP盤ですが、デジタル録音をし当時の歌声を再び蘇らせたのです。その歌声と旋律は80年以上も前のものとは思えないほど鮮明で美しいものです。




2.校歌の歴史

 (1) 校歌の完成

 そもそも立命館の校歌を作ることになったのは1928(昭和3)年のことでした。『立命館学誌』第115(昭和36)に立命館大学学友会が、校歌募集の記事を掲載しました。

 1928年という年は、立命館の歴史にとって画期となった年でした。新大学令による第1回の卒業生を送り出した年でもありましたが、昭和天皇の即位の礼「御大典」が京都御所で行われ、また文部省による国民道徳の涵養が求められた年でした。

立命館は御大典にあわせて広小路学舎の整備をはかり存心館が竣工、また上賀茂運動場の造成に着手するなど施設の整備を進めました。そして禁衛隊を編成し、愛国教育を進めた年でした。そうした状況のもとで募集された校歌は、学園の新たな精神を培うためのものでもあったように思います。

 しかし、9月下旬には発表の予定だった校歌はできず、19307月には校歌作成案を中川館長に提出しましたが、考慮中とのことでした。

その内容はわかりませんが、間もなく「学生歌」()ができたことが『立命館学誌』第137(昭和511)に報告されました。作詩は土井晩翠です。校歌募集が「学生歌」となった経緯は不明ですが、当時の『立命館学誌』によると学生歌・校歌を作るために学生から基金を集めていたことが知れます。

 さて、校歌ですが、1931(昭和6)9月の『立命館学誌』第145号に、「立命館大学校歌成る」の記事とともに歌詞が掲載されました。依頼していた近衛秀麿子爵から717日に校歌が送付されて来たことが同号に記されています。

 近衛秀麿から送られてきた原歌詞は残っていませんが、『立命館学誌』第145号に掲載されたものが現存する最も古い歌詞です。楽譜は昭和6年初夏と記された手書きのものが残っていて、「勢強く、行進の速度」で歌うこととしています。『立命館学誌』第148(昭和612)には楽譜が歌詞とともに掲載されました。

 

立 命 館 大 學 校 歌

                     明本京静作詩 近衛秀麿作曲

  一、あかき血潮 胸にみちて    若人(わかうど)(まこ)()の 泉を汲みつ

    仰げば比叡 千古のみどり   ふす目に淸しや 鴨の流れの

    かゞみもたふとし 天の明命  見よわが母校 立 命 

                           立 命

  二、見よやみどり とわの()えは  あふぐもかしこき 平安の御所

    よき師友どち (なご)みて此處に  契ひて結べる 『禁衛』『立命』

    躍進日本の 輝きおへる    みよわが母校 立 命

                            立 命

                   (『立命館学誌』第145号掲載の歌詞)


 

 (2) 校歌と学生生活

 校歌が送られてきて、921日には学内で練習を始めたようです。そして1122日には、ラグビー蹴球部が法政大学と対戦するため京都駅で「赤き血潮」の校歌を合唱し、東都遠征の見送りを受けました。

 更に翌1932(昭和7)725日、立命館予科は全国高等専門学校野球大会で法政予科を破り優勝、甲子園に立命館大学校歌が響きわたりました。

 そして1935(昭和10)23日の短艇部主催の映画会で校歌の合唱を聴いた「文科楽典生」は、次のように語っています。

 「然し反響の悪い、ピアノもない、何ら音楽的設備のない所で、而も短時日の間に、それらの難関を押切ってステージに立ち、容易ならぬ名曲校歌に於て日本一と賞揚される美しいリズム、あの懐しい母校の校歌……」

 こうして戦前の学生生活のなかに校歌が拡がっていきました。

 (3) 戦後の校歌

 敗戦によって立命館の運営や教学は大転換を遂げることとなりましたが、校歌も例外ではありませんでした。

 1948年の104日に理事会で校歌2番の改廃が提起されました。結論についての記録は残っていませんが、これ以降実質的には1番のみが校歌として歌われるようになりました。

 1950年度の「学生手帳」には校歌(1)が掲載されています。その歌詞は「あかき血潮……」ではなく、「若き血汐……」となっています。

 そして1950年は立命館の創立50周年で、50周年を記念して様々な事業が行われましたが、校歌のレコードの製作もそのひとつでした。レコードは、立命館大学合唱団と立命館大学軽音楽部により「帝蓄」(テイチク)で吹き込みが行われ、1015日、秋晴れの立命館衣笠球場で開催された創立50周年記念式典で発表されました。その貴重なレコードも今回の調査で保存されていたことが判明し、録音を再現しました。その歌声は「若き血汐……」でした。



 

 このように歌詞は戦後色々な歌われ方がするようになりました。「若き血汐……」のほか「天の命名」(最初は天の明命でした)などです。

 そこで19761月には、歌詞を統一してレコードを製作、現在歌われている校歌となりました。この時の録音は、メンネルコール・応援団吹奏楽部など学生音楽団体の協力で行われました。

3.附属校の校歌

 立命館では大学の校歌のほか、附属校にも校歌があったことがわかっています。

 (1) (旧制)立命館中学校・商業学校校歌

  一、古都千年の昔より 叡山籠むる朝霧は 今撞き鳴らす立命の

    鐘の響きにちらされて 見よ燃え出ずる旭日に はや跡もなく霽れゆきぬ  

    二、山紫の裾を縫ふ 昔ながらの鴨水に 眠り心地の夢さまし 

    自治の精神(こころ)振り起し 脱げ偸安(とうあん)(ふる)(ぎぬ)を わが立命の學びやに

  三、碧空(あをぞら)高く飛ぶ鳥が 陽光浴ぶる野の花か 春の血は火と燃えて

    肉双腕(もろうで)に躍るかな 立て立命の若人よ 希望は前に輝けり

  四、高き理想は天の星 常久(とわ)に我等を導けり 正義の道を踏みしめて

    一歩も退くこと勿れ これぞ名に負ふ立命の 男子(おのこ)我等がつとめなり




 実は旧制の立命館中学校の校歌は「あかき血潮」よりも古いのです。

 中学校の校歌は1921(大正10)521日に発表されたことが『立命館学誌』第41(大正106)に記載されています。『立命館学誌』はその歌詞・曲を伝えていませんが、これも最近、立命館中学校・商業学校の歌集に掲載されていたことがわかりました。歌集の作成時期は不明ですが、「立命館校歌」と「中・商業学校校歌」が歌詞・楽譜ともに収載されています。商業学校は1929(昭和4)年から1943年まで設置されていましたから、1931年以降、1943年頃までの間に二つの校歌が共に歌われていたのではと思います。

 中学校の校歌は田中寅之助作曲、奥村善明作歌で、校歌ができて間もない527日に田中寅之助氏が来校し生徒一同に教授したことが同じ学誌に記録されています。

 この校歌には、後の立命館大学校歌の2番や、この後の日満高等工科学校の校歌とは異なる、大正の時代の空気が感じられます。

 なお、戦後の1948513日付「立命館タイムス」に、「立命中学高校生徒歌募集」の記事があり、「校歌は慎重且つ恒久的なものであるから知名人に作歌を依頼し、生徒歌を募集……」とあります。しかしその後同紙は何度か「あかき血潮」を校歌として掲載しています。


 (2) 立命館日満高等工科学校校歌

  一、御稜(ミイ)()の光畏くも  禁衛隊の由緒(ユカリ)ある わが園の見よ 

興亞の使命擔ひつゝ 擧りて進む此の力 讃へん學園日満高工 

讃へん高く

  二、松の緑の衣笠に 水淸らなる鴨川を ふるさととして天翔ける

    雄々しき鳥ぞ若人の 翼ひろげん大満洲 輝け學園日満高工

    輝け廣く

  三、あゝ工業の精鋭の 技術を誇りいざ行かん 産業開發果てしなく

    山河は廣し大陸の 希望の空はわれを呼ぶ 榮えよ學園日満高工

    榮えよ永劫(トワ)

 『立命館日満高等工科学校報告』第3(昭和168)に、「校歌制定」とし上記の校歌が載っています。

 「カネテ我ガ校風ヲ振興シ、生徒ノ士気ヲ鼓舞センガタメ、校歌ノ制定ヲ計画中デアッタガ、今回白鳥省吾氏作詩、海軍軍楽隊作曲ニヨリ左記ノ通リ決定シタ」

とあります。それ以前の資料には掲載されていませんので、制定の正確な時期はわかりませんが、立命館日満高等工科学校は1939(昭和14)4月に立命館高等工科学校を改組して開設され、1942(昭和17)4月には専門学部工学科に昇格しますので、短い期間の校歌であったといえます。

 歌詞からは、時局に貢献する日満高等工科学校の教育の目的がよくみてとれます。白鳥省吾は宮城県生まれで早稲田大学を卒業した詩人でしたが、白鳥が生涯に作詞した校歌は全国で230を超えるといわれています。


 (3) 神山中学校・高等学校校歌

    賀茂の宮山風こもり  鞍馬にはしる道白し

    つつじに埋るあの学舎 立命ここ我らが母校

 この歌詞は、立命館中学校・高等学校から、神山中学校・高等学校の1952(昭和27)3月の卒業アルバムに掲載されていることを教えていただきました。

 神山中学校は戦後の1947年に、神山高等学校は1948年に開校となり、神山学舎(北区上賀茂)19523月までありました。以後は立命館中学校・高等学校に統合されます。

 (この地は)翠緑したたる赤松の山を背にして、空気清澄、春から夏にかけては松蝉が鳴きしきり、叢から雉や鶉が飛び立ち、校庭に牝鹿が迷い込むこともある、今から考えると仙境ともいうべき閑静な地であった。」(野崎龍吉「神山学舎の思い出」『立命館学園広報』1972520)

 歌詞は短いながらも当時の神山学舎の情景が目に浮かぶようです。


4.現在の校歌・学園歌

 1990525日、立命館理事会は「校歌の改廃について」改めて審議をし、第2番の廃止を正式に決定しました。2番の歌詞は立命館の戦後の教学理念にそぐわないためでした。

 

   あかき血潮 胸に満ちて   若人真理の 泉を汲みつ

   仰げば比叡 千古のみどり  伏す目に清しや 鴨の流れの

   かがみもとうとし 天の明命 見よわが母校 立命 立命

 

そして改めて、1976年に統一された上記の歌詞(1)を確認し、立命館創始120年・学園創立90周年を記念して、外山雄三氏により交響楽の演奏にもふさわしいように編曲され、新しい伴奏曲の校歌が67日に完成しました。

 

しかし学園は、1990年代に入り総合学園として大きな発展をしてきました。1994年には滋賀県草津市にびわこ・くさつキャンパスを開設、宇治市に立命館宇治高等学校を設置、1995年には北海道札幌市に立命館大学慶祥高等学校(のち江別市に移転し立命館慶祥高等学校に)の設置を経て、2000年には大分県別府市に立命館アジア太平洋大学を創設することとなりました。

このような学園の展開を受けて、「仰げば比叡」「鴨の流れの」といった京都の地域性を表現している校歌のあり方を検討することとなりました。

 その結果、1998123日に理事会は、以下のように校歌のあり方を確認しました。

 (1)現在の校歌を学園歌とする。

 (2)立命館大学は現在の校歌を引き続き立命館大学校歌とする。

 (3)(4)各附属校と立命館アジア太平洋大学は各校の判断に委ねる(要約)

 

 現在立命館は2大学、4高等学校・中学校、1小学校を擁し、全国に大学・附属校を展開しています。そしてこの9月には立命館高等学校・中学校が長岡京市に移転し、来春には茨木市に新キャンパスが開設されようとしています。

 1931(昭和6)年に京都で生まれた校歌「あかき血潮……」は、今や全国各地で学園歌としてその歌声を響かせ、歌い継がれています。

 

  () 現在の「学生歌」は1960年、学園創立60周年を記念して募集し、学生の応募が採用されてで

きたものです。

 

  本稿は、本年8月に1931(昭和6)年に製作された校歌のレコードが“発見”されたことから、改めて

校歌の歴史を『立命館学誌』などの諸資料により振り返ったものです。

執筆にあたり、特に吉田幸彦氏『立命館大学「校歌」「学生歌」のこと』(『立命館百年史紀要』第17

号 20093)を参照しました。

また、本学文学部非常勤講師の大西秀紀先生が2009年度に文学研究科の演習の授業で立命館大学校歌

のレコードについて取り上げていたことがわかり、2014912日にお話しをお伺いしました。

   

                 (2014129日 立命館史資料センター準備室 久保田)



2014.12.09

<懐かしの立命館>学生自治組織・女子学生会の誕生―22年前まであった女子学生会―

「たしかに1992年まではありました。翌年の1993年には解消されました。その理由は立命館大学女子学生の数が1980年代後半から急増したことを背景に学友会全体の運動の中で実現していくことになったからです」と語るAさん。

それが22年前まで存在していた学生自治組織・女子学生会でした。



 

女子学生会(発足当時は女子部)は、今から66年前の19484月に立命館大学が新制になった翌年(1949年)に誕生しました。

その目的は、「本学は女子学生が少ないが学生生活には種々の問題をはらんでいる。係る問題を少しでも改善し女子学生の福祉「幸福」をはかり、また教養を高める」(『1959年立命館大学1部学友会案内』)ことにあったのです。

 

女子学生に対象を絞った学生自治組織ができたのは、男性中心の社会構造が敗戦後大きく転換し、大学教育にも反映したという背景があります。

戦後、1945124日の閣議は「女子教育刷新要綱」を了承し、男女間に於ける教育機会均等及び教育内容の平準化並びに男女相互尊重の風を促進することを目的に、女子に対する高等教育機関の解放、大学教育における男女共学制の導入を大学に求めました。

立命館大学も応えます。「大学もまた、教育の機会均等は男女共学の面でもあらわれねばならない。そこで本学は女子学生の教育にも重点をおいている。(中略)女子学生は学友会各部の研究会やサークルにも加わり女性としての教養や学問的識見をたかめることにつとめ、学園も便宜をはかっている」(『入学案内』1952年)   



 

敗戦後の立命館大学の女子学生数は、秋房麻里氏の調査(百年史紀要第5号「研究ノート立命館大学における初期の女子学生について」)によれば、

敗戦の翌年、1946年は旧制大学3名、専門学校1名の計4名、

1949年には新制大学13名、専門学校13名の26名、

1950年全学生数9,283名の内女子は新制大学34名、専門学校13名の47名、

1951年全学生数9,541名の内、新制大学24名、専門学校6名の32名、

であり、ほぼ30名前後、全学生に占める割合では0.3%程度でした。

 

当時の女子学生に対しては偏見も根強くあって、

「授業が始まると前に座るんです。そしたら後ろの方で<ようこんな男ばっかりのところへ(来るわ)、心臓の強い人やねんな」(新制大学第1期卒業生)

「道を歩いていると石を投げたり奇声を発したり、階段の上から唾をかけたりする学生がいた」1954年当時在学の女子学生)

など苦労も多かった様です。

とはいえ、この30名前後の女子学生は同時に全国の女子学生を牽引する重要な役割も担っていました。




 

1953(昭和28)年122日、全国から56校、2百数十名の女子学生が東京・赤坂公会堂に集まり、最初の日本女子学生大会が開催されます。

大会では、女子学生に対する就職差別、課外活動の制限(学生新聞を発行させない、学校外活動の禁止など)撤廃、女子大の講義内容改善、共学大学の女子寮建設など多くの問題解決を全国の女子学生が協力して努力することを決意表明しています。(朝日新聞1953123日朝刊 女学生は何を考えているか。初の全日本女子学生大会から)

この大会後、全国各大学に燎原の火のごとく女子学生会が誕生し、女子学生の要求実現に奮闘することになるのです。

木下恵介監督の「女の園」(1954年)が創作されるのもこの頃です。




 最近新たに見つかった1952年発行の女子学生会機関誌「ふかみどり」(第二号)(残念ながら第1号は保存されていません)の巻頭言に女子学生会の意気込みが謳われています。

 

 装を新たにして、此の稿を上梓するに当たり巻頭の言を共に聲高らかに謳わん。

 若き日の魂、若き日の智恵によりて、人生の実相を把握し、最も厳粛にして幽玄なる人生の詩と哲学に生き、吾人の青春をして悔い改めべからしめん

  易手の水逝いて再び還らず、

  ああ!我等 若き日の感激と情熱を全世界に迄、否、星の世界にまで昴揚すべき時、

今をおいて他にあるべき。

  共に進まん 真理探究の道を!

  共に進まん 真理探究の道を! 




 発足以降女子学生会は、女子学生にとって大切な独自要求を多々実現させてきました。

 例えば

 ・女子学生が気楽に身体休め談笑できる畳の談話室、

 ・女子トイレの設置、

 ・女子トイレの非常ベルの設置、

 ・生協の女性用品コーナー設置

などです。

 

女子学生会発足当時0.3%であった学生比率(一部昼間部学生に対する女子学生比率)は、

その後1980年代半ばから急上昇し、1990年には22.0%を占めるまでになりました。

学生5人に1人は女子学生という状況の中で、女子学生会は、女子学生の要求は学友会全体の要求として常態化されてきているとの認識に立ち、今後は学友会運動全体の中で取り組むとして、女子学生会を解消することとなりました。

また、学園も急速な女子学生増加や女子学生要求を含んだ学友会との全学協議会議論を経て、1994年には本学の女子学生政策の課題と基本方向が整理されました。その女子学生政策が今日の諸施策に反映しているといえます。

ちなみに女子学生比率(1部)を1970年から10年毎に見ると次のようになります。

1970年  8.2

1980年 12.8

1990年 22.0

2000年 36.3

2010年 35.7

1990年代以降急増し2000年以降には3人に1人が女子学生となっていますね。

 

                            (立命館 史資料センター準備室 齋藤)

 

 

 

 

<参考>

1.1951年度 入学案内パンフ

2.1953年度 入学案内パンフ

3.朝日新聞1953123日朝刊

4.「百年史紀要第5号―研究ノート立命館大学における初期の女子学生について」(『立命館百年史紀要第5号』)

5.パンフ「我らとともに」(1987年立命館大学2部新歓実行委員会)女子学生会の項

6.「本学の女子学生政策の課題整理と基本方向」(答申)


2014.11.20

「資料保存の現場から」モノ資料の写真撮影と帽章・徽章など金小物類の保存



史資料センター開設に向けて、「モノ資料」の写真撮影を順次進めています。

撮影した写真はテーマごとにファイルでカタログ化するなどし、学内からの問合せ等、利活用の依頼があった際に、ひと目見て、その資料がどのような内容のものであるのかや、大きさや形状など資料の概要を把握していただけるよう、できるだけわかりやすいファイル・カタログづくりに努めています。




 

「モノ資料」といっても、史資料センターに保管されている資料には多種多様なものがあり、写真撮影や撮影後の保存も一様には進めることができません。資料に応じて保存方法を考えながら整理を進めています。今回はその一例として、「帽章」「徽章」など金小物類の保存について紹介します。

以前に「学園史資料から」のコーナーで、展示の紹介として「立命館デザインのバッジ」のいくつかを取り上げて掲載しました。

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=53

それらはこれまで主に校友(卒業生)の方から寄せられた帽章、襟章、その他の徽章などですが、一つひとつを見てみると、帽章ひとつをとってみても「立命」の下地の上に「大学」(注:「学」の字は旧字体)と入ったものや、「専門」と入ったもの(ご寄贈者の在学年から専門学部のものと判明)、「中学」と入ったもの、「高商」(高等商業)と入ったものなど、学校ごとに作られていたことがわかります。

また、高等商業学校のピンバッジであれば「そろばん」がデザインされていたり、中高のクラス(「A」「B」「C」など)を示すピンバッジや、「立命」の下地に「週番」と入ったものがあったりと、非常に多彩で、学生生活が想像されるようです。

他にも、運動会の記念のバッジや、校友会やクラブ・サークルで折々の記念に作成されたと思われるネクタイピンやバックル、ライターなど様々な金小物類があります。それらはすべて、立命館に通っていた学生・生徒が実際に身につけていたり、記念とされたものであったりと、当時の学生生活を物語る貴重な資料として、後世に残していく必要があるものです。

史資料センターでは、それらの金小物類の写真撮影後、小さな引出し式のプラスチックのケースで保存することにしました。個別の引出しの中にガーゼを敷き、およその種類ごとに資料を分類して入れ、乾燥剤(シリカゲル)を入れて保存していきます。引出しの一つひとつはこのような感じになります。



問合せ等があった際に備え、どこに何があるのかがわかりやすく整理されていくと思われます。

これらの資料が展示などで多くの方の目にふれ、学生生活を思い出していただいたり、学園アイデンティティを感じていただいたりする資料になればと思います。

なお、史資料センターでは今後も引き続き、これらの資料収集に取り組んでいきますので、資料や資料に関する情報をお持ちの方、ご協力いただける方がいらっしゃいましたら、情報をお寄せいただけると幸いです。



最新の投稿

RSS