立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2015.02.26

<学園史資料から>立命館中学校・高等学校の昭和24年秋季文化祭


 立命館中学校・高等学校は20149月に深草キャンパスから長岡京キャンパスに移転しました。移転に際して一部資料が史資料センター準備室に移管されましたので、これらの資料のなかから、1949(昭和24)年の秋季文化祭の様子を紹介します。

新制間もない当時の立命館中学校・高等学校は北大路学舎にありました。

 当時の『立命館タイムス』によれば、1948(昭和23)年の文化祭が第2回となっていて、第1回は1947(昭和22)年の「学芸祭」がそれにあたるのではないかと思われます。

 第3回にあたる1949(昭和24)年、今から65年ほど前の文化祭はどのようなものだったのでしょうか。

 

保存されている2点の「集会届」で文化祭の様子が伺えます。


【資料1】

1点目【資料1】は、立命館夜間高等学校(注1)主催による秋季文化祭で、昭和241031日から115日までの間、秋季文化祭を開催することを下鴨警察署長あて届けています。

種目は演劇コンクール、講演会、音楽コンクール、弁論大会、芸能祭です。

講演会では末川博総長が「学生道徳」と題して講演を行い、弁論大会では「犯罪と文化」他の演題で生徒24名が競ったようです。参加者は本校生徒約1000名としています。

届出は1020日付けで夜間高等学校長城内辰尾の名で行っています。

同じところに綴られていた「夜間高等学校文化祭行事一覧表」によると、1031日が演劇コンクール、111日が講演会及び映画、112日はのど自慢大会、114日弁論大会、115日演芸コンクールを開催することになっています。



【資料2】

2点目【資料2】は、立命館中学高校弁論部の主催による「弁論大会」です。昭和241120日に立命館高等学校講堂で、弁士は高校生徒約60()、参加予定は生徒約600名とし、119日に立命館高等学校長今小路覚瑞の名で下鴨警察署長あて届けています。

当時は学内で開催する文化祭(集会)も、警察署への届けが必要だったようです。







また文化祭の一環と思われる運動会のマラソン競争が開催されました。



2点の「道路一時使用許可願」でその概要を知ることができます。



【資料3】

1点【資料3】は、1021日に開催する立命館高等学校生徒約30名によるマラソン競争です。コースは学校をスタートして烏丸今出川―百万辺―高野―学校をゴールとするものです。



【資料4】

もう1点【資料4】は、1023日に開催する中学校生徒約30名によるものです。コースは学校をスタートして烏丸車庫―高野―元田中と往復するものでした。

この2点の資料は「届出」ではなく「許可願」のため、昭和241013日付けの下鴨警察署の許可印が押印されています。

 

これらの文化祭やマラソン競争の当日の様子を詳しく知ることはできませんが、事前の届出や許可願、写真(注2)からその一端を知ることができます。

 

(注1) 立命館夜間高等学校(定時制)は、19484月から19523月まで開設されていました。
(注2) 写真は立命館中学校・高等学校から提供いただきました

2015.02.18

<学園史資料から>卒業記念品 鹿の卓鐸

立命館 史資料センター準備室の今月の展示をご紹介します。


末川博先生書「相信未来為未来生」(「未来を信じ未来に生きる」の漢文体)が刻まれた卒業記念品の「卓鐸」です。
※過去に卒業記念品として配布された品。


制作者は村上炳人氏。
裏面には制作者のサインである「丙」の文字が刻まれています。

青銅製で、とても良い音が鳴ります。


末川先生の大きな写真が表紙の『ライフ・オブ・立命館』。

1952年に立命館大学一部学友会執行部が発行した冊子を併せて展示しています。


末川先生のページ。

学生生活を沢山の写真で綴ったページ。

当時の様子が伝わります。

2015.01.29

<懐かしの立命館>「未来を信じ 未来に生きる」の意味

立命館が掲げるこの言葉の意味を、覚えていますでしょうか。

これは、「不戦の誓い」と「平和と民主主義」を一言に凝縮したキャッチコピーです。

 

 

<記念碑「未来を信じ 未来に生きる」>

立命館大学衣笠キャンパス正門を入ると、ロータリーの中央に「未来を信じ 未来に生きる」という末川名誉総長の言葉の碑があります。



 

この碑は1981年立命館大学の衣笠キャンパス一拠点が完成した折に建立され、当時の天野和夫総長により由来が次のように記されています。(注1)

 

本学創立八十周年ならびに衣笠移転完成を記念して、この碑を建てる。

  碑の文字は、末川博先生が、本学に建立された「わだつみの像」の台石に刻むため書かれたもの。

  この言葉には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意が、こめられている。

      一九八一年五月一九日

         立命館総長 天野和夫 記

 

 天野総長が記した「わだつみ像の台石に刻」まれた文とはどのような内容でしょう?

また「この言葉(未来を信じ未来に生きる)には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意がこめられている」とあるのは、どういうことでしょう?

 

少し歴史をさかのぼってみましょう。

 

<わだつみ像の台石に刻まれた文は>

記念碑「未来を信じ 未来に生きる」の由来記にある「わだつみの像」は、日本戦没学生記念会(わだつみ会)の委嘱によって、1950815日、彫刻家・本郷新(19051980)が制作し、現在立命館国際平和ミュージアムに建立されています。(注2)

 

当初は、アジア太平洋戦争の戦場に出征し、生きて帰ることのなかった戦没学生たちの嘆き、怒り、黙(もだ)した苦悩を象徴した記念像として、東京大学構内に設置する予定でしたが建立できず、以後本郷新氏のアトリエで眠ったままとなっていました。

 

1951128日、立命館大学で開催された「全立命戦没学生追悼慰霊祭」の席上、末川総長が、この「わだつみ像」を本学に受入れることを表明し、全学挙げて誘致の取り組みの結果、立命館大学に建立されることとなったのです。

 

1953128日、旧広小路キャンパス研心館前で「わだつみ像」の建立除幕式が行われた際には、全国から平和を願う2,000名をこえる学生、市民が集い、末川総長、日本戦没学生記念会(わだつみ会)理事長柳田謙十郎氏、像制作者本郷新氏、像命名者藤谷多喜男氏などが列席しました。

1954128日には、「わだつみ像」の前で、第1回「不戦の集い」が行なわれ、以降毎年12月には像の前で「不戦の集い」が開催されています。

 

その台石に刻まれていたのが、「未来を信じ 未来に生きる」で始まる文でした。

 

未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。

その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだせを象徴するのがこの像である。本郷 新氏の制作。

 なげけるか いかれるか はたもだせるか

 きけ はてしなきわだつみのこえ

 この戦没学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている

   一九五三年一二月八日(注3

立命館大学総長 末川 博 しるす

 

 

<教学理念「平和と民主主義」の象徴として>

 

この文は、「わだつみ像」が象徴する不戦・平和の誓いだけでなく、立命館大学の教学理念の有り様をも現していました。

 冒頭の「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。」という部分に込められた思いに関わって、末川総長は自伝(末川博著『彼の歩んだ道』岩波新書 1965年)で次のように述べています

「それにしても、この間で最も痛惜にたえないのは、若い人たちが戦場にかり立てられて帰ってこないことであり、わけても二十一年前のいわゆる学徒出陣でペンを銃ににぎりかえて学業なかばに悲壮な気持ちで戦列に加わった青年学徒が散り去ったことである。これらの学徒が高めようとしていた知性を否定され、みがこうとしていた理性をふみにじられる矛盾を止揚しえないままに、その矛盾のなかで散華したのを思うと、断腸の感なきをえない。」(p219

「人間の幸福と世界の平和のために貢献しうる学問のみが真に学問と呼ばれるに値する。そして人造りのための教育もまた、このような真の学問の上に立ちながら、愛情と理解と信頼によって行われなければならない。」 (p.220

 

学問は人間の幸福と世界の平和への貢献をその使命とし、未来においてそれをなしうるのは、今学問に打ち込む青年であること、だからこそ教学理念を「平和と民主主義」として戦争を廃し、青年の未来を守らなければならないのだということです。

天野総長が記した「この言葉には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意がこめられ」ているのは、こうした末川総長の思いがあるのです。

 

 

<教学理念のエッセンスとしての「未来を信じ 未来に生きる」>

こうして「わだつみ像」台石の文は、立命館の教学理念「平和と民主主義」を象徴する言葉となり、その後学園の様々な出版物にも引用されていきます。

 

 1980年代ごろまでは、「未来を信じ未来に生きる。」は全文が引用され、「わだつみ像」との関係性についても、教学理念「平和と民主主義」との関係性についても説明がなされていましたが、時代を経るにつれ象徴的な言葉「未来を信じ 未来に生きる。そこに青年の生命がある。」という部分、さらには「未来を信じ 未来に生きる」という部分が抜粋されていきます。

 


1962年度の『学生生活』(新入生に配布される冊子)には、旧広小路学舎の「わだつみ像」とともに末川総長の文が全文掲載されていました

 


1982年度の『学生生活』では、末川総長の碑文拓本とともに、「わだつみ像」の由来が解説されています。

 


2002年度の『学生生活ガイド』では、「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある」という碑文の最初のフレーズがキャッチコピーとして引用され、「わだつみ像」との関係性は記載されていません。

これは、1992年に「国際平和ミュージアム」が開館し「わだつみ像」が移設されたため、本文中の「国際平和ミュージアム」のページに解説が移動したことによります。

 

 「未来を信じ 未来に生きる」という言葉だけですと教学理念「平和と民主主義」には直接的な連想ができませんが、改めて全文を見るとこの言葉が意味するところがはっきりわかります。

「未来を信じ 未来に生きる」は、「わだつみ像」に込めた「不戦の誓い」と、立命館の教学理念「平和と民主主義」とともに立命館の社会的使命を一言に凝縮したキャッチコピーなのです。

 

史資料センター準備室

 

 

(注1)立命館大学は、2つのキャンパス(広小路、衣笠)があったが、広小路から衣笠へ順次学部移転を進め、1981年の法学部移転をもってすべての学部が衣笠キャンパスに移転した。これが「衣笠一拠点」事業で、1981516日に「学園創立80周年・大学衣笠移転完成記念式典」が開催されている。

「未来を信じ 未来に生きる」の石碑はすでに19814月に建立されていたが、この日に合わせて天野総長揮毫による建立趣意銘板が設置され、516930分から改めて石碑の披露が行われている。(『立命館学園広報』第120号 p30 1981520日、『同』第121号 p47 1981620日)

 建立趣意銘板の日付が516日ではなく519日となっているのは、519日が立命館大学の創立記念日であり、1981519日をもって「学園創立80周年」となるため。

なお519日の「創立記念日」は、1985年までは臨時休業となっていた。     

創立記念日については以下の記事もご参照ください。

<「今日は何の日」5月> 立命館の創立記念日は519日?

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=8

 また、石碑は1981年に建立された後、1989年に改装され現在に至っている。本文写真は現在のもの。故末川博先生の13回忌にあたる1989216日に合わせて石碑の文字部分をブロンドキャストに改装。合わせて石碑裏面の天野総長の由来を銅版に刻んで石碑前に建てた。(『立命館学園広報』第206号 p282 1989220日)

 

(注2)わだつみ像に関しては、以下の記事もご参照ください。

<今日は何の日 12月>わだつみ像

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=26

<学園史資料から>わだつみ像 バッチ・キーホルダー・盾 19751976

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=37

<学園史資料から>わだつみ像再建立

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=59

 

(注3)128日は、「太平洋戦争」の開戦日。

1931918日に勃発した「柳条湖事件」に端を発する「満州事変」、193777日「盧溝橋事件」から始まる「日中戦争」を経て、1941128日、大日本帝国はアメリカ太平洋艦隊基地であるハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃(現地時間1941127日)、またマレー半島などの東南アジア諸国への侵攻作戦を開始し、同日付でアメリカ・イギリスに対して宣戦布告の詔勅が発せられている。(「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」を総称して現在は「アジア・太平洋戦争」と称されている)

戦後、128日は開戦日、815日は終戦日として反戦平和を誓う記念日となり、様々な取組みが行われている。「わだつみ像」の完成は815日、立命館大学の「不戦の集い」も必ず毎年128日に開催されていた。台石に刻まれた末川総長の文の日付が128日であることもこれに由来する。

 


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