立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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立命館あの日あの時内記事を検索します

2014.10.02

<懐かしの立命館>戦前「最後の立同戦」


立同戦観戦の様子※年代不詳

 

 立命館大学硬式野球部(以下、硬式野球部)は1923(大正12)年、井村信正、小山恭二、長村甚一氏らによって創部されました。この時から現在の硬式野球部の歴史が始まっているといえます。その硬式野球部が加盟しているリーグは過去幾多の変遷を経て今日に至っています。

戦前のリーグは1928(昭和3)年「京都五大学野球連盟」として生まれ、1930(昭和5)年には「関西四大学野球連盟」となり、1931(昭和6)年秋には関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学、京都帝国大学(現京都大学)、神戸商業大学(現神戸大学)の6校による関西六大学野球連盟へと変遷します。このリーグの内関関戦、立同戦(当時の言い方は同立戦といいますが、立命館大学では立同戦といいます)は伝統戦として定着し、総じて「関関同立」(戦)と称していました。(入試などでよく言われる「関関同立」はもともとこの伝統戦をさしていたといいます。)

 

 しかしその後、この伝統の立同戦は戦争によって取り止めとなります。

 

1943(昭和18)年46日、文部省は「戦時学徒体育訓練実施要綱」にもとづいて東京大学野球連盟と関西大学野球連盟に対して、連盟の解散とリーグ戦を取り止めるよう要請します。この要請を受けて411日に東京大学野球連盟は解散を決定し、翌々日の413日、関西六大学野球連盟も緊急委員会を開き連盟の解散を決定します。

 

その413日からわずか約2週間後の42914時から西京極球場(現 わかさスタジアム京都)において二校対抗戦として立同戦がおこなわれ、21で立命館大学が勝利を飾りました。

廃止が決定してもなお開催できたのは両校の選手や学生、市民の想い、情熱があったのだろうと思います。

そしてこれが戦前「最後の立同戦」となりました。

 

 これ以降、学生達を戦争に動員する体制が急激にすすんでいきます。1943(昭和18)年625日、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員体制が確立します。102日には「在学徴集延期臨時特例」が公布され、文科系学生の徴兵猶予が停止、1012日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、学生の徴兵猶予が停止されて全面的な学徒出陣が推しすすめられていきました。

そして、ご存知のように1943(昭和18)年1021日、雨降る明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会がおこなわれたことは歴史事実として記憶されています。同時刻、立命館大学(旧広小路キャンパス)でもラジオ中継を聞きながら1500名の出陣壮行会が挙行されました。「最後の立同戦」のわずか6ヶ月後のことでした。


学徒出陣する立命館学生

同志社大学硬式野球部の部史には最後の立同戦の(のち)、野球部の活動はいったん休止することにし「いつまた皆がグランドに集まる日が来るのか、懐かしいユニホームを返して、残った選手はそれぞれの道を歩むことにした。再びボールを追う日があることを念じながら―その希望をもって」(『同志社大学野球部 部史』同志社大学体育会硬式野球部、同志社大学野球部OB会編集・発行)と戦前の部史を終えています。

 

遠い約束だった伝統の立同戦は敗戦後の1946(昭和21)年516日に守られ再開されました。


立同戦観戦の様子※年代不詳

残念ながらこの「最後の立同戦」の詳細な資料(スコアブック、写真、メンバー表、証言等)は立命館史資料センター準備室には残っていません。引き続き多くの資料を収集して戦時下の先輩諸兄の青春像を浮き彫りに出来ればと思っています。

 

  

                                 

参考

 1.『同志社大学野球部 部史』同志社大学体育会硬式野球部、同志社大学野球部OB会編集・発行

 2.『立命館百年史通史一』立命館百年史編纂委員会

 3.『学制百二十年史』 文部省

 4.京都民報 1983.10.23付 1993.11.21

 5.立命館大学硬式野球部HP 硬式野球部の歴史

2014.09.12

<学園史資料から>スポーツの秋

立命館 史資料センター準備室の今月の展示をご紹介します。



今月の展示は、スポーツの秋と題して、数あるスポーツ関係資料の中から数点をご紹介。




各記念の品や紙資料など、スポーツ関係資料の形は様々です。


スポーツ関係資料には、応援グッズも沢山あります。
こちらは応援グッズの団扇。



団扇に描かれたキャラクターや応援歌に関連した記事はこちら。
<懐かしの立命館>「第三応援歌」はどこへいったのか。


2014.08.01

<懐かしの立命館>1951(昭和26)年8月16日  63年前の大文字観賞会


1950(昭和25)年519日に立命館学園は、創立50周年をむかえ初の公選制によって選ばれた末川博総長(当時)が「20世紀のスタートは近代日本のスタートであり、同時に又、立命館学園のスタートであった」と学園の発展を讃えました。

この年から始まった50周年記念事業は、大学院・短期大学校舎建設、鴨川運動場整備、春菜寮開設、北大路運動場拡張など1953(昭和28)年まで続く事業でした。記念事業最初の事業であった大学院校舎は同じ年の10月に竣工しました。

 50周年事業が進み始めた翌年の1951(昭和26)810日、理事、教職員各自にはがきの案内が送られました。

拝啓 酷暑の(みぎり) 御尊堂愈々(いよいよ)御清昌に(わた)らせられお垚び申し上げます。(かかげ)(きた)16日は例年のように精霊の送り火として古都の夜をこがす大文字等が点火されることになっています。就いては本館大学院屋上において午後7より(ママ)(かん)(しょう)の夕べを催したいと存じますので何の取設けも御座いませんが、御繰合わせの上御家族同伴御来駕(らいが)を賜りたくご案内申し上げます。 

京都市上京區廣小路寺町東入中御靈町410 學校法人立命館

昭和261951)年810中京局発信 

 


1989年8月16日 衣笠キャンパスから望む大文字の送り火の様子


お盆に入ると連日最高気温36℃以上の猛暑が続いていましたが、16日には前日までの猛暑も少し和らぎ、この日の「大文字観賞の夕べ」には理事、教職員の約250名(約7割)が参加して盛大におこなわれました。参加した理事、教職員にはささやかに団扇(うちわ)とお菓子が配られまし

 団扇(うちわ)

菓子(京銘菓松風 庶民の駄菓子かりんとう 南蛮菓子のビスケット)

この夕べに参加した理事、教職員は立命館学園が戦後の新時代に相応しい大学として、国民大衆のための大学として出発点に立ったことを確信し、次の50年後の学園発展を夢見たのかも知れません。大文字観賞の夕べは教職員のひと時の休息とやすらぎを与えました。お土産の団扇(うちわ)とお菓子はその時の具象です

大文字観賞関係書類と当時配られたお菓子を再現したもの

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