立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2013.11.28

<懐かしの立命館>衣笠キャンパス「体育館」今昔

 

 201311月現在、衣笠キャンパスの第一体育館の解体工事が進められ、跡地には新図書館が2015年夏に完成する予定になっています。この第一体育館は、19696月に竣工したもので、44年余に渡り正課体育授業や課外活動、式典などに使われてきました。解体にあたり、体育館の歴史を振り返ってみましょう。


<前史-広小路時代の体育館>

 立命館大学の広小路時代の体育館は、195810月に河原町今出川下ル東入ル(鴨川畔)に竣工しました。当初は法学部・経済学部・文学部の3学部の学生の体育の授業やクラブ活動などに使用され、床面積1,170㎡余で平屋建ての建物でした。

この体育館は、19813月、衣笠一拠点完成に伴う広小路学舎閉校の際に京都府に売却した後、京都府立医科大学が現在も引き続き使用していて、広小路時代の建物施設として唯一現役で残っているものです。


<衣笠キャンパスの「体育館」>

 衣笠キャンパスの「体育館」は、19696月に竣工しました。衣笠一拠点化計画のなか、立命館創立70周年記念事業のひとつとして完成したものです。

 19641月の全学協議会の教学改革議論を一つの契機として、保健体育教育の改革・展開や体育施設の整備が全学的な課題となり、柊野総合グラウンドの整備により衣笠球場を廃止し、跡地に「体育館」および「中央グラウンド」を整備しました。

 衣笠山を背にした体育館は、東に比叡山を始めとした東山三十六峰を望み、西に仁和寺の古塔、南には淀の平野を見渡せる景勝中の景勝の地に位置していました。

 「体育館」は2階建てで、延べ床面積約4,770㎡と広小路の体育館に比べ4倍の床面積でした。

 竣工記念パンフレットで武藤守一総長事務取扱は、「立命館にはふさわしくないなどと批判か皮肉が出そうなほど立派に竣工し……」今後正課の保健体育や課外としてのクラブ・サークル活動に運用していく重要性を述べています。


<衣笠キャンパスの「第一体育館」と「第二体育館」>

 19814月、衣笠一拠点事業の最後の建物として存心館・第二体育館・図書館書庫棟が竣工しました。第二体育館の完成によりこれまでの「体育館」は第一体育館と呼ばれるようになって現在に至っています。

 


<正課授業・課外活動を支え続けた体育館>

 翌月516日、その第一体育館において、来賓・教職員・学生など1300名の参加により、立命館創立80周年・大学衣笠移転完成記念式典が開催されています。

 1969年の竣工以降、1981年の衣笠一拠点完成を経て今日まで、「体育館」は正課体育の授業やクラブ活動のみならず、入学式や卒業式、時に入学試験などにも使用されてきました。クラブ活動としては、バレーボール部など多くのスポーツ系クラブの拠点として使われましたが、他の大学に比べても練習環境として使いやすい体育館であったといいます。

 

<「京都衣笠体育館」の完成と使命を終えた第一・第二体育館>

 学園ビジョンR2020における衣笠キャンパス整備計画の皮切りとして、今年1月これまでの第一体育館と第二体育館を統合する形で「京都衣笠体育館」が竣工し使用が開始されました。新体育館は第二体育館に隣接して建設され、同時に第二体育館も改修し、地下部分は新体育館と一体の施設となり、また1階部分は解体され人工芝の広場となりました。

 新体育館は地下2階・地上2階建ての4層で、延べ床面積9,070㎡余に及ぶ(旧第二体育館地階部分を含む)3つのアリーナのほか、格技場・柔道場も備えています。建設にあたっては、設計に学生の声も反映し、学生が正課・正課外の枠を超え成長していくことが期待されて建設されました。また非常災害時に対応する備蓄倉庫も備え、地域の活性化にも寄与し、環境保護への関心も高めるよう配慮しています。

 衣笠山、龍安寺の麓、衣笠キャンパスの西側部分に立命館の新たな体育施設「京都衣笠体育館」が完成しスタートしたのです。

 

 なお、本学の戦後から1990年代までの保健体育教育と体育施設の発展については、『立命館百年史紀要』第八号(20003)所収の芝田徳造名誉教授「立命館大学保健体育教育小史覚書」を参照ください。

 

                    

2013.11.04

「今日は何の日」11月 末川博学長の誕生

1945(昭和20)年11月 末川博先生が立命館大学の学長に就任しました。
 日本全体が戦後改革を進めようとするなか、立命館も戦前の学園運営と決別し新生立命館へと歩みを進めましたが、その歩みは末川博の名と不可分でありました。その存在がなければ立命館はまた違った歩みをしていたでしょう。
 敗戦直後の1945(昭和20)年11月6日、立命館理事会は戦後学園改革をスタートするため、法学博士末川博を学長に推薦することを決定、10日には文部大臣の認可により末川博学長が正式に誕生し、1948(昭和23)年には立命館学園の総長に就任します。
 末川博は1892(明治25)年、山口県玖珂村(現岩国市)に生まれ、第三高等学校、京都帝国大学法科大学を卒業しています。
 末川と立命館の関係は大正時代に遡り、京都帝国大学の講師となる1年前の1918(大正7)年10月から立命館大学の講師を務め、1933(昭和8)年の京大事件で京都帝国大学を辞任した後は大阪商科大学の教授となりましたが、戦後立命館大学学長として迎えられたのです。
 その後、戦後の学園運営をめぐり総長就任直後の1948(昭和23)年11月に辞任していますが、翌49年立命館は総長公選制を布いて再び末川を総長に選出しています。以降1969(昭和44)年4月1日に任期を終えるまで、5期20年にわたって総長を務め戦後の学園改革に力を注ぎました。立命館学園の「平和と民主主義」という教学理念や学生とともに立命館の将来を討議するという「全学協議会」制度も末川総長の時代に確立されたのです。
 1970(昭和45)年4月2日、末川博は立命館名誉総長となり、その後も立命館の発展のため力を尽くし、1977(昭和52)年2月16日84歳で逝去しています。
 末川総長の言葉「未来を信じ 未来に生きる」を刻んだ碑は今も衣笠キャンパスのバスプールに立ち、往時の姿や歩みは「末川記念会館」に展示されています。



末川博総長(1953年当時)

2013.11.03

「今日は何の日」11月 昔の学園祭のこと

 現在の立命館大学学園祭は、BKCが11月上旬、衣笠が11月中旬の土日に開催されています。APUの学園祭である天空祭は10月下旬の土日に開催されています。
 戦後の学園祭は、1947(昭和22)年10月18日・19日に、また1948(昭和23)年の10月14日・15日に開催されていることが、当時の在学生の日記に記されています。
 1950(昭和25)年には、「立命館大学創立五十周年記念学園祭」が10月14日から28日、更に11月中旬の企画と続いて開催されました。体育大会や「同・立野球リーグ戦」も開催されていますが、この年の学園祭は文字通り創立50周年を記念する全学の取組みでした。
 1951(昭和26)年10月5日の「立命館学園新聞」には、「学園祭近づく 各部多彩な催し」の記事が掲載され、10月11日から27日までの間、演劇部、写真部、茶道会、軽音楽部の企画などが紹介されています。同立野球戦、20日には新京極の美松ダンスホールでの大ダンスパーティー、体育祭では仮装行列市中行進などもありました。
 1955(昭和30)年の『学園祭パンフレット』によると、「立命館大学創立55周年」を記念し、11月6日の御所グラウンドでの体育大会に始まり、学芸大会、学術大会、理工大会の企画が15日まで連日繰り広げられています。学術関係では38のサークルの企画、学芸関係では14の催しが紹介され、12日夕刻には広小路学舎の校庭で「ファイアーストームを囲む歌とおどり」が行われました。
 また1990年代半ば頃までは、学園祭は土日だけでなく前後の平日もあり、学園祭実行委員会から大学に申し入れて、教授会などで審議をした上で、全学休講にしていました。例えば1990(平成2)年度の学園祭では11月2日(金)が一部全学部午後半日休講、11月5日(月)が一部全学部全日休講・二部全学部全日休講になっていたのです。



1981年衣笠一拠点完成年度の学園祭夜祭

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