立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2013.03.02
「今日は何の日」3月 神山学舎の開設と上賀茂グラウンド
1942(昭和17)年3月、上賀茂グラウンドの地に神山(こうやま)学舎が開設されました。
神山学舎は、前年4月に立命館第二中学校が設置され北大路学舎を仮校舎としていましたが、旧校舎を移設・改修してスタートしました。
学舎はもともと1928(昭和3)年にグラウンド用地として取得、1929(昭和4)年に完成し10月20日に完成記念全学大運動会を開催し、以降グラウンドとして使用していた場所でした。
立地は、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の北、神山を望む地にあり、市バス御園橋から25分、京福二軒茶屋から20分という場所で、約8,000坪の地は「仙境ともいうべき閑静の地」(元立命館高等学校長・野崎龍吉先生)であったということです。
第二中学校は戦後の学制改革とともに1947(昭和22)年に立命館神山中学校となり、翌48年に立命館神山高等学校も設置されました。
神山中学校、神山高等学校はその後1952(昭和27)年に廃止され、立命館中学校・高等学校に統合されます。
卒業生は、第二中学校が1945(昭和20)年から1948(昭和23)年までで422名、神山中学校が1949(昭和24)年から1951(昭和26)年までで345名、神山高等学校が同じ期間で324名でした。
神山学舎は1952(昭和27)年から京都市に貸与され、市立本山中学校(のち洛北中学校と改称)が使用しましたが、1957(昭和32)年6月に返還され、以降立命館のグラウンドとして使用しました。
課外活動としてはアメリカンフットボール、サッカー、陸上ホッケー、弓道部などが使用しましたが、柊野グラウンドの開設により順次移転し、1982(昭和57)年4月に京都産業大学に売却することになり(弓道部は9月まで使用しましたが)、50余年の歴史を閉じました。

1942年、上賀茂グラウンドの地に神山学舎を開設。最初は立命館第二中学校、のち神山中学校・高等学校となった。
神山学舎は、前年4月に立命館第二中学校が設置され北大路学舎を仮校舎としていましたが、旧校舎を移設・改修してスタートしました。
学舎はもともと1928(昭和3)年にグラウンド用地として取得、1929(昭和4)年に完成し10月20日に完成記念全学大運動会を開催し、以降グラウンドとして使用していた場所でした。
立地は、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の北、神山を望む地にあり、市バス御園橋から25分、京福二軒茶屋から20分という場所で、約8,000坪の地は「仙境ともいうべき閑静の地」(元立命館高等学校長・野崎龍吉先生)であったということです。
第二中学校は戦後の学制改革とともに1947(昭和22)年に立命館神山中学校となり、翌48年に立命館神山高等学校も設置されました。
神山中学校、神山高等学校はその後1952(昭和27)年に廃止され、立命館中学校・高等学校に統合されます。
卒業生は、第二中学校が1945(昭和20)年から1948(昭和23)年までで422名、神山中学校が1949(昭和24)年から1951(昭和26)年までで345名、神山高等学校が同じ期間で324名でした。
神山学舎は1952(昭和27)年から京都市に貸与され、市立本山中学校(のち洛北中学校と改称)が使用しましたが、1957(昭和32)年6月に返還され、以降立命館のグラウンドとして使用しました。
課外活動としてはアメリカンフットボール、サッカー、陸上ホッケー、弓道部などが使用しましたが、柊野グラウンドの開設により順次移転し、1982(昭和57)年4月に京都産業大学に売却することになり(弓道部は9月まで使用しましたが)、50余年の歴史を閉じました。
1942年、上賀茂グラウンドの地に神山学舎を開設。最初は立命館第二中学校、のち神山中学校・高等学校となった。
2013.03.01
「今日は何の日」3月 卒業式は3月だけど、日はいろいろな変遷があった
3月は卒業式。その式日はいろいろと変遷しています。
新制の立命館大学は1948(昭和23)年4月に発足しましたが、旧制からの移行期であったため1949(昭和24)年度には新制大学法学部・経済学部・文学部を合わせ197名の卒業生を送り出しました。
1950(昭和25)年度の卒業式は1951(昭和26)年3月21日、春分の日に行われ、3学部合わせて992名の卒業生となっています(1949(昭和24)年度に発足した新制理工学部の卒業生は1951(昭和26)年度からです)。
1959(昭和34)年度は1960(昭和35)年の春分の日が3月20日であったため、あらためて卒業式を春分の日に実施することとし、1960(昭和35)年度以降も「春分の日」とすることを決めています。
この卒業式の期日は1984(昭和59)年度に、他の学年暦との関係(主に再試験制度)で3月25日とすることになりました。春分の日ではなく、また曜日に関わらず3月25日と固定し、1989(平成元)年度まで続きました。
しかし、この再試験制度もなくなるなど卒業式前後の諸日程との関係で、1990(平成2)年度以降再び「春分の日」となりました。そして1994(平成6)年度にびわこ・くさつキャンパス(BKC)が開設され立命館大学が二つのキャンパスになると、卒業式も春分の日を含めて2日で実施されることになりました。
ちなみに立命館大学の前身である京都法政学校の第1回卒業式は1903(明治36)年7月12日で、卒業生は55名です。今でも第1回卒業生の卒業証書が保存されています。

衣笠キャンパス第一体育館で挙行された卒業式
新制の立命館大学は1948(昭和23)年4月に発足しましたが、旧制からの移行期であったため1949(昭和24)年度には新制大学法学部・経済学部・文学部を合わせ197名の卒業生を送り出しました。
1950(昭和25)年度の卒業式は1951(昭和26)年3月21日、春分の日に行われ、3学部合わせて992名の卒業生となっています(1949(昭和24)年度に発足した新制理工学部の卒業生は1951(昭和26)年度からです)。
1959(昭和34)年度は1960(昭和35)年の春分の日が3月20日であったため、あらためて卒業式を春分の日に実施することとし、1960(昭和35)年度以降も「春分の日」とすることを決めています。
この卒業式の期日は1984(昭和59)年度に、他の学年暦との関係(主に再試験制度)で3月25日とすることになりました。春分の日ではなく、また曜日に関わらず3月25日と固定し、1989(平成元)年度まで続きました。
しかし、この再試験制度もなくなるなど卒業式前後の諸日程との関係で、1990(平成2)年度以降再び「春分の日」となりました。そして1994(平成6)年度にびわこ・くさつキャンパス(BKC)が開設され立命館大学が二つのキャンパスになると、卒業式も春分の日を含めて2日で実施されることになりました。
ちなみに立命館大学の前身である京都法政学校の第1回卒業式は1903(明治36)年7月12日で、卒業生は55名です。今でも第1回卒業生の卒業証書が保存されています。
衣笠キャンパス第一体育館で挙行された卒業式
2013.02.01
「今日は何の日」2月 入学試験今昔
現在の入学試験は2月上旬の日程が中心です。
しかし新制大学発足から間もない1951(昭和26)年度、1952(昭和27)年度の入学試験は3月から4月に行われていました。
当時は第1次募集と第2次募集があり、1951(昭和26)年度の入学試験第2次募集は3月28日法学部、3月29日経済学部、4月5日理工学部、4月15日文学部となっています。
1952(昭和27)年度の第1次募集の試験は、3月7日法学部、3月8日経済学部、3月10日文学部、3月11日理工学部でした。両年度とも当時あった短期大学の学生募集も行われました。
1956(昭和31)年度の入学試験からは出張試験が始まり、1956(昭和31)年2月23日に札幌・名古屋・広島・福岡の4ヵ所で実施されました。
戦前の入学試験では、1923(大正12)年5月発行の『立命館学誌』に、大学令準拠により開校された大学予科の入学試験が、4月8日国語・漢文、9日数学(代数・平面幾何)、11日英語、13日体格検査で実施されたことが記されています。
試験問題も掲載されていて、ちなみに、
国語科では、
左ノ文ヲ解釈スベシ
一、すべてみめよく品高けれどもあやしく賎しきが能あるに立ちならぶ折はその品そのみめもかならず思ひけたるるものなり
数学科では、
初項カ何レモ1ナル無限等比級数ノ総和ハ夫々a,bナルトキコノ二ツノ級数ノ対応項ノ積ノ和ヲ求ム
とあります(一部です)。皆さんも挑戦してみてください。
また、戦後、新制大学となった後の昭和26年度の立命館大学入学試験問題(日本史)も一部掲載します。
1.文中の空白のところに次に示す適当な語句を入れよ。
大化の改新でさだめられた( )は奈良時代のなかばごろまで中央ではよく実行されたが、( )では実施されぬ土地もあった。中央でも時代が進むにつれて行われなくなり、それと共に( )がふたたび盛となって来た。そのおもな原因は( )の発達であった。有力な( )等は争って広大な土地を占め開墾してこれを所有したが、貧しい民衆は困窮のあまり子供や( )さえも売る者があり、( )したり行倒れるものも少なくなかった。
(語) 逃亡浮浪・墾田・口分田・辺境・土地私有・班田制・社寺貴族

入学試験の様子
しかし新制大学発足から間もない1951(昭和26)年度、1952(昭和27)年度の入学試験は3月から4月に行われていました。
当時は第1次募集と第2次募集があり、1951(昭和26)年度の入学試験第2次募集は3月28日法学部、3月29日経済学部、4月5日理工学部、4月15日文学部となっています。
1952(昭和27)年度の第1次募集の試験は、3月7日法学部、3月8日経済学部、3月10日文学部、3月11日理工学部でした。両年度とも当時あった短期大学の学生募集も行われました。
1956(昭和31)年度の入学試験からは出張試験が始まり、1956(昭和31)年2月23日に札幌・名古屋・広島・福岡の4ヵ所で実施されました。
戦前の入学試験では、1923(大正12)年5月発行の『立命館学誌』に、大学令準拠により開校された大学予科の入学試験が、4月8日国語・漢文、9日数学(代数・平面幾何)、11日英語、13日体格検査で実施されたことが記されています。
試験問題も掲載されていて、ちなみに、
国語科では、
左ノ文ヲ解釈スベシ
一、すべてみめよく品高けれどもあやしく賎しきが能あるに立ちならぶ折はその品そのみめもかならず思ひけたるるものなり
数学科では、
初項カ何レモ1ナル無限等比級数ノ総和ハ夫々a,bナルトキコノ二ツノ級数ノ対応項ノ積ノ和ヲ求ム
とあります(一部です)。皆さんも挑戦してみてください。
また、戦後、新制大学となった後の昭和26年度の立命館大学入学試験問題(日本史)も一部掲載します。
1.文中の空白のところに次に示す適当な語句を入れよ。
大化の改新でさだめられた( )は奈良時代のなかばごろまで中央ではよく実行されたが、( )では実施されぬ土地もあった。中央でも時代が進むにつれて行われなくなり、それと共に( )がふたたび盛となって来た。そのおもな原因は( )の発達であった。有力な( )等は争って広大な土地を占め開墾してこれを所有したが、貧しい民衆は困窮のあまり子供や( )さえも売る者があり、( )したり行倒れるものも少なくなかった。
(語) 逃亡浮浪・墾田・口分田・辺境・土地私有・班田制・社寺貴族
入学試験の様子