立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2013.09.04

「今日は何の日」9月 立命館中学校・高等学校の誕生

 現在立命館の附属校は4中学校・高等学校と1小学校があります。そのうち最初の附属校は、立命館中学校・高等学校で、1905(明治38)年9月10日に誕生しました。
 創立時の名称は私立清和普通学校で、50名の入学者がありました。翌年の中学校令によって私立清和中学校と改称し、その年の12月には、閉校になった他の私立中学(吉田中学校)の多くの生徒を受け入れて生徒総数295名(1~5学年)の大きな中学校になりました。
 第1回の卒業生は、1907(明治40)年3月、44名でした(当時の中学は5年制です)。
 次いで1913(大正2)年の財団法人立命館の設立とともに立命館中学となり、1928(昭和3)年に立命館中学から立命館中学校になっています。
 「清和」というのは広小路学舎の西側にある京都御所の清和院御門に由来します。創立当初は京都法政大学と同じ広小路学舎で学び、1922(大正11)年に、現在は立命館小学校となっている北大路学舎に移転しました。以後1988(昭和63)年まで北大路学舎で66年の歴史を刻み、同年8月29日に深草学舎の開校式を迎えて今日に至っています(なお、2014年9月には長岡京新キャンパスに移転する予定となっています)。



1913年12月財団法人立命館が設立され、大学・中学とも立命館大学、立命館中学となった。広小路学舎正門には「立命館大学」「立命館中学」の門標が掲出された。

2013.09.03

「今日は何の日」9月 私塾立命館の創設

 現在の立命館は、1869(明治2)年に西園寺公望が京都御苑のなかの西園寺邸に開いた私塾「立命館」に由来します。明治2年秋9月23日に藤原(西園寺)公望が揮毫した「立命館」の扁額があります。西園寺公望21歳の時でした。
 西園寺公望は勤王家を養成するため私塾立命館を開きましたが、賓師(先生)として、京都の著名な漢学者・文人などが選ばれました。江馬天江、淡海槐堂、谷口藹山、広瀬青村、松本士龍、神山鳳陽、山中静逸、山本秀夫、富岡鉄斎、橋本蓉塘などです。
 「立命」は『孟子』から採られていますが、橋本蓉塘が命名したと言われています。塾の講義では、中国最古の詩集『毛詩』などが取り上げられました。また広瀬青村が塾長を務めたことのある大分・咸宜園には立命館の寮歌のルーツではないかと言われる「休道の詩」が残っています。
 塾は大そう評判がよく、塾生は100人ほどいたようで塾舎を建て増ししたといわれます。名前のわかっているなかに西園寺公望が山陰道鎮撫使として丹波馬路村に入ったとき陣営に参加した人の一族と思われる人がいます。
 しかし塾は翌年4月23日、西園寺がフランス留学準備のため長崎に遊学している間に、塾生の言動に不安を感じた京都留守官により閉鎖させられました。
 西園寺公望は、5月24日付の賓師あての書簡で、閉塾の経緯と無念さを述べています。



西園寺公望のフランス留学時代。西園寺公望は1870年の私塾立命館の閉鎖後フランスに旅立った。

2013.09.02

「今日は何の日」9月 京大事件と立命館

 1933(昭和8)年に京大事件(瀧川事件)が起こりました。
 京大事件は京大法学部瀧川幸辰教授の著作『刑法読本』が思想的に偏向しているとの理由で政府が一方的に瀧川教授を休職処分にし、これに対し京大法学部教授会や学生が学問の自由、大学の自治を守ろうとして反対、文部省の措置に抗議して多くの教授・助教授が辞職した事件です。
 京都帝国大学は西園寺公望が文部大臣のときに創設を決定し、中川小十郎が初代書記官(事務局長)を務めたことから、京都法政学校(立命館大学の前身)の創立、運営や講義に京都帝大教授が関わるなど立命館と極めて深い結びつきをもっていました。そのため、立命館は京大で免官になった教授・助教授を同年9月16日に公式に招聘することとなったのです。
 この招聘は実際にはその前から決められ、9月3日には既に歓迎晩餐会が行われています。
 専任教員として招聘されたのは、佐々木惣一、田村徳治、末川博、恒藤恭、佐伯千仭、黒田覚、大岩誠、田中直吉、加古祐二郎、於保不二雄、大森忠夫、中田淳一、森順次、石本雅男、浅井清信、森口繁治、大隅健一郎など17氏に及びました。立命館はこの招聘によってこれ以上ない発展の基礎を築いたといえるでしょう。
 佐々木惣一は翌1934(昭和9)年3月から1936(昭和11)年3月まで立命館大学の学長を務めました。また末川博は1945(昭和20)年11月に学長に就任し一時辞職しますが、1949(昭和24)年4月に公選制の総長に就任、1969(昭和44)年4月まで総長を務めます。なお、佐々木惣一は1907(明治40)年から、末川博は1918(大正7)年から立命館で講師を務めており立命館と強い結びつきがありました。



立命館は京大事件で辞職した京大教授らを招聘した。写真は招聘教授歓迎会(1933年9月)前列右から3人目滝川幸辰、4人目佐々木惣一、5人目中川小十郎、7人目末川博

最新の投稿

RSS