立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2013.04.01
「今日は何の日」4月 APUは最初の年から春と秋の、2回入学式があった
2000(平成12)年4月、大分県別府市に「立命館アジア太平洋大学」(APU) が開学しました。
第1回入学式は4月3日にキャンパス内のミレニアムホールで挙行しています。本格的な国際大学を目指したAPUは、28ヵ国・地域から719名を第1期生として迎えました。アジア太平洋学部とアジア太平洋マネジメント学部を合わせて、国内学生469名、国際学生250名の新入生がAPUでの学生生活のスタートを切りました。
式は開学宣言で始まり、初代APU坂本和一学長の挨拶などののち、両学部の国内学生・国際学生各1名の4名が新入生代表として決意を述べ、日・英2言語で進行されました。
キャンパスは様々な言語が行き交い、チマチョゴリ、サリー、アオザイなど華やかな民族衣装の国際学生であふれました。
5月20日には別府市ビーコンプラザおよびAPUキャンパスで立命館創始130年・学園創立100周年記念式典を、また別府公園で別府市民など3万5千人が参加してAPU開学祭が開かれました。
現在秋期入学が話題になっていますが、APUでは開学1年目から秋期入学が実施されています。2000(平成12)年10月2日、キャンパスのミレニアムホールで秋期の入学式が挙行されました。式には187名の国際学生と20名の国内学生、合わせて207名の新入生を迎え、春季入学と合わせて入学者の出身地は47の国・地域に及びました。
APUは、日本のどの大学にもない多様な文化が共生する国際的な大学としてスタートし、開学以降毎年春期と秋期の2回入学式を行い新入生を迎えています。
APU第一回秋期入学式(2000年10月)。 APUは開学年度から秋期入学も実施。以降毎年実施している。
2013.03.03
「今日は何の日」3月 附属校(宇治・慶祥・守山・小学校)の開校
宇治学園の前身は1946(昭和21)年に遡りますが、宇治高等学校は1965(昭和40)年に開校しています。合併後は英語教育やIT教育などに高い到達を築き、またスポーツ分野でも様々な実績を残しています。2002(平成14)年9月には新キャンパスに移転し、翌年4月に「立命館宇治中学校」を開校しました。
1995(平成7)年12月、立命館は北海道の慶祥学園と法人合併し、学園の札幌経済高等学校を「立命館大学慶祥高等学校」として第三の附属校が誕生しました。
そして1997(平成9)年4月、江別市に新しいキャンパスが完成し、札幌市から移転しました。2000(平成12)年4月には、「立命館慶祥中学校」を開校し、同時にそれまでの立命館大学慶祥高等学校を「立命館慶祥高等学校」と改称しました。慶祥は、学内進学のみならず難関国公立大学進学も目標にしています。
更に2006(平成18)年4月、滋賀県守山市に「立命館守山高等学校」を開校し、翌年4月に新キャンパスを開設、合わせて「立命館守山中学校」を開校しました。
立命館守山高等学校は、それまでの守山市立守山女子高等学校が守山市から移管されるという、全国的にほとんど例のない公立から私立への移管となりました。守山は開校当初からBKCとの結びつきを重視し、文理融合教育や科学技術教育を重視しています。
同じ2006(平成18)年4月立命館は、北大路キャンパスに校舎の装いも新たに「立命館小学校」を開校しました。
初年度は1年生から3年生までの368名の児童で第一歩を踏み出しました。校門の石碑には学祖西園寺公望の筆になる「培根達支」が刻まれ、児童の成長が願われています。小学校の開校により、大正時代前期には既に構想されていた小・中・高・大一貫教育の学園が実現しました。
2006年、北大路学舎に立命館小学校を開校。入学式に先立ち開校式が行われた(初年度は3学年)。
2013.03.02
「今日は何の日」3月 神山学舎の開設と上賀茂グラウンド
神山学舎は、前年4月に立命館第二中学校が設置され北大路学舎を仮校舎としていましたが、旧校舎を移設・改修してスタートしました。
学舎はもともと1928(昭和3)年にグラウンド用地として取得、1929(昭和4)年に完成し10月20日に完成記念全学大運動会を開催し、以降グラウンドとして使用していた場所でした。
立地は、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の北、神山を望む地にあり、市バス御園橋から25分、京福二軒茶屋から20分という場所で、約8,000坪の地は「仙境ともいうべき閑静の地」(元立命館高等学校長・野崎龍吉先生)であったということです。
第二中学校は戦後の学制改革とともに1947(昭和22)年に立命館神山中学校となり、翌48年に立命館神山高等学校も設置されました。
神山中学校、神山高等学校はその後1952(昭和27)年に廃止され、立命館中学校・高等学校に統合されます。
卒業生は、第二中学校が1945(昭和20)年から1948(昭和23)年までで422名、神山中学校が1949(昭和24)年から1951(昭和26)年までで345名、神山高等学校が同じ期間で324名でした。
神山学舎は1952(昭和27)年から京都市に貸与され、市立本山中学校(のち洛北中学校と改称)が使用しましたが、1957(昭和32)年6月に返還され、以降立命館のグラウンドとして使用しました。
課外活動としてはアメリカンフットボール、サッカー、陸上ホッケー、弓道部などが使用しましたが、柊野グラウンドの開設により順次移転し、1982(昭和57)年4月に京都産業大学に売却することになり(弓道部は9月まで使用しましたが)、50余年の歴史を閉じました。
1942年、上賀茂グラウンドの地に神山学舎を開設。最初は立命館第二中学校、のち神山中学校・高等学校となった。
