『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』は2021年3月に第3版を重ねた。3版は67件を掲載している。その後、各地の石碑と扁額を3件「発見」し、訪ねてきた。
<懐かしの立命館>【追録】『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その2 南君遺徳碑 (南源十郎遺徳碑)
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その3 石原尋常小学校
このほど更に4件を「発見」し、調査をすることとした。
1は神奈川県大磯町の「小野随鷗顕彰碑」、2は東京都瑞穂町の「明治丗七八年戦役紀念碑」、3は神奈川県川崎市の「青木正太郎翁之碑」、4は東京都千代田区の「帝国劇場扁額」である。
数日来の台風や戻り梅雨、また更に最近のこの暑さは屋外の調査には厳しいものがあった。
1. 小野随鷗顕彰碑(おのずいおうけんしょうひ)
《鴫立庵(しぎたつあん)》
「小野随鷗顕彰碑」は神奈川県大磯町の鴫立庵にある。もともと西園寺家から寄贈を受けた西園寺公望関係資料のなかに碑の「拓本[「小野懐之碑文の拓本」立命館 史資料センター/西園寺公望関係資料デジタルアーカイブ ADEAC(アデアック)]」があった。しばらく実物の石碑を探していたのだが、大磯町郷土資料館から実在しているとの情報をいただき、鴫立庵に確かめると現存していてどなたでも見ていただけるとのことであった。
7月8日の午後、JR大磯駅に降りた。駅から南におよそ5分、国道一号線(かつ旧東海道)の鴫立沢の交差点に至る。交差点の名称でもあるが、そこに鴫立沢があり、鴫立庵がある。
【大磯駅】 【鴫立庵】
【小野随鷗顕彰碑】
鴫立庵は江戸時代の初期、1664(寛文4)年に小田原の崇雪(そうせつ)が、西行の歌にちなむ昔の沢らしい面影を残しているこの地、鴫立沢に標石を建て石仏五智如来を運び西行寺を作ろうと草庵を結んだのが始まりという。鴫立庵の命名は、1695(元禄8)年、俳人の第一世庵主大淀三千風による。
西行は、平安末期にこのあたりで、「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」と詠んだ。
鴫立庵は300年以上続く俳諧道場で、湘南発祥の地を示す史跡と言われる。俳諧道場としては、京都の落柿舎、滋賀の無名庵(大津・義仲寺)と並び日本三大俳諧道場のひとつとか。
さて、鴫立庵には87基の石碑・石造物がある。そのなかの一基である「小野随鷗顕彰碑」を案内していただいた。やや小高い地の中腹に建てられている。篆額が貴族院議員正二位勲一等侯爵西園寺公望揮毫「小野先生碣」、撰文東宮侍講正四位勲二等文学博士三島毅、女子高等師範学校講師岡田起作書、井龜泉刻である。総高217㎝、碑高191㎝、碑幅121㎝、碑厚17㎝。大きさは大磯町教育委員会の『石造物調査報告書(2)』(1990年)による。ちなみに石は小田原の早川石が使われているという。
碑は大磯小学校の初代校長を務めた随鷗小野懐之(おの・やすゆき)の顕彰碑である。建立年は不明であるが、明治41年1月逝去なので、その頃建立されたと思われる。
大磯小学校は、大磯駅から鴫立庵に向かう途中にある。
西園寺公望は、明治32年から大正5年頃まで大磯町の別邸「隣荘」に住んでいたことから、何らかの関係があったのではないか。
《明治記念大磯邸園》
鴫立沢から旧東海道(国道一号線)の松並木を西に歩くと「明治記念大磯邸園」に至る。
そもそも大磯は歴代の総理大臣が8人も別邸をもっていた地である。伊藤博文、山縣有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂である。
2018(平成30)年、国は明治元年から数え「明治150年」の記念事業として、立憲政治の確立に貢献した政治家の旧邸や庭園の保存・活用のための整備事業を始めた。明治期の立憲政治の原点を学ぶための邸園整備事業である。
【明治記念大磯邸園】 【陸奥宗光別邸】
最初に訪れたのは、旧大隈重信別邸と陸奥宗光別邸およびその庭園である。両別邸はその後旧古河別邸として使用されている。現在両別邸とも修復中であるが、庭園は一般見学ができる。当日は他に見学者がいなかったためか、丁寧なご案内をいただいた。案内の方から、この事業は安倍内閣のときに国の事業として始められたことを紹介された。
別邸の修復は、見学者にも修復の様子がわかるよう透明の工事パネルで仕切られている。広大な庭園には、風呂好きで知られていたという大隈重信の五右衛門風呂、紀州出身であった陸奥宗光のミカンなど柑橘系の果樹園、また、古河邸のバラ園などがある。
その西側に旧滄浪閣(そうろうかく・伊藤博文邸)が修復中で、その隣の西園寺公望別邸跡(のちに旧池田成彬邸)であるが、未公開である。伊藤博文別邸滄浪閣と西園寺公望邸隣荘跡地の間の細い道が相模湾こゆるぎの浜につながる。
【伊藤博文別邸 滄浪閣】
(隣荘については、立命館史資料センターHP<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 前編 2015年12月10日 参照)
滄浪閣前まで大磯駅から1㎞、日本橋から69㎞である。
近くには伊藤博文ゆかりの統監道がある。統監道はバス停から山側に大磯駅まで続くが、1905(明治38)年に伊藤博文が韓国統監府の初代統監になったことから呼ばれるようになった。また旧吉田茂邸には、滄浪閣から移した七賢堂があり、岩倉具視、三条実美、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂が祀られている。島崎藤村が晩年を過ごした邸もある。
大磯は政治家や経済人が別邸を持ち、また文人が住んだ町であった。
2. 明治丗七八年戦役紀念碑
7月9日、JRで川崎から立川・拝島を経由し、八高線箱根ヶ崎駅に至る。箱根ヶ崎駅は東京都瑞穂町にあるが、目指す石碑は瑞穂町二本松の元狭山村の地にある。狭山村は1958(昭和33)年に町村合併で分れ、1/3が埼玉県入間郡武蔵町(現入間市)に、2/3が東京都西多摩郡瑞穂町に編入されている。所在地はもうすぐ都・県境に近い。
碑は箱根ヶ崎駅から2.5㎞ほど先の「元狭山ふるさと思い出館」の敷地にある。北側は瑞穂第三小学校で、小道を挟んだ南側は元狭山神社である。車を降りて碑の場所を尋ねたら、「そりゃあ、神社のとこだ」と教えてくれた。ふるさと思い出館は、地域の企画に使用されたり、また瑞穂町の図書館として利用されている。その敷地に、といっても碑の周囲は草むらで、近づくのにいささか勇気がいる。
【元狭山ふるさと思い出館】
【明治丗七八年戦没紀年碑】
一角には、大正三年乃至九年戦役紀念碑、明治丗七八年戦役紀念碑、忠魂碑二基、無名碑、愛村之碑と六基の碑が建立されている。狭山地域の石碑を集め建てられているようだ。いずれも戦争に従軍した兵士の凱旋者や戦没者の碑である。
「明治丗七八年戦役紀念碑」は1906(明治39)年11月に元狭山村により建立された、日露戦争に従軍した兵士の碑である。表は侯爵西園寺公望の揮毫、裏面には凱旋兵士40名の名が刻まれている。
瑞穂町教育委員会の『瑞穂町小事典』(2003年)によれば、碑の所在地は瑞穂第三小学校校庭となっている。ふるさと思い出館の職員の方に聞くと、碑は小学校の校庭から移したとのこと。またもともと見た写真の森のような背景と違うのでその点も尋ねると、背景の場所は去年民家と工場が建ったということであった。徐々に周辺の環境も変化している。
帰りは数少ないバスに乗ることができ、瑞穂町の各地を回り箱根ヶ崎駅に到着した。その時は気が付かなかったのだが、拝島から箱根ヶ崎まで、線路の東側は南北4.5㎞、東西2.9㎞、7,136㎞²に及ぶ広大な横田基地である。
そういえば、箱根ヶ崎駅では、参議院選挙の期日前投票所が設けられていた。選挙に足を運ぶのも大変な状況なのであろう。
3. 青木正太郎翁之碑(あおきしょうたろうおうのひ)
8日朝と9日の夕方、川崎大師を訪ねた。
京急川崎駅から3駅、川崎大師駅で降りる。左手の大師表参道厄除門から商店街が続く。しばらくすると参道は右手に曲がり、またすぐ右に曲がり大師仲見世通りに入る。ここからも商店街が並びみやげもの屋、食べ物屋が参拝客で賑わっている。両参道合わせておよそ700m。
【川崎大師駅】
正面に大山門が聳える。その奥が大本堂、左手に八角五重塔、更に大本坊、中書院、信徒会館など、境内は広く、壮大な建物が並ぶ。川崎大師は、真言宗智山派の大本山の寺院で、正式名称は金剛山金乗院平間寺(こんごうさん・きんじょういん・へいけんじ)という。
開創は1128(大治3)年。900年近く前になる。平間兼乗という者が海中より弘法大師の像を引き上げ、それを兼乗のもとに立ち寄った高野山の尊賢上人が開基供養したのに始まるという。江戸時代中期には徳川将軍家が厄除参詣を行ったという(川崎市教育委員会「平間寺の文化財」)
【川崎大師大山門】 【川崎大師八角五重塔】
【青木正太郎翁之碑】
境内と参道で厄除・疫病退散の風鈴市が開催され、その音が涼やかであった。露店も立ち並んでいる。
境内は6つのエリアからなり46基の石碑・石造物が並ぶ。「青木正太郎翁之碑」は大本坊前にあり、高さ383㎝、幅154㎝が台座に乗っている。
碑の篆額「青木正太郎翁壽碑」を正二位大勲位公爵西園寺公望が揮毫。碑文は滑川達撰并書。1931(昭和6)年6月に建立された。青木正太郎は1854(安政元)年生まれ~1932(昭和7)年逝去なので、碑は没年の前年に建立されている。衆議院議員、東京米穀商品取引所理事長などを務め、1910(明治43)年に京浜電気鉄道(現在の京急)の社長となった。青木正太郎は多くの鉄道・電気事業に力を注いだ。京浜電気鉄道の前身「大師電気鉄道」の創立は明治31年で、初営業は、翌年の32年1月21日の初大師の日であったという。大師電気鉄道は、六郷橋から川崎大師へと2㎞を走った。京都電気鉄道、名古屋電気鉄道に次いで、日本で3番目の営業電車であった。なお、1906(明治39)年、西園寺内閣は鉄道国有法を制定した。
ほかに川崎の旧跡を訪ねようと、泊まった宿の近くの旧東海道を歩いたが、「東海道かわさき宿交流館」は時間外で閉まっており、宗三寺、一行寺など2、3の寺院のほかは、訪ねることができなかった。
4. 帝国劇場扁額
7月10日、東京都千代田区丸の内3丁目の帝国劇場を訪ねる。
東京メトロの有楽町駅から歩いて数分である。皇居の馬場先門に近い。
現在の帝国劇場は、1966(昭和41)年に新築開場している。劇場の入口に銘板がある。「小林一三翁の遺志を体し、此処に世界の演劇の発展のための一つの礎石として帝国劇場を新築し開場いたします」昭和41年9月20日、菊田一夫誌す、とある。帝国劇場は東宝株式会社の劇場である。
【帝国劇場】
【帝国劇場扁額】
その銘板の右側に西園寺公望の文になる扁額がある。
「本日帝国座ノ開劇ヲ報ゼンガタメ縉紳淑女ヲ招待セラルゝニ際シ余モマタ参同ヲ促サレタリト……余ハ此三者相合シテ帝国座ヲシテ清新崇高ナル趣味ヲ涵養スル源泉タラシメンコトヲ切望シ遥カニ数言ヲ寄セテ今日ノ盛会ヲ祝ス」明治44年3月4日 沼津ニ於テ
西園寺公望
この時西園寺公望は病気のため沼津で静養しており、開劇の式に列することができなかった。
この西園寺の祝辞は、渋沢栄一の明治44年3月15日の日記(『渋沢栄一伝記資料』第47巻)に全文が記されている。そして、右(西園寺の扁額の祝辞)ハ、帝国劇場玄関正面ノ壁面ニ在リ、55.4㎝×37.5㎝、となっている。
この扁額は、1966年に新築された帝国劇場にも掲げられている。
また、帝国劇場については、国立国会図書館の「写真の中の明治・大正」に掲載され、帝国劇場創立にあたっては、伊藤博文、渋沢栄一、川上音二郎、西園寺公望、林董らによって設立されたことが紹介されている。
そして帝劇は関東大震災の悲運、不況による経営の苦難、太平洋戦争中の閉館などを経て、1966年に建物を新装し今日に至っている。
「現在の帝劇の入り口には、帝劇設立に貢献した西園寺公望の言葉を刻んだ額が掲げられており、往時の帝劇をしのぶことができる」と結んでいる。
以上
なお、上記の各扁額・石碑については、別途『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その4に掲載する。
2022年9月13日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次