かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
第4回は、戦後間もない広小路キャンパスに就職し、学園の苦難と飛躍を見つめ続けた岩井忠熊名誉教授の一編です。
ビルの谷間で息が詰まると京都御所の芝生へ逃げ込んだ日々。マイクもなく、白木の粗末な机が並ぶ大教室、女子トイレすら整備されていなかった万事不備の環境の中で、教員も学生もあふれんばかりの議論と熱気に包まれていました。
東シナ海の底に沈みかけた自身の戦争体験と重なる「わだつみの像」への思い。緑あふれる現代の衣笠キャンパスで生きる私たちへ、学園発展の原動力となった「あの頃の気概」を語りかける貴重な手記です。
広小路キャンパスを想う ―緑と気概と志と― 岩井忠熊
『UNITAS』第243号(1992年7月)
かつてある新聞が広小路キャンパスを評して「葉緑素欠乏症」と書いた。故北川理事長がそれを読んで「うまいことを書くもんだ」とつぶやかれたのを今のように憶えている。コンクリートの建物とアスファルトの校地のなかにほんの数本の樹木があった。ビルの谷間で精神を抑圧されたような気分に陥ると、隣りの御所の芝生に息抜きに入った。そこで円座になっての語らいも楽しい思い出である。
御所と立命館といえばやはり「禁衛隊」の歴史を抹殺できない。「禁」は「禁苑」つまり御所を意味する。 1928年御大典にさいしてできた時は、任意の学内団体だったらしい。それが全学生自動加入となったのは、戦争末期、文部省の方針で全国の大学高専に報国隊という強制加入の組織ができた時だった。国家主義的狂熱のはてに「学徒出陣」となり、多くの学生が帰らぬ人となった。その渦中にあった一人として、私の胸も今だにうづく。
1949年戦没学生記念会が結成され、文集『きけわだつみのこえ』が編まれ、やがて本郷新氏によって「わだつみの像」が作られた。その像の建立が東大当局に拒否され、末川総長の決断によって広小路キャンパスに迎え入れられたのは1953年である。以来「わだつみの悲劇をくり返すな」が全国の心ある学生の合言葉となり、「像」はただ立命だけでなく全国学生にとって象徴的な意味をもつ存在となった。危うく東シナ海の「わだつみ」の底に沈みかけた経験をもつ筆者などには、「像」が我が身に問いかけてくるような思いを禁じえない。広小路キャンパスが研究と教育の場であったことはいうまでもない。戦後間もなく私が就職した頃、大教室にマイクはなく、机も椅子も白木の素人づくり然とした粗末な品だった。図書館も十脚ぐらいの机と椅子があるばかりで、開架式でなかったから、図書検索のために、教員は自分で カギをあけて書庫に入った。それでもそこで埃をかぶった天下の珍籍を発見し、躍り上がった記憶がある。
学部、図書館の図書費はあったが、研究費は一文ももらえなかった。個室も全教員にあったわけではない。授業終了時の校庭、校門は、ラッシュアワーのターミナルのように混雑していた。もちろん各学部の学生談話室などというものは思いの外だった。初期女子学生の一人だった妻の言では、便所さえ男女別になっていなかったという。
万事不備のキャンパスだったが、あの頃の広小路には言うに言われぬ熱気がムンムンとしていた。よかれあしかれ、教職員も学生も議論に熱中した。何事も試行錯誤の時代である。いま思えば穴の中に入りたくなるような思い出を自分のこととしてももっている。然し、あの気概と志が全学園をおおっていたのが、まぎれもなく広小路の一番鮮明な記憶なのだ。そしてそこにこそ後年の立命館学園発展の原動力があったと思われてならないのである。
いま立命館大学学舎は、衣笠山を借景に、緑したたるキャンパスに変貌した。とくに正門から中川会館・図書館にいたる道がいい。南門から等持院にそって西へむかう銀杏並木もすてがたい。桜・つつじ・楠・あせび・もくせい等、季節の花と香りが絶えない。秋の紅葉も美事である。快適な図書館は休日も開いている。私は学園生活を楽しみに登校している。広小路時代の気概と志だけは失わないようにしよう。
「立命館発祥之地」碑文の原案は、そんな私の気持をぶちまけて書いたつもりである。
(名誉教授)
岩井忠熊名誉教授が原案を書いた「立命館学園発祥之地」記念碑に刻まれた文
「立命館学園発祥之地」記念碑
2026年10月23日 立命館 史資料センター
