私たちが日記をつけるのは、記憶だけではやがて薄れてしまう日々の出来事を記録に残すためかもしれない。しかし、何らかの効果を期待して書いている人はあまりいないだろう。ところが山岸典子の研究は、モチベーションを高める日記のつけ方があることを明らかにした。その背景と研究成果を聞いた。
感謝を科学する
感謝の心が大切だということは、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。小学校の道徳の授業だけでなく、ビジネスの現場でも感謝の大切さはしばしば語られる。京セラ株式会社の創業者であり、起業家の育成にも力を注いだ実業家・稲盛和夫氏も、周囲への感謝の心を持つことが経営や人生の根本にあると説いたことで知られている。感謝の心を持った方が人生はうまくいきそうだ、という感覚にわざわざ反対する人は少ないだろう。しかし、それは直感的な理解にとどまっている。これを科学的に確かめることはできるのだろうか。
山岸は、立命館大学稲盛経営哲学研究センター(2025年3月に設置終了)の研究員をしていた2015年、稲盛氏の経営哲学の重要な要素である「感謝」という感情のもつ機能を、科学的に検証できないかと相談を受けた。依頼したのは、長年にわたり稲盛氏の秘書を務めていた人物だった。そこで、共同研究者である(国)情報通信研究機構のNorberto Eiji Nawa主任研究員とともに、脳科学と心理学を組み合わせてこの問題に取り組むことにした。
まず山岸は、感謝に関する先行研究を調べることから始めた。
「ポジティブ心理学」という分野が登場し、研究が盛んになったのは1990年代後半からである。アメリカの心理学者マーティン・セリグマンによって提唱された新しい研究領域だ。それまでの心理学研究は、主に心の病を治すことに焦点が当てられてきた。しかしセリグマンは、「どうしたら全ての人々の生活をより生産的で充実したものにできるのか」という問いについては、十分に研究されてこなかったことに気づいたという。そこで、人の強みや得意なことに注目し、それを活かして人々の幸福感を高める研究を進めようと考えた。こうして生まれたのがポジティブ心理学であり、感謝に関する研究もこの流れの中で進められるようになった。
「それまで『感謝』は宗教やスピリチュアルの文脈で語られることが多かったのですが、2000年ごろから、ポジティブ心理学の誕生の流れを受け、心理学の研究対象として扱われるようになりました。アメリカのロバート・エモンズという研究者が、感謝日記の研究でよく知られています。感謝した出来事を書き留めるグループと、その日にイライラしたことや、その日にあったことを書き留めるグループに分けて比較すると、感謝を書いたグループの方がウェルビーイングが高まるという結果が報告されています。さらに運動する時間が増えるなど、さまざまな行動面の変化も見られたことを報告しています」
こうした結果をふまえ、山岸は日本でも同様の研究が行われているだろうと予想し、論文の検索を行ったが、日本での研究はなかなか見つからなかった。他大学の研究者が追試を試みたものの、同じような結果が得られなかったという報告を、論文ではなくシンポジウムの記事でようやく見つけたくらいだった。
「私たちが見つけた他大学の研究者の報告は、エモンズ氏の実験を日本人を対象に追試した研究でした。その研究では感謝による幸福度の向上は確認されませんでした。しかし、日本人は感謝をしても何も起こらないというのは不思議な感じがしました。一体どういうことなのだろうか。そう考えて、『それなら自分たちでも様々な方向から調べてみよう』ということになり、実験を行うことにしました」
感謝日記が向上させたのはモチベーションだった
Nawa氏と山岸は84名の大学生に協力してもらい、感謝日記の効果を調べる実験を行った。参加者はランダムに「感謝日記を書くグループ」と「コントロールグループ(感謝日記を書かないグループ)」に分けられ、どちらのグループも1日1回、2週間、スマートフォンやパソコンからクラウドシステムにアクセスして課題に取り組んだ。どちらのグループも毎日の心理状態の評価を行い、加えて「感謝日記グループ」では、その日に感謝した出来事を最大五つまで書き出した。
この実験の結果、感謝日記グループは、コントロールグループに比べて、学習モチベーションが有意に向上することが分かった。さらに、日記を書くのをやめた後も、その効果は1ヶ月半後、3ヶ月後でも維持されていたことが確認された。
研究では、その理由についても分析が行われている。
「モチベーションは、内発的モチベーション、外発的モチベーション、そして無気力の3要素からなる連続体として捉えるのが現代の代表的なモデルです。その中で、特に何に感謝が影響したのかを調べたところ、感謝日記をつけていたグループでは、無気力が低下していることが分かりました」
つまり、2週間にわたって日々の感謝を記録する時間を持つことで無気力が減少し、その結果として学習モチベーションが高まることが、実験によって示されたのである。
それでは、学生ではなく働く社会人はどうだろうか。
山岸らは日本の企業に勤める社会人100名を対象に、同様の実験を行った。参加者をランダムに二つのグループに分け、50名は「感謝日記(その日に感謝したこと)」を書き、残りの50名は「日常日記(その日に起こった出来事)」を書いた。どちらのグループも1日1回、12日間にわたって日記を記録した。
その結果、感謝日記グループは「ワーク・エンゲイジメント」(働きがい)が日常日記グループと比較して有意に向上していた。ワーク・エンゲイジメントとは、仕事に対する前向きで充実した心理状態を指し、仕事を通じて感じる活力、熱意、没頭といった状態を含む。
なぜ、感謝日記を書くとこのような結果が得られるのだろうか。山岸は次のように説明する。
「ワーク・エンゲイジメントは、仕事の資源や個人の資源によって高まると考える「仕事の要求度-資源モデル(Job Demands-Resources model)」があります。感謝日記に記録された内容を分析すると、上司や同僚、家族からのサポートに対する感謝の言葉が多く見られました。一方、このような内容は日常日記には全くありませんでした。つまり感謝日記を書くことで、自分が持っている『仕事の資源』に気づき、その結果ワーク・エンゲイジメントが向上したのではないかと考えています」
日本の働く人々の働きがい(エンゲイジメント)は、国際的に見て低い水準にあることが報告されており、その改善は重要な社会的課題となっている。こうした背景の中で、山岸らの研究は、日常生活の中で手軽に取り入れられる解決策として「感謝日記」が有効である可能性を示した点で注目されている。
感謝は自分の資源に気づくセンサーになる
ここで山岸は一つのデモ動画を見せてくれた。
「赤色の文字Lが何回、真ん中の線を越えるか数えてください」という課題を与えられ、みな画面に集中する。しかし本当の目的は、赤いLの動きを追うことではなかった。そこに注意を向けていると、同時に起こっている他の変化に気づかないことを示すものであった。そのことを教えられて改めて動画を見直すまで、誰も他の変化にまったく気がつかなかった。
私たちは、周囲の出来事をすべて同じように認識しているわけではない。目に入っていても、このデモのように、注意を向けなければ意識には上らないことが多い。特定の何かに注意を向けて周囲を見ることと、「感謝日記を書くこと」は似ているのではないかと山岸は説明する。
「感謝というのは、単なる感情ではなくて、周囲にある資源(例えば、自分には上司からのフィードバックや同僚の助けがある)に気づくためのセンサーのような働きをしているのではないかと考えています。つまり、感謝の気持ちを持つことは、自分の持つ資源に注意を向けることができる一種の認知的な機能だと思っています」
さらに山岸は、感謝日記の効果がしばらく持続する理由についても、この「気づきのプロセス」が関係しているのではないかと考えている。
「2週間ほど続けていくと、自分の周囲にあるものにだんだん気づいていくプロセスが起こります。そして自分の持つ資源に気づくと、自分の生かされている世界の構造や仕組みの理解が深まり、一度その理解ができれば、忘れることはなく、モチベーションが高く維持されるのではないかと考えています。こうしたプロセスについても、今後エビデンスに基づいて発信していきたいと思っています」
感謝日記を書くという行為は、日々の生活の中に埋もれている資源に気づく力を高める可能性がある。新しく何かを作り出したり増やしたりするのではなく、すでに周囲にある支援や成長できる環境に目を向けるきっかけになるのかもしれない。
感謝日記の方法は特別なものではない。スマートフォンにメモしてもよいし、枕元にメモ帳を置いて手書きで記録することもできる。日常の中で感謝した出来事を思い出し、書き留めるというシンプルな習慣から始めることができる。
「2週間取り組めば、3か月ほどモチベーションが維持されます。学生さんなら学期の始めに感謝の2週間チャレンジをすると学期中ずっと効果がありますから、春学期や秋学期の始まりに取り組むのもいいかもしれませんね」
感謝というありふれた感情の中にも、私たちの認識や行動を静かに変える働きが潜んでいる。日常の中に埋もれている小さな気づきを科学の言葉で解き明かしていく山岸の研究は、人間の心の大きな可能性を感じさせてくれる。