立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2019.12.18
<懐かしの立命館>立命館大学の門 後編
Ⅱ.衣笠キャンパス編
現在の衣笠キャンパスには、主な校門として、正門・東門・南門・清心門などがあります。名称の無い通用門や出入口、開かずの門扉などを含めると実に30ほどの「門」があります。
今回は、主な門についてその歴史を訪ねてみます。
1. 戦前の工学科校門「赤門」
衣笠キャンパスは1939(昭和14)年11月に開設しました。前年に開設された立命館日満高等工科学校が北大路学舎から移転したことによります。当時は等持院学舎と称しました。
キャンパス開設翌月の校舎増築設計変更図面に「門」があり、さらに1942年8月の『立命館大学専門学部工学科報告』の平面図に「正門」があります。この正門は、現在の清心門のやや西側、等持院と功運院の間の道路を北に向かった突き当りにありました。
その「正門」は、工学科報告から間もない同年9月、上京区千本通二条下ル東にあった元等覚寺の門を移設し、工学科の正門としました。木造瓦葺の四脚門でした。紅殻(べんがら)塗りの門で、通称「赤門」とよばれ、戦後1953年に改修されるまで親しまれました。
「当時、世間では立命館大学専門部工学科のことを、『等持院の赤門』と呼んでいた」(林義男「立命の赤門」『立命館学園広報』1970年10月31日)。
【専門学校工学科校舎配置図】
※画像をクリックすると別ウィンドウが開き大きな画面で見ていただけます。
【赤門】
2. 理工学部正門
1953年9月、衣笠キャンパス(等持院学舎)は理工学部のみでしたが、「赤門」を改修して、コンクリートの門柱となり、銅版製の門標「立命館大学理工学部」が掲げられました。門柱の上部には円球の電灯がつけられました。同時に広小路学舎の正門も改装され、どちらも書家・綾村坦園氏の揮毫になる門標が架けられました。
【理工学部正門】
3. 立命館大学正門
1981年4月、広小路学舎から法学部が移転し、衣笠一拠点が完成しました。立命館大学は、ここ衣笠キャンパスに法学部・経済学部・経営学部・産業社会学部・文学部・理工学部・二部全学部が集うことになったわけです。
このとき衣笠キャンパスの「正門」が完成しました。観光道路(現在愛称きぬかけの路、京都市道183号衣笠宇多野線)に面し、西側に第一体育館(現在は平井嘉一郎記念図書館)、東側に市バスの操車場があります。右側の門には、書家・秋山公道氏の揮毫で「立命館大学」と刻まれています。
「実は衣笠には「正門」がない。……いよいよ一拠点も完了し、全体としてのキャンパス整備と合わせて来年4月には「正門」を設置することとなった」(「立命館大学学園通信」第21号 1980年11月11日)。同紙は続けて「学生の強い要求もあり正門を設置することとなった。」そして「瀟洒で品よく、わが学園の気風にふさわしい正門に、全学生に親しまれ、市民にひろく開かれた庶民の大学の「門」としたい」としています。
翌年の「学園通信」23号(1981年4月14日)は、「一拠点計画関連の大工事完成に合わせて、……正門と正門受付が観光道路からの入り口に完成し、キャンパス出入口のすべてに門が出来上がりました」と報じています。
衣笠一拠点により、キャンパスの環境整備が進み、立命館大学の正門が完成したのです。
そして学生・教職員・市民の利用のみならず、構内から正門を市バスが出入りするという珍しい光景が生まれました。
【正門】
4. 東門
正門の完成からは遡りますが、衣笠一拠点の先駆けとして、1965年4月、経済学部と経営学部が衣笠キャンパスに移転しました。
「東門」は、1965年4月の以学館竣工パンフレットに出てきます。この頃の門の形状は不明ですが、現在の東門は1987年11月に改修・整備されました(「立命館学園広報」第191号 1987年11月)。右側の門塀には、綾村坦園氏揮毫の門標「立命館大学」が掲げられていますが、この門標は1981年3月まで広小路学舎正門に架けられていたのを移設したものです。
西大路通の平野神社前から西に進み馬代通を経て大学に向かうと東門に至ります。正門と共に多くの利用があり、衣笠キャンパスの東玄関となっています。
【東門】
5. 南門
等持院の東側を北に上がってきた、以学館と修学館の間の校門が「南門」です。現在の南門も衣笠一拠点事業で整備され、1981年1月に完成しています。
この門にも「立命館大学」と刻まれています。
しかし、1978年度の『学生生活』には南門の名称が出てきます。それ以前から南門はありました。
市バス52系統の終点・起点が等持院山門前だったので、このバスを利用して登下校した学生も多かったと思います。
【南門】
6. 清心門(および西門)
現在の清心門は、清心館東側と修学館西側の間の校門です。清心門の名称は1992年度の『クロスローズ』に出てきますが、清心館と修学館(三期工事)が完成するのは1977年9月です。門の名称は少し複雑な経緯をたどります。
清心門の東部分には石柱が建っており、表面に「万年山等持院墓地参道 天龍寺派管長関牧翁書之」、裏面に「修学館 清心館竣工記念 昭和五十二年九月九日 立命館大学」とあります。この門は等持院墓地への参道入口ともなっています。等持院と立命館は1980年11月に「等持院墓参道路に関する覚書」を結び、等持院墓地への参道として利用されているとともに、新たに門扉を設置し開閉の運用についても定めています。
西側には「立命館大学」と刻まれています。
清心門の名称となる前は、この門は「西門」と言いました。もともと赤門が、1953(昭和28)年のキャンパス整備による改修で理工学部の正門となり、清心館ができると場所がやや東寄りになり(今の清心門の場所)「西門」となります。
1990年には明学館が完成し、5月にその西側に門と受付を設置、この門を「西門」としました(「UNITAS」第221号 1990年7月)。こうした経過からすると「清心門」の名称は、明学館西側に設けた門を「西門」としたことによりこれまでの「西門」を新たに「清心門」としたのではないでしょうか。
2003年11月に「衣笠学舎旧理工学部正門(赤門)について」その経緯を調査した西岡成幸氏(当時百年史編纂室)は、「セイシン門という呼称はいろいろな資料を通じて現在のところは皆無である」としています。
なお、明学館西側の「西門」は2010年12月末をもって閉鎖、撤去されています。
【清心門】
7.その他の門
(1) 北門 現在はありませんが、1970年代の『学生生活』に登場します。
場所はアートリサーチセンターの南側の通用門の西、グラウンド(現在中央広場)
の東べりあたりにありました。一体どんな門だったのでしょうか。
(2) 敬学門 アートリサーチセンターの南側にある通用門の名称でした。
東に馬代通へと向かいますが、現在のアートリサーチセンターの場所に「敬学館」 があったことから呼ばれた名称です。
現在の敬学館は西グラウンド跡にある教室棟となっていることから、「敬学門」
という名は使用されなくなりました。
(3) 名称の無い通用門
恒心館西北の通用門、洋洋館北側の門(通常閉鎖されています。)、京都衣笠体育館
西北の通用門、この3つの門には綾村坦園氏揮毫の門標「立命館大学」が架けられて
います。
東門の門標が縦書きであるのに対し、これらは横書きの門標となっています。
付:西園寺記念館正門
衣笠キャンパスから離れた鹿苑寺(金閣寺)の西側に西園寺記念館があります。
西園寺記念館は1988年3月に完成し、国際関係学部の学舎として使用されましたが、
学部は現在は衣笠キャンパスに移転しています。その西園寺記念館の正門は下の写真です。
【衣笠キャンパス配置図 2019年】
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Ⅲ.びわこ・くさつキャンパス編
びわこ・くさつキャンパスは1993(平成5)年12月に竣工しました。そして翌年4月理工学部の拡充移転により開学しました。
現在は、経済学部・スポーツ健康科学部・食マネジメント学部・理工学部・情報理工学部・生命科学部・薬学部および各大学院が設置されています。
【びわこ・くさつキャンパス配置図 2019年】
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びわこ・くさつキャンパスには正門、そしてその東に東門があり、学生、教職員、研究者また市民や業者などが入構します。
そのほかかがやき通りに近い北門は工事用で通常は閉鎖、青山地区に面した南門は緊急時用で通常は閉鎖されています。
【正門】
【東門】
Ⅳ.大阪いばらきキャンパス編
大阪いばらきキャンパスは2015(平成27)年4月に開設しました。現在、経営学部・政策科学部・総合心理学部・グローバル教養学部および大学院が設置されています。
キャンパスの各出入口に門柱等はありませんが、それぞれの地域に面した名称が付けられています。
これらの出入り口は、岩倉門(北エントランス)・中条門(東エントランス)・穂積門(西エントランス)・春日門(南西エントランス)・奈良門(南エントランス)と呼ばれています。
【大阪いばらきキャンパス配置図 2019年】
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Ⅴ.朱雀キャンパス編
2006(平成18)年9月に開設した朱雀キャンパスの校舎は中川会館だけですが、学園本部および法務研究科(法科大学院)、教職研究科(教職大学院)、公務研究科が設置されています。
千本通に正門が設置されていて、学生・教職員・来客等の多くが利用し、学園の表玄関となっています。門柱の「立命館」の文字は学祖西園寺公望が揮毫した「立命館」から製作されています。
南門は車の来校者用で入構のための門。北門は車の出場および二条駅方面からの利用者の門です。
【正門】
おわりに
小稿では、各年度の『学生生活』『学生要覧』『クロスローズ』その他施設配置図などにより、立命館大学の各キャンパスの門について調べてきました。
校門は単なる建造物(構築物)ではなく、学生・生徒や教職員、卒業生、市民の方々の「学び舎の門」として、その姿は変遷を経ながらも存在し続けています。
そういえば、時に校門を背景にして記念撮影をする姿も見られます。
校門の名称については、資料からは学園で公式に命名されたことを窺えませんでしたが、広小路学舎でかつてあった入徳門のような、学校に相応しい名があるとよいですね。
校門もまた学び舎の歴史の一齣といえるでしょう。
2019年12月18日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2019.12.11
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 前編
※空撮図はすべてgooglemapを加工しています。
<はじめに>
2019年現在の衣笠キャンパスはこんな感じです。
衣笠キャンパスは、歴史的景観、社寺仏閣など観光名所に囲まれています。
それは歴史が積み重なった場所でもあるということです。
本稿は、衣笠キャンパス周辺地域の歴史を立命館の歴史と関連させながら、記述していきます。なお、附帯の地図に示した各区割りは学術論文等を参照していますが、概念図であることをお断りしておきます。
また、立命館衣笠キャンパスが立地する京都北西地域(鷹峯回廊、衣笠・北野回廊、御室・花園回廊、嵯峨野回廊)は地域住民・寺社・芸術家・商店主・大学等で構成する「京都歴史回廊協議会」が文化振興・地域活性化を目的として活動していますので、あわせてご参照ください。(立命館も役員として参加しています)
「京都歴史回廊協議会」HP https://kyotokairou.org/
「京都歴史回廊協議会」のうち、きぬかけの路については「きぬかけの路推進協議会」があり、鹿苑寺(金閣寺)や龍安寺周辺の文化・観光情報を提供しています。
「きぬかけの路推進協議会」HP https://kinukake.com/
<平安時代 -衣笠山と周辺―>
平安時代、衣笠キャンパスの周辺は、都の西北部として利活用されていました。それは後世「京都七野」「洛北七野」などと呼ばれ、北区内では南から北野・平野・柏野・蓮台野・紫野がこれに該当します。「〇〇野」は狩猟場や葬送地のことで、キャンパス近辺に残る「平野」「北野」という地名は平安時代の狩猟場でした。
またこの地域を含めて北区は、野菜や花を栽培して中心部に供給したり、宮廷が使用した紙(綸旨紙とか宿紙と呼ぶ)を漉いた「紙屋院」があり現在の紙屋川(北野天満宮あたりに至ると天神川と変わる)の由来となっています。現在の西園寺記念館周辺では、冬場の氷を貯蔵して夏に禁裏へ献上する「氷室」があり、衣笠氷室町の地名が残っています。(京都には6か所の氷室があり、西園寺記念館側の氷室は「石前氷室」いわさきひむろと呼ばれた)
さらに適度な粘土質の土が産出されたことから、西賀茂地域を中心に平安京造営に使用した屋根瓦などの製造もされています。2015年頃、平井嘉一郎記念図書館建築時に出土した粘土質の土を元に、考古学の木立雅朗教授が焼成実験をした結果、実用に値する器もできていますので、衣笠の土でも焼き物はできるということです。
衣笠キャンパスの北に位置し、借景としても美しい「衣笠山」は、もともとは葬送の地でもあり当時の浄土信仰から神聖な場所でした。887(仁和3)年~897(寛平9)年の第59代宇多天皇の時代、夏場に雪をかぶった山がみたいとの所望に応え、大きな白絹で山を覆い雪に見立てたことから「衣掛け山」「衣笠山」となったと伝わります。
現在も雪に覆われた衣笠山は大変美しい姿を見せてくれます。
<鎌倉時代 -西園寺家の誕生 「北山第」(きたやまてい)―>
※画像をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見ていただけます。平安時代に権力を有していた藤原氏の北家にあたる藤原公経(きんつね)は、源頼朝の姪を妻として鎌倉幕府との繋がりを強め、当時の朝廷で頭角を現します。その後、後鳥羽上皇と鎌倉幕府が争った「承久の乱」(1221年)では幕府側(執権・北条泰時)につき、幕府が勝利を収めると、幕府の「関東申次」として朝廷を掌握し、1222年には太政大臣になります。
こうして権力と富とを握った公経は、1220(承久2)年に入手していた今の鹿苑寺の辺りに、1224(元仁元)年、祖霊を供養する仏堂と寝殿等を造営し別荘とします。これが「北山第」(注1)で、建立した仏堂(阿弥陀堂)を中心とした寺を「西園寺」(注2)としました。
また、これを機に藤原姓を西園寺姓に変え、西園寺家を創始します。
「北山第」造営は、大規模な土木工事を伴い大文字山の斜面を切土し谷筋を埋め、南側に盛土して平坦地を造成、滝や池を持つ庭園を作り出しました。現在も鹿苑寺の南側や西側に見られる段差や鹿苑寺北側の崖はこの時の盛土や切土の跡です。寺内は平坦地が2段になっており、その上段の平坦地にある安民沢(あんみんたく)は浄土式庭園の様式を持ち、池周辺の土地形状や発掘された瓦などから「北山第」造営時のものと言われます。
1225(元仁2)年北山第を訪問した藤原定家は『明月記』の中で造営された庭や滝を見て感嘆の声を上げています。また『増鏡』にも「北山第」の滝が描かれており(注3)、2006年の発掘調査では鹿苑寺内の不動堂の石室内部と滝跡が鎌倉時代の遺構であることがわかり『明月記』で描かれた滝がここであると同定されています。
「北山第」には様々な堂が建立されていましたが、そのうちの一つ「妙音堂」は、西園寺家が「琵琶」の宗家であったことに由来して祀られ、西園寺家の鎮守社となります。1769(明和6)年御所内の西園寺邸内に移転し、明治維新を迎えます。御所内の西園寺邸は立命館の始まりである私塾「立命館」を開いた場所でもあります。西園寺家が東京に移転すると「妙音堂」は「白雲神社」として御所内に残り、今でもその場所に現存しています。(注4)
1333(元弘3/正慶2)年 後醍醐天皇、足利高氏、新田義貞らによって鎌倉幕府が滅ぼされると鎌倉幕府側であった西園寺家は不遇を託つことになります。後醍醐天皇の「建武の新政」は世間に不評で、幕府滅亡後鎌倉を追われていた北条時興は西園寺公宗と謀り「北山第」に天皇を招いて暗殺を画策、返り咲きを狙います。この謀略は公宗の異母弟公重の内通で暴露して失敗。公宗はとらえられ流罪の途中で処刑され、西園寺家の資産も没収されて衰退していきます。南北朝から室町幕府の時代には「北山第」も荒廃していきました。(注5)
<室町時代 -足利義満の「北山第」 鹿苑寺と新都心計画―>
室町幕府成立後、最も繁栄した時代を作った3代将軍足利義満は、1397(応永4)年荒廃していた西園寺家の別荘「北山第」を西園寺実永から譲り受けます。
義満は西園寺家の「北山第」の土地構造をほぼそのまま生かし、10年近くをかけて新しく別荘を造営します。舎利殿(金閣)やこれに連続する天鏡閣などを中心とした建物群を建て、西園寺の時代と同じく「北山第」(北山殿)と名付けました。
西園寺時代の「北山第」は本当の別荘でしたが、義満は1394(応永元)年に将軍職を子の義持に譲ったあとも御所がもっていた政治中枢機能を「北山第」に移植して政治の実権を握っていました。
義満の「北山第」は、西園寺時代より敷地が大きく、東は紙屋川、西は衣笠山、南は衣笠総門町付近まであったといわれます。
また2016年7月には発掘された破片(2015年4~7月の京都市埋蔵文化財研究所の調査)が、直径2メートルを超える九輪(塔の屋根の上を飾るもの)の相輪の一部であると発表され、この地にあったといわれる「北山大塔」が高さ110mを超えていたのではないかとして現在研究が進められています。(注6)
1408(応永15)年3月、時の後小松天皇を迎え(北山殿行幸)盛大な宴をはりその権勢の絶頂を誇示しますが、わずか2か月後の1408(応永15)年5月義満は没します。
その11年後の1419(応永26)年11月に夫人であった日野康子も没すると「北山第」の様々な建築物が他寺に移され、舎利殿他わずかをもって義満の菩提所として再整備され、4代将軍義持の時代に鹿苑寺と名付けられました。後の8代将軍義政も年に一度鹿苑寺に参拝しています。
この鹿苑寺が現在、「金閣寺」として観光の名所となっている敷地です。
現在の立命館大学衣笠キャンパス周辺の土地は、このころより鹿苑寺などの寺領となり、田畑が広がっていました。
それは、「北山第」を御所に見立て、「新都心」を建設しようとする壮大なもので、現在の「平野桜木町」にあった北山第の惣門(現在、付近に「衣笠総門町」として名前が残る)を基点として南に延びる一直線の八町柳(通り)が一条通まで通じており、一条通りには大楼門があったといいます。いわゆる朱雀大路のようなメインストリートです。(現在の佐井通りとほぼ同じ位置で、平野上八丁柳町、平野八丁柳町として地名が残っている)
<近世 -農村地帯に逆戻りの衣笠キャンパス周辺―>
義満が没すると北山新都心計画は頓挫し、周辺は徐々に農村に戻っていったそうです。以降近世まで(戦国時代から江戸時代)衣笠キャンパス周辺は農村地帯で、足利義満の時代に建立された「等持院」「真如寺」「六請神社」「敷地神社(わら天神)」などの門前に集落が発達して、以前からあった「平野神社」の門前とともに徐々に住民を増やしていったものが、「大北山村」「小北山村」「松原村」「等持院村」「北野村」「大将軍村」などとなっていきました。
衣笠キャンパスは丁度「松原村」「等持院村」の範囲で、特に衣笠キャンパスのほとんどが含まれる「等持院村」は近世「等持院門前」「真如寺門前」と呼ばれる小集落で、明治5年に「等持院村」となりました。当時の戸数は寺社含めて63戸、村民数は175名。西京南瓜を名産とする農業地域であったそうです。(注7)
戸数や村民数はどの村も大差なく、ほとんどが畑か荒れ野、雑木林で人口も少なかったのです。
<幕末―薩摩藩調練場と火薬庫 西園寺公望の萬介亭―>
幕末、1866(慶応2)年6月の第二次長州征討に先立つ4月、薩摩藩の島津久光は衣笠山麓に調練場を設置します。もともとこの辺りは雑草が覆い繁る林でした。その規模は1万6千余坪、(約5万3千平米 甲子園球場1.4個分)、北は衣笠山山麓から、東は宇多川(馬代通りの1本東の通り)、南は小松原北町の辺りまでで、そこに火薬庫、射的場、牢屋、警備員のための勤番所、藩主の休憩所を設置し、勤番の足軽16名が配されていました。
責任者は薩摩藩の武士高島六三で、大目付として万一の変勃発に備えていたといいます。
現在の衣笠キャンパス「究論館」「末川記念会館」あたりには「火薬庫」があり、小松原児童公園あたりに藩主の休憩所がありました。
この「火薬庫」からは大量の弾薬が鳥羽伏見の戦いの折搬出され、官軍の戦況を有利ならしめたという逸話が伝えられます。(幕府側の破壊工作を恐れ、事前に火薬庫から弾薬を搬出し辺りの民家に隠し、空の火薬庫に見張りを立てておいたとも伝わります)
また、幕末には西園寺家の別宅が薩摩藩調練場に隣接して立地しており、若き西園寺公望がたびたび逗留していました。現在の真如寺の東に面して建てられていた別宅は、大きな池(西園寺池と通称された)があり竹が多くあったことから「萬介亭」と呼ばれていました。
少年公望はこの家を気に入り、自ら号を「竹軒」とし、6歳から16歳まで住んでいたそうです。
この「萬介亭」の北に薩摩藩の高島六三の家があったことから、公望も親しく交流して当時珍しかった「牛肉」を馳走になったそうです。時代を考えると「牛肉」だけでなく国難の状況なども多く学んだことでしょう。
<明治・大正―住宅地化する衣笠 衣笠絵描き村とマキノ省三の等持院映画撮影所>
1889(明治22)年、市制、町村制が施行され 大北山村、小北山村、等持院村、松原村、北野村、大将軍村が合併して「葛野郡衣笠村」となります。現在の衣笠という地名はこの時誕生しました。もちろん「衣笠山」由来です。(明治20年の地形図では、衣笠キャンパスは畑・竹林・茶畑でした)
そして1918(大正7)年の「大京都」構想による都市拡張計画に基づいて京都市に編入され上京区になると全体の整備計画に組み込まれ、それまで畑や雑木林や荒れ野だったこの地に徐々に開発の波が訪れます。(現在の北区ができるのは1955(昭和30)年)
京都市の整備計画によって市電の整備が始まり(第1期:明治45年~大正6年-市中心部の路線、第2期:大正15年~昭和33年―市の外周線、衣笠キャンパスに近い西大路のわら天神―白梅町間は昭和11年敷設)、昭和10年頃には西大路通や北大路通が生まれ平野の辺りに現在のような碁盤目の道路が整備され始めます。
衣笠村は、明治の末頃から京都中心部への振興宅地として土地開発が始まります。
もともと扇状地で水だまりが悪いため田畑はあまり発達せず、農家もまばらだった土地ですが、緩斜面で一定の平地が得られること、水はけのよさから広大な敷地の別荘地にはちょうどよかったのです。
この流れを加速させたのは、1912(大正元)年実業家・藤村岩次郎によって行われた新興宅地開発でした。藤村は衣笠村の各地に土地を購入して別荘として販売するとともに、自らの邸宅と隣接する現在の北野白梅町周辺に「衣笠園」を開園。一軒あたり100~150坪の敷地に30~60坪の住宅を建て賃貸経営を始めます。電気が引かれ、前述の「大京都」構想に基づく市電や道路整備が並行して進められ、交通の便もよくなりつつも周辺の雑木林や北山の借景が「閑静な風景」を醸し出すのどかな田園の中の住宅地でした。
このような都市基盤整備と環境に魅かれて画家たちが集まりだします。
最初に衣笠村に移り住んだのは吹田草牧で1912(大正元)年だったそうです。
同時期の1912(大正元)年か1913年には木島櫻谷も移り住み、邸宅の一部が現存していて櫻谷文庫として保存されています。
その他衣笠村に集った著名な画家は、土田麦僊が大正6年頃に、徳岡神泉と山口華陽が1928(昭和3)年、小野竹喬が1922(大正11)年にそれぞれ衣笠村に居を構えています。
こうしてこの時代、「衣笠絵描き村」との異名をとるまでになり、その後も堂本印象が1943(昭和18)年、福田平八郎が1944(昭和19)年に移転してくるなど昭和半ばまでこの状況が続くことになります。
衣笠キャンパスの敷地内もかつては多くの画家が住んでいて、現在の衣笠キャンパス「至徳館」や中央広場、「志学館」周辺には浜田観、猪原大華、中野草雲、西村卓三らが居を構えていたそうです。とはいえ、衣笠山から衣笠キャンパスの辺りはまだススキの原っぱでした。
※画像をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見ていただけます。
これに続いて1921(大正10)年現在の等持院の南の敷地内にマキノ省三の「等持院撮影所」ができます。「等持院撮影所」は1924(大正13)年「東亜キネマ」と合併して「東亜キネマ等持院撮影所」と改称、1925(大正14)年にマキノ省三が独立して御室撮影所に移転すると、「東亜キネマ京都撮影所」と改称、1932(昭和7)年東亜キネマが買収されると等持院の撮影所は閉鎖され、1933(昭和8)年に競売にかけられ住宅地になります。
寺内に撮影所があるのは奇異なことですが、等持院は明治以降「天皇に対する反逆者」とみなされた足利尊氏の菩提寺であったことから相当に冷遇されていました。加えて住職が当時新進の文化である映画(活動写真)への理解があったことからこの地を売却して「等持院撮影所」が誕生したのです。マキノ本人と等持院との関係も良好であったようで、1923(大正12)年8月24日の等持院での地蔵祭りには「マキノスターページェント」という催しが開催されていました。
マキノ省三が興した「等持院撮影所」では、当時著名な監督や俳優ばかりではなく後に名を残す多くの監督や俳優が活躍しました。俳優では市川花紅、阪東太郎、高城新平、月形龍之介、岡田時彦、内田吐夢など。監督や脚本では金森万象や寿々喜多呂九平らです。特に迫真の立ち回りで名をはせた阪東妻三郎(俳優田村高廣や田村正和の父)もそれまで鳴かず飛ばずであったところここでの演技が認められ大ブレイクしたのです。
この時期映画の撮影は活発で、関係者もまた多く等持院周辺に住んでいました。1931(昭和6)年には34名の関係者がこの辺りに住んでいたそうです。
監督の山中貞雄や衣笠貞之助らもこの撮影所で多くの映画を撮り、特に衣笠貞之助は「衣笠山」にちなんで「小亀」という苗字を「衣笠」に変えており、その墓地も等持院にあります。
作家の水上勉(立命館の名誉館友)は1932(昭和7)年11月~1936(昭和11)年5月頃まで、僧見習いとして等持院に起居していましたが、後日の回想でこの撮影所跡地の思い出を語っています。撮影所が閉鎖された後もしばらくはスタジオなどが残っていたようで、水上は照明機材のパイプなどを拾って遊んだそうです。
現在の等持院には撮影所時代の名残はほとんどありません。墓地にマキノ省三の銅像が建っていること(マキノ省三先生顕彰会が昭和32年に太秦スタジオに建立したのち昭和45年に移設)、等持院撮影所時代の関係者が足繁く通った等持院門前の「鳥原」という店(煙草や菓子を売っていた)が現在もその場所に「等持院とりはら」として店を構えていることが僅かな名残です。
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編へ
2019.12.11
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編
マキノ省三の撮影所があった大正時代から昭和の初めまで、衣笠キャンパスの辺りは、まだまだススキの原っぱでした。
そのススキの原っぱに目をつけて学校用地にしようとしたのが、立命館創立者中川小十郎でした。
当時立命館は1914(大正3)年に京都帝国大学構内に設置された「私立電気工学講習所」と協力関係にありました。1937(昭和12)年盧溝橋事件を経て勃発した日中戦争直後、立命館総長中川小十郎は、技術者養成の学校設立を具体的に考えはじめ、1938(昭和13)年4月「私立電気工学講習所」を引き継いで「立命館高等工科学校」を北大路の校地に開設します。
この時中川は技術者養成の必要性として将来「満州国」における鉱工業発展に寄与する人材育成を述べており、それにふさわしい校舎等の建設計画を開始します。
1938(昭和13)年5月、上京区等持院北町に3,313坪(約1万932㎡)の用地を購入、校舎等の建築を開始します。この地は中川が檀家総代を務めていた等持院からの紹介であったといいますが、建築中に西園寺家の紋が入った瓦が出土し、何も知らずに購入した土地にかつて西園寺家が住まわれたと知り深い縁を感じたと述べています。
一方で「満州国」政府が技術者不足からその養成機関を探しているとの情報を得た中川は、石原莞爾ら満州国との繋がりの深い人々を通じて「立命館高等工科学校」を満州国技術者養成機関として発展改組することにします。
1939(昭和14)年4月「立命館高等工科学校」は満州国の資金援助を受け「立命館日満高等工科学校」と改称。同年11月には、等持院の校地が完成し移転します。
開設当時、まだまだ畑地の多い衣笠山山麓の学校であったため、募集広告では「交通至便」を強調していました。また講師の多くは「私立電気講習所」時代から続いて京都帝国大学の教員が多かったため「交通至便」は必須であったようです。
これが立命館大学衣笠キャンパスの始まりで、「等持院学舎」と呼ばれました。「等持院学舎」の名称は戦後も続き1964年に「衣笠学舎」と改称され、1994年BKC開設と同時に「衣笠キャンパス」と改称されて現在に至ります。
この「等持院学舎」には現在の清心館附近に正門(現在の清心門よりも左寄り)が設けられ、「赤門」と呼ばれていました。この「赤門」は1953年に撤去され今はその痕跡はありません。今でも当時の風景を残すのは、開設時に等持院との境界に植えられたイチョウの並木で、現在「北区民の誇りの木」として親しまれています。
また、「等持院学舎」には大きな池が2つありました。「西池」(第一用水池)は現在の西広場附近にあり、1955年に埋め立てられています。「東池」(第二用水池)は現在の研心館付近にあり1978年頃までその一部が残っていました。
その他にも「等持院学舎」には、「日本刀鍛錬所」や「日満相訪会館」がありました。
「日本刀鍛錬所」は、その高度な製刀技術を後世に残すために設置したもので、刀匠桜井正幸一門を招き授業を行い、さらに関心のある学生には課外活動も奨励していました。残念ながら戦時下において徐々に品質の悪い軍刀の生産が強制されていくことになります。(軍刀を生産しなければ、日本刀製造の要である玉鋼の材料や良質の炭が配給されなくなるという統制がなされていた)途中1942年には失火によって大半を焼失しますが1943年には再建され敗戦まで「大量生産の軍刀」と「わずかな日本刀」の生産を続けました。
「日満相訪会館」は字のごとく日満親睦を図る会館として建設され、1941(昭和16)年には新たに設置した「国防学研究所」の所長、「国防学」を担当する教授として招聘した陸軍中将石原莞爾が住んでいました。
等持院との関係では、校舎は等持院の敷地の中にあったことから、墓地への参道が学舎内を縦断する形になりました。現在でもその参道は路面の表示によって区別されていて清心門には「万年山等持院墓地参道」の石柱が建っています。
<戦後―立命館衣笠球場の誕生と水害被害>
1944(昭和19)年、立命館創立者中川小十郎が満78歳で亡くなります。
1900(明治33)年に京都法政学校を創立してから44年間かじ取りを行ってきた創立者というのは、私学の世界では大変珍しい事例でした。中川は等持院墓地に埋葬され、立命館では現在も命日に墓参を続けています。
戦後立命館は末川博をトップに迎えて「平和と民主主義」の学校復興を進めます。
幸いにして衣笠キャンパス(等持院学舎)は被災を免れましたが、出陣や勤労動員から戻ってきた学生達、新たに入学してくる学生達にとって、教育研究の施設設備は劣悪でした。
そうして1948(昭和23)年、衣笠キャンパスには新たに総合体育施設の一つとして「立命館衣笠球場」が設置されました。
この球場は、立命館の体育授業だけではなく、京都市の中学・高校の公式試合やプロ野球の公式戦にも使用され多くの京都市民が観覧しました。プロ野球チームの「大陽ロビンス」(後の松竹ロビンス)のフランチャイズ球場にもなり、スタルヒン、川上哲治、大下弘、別当薫、鶴岡一人、青田昇、藤村富美男、別所毅彦ら往年の名選手がこの球場で活躍しています。
また1950年に誕生した「女子プロ野球」もこの球場で試合をし、社会人野球もここで白球を追いました。
立命館はこの球場で1950年の学園創立50周年記念式典を挙げ、運動会(学園祭と同じように当時は全学あげての大運動会があった)や学部対抗野球を開催しています。
1951年8月ナゴヤ球場の火災による惨事の後、木造のスタンド席を持つ球場は使用禁止となり、学園関係者だけでなく広く市民に親しまれたこの球場も、プロ野球などの使用ができなくなります。
1952年、球場は立命館関係者のみの使用と限定され、1956年には総合運動施設は別の場所に建設することになって、「衣笠球場」の歴史的な役目が終わります。
その後、衣笠キャンパスの学舎建設とともに球場スタンドが取り外され、外野の土手は切り崩され徐々に更地になっていきます。
それでも球場の名残は1968年頃までキャンパス内にありましたが、現在は跡形もなく、唯一NTT(日本電信電話株式会社)の電柱に「衣笠球場」の表示板が残っているだけになりました。
あわせてあまり知られていない衣笠キャンパスと災害について記しましょう。
1951(昭和26)年7月7~17日にかけて、低気圧と梅雨前線の発達に伴い西日本一帯は豪雨に見舞われ、九州地方で1,000㎜を超える降水量を記録し、京都でも300㎜に達する大雨となりました。
7月11日、この豪雨は京都に大規模な水害を発生させ京都府の戦後主要災害の一つとなりました。亀岡市の「平和池」が決壊、桂川が氾濫し、京都市内でも死者91人行方不明23人負傷者238人家屋の被害15,252戸の被害が出ています。
この時、衣笠キャンパスも大変な水害に見舞われました。
現在の学生会館から創思館を経て南門に至る一直線の部分は、かつて用水路がありました。学校用地にするために造成された時、この部分は暗渠になったといいます。1951年の豪雨ではこの暗渠から氾濫が起こり南西に向かって水があふれキャンパスのほぼ2/3が水害に遭いました。
現在用水路も暗渠もありませんので、もうこのような大水害は起こらないといわれますが、現在の京都府の「土砂災害ハザードマップ」では、平井嘉一郎記念図書館から学生会館にかけて、恒心館の北面傾斜地の崩壊危険性があるため「土砂災害警戒区域」に指定されています。
また、衣笠キャンパスの中央広場は、現在京都市広域避難場所として6,400人の避難場所となり、学内には災害対応の緊急用品を備蓄しています。
<広小路・衣笠から衣笠一拠点へ、そして衣笠・BKC・OIC三キャンパス時代へ>
本稿の最後に、1981年からの衣笠キャンパスの学部・学舎の変化について記しておきます。戦後の立命館は、大学が広小路学舎・衣笠学舎の2拠点に、中学校・高等学校が北大路学舎にありました。
広小路は、社系・文系学部が、衣笠は戦前・戦中から引き続いて理工系学部でした。
立命館学園の戦後復興期(50年代)が終わり、新たな学園を創るための振興期(60~70年代)に入ると、大学を衣笠学舎にすべて集め、学生や教員の利便性や教育研究条件の充実や大学運営の経費をできる限り削減しようとする計画が検討されます。当時の立命館大学は他の私立大学に比べて8割程度の学費に抑え、経済的な条件でなかなか大学に進学できない多くの若者に門戸を開くポリシーを持っていましたから、収入は他大学に比して少なく、2つの学舎を維持するのはなかなかに大変だったのです。
この計画は大学全体の賛同を得て「衣笠一拠点」計画として進められました。
70~80年代にかけて、広小路の学部は徐々に衣笠に移転をし、1981年法学部の移転をもって完成します。
写真は1981年「衣笠一拠点」が完成した時の衣笠キャンパスです。
この衣笠キャンパス一拠点は、1994年BKC(びわこ・くさつキャンパス)の開設と理工学部の拡充移転までの13年間続きました。この間に氷室グラウンド(現在の西園寺記念館)に1988年国際関係学部が設置されています。
1994年理工学部がBKCに拡充移転、そして続いて1998年に経済・経営両学部が移転すると、衣笠キャンパス内で各学部の再配置が行われ各学舎名称が変わりました。時を延長して1993年(理工移転前)と現在の学舎名称の変遷を示しましょう。
1998年以降、理工学部、経済・経営学部の基本施設に学部の再配置が進められるとともに、新学部も誕生します。2007年には映像学部が誕生、前後して新設の大学院も設置され始めます。
2006年朱雀キャンパスが出来て法人本部機能が移転し「中川会館」と命名されると、今まで衣笠キャンパスにあった「中川会館」は「至徳館」と変更。2015年にOIC(大阪いばらきキャンパス)が開設されると、衣笠キャンパスからは政策科学部が移転し(BKCからは経営学部が移転)、衣笠キャンパスの再整備が進みます。2019年現在、衣笠キャンパスの学舎名や学部基本施設はこのような歴史をたどりました。
1939年に生まれた「等持院学舎」は様々な歴史の中で「衣笠キャンパス」となり、2019年で80年の歴史を刻みました。立命館大学広小路学舎の80年の歴史と同じになり、以降は学園史上最も長命なキャンパスになります。
とはいえ平安の昔から歴史を刻んでいる衣笠キャンパス周辺にとっては、まだまだ新参者でしょう。
学生のみなさん、お立ち寄りの方、是非この周辺の長い歴史にも想いを馳せてみてください。
2019年12月11日 立命館史資料センター 奈良英久
<注>
注1:『北山第』(きたやまてい) 北山殿とも呼び、西園寺家の山荘・別荘として建立された。
注2:現在の「西園寺」(京都府京都市上京区高徳寺町358)門前の立て看板には「宝樹山竹林院と号する浄土宗の寺である。1224(元仁元)年藤原公経が衣笠山の麓に、山を背にして苑池を造り、その池畔に、本堂、寝殿などの壮麗な堂宇を建てて西園寺と称したのが当寺の起こりである。以来この寺名が子孫の家名となり、当寺も西園寺の北山山荘として子孫に領有された。しかし、足利義満が北山殿(金閣寺)を営むに当たってその地を所望したため、室町(上京区)に移り、さらに天正18年(1590)この地に移転した。
現在の本堂は、天明の大火(1788)後の再建で、正面には、明治・大正・昭和の三時代に亘って政界で活躍した西園寺公望の筆による寺号の額を掲げている。また、堂内には恵心僧都作と伝える本尊阿弥陀如来像(重要文化財)を祀り、地蔵堂には、旧地の北山にあった功徳蔵院の遺仏と伝える地蔵菩薩像を安置している。 京都市」とあり、その事歴がわかります。
注3:「北山第」の庭園について『増鏡』巻五では「もとは田畠など多くて、ひたぶるにゐなかめきたりしを、さらにうち返しくづして、艶ある園を造りなし、山のたゝずまゐ木深く、池の心ゆたかに、わたつうみをたゝへ、峰よりおつる瀧のひゞきも、げに涙もよほしぬべく、心ばせ深きところのさまなり」と描写され『明月記』では「勝地の景趣を見、新仏の尊容を礼す。事ごとに今案ずるところをもって営作さる。物ごとに珍重なり、四十五尺の曝布の瀧は碧く、瑠璃の池水、また泉石の清澄は実に比類なし。」とある。
注4:「白雲神社」には、西園寺妙音堂の本尊として、重要文化財「木造弁才天坐像」がある。「萬介亭」は現在の立命館大学衣笠キャンパスの東の隣接地にあって、幕末に薩摩藩練兵場があったことから同藩武士高島六三と西園寺公望が交流を深めるきっかけともなった。「萬介亭」はその後臼井氏の所有となり「白雲神社」が分社されて祀られた。「萬介亭」が取り壊された跡地には「西園寺公邸址」の石碑が建ったが2002年撤去され、現在立命館大学西園寺記念館に移設されている。
注5:天皇の暗殺を画策するという行為が、後に西園寺公望が首相を務めた時代に、敵対政党からの揶揄に使われ公望は閉口したという。それは公望が暗殺を画策した公宗の子孫であったからという。
注6:義満は、1399(応永6)年、相国寺に七重塔を建立しその威光をしめしていた。高さ360尺(約109m)で記録上最も高い木造建築物といわれている。この塔が1403(応永10)年に焼失した後、「北山大塔」として北山第に再建(未完成)されているのだが、これまでその詳細は不明であった。発掘ではその相輪の大きさから、相国寺七重塔に匹敵する110mを超える塔だったのではないといわれている。
注7:等持院村について、同じ面積ではないが2015年度国勢調査では、等持院東・西・中・北町合計の世帯数は963世帯、1,880人
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・桃崎有一郎「中世京都北郊の街路・街区構造考証」 桃崎有一郎・山田邦和編『平安京・京都研究叢
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