立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2019.12.11

<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編

<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 前編へ

<昭和前期(戦前) -立命館日満高等工科学校誕生―>

マキノ省三の撮影所があった大正時代から昭和の初めまで、衣笠キャンパスの辺りは、まだまだススキの原っぱでした。

そのススキの原っぱに目をつけて学校用地にしようとしたのが、立命館創立者中川小十郎でした。

 当時立命館は1914(大正3)年に京都帝国大学構内に設置された「私立電気工学講習所」と協力関係にありました。1937(昭和12)年盧溝橋事件を経て勃発した日中戦争直後、立命館総長中川小十郎は、技術者養成の学校設立を具体的に考えはじめ、1938(昭和13)年4月「私立電気工学講習所」を引き継いで「立命館高等工科学校」を北大路の校地に開設します。

この時中川は技術者養成の必要性として将来「満州国」における鉱工業発展に寄与する人材育成を述べており、それにふさわしい校舎等の建設計画を開始します。

1938(昭和13)年5月、上京区等持院北町に3,313坪(約1932㎡)の用地を購入、校舎等の建築を開始します。この地は中川が檀家総代を務めていた等持院からの紹介であったといいますが、建築中に西園寺家の紋が入った瓦が出土し、何も知らずに購入した土地にかつて西園寺家が住まわれたと知り深い縁を感じたと述べています。

 一方で「満州国」政府が技術者不足からその養成機関を探しているとの情報を得た中川は、石原莞爾ら満州国との繋がりの深い人々を通じて「立命館高等工科学校」を満州国技術者養成機関として発展改組することにします。

 1939(昭和14)年4月「立命館高等工科学校」は満州国の資金援助を受け「立命館日満高等工科学校」と改称。同年11月には、等持院の校地が完成し移転します。

 開設当時、まだまだ畑地の多い衣笠山山麓の学校であったため、募集広告では「交通至便」を強調していました。また講師の多くは「私立電気講習所」時代から続いて京都帝国大学の教員が多かったため「交通至便」は必須であったようです。

衣笠キャンパス歴史10

 これが立命館大学衣笠キャンパスの始まりで、「等持院学舎」と呼ばれました。「等持院学舎」の名称は戦後も続き1964年に「衣笠学舎」と改称され、1994BKC開設と同時に「衣笠キャンパス」と改称されて現在に至ります。 

 この「等持院学舎」には現在の清心館附近に正門(現在の清心門よりも左寄り)が設けられ、「赤門」と呼ばれていました。この「赤門」は1953年に撤去され今はその痕跡はありません。今でも当時の風景を残すのは、開設時に等持院との境界に植えられたイチョウの並木で、現在「北区民の誇りの木」として親しまれています。

 また、「等持院学舎」には大きな池が2つありました。「西池」(第一用水池)は現在の西広場附近にあり、1955年に埋め立てられています。「東池」(第二用水池)は現在の研心館付近にあり1978年頃までその一部が残っていました。

 その他にも「等持院学舎」には、「日本刀鍛錬所」や「日満相訪会館」がありました。

 「日本刀鍛錬所」は、その高度な製刀技術を後世に残すために設置したもので、刀匠桜井正幸一門を招き授業を行い、さらに関心のある学生には課外活動も奨励していました。残念ながら戦時下において徐々に品質の悪い軍刀の生産が強制されていくことになります。(軍刀を生産しなければ、日本刀製造の要である玉鋼の材料や良質の炭が配給されなくなるという統制がなされていた)途中1942年には失火によって大半を焼失しますが1943年には再建され敗戦まで「大量生産の軍刀」と「わずかな日本刀」の生産を続けました。

 「日満相訪会館」は字のごとく日満親睦を図る会館として建設され、1941(昭和16)年には新たに設置した「国防学研究所」の所長、「国防学」を担当する教授として招聘した陸軍中将石原莞爾が住んでいました。

 等持院との関係では、校舎は等持院の敷地の中にあったことから、墓地への参道が学舎内を縦断する形になりました。現在でもその参道は路面の表示によって区別されていて清心門には「万年山等持院墓地参道」の石柱が建っています。

衣笠キャンパス歴史11

<戦後―立命館衣笠球場の誕生と水害被害>

 1944(昭和19)年、立命館創立者中川小十郎が満78歳で亡くなります。

 1900(明治33)年に京都法政学校を創立してから44年間かじ取りを行ってきた創立者というのは、私学の世界では大変珍しい事例でした。中川は等持院墓地に埋葬され、立命館では現在も命日に墓参を続けています。 

 戦後立命館は末川博をトップに迎えて「平和と民主主義」の学校復興を進めます。

 幸いにして衣笠キャンパス(等持院学舎)は被災を免れましたが、出陣や勤労動員から戻ってきた学生達、新たに入学してくる学生達にとって、教育研究の施設設備は劣悪でした。

 そうして1948(昭和23)年、衣笠キャンパスには新たに総合体育施設の一つとして「立命館衣笠球場」が設置されました。

衣笠キャンパス歴史12

 この球場は、立命館の体育授業だけではなく、京都市の中学・高校の公式試合やプロ野球の公式戦にも使用され多くの京都市民が観覧しました。プロ野球チームの「大陽ロビンス」(後の松竹ロビンス)のフランチャイズ球場にもなり、スタルヒン、川上哲治、大下弘、別当薫、鶴岡一人、青田昇、藤村富美男、別所毅彦ら往年の名選手がこの球場で活躍しています。

 また1950年に誕生した「女子プロ野球」もこの球場で試合をし、社会人野球もここで白球を追いました。

 立命館はこの球場で1950年の学園創立50周年記念式典を挙げ、運動会(学園祭と同じように当時は全学あげての大運動会があった)や学部対抗野球を開催しています。

 19518月ナゴヤ球場の火災による惨事の後、木造のスタンド席を持つ球場は使用禁止となり、学園関係者だけでなく広く市民に親しまれたこの球場も、プロ野球などの使用ができなくなります。

1952年、球場は立命館関係者のみの使用と限定され、1956年には総合運動施設は別の場所に建設することになって、「衣笠球場」の歴史的な役目が終わります。

その後、衣笠キャンパスの学舎建設とともに球場スタンドが取り外され、外野の土手は切り崩され徐々に更地になっていきます。

それでも球場の名残は1968年頃までキャンパス内にありましたが、現在は跡形もなく、唯一NTT(日本電信電話株式会社)の電柱に「衣笠球場」の表示板が残っているだけになりました。 

 あわせてあまり知られていない衣笠キャンパスと災害について記しましょう。

1951(昭和26)年7月7~17日にかけて、低気圧と梅雨前線の発達に伴い西日本一帯は豪雨に見舞われ、九州地方で1,000㎜を超える降水量を記録し、京都でも300㎜に達する大雨となりました。 

711日、この豪雨は京都に大規模な水害を発生させ京都府の戦後主要災害の一つとなりました。亀岡市の「平和池」が決壊、桂川が氾濫し、京都市内でも死者91人行方不明23人負傷者238人家屋の被害15,252戸の被害が出ています。

この時、衣笠キャンパスも大変な水害に見舞われました。

衣笠キャンパス歴史13

 現在の学生会館から創思館を経て南門に至る一直線の部分は、かつて用水路がありました。学校用地にするために造成された時、この部分は暗渠になったといいます。1951年の豪雨ではこの暗渠から氾濫が起こり南西に向かって水があふれキャンパスのほぼ2/3が水害に遭いました。

 現在用水路も暗渠もありませんので、もうこのような大水害は起こらないといわれますが、現在の京都府の「土砂災害ハザードマップ」では、平井嘉一郎記念図書館から学生会館にかけて、恒心館の北面傾斜地の崩壊危険性があるため「土砂災害警戒区域」に指定されています。

 また、衣笠キャンパスの中央広場は、現在京都市広域避難場所として6,400人の避難場所となり、学内には災害対応の緊急用品を備蓄しています。

<広小路・衣笠から衣笠一拠点へ、そして衣笠・BKCOIC三キャンパス時代へ>

 本稿の最後に、1981年からの衣笠キャンパスの学部・学舎の変化について記しておきます。戦後の立命館は、大学が広小路学舎・衣笠学舎の2拠点に、中学校・高等学校が北大路学舎にありました。

 広小路は、社系・文系学部が、衣笠は戦前・戦中から引き続いて理工系学部でした。

 立命館学園の戦後復興期(50年代)が終わり、新たな学園を創るための振興期(6070年代)に入ると、大学を衣笠学舎にすべて集め、学生や教員の利便性や教育研究条件の充実や大学運営の経費をできる限り削減しようとする計画が検討されます。当時の立命館大学は他の私立大学に比べて8割程度の学費に抑え、経済的な条件でなかなか大学に進学できない多くの若者に門戸を開くポリシーを持っていましたから、収入は他大学に比して少なく、2つの学舎を維持するのはなかなかに大変だったのです。

 この計画は大学全体の賛同を得て「衣笠一拠点」計画として進められました。

 7080年代にかけて、広小路の学部は徐々に衣笠に移転をし、1981年法学部の移転をもって完成します。

 写真は1981年「衣笠一拠点」が完成した時の衣笠キャンパスです。

衣笠キャンパス歴史14

この衣笠キャンパス一拠点は、1994年BKC(びわこ・くさつキャンパス)の開設と理工学部の拡充移転までの13年間続きました。この間に氷室グラウンド(現在の西園寺記念館)に1988年国際関係学部が設置されています。 

1994年理工学部がBKCに拡充移転、そして続いて1998年に経済・経営両学部が移転すると、衣笠キャンパス内で各学部の再配置が行われ各学舎名称が変わりました。時を延長して1993年(理工移転前)と現在の学舎名称の変遷を示しましょう。

 衣笠キャンパス歴史17

1998年以降、理工学部、経済・経営学部の基本施設に学部の再配置が進められるとともに、新学部も誕生します。2007年には映像学部が誕生、前後して新設の大学院も設置され始めます。

 2006年朱雀キャンパスが出来て法人本部機能が移転し「中川会館」と命名されると、今まで衣笠キャンパスにあった「中川会館」は「至徳館」と変更。2015年にOIC(大阪いばらきキャンパス)が開設されると、衣笠キャンパスからは政策科学部が移転し(BKCからは経営学部が移転)、衣笠キャンパスの再整備が進みます。2019年現在、衣笠キャンパスの学舎名や学部基本施設はこのような歴史をたどりました。

 衣笠キャンパス歴史16

1939年に生まれた「等持院学舎」は様々な歴史の中で「衣笠キャンパス」となり、2019年で80年の歴史を刻みました。立命館大学広小路学舎の80年の歴史と同じになり、以降は学園史上最も長命なキャンパスになります。

とはいえ平安の昔から歴史を刻んでいる衣笠キャンパス周辺にとっては、まだまだ新参者でしょう。

学生のみなさん、お立ち寄りの方、是非この周辺の長い歴史にも想いを馳せてみてください。


2019年12月11日 立命館史資料センター 奈良英久

<注>

注1:『北山第』(きたやまてい) 北山殿とも呼び、西園寺家の山荘・別荘として建立された。

注2:現在の「西園寺」(京都府京都市上京区高徳寺町358)門前の立て看板には「宝樹山竹林院と号する浄土宗の寺である。1224(元仁元)年藤原公経が衣笠山の麓に、山を背にして苑池を造り、その池畔に、本堂、寝殿などの壮麗な堂宇を建てて西園寺と称したのが当寺の起こりである。以来この寺名が子孫の家名となり、当寺も西園寺の北山山荘として子孫に領有された。しかし、足利義満が北山殿(金閣寺)を営むに当たってその地を所望したため、室町(上京区)に移り、さらに天正18年(1590)この地に移転した。

 現在の本堂は、天明の大火(1788)後の再建で、正面には、明治・大正・昭和の三時代に亘って政界で活躍した西園寺公望の筆による寺号の額を掲げている。また、堂内には恵心僧都作と伝える本尊阿弥陀如来像(重要文化財)を祀り、地蔵堂には、旧地の北山にあった功徳蔵院の遺仏と伝える地蔵菩薩像を安置している。 京都市」とあり、その事歴がわかります。

3:「北山第」の庭園について『増鏡』巻五では「もとは田畠など多くて、ひたぶるにゐなかめきたりしを、さらにうち返しくづして、艶ある園を造りなし、山のたゝずまゐ木深く、池の心ゆたかに、わたつうみをたゝへ、峰よりおつる瀧のひゞきも、げに涙もよほしぬべく、心ばせ深きところのさまなり」と描写され『明月記』では「勝地の景趣を見、新仏の尊容を礼す。事ごとに今案ずるところをもって営作さる。物ごとに珍重なり、四十五尺の曝布の瀧は碧く、瑠璃の池水、また泉石の清澄は実に比類なし。」とある。

4:「白雲神社」には、西園寺妙音堂の本尊として、重要文化財「木造弁才天坐像」がある。「萬介亭」は現在の立命館大学衣笠キャンパスの東の隣接地にあって、幕末に薩摩藩練兵場があったことから同藩武士高島六三と西園寺公望が交流を深めるきっかけともなった。「萬介亭」はその後臼井氏の所有となり「白雲神社」が分社されて祀られた。「萬介亭」が取り壊された跡地には「西園寺公邸址」の石碑が建ったが2002年撤去され、現在立命館大学西園寺記念館に移設されている。

5:天皇の暗殺を画策するという行為が、後に西園寺公望が首相を務めた時代に、敵対政党からの揶揄に使われ公望は閉口したという。それは公望が暗殺を画策した公宗の子孫であったからという。

6:義満は、1399(応永6)年、相国寺に七重塔を建立しその威光をしめしていた。高さ360尺(約109m)で記録上最も高い木造建築物といわれている。この塔が1403(応永10)年に焼失した後、「北山大塔」として北山第に再建(未完成)されているのだが、これまでその詳細は不明であった。発掘ではその相輪の大きさから、相国寺七重塔に匹敵する110mを超える塔だったのではないといわれている。

注7:等持院村について同じ面積ではないが2015年度国勢調査では、等持院東・西・中・北町合計の世帯数は963世帯、1,880

 

<参考文献>

<平安時代 -衣笠山と周辺―>

・京都市『史料 京都の歴史 第6巻 北区』平凡社1993

<鎌倉時代 -西園寺家の誕生 「北山第」(きたやまてい)―>

・梅林秀行『京都の凸凹を歩く2』青幻舎2017

・鈴木久男『考古学からみた西園寺家北山殿』中世文学58025-31,2013

・山岡瞳「鎌倉時代の西園寺家の邸宅」歴史文化社会論講座紀要(2017,1431-46

<室町時代 -足利義満の「北山第」 鹿苑寺と新都心計画―>

・有馬頼底『鹿苑寺と西園寺 鹿苑寺編』思文閣出版2004

・岩崎小彌太「足利義満の北山第と金閣寺」立教大学 史苑 11(3/4), 237-256, 1938-03 

(公財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館「リーフレット京都」No.336 201612

 ・京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告2015-9「特別史跡・特別名勝 鹿苑寺(金閣寺)庭園」2016

・細川武稔「足利義満の北山新都心構想」 中世都市研究会編『都市を区切る 中世都市研究15号』

山川出版社2010所収

 ・亀田俊和編・日本史史料研究会監修『初期室町幕府研究の最前線』洋泉社2018

・桃崎有一郎「中世京都北郊の街路・街区構造考証」 桃崎有一郎・山田邦和編『平安京・京都研究叢

書4 室町政権の首府構想と京都―室町・北山・東山―』図書出版 文理閣2016 所収

<近世 -農村地帯に逆戻りの衣笠キャンパス周辺―>

・京都市『史料 京都の歴史 第6巻 北区』平凡社1993

・左大文字保存会HP http://www.gozan-okuribi.com/hidaridai.html 20191125日閲覧

<幕末―薩摩藩調練場と火薬庫 西園寺公望の萬介亭―>

・石田孝喜『写真で見る維新の京都』新人物往来社 昭和61年

・石田孝喜『幕末維新京都史跡事典』新人物往来社 昭和58年

・大阪毎日新聞社京都支局『維新の史蹟』星野書店 昭和14年

・高島健三『小松原附近郷土史』私家本 平成元年

・立命館史資料センターホームページ「立命館あの日あの時」<懐かしの立命館>竹軒西園寺公望と「萬介亭」https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=45 20191125日閲覧

<明治・大正―住宅地化する衣笠 衣笠絵描き村とマキノ省三の等持院映画撮影所>

・沖中忠順・福田静二『京都市電が走った街 今昔』JTB2000

・清瀬みさを「衣笠会館の棟札―藤村家洋館についての歴史的検証―」『同志社大学日本語・日本文化研究』第10号 2012

・石田潤一郎「《衣笠園》の形成 近代京都における住宅地形成(その2)」日本建築学会近畿支部研究報告集 平成3

・京都府立堂本印象美術館『特別企画展KYOTOきぬがさ絵描き村』2007

・河島一仁「京都・衣笠の地理的変化(18681960)-等持院村と立命館―」『立命館文学』6492017

・立命館大学アートリサーチセンター 京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクトHPhttp://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/index.html 20191129日閲覧

・マキノ省三先生顕彰会『回想・マキノ映画』非売品 1971

・鴇明浩&京都キネマ探偵団編『京都映画図絵-日本映画は京都から始まった』株式会社フィルムアート 1994

・京都新聞社編『京都の映画80年の歩み』京都新聞社1980

・マキノ雅弘『伝記叢書299 カツドウ屋一代』大空社 1998

<昭和前期(戦前) -立命館日満高等工科学校誕生―>

・学校法人立命館『立命館百年史 通史一』

・久保田謙次「衣笠キャンパス略史―校地・校舎の変遷について-」『立命館百年史紀要 第21号』立命館百年史編纂委員会 2013

・立命館 史資料センターHP立命館あの日あの時 「<懐かしの立命館>相訪会『会員名簿』(昭和14)と立命館日満高等工科学校」https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=119 2019122日閲覧

<戦後―立命館衣笠球場の誕生と水害被害>

・立命館 史資料センターHP 立命館あの日あの時 <学園史資料から>衣笠球場ものがたりhttps://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=43 2019123日閲覧

・立命館 史資料センターHP 立命館あの日あの時<懐かしの立命館>立命館衣笠球場のホームベースはここだ!https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=132 2019123日閲覧

・国土交通省 気象庁HP「災害をもたらした気象事例(昭和2063年)

https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/bosai/report/index_1945.html 2019124日閲覧

 ・京都府HP 災害年表 府内における戦後の主要災害 

http://www.pref.kyoto.jp/sabo/1172737395823.html 2019124日閲覧

 ・京都府HP 治山 主な災害記録

https://www.pref.kyoto.jp/shinrinhozen/13000008.html 2019124日閲覧

 ・「京都市 土砂災害ハザードマップ 北区 衣笠学区版」京都市2017

 ・京都市HP 京都市避難所・広域避難場所Map

  https://www.city.kyoto.lg.jp/kita/page/0000013203.html  2019126日閲覧

<広小路・衣笠から衣笠一拠点へ、そして衣笠・BKCOIC三キャンパス時代へ>

 ・学校法人立命館『立命館百年史 通史三』

 ・学校法人立命館『立命館百年史 資料編三』

2019.11.13

<懐かしの立命館> 立命館中学校高等学校文化祭の始まり

立命館中学校高等学校では201991415日に文化祭が開催されました。いくつもの学校行事が催されるなか、文化祭の歴史を辿ってみました。

1.第1回文化祭

記念すべき第1回の文化祭は、1947(昭和22)年11月に三日間にわたり開催されました。この年は、4月に新制の立命館中学校と立命館神山中学校(注1)が設置されて入学した1年生に加え、戦前からの立命館第一・第二・第三・第四中学校や商業学校、工業学校に在籍する生徒が、北大路と神山(神山と第二)の二つの学舎に通っていました。

  この第1回文化祭の内容は、19471127日発行の学校新聞「立命館タイムス」第1号から知ることができます。生徒たちの手による初めてのタブロイド版の新聞で、発行所は立命館中等部新聞部で、この時の見出しには「学芸祭」と書かれています。


 文化祭の始まり1 

  写真1 第1号で学芸祭(第1回文化祭)を伝える記事

舞台上に立命館神山中学校5名の1年生女子生徒が写っている。

 

1日目 (112日)弁論大会「全国中等学校優勝弁論大会」 

立命館中学校の主催で、以下のような旧制中学校が参加しています。

京都府 京都一中、大谷、同志社、京都五中、京都二中、平安、四條商業、東山、

    東寺、亀岡農林、立命二中

他府県 都島、宇治山田、市岡、北野、愛知、膳所、履正社、東邦商業、東海、

栗田農林、福島商業、東海今宮、堺

優勝弁論題名は「青年の使命」(優勝者とその校名は不明)でした。

2日目 (113日)音楽大会「学芸祭音楽会」

 時世を映し出して軽音楽団と呼ばれる生徒の演奏に人気があったと記されています。記事によれば、音楽会は前年にも催されていたようで、練習の進歩があったと評価されています。文化祭の原点は、終戦の翌1946年に誕生していたことになります。

  音楽会と同時開催で、「名曲レコード鑑賞会」が普通教室で行われていましたが、来場者は音楽会へ流れて少なかったそうです。

3日目 (114日)演劇大会「中等部総合学芸大会」

  この演劇大会の主催は中等部父兄会(PTAの前身)で、旧制第一中学校演劇研究会が主たる公演を行い、旧制第二中学校は男子だけの演劇部と新制神山中学校1年生女子を加えた「しをり会」も参加していました。


 文化祭の始まり2

 写真2 演劇大会「中等部総合学芸大会」プログラム(B4サイズの表裏1枚もの)

 

 この三日間にわたって化学・生物・書道・絵画の展示発表会も行われ、現在に続く文化祭の原点となる第1回はこのように実施されたのでした。          

 2.第2回文化祭

  「立命館タイムス」第9号(19481217日発行)の記事によれば、1948年の第2回文化祭は、前年度と内容も期間も大きく拡大した行事になっています。見出しは「堂々八日間の大行事 第二回文化祭盛大に終る」で、「文化祭」という語が初めて登場しました。


 文化祭の始まり3 

      写真3 第2回文化祭を伝える立命館タイムス第9号 

 
 その日程と内容は以下のとおりでした。

   1031日(日) 第1日目 連合大運動会  場所:京師運動場(注2

    五つの学校(高校の部は北大路の高校と夜間高校、神山の高校。中学の部は北大路と神山)が参加した第3回目となる運動会でした。新制の学校も含めた附属校の大運動会で、北大路学舎では狭かったため、近くにあった師範学校(後の京都学芸大学。現京都教育大学)の運動場を借用して開催されました。教員と生徒が共に参加する仮装行列が行われ、その後も長く伝統種目として続けられています。年に一度の大行事ならば、第1回は終戦の年、明るく楽しい学校行事が戦後復興へのスタートにされていったのでしょう


 文化祭の始まり4

写真4 1949年の高校運動会仮装行列(卒業アルバムより)

 

   111日(月) 代休

   112日(火) 第2日目 文化講座とクラス会

     午前中に末川博総長による講演が行われた後、講師による自由課題での文化講座実施。午後からはクラス会と題して、自由なプランで時間を過ごしました。

   113日(水) 文化の日としての初めての祝日(注3)

   114日(木) 第3日目 校内対抗競技会とコース別ハイキング、映画観賞会

     野球(校庭)、卓球(講堂)、排球(排球コート)、庭球(庭球コート)で実施。

     上記の球技大会に不参加の生徒は、2コース(六甲方面と芹生峠附近)から1つを選択してハイキングに参加。

     この日は特別に中高新聞部主催でGHQ軍政部の特別配慮(当時は、学校新聞も含め校内での情報伝達には厳しい検閲があった)をえて校内映画観賞会を図書室内で開催しています。どのような映画であったのかは記録されていませんが、教員や生徒には好評であったと報告されています。

   115日(金)第4日目 演劇鑑賞 会場:新聞会館 上演:高校演劇研究部

     高校の部「トラック島」、中学の部「お人好の百姓」

   116日(土)第5日目 他校招待弁論大会 会場:講堂 主催:中高弁論部

     高校「全関西高等学校優勝弁論大会」

         出場校は三十数校。岐阜市立や八尾など実力校が多数。

     中学「全京都中学校優勝弁論大会」 

   117日(日)最終日  午前:音楽大会 午後:娯楽版  会場:講堂

      音楽大会は音楽部主催で謡曲、合唱、独唱、軽音楽、独奏などが発表されました。高等学校の謡曲研究会というのは、全国的にも珍しい活動であったと考えられます。

     午後からは新聞部主催の特別企画で、当時のラジオ番組(テレビ放送は1953年からなので、ラジオは最大の娯楽でした)で大人気であった「話の泉」「二十の扉」が生徒と教員の出演で行われ、最後には参加者二十数名による「のど自慢コンクール」で会場は大きく盛り上がって閉幕しました。仮装行列と同様に、生徒と教員が共に楽しめる行事であったのでした。


 文化祭の始まり5

 写真5 1949年の高校謡曲研究会(卒業アルバムより)


   1167日 展覧会とバザー

     現在のクラブ展示にあたるもので、新聞部、文芸部、美術部、化学部、物理部、生物部、書道部が参加して好評だったと紹介されています。文化祭でのクラブ展示が本格的に行われるようになりました。


文化祭の始まり6

写真6 1949年の高校軽音楽団演奏(卒業アルバムより)

 

文化祭の始まり7

写真7 1949年 高校演劇部の上演(卒業アルバムより)

 

文化祭の始まり8  

     写真8 大バザー案内(サイズ12cm×18cm

  3.おわりに

    立命館中学校高等学校の文化祭という名は、日本国憲法公布を祝して制定された祝日「文化の日」(1948113日)と共にスタートしたことがわかりました。戦後復興に向けて、学校教育のなかで生徒と教員が共に新しい文化や体育を育んでいこうとするものでした。

    あれから72年。パンフレットだけを見ても、その成長と進歩には目覚ましいものがあります。文化祭の意義や目的は、時代の移り変わりと生徒たちの成長と共に変化してきているようです。これからの文化祭がどのように発展していくのか楽しみです。


 文化祭の始まり9

  写真9 2019 立命館中学校高等学校文化祭プログラム表紙


20191113日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

1:立命館神山中学校は男女共学で設立されている。内容については以下の記事を参照。

   「今日は何の日」3月 神山学舎の開設と上賀茂グラウンド

https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=31

2:学芸大学(戦前は京都師範学校)は、当時、北大路新町を下がった場所にあって、その後、伏見区深草へ移転した。1962年4月から京都府立鴨沂高等学校との共用で跡地を「紫野グラウンド」として 借用し、体育授業やクラブ活動で利用した。

注3:この前年までは、法的に戦前からの祝日が残っていて明治節(明治天皇の誕生日を祝う祝日)としての祝日であった。

2019.10.29

<学園史資料から>立命館大学校友会大会で「なつかしの立命館」展示をしました

20191019日(土) 国立京都国際会館にて、「立命館大学校友会100周年記念 オール立命館校友大会」が全国から2,000名の参加を得て盛大に開催されました。

その会場内で「なつかしの立命館」と銘打ち、広小路と衣笠時代を中心に学園史展示を行いましたので、ご紹介します。

 校友会大会1

国立京都国際会館を会場に、100周年記念オール立命館校友大会を開催。

校友会大会2

学園史展示の「なつかしの立命館」全景。広小路世代を中心に思い出話に花が咲く。

 校友会大会3

明治2年西園寺揮毫の「立命館」(学宝)を1.5倍に拡大して展示。じっと見入る校友。近年、史資料センターでは、西園寺公望と中川小十郎の「定番」写真を変えて展示するようにしています。晩年の写真ではなく、そのことが起こったころの写真(例えば京都法政学校設立の時は、その頃の西園寺と中川というように)

 校友会大会4

創立者中川小十郎の少年期から京都法政学校創立までのパネル。毎回人気があるのは、モニターに映る当時の学生生活の姿。(今回は、校友の大城戸さんから寄贈いただいた1980年広小路で撮影された自主製作映画も上映しました)

 校友会大会5

学園史展示の一角で解説するのは、立命館大学校友会設立100周年記念事業 特別委員会副委員長の仲治實さん。仲さんは学園史について実地調査や史資料センターでの資料調査を重ねて精緻な学園創立史を研究され、パワーポイントを使って校友に話しておられました。史資料センターでも知らなったことがあり、本当に頭の下がる思いです。

 校友会大会6

1965年広小路学舎模型(1/150)の前で談笑する校友。中央はこの日講演された校友の古市 忠夫さん。(阪神淡路大震災で被災後、自らの復興のためプロゴルファーを目指し、還暦目前にプロゴルファーテストに合格-2006年公開映画「ありがとう」の主人公モデル)

 校友会大会7

1965年広小路学舎、1981年衣笠学舎、2019OIC模型に集まる。校友大会で必ず展示する「キャンパス模型」は「なつかしさ」の固まり。この日一番集まっていたのは衣笠学舎の模型でした。(この衣笠学舎模型は、当時の学生クラブ「立美会」が製作して学園に寄贈したもの)

 校友会大会8

今回初めて製作展示した、1980年広小路・衣笠周辺、1988年衣笠周辺の飲食店地図と学生生活の写真パネル。学生時代の思い出はキャンパスの外にも「なつかしさ」があって人気でした。史資料センターには学外の飲食店などの写真がほとんどないので、是非とも集めたいと思っています。

 校友会大会9

19651981年までの「学園祭パンフレット」「大学案内」の展示と末川名誉総長の色紙や言葉の実物展示。「学園祭」は強い思い出となっていて、自分の時代の表紙を撮影していく校友が多くいました。末川名誉総長の言葉は、キーフレーズは同じでも、時々で書き方が違うので、関心を集めたようです。

 校友会大会10

昭和13年に製作された「山陰道鎮撫行程図」実物大レプリカ。今回初展示の資料で西園寺が通った軌跡がすべて記載されています。あわせて、史資料センター久保田謙次調査研究員が同行程を2015年に辿った記録も展示しました。

 校友会大会11

1983年~2014年まで衣笠の体育館舞台にあった「一文字幕」の校章の展示。これも初展示ですが実物がいかに大きいかがわかります。展示をみて「あれ、こんなのあったっけ?」とか「でかいな」という感想が。


 201910月29日 立命館 史資料センター 奈良英久

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