立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <平井嘉一郎記念図書館>
立命館大学 衣笠キャンパス 平井嘉一郎記念図書館
開館日時:大学授業日平日9:00~22:00 他は下記HP参照
入館無料:見学はカウンターでの手続きが必要(要身分証明書)
●京都市北区等持院北町56-1
library@st.ritsumei.ac.jp
TEL:075-465-8217
FAX:075-465-8219
https://www.ritsumei.ac.jp/library/
館内見どころの一つ「ライブラリーバレー」
ゲート内ピロティが3階吹抜けで、両側が本の壁になっている。
これらの本は飾りではなく、「立命館文庫」等の資料が閲覧できる。
2階:白川静文庫
古代漢字研究の第一人者として知られる立命館大学名誉教授白川静の蔵書を閲覧することができる。
2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館創立者・中川小十郎>
創立者 中川小十郎(1866~1944)
現在の亀岡市馬路町に生まれた中川小十郎は、立命館の前身、京都法政学校の創立者です。東京帝国大学法科大学(現・東京大学)を卒業し、1893年文部省に入ります。
文部大臣となった西園寺公望により文部大臣秘書官に抜擢され、京都帝国大学の創設を担当しました。
続いて1900年、勤労者のための私立の夜間学校「京都法政学校」を上京区東三本木の清輝楼を仮校舎として創立し、翌年広小路に移転します。立命館の名は、1913年に大学と中学の校名となり継承されました。
その後中川は、実業界でも活躍し貴族院議員も務めますが、1944年に亡くなるまで終生立命館の校長・館長・総長を務めその発展に尽くします。
小十郎10歳の頃。恩師田上綽俊(たがみしゃくしゅん)と。
幼少の小十郎に教育し、その才を見出したのは漢学を教えた田上でした。田上の教えに従い小十郎は学習を深め、向学心を養いました。
1893(明治26)年頃。小十郎(後列左)と夏目漱石(前列右)。小十郎は青雲の志を持って帝国大学に進学しました。同級生であった漱石とともに卒業頃の記念写真です。
1897(明治30)年頃の小十郎。文部省官僚時代
帝国大学を卒業した小十郎は文部省に入省します。西園寺文部大臣の秘書官を経て、1897(明治30)年京都帝国大学の設立に携わり、初代事務局長となります。この写真が撮られた3年後の1900(明治33)年には、立命館の前身である「京都法政学校」を創立します。
昭和初期頃 立命館大学の館長室での小十郎。
「京都法政学校」はその後何度か校名を変え、西園寺の許諾を得て1913(大正2)年から「立命館大学」となります。1928(昭和3)年、寄付行為を改正して小十郎は館長に就任します。(現在でいう理事長職)
1938(昭和13)年、現在の衣笠キャンパスの地に土地を購入して、翌1939(昭和14)年「立命館日満高等工科学校」を開設します。写真は校地に校舎を建築する時の記念写真(左が小十郎)
1930(昭和5)年 西園寺の別邸、興津「坐漁荘」で新聞記者の相手をする小十郎。
立命館の館長を務めながらも、西園寺の私設秘書を務めます。
昭和初期から中期まで、卒業アルバム等で使用された中川小十郎の決め写真
2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館の学祖・西園寺公望>
学祖 西園寺公望(1849~1940)
京都の名門公家に生まれた西園寺公望は、1869年、御所の西園寺邸に私塾「立命館」を創設します。
当時の著名な学者・文人を賓師(教師)とし、多くの若者が集まりましたが、活発な議論をする塾生に不安を感じた京都府によって、わずか1年弱で塾の閉鎖を命じられます。
その後約10年間フランスに留学しますが、帰国後政治家として活躍し、文部大臣や外務大臣、さらに内閣総理大臣を2度に渡り歴任しています。
政界を退いてからは最後の元老として名を馳せます。1905年、中川小十郎が立命館の名の継承を願い出ると、これを喜んだ西園寺は「立命館」の扁額を贈り許諾しました。
西園寺公望若侍姿18歳頃
西園寺公望は洋装のイメージが定着しているが、幕末にはこのような「侍」姿の写真を残している。
1870(明治3)年 フランス留学前の公望
西園寺公望は1870年~1880年までフランスに留学する。この写真は出発前横浜で撮影。
1896(明治29)年西園寺文部大臣
西園寺公望は1894(明治27)年文部大臣に就任し、1897(明治30)年京都帝国大学を設立する。立命館創立者中川小十郎は、西園寺文部大臣の秘書官として京都帝国大学の設立に中心的にかかわり、初代事務局長に就任している。
1908(明治41)年
西園寺は1906(明治39)年内閣総理大臣に就任、第一次西園寺内閣を組閣する。1908年総辞職。写真は総辞職後の撮影。秘書官であった文部官僚中川小十郎も、辞職のあおりを受け当時の植民地樺太庁の第一部長に赴任。経済・教育開発を主導することになる。
撮影年不明だが、西園寺晩年。私設秘書の中川小十郎と。
西園寺公望晩年は、「最後の元老」として政界の重鎮となった。居地は静岡県興津の「坐漁荘」(ざぎょそう)。中川小十郎はその私設秘書として、西園寺が逝去するまで蔭になって支えた。
最晩年の西園寺公望。興津の「坐漁荘」か京都の別荘「清風荘」での撮影。
西園寺公望は、公家としての教養を身につけ、様々な文化や書に秀でていた。
立命館には、西園寺の書や愛用品が学宝として保存されている。
1940(昭和15)年11月24日。興津「坐漁荘」で西園寺は逝去する。満90歳であった。