立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館創立者・中川小十郎>
創立者 中川小十郎(1866~1944)
現在の亀岡市馬路町に生まれた中川小十郎は、立命館の前身、京都法政学校の創立者です。東京帝国大学法科大学(現・東京大学)を卒業し、1893年文部省に入ります。
文部大臣となった西園寺公望により文部大臣秘書官に抜擢され、京都帝国大学の創設を担当しました。
続いて1900年、勤労者のための私立の夜間学校「京都法政学校」を上京区東三本木の清輝楼を仮校舎として創立し、翌年広小路に移転します。立命館の名は、1913年に大学と中学の校名となり継承されました。
その後中川は、実業界でも活躍し貴族院議員も務めますが、1944年に亡くなるまで終生立命館の校長・館長・総長を務めその発展に尽くします。
小十郎10歳の頃。恩師田上綽俊(たがみしゃくしゅん)と。
幼少の小十郎に教育し、その才を見出したのは漢学を教えた田上でした。田上の教えに従い小十郎は学習を深め、向学心を養いました。
1893(明治26)年頃。小十郎(後列左)と夏目漱石(前列右)。小十郎は青雲の志を持って帝国大学に進学しました。同級生であった漱石とともに卒業頃の記念写真です。
1897(明治30)年頃の小十郎。文部省官僚時代
帝国大学を卒業した小十郎は文部省に入省します。西園寺文部大臣の秘書官を経て、1897(明治30)年京都帝国大学の設立に携わり、初代事務局長となります。この写真が撮られた3年後の1900(明治33)年には、立命館の前身である「京都法政学校」を創立します。
昭和初期頃 立命館大学の館長室での小十郎。
「京都法政学校」はその後何度か校名を変え、西園寺の許諾を得て1913(大正2)年から「立命館大学」となります。1928(昭和3)年、寄付行為を改正して小十郎は館長に就任します。(現在でいう理事長職)
1938(昭和13)年、現在の衣笠キャンパスの地に土地を購入して、翌1939(昭和14)年「立命館日満高等工科学校」を開設します。写真は校地に校舎を建築する時の記念写真(左が小十郎)
1930(昭和5)年 西園寺の別邸、興津「坐漁荘」で新聞記者の相手をする小十郎。
立命館の館長を務めながらも、西園寺の私設秘書を務めます。
昭和初期から中期まで、卒業アルバム等で使用された中川小十郎の決め写真
2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館の学祖・西園寺公望>
学祖 西園寺公望(1849~1940)
京都の名門公家に生まれた西園寺公望は、1869年、御所の西園寺邸に私塾「立命館」を創設します。
当時の著名な学者・文人を賓師(教師)とし、多くの若者が集まりましたが、活発な議論をする塾生に不安を感じた京都府によって、わずか1年弱で塾の閉鎖を命じられます。
その後約10年間フランスに留学しますが、帰国後政治家として活躍し、文部大臣や外務大臣、さらに内閣総理大臣を2度に渡り歴任しています。
政界を退いてからは最後の元老として名を馳せます。1905年、中川小十郎が立命館の名の継承を願い出ると、これを喜んだ西園寺は「立命館」の扁額を贈り許諾しました。
西園寺公望若侍姿18歳頃
西園寺公望は洋装のイメージが定着しているが、幕末にはこのような「侍」姿の写真を残している。
1870(明治3)年 フランス留学前の公望
西園寺公望は1870年~1880年までフランスに留学する。この写真は出発前横浜で撮影。
1896(明治29)年西園寺文部大臣
西園寺公望は1894(明治27)年文部大臣に就任し、1897(明治30)年京都帝国大学を設立する。立命館創立者中川小十郎は、西園寺文部大臣の秘書官として京都帝国大学の設立に中心的にかかわり、初代事務局長に就任している。
1908(明治41)年
西園寺は1906(明治39)年内閣総理大臣に就任、第一次西園寺内閣を組閣する。1908年総辞職。写真は総辞職後の撮影。秘書官であった文部官僚中川小十郎も、辞職のあおりを受け当時の植民地樺太庁の第一部長に赴任。経済・教育開発を主導することになる。
撮影年不明だが、西園寺晩年。私設秘書の中川小十郎と。
西園寺公望晩年は、「最後の元老」として政界の重鎮となった。居地は静岡県興津の「坐漁荘」(ざぎょそう)。中川小十郎はその私設秘書として、西園寺が逝去するまで蔭になって支えた。
最晩年の西園寺公望。興津の「坐漁荘」か京都の別荘「清風荘」での撮影。
西園寺公望は、公家としての教養を身につけ、様々な文化や書に秀でていた。
立命館には、西園寺の書や愛用品が学宝として保存されている。
1940(昭和15)年11月24日。興津「坐漁荘」で西園寺は逝去する。満90歳であった。
2019.12.18
<懐かしの立命館>立命館大学の門 前編
学校には門があります。学生・生徒・児童、教職員は学校の門、校門を通って登下校します。
日常ほとんど校門を意識せずに登下校すると思いますが、今回は立命館大学の各キャンパスの校門の
歴史を考えてみます。
Ⅰ.広小路学舎編
1.学舎開設初期の校門
広小路学舎の開設は、京都法政学校創立の翌年、1901(明治34)年12月です。上京区広小路通寺町東入中御霊町に、校地412坪余り、校舎1棟3教室で出発しました。
最初の校地・校舎と校門は、1902年7月11日付けの「未登記建物所有権保存登記申請書」の附属図面で知ることができます。
校門は広小路通に面していましたが、奥の校舎までは細い通路で、両側の民家の間を通り登下校するというものでした。
その後校地を拡張し、寺町通に通用門ができます。1905年6月発行の『京都法政大学一覧』の校舎配置図に、校舎から寺町通に面して通用門ができていたことがわかります。通用門に至る土地は1909年1月の取得のため、この土地は当初は借地であったと思われます。
【左 校舎配置図1902年、右 校舎配置図1905年】
※画像をクリックすると別ウィンドウが開き大きな画面で見ていただけます。
2.京都法政大学の校門
京都法政学校は京都法政専門学校と改称し、更に1904年9月、京都法政大学と改称されます。
1905年6月の『法政時論』(第5巻6号)に、大学校舎新築落成の記事があり、「石造門を建てん計画にして遅くとも来月十日迄には落成すべし」とあり、「校舎は石造門の落成によって、内容形式共に完全なる大学の光揮を発揚するに至れり」としています。下の写真が当時の校門と思われます。
写真には「京都法政大学」の門標があります。まだ中学校の門標は写っていません。
【京都法政大学校門】
3.京都法政大学・清和中学校の校門
現在の立命館中学校・高等学校の前身である、清和普通学校が1905年に設立され、翌年4月、清和中学校と改称します。
1911年12月の『清和』第1号に、校舎と校門の写真があります。同誌には、「校門の花崗岩の柱の右には京都法政大学、左には文部省認定認可私立清和中学校」と記されています。
【京都法政大学・清和中学校校門】
4.立命館大学・立命館中学の校門
1913(大正2)年12月、京都法政大学と清和中学校は立命館大学、立命館中学と改称します。
写真は大正2年撮影といわれ、右側の門柱に立命館大学、左側に立命館中学の門標が見られます。
大正初期の校門です。
【立命館大学・立命館中学の校門】
5.昭和初期の校門
大正末年には、門標に「立命館大学」「立命館高等予備校」と書かれた校門の写真もありますが、立命館大学は大正末年から昭和初めにかけて、それまでの木造校舎から鉄筋コンクリート造の校舎へと整備を図ります。
1924年の書庫設置、翌々年の書庫増設、1927(昭和2)年の盡心館、そしてその翌年の存心館がそれです。
書庫の増設が完成した当時の「正門」は下の写真です。1928年9月の『立命館学誌』第117号には
新装なった立命館大学の学舎配置図があり、広小路通に面して「正門」が配置されています。
この資料から初めて「正門」が確認できます。
この学舎配置図にはもう一点重要な「門」が存在します。門と言ってもそれは地下道なのですが。
校舎である養性館(本部事務室・書庫)・盡心館・存心館の名称は『孟子』を出典としていますが、
養性館と存心館、存心館と盡心館を結ぶ地下道は「入徳門」と名付けられました。
学誌では「入徳門」の出典は書かれていませんが、「入徳」は『大学』朱熹章句の
「子程子曰大学孔氏之遺書而初学入徳之門也」に由来するのではないかと思われます。
入徳門という同名の門は、湯島聖堂(昌平坂学問所)、足利学校にもあります。
地下道ではありますが、校舎を結ぶ門として、学問の場にふさわしい「門」の名でした。
【昭和初期の正門】
【1928年の学舎配置図】
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6.戦後の立命館大学正門
立命館専門学校のあった1944年から戦後にかけて、「立命館大学」と「立命館専門学校」の門標を
掲げている校門がありました。
さらに1953年9月には正門が改修され、新しい正門が夏休み明けの広小路にお目見えしました。
「7月20日から山本組が取りかかっている広小路学舎と理工学部学舎の校門改装工事は、総額202万円を使って進行中である。……9月新学期には一新して諸君の前にお目見えする。」(「立命館学園新聞」(1953年9月18日)
校門には書家・綾村坦園氏の揮毫した門標「立命館大学」が掲げられました。衣笠でも同時に校門を
改修して、やはり綾村坦園氏揮毫の門標「立命館大学理工学部」が架けられました。
綾村氏は京都大学卒ですが弁論部で末川総長の後輩にあたり、末川総長が揮毫を依頼したものです。
【立命館大学正門1954年】
【立命館大学正門1955年】
7.正門の門標おろし
1981年3月、衣笠一拠点が完成し、広小路学舎は80年の歴史を閉じました。
同年2月5日には「さよなら広小路」の祭典が行われ、正門から河原町通、円山公園へと
提灯行列のパレードが行われました。
3月30日、天野和夫総長によっておろされた正門の門標「立命館大学」は、後に衣笠キャンパスへと引き継がれていきます。