立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2021.11.30
立命館のモニュメントを巡る(第5回)「立命館その由来の碑」と扁額「立命館由来記」
〈立命館 その由来の碑〉
衣笠キャンパスの正門を南に入った正面に碑が建っている。碑には次のように記されている。
殀壽不貳修身以
俟之所以立命也
立命館 その由来の碑
今や立命館はゆるぎないものとなりつゝある この名は日本近代の幕あけとそ
の建設に大きな役割を果たした西園寺公望が一八六九(明治二)年に同志を糾合し
て邸内に開いた私塾にはじまる それは中国古代の革新思想を代表するひとりで
あった孟子のことばから採られている
殀壽貳わず身を修めて以て之を
俟つは命を立つる所以なり
生涯公望に師事した中川小十郎が一九〇〇(明治三三)年京都法政学校(後に大
学)の創立後まもなく一九一三(大正二)年立命館大学としてその名称を受け継いだ
のであった わが立命館の第二世紀初頭にあたり父母教育後援会の貴重なお申出
を受けてこの石碑が建てられる
二〇〇一年 春 立命館総長 長田豊臣 記
「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」は、今井凌雪(本名)潤一の揮毫。裏面に氏の略歴がある。立命館大学法文学部経済学科卒業(1949年)、日本書芸院常務理事 日展理事
建立 二〇〇一年 春
贈 立命館大学父母教育後援会
立命館創始一三〇年・学園創立一〇〇周年・立命館
アジア太平洋大学開学を記念して
初代会長 植村仁一
二代会長 小川正義
三代会長 垣内 剛
四代会長 宮本郁夫
「立命」の名は、『孟子』盡心章の「命を立つる所以なり」から採られた。「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」の読みと解釈については議論があり、読み方によって解釈も異なってくるという。「殀壽まどわず」「殀壽うたがわず」「殀壽たがわず」。大正2年12月の財団設立時の中川小十郎の演説、また大正10年6月号の『立命館学誌』にその読みと解釈があるが、『立命館百年史』通史一は「殀寿まどわず」と読み解釈している。
<立命館由来記>
西園寺記念館に架けられているこの扁額は、「立命館由来記」とされている。大きさは縦45㎝、横100㎝であるが、実はもとの木刻大扁額がありこの倍の大きさである。
扁額には、大正2年12月13日、本学が財団法人立命館として設立され、その発表式に寄せられた西園寺公望の祝辞を立命館総長中川小十郎が謹書したとある。中川小十郎が館長から総長となったのは昭和6年7月であるから、扁額は後年作製されたと思われる。
もとの木刻大扁額は「公撰文立命館大学々名由来の記」として、昭和16年の「西園寺公を偲ぶ展覧会」に出品されている。
財団法人の設立とともに、大学の名称が京都法政大学から立命館大学に、中学が清和中学校から立命館中学に改称され、文字通り西園寺公望の私塾立命館が継承されたのである。
その発表式に西園寺公望が祝辞を寄せ、その祝辞を西園寺公望の実弟で立命館の理事であった末弘威麿が代読した。
代読された祝辞は、『立命館学報』第1号(大正3年2月)に掲載されている。下記がその全文である。なお、扁額は細部でいくつか祝辞と異なるところがある。
祝辞
明治の初年余私學を京都に開き名を命じて立命館と曰ひ學を講じ道を論じ以て世の進運に裨補せんことを期せり其後故ありて中絶し其名虚しく存せるのみ數年前丹波中川小十郎君京都法政大學を創むるに當り余に其匾額に題せんことを求む余仍りて立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし君の力に依りて其實の擧がるを喜ぶの意を表せり匾額は不幸祝融の災に罹りて滅せりと雖も校運は益隆昌に向ひ次で中學を附設し稍其體を成せり今次其組織を改め財團法人と爲すに及びて余が前きに書せし所の題字を采りて其名稱と爲せり余は是に於て乎益其名實倶に永く存するを喜ぶ思ふに今日の學は開物成務を以て要と爲すと雖も修身立命の工夫亦閑却すべからず必ず忠信の行ありて實用の才始めて其功を成すことを得自今斯校に遊ぶ者深く思を此に致さば其違はざるに庶幾からん法人立命館の成立に際し聊か其名稱の由来を叙し以て祝辞と爲す
大正二年十二月十三日
正二位勲一等 侯爵 西園寺公望
文中に「立命館の三大字を書して之を與へ且附するに數言を以てし」とあるのは、明治38年4月に立命館の名称を継承することを許諾し、寄贈した扁額のことである。この扁額は明治41年12月に広小路学舎が火災となり焼失したため写真のみが『立命館学報』第1号に掲載されている。
立命館
往年余興一校名曰立命館及游學泰西校廃名存頃者京都法政大學々員來請襲用其名余喜名
之得實乃書匾額以與之孟子曰殀壽不貳修身以俟之所以立命也盖學問之要在于此矣
明治三十八年四月
侯爵西園寺公望
今回は「立命館」の名称の由来に関するモニュメントについて紹介した。
2021年11月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2021.11.02
『西園寺公望揮毫の扁額・石碑を訪ねて』追録 その2 南君遺徳碑 (南源十郎遺徳碑)
所在地: 大阪府泉佐野市上之郷 中村児童公園(茅渟宮跡)
建 立: 明治39(1906)年11月 公望58歳
【南君遺徳碑篆額】 【南君遺徳碑】
大阪府泉佐野市上之郷の中村児童公園に現存する南君遺徳碑は、2020年10月に近くの上之郷小学校から移設された。
篆額は侯爵西園寺公望、撰文は湖南内藤虎、秋渚磯野惟秋書丹。
南源十郎は和泉国泉南郡上之郷村出身。若くして里正、村長となり、明治18年から30年、32年から36年の間、大阪府会議員を務めた。そのほか公職に就くことも多く、また大阪で新聞の発行を行った。上之郷の地租の軽減をはかり、また上之郷銀行を設置した。
嘉永5(1852)年9月生まれ、明治37(1904)年4月病のため卒す。享年53。上之郷村の有志によってその徳を慕い小学校校庭に遺徳碑が建立された。内藤湖南は旧知であったため碑文を記した。
碑に関する資料として
(1)『内藤湖南全集』第14巻「湖南文存」巻14に碑文
(2)『第二回大阪府町村治績』大阪府内務部地方課 大正9年
(3)上之郷小学校校長であった新田義郎氏による書下し文がある(昭和48年)。氏によれば、南源十郎は自由民権思想普及のための新聞を通じて、西園寺公望、内藤湖南、中江兆民、末廣鉄腸、磯野惟秋等と親交があったとしている。(書下し文の資料は、上之郷コミュニティセンター提供)
がある。
2021年11月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2021.10.07
立命館のモニュメントを巡る(第4回)「末川博先生銅像」と石碑「未来を信じ 未来に生きる」、レリーフ「法の理念」
【末川博先生銅像】
衣笠キャンパスの末川記念会館に末川博先生の銅像があります。
像は1963(昭和38)年春に制作されました。椅子に腰かけた高さ58㎝(台座を含む)の銅像です。
椅子の背面に「青山白雲深 一湲身廻曲 心事連広宇 山川終不老 一九六三年春 末川博」とあり、丙拝写。像は村上炳人(丙)氏の制作です。
「末川総長の像できる 古稀祝い村上氏(二紀会)が制作」と立命館学園新聞が報じました。「像は12月に総長の古稀記念として大学が村上丙氏に依頼、このほど型どりが済み、4月中旬に完成予定。はじめ胸像を考えたが村上氏の提案で全身像となった」(立命館学園新聞 1963年3月21日)。
像の制作については、12月14日の評議員会で小田理事長より明15日に末川総長の古稀祝賀会を開催すること、全身肖像を贈り祝意を表すことになった旨報告しています。
そして5月31日に立命館公室で贈呈式が行われました。同日の評議員会で、「総長先生の古稀のお祝いに塑像を贈呈することになって、かねて目録を差し上げておいたのであるが、本日塑像二基ができたので、只今より贈呈式を行います。なお、一基は永く学校にとどめて保管いたしますとの披露があった後、全員拍手裡に塑像贈呈式が行われた。」
(評議員会では「塑像」としていますが、銅像(ブロンズ製)です。)
その後大学は1978年に末川会館準備室を一般公開するにあたって末川像も京都新聞に掲載し、1983年の末川記念会館の開館により、末川先生の書斎の復元などとともに同会館で公開しています。
末川博は1892(明治25)年11月生まれ、1977(昭和52)年2月84歳で逝去しました。立命館大学との関係は古く、京都帝国大学大学院生であった1917(大正6)年と翌年に続けて最初の論文を『立命館学誌』第13号・第14号に発表しています。そして1918(大正7)年には立命館大学の講師(非常勤)となっています。末川が京都帝国大学の講師・助教授となったのはその後でした。1933(昭和8)年の京大事件で京都帝国大学教授を辞任、終戦後の1945(昭和20)年11月に立命館大学学長兼立命館専門学校校長に迎えられました。その後1948年2月総長に就任しますが、一時辞任します。しかし学園挙げて総長復帰を要請し、公選制による選挙で選出され、1949年4月より再び総長に就任、5期連続で務めたのち1969年3月任期満了により総長を辞し、終身名誉総長となりました。
末川学長・総長は、戦後の立命館を「平和と民主主義」の教学理念を掲げ改革発展させますが、立命館総長としてのみならず、日本を代表する民法学者としての業績また社会活動・平和運動にも多大な功績を残しています。末川博編集の『岩波六法全書』『岩波基本六法』は法学を学ぶ学生の必携書でした。
【石碑<未来を信じ 未来に生きる> 左:初代、右:第2代】
衣笠キャンパスの正門を南に下がると、「未来を信じ 未来に生きる」の石碑があります。
立命館は、1981年に学園創立80周年、大学衣笠一拠点移転完成を迎え、5月16日記念式典を行いました。
この石碑は4月には建立され、記念式典当日披露式が行われましたが、建立の日付は5月19日となっています。これは5月19日が前身の京都法政学校の設立認可日で、立命館は5月19日を創立記念日としていることによります。
碑の傍らには、天野和夫総長による建立趣意銘板が設置されています。
「本学創立八十周年ならびに衣笠移転完成を記念してこの碑を建てる。碑の文字は、末川博先生が本学に建立された「わだつみの像」の台石に刻むため書かれたもの。この言葉には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意がこめられている。
一九八一年五月一九日
立命館総長 天野和夫」
実は、現在建立されている石碑は第2代となります。現在の碑は末川先生の13回忌の1989年2月に改装され、16日に除幕式を行いました。
初代は「未来を信じ未来に生きる」の文字が直接石に刻まれていましたが、見えにくくなったため、ブロンズキャストに刻んではめ込みました。碑の前に建つ前述の建立趣意銘板はこの時に建てられたものですが、同じ文面の銘板が碑の裏面にはめ込まれています。
(この項、「立命館学園広報」1981年5月20日、同6月20日、同1989年3月20日の記事参照)
わだつみ像台石の碑文の草稿は末川記念会館で展示されています。
【レリーフ「法の理念は……」】
衣笠キャンパスの存心館の玄関ピロティ―にレリーフ「法の理念は……」が掲げられています。
「法の理念は正義であり 法の目的は平和である だが法の実践は社会悪とたたかう闘争である 末川博」
落款に華南野人とあるのは、末川先生の故郷山口県玖珂から北に望む蓮華山に由来し、「蓮華山の南に生まれ育った野人」(末川博『彼の歩んだ道』)と先生が使われた号です。
レリーフは学園創立80周年記念事業とともに行われた、立命館大学法学部創立80周年記念事業により、1982年3月20日、1981年度の卒業式(3月21日)の前日に除幕の集いを行いました。(「立命館学園広報」1982年3月20日参照)
文は、ドイツの法学者イェーリングの『権利のための闘争』の中の言葉に由来しますが、末川先生が、法学徒のみならず若い学徒に向けて、法を学び社会で実践していく意義を贈った言葉であると言えるでしょう。
